アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ドイツの大学

 私はドイツの大学をロシア語学を専攻して卒業した。正式には「東スラブ語学専攻・主要言語ロシア語」といういかめしい肩書きだった。ドイツ語、でなくドイツ語ロシア語を学べばどちらの言語もマスターできるから一石二鳥なのではないかと考えたからだが、これが実は読み間違いだった。確かにそれで両方マスターできるかもしれないが、そのかわりそこに行くまで両言語同時に勉強せねばならないわけで、要するに二石二鳥、つまり単に手間が倍になっただけだった。何をいまさらだが、語学にはラクチンな道というものはないのだ。  
 
 さらにマズイことに、当時はドイツが統一されたばかりのころで(おっと年をバラしてしまった)、まわりの学生はほとんど皆旧東独出身、当地の高校でロシア語をみっちりやってきた者ばかり、中にはドイツ系ロシア人、つまり母語がロシア語の者さえいて私一人完全に異物だった。  

 悲惨だったのはロシア語の翻訳実技試験だ。今までいろいろ悲惨な試験をくぐりぬけて来たが、これはその中でも最も悲惨な部類に入る。
 A4のタイプ用紙に1枚びっちり書かれた全く未知のロシア語テキストが出され、それをその場でドイツ語に訳していく。テキストは直接新聞や小説から取ったもので、学習者用に加工などされていない。もちろん辞書使用禁止。露・露辞典だけは許可されるが、私はそもそもその説明内容を読むのに辞書がいるわけで露・露辞典などあってもしょせん解答用紙が風で飛ぶのを抑えるための重石、文鎮代わりにしかならない。 それでも見栄で側に置いてはいたが。 しかもクラスの半分くらいが旧ソ連から移住してきたロシア語のネイティブだ。 私ら外国人側が「ネイティブと同じ条件かよ。きったねぇ。」と恨みのこもった目をすると、その雰囲気を察した担当教官のP先生、「皆さん、『ネイティブといっしょかよ、きったねぇ』とお思いでしょうが、それは違います。 ネイティブの皆さんはドイツ語が外国語なんです。皆さんもご存知でしょうが、母語を外国語に訳す方が、外国語を母語に訳すより難しいんです。ですからロシア語が外国語である皆さんの方が条件としてはむしろ有利なんです。」と、そこまで言って最後列にいた私と目が合ってしまった先生、ニッコリ笑って頷き、「皆さん、ここにいる人は誰も文句など言ってはいけません。両方とも外国語という人だっているんですから。」と、のたまわった。 そしたらクラス中がこっち振り返って爆笑だ。動物園のパンダですか、私は? 先生も先生だ。私に微笑んではくれたが点はまけてくれなかった。世の中そんなに甘くない。

 卒業するまでこういう悲惨の連続だったが、それでもおかげでドイツ語は大分上達した。肝心のロシア語の方は非常に怪しい。でもロシア語が怪しかったおかげで一度貴重な(?)体験をした。
 大分前になるが、町にモンゴルのサーカス団が来たことがあるのだ。出し物の合間に私が(よせばいいのにまたでしゃばって)ロシア語で話しかけたら向こうに通じて擬似会話が成立し、嬉しくなった。するとそれを脇で見ていた白人のポーランド人男性が私に「あなたポーランド人ですか?」と聞いてきたのである。断っておくが私はどう見ても日本人、いくら拡大解釈しても韓国人か中国人以外にはなれそうもないモロ東洋人である。その私のどこをどう押せば「ポーランド人」が出てくるのか。それにその「も」とは何だ、と茫然とする私を見て男性が説明して曰く。
 「モンゴル人とロシア語で話すのだからモンゴル人ではなかろう、ロシア語を聞いていると旧ソ連出身のバリバリなロシア語話者でもないみたいだから(悪うございましたね)ソ連以外の旧共産圏出身。さらにドイツ語が日常言語のようだからドイツの隣国出身、実際ポーランドの東部、ウクライナやリトアニアとの国境付近には東洋系民族が住んでいるから、多分その辺から来たんだろう、と思った。」

 外れたとは言え、その理路整然とした推論ぶりに感動した。なお、家に帰ってから事典を調べてみたら本当にウクライナとリトアニアの一部には東洋系民族が住んでいるらしい。でもこの次はせめて旧ソ連内の東洋人、カザフ人とかバシキール人とかと間違えて貰えるよう奮励努力するつもりだ。
 
 繰り返すが語学学習に「ラクチン」はないのだ。

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 私がこちらで大学に入学した頃はいわゆる「学部」、つまりBA・Bscという資格が大卒として認められず、人がせっかく日本で取った学士はしっかり高卒扱いされ、始めの一歩からやり直しさせられた。その私の大卒資格はMagisterといって、日本の修士に相当するものだが、専攻科目は主専攻東スラブ語学、第一副専攻一般言語学、第二副専攻南スラブ語学だった。卒業試験は結構ボリュームがあって、主専攻が合計4時間、副専攻が2時間づつの小論文と、それぞれ小一時間の口頭試問だったのだが、ウルサい事にその卒業試験の受験資格にまたいろいろ前提があって、例えば一般言語学では規定の単位を全部とってあり、修論が主専攻側に受理されている、というのが条件だった。
 ところが規定事項をよく見るとその下に小さな字で追加項目として、「少なくとも一つ以上の非印欧語族の言語の十分な知識」とあり、これを土壇場になって知ってパニクるドイツ人学生がいた。

 ドイツ人は大抵高校で英語の他にフランス語とラテン語をやってくるが、そんなものは皆まとめて印欧語、ボツである。ちょっと気の利いた高校では古典ギリシャ語もやっていたが、これも無効。たとえサンスクリットを持ち出してきても「はい、印欧語ですからさようなら」で終わり。 日頃言語コンプレックスに押しつぶされそうになっていた私はここぞとばかり高笑いしてやった。
 現に仲間が一人真っ青になって私の所にやってきて、「ねえねえ、こんな条件があるの知ってた?!あなた非印欧語なんてできる?」とか聞くではないか。聞かれた私のほうが面食らった。できるも何も母語だっての。私の顔を見なさい。

 なぜこの私に「非印欧語ができるか」などと聞いてきたのか?可能性は次の3つだ。1.私のドイツ語がうまいので私のことをドイツ語のネイティブだと思っていた。2.言語というと自動的に「印欧語」と連想してしまい、それ以外の可能性は考えてもみなかった。3.そもそも「印欧語、インド・ヨーロッパ語族」の何たるかがわかっていなかった。
 私としては1だと思いたいところだが、自らにウソはつけない、自分でもわかっているからこれは除外。3も、まさか一般言語学で修士取得直前まで来た者が「印欧語って何ですか?」というレベルであるはずはないからこれも除外。最も可能性のある理由は2、つまりあまりよく考えずにものを言ってしまったということだ。ヨーロッパには2ヶ国語以上の外国語を自由に使う人が大勢いるがそれもヨーロッパ内の印欧語族言語の場合が多く、そこから一歩外に出ると暗闇状態の場合が多い。単数形と複数形の区別とかそんなものは日本語にはありません、というとそれがもう理解できずに夜道でお化けにでも遭ったような顔をして、ではzwei Hunde(two dogs)はいったいどう表現するんだ、とマジに聞いてくる。いったいも何も簡単にzwei Hund(two dog)といったらヨロシ、と答えると、それでは計算するときどうするんだ、と突っ込んでくる。数学上の計算と犬をどう勘定するかは全く別次元の話だろ。言葉に単数複数の区別がなくても日本人は十分ノーベル物理学賞取れてるから安心するがいい。
 それにしても、ちょっと「非印欧語」と言われる度にそういちいち赤くなったり青くなったりしているようでは言語学には向かないから道端に立って信号機でもやってなさい、と内心鼻で笑ってしまった。

 ところが何年か後、今度は私の方がかつて鼻で笑った印欧語に逆襲され、私自身が信号機化するハメになったのである。
 
 博士論文提出時にもまたウルサい資格条件があるのだが、私は日本人らしく、いつもよく考えてから行動するので(ウソつけ)前々からきちんと把握していた(つもりでいた)。ところが論文を提出する前にドイツ国籍をとってしまったため、突然ドイツ人用の条件規則が適用されることになり、条件項目の最後に小さな字で「ギムナジウムでラテン語を終了していること。当地のギムナジウムを出ていない者は相応の証明書提出のこと」とあるではないか。
 もう「吾輩もボツである」とか自虐的な冗談を飛ばしている場合ではない、赤くなったり青くなったりしながら指導教官の所に飛び込んだわけだ。実は何を隠そう、私は日本でラテン語の単位をたまたま取ってはいたのである。でもそもそも動機が不純、というのは、当時のラテン語の先生が京大から来た物腰の柔らかいダンディな先生で、そのお話を聞きたさに通っていただけなので、肝心のラテン語自体は「ラ」の字も残っていない。すみません先生。
 さて、私が見苦しくもそのときの単位証明を持参したら、指導教官の先生はそれを見もしないであっさり、「ああ、このラテン語規則ね。今度スラブ語学科では廃止する予定です」とのことで、それでも念のため学長宛に一筆、「人食いアヒルの子が日本の大学で受けたラテン語の知識はドイツのギムナジウムのラテン語の単位に相当する」と、ほとんどウソを書いて下さったので事なきを得た。 まったく寿命が10年くらい縮んだじゃないか。

 しかしスラブ語以外、例えば英語学やドイツ語学にはラテン語が必須なわけだ。話によると現在でも公式には「ドイツの大学の公式言語はドイツ語・英語・フランス語・ラテン語」であって、学生はゼミのレポートをラテン語で書いてもいいそうだ、書けるもんなら。ラテン語ができなくても学位をくれたスラブ語学部でも、フランス語、英語、ドイツ語は誰でもできるものとみなし、論文やレポートでほかの論文を引用する場合、当該論文がこれらの言語で書かれていた場合は(スラブ語学科ではそれに加えてロシア語も)翻訳しなくていい、という規則があった。

 外国人は一律でこのラテン語条件が除外されるのだろうか、それともドイツでドイツ語学を勉強している日本人はまさか全員あの京大の先生から(である必要はないが)ラテン語を教わって来ているのだろうか?


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 前にも書いたように大学では第二副専攻が南スラブ語学、具体的にはクロアチア語だった。それを言うと友人はたいてい「何だよそりゃ?」といぶかるが、人に言われるまでもなく、自分で専攻しておきながら自分でも「何だよこりゃ?」と思いながらやっていた。実は別にクロアチア語が特にやりたかったから第二副専攻にしたのではないのだ。

 人には大抵「専攻はロシア語です」、と言っているが、正確には私の専攻は「東スラブ語学」である。つまり本来ならば「ロシア語、ベラルーシ語(昔でいうところの白ロシア語)、ウクライナ語ができるが、その中でも主としてやったのがロシア語」ということだ。主としてやったも何も私はロシア語しかできない(そのロシア語も実をいうとあまりできない)。が、その際こちらでは規則があって、東スラブ語学を専攻する者は、その「主にやった」東スラブ語派の言語(例えばロシア語)のほかにもう一つスラブ語派の言語、それも東スラブ語以外、つまり西スラブ語派か南スラブ語派の言語の単位が必要だった。これを「必修第二スラブ語」と言った。

 気の利いた学生はドイツで利用価値の高い西スラブ語派の言語(ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、上ソルブ語、下ソルブ語のどれか)をやったし、ロシア語のネイティブならば南スラブ語派でもブルガリア語を勉強したがる人が多かった。ブルガリア語は中世ロシアの書き言葉だった古教会スラブ語の直系の子孫だからロシア人には入っていきやすいからだろう。私のいたM大学には南スラブ語派のクロアチア語しか開講されていなかったのだが、当時隣のH大で単位をとればM大でも第二スラブ語の単位として認められたから、大学の規模も大きく選択肢の広いH大にポーランド語やブルガリア語をやりにでかけて行く学生が結構いた。が、私は残念ながら当時子供がまだ小さかったので、家を長い間空けられず外部の大学に出て行けなかったためと、まあ要するにメンド臭かったのでそのままM大でクロアチア語をやったのだ。
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古教会スラブ語のテキスト。古教会スラブ語は「古ブルガリア語」と呼ばれることもある。ロシア語を大学で専攻する者は(日本でも)必ずこれをやらされる(はずだ)。 

 そこで考えた。どうせ選択肢がクロアチア語しかないとすれば必修第二スラブ語の単位取りのためだけにやるのももったいない、この際皿まで毒を食ってやれ、と。それでクロアチア語を単なる第二スラブ語としてではなく「第二副専攻」として、もうちょっと先まで深く(でもないが)勉強することにしたのだ。
 ちなみにクロアチア語、つまり南スラブ語学を主専攻や副専攻としてやる者はこちらはこちらでまた「必修第二スラブ語」、つまり今度は南スラブ語派以外のスラブ語族の一言語の単位が必要になるわけだが、ここでは東スラブ語派のロシア語を取る者が大多数、というかほぼ全員だった。私は主専攻としてすでにロシア語をやっていたからこれが「クロアチア語専攻者にとっての第二スラブ語」の機能も兼ねていて一石二鳥ではあった。
 念のため繰り返すと「副専攻南スラブ語学」というのも本来「主要言語がクロアチア語」という意味、つまり「ブルガリア語、マケドニア語、クロアチア語、セルビア語、ボスニア語、スロベニア語ができるがその中でも主としてやったのはクロアチア語」ということだ。際限がない。これがまた下手にロシア語と似ているからもう大変だった。

 例えばロシア語のтрудный(トゥルードヌィ)は「難しい」という意味だが、これと語源が同じのクロアチア語trudan(トゥルダン)は「疲れている」だ。一度「クロアチア語は難しい」と言おうとして「クロアチア語は疲れている」と言ってしまったことがある。
 でも「言葉」という言葉はクロアチア語でもロシア語でも男性名詞だからまだよかった。この形容詞trudanが女性名詞にかかって女性形trudna(トゥルドナ)になると「妊娠している」という意味になってしまう。ドイツ語などでは「言葉」という言葉(Sprache)は女性名詞だからドイツ語でだったらクロアチア語という言葉は妊娠できるのだ。
 ついでだが、クロアチア語で「難しい」はtežak(テジャク)である。

 また、ロシア語でживот(ジヴォート)と言ったら第一に「腹」の意味だが、これに対応するクロアチア語のživot(ジヴォト)は「人生・命」。ロシア語でもживотに「命」の意味がないことはないのだが、すでに古語化していて、「人生・命」は現代ロシア語では大抵жизнь(ジーズニ)で表現する。で、私は一度「人生への深刻な打撃」と書いてあるクロアチア語のテキストを「腹に一発強烈なパンチ」と訳してしまい、高尚なクロアチア文学に対する不敬罪で銃殺されそうになったことがある(嘘)。

 もっとも西スラブ語派の言語、例えばポーランド語も油断が出来ない。ポーランド語では「町」をmiasto(ミャスト)というがこれは一目瞭然ロシア語のместо(ミェスタ)、クロアチア語のmjesto(ミェスト)と同源。しかしこれらместоあるいはmjestoは「場所」という意味だ。そしてむしろこちらの方がスラブ語本来の意義なのである。「町」を意味するスラブ語本来の言葉がまだポーランド語に残ってはいるが、そのgród(グルート)という言葉は古語化しているそうだ。ところがロシア語やクロアチア語ではこれと語源を同じくする語がまだ現役で、それぞれгород(ゴーラト)、grad(グラート)と「町」の意味で使われている。
 しかもややこしいことに「場所」を表すスラブ本来の言葉のほうもポーランド語にはちゃんと存在し、「場所」はmiejsce(ミェイスツェ)。これもロシア語のместо、クロアチア語のmjestoと同源で、つまりポーランド語の中では語源が同じ一つの言葉がmiasto、miejsceと二つの違った単語に分れてダブっているわけだ。

 私は最初「町」と「場所」がひとつの単語で表されているのが意外で、これは西スラブ民族の特色なのかと思っていたのだが、調べてみると、「町」のmiastoはどうも中世にポーランド語がチェコ語から取り入れたらしい。なるほど道理で「場所」を表す本来のスラブ語起源のポーランド語miejsceと「町」のmiastoは形がズレているはずだ。が、そのチェコ語の「町」(město、ミェスト)ももともとは中高ドイツ語のstattを直訳(いわゆる借用翻訳)したのが始まりとのことだ。これは現在のドイツ語のStadt(シュタット、「都市」)の古形だが、中高ドイツ語では(つまり12世紀ごろか)「場所」とか「位置」とかいう意味だったそうだ。動詞stehen(シュテーエン、「立つ」)の語幹もこれ。中世には都市とは城壁で囲まれているものであったのが、しだいに城壁がなく、その代わり中央に教会だろなんだろ中心となるものが「立っている場所」が都市となっていった。言葉もそれにつれて意味変遷し、「場所」から「都市」に意味変換が起こりつつあった頃、チェコ語がそれを正直に写し取った。そこからさらにポーランド語が受け取り、調べてみると東スラブ語派のウクライナ語もそのまたポーランド語から借用したらしく、「町」は」місто(ミスト)である。そして「場所」はМісце(ミスツェ)だから、ここでも語彙が二重構造になっているわけだ。

 灯台下暗し、「町」あるいは「都市」と「場所」をいっしょにしていたのはドイツ語のほうだったのである。


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 ドイツの休日はほとんどキリスト教関係のものだが、10月3日は例外でキリスト教とは関係のないまさに国民の休日、「ドイツ統一の日」という祝日だ。 私がドイツに来たころはまだ住所も西ドイツで、この祝日は存在しなかった。

 東西ドイツ統一というと開放された(?)東ドイツが受けた恩恵が話にのぼることが多いが西ドイツにとっても立派に恩恵になっていると思う。一番得をしたのは旧西ドイツのスラブ語学者達かもしれない。 旧東ドイツの大学に備えてある垂涎もののロシア文学・ロシア語言語学の蔵書が自分達のものになったからだ。
 ドイツの大学は全部公立で、当時すでに全国の大学図書館はがっちりネット網で繋がれており、国内の大学のどこか一つにありさえすれば、欲しい本が自分の通っている大学の図書館を通して借りられた。手続きも全部オンラインだったからこちらもわざわざ大学に行ったりせずに自宅からログインして注文できる。本が送られてくるとメールで知らされるから(以前は葉書だった)、受け取るときだけ大学図書館へ出向けばいい。私も学生時代は時々コンスタンツやアーヘン大学など行ったこともない町の大学図書館から運ばれてきた本をM大学の図書館の貸し出し窓口で受け取った。私の時は一冊につき3マルク(後にユーロが導入されたので1ユーロ50セント)の手数料を払ったが、先日聞いてみたら20年以上経過した今でも手数料は1ユーロ50セントだそうだ。

 ついでに言えばドイツの大学は授業料が全部タダだった。私もなんだかんだで10年間くらいM大学にいたが、その間「入学金」の「授業料」のというケチなものはビタ1セント払っていない。一学期ごとに学生組合に80マルクだか90マルクだかを納めただけだ。
 何年か前、財政難を理由としていくつかの州で神聖たるべき大学が授業料などという下賤な金をとる暴挙に出たため、ドイツ中で議論が沸騰した。その授業料も一学期に600ユーロ、7万円という目の玉が飛び出るほどの大金だ。私の住んでいるBW州はドイツで2番目の金持ち州であるにもかかわらず授業料制を導入した一方、隣のRP州は貧乏でいつもピーピー言っているのに「大学はタダ」という原則を貫いた。もっともその金持ちBW州も何年か授業料をとってはいたものの、結局「教育の自由に反する」との批判が州内部からも起こって2年くらい前からまた無料に戻ってしまったが。
 実は授業料の話が持ち上がったのはかなり昔で、私がまだ学生だったころなのだが、一度あまり深く考えずに教室で「だって一学期500ユーロとかそんなもんでしょ?そのくらい払ったらいいじゃん」とうっかり口を滑らしたところ、周りから「君は教育の自由というものをどう考えているんだ」と総スカンを食らって驚いた経験がある。
 
 話がそれたが、その遠隔貸し出し制を利用して何冊か日本文学のロシア語訳を送ってもらったことがある。ソ連の本だ。あの、ソ連製の本特有の変な匂いのする紙の見開きに「ベルリン・フンボルト大学」とか「ドレスデン工科大学」とかいうハンコがボワーンと捺されていてすごい迫力。ドレスデン工科大学に至ってはその隣にбиблиотека №○○(図書館 番号○○)とかロシア語のスタンプがあるのはなぜだ?旧東ドイツでは大学の授業をロシア語でやっていたのか?それともこの本はモスクワ大学あたりから「いらねえやこんなもん」とか言われて東独に払い下げられて来たのだろうか?さすが東ドイツは「クレムリンの娘」とかなんとか呼ばれていただけはあるなとは思った。これらの本が出版された当時というとブレジネフとかチェルネンコ、アンドロポフが元気だったころではないか(中にはあまり元気でない人もいたが)。

 でも気にかかったのは見開きのハンコだけではなかった。内容というか訳そのものに「?」がついてしまったものがあるのだ。
 たとえば、井上靖の『おろしや国酔夢譚』のロシア語訳など、所々本文が一行抜かして訳してあったりするし、極めつけは以下の箇所。何年も何年もロシア国内を漂流しつづけた大黒屋光太夫が宰相ラックスマンの尽力でとうとう時の皇帝エカテリーナ2世に直接謁見して帰国嘆願し、事情を聞いた女帝が思わず「気の毒に」という言葉を洩らす、というちょっと感動的な場面だ。

日本語原文:

…すると女帝は、
「この書面に相違なきや」
と、書面をラックスマンの方に差し出した。ラックスマンは(…)
「まさしく、それに相違ございませぬ」
と言上した。
「可哀そうなこと」
そういう声が女帝の口から洩れた。
「可哀そうなこと、 ベドニャシカ」
女帝の口からは再び同じ声が洩れた。

ロシア語訳:

- Все в точности? - спросила императрица, протягивая бумагу Лаксману.
Лаксман ...
- Все в точности, ваше величество. - потвердил он.
- Бедняжка, бедняжка.- дважды прошептала императрица, гладя на Кодаю.


ロシア語訳の部分を日本語に再翻訳すると一応次のような意味になる。

「すべてこの通りなのですか?」
女帝はラックスマンに書面を差し出しながら聞いた。
「すべてこの通りです、陛下」
彼は繰り返した。
「可哀そうなこと、可哀そうなこと」
女帝は光太夫の方を見ながら二度つぶやいた。


ちょちょ、ちょっと「口から洩れた、もう一回洩れた」を「二度」とか勝手に足し算しないで欲しいのだが… それに、私は原文の日本語を読む限りでは「可哀そうに」と思わずつぶやいたとき、女帝は書面に目をやったままだったか、あるいは遠くに思いを馳せるかのように別の方を向いていたようなイメージなのだが、どうしてここで唐突に「光太夫の方を見ながら」とかいうト書きを創作するのだ?ひょっとして『おろしや国酔夢譚』には二種類バージョンがあるのか?まさか。この訳者は『おろしや国酔夢譚』の他にも井上靖の『闘牛』や『猟銃』を訳しているが、やはり所々省略や追加・変更が目立つ。
 もちろん変更の全てが悪いわけではない。例えば別の人が川端康成の『雪国』を訳しているが、しょっぱなの部分がこう変更されている。

日本語原文:

 国境の長いトンネルを越えると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止った。

ロシア語訳:

 Поезд проехал длинный туннель на границе двух провинций и остановился на сигнальной станции. Отсюда начиналась снежная страна. Ночь посветлела.

汽車は二つの国の境のトンネルを通り抜け、信号所に止まった。そこから雪国が始まっていた。夜が明るい色になった。

上の例と違ってこちらはなぜ文章を変更したかわかる。ロシア語の言語構造、ディスコースの表現法に合わせたのだ。つまり自然なロシア語にするために必要だったのだろう。もっとも最初のセンテンスは英語訳のThe train came out of the long tunnel into the snow countryとそっくりだからひょっとしたら英語訳も参考にしたのかもしれない。

 しかし最初の例も決して「悪訳」とまでは言えまい。外国文学の日本語訳にはこれと比べ物にならないほどひどいのがある。
 
 それで思い出したが、昔森鴎外が訳したアンデルセンの『即興詩人』、あれを「原作よりも名文との評判が高い」と無責任に褒めているのを見たことがある。なぜ無責任かというと、比較の方法がはっきりしていないからだ。言語Aのテキストと言語Bのテキストを比較して文体とかスタイルの優劣を論じる資格があるのは、AB両言語が同等に話せ、書け、読めて評価出来る人だけ、つまり事実上バイリンガルだけではないのか?「原作よりも」というからにはこの人はきちんとデンマーク語の原文を読みこなして文体評価したんだろうな?まさか知り合いのデンマーク人にちょっとアンデルセンの原文テキストを見せ、「なかなかの名文だ」と言われたが、鴎外の日本語は「素晴らしい名文」である、「なかなか」と「素晴らしい」では「素晴らしい」のほうが程度が上だから鴎外の勝ち、とかそういういい加減な比較方法を取ったりはしなかったんだろうな?まさかのまさかでそもそもデンマーク語のほうに当たってさえ見なかった、比較検討さえしていない、なんてことはないですよね?
 翻訳というものを「原作の内容、ニュアンス、文体を出来るだけ忠実に当該言語に写し取ったもの」と定義すれば鴎外の訳は悪訳である。しかもドイツ語からの重訳という大きな減点がある。あれは翻訳ではない、リメーク、翻案である、というのならそれでいい。でもそれならそれでその原作でもない原作を比較に持ち出して「原作より名文」などと主張するのはアンデルセンに対して失礼だと思うのだが。


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 おおまだこんな物が本棚にあったのかと、ふと学生時代に使った「言語学入門」の教科書(Studienbuch Linguistik)をめくって見る、内心「ふふん、入門書か」という感じでエラそうに高をくくって覗いたつもりが、改めて読み始めてみると「ふふん」どころではない、面白い、というか何を隠そう本当に勉強になってしまう。「そうか、あれはこういうことだったのか!」などといまさら感動する。こういうことをいまだにやっている私がいつまでたっても専門家になれないのは当たり前か。

 しかし以前にも誰か「入門書というのはド素人が読むものではありません。ある程度専門知識をつけた人が、自分の知識に穴がないか、自分の立場は全体からみるとどういう所にいるのか、他の人は大体どういうことをやっているのか確認するために読むものです」と言っていたが、当時は「まーたまた先生、逆説的ないい方してカッコつけちゃって」とか鼻であしらってしまった。私が浅はかだった。ほんとうにその通りかもしれない。
 しかしそうなるとその「ド素人」はどうやって勉強したらいいのだろう?地道に専門論文を読んでいくしかないのだろう。最初(まあそれが最初だけですめばいいのだが。私はいまだにこれだ)何を言ってるのか全くワケがわからない、蚊が石を刺している思いなのを、人に聞いたりしながらいくつも論文を読み進み、次第に専門書が理解できるようになっていく。これしかないのだ、きっと。
 そういえば昔筑○大学で受けた「音韻論概説」という授業がこんな感じだった。「概説」とは名ばかりで、教授はチョムスキー直下の生成音韻論の専門家だったが、カイザーという人とキパルスキーという人が共著で当時MITから発表したばかりの湯気のたっているガチな論文を学生に読ませたのである。この著者は有名な学者なので生成文法をやった人なら知っているのではないだろうか。「オートセグメンタル音韻論」とかを展開していた人たちである。まあ英語学専攻者なら他の授業でも生成文法をやってもらっていたからまだいいだろうが、私はそもそも英語そのものがあやしい「元美系」(『11.早く人間になりたい』の項参照)である。タイトルがすでにちんぷんかんぷんだったが、もちろん内容も見事なまでに理解できなかった。20ページか30ページのペーパーだったから、慣れた人なら1時間もあれば内容がスースー把握できただろうが、私は毎晩何時間もかけて2ページくらいづつ亀の歩みで読んでいくしかなかった。1ページ読み進むと前に書いてあったことを忘れて話が見えなくなるのでしょっちゅう逆戻りしたから、亀というより自分の尻尾を咥えていつまでも同じところを回っている蛇の心境だ。仕方がないから前を忘れないように余白に「あらすじ」をメモしつつノロノロすすむ。その学期では精神エネルギーを全部カイザー&キパルスキーに吸い取られて他の授業の勉強が全然できなかった。
 え、なぜそこまでしてそんなもんに付き合ったのかって?仕方ないだろう、最後に期末試験があったし、その単位は必須だったんだから。逃げが利かなかったのである。
 その期末試験の設問の一つを今でも覚えている。「キパルスキーは/ts/を二つの音素と見なしているか破擦音として一つの音素と見なしているか、その論拠も書きなさい」というものだった。ペーパーでは英語の音をそれそれウルサく細かく機械で音声解析した図表だのグラフだのを総動員して英語の音韻構造を考察していっていたが、英語のtsは破擦音として一音素とみなすべきである、というあまりスリルのない結論に達していた。その結論に至るまでの論旨をかいつまんで回答したのを覚えている。ただし覚えているのは「答えを書いたということ」だけであって、答えに何を書いたかは完全に忘れた。「忘れた」というよりはなから自分でも自分の書いている事がわかっていなかったのだ。ほとんど夢遊病者である。

 さて上にあげたこの「入門書」だが、何もない所からいきなりこういうことを言われて(143~144ページ)そもそも理解できる人、まして「そういうことか、これは面白い!こんなに面白いものならば私は是非言語学がやりたい!」などと思う人がいるのだろうか(いるかも知れない。世界は広いから):

「『完全解釈可能の原則』とは、表出された言葉はLFまたはPFにおいて完全に解釈できなければならない、つまり音声的にも、意味的にも解釈不可能ないかなる素性(そせい)をも示してはいけない、という意味である。さらに『素性(そせい)照合』で句内の素性がそれぞれの機能ヘッド(3.3.2章と比較せよ)と照合され、それらが一致すればハズされる(チェックされる)。解釈不可能な素性(そせい)が照合で消去されてしまうので、もう解釈の邪魔ができない。もし素性照合で付き合わされた要素間を『一致』(Agree)が支配しない場合はその素性を消去することができない。」

原文はこれだ。何も私がワザと理解しがたい訳をつけているのではないことがわかって貰えると思う。

Das Prinzip der vollen Interpretierbarkeit besagt, dass ein sprachlicher Ausdruck auf LF und PF voll interpretierbar sein muss, d.h. dass er keine phonetisch oder semantisch uninterpretierbaren Merkmale aufweisen darf. Bei der Merkmalüberprüfung werden nun die Merkmale der Phrase mit den Merkmalen des jeweiligen funktionalen Kopfs (vgl.3.2.2) verglichen und – falls sie übereinstimmen – ‚abgehakt’(gecheckt). Die uninterpretierbaren Merkmale werden beim Checken gelöscht und können so die Interpretation nicht mehr ‚stören’. Falls bei der Merkmalüberprüfung keine Übereinstimmung (Agree) zwischen den Merkmalen herrscht, kann das Merkmal nicht gelöscht werden.

執筆者は abgehakt や stören などの「普通の」言葉を使ったりして、一応素人にもわかるような説明をしようとしている様子は見て取れるのだが、むしろそれが裏目に出ている感じ。こんなのだと読むほうは、「ああ、ここまで一生懸命気を使ってもらっているのにそれでもわからない自分はなんて才能がないのだろう」と自信喪失して専攻を変えてしまうんじゃないか?

 この本は複数の学者が共同で書いた教科書の中の「生成文法」についての記述だが、同じ分野でも英語の入門書は次のような言い回しで説明している。わかりやすさで有名な A.Radfordという人の書いたSyntax:A minimalist introductionから(120ページ)。

「ここの私たちの議論から出てくるのは、定形動詞が強い呼応素性(そせい)を持つか弱い呼応素性をもつかという点に関して言語間でパラメーターに違いがあるということ、そしてそれらの素性の相対的な強さが助動詞以外の動詞がINFLまで上昇することができるかどうか、またゼロ主語が許されるかどうかを決めるということだ。けれど、それなら動詞に強い呼応素性のある初期近代英語のような言語でなぜ動詞がVからIに上昇できるのか、という疑問がわく。これに対しての答えの一つをチェック理論で出すことができる:ムーブメントが他の場合ならチェックされないで残る強い素性をチェックする、と仮定してみよう。」

What our discussion here suggests is that there is parametric variation across language in respect of whether finite verbs carry strong or weak agreement-features, and that the relative strength of these features determines whether nonauxiliary verbs can raise to INFL, and whether null subjects are permitted or not. However, this still poses the question of why finite verbs should raise out of V into I in language like EME  where they carry strong agreement-features. One answer to this question is provided by checking theory: let us suppose that movement checks strong features which would otherwise remain unchecked.

単語や内容が難しいのはドイツ語の入門書も英語の入門書もドッコイドッコイなのだが、英語のほうは読むほうが話しかけられている、つまり相手にされている雰囲気が伝わって来る。「です・ます体」で訳したくなるくらいだ。この著者は別の箇所で「ちょっと進み方が速すぎたかもしれない。もう一度前の例に戻って…」というような言い回しを使っているほか、時々本当に冗談を言うので「普通の読み物」として通用するのではないだろうか。

 実は他の場合でもドイツ語圏と英語圏との「入門書」には温度差というか態度というかに違いがある。ドイツ語の入門書からは上にも挙げたような、「ホレこれを読め」的な突き放したニュアンスを時々感じるのだが、英語の教科書は素人にも優しい。ただ、上のドイツ語の著者は学生ばかりでなくチョムスキーをさえ突き放していて、読むべき文献としてチョムスキーの名を挙げる際(147ページ)、

Chomsky: Immer noch richtungsweisend (und immer noch schwer lesbar) sind die Arbeiten von Chomsky (1992, 1995a und b, 2001, 2003).

チョムスキー: 今だに指導的な役割は失っていない(そして今だに読みにくい)のがチョムスキーの著書(1992, 1995a und b, 2001, 2003).

と堂々と書いている。つまり上で暗に示したかったのは「生成文法がわからないのはわざと難しい言い方をしているからです。わからなくても結構です。何もこれだけが言語学じゃありませんから。ふふん」ということか。どうもそういう気がする。そういえば上の箇所で stören などの普通の言葉を専門用語と並立してあるのも、「こいつらはやたらと難しい特殊な単語を使ってますが、ナーニ大したことはない、要は単にこういう意味ですよ」と、わかりにくいことをわかりにくい言葉でわかりにくく表現する生成文法系の用語の特殊性をおちょくっているのかもしれない。ドイツ人のユーモアと言うのはちょっと屈折していてついていくのが大変だ。


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 この間電車の中で偶然以前の同僚に会った。その人は私と同世代で母語がスペイン語である。雑談をするうち、いつしか話は「最近の若い者は(出た、年寄りの愚痴!)ラテン語ができない」とかいう方向に進んで行った。
 一昔前はドイツのギムナジウムではラテン語をやるのが普通だった。その上さらに古典ギリシャ語もやらされるところもあった。それに加えて現代の外国語、当時は大抵フランス語を一つマスターさせられたのだ。ラテン語ができないものはそもそも文科系の大学に入学する資格がなかった。できなくてもよかったのは外国籍の学生だけで、「まあ外のものにドイツ人並の教養を要求するわけにもいかんだろ。けっ。」と甘やかされていたのである。そのアマちゃんの私でさえ、一度「ラテン語資格」を要求されそうになって青くなったことは『2.印欧語の逆襲』の項でも書いたとおりだ。

 ところが最近のギムナジウムではラテン語などやらないところがむしろ普通で、文科系の学部もラテン語なしで入学できてしまうそうだ。外国語学部・言語学部に入学してくる、つまり言語というもののプロになりたいと思っているものでさえラテン語ができない学生がいるのだから、あとは推して知るべし。「だから文法の用語とかも皆知らなくてさ、自動詞とか他動詞とかいう言葉の意味がわかんなくてポカーンとしてるから動詞のバレンツを書いてそこから説明してやったよ。これじゃ語学だって進歩しないだろ。説明が理解できないんだから。」他動詞・自動詞よりも「動詞のバレンツ」などという用語のほうが余計わかってもらえないんじゃないかとも思ったが、全くそういう理論武装なしで語学をやることは不可能だと私も思っている。理屈や堅い話なしで、「覚えましょう・覚えましょう」だけで言葉を覚えるのではそれこそ九官鳥やオウムの訓練所ではないか(『34.言語学と語学の違い』参照)。

 さて、この人は古典ギリシャ語もやったそうだが、続けて「ラテン語は語形変化のパラダイムが美しい」という。名詞や動詞の変化表をみるとその均整のとれた美しさに感動するのだそうだ。私もそれには異存がなかったので、「そうですね。特にo-語幹の名詞がいいですよね。呼格なんかもあるし」と話をあわせたが、さらに言えば私はラテン語だけでなく、いや印欧語だけでなく全ての言語体系は美しい、と思っている。言語の本質はその構造性・体系性にあると思っているのだ。その音韻体系、形態素体系、シンタクスの構造、これらが図式化してあるのを見るのが好きで、語学書などでも中身はすっ飛ばして真っ先に巻末の変化表に目が行ってしまう。ただ、パラダイム表をみるのは好きだが覚えるのは嫌い(いうより「できない」)なのが我ながら情けないところだが。

 この言語の構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう。現在の物理学の知識を駆使しても10m上空からアヒルの羽を一枚落としたときの落下地点をぴたりと当てることが出来ないのと似ている。しかもあらゆる言語がそういう構造を内在させている。現在存在している言語、過去に存在していた言語、これから生まれるであろう言語はすべて「決して人間程度の知力では完全に解析・解明することはできない」存在なわけだ。現在地球上にある言語だけで5000、今までに存在した言語なんて何万、いや何十万あったかわからない。それらはどれ一つとして同じ構造のものがない、すべてただ一回きりこの世に存在し、これからも決して生じることはない現象である。
 こういうことを考えるにつけ、たかが10や20言語のちょっとした挨拶や言い回しを覚えて九官鳥気取りで軽々しく「語学ができる」とか言い出す人にはちょっと反発を覚える。

 また、「体系」「構造」という言葉は一時日本でも流行ったのですでに日常語になっているが、では「体系って何ですか?」とあらためて聞かれるとその言葉を得意げに使っている本人も一瞬うっとつまってしまうことが多い。私は馬鹿なので一瞬でなく一分間くらいつまる。でも聞かれたからには答えなければならないのでいつもまあテキトーに(あのねぇ・・・)こんなことをいって誤魔化している。

「要素Aがそれ自体のものでなく他の要素、BとかCとかの関連において初めて意味を持ってくる、あるいは要素Aの本質はAの内部そのものにではなくBやCとの関係のなかにある、と考えるのが体系という観念です。」

つまり、ある文法カテゴリー、例えば過去形という奴をそれだけじいっと考察していてもあまり意味はないということだ。当該言語がどんな時制体系を持っているかによって意味も使用範囲も全く違ってくるからだ。現在-過去-未来しか持たない言語と過去完了、非完了、アオリストなどやたらとたくさんの時制形を持っている言語では「過去形」といっても全く別物なのである。
 語彙にしてもそうで、例えば「「てつだう」ってどういう意味ですか?」という類の質問をしてくるのは初期段階だけである。ちょっと学習が進むと必ず「手伝うと助けるはどう違うんですか?」というような質問をしてくるようになる。体系内での要素間の関係に目が行くようになるのだ。逆にいつまでも言語の体系性ということが実感として捉えられない人は語学のセンスがないのでせいぜい九官鳥と競争でもしていてほしい、とまでは言わないが(そんなことを言ったら私自身も相当長い間その口だったのだ。『25.なりそこなったチョムスキー』参照)、教師がいくら優秀でも途中で壁に突き当たる場合が多い。一生懸命勉強したはずの語学が使い物にならないのはどうしてなのかか自分でもわからず、結局教師の教え方が悪いからだ、と人のせいにしたりするのだ。

 話は少しワープするが、映画も一つ一つの作品を単発でバラバラ無作為に鑑賞したり紹介していてもどうにもならないことがある、と私は思っている。作品Aが当該体系内の作品Bとの関連で初めて意味を持ってくることもあると。ただ、映画では全体として統一の取れた体系というものをきちんと枠組みすることが難しい。いわゆる「ジャンル」というのは枠にはならない。映画芸術発生以来100年余り連綿と作られてきた、またこれからも作られていく映画をポンポンジャンルという箱の中に放り込んだところで収集も統一も取れていないばかりか、どのジャンルにいれたらいいのか人によって違う映画も多い上に(『タイタニック』は恋愛映画なのかアクション映画なのか?)、そもそもジャンルというもの自体、いったいどうやって定義したらいいのか曖昧なこともある(「ブロックバスター」というのは果たして一つのジャンルや否や)からだ。つまり映画のジャンルというものは雑多な映画のテキトーな集合に過ぎない。
 ところがそういう映画にも時々「擬似体系」とでも呼べそうな、全体的に一定のまとまりを示す作品群がある。どの映画がそこに所属するかも明確に決めることができて、枠組みがクリアな集合が。その一つがいわゆるマカロニウエスタンと呼ばれるジャンルというかグループで、これらの作品群は例えば「恋愛映画」などというふやけたジャンルと違ってまずモチーフ(西部劇)が一定している上、1.製作時期がはっきりと限定されている(1964年から1970年代の後半まで)、2.製作国(イタリア)が定義されている、2.監督、音楽、俳優、脚本などが極めて限られた面子である、ので内部の統一性が極めて高い。事実マカロニウエスタンの作品はジャンル内部での相互影響、露骨に言えばパクリ合いが非常に密で独特の小宇宙・閉ざされた空間を形成しているのである。
 また他のジャンルではいわゆる駄作というのは存在の意義が薄く、ガチなフリークならともかく、普通のレビューの網の目からは落ちこぼれることが多いが、内部作品が相互関連して全体の体系を形作っているマカロニウエスタンでは、駄作でも要素Bとして立派に要素Aの存在意義に関与しているのだ。わかり易く言えば、ジャンルの傑作の引き立て役として小宇宙内で重要な意味を持っているのである。そもそもマカロニウエスタンの9割以上は駄作凡作なのだから、体系というかジャンル全体として考察しなければどうにもならない。とにかくこのジャンルは明確に閉ざされた一つの小宇宙を形作っているので一旦ハマると抜けられなくなるのだ。

 あと、これはマカロニウエスタンのような「小宇宙ジャンル」に限ったことではないが、映画を論じる際、製作年を無視すると解釈を誤ると私は思っている。映画は製作と公開が時期的にかなりずれていることが多いのでドイツでの公開時、日本での公開時だけを基にして作品を云々しているとトンチンカンな解釈をしてしまう。少なくとも本国公開はいつだったのか押さえておかないとまずいだろう。本当は本国公開時でなく製作年の方をを考慮すべきなのだろうが残念ながら資料などには出ていないことが多い。
 たとえば私もやってしまったのだが、ブレット・ハルゼイBrett Halsey演ずる『野獣暁に死す』の主人公ビル・カイオワ。最初私はこれは『殺しが静かにやって来る』の主人公サイレンスのコピーかと思ってしまった。陰気な黒装束も同じだったし、顔もちょっと似た方向だったからである。でも調べてみたら前者のほうが制作も本国公開も早かった。つまりカイオワはサイレンスからのコピーではなくてむしろ『続・荒野の用心棒』のジャンゴから直接持ってきたのだとわかる。『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』では後者のほうが圧倒的に名を知られているし評価も高いため、私は見誤ってしまったのである。
 なお、「閉ざされた小宇宙」と言ってもマカロニウエスタンは作品が500以上ある。『52.ジャンゴという名前』の項でも書いたが、その中で私の見た作品など、「見たかどうかよく覚えていない」ものまで無理矢理含めてもせいぜい90作品。あと410作品を見るなんてこの先一生かかっても無理だ。まさに上でも述べたように「構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう」と言える。


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