アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:シュメール語

 ロシア文学というと私は6の項で前にも書いたショーロホフの『他人の血』(Чужая кровь)のほかにフセヴォロド・ガルシンの短編も繰り返して読んだ。若くして亡くなった19世紀後半の作家である。
 ガルシンは短編『あかい花』(Красный Цветок)が何といっても有名だが、私は『信号』(Сигнал)も好きだ。そこには足るを知った人間の美しさが描かれていると思う。

 主人公の一人は鉄道の線路番のおじさんだ。この人は人生でさんざん辛酸をなめて来て、世の中に対して愚痴や恨み言のひとつやふたつ出ても全くおかしくない境遇なのだが、そういう言葉が全然出ず、つてで線路番の仕事につけることになり、住む家もできたと大喜びして、一生懸命仕事に励んでいる。法律で決められている(はず)の15ルーブルでなく12ルーブルしか給料を貰わなくても「食うに困る訳じゃなし」と文句も言わない。
 もうひとりの主人公、若い線路番は若くて正義感と社会への恨みに燃えている。彼は給料のピンはねを許さない。お偉いさんがやたらといばっていて貧乏人を搾取するのに反抗し、「世直し」を唱える。
 この若いほうは、訴えても訴えても不正が直らないのに業を煮やし、とうとう鉄道の線路のレールを細工して汽車を脱線させ、世間の奴等に目にもの見せてやろうとする。
 老線路番がそれを目撃してしまう。彼は、何の罪も無い乗客が犠牲になると想像するだに絶えられず、ほとんど自分の命を犠牲にしてまで汽車に合図して止めようとする。
 それを見ていた若い線路番は、血まみれになって倒れた老線路番に代わってとうとう自ら汽車に合図をして脱線を止める。そして汽車から降りて来た人々にむかって「私がレールを細工した。私を逮捕してくれ」と自分から告げる。

 この老線路番を「問題意識が足りない」とか、「そういう卑屈な奴がいるから社会悪がなくならないんだ」と非難できるだろうか?私には、むしろ一見皆のための世直しに燃えているように見える若い線路番のほうが、その実自分の欲望・自分の個人的恨みを「正義」という美しいオブラートで包んでいただけ、つまり憎しみが原動力となっていただけなのではないかとも思えるのだが。
 またこの老線路番は、若いほうがレールを細工しているのを見つけた際も、「何をするんだこの野郎!」などとののしったりはしない。「お願いだからレールを元に戻してくれよう!」と懇願するのだ。どこまでいい人なんだろう。
 その彼が、若いほうにしみじみ言ってきかせた言葉がある。

 От добра добра не ищут.

「善から善を求めるな」、つまり「得た物を大切にしてそれ以上これでもかと欲しがるな」ということわざだが、実はロシア語には他にも似た意味の、

 Без денег сон крепче.

という格言がある。「お金がなければ眠りは深い」、つまり「下手に財産を持っていると心配事も増える」という意味なのだが、これを聞いたとき驚いた。以前、メソポタミアで紀元前3千年ごろ話されていたシュメール語に同じようなことわざがあると聞いていたからだ。

 銀をたくさん持っている者は幸せだろう。
 麦をたくさん持っている物は嬉しいだろう。
 だが、何も持っていない者は眠れるだろう。

それでこのロシア語の格言が何処から来たのかちょっと調べてみたら、どうもユダヤの聖典タルムードのミシュナーから来ているようだ。ユダヤの精神文化にはメソポタミアから引き継がれている部分が少なからずあるそうだから、バビロニアの昔にシュメール文化の遺産も引き継いでいたのだろうか。ユダヤ人はもともと中東の民、そしてメソポタミア文明も中東が発祥地だから、紀元前3千年の格言をタルムード経由でロシア語が引き継いでいる、というのはありえない話ではない。そうだとすると本当にスケールの大きい格言だ。そこでさらに偶然家に落ちていた本を調べてみたが、まとめるとだいたい以下のようになる。

1.シュメール語は紀元前3700年からメソポタミアで話され、文字で書かれた最初の言語だが、紀元前2800年に当地がアッカド語を話すアッシリアの支配下に入った後でも書き言葉として使われ、アッカド語・シュメール語のダイグロシア状態であった。アッカド語はセム語族、シュメール語の系統は不明である。

2.アッカド語は紀元前1950年に南部のバビロニア語と北部のアッシリア語に分裂。アッシリア語は紀元前600年ごろに消滅したが、バビロニア語は紀元ごろまで保持された。アッカド語は当時アッカド人以外の中東・メソポタミア周辺の民族にも広くリングア・フランカとして使われていた。

3.同じくセム語族のヘブライ語はその存在が紀元前1200年ごろから知られ、紀元前4世紀ごろにはミシュナーが編纂されたが、紀元後2世紀にはもう話し言葉としては使われなくなっていき、書き言葉として継承されるのみとなった。

4.ミシュナーのヘブライ語にはアラム語(セム語族)の影響が顕著である。

5.アラム語は紀元前12世紀ごろにシリア・メソポタミアで話されていた。紀元前8世紀にはアッカド語(バビロニア語とアッシリア語)やカナーン語を駆逐して中東全域に広まっていたが、その後アラビア語に取って代わられた。

つまり時間的にも地理的にもシュメール語→アッカド語→アラム語→ヘブライ語という流れが理論的にはミッシング・リンクなしで可能である。可能なのだが、もっと詳しく資料を調べて証拠を出せといわれると私の言語能力では完全にお手上げだ。語学が出来ないと人生本当に不便でしかたがない。

 語学はできないくせに私はヘソ曲がりなのでそこでこんなことも考えてしまった: いわゆる格言・ことわざというものには純粋に民衆の知恵からきたものばかりでなく、為政者が下々の者からあまり文句が出ないように考案して標語・道徳として押し付けたものも混ざっている。また、民衆の知恵だとしても下々の者自身が「考えるだけ無駄」と、諦めの極意として自らを抑圧するため心に刻んだものだ、との解釈も成り立たないことはない。
 しかし仮にこの格言が「為政者が下々に押し付けたマニュアル」だとしても、シュメールの時代からこれらの言葉を胸に刻んで黙々と自分に与えられた人生を受け入れ、富とか権力などとは全く無縁に営々と歩み続け、存在の痕跡さえ残さずにやがて完全に消えていった人たちのこと、私と全く同じような人たちのこと、こういう人生そのもののの重さ、生きることそのものの重みを思うと襟を正さずにはいられない。

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なんと『あかい花』と『信号』がまとめられている単行本があった。しかもタイトル画には線路番が脱線を阻止しようとして列車に旗で合図している『信号』のラストシーンが使われている。


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 1980年代に沖縄でヤンバルクイナという鳥の新種が発見されてマスコミで大騒ぎしていたのをまだ覚えている。後天性免疫不全症候群、続にいうエイズの発見と言うか確認も80年代でこれもマスコミは大きく取り上げた。

 実は80年代にはもう一つ人類規模の大発見がなされていたのだが、これを取り上げて騒いでいた新聞を見かけた記憶が全くない。もしかしたら新聞の片隅で報道されていたのを見落としたのかもしれないが、そのころシュメール語がいわゆる能格言語であることが発見されていたのである。もっとも「大発見!! シュメール語は能格言語だった!」とか一面の見出しなどにつけたら新聞の売り上げ一気に落ち込みそうだ。実は私も最近まで全く知らなかったのだが、何気なく言語事典を見ていたらシュメール語の項に「1980年代に能格言語であることが確認された」とあっさり凄いことがかいてあるので驚いた。
 驚いたついでに、その事典に参考書として上がっていたThe Sumerian Language: An Introduction to Its History and Grammatical Structureというシュメール語についての本をアマゾンで検索してみたら古本で549ドル、新品だと850ドルというすさまじい値段で、驚きが「戦慄」にグレードアップした。一瞬こちらが桁の位置を見間違えたかと思ってしまった。誰がこんなに出せるんだ。(これは何年か前の検索だが、最近また見てみたら大分値下がりしていて中古が250ドル、新品が748ドルだった。しかしこれでも十分高い)

 幸い大学の図書館にあったので借りた。まあ大学にとってはこのくらいの値段痛くもないのだろう。それとも発行当時はもっと安かったのか。
 中を覗いてみたが普通の文法書・研究書で、どうしてこんな値段がついているのかわからない。

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これがその700ドル以上するシュメール語についての本の表紙だが、地味な装丁でとてもそんなに高いようには見えない。

ハードな文法の記述はひとまず置いておいてIntroductionの章にサッと目を通してみたら、16ページ目にこんなことが書いてあるではないか。

The Sumerian influence may already rather early have caused the Akkadian word order: S-O-V, which is unusual for a Semic language. Most early contact is shown in the archaic texts from Fara and Abu Salabikh´.

 これで思い出した。昔一般言語学の口頭試問で、「ケルト語の語順はどうしてVSOなんだと思いますか?」と聞かれて答えられなかったことがあるのだ。「どう思いますか」と聞かれたくらいだから、はっきり証明された定説はなくて、答えよりも私の思考能力というか推論能力というか、学生としての底力を試したのだろう。こういうことはいわゆる試験勉強をやってもできるようにはならない。ここで正直に「見当もつきません。考えてみたこともありません」とか答えていたらその場で首が飛んでいたかもしれないが、私が一応「うーん」とうなりながら考えるふりをしてごまかしていたら、試験官の先生のほうが向こうからいろいろ考えるヒントを出してくれた。
 ケルト語はラテン語やギリシア語が入ってくる前にヨーロッパ大陸で広く話されていた言語だが、その際フェニキア語と接触した。フェニキア語はセム語族だ。そしてセム語族の言語はアッカド語を唯一の例外として語順がVSOなのである。アラビア語も基本VSOで、時々SVOも現れるそうだが、つまりケルト語のVSOはセム語族のフェニキア語の影響と考えられるのだ。
 その唯一の例外アッカド語はセム語族のくせに語順SOV。そしてシュメール語は非セム語・非印欧語である。つまり、親戚のアッカド語が非セム語に影響されてSOVに変身させられたため、怒った同族フェニキア語がその仕返しに(多分元々はSVOだった)何の罪もない印欧語のケルト語をVSOに変えて復讐してやったのだ。「江戸の仇を長崎で取る」とはこういう事をいうのではないだろうか

 話を戻すが、能格言語というのは一言で言うと自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格を取り、他動詞の主語と自動詞の主語が同じ格にならない言語だ。自動詞の主語と他動詞の目的語が取る格を「絶対格」、他動詞の主語がとる格を「能格」という。これに対して日本語や印欧諸語では自動詞だろうが他動詞だろうが動詞の主語は主格で、目的語がとる対格に対する。「主語は主格」としか考えられない頭の硬直している者にはちょっと想像を絶する構造だ。前に『7.「本」はどこから来たか』の項でちょっと書いたタバサラン語やグルジア語など、コーカサス語群の言語はこの能格を持っている。ヨーロッパではバスク語が能格言語として有名だし、オーストラリアやパプア・ニューギニアのあたりにも能格言語が多いそうだ。
 ネットなどを見てみたら同じバスク語の例が、そこら中でたらい回し的に引用されている。それをまたそのままここで垂れ流す私も横着だが、下の2文を比べてみてほしい。能格の何たるかがよくわかるだろう。

gizon-a etorri da.
男(絶対格) + 到着した +(完了)
→ その男がやってきた。


gizon-ak mutil-a ikusi du.
男(能格) + 少年(絶対格) + 見た +(完了)
→ その男がその少年を見た。

「男」はgizonだが、「やってくる」という自動詞の主語に立つときは-a、「見る」という他動詞の主語の時は-akという別の形態素が付いていることがわかるだろう。 これが絶対格と能格の違いで、日本語だとどちらも主格を表す「が」がついて「男が」となる。また、主語の「男」が見た対象、日本語では「を」をつけて対格になる「少年」(mutil )に、自動詞の主語gizon-aと同じく-aがついてmutil-aという形をとっている。絶対格である。
バスク語をもう一例。

Ume-a erori da.
子供(絶対格) + 転ぶ +(完了)
→ その子供が転んだ。


Emakume-ak gizon-a ikusi du.
女(能格) + 男(絶対格) + 見た +(完了)
→ その女がその男を見た。

ここでも-aが絶対格、-akが能格だ。

その700ドルの本には(しつこい)シュメール語の例として以下のような例がのっている。ここでğとしてあるのは本ではgの上に半円というか河童のお皿というかでなく~がのっている字だ。

-e sağ mu-n-zíg
その男(能格) + 頭(絶対格) + 上げた
→ その男が頭を上げた。

i~-ku4.r-Ø
その男(絶対格) + 入ってきた。
→ その男が入ってきた。

ゼロ形態素(-Ø)と-eがそれぞれ絶対格と能格のマーカーなのがわかるだろう。つまり自動詞と他動詞では主語の格が違い、他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格(絶対格)で、他動詞の主語のみ能格になっている。

 ちなみに、グルジア語は能格を持っていると上で書いたが実はグルジア語は能格と主格を併用している。能格が現れるのはアオリストの場合だけだそうだ。まず現在形では主語は他動詞も自動詞も主格をとる。

student-i midis
学生(主格) + 行く(現在)
→ 学生が行く

student-i ceril-s cers
学生(主格) + 手紙(対格) + 書く(現在)
→ 学生が手紙を書く。

ところがアオリストでは他動詞の主語は能格に、目的語は主格になる。自動詞の主語は現在形と同じく主格。

student-i mivida
学生(主格) + 行った(アオリスト)
→ 学生が行った。

student-ma cereil-i dacera
学生(能格) + 手紙(主格) + 書いた(アオリスト)
→ 学生が手紙を書いた。


グルジア語はいわゆる膠着語で動詞にベタベタいろいろな形態素がくっ付いてきてドイツ語のように単純にこれは「過去形」、これは「現在形」とキッパリ線を引けないので困るが、もう一つこういう例があった。

dato ninos c’ign-s ačukebs.
ダト(主格)+ ニノ(与格) + 本(対格) + 寄付する(現在)
→ ダトがニノに本を寄付する。

dato-m ninos c’ign-i ačuka.
ダト(能格)+ ニノ(与格)+ 本(主格)+ 寄付した(アオリスト)
→ ダトがニノに本を寄付した。


さすがに間接目的語はどちらも与格だ。そうでなくては困る。それにしても、ここで「ある場合は能格、別の場合は主格などという玉虫色の言語では困る。どちらかにはっきり決めてくれ」とグルジア語に文句をつける人がいたら、実は自分たちだってそういうヒョウタンナマズだということを考えたほうがいい。日本語でだって「私は映画が好きだ」または「私はあの本が欲しい」というだろう。ここで主語に立っている「映画が」と「あの本が」は対格でも表現できて「私は映画を好きだ」「私はあの本を欲しい」と言っても間違いではない(私個人の言語感覚では主格の「が」のほうが座りがいい)。日本語では「好きだ」も「欲しい」も動詞ではないが、対応する英語はそれぞれlikeとwantという立派な動詞。言い換えるとこれはいわば目的語が主格に立っているわけで、擬似能格現象といえるのではなかろうか。
 事実、「能格」という言葉の意味を本来より少し広く取ってこういうのをも含めて「能格性」として扱う言語学者も多い。例えば英語文法でも「能格」ergativeという言葉の意味が少し広い。生成文法の入門書で有名なAndrew Radfordが例として掲げているが

Someone broke the window
The window broke

という構造も「能格現象」として扱われている。ドイツ語でも 

Dieser Kuli schreibt gut.
this + ballpoint + writes + well

という言い方ができるので、英語・英文法の得意な人はこちらが能格の本来の意味で、一般言語学がこの用語を転用したのだと思っているかもしれないが、シュメール語、バスク語のほうが本家である。Radfordも

This term originally applied to languages like Basque in which the complement of a transitive verb and the subject of an intransitive verb are assigned the same case.

と、ちゃんと説明してくれている。


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