アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ギリシア語

 「白」と「黒」を印欧諸語ではそれぞれ次のように言う。上が「白」、下が「黒」である。

ラテン語
albus
niger

ドイツ語
weiß
schwarz

英語
white
black

ロシア語
белый
чёрный

古典ギリシア語
φαλός
μελας

サンスクリット
śvetaḥ
kṛṣṇaḥ

フランス語
blanc
noir

ここで例えばドイツ語・英語やロシア語の語源辞典を(うっかり)引くと、同語派の印欧語、英語辞典ならドイツ語はいうに及ばず、オランダ語やノルウェー語、ロシア語辞典ならウクライナ語やセルビア語・クロアチア語の対応語までイヤと言うほど掲げてあって本当に嫌になるので、上の7語に絞った。サンスクリット語は私がデーヴァナーガリーが読めない、という超自分勝手な都合でローマ字にした。

 まずラテン語のalbusだが、イタリック祖語では*alβos、印欧祖語で*h2elbhos *álbhos。古典ギリシャ語のἀλφός(皮膚の色が白くなるハンセン氏病の一種(!))もこれと同源だそうだ。
 なおalbusは「つや消しの白」で、光沢のある白色はラテン語でcandidusという。
 次の英語のwhite、ドイツ語のweiß(古高ドイツ語の(h)wīz、中高ドイツ語のwīz)はゲルマン祖語で*hwītaz、印欧祖語の*kweytos、*kweid-oあるいは *kweit-起源で「輝く」。別の資料には印欧祖語形を*kwintos/*kwindosまたは*kuit-/*kuid-としてあったが、語そのものに変わりはない(と思う)。古期英語のhwit、古ノルド語のhvitr、当然スウェーデン語のvitもここから派生してきたもの。さらに古教会スラブ語のсвĕтъ、ロシア語のсвет(スヴェート、「光、世界」)も親戚だ。「古代インドの言語のśvēáḥも形が近い」と辞書に言及してあったから、形としてはサンスクリットともめでたく繋がってくる。
 ロシア語белый(スラブ祖語で *bělъ)は調べによるとアルメニア語のbal、古代インドの言葉bhālam、古典ギリシャ語のφάλοςと同様印欧祖語の*bhaから派生、とあった。
 ギリシア語φαλόςは印欧祖語の語幹*bhel-から派生したもので、サンスクリットのbhāla(「輝き」)と同語源。面白いことに今はもう古語となっている、「大きなかがり火」とか「のろし」という意味の英語bale(古期英語でbǣl)もこれ起源だという。上のロシア語での語源辞典では祖形を*bhaとしているが、ギリシャ語のφαλόςがその派生例として掲げてあるし、古代インドの言語の例bhālamもここギリシア語の項で挙がっているbhālaとほとんど同形だから、これらは同語源とみなしていいだろう。
 さらにフランス語のblancは俗ラテン語の*blancusからきているそうだが、そのblancusは実は俗ラテン語がゲルマン祖語から借用した語で祖形は*blankaz(「輝いている」)。これは印欧祖語では*bhleg-(「輝く、燃える」)である。
 ラテン語の祖形となった*h2elbhosも接頭辞がついてはいるが語幹に*bhが含まれているし、続ラテン語からフランス語に流れた*bhlegもそうだから、これらを皆いっしょにすると、印欧諸語の「白」には*kweit-あるいは*kwintos系と*bhel-あるいは*bho-系との、二つの流れがあることになる。

 ここまでだけだとあまり面白くないのだが、「黒」を見ていくと俄然スリルが増してくる。

 まずドイツ語のschwarzはゲルマン祖語では*swartaz、印欧祖語形では*swordo-(「くすんだ、黒ずんだ、暗い」)。英語でも文語的なswart(「黒ずんだ」)という言葉にその痕跡が残っている。
 ロシア語のчёрный(スラブ祖語で*čьrnъ)は印欧祖語の*kr̥snós(「黒い」)。サンスクリットのkṛṣṇaḥももちろんここ起源である。
 ギリシア語のμελαςは印欧祖語の*melh2-。サンスクリットのmala(「穢れ」)と同語源である。
 ラテン語のnigerは実は語源がよくわからないそうだ。印欧祖語の*nókwts(「夜」)とのつながりを主張する人もいるという話だ。 
 つまり「黒」のほうが「白」よりもあちこちいろいろなところから持ってきているわけだが、中でも面白いのは英語のblackである。実はこれはゲルマン祖語形が*blakazで、「燃えた」。印欧祖語の*bhel-または*bhleg-から出たそうで、つまりフランス語、ギリシア語、ロシア語、ラテン語などの「白」と出所が同じなのである。英語では「燃えた後の状態」を黒の意味に使っているのだ。スウェーデン語のbläck(「インキ」)も同じ語源だそうだ。

 さて、「白」というと思い出すのが「白ロシア」という名称である。今はもうあまり使わなくなって「ベラルーシ」と呼んでいるようだがドイツではいまでも「白ロシア」という名称が現役である。この「白」という命名は何故なのかについて「住んでいる人が肌の色も白く、金髪が多いからだ」とかいうショーモない説明を見かけたことがあり、さすがの私も笑ってしまった(しかしなんとこれをマに受けている人もいたようで、笑ってばかりもいられない)。これは論外としても定説はないようだ。私がスラブ語学の教授から聞いたのは次のような説明である。

「むかしの中国では東西南北をそれぞれ色でシンボル化していた。東が緑、西が白、南が赤、北が黒、そして中央が黄色。 このシンボル体系が、かつて元・蒙古が2世紀の間ロシアを支配していたときスラブ民族にもたらされた。それでロシアの西にある国を「西ロシア」という意味で「白ロシア」と名づけたのではないだろうか。」

これはたしかにあり得そうだ。
 また、これを聞いて思いついたのだが、「黄河」とか「黄海」というのは別に水が黄色く濁っているからではなくて「中央の川」「中央の海」という意味でつけたのではないだろうか?ただしこちらは私のいい加減な思いつきなので、専門家に教えを請いたいところだ。

 続いて「黒」だが、ロシアの反対側、東の端にある島が「サハリン」という名前。これは「サハリヤン」という言葉からきているが、その「サハリヤン」とは満州語で「黒」という意味である。ロシア語名称「サハリン島」は「サハリヤン川(黒龍江)の河口にある島」の省略形からその名がついたことがほぼ確実、中国語名称「黒龍江」はおそらく満洲語サハリヤン「黒」の翻訳語だろうと、こちらのほうはきちんと専門家の口から聞いたことがある。
 ヨーロッパにも「黒」のつく名前はある。南西ドイツに広がる森はSchwarzwald(シュバルツバルト、「黒い森」)。ウクライナの南の海は「黒海」。これはギリシャ人の命名でエウリピデスの悲劇にもΠόντος Μέλας(ポントス・メラース、「黒い海」)という言葉が見いだされるそうだ。Μέλαςには「陰気な」とか「気味の悪い」という意味もあるそうだから、シンボル云々とは関係なく、本当に黒い、というか暗かったからそう名づけたのだろう。シュバルツバルトも確かに針葉樹がうっそうとしていて暗い。
 だが、「モンテ・ネグロ」(「黒い山」、地元のセルビア語・クロアチア語ではCrna Gora(ツルナ・ゴーラ))はなぜ黒なのか。あそこの山々は石灰岩が多くて黒いよりも白といったほうがいいくらいではないか。多分これは1426から1516年までこの地を支配し、現在のモンテネグロの国の基礎を築いたCrnojević(ツルノヴィッチ)家の名前からきているのだと思う。この一族は『8.ツグミヶ原』の項で述べた中世セルビアの支配者ステファン・ドゥーシャンとも血がつながっていたそうだ。その後この国もセルビアと同じくトルコの支配下に入ったが、当時勢力のあったヴェネチア公国(それとも共和国でしたかここ?)の言葉でセルビア語のツルナ・ゴーラが直訳され、西欧ではそっちの「モンテネグロ」という名称が一般化したということだろう。トミッチという人が 1900年にCrnojevići i Crna Gora od 1479 do 1528(ツルノエヴィッチとツルナ・ゴーラ:1479年から1528年まで」)という論文を出しているそうだから、ひょっとしたら名称の由来にも言及されているかもしれない。4ページくらいの短い文章だからセルビア語のできる人は読んでみてはいかがだろうか。いずれにせよ、ここは実際に色が黒かったり陰気だったりしたから黒と名づけられたのではないと思う。「黒」、つまりSchwarzさんという苗字はドイツにもやたらと多い。


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 2013年にボストンマラソンに爆弾が仕掛けられたことがあった。犯人はツァルナエフという兄弟だったが、兄は射殺され弟は捕まった。
 この事件で真っ先に気になったのが「ジョハル」という弟の名前の出所だ。当時の新聞を見ると犯人はチェチェン人、とあり、キルギスタンやカザフスタン、ロシアなどを転々とした後、現在両親はダゲスタンにいる、ということだった。するとこの名前はチェチェン語なのか。チェチェン語はいわゆるコーカサス言語で『51.無視された大発見』で述べたような能格構造を持っている。私の見た新聞ではこの名前がローマ字でしか発表されていなかったので、こちらで勝手にロシア語綴りを想定してджохарとして検索したところ本当に説明が見つかった。

Джохар (араб. جوهر‎ чеч. ДжовхIар):мужское имя персидско-арабского происхождения, часто встречаемое в Чечне, изредка в Дагестане, Азербайджане и Иране.

「「ジョハル」(アラビア語جوهر、チェチェン語でДжовхIар「ジョフヒアル」):ペルシア語・アラビア語起源の男性の名前で、チェチェンに多く見られるが、ダゲスタン、アゼルバイジャン、イランにも時々ある。」
 
 さらにТ. А. Шумовский (T.A.シュモフスキー)という学者が次のように書いているそうだ。

«На бытовом уровне обращает на себя внимание персидское гавхар — „драгоценный камень“, которое, перейдя в арабское джавхар с тем же значением, создало помимо нарицательных на русской и английской почве собственные имена: индийское Джавахарлал, чеченское Джохар, армянское Гоар»

「ペルシャ語の単語гавхар「ガヴハル」がよく使われているのが注目される。これは「宝石」という意味で、アラビア語にも「ジャヴハル」として借用され同義に使われているが、普通名詞以外でもロシア語や英語圏で固有名詞のもとになった:ヒンディー語の名前「ジャヴァハルラル」、チェチェン語「ジョハル」、アルメニア語「ゴアル」など。」

この「英語圏」английской почвеというのは「印欧語圏」の間違いではないのか?また文脈から判断すると「ロシア」にはチェチェン語やダゲスタン語域などロシア語をリングア・フランカとして話す地域も勘定されているようだ。
 
 しかしそれより気になったのはその上の説明で「ペルシア語・アラビア語起源」とあって、ペルシャ語とアラビア語がハイフンでつながっていることだ。これらの言語は全然語族が違うからこの二つをくっつけるのは無理があるのではないか。この語はペルシャ語かアラビア語のどちらかが他方から借用したはずだ。シュモフスキーはペルシャ語が元、と言っているがそれはどうやってわかるのか?アラビア語と似た形の語形ならそこここの言語に見られる:

1.ルーマニア語の「宝石」giuvaierはオスマン時代のトルコ語cevher(「宝石・本質」)から借用されたもの。トルコ人のCevahirという名前(男女共)もこれと同源だそうだ(対応するアラビア語のJawahirとは女性の名前)。「宝石」はアラビア語でجَوْهَر ‎(jawhar)である。
 さらにトルコ語には「宝石・鉱石」という意味のmücevherという言葉がある。ここで接頭辞がmü とウムラウト化しているのは母音調和のためだろう。トルコ語mücevherの元のアラビア語の言葉مُجَوهَر (mujawhar) は本来「宝石で飾られた(もの)」という意味だそうだ。
 私が馬鹿の一つ覚えで聞いているアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』の項参照)K-T-Bにも次のようなmuのついている例があった:

kitāb(書物);kātib(著者); maktūb (手紙);mukātaba(文書)

これで一つ覚えが一気に「馬鹿の四つ覚え」になった。すごい進歩である。

2.インドネシア語jauharもアラビア語からの借用。
3.スワヒリ語johariも見ての通りアラビア語から。
4.ヨーロッパのイスラム教国の言語、アルバニア語では「宝もの」をxhevahirと言うが、xh は dž と発音するから、これも露骨にアラビア語からの借用である。
5.スペイン語にも一目でアラビア語起源とわかるalhaja(「宝石」)という単語があった。インドネシア語のAlkitab(「聖書」「コーラン」)と同じく定冠詞つきの借用だ。ただしこれは「ジャヴハル」および「ジョハル」とは別の حاجه (ḥāǧah) という語からきていて、本来「必要な物」とか「欲望」とかいう意味だとのことだ。

 このようにあまりにもあちこちの言語でアラビア語の「宝石」が借用されているのを見て(スペイン語は別単語ではあるが)こりゃペルシャ語の方がイスラム教といっしょにアラビア語から取り入れたのではないか、という疑いがわいてきた。アルメニア語はそのペルシャ語を通したのではないだろうか。
 で、手始めに両言語の音韻組織を調べて見た。

(1)ペルシャ語
persisch

(2)アラビア語 I
Arabisch-Deutsch

(3)アラビア語 II
Arabisch_Englisch


すると「手始め」のつもりがこれで結論が出てしまった。疑いはほぼ解消。こりゃペルシャ語→アラビア語という方向しかありえない。
 まずここでの注目点は g と dž との対応だ。ペルシャ語がアラビア語から取り入れた、と仮定するとどうしてdžの音(国際音声字母だと [ʤ] )がペルシャ語で g ([g])になるのか説明がつかない。反対にペルシャ語からアラビア語に流れた、と仮定すると簡単に説明できてしまうのだ。

 アラビア語は [g] と [ʤ] を音韻的に区別しない。どちらの音も /dž/(英語の j にあたる)という音素なのである。つまりこれらはアロフォン(異音、絶対「異音素」と混同しないように)である。上の(2)を見て欲しい。 /g/ という独立した音素がない。アラビア語の ج という字は標準アラビア語では[ʤ] と発音するが、地域によってはこれを [g] と発音するところもあるし、そもそも日本語での l と r と同じく、どっちで発音しても構わないのだ。(3)のʒ~d͡ʒ~ɟ~ɡj~ɡ という部分を見るとわかるように [g] から [ʤ] まで様々な音が同じ音素の異音となっている。アラビア語では無声子音の [k] は独立音素だが、有声の [g] は音素ではないのである。
 例を挙げる。下のج という形はこの字を単独で書いた場合の形で語頭での字形は下の一番右にあるように >の下に点がついているような字だが、同じ字をエジプト方言ではg、標準アラビア語では j、つまり dž と発音することがわかるだろう。

「宝石・宝物」
標準アラビア語: جوهرة (jáwhara)
エジプト方言: جوهرة (gawhara)

「キャメル」(جمل、「駱駝」)という英語の元になったアラビア語の「駱駝」の最初の文字(右端)もこれだが、標準アラビア語というか中近東では「ジャメル」である。「カメル」あるいは「ガメル」というのはエジプト方言の発音で、イギリス人はここからとりいれたのだろう。
 
 なので、ペルシア語の g をアラビア語では جで写し取り、その字の標準アラビア語発音で dž と読んだ、そのアラビア語発音がさらに他の言語、特にイスラム教の民族の言語に伝わった、と考えると非常にすっきり説明ができる。アルメニア語はアラビア語を通さず直接ペルシャ語から取り入れたか、そもそもペルシャ語もアルメニア語も印欧語だから元の古い形がどっちにも残っていた、つまり同源だったためか、g の音が残ったのだろう。
 ルーマニア語もこれをdž で取り入れているが(上記参照)、これはアラビア語からの直接借用でなく、アラビア語からこの語を借用したトルコ語をさらに仲介している。ペルシア語→アラビア語→トルコ語→ルーマニア語という経路だ。ひょっとしたらトルコ語との間にさらにブルガリア語が介入しているのではないかとも思うが、とにかく長旅お疲れ様でした。バルカン半島は長い間トルコに支配されていたからこれはわかる。

 さてアラビア語に対してペルシャ語では g と dž はアロフォンでなく異音素である。上の(1)を参照してほしい。/g/ と /dž/ は両方独立した音素として表にのっているだろう。なので、もし「ジョハル」が原型であればそれを「ゴハル」なんかにしないでそのまま「ジョハル」という形で借用できたはずなのだ。だからこの「ゴハル」⇔「ジョハル」は、ペルシア語→アラビア語という借用方向しかありえない。

 ここまで一生懸命調べてからちょっと他の資料を覗いてみたら、「この語は現代ペルシャ語でgohar、中世ペルシャ語ではgwhl またはgōhr(「本質・宝石」、アラビア語はこの中世ペルシャ語からの借用)、そして古期ペルシャ語では*gauθraまたは*gavaθraだった」、とあっさり説明してあるではないか。文献学上ではとっくに証明済みだったわけだ。この古代ペルシャ語はgav- という語幹から派生したもので、もともと「育つ」とか「増える」という意味だそうだ。
 それにしてもせっかく自分で一生懸命検索したり考察したりした私の今までの苦労は完全に無駄な努力・余計なお世話だったのである。ちぇっ。
 
 気を取り直してさらにみてみると、ルーマニア語以外のバルカン諸言語にも「アラビア語の宝石」は広がっているらしい。次のような例が挙げてあった。

ギリシア語: τζοβαΐρι ‎(tzovaḯri、「宝石・宝物」)
セルボ・クロアチア語: džèvēr/џѐве̄р, dževáhir/џева́хир (「高価な宝石」)

「セルボ・クロアチア語」などという古い名称が使われているが、ここに挙がっているdžèvēr(ジェヴェール)、dževáhir (ジェヴァーヒル」)というのは今で言うボスニア語ではないだろうか。私の持っている相当詳しいクロアチア語・ドイツ語辞典にはこの語が出ていなかったし、ここの資料にも「regional な語」とあった。ギリシア語も「セルボ・クロアチア語」もトルコ語のcevahir を借用したらしい。
 さらに面白いことに、現代ペルシャ語は、もともと自分たちのほう、つまり中世ペルシャ語からアラビア語に輸出した語を後になってアラビア語からjauhar (または jawhar)として逆輸入している。ここではアラビア語→ペルシャ語の方向だから当然頭音が j になっていて、まさに上で音韻考察した通りの図式である。なお、そうやって里帰りした際意味の場も変化してしまい、現代ペルシャ語のjauhar が本来の「宝石」の意味で使われるのは「まれ」あるいは「古語的用法」だそうだ。jauharは普通は「本質」「インク」「酸」という意味に使われるとのこと。この3つの意味が同じ単語でいっしょになっているのが不思議だが、これじゃあまり「故郷に錦を飾った」という感じがしない。

追記:ひょっとして英語のjewel やjewelry もコレかとカン違いする人が出てきそうなので念のために書くと、これらはそれぞれ古フランス語のjouel とjueleryeが起源で、さらに遡ると俗ラテン語の*jocale ‎(「品のあるもの」)。しかしもっと遡ると最終的にはラテン語のiocusまたはjocusに行き着くそうだ。なんとこれは見ての通り「ジョーク」とか「娯楽」という意味。ウッソー!


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 エマヌエル・ガイベルという後期ロマン派の詩人の作品にZigeunerleben(「ジプシーの生活」)という詩がある。シューマンの作曲で「流浪の民」として日本でも有名だが、第二連はこうなっている。

Das ist der Zigeuner bewegliche Schar,
Mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
Gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
Gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.

それは移動するジプシーの群れ
きらきら光る眼と波打つ髪
ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い
イスパニアの南国の灼熱に肌を焦がす
(原作の韻など全く無視した無粋な訳ですみません)


3行目「ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い」という部分が気になるが、これはいわゆるジプシー、つまりロマがエジプトから来たと当時広く信じられていたからである。言いだしっぺが誰であるかはわからない。彼ら自身がそう自称したとも言われている。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項でも書いたようにロマの起源はインドであるが、その存在が文献に現れるのは11世紀に当時のビザンチン帝国の記録が最初だ。当時ビザンチン帝国だけでなく、中東全般にわたって広く住んでいたらしい。彼らはキリスト教を受け入れていた(そうだ)。肌の色が浅黒く、その地では周りからコプト人と見なされていたのを巡礼目的や十字軍でパレスティナに来ていたヨーロッパ人が本国に伝えた、とも聞いた。
 これは単なる想像だが、私にはロマの方からコプト人だと自己申告したとはどうも考えにくいのである。浅黒い膚のキリスト教徒を見てヨーロッパ人が勝手にコプトだと思いこみ、ロマが特にそれに異を唱えないでいるうちにそういう説が定着してしまったのではないだろうか。そもそもロマ自身は自分たちがエジプト出身扱いされているのを知っていたのだろうか。 ヨーロッパ人側がロマをエジプトから来た人々と「思いたかった」、出エジプト記を今度はキリスト教徒を主役にして再現したかった、つまりある種の宗教ロマン物語を信じたかったのでないだろうか。そしてそういう図式が当時のキリスト教社会にアピールして定着したのでは。例えば上のガイベルの詩にもこんな部分がある。

Und magische Sprüche für Not und Gefahr
Verkündet die Alte der horchenden Schar.

そして苦境や危機に陥れば
老婆が魔法の言葉を告げる
(モーゼかこの老婆は?)


Und die aus der sonnigen Heimat verbannt,
Sie schauen im Traum das gesegnete Land.

そして陽光に満ちた故郷を追われ
祝福の地を夢に見る
(das gesegnete Landあるいはgesegnetes Land(祝福された土地)というのも聖書からの概念)


 こうやって都合のいい時だけは(?)ロマンチックな描写をするが、何か起こると、いや起こらなくてもロマは一般社会で差別抑圧されていたのである。「虐待」といってもいい。ひょっとしたら文学者はロマが普段虐待されているそのために、せめて言葉の上では美しくロマンチックに描いてやって、言い換えるとリップサービスでもしてやって読者の、いや自身の目をも現実から背けようとしたのかもしれない。
 この詩が出版されたのは1834年で、比較言語学者のポットがロマの言語とインド・イラニアン語派との類似に気づいたのは1844年、ミクロシッチが詳細な研究を行なったのが1872年から1880年にかけてだから、ガイベルはまだこの時点ではロマがインド起源ということを知らなかったのだろう。しかし一方ガイベルは1884年まで生きており、古典文献学で博士号までとっているのだからミクロシッチの論文を読んでいたかもしれない。もっとも文学と言語学というのが既に仲が悪いことに加えて、ガイベルの当時いたプロイセンとミクロシッチのいたオーストリア・ハンガリー帝国は敵同士だったから、その可能性は薄いと思うが。

 ロマはビザンチン帝国内に結構長い間住んでいたらしく、その語彙には当時のギリシア語からの借用語が目立つそうだ。例えば:
tabelle1-72
 語彙ばかりでなく、派生語を作る際の形態素などもギリシャ語から輸入している。抽象名詞をつくるための-mos (複数形は-mota)がそれ。
 ギリシア語に触れる以前、つまり現在の北インドからコーカサスの言語からの借用は、はっきりどの言語からと断定するのが難しい。借用から時間が経って借用元の言語でもロマニ語内でも語の形が変化を起こしてしまっている上、そもそもあそこら辺の言語はロマニ語と同じく印欧語だから、当該単語が借用語なのか双方の言語で独立に印欧祖語から発展してきたのか見分けがつけにくいらしい。
 それでも当地の非印欧語、グルジア語やブルシャスキー語からの借用を指摘する人もいる。ブルシャスキー語というのはパキスタンの北で細々と話されている言語である。能格言語だ。それにしてもグルジア語にしろその他のコーカサスの言語にしろ、あのあたりの言語がそろって能格言語なのはなぜだ?以前にも書いたように、シュメール語と無関係とは思えないのだが。
 そのブルシャスキー語からロマニ語への借用をヘルマン・ベルガー(Hermann Berger)という学者が1959年に発表した『ジプシー言語におけるブルシャスキー語からの借用語について』(Die Burušaski-Lehnwörter in der Zigeunersprache)という論文で指摘し、13ほど例を挙げ、嫌というほど詳細な検討を加えている。ベルガーの説には批判や疑問点も多いらしいが、面白いので一部紹介しておきたい。著者はこの論文の中でブルシャスキー語とバスク語との親類関係についても肯定的に発言している。
Tabelle2-72
 ビザンチンがオスマントルコに滅ぼされると、ロマはヨーロッパ内部へ移動し始めた。現在ヨーロッパ大陸にいるロマは方言の差が激しく、すでに意思の疎通が困難な場合が多いそうだが、これはロマニ語内部での変化に加えて(それだけだったらたかが600年ぽっちの間に意思疎通が困難になるほど変遷するとは思えない)、あちこちでいろいろな言語と接触して外部から変化させられたためだろう。面白い例が一つある。セルビアで話されているErliというロマニ語方言(というべきか言語というべきか)では未来形をまさにバルカン言語連合の図式どおりに作るのである。Erliでは動詞の接続法に不変化詞kaをつけて表すが、このkaは「欲しい」という動詞kamelが後退したもの。

Ka   dikhav
未来. + see(一人称単数形・接続法)
私は見るだろう

『40.バルカン言語連合再び』の項で挙げたアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語と比べてみてほしい。構造が完全に平行しているのがわかる。

アルバニア語
doshkruaj
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
        
ルーマニア語
oscriu
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
 

ブルガリア語
šte piša
未来 +「書く」一人称単数現在

現代ギリシア語
θα γράψω
未来 +「書く」一人称単数接続法

ところが同じロマニ語でもブルゲンラント・ロマニ語というオーストリア、ハンガリーで話されている方言だと未来形を純粋な語形変化で表す。

phirav (「行く」一人称単数現在) + a
→ phira「私は行くだろう」
phires (「行く」二人称単数現在) + a
→ phireha「君は行くだろう」
など

 上で述べたようにロマの一部がバルカン半島を去ったのはそれほど古い話ではない。それなのにブルゲンラントのロマニ語がバルカン言語連合現象の影響を受けていない、ということはバルカン言語連合という現象自体が比較意的新しい時代に起こったか、現象そのものは昔からあったがロマが周りとあまり接触しなかったとかの理由で影響を被るのが他の言語より遅かったかのどちらかである。語彙面での借用状況を考えると「周りとの接触が乏しかった」とは考えにくいので最初の解釈が合っているような気がするが、なにぶん私は素人だから断言はできない。

 またロマニ語は借用語と本来の言葉との差を明確に意識しているらしく、外来語と土着の単語とでは変化のパラダイムが違う。下は旧ユーゴスラビアのヴラフ・ロマの例だが、kam-(「欲しい」)という動詞はロマニ語本来の、čit-(「読む」)はセルビア語からの借用。ロシア語でも「読む」はчитать(čitat’)である。
Tabelle3-72
つまり土着の単語で母音aやeが現れる部分が外来語ではoになっているのである。これは名詞の変化パラダイムでもそうで、ロマニ語本来の語raklo(「男の子」)と上でも述べたギリシア語からの借用語foroの語形変化ぶりを比べるとわかる。単数形のみ示す。
Tabelle4-72
ここでもeとoがきれいに対応している。なお、私の参照した資料にはなぜか対格形が示されていなかったが、『65.主格と対格は特別扱い』で見たように対格は膠着語的な接尾マーカーなしの第一層一般斜格を使うから「男の子を」はrakl-esになるはずである。それに対して「町を」は一般斜格のfor-osではなく主格と同形のforoになるはずだ。ロマニ語はロシア語と同じく(というよりロシア語がロマニ語と同じく)生物・非生物の差を格変化形で表すからである。
 そういえば日本語は外来語とヤマト言葉を片仮名と平仮名(と漢字)で書き分けるがロマニ語はこの区別をパラダイムでやるわけか。


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 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 フランシス・フォード・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』3部作を通じて最も印象に残っているシーンは『パートⅠ』で、シチリアに高飛びしたアル・パチーノ演じるマイケル(ミケーレ)が現地で結婚した女性(シモネッタ・ステファネッリ)を形容して「イタリア人というよりギリシア人の容貌」と言う場面である。少なくともドイツ語版ではそういうセリフだった。日本語ではどうなっていたか忘れたが。

 シチリア全島、カラブリア、南アプーリアはローマ時代以前にギリシア人が大規模な植民地を作っていた地域で、そこここにギリシャの遺跡があり、地名などにもギリシャ語起源のものが目立つ。現にシチリアというのは本来ギリシア語のΣικελίαから来たものだし、上のミケーレのシチリア妻の名前もアポロニアという一目瞭然のギリシャ語だ。そもそも「ギリシャ」という名称自体がギリシャ本土で使われていた名前ではなく(それならばギリシャはヘラースである)、ローマ共和国あるいはローマ帝国内のギリシャ人が自分たちをグレコと呼んでいたのをラテン語に取り入れたものだ。これらの旧植民地の地域を総称して俗にMagna Graeciaというが、ここには遺跡や固有名詞がギリシャ時代の残滓として残っているばかりではない、いまだにギリシャ語を話す地域が散在している。

当時のMagna Graecia(マグナ・グラエキア)。赤い点がギリシャ人都市である。ウィキペディアから
MagnaGraecia

現在はカラブリアの先端とアプーリア(オトランド地方)の南、つまりイタリア半島のつま先と踵の部分でギリシャ語が話されている。
(これもウィキペディアから)

GrikoSpeakingCommunitiesTodayV4

 ここで話されているギリシャ語はもちろん本国の現代ギリシャ語とは大分違い、「グリコ語」(GrikoまたはGrico)という独自の名称が与えられている、イタリアは1992年のヨーロッパ地方言語・少数言語憲章に署名だけはしているから(批准はまだである。下記参照)、少数言語への関心も喚起されているらしく、アプーリアのグレチア・サレンティーサなどの村には本国との交流も行なわれてギリシャ語復興運動が行なわれているそうだ。
 しかし少数言語のご多分に漏れず話者人口は減り続けていて、グリコ語ネイティブは現在およそ2万人でほぼ全員が50歳以上、L2の話者を含めてもせいぜい4万人から5万人に過ぎないという。
 映画が製作された1970年代はEU自体が存在しておらず、少数言語の保護なども今ほど盛んではなかったはずだから、話者は急カーブで減少していっていたに違いない。話者の数が持ち直していくか、これからの保護運動に注目して行きたいところだ。

 そういえばしばらく前にうちでとっている「南ドイツ新聞」にレッジョ・ディ・カラブリアの周辺、つまりズバリ上述の地域のルポルタージュ記事が載っていた。レッジョはイタリア半島がシチリア島とほぼ接しているところである。しかも記事の内容はその地のマフィアについてだった。ここで勢力のあるいわゆる「ファミリー」は'Ndranghetaという。ドイツにまで進出していて時々銃撃戦をやったりし、しばしばこちらでも新聞にのるので覚えたくもないのに私までその名前を覚えてしまった有力なマフィアのファミリーである。その名称'Ndranghetaはギリシャ語のἀνδραγαθἰα(andrangathia、「勇敢」)から来ているという説がある。余計なお世話だが、古典ギリシア語にはἀνδρεία(「勇気」)、ἀνδρειος(「勇敢な」)、ἀνδρειος(「勇敢に」)という単語がある。同語幹であろう。
 またその記事ではマフィアのメンバーだった者とか家族がマフィアのメンバーに引っ張られてしまった人などがインタビューを受けていたが、「自分たちはギリシャ人の子孫である」という結構はっきりしたアイデンティティを持っていたりする。そんなこともあるから『ゴッドファーザー』のアポロニアのシーンは極めて意味深長だ。ジェームス・カーンが蜂の巣になったり眼鏡をかけたおっちゃんが片目に弾丸食らったりするシーンなんかより、このアポロニアを描写する場面のほうがよっぽど考察・分析するに値すると私は思っている。さらにゲスの勘繰りをすれば、イタリア政府が上述のヨーロッパ憲章に署名はしたがまだ批准はしていないのは、グリコ語を公認の少数言語にしてしまうとその言語話者や地域を保護しなければいけない義務が生じ、下手をするとマフィアまで保護してしまうことになりかねない、と躊躇しているのかもしれない。

 さて、この「南イタリアではギリシャ語が話されている」ということ自体は結構皆知っているのだが、面白いのはこのグリコ語の起源である。

 20世紀の始めまでは「グリコ語話者はローマ帝国が解体した後、9世紀から10世紀にかけてバシレイオス一世、レオ6世の時代にビザンチンからローマに移住してきたギリシア人の子孫」いうのが定説だった。つまり、ローマ国内のギリシア語話者は一旦完全にローマ・ラテン語の同化されて消滅し、中世になってから再び新しいギリシャ語の波が押し寄せた、ということである。これを唱えたのがG. モローシ(Giuseppe Morosi)で、1870年のStudi sui dialetti greci della Terra d'Otrando(「オトランド地方のギリシャ語方言研究」)という論文でそう主張している。1920年代になってドイツの言語学者G.Rohlfs(ゲルハルト・ロールフス)がこれを覆し、グリコ語はビザンチンのギリシャ語などではなく、ローマ時代、あるいはそれ以前からイタリアで連綿と話され続けてきた古代ギリシャ語の残滓である、と主張した。少なくとも紀元前8世紀、下手をすると紀元前1500年ごろから続いているギリシャ語だ、というわけだ。この説は1924年のGriechen und Romanen in Unteritalien. Ein Beitrag zur Geschichte der unteritalienischen Gräzität(「下イタリアにおけるギリシア語とロマンス語話者:下イタリアのギリシア文化の歴史についての一考察」)という論文で初めて発表されたが、ロールフスはその後の論文でも新しいデータを示したりして同説を主張しその根拠を述べている。

1.
まず、グリコ語地域周辺ばかりでなく、南イタリアのイタリア語全体にわたってギリシャ語からの影響が著しい。地名にもラテン語系のものはむしろ少数派であるのに加え、シチリアのイタリア語を見ても当地のイタリア語はむしろ新しい層であることがわかる。これらのデータから推して、起源1000年ごろまではカラブリアの南半分はほぼ完全にギリシャ語地域、南アプーリアにもギリシャ語話者が強力なマイノリティグループを形成しており、シチリア北東部は11世紀に入ってもギリシア語地域であったことは確実。ビザンチン以降の入植者と共にギリシャ語が入ってきたのなら言語地域はもっと限られ互いに孤立した言語島を形成するはずである。

2.
しかも、現在のギリシャ語・グリコ語地域は一方ではオトランド(南アプーリア)、一方は南カラブリアと遠く離れているのに共通性が著しい。元々広汎な地域で話され、ある程度の統一を保っていたギリシャ語が次第にラテン語・イタリア語に押されて後退したとしか考えられない。最初から言語島であれば二地域のギリシャ語はもっと明確に独自の発展を見せるはずである。

3.
6世紀から8世紀にかけてサルディニアに、540年から752年までラヴェンナに、871年から1071年にかけてバーリにビザンチンの植民地があったが、そこのイタリア語にはギリシャ語からの影響はほとんどみられない。グリコ語がビザンチンのギリシャ語だとすると当地のイタリア語がグリコ・ギリシャ語からあそこまで激しい影響を受けたことと話がかみ合わない。

ロールフスはさらにグリコ語内部の構造を詳細に調べ、そこには本国のギリシャ語がビザンチン時代にはすでに失ってしまっていた古い言語要素がグリコ語には保持されていることを突き止めた。もしグリコ語がビザンチンのギリシャ語から来たのなら見つかるはずのない要素である。グリコ語は三層構造をなしていて、1.古典ギリシャ語要素(ドーリア方言起源の要素)、2.やや新しいいわゆるコイネーΚοινή(このベースになったのはいわゆるアッティカ方言)期の要素、3.ビザンチン以降の最新要素からなる多層構造になっているそうだ。

 もっとも「最新の」ビザンチン・ギリシャ語にしても紀元前2500年前まで遡れるギリシャ語にとっては最近というだけで、日本語ごときから見たら9世紀の言語など立派に古語であろう。やや新しいアッティカ・コイネーにしても紀元前4世紀ごろから始まっている。日本などまだ弥生以前で、縄文人が棍棒を持って熊を追い回したり木の実を集めていたころである。その間にギリシア語もいろいろ言語変化を起こしているのは当然で、本国で発生した新形式がグリコ語はじめ周辺の方言には波及していないことなどもあって本国ギリシア語とグリコ語との間には様々な乖離がみられるわけだ。
 その中でも面白いのはグリコ語は動詞の不定法をまだ持っているということだ。現代ギリシア語は動詞の不定形が完全に退化していて、例えば

I want to watch TV

ということが出来ず、

I want that I watch TV

という言い方をする。つまり語学で言う「法」moodを表すのに常に定形動詞(直接法の場合と接続法の場合がある)を使うわけである。動詞不定形が衰退しだしたのは紀元1~2世紀、つまり新約聖書のころかららしい。だからコイネー期のギリシャ語ではまだ不定形が完全に消滅していなかった。その、不定形が衰退する萌芽が現れたころの形をグリコ語は保持しているそうである。本国ではその後不定形が完全に消滅してしまった。
 例えばボーヴァのグリコ語で「君たちは来たがっている」(ihr wollt kommen)は

θelite na ertite
you want + that + you come

とthat構文になるが(つまり動詞は定形)、本動詞(助動詞)が「できる」、「知っている、できる」、「聞こえる」、「させる」だと動詞の不定形を使う。なので、「君たちは来られる」は

sonnite erti
you can + to come

となる。以前に何度も書いたように(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)この現象は「バルカン言語連合現象」の一つであり、ルーマニア語、アルバニア語、ブルガリア語、セルビア語トルラク方言でも同じ現象に見舞われている。さらに面白いことにグリコ語内でも「揺れ」があって、助動詞がwantであってもまれにthat説でなく動詞不定形が現れることがあるそうだ。それで「彼は留まりたくない」は

e θθeli na mini (he doesn't want that he stays)
e θθeli mini       (he doesn't want to stay)

と両方の形が可能。動詞「留まる」がどちらもminiで一見同形のようだが、これら不規則動詞で、直説法(それとも接続法なのかこれは?まあとにかく定形だ)の3人称単数形と不定形が同じ形をしているらしく、パラダイム上では別の形である。
 この「定形・不定形どっちでも可」というのはバルカン言語現象の波を中途半端に被ったセルビア語と同じではないか。これは面白いとゾクゾクして続きを見たら、グリコ語は周りのイタリア語に影響を与え、同地のイタリア語方言では「君たちは来たがっている」をグリコ語の構文そのまんまのthat節構文を使って

voliti mu veniti
you want + that + you come

と表現するらしい。しかもスリル満点なことにこのmuというのは、ラテン語のquidの変化した形だそうだ。明らかにラテン語kwの両唇性が受け継がれた音韻変化で、ケルト語のpと同類(『39.専門家に脱帽』の項参照)。ただケルト語と違ってこのイタリア語方言では鼻音化までされてしまったらしい。

 この動詞の不定詞云々という指摘は非常に面白いところで、当時生まれたばかりのバルカン言語学の結果をロールフスはすでに考慮していることがわかる。事実1947年のGriechischer Sprachgeist in Süditalien(「南イタリアにおけるギリシャの言語精神」)という論文の冒頭でロールフスはデンマークのロマンス語・言語学者のKristian Sandfeld(1873-1942年)を追悼し、論文の中でもその研究成果に言及している。このSandfeldは私なんかは勝手にドイツ語読みでザントフェルトといっているが、デンマーク語で本来どう発音するのか実はいまだに知らない。とにかくこの人はバルカン言語学の創設者の一人で、「バルカン言語学」という名称をこの研究分野に与えて言語学の一分野として確立させたのはザントフェルトである。最初1926年にデンマーク語で、Balkanfilologien. En oversigt over dens resultater og problemer(「バルカン学:その成果と結果の概観」)という論文を発表し、3年後の1930年に同じ内容をLinguistique balkanique. Problèmes et résultats(「バルカン言語学;成果と問題点」)として世に出した。まあ歴史に残る言語学者である。

 それにしても『ゴッドファーザー』を見てザントフェルトに会えるとは思っていなかった。いやー、映画って本当にいいもんですね。



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 小学校の頃、ある種のお面(般若のお面だったと思う)が怖くて怖くて目にするたびにパニック状態になってしまう少女が主人公になっている物語というか短編を読んだことがある。その少女をあるときそのボーイフレンドが軽い気持ちでからかって、いきなり「ばあ」という風に般若のお面をつけて彼女の前に現れた。少女はパニックのあまりボーイフレンドを殴り、叫び声をあげながら自分の家に走って逃げて部屋に駆け込み鍵をかけ、何時間も出てこなかったというストーリー展開だったと記憶している。私は子供心にもこのボーイフレンドとやらの無神経ぶりに義憤を感じざるを得なかった。
 この少女のように本当の恐怖症でなくとも怖くて怖くて仕方がないというものがある人は多いが、その恐怖の対象を軽々しく人にバラしたりしない。悪用されたりしたらエライことになるからだ。いつだったかこちらのTVの軽い番組で、邪魔だと思っている人が蛇に対して病的な恐怖症を抱いている事を偶然知ったライバルが、その人が泳いでいるプールに蛇を投げ込んでパニック状態にさせ溺れ死を狙うというストーリーがあった。
 そういう、下手をすると命に関わる弱みを打ち明けるというのはその人を信頼しているからこそである。それあるにその信頼を逆手にとってわざわざからかいのネタにするとは何事か。どうしてこの少女はそんなゲスなボーイフレンドと付き合っているのか、と私は憤慨したのである。
 
 確かにこのボーイフレンドのように恐怖症あるいは不安障害に悩んでいる者を実際に知っているのにそれを真剣に受け止めず、ましてやその弱みをつつくというのはゲスであろうが、個人的に不安障害のある知り合いがいない場合今ひとつ真面目に取れないというのは結構あるのではないだろうか。
 例えば私は最近 Anatidaephobia という言葉を知った。ドイツ語では Anatidenphobie、「アヒル恐怖症」あるいは「ガン・カモ恐怖症」である。アヒルやガチョウそのものに対する病的な恐怖でなく、アヒルやガチョウ、あるいはカモやガンに見られている、観察されているのではないかという恐怖、つまり間接的・潜在的な恐怖だそうだ。「アヒル恐怖症」というより「アヒルの視線恐怖症」と言った方がよさそうだ。発作が起こると周りのどこかにアヒルがいるのではないかと、気になって気になって何度も振り返ざるを得ず、心臓は早打ちしだし冷や汗は出て、日常生活に支障さえきたすそうだが、これを聞いた時私は「なんでそこで急にアヒルが出てくるのよ。そんなものがあるわけないでしょ」と大笑いしてしまった。今でもどうも本当の話とは思えない。いろいろな恐怖症リストなどを見てもこのアヒル恐怖症は乗っていないし、第一この言葉を最初に使ったのは心理学者ではなくGary Larson という漫画家で、The far side という作品の中に出て来るそうだ。ちょっとネットを見ても「本当に患者がいるのかよ?!」「いるわけないだろ」というやりとりが目立つ。そのうちフェイスブック内で anatidaephobia sufferers society というコミュを見つけたがそのトップ画像といい、書き込み内容といい、どうも本当に苦しんでいるようには思えない。「本当にこんな不安障害者がいるのか?」という疑問を拭いきれないのだが、もし真剣に苦しんでいる患者さんがいたらまことに申し訳ない。考えを改めるから連絡してきてほしい。

 さて、この anatiden あるいは anatidae というのは「カモの類」という意味の学術用語で、1811年にイギリスの昆虫学者 William Kirby の造語とのことである。学術用語だから(?)当然ラテン語だが、前半の anat-はラテン語の「カモ」でいいとして、後半の接尾辞 -idae は本来ギリシャ語の -ίδης (-ídēs) をラテン語風にしたものだ。「○の類」とか「○の一族」である。なお、ラテン語で「カモ」の単数主格は anas といって s で終わっているがそれ以外の格ではここが t になり、例えば単数属格はanatis、単数対格 anatem、複数では主格対格が同形で anatēs だから、「カモの類」もここから類推して anatidae と t 形を使っている。
 そのラテン語の anas は印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から派生したものだが、面白いことにこのアヒルあるいはカモという言葉は現在のロマンス語派でバラバラである。
 まず、イタリア語のアヒルは anatra と一目瞭然ラテン語の直系だが、フランス語では canard、スペイン語とポルトガル語では patoである。前者は cane という語幹に 性別を表すard という接尾辞がついたもので、語幹 cane は中世低地ドイツ語からの借用、「舟・ボート」という意味だそうだ。現在のドイツ語の Kahn(小船・はしけ)である。これは印欧祖語の *gan- あるいは *gand-(「舟」、「うつわ」あるいは「管状のもの」)に遡れるそうだ。スペイン語・ポルトガル語の pato はペルシャ語の bat がアラビア語を経由して借用されたもの。『20.カッコいいぞ、バンデラス!』にも書いたがスペイン語にはアラビア語起源の言葉がやたらと多い。
 しかしスペイン語、ポルトガル語には pato と平行してそれぞれ ánade、adem というアヒルを表す言葉が存在する。ラテン語からの派生である。面白いのはポルトガル語の adem で、明らかに単数対格形(上述)から来たもの。以前『17.言語の股裂き』で現在の西ロマンス諸語で複数主格形を作るのに付加される s は、一般に言われるように対格から来たのではなく古い形が残ったためではないか、と書いたがこれを見ると「おや、やっぱりあれらは対格起源なのかな」とも思う。専門家のご指摘を請いたい。

 もう一つの有力なロマンス語、ルーマニア語ではアヒルは rață である。似た形はバルカン半島に広まっていて、アルバニア語の rosë、クロアチア語の raca、ハンガリー語の réce、ロマニ語の ráca など、何か共通のサブストレータムをなしているのではないかということだが、この語の起源自体については正直に uncertain とあった。しかもこれにはちょっと注釈が必要で、例えばクロアチア語ではアヒルは普通 patka である。raca を使う地域は限定されているそうだ。さらにクロアチア語にはスラブ語本来、というより印欧語本来の utva(下記参照)という言葉もあり、カモの一種である「コガモ」を指す。ところがハンガリー語では逆に réce の方が「コガモ」で、アヒル・カモ一般は kasca だ。クロアチア語の正規の(?)アヒル、patkaはスラブ祖語では *pъtъka でロシア語の「鳥」птица と同源だそうだ。クロアチア語でも鳥は ptica。もちろん始祖鳥の学名アルケオプテルクス(この学名はラテン語でなくギリシャ語)のプテルクスと同語源である。
 さらにアルバニア語の rosë だが、このトスク方言(『39.専門家に脱帽』『100.アドリア海の向こう側』参照)の単語の古形を *roça と再現していた説明を見かけた、それによればこの語はアルバニア祖語では *(a)nātjā、そこからさらにラテン語同様印欧祖語の *h₂énh₂ts に遡れるということだ。トスク語がロータシズムを起こしてアルバニア祖語と n  対 r で対応しているあたり確かに理屈通りなのだが、そうすると他のルーマニア語だろなんだろもアヒルをこのアルバニア語、しかも新しいトスク方言から借用したことになる。なぜなら上記バルカン半島の他の印欧語のアヒルは *h₂énh₂ts とは直接結びつかないからだ。クロアチア語では音韻的に起源の証明された utva とダブっているし、そもそも言語間で形が似すぎているから、祖形からそれぞれ発展してきたものではありえない。さらに非印欧語のハンガリー語まで似た形が広まっているとあれば、借用語としか考えられないのである。
 しかし、アルバニア語というのはバルカン半島でそこまで勢力や影響力を持っていたことがない。むしろ他の言語からアルバニア語への借用のほうが圧倒的に多い。それともこの語はアルバニア祖語というかイリュリア語の時期にバルカン半島中に広まったのか。でもそうすると他の言語でロータシズムは起こしていないはずである。ということで rosë を *(a)nātjā に帰するのはちょっと無理があるような気がするのだが…
 現代ギリシア語のアヒルはさらに違っていてπάπια。オノマトペだそうだ。ロマニ語に上記の ráca のほかにアヒルを表す papin という単語があるが、これはギリシャ語からの借用であることが明白である。

 ゲルマン諸語ではロマンス諸語やバルカンの言語ほどアヒルがバラバラではなく(鳥肉業者かよ)、ドイツ語の Ente、オランダ語の eend、スウェーデン語の and などは皆ラテン語 anas と同起源で印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から。ゲルマン祖語では *anuðz または *anaþ となる。つまり英語だけが変な単語になっているわけだが、この duck は動詞の duck と同じ語源。つまり「潜る」と「ひょいと下げる」という意味から来たそうだ。ドイツ語にも ducken(「ひょいとかがめる」)という動詞があるし、「もぐる」の tauchen ともつながっているらしい。古期英語ではまだ他のゲルマン諸語といっしょでアヒルを *h₂énh₂ts 系の単語 ened で表していたが中期に語が入れ替わった。ついでに古高ドイツ語では ant、中高ドイツ語では anut だった。さらについでに言えばレオーネのマカロニウエスタン『夕陽のギャングたち』の英語タイトルは duck, you suckerだが、この duck はもちろんドナルドダックのダックではなく、動詞のほう、つまり「頭をかがめろ」である。原題は Giù la testa。
 ロシア語のアヒル утка も *h₂énh₂ts で、スラブ語祖語の *ǫty。スラブ祖語や古教会スラブ語の鼻母音 ǫ (ѫ)がロシア語の у (u) と対応することは前にも述べたが(『38.トム・プライスの死』『39.専門家に脱帽』)、ここでもきれいな対応になっている。

 アヒルから観察されるのは恐怖を感ずる人がいるかも知れないが、こうやってこちらの方からアヒルという語を観察していくのは面白く、それによってアヒルの視線への恐怖にも打ち勝てるのではないだろうか。攻撃は最大の防御である。


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