『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも述べたように私はアイザック・アシモフの自伝がとても面白いと思っている。例えば氏の家庭内言語についての述べられている箇所。氏のご両親はロシアの出身だったが、母語はイディッシュ語だったそうだ。ロシア語も出来たはずだとアシモフ氏は言っているが、自分では両親がロシア語を話すのを一度も見た、というか聞いたことがないと書いている。
アシモフ氏自身は3歳の時にアメリカに渡り、言語は英語とイディッシュ語のバイリンガルだが、優勢言語は英語だった。面白いのはここからで、氏の妹さんはイディッシュ語はわずかに理解することは出来るが話せなかった、9歳下の弟さんに至っては完全に英語のモノリンガルでイディッシュ語を理解することさえ出来ないそうだ。つまり家庭内レベルでイディッシュ語から英語への言語変換が起こっているわけだ。
移民の家庭などはこのパターンが多く、子供たちはたいてい現地の言語が優勢言語なのでそれがあまりできない両親に通訳や文法チェックプログラムや辞書代わりにコキ使われたりしている。もっとも「WORDの文法チェック代わり・グーグル翻訳代わりに子供をコキ使う」というのは親のほうもある程度現地の言語を習得していないとできない。元の文章がなければチェックして貰うもなにもないからだ。実際何年もその国に住んでいるのにほとんどその言語が話せないという人は決して珍しくない。こうなると子供は通訳というより「手足」あるいは「眼と耳」であり、子供同伴でないと医者にもいけないし、近所の人と立ち話もできないし、それよりTVで映画を見ることができないだろう。本国映画だって現地の言語に吹きかえられているのだから。それともDVDでしか映画を見ないのか?不便だろうなとは思う。
言語学者のグロータース氏も家庭内言語事情が複雑だったらしい。氏はベルギー出身で家族の全員がフランス語(ワロン語)とオランダ語(フラマン語)のバイリンガルだったそうだが、優勢言語が一人一人微妙に違い、オランダ語優勢のお姉さんにうっかりフランス語でしゃべりかけたりするとムッとされる、また、フランス語が優勢の妹さんでも配偶者がオランダ語話者の人に優勢言語のフランス語で話しかけたりすると、自分の夫がないがしろにされたような気を起こされてやっぱりムッとされる。言語選択には非常に気を使ったそうだ。こういう日常生活を生まれた時から送っていれば、言語というものに敏感にもなるだろう。家庭内どころか、学校でも役所でも一言語だけで用が足りる日本人にはとても太刀打ち出来るような相手ではない。
このグロータース氏は1980年代だったと思うが、一度専門雑誌の「月刊言語」にインタヴュー記事が載っていたのを覚えている。日本語で聞かれ、日本語での受け答えだったが、氏の発言が全部片仮名で書かれていた。私はなぜ月刊言語ともあろうものがこんなことをするのかわからなかった。普通に平仮名で氏の発言を書けばいいではないか。それとも外国人の話す日本語と日本人の話す日本語を区別したかったのか、氏の発言が日本語であったことを強調するつもりであったのか、いずれにせよベッタリ片仮名で書かれた記事はとても読みにくかった。
私の知っている教授も、母語はクロアチア語だったがあるとき研究室で話をしていた際、ちょうど娘さんから電話がかかって来たことがある。「電話」である。当時はケータイなどというものはまだなかった。するといままで私とドイツ語でロシア語の話をしていた先生は受話器をとるとやにわにオランダ語で対応を始めたのである。ドイツに来る前はオランダで長く教鞭をとっていたため、お子さんの母語はオランダ語なんだそうだ。溜息が出た。
もちろんヨーロッパにだってモノリンガルの立派な語学音痴はたくさんいるから「ヨーロッパ人は語学が得意」と一般化することなどできないが、バイリンガルが日本より格段に多いのは事実だ。移民の子供たちも両親の母語がまったくできなくなってしまうのはさすがにまれで、たいていバイリンガルになる。その際優勢言語が個々人で微妙に違っているのは当然だが、本国の言語そのものも両親のと微妙に違ってきてしまうことがある。現地の言語の影響を受けるからだ。私がリアルタイムで見聞きしたそういう例の一つがクロアチア語の「どうしてる、元気かい?」という挨拶だ。本国クロアチア語ではこれを
Kako si? あるいは
Kako ste?
という。kakoは英語やドイツ語のそれぞれhowとwie、siはコピュラの2人称単数、steは本来2人称複数だが、ドイツ語やフランス語のように敬称である。ロシア語と同じくクロアチア語もコピュラや動詞がしっかりと人称変化するので人称代名詞は省いていい、というより人称代名詞をいちいち入れるとウザくなってむしろ不自然になる。だからこのセンテンスは英語のHow are you?と完全に平行しているのである。
ところが、ドイツ生まれのクロアチア人にはその「元気かい?」を
Kako ti ide?
という人が非常に多い。これは明らかにドイツ語の「元気かい?」
Wie geht es dir?
how + goes + it + to you/for you
を直訳したもので、tiは人称代名詞tiの与格tebi(ドイツ語のdir、英語の to you)の短縮形(短縮形になると主格と同じ形になるから注意が必要)、 ideは「行く」という意味の動詞 ićiの現在形3人称単数である。ここでもシンタクス上の主語it(ドイツ語のes)は現れないが、構造的に完全にドイツ語と一致しているのである。この表現には両親の世代、いや年が若くても本国クロアチア語しか知らない人、いやそもそもバイリンガルの中にも違和感を持つ人がいる。私のクロアチア語の先生も「最近はね、Kako ti ide?とかいう変なクロアチア語をしゃべる人が多くて嫌になりますが、皆さんはきちんとKako si?と言ってくださいね」とボヤいていた。
日本語の「会議が持たれます」の類の言い回しにも違和感を持つ人が大分いる。これは英語からの影響だろう。
バイリンガルといえば、モノリンガルより語学が得意な人が多いというのが私の印象だが(きちんと統計を取ったり調査したりはしてはいない単なる「印象」である。念のため)、これは何故なのか時々考える。以前どこかで誰かが「あなたは記憶力がいいから語学をやれといつも薦めている」という趣旨のアドバイスをしているのを見て「こりゃダメだ」と思った。語学で一番大切なのは記憶力ではない、「母語を一旦忘れる能力、母語から自由になれる能力」である。いったん覚えたことがいつまでも頭から離れない人はずっと日本語に捕らわれて自由になれないから、生涯子音のあとに余計な母音を入れ続け、日本語をそのまま意味不明の英語にし続けるだろう。そういう人はむしろ語学に向いていないのである。母語を通さずに当該外国語の構造をそれ自体として受け入れるという発想ができにくいからだ。
もちろんバイリンガルも母語にしがみつく人が大半という点では語学音痴のモノリンガルと同じである。が、バイリンガルには母語が二つあり、一方の言語を話しているときはもう一方の言語から自由になっている。言語というものはそれぞれ互いに独立した別構造体系である、ということを身にしみて知っている。だから異言語間の飛躍がうまいのではないか、とそんなことを考えてみたりしている。繰り返すが、これは披験者の脳波を調べて証拠を握ったりしたわけではない、単なる想像だ。
ところで、こちらで外国人に「どこから来たんですか?」という聞き方する人には教養的に今ひとつな場合がある。気の利いた人は皆「あなたの母語は何ですか?」と聞いてくることが多い。例えば私など見た目は完璧に日中韓だが、旧ソ連かアメリカ出身で母語はロシア語か英語である可能性もなくはないからだ。またクルド人に出身国を聞いてもあまり意味がないし、ベルギーに数万人ほど住んでいるドイツ民族の人を「ベルギー人」と言い切るのも無理がある。教養があって見聞の広い人は「母語」、「所属民族」、「国籍」が本来バラバラであることを実感として知っているが、そうでない人はこの3つを自動的に一緒にしてしまうことが多いわけだ。逆にそれなら人にすぐ出身国を聞いてくる人は皆言葉については無教養とかというと、もちろんそんなことは絶対ないが、私は教養ある人に見せかけたいがために「どこから来たのですか?」という聞き方はせずにいつも母語を訊ねている。が、時々「リンガラ語です」とか「アルーマニア語とアルバニア語のバイリンガルです」とか答えられて、「は?それはどこで話されているんですか?」と結局国を聞いてしまったりしているからまあ私の見せかけの教養程度など所詮そのレベルだということだ。何をいまさらだが。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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アシモフ氏自身は3歳の時にアメリカに渡り、言語は英語とイディッシュ語のバイリンガルだが、優勢言語は英語だった。面白いのはここからで、氏の妹さんはイディッシュ語はわずかに理解することは出来るが話せなかった、9歳下の弟さんに至っては完全に英語のモノリンガルでイディッシュ語を理解することさえ出来ないそうだ。つまり家庭内レベルでイディッシュ語から英語への言語変換が起こっているわけだ。
移民の家庭などはこのパターンが多く、子供たちはたいてい現地の言語が優勢言語なのでそれがあまりできない両親に通訳や文法チェックプログラムや辞書代わりにコキ使われたりしている。もっとも「WORDの文法チェック代わり・グーグル翻訳代わりに子供をコキ使う」というのは親のほうもある程度現地の言語を習得していないとできない。元の文章がなければチェックして貰うもなにもないからだ。実際何年もその国に住んでいるのにほとんどその言語が話せないという人は決して珍しくない。こうなると子供は通訳というより「手足」あるいは「眼と耳」であり、子供同伴でないと医者にもいけないし、近所の人と立ち話もできないし、それよりTVで映画を見ることができないだろう。本国映画だって現地の言語に吹きかえられているのだから。それともDVDでしか映画を見ないのか?不便だろうなとは思う。
言語学者のグロータース氏も家庭内言語事情が複雑だったらしい。氏はベルギー出身で家族の全員がフランス語(ワロン語)とオランダ語(フラマン語)のバイリンガルだったそうだが、優勢言語が一人一人微妙に違い、オランダ語優勢のお姉さんにうっかりフランス語でしゃべりかけたりするとムッとされる、また、フランス語が優勢の妹さんでも配偶者がオランダ語話者の人に優勢言語のフランス語で話しかけたりすると、自分の夫がないがしろにされたような気を起こされてやっぱりムッとされる。言語選択には非常に気を使ったそうだ。こういう日常生活を生まれた時から送っていれば、言語というものに敏感にもなるだろう。家庭内どころか、学校でも役所でも一言語だけで用が足りる日本人にはとても太刀打ち出来るような相手ではない。
このグロータース氏は1980年代だったと思うが、一度専門雑誌の「月刊言語」にインタヴュー記事が載っていたのを覚えている。日本語で聞かれ、日本語での受け答えだったが、氏の発言が全部片仮名で書かれていた。私はなぜ月刊言語ともあろうものがこんなことをするのかわからなかった。普通に平仮名で氏の発言を書けばいいではないか。それとも外国人の話す日本語と日本人の話す日本語を区別したかったのか、氏の発言が日本語であったことを強調するつもりであったのか、いずれにせよベッタリ片仮名で書かれた記事はとても読みにくかった。
私の知っている教授も、母語はクロアチア語だったがあるとき研究室で話をしていた際、ちょうど娘さんから電話がかかって来たことがある。「電話」である。当時はケータイなどというものはまだなかった。するといままで私とドイツ語でロシア語の話をしていた先生は受話器をとるとやにわにオランダ語で対応を始めたのである。ドイツに来る前はオランダで長く教鞭をとっていたため、お子さんの母語はオランダ語なんだそうだ。溜息が出た。
もちろんヨーロッパにだってモノリンガルの立派な語学音痴はたくさんいるから「ヨーロッパ人は語学が得意」と一般化することなどできないが、バイリンガルが日本より格段に多いのは事実だ。移民の子供たちも両親の母語がまったくできなくなってしまうのはさすがにまれで、たいていバイリンガルになる。その際優勢言語が個々人で微妙に違っているのは当然だが、本国の言語そのものも両親のと微妙に違ってきてしまうことがある。現地の言語の影響を受けるからだ。私がリアルタイムで見聞きしたそういう例の一つがクロアチア語の「どうしてる、元気かい?」という挨拶だ。本国クロアチア語ではこれを
Kako si? あるいは
Kako ste?
という。kakoは英語やドイツ語のそれぞれhowとwie、siはコピュラの2人称単数、steは本来2人称複数だが、ドイツ語やフランス語のように敬称である。ロシア語と同じくクロアチア語もコピュラや動詞がしっかりと人称変化するので人称代名詞は省いていい、というより人称代名詞をいちいち入れるとウザくなってむしろ不自然になる。だからこのセンテンスは英語のHow are you?と完全に平行しているのである。
ところが、ドイツ生まれのクロアチア人にはその「元気かい?」を
Kako ti ide?
という人が非常に多い。これは明らかにドイツ語の「元気かい?」
Wie geht es dir?
how + goes + it + to you/for you
を直訳したもので、tiは人称代名詞tiの与格tebi(ドイツ語のdir、英語の to you)の短縮形(短縮形になると主格と同じ形になるから注意が必要)、 ideは「行く」という意味の動詞 ićiの現在形3人称単数である。ここでもシンタクス上の主語it(ドイツ語のes)は現れないが、構造的に完全にドイツ語と一致しているのである。この表現には両親の世代、いや年が若くても本国クロアチア語しか知らない人、いやそもそもバイリンガルの中にも違和感を持つ人がいる。私のクロアチア語の先生も「最近はね、Kako ti ide?とかいう変なクロアチア語をしゃべる人が多くて嫌になりますが、皆さんはきちんとKako si?と言ってくださいね」とボヤいていた。
日本語の「会議が持たれます」の類の言い回しにも違和感を持つ人が大分いる。これは英語からの影響だろう。
バイリンガルといえば、モノリンガルより語学が得意な人が多いというのが私の印象だが(きちんと統計を取ったり調査したりはしてはいない単なる「印象」である。念のため)、これは何故なのか時々考える。以前どこかで誰かが「あなたは記憶力がいいから語学をやれといつも薦めている」という趣旨のアドバイスをしているのを見て「こりゃダメだ」と思った。語学で一番大切なのは記憶力ではない、「母語を一旦忘れる能力、母語から自由になれる能力」である。いったん覚えたことがいつまでも頭から離れない人はずっと日本語に捕らわれて自由になれないから、生涯子音のあとに余計な母音を入れ続け、日本語をそのまま意味不明の英語にし続けるだろう。そういう人はむしろ語学に向いていないのである。母語を通さずに当該外国語の構造をそれ自体として受け入れるという発想ができにくいからだ。
もちろんバイリンガルも母語にしがみつく人が大半という点では語学音痴のモノリンガルと同じである。が、バイリンガルには母語が二つあり、一方の言語を話しているときはもう一方の言語から自由になっている。言語というものはそれぞれ互いに独立した別構造体系である、ということを身にしみて知っている。だから異言語間の飛躍がうまいのではないか、とそんなことを考えてみたりしている。繰り返すが、これは披験者の脳波を調べて証拠を握ったりしたわけではない、単なる想像だ。
ところで、こちらで外国人に「どこから来たんですか?」という聞き方する人には教養的に今ひとつな場合がある。気の利いた人は皆「あなたの母語は何ですか?」と聞いてくることが多い。例えば私など見た目は完璧に日中韓だが、旧ソ連かアメリカ出身で母語はロシア語か英語である可能性もなくはないからだ。またクルド人に出身国を聞いてもあまり意味がないし、ベルギーに数万人ほど住んでいるドイツ民族の人を「ベルギー人」と言い切るのも無理がある。教養があって見聞の広い人は「母語」、「所属民族」、「国籍」が本来バラバラであることを実感として知っているが、そうでない人はこの3つを自動的に一緒にしてしまうことが多いわけだ。逆にそれなら人にすぐ出身国を聞いてくる人は皆言葉については無教養とかというと、もちろんそんなことは絶対ないが、私は教養ある人に見せかけたいがために「どこから来たのですか?」という聞き方はせずにいつも母語を訊ねている。が、時々「リンガラ語です」とか「アルーマニア語とアルバニア語のバイリンガルです」とか答えられて、「は?それはどこで話されているんですか?」と結局国を聞いてしまったりしているからまあ私の見せかけの教養程度など所詮そのレベルだということだ。何をいまさらだが。
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