アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:オランダ語

 『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも述べたように私はアイザック・アシモフの自伝がとても面白いと思っている。例えば氏の家庭内言語についての述べられている箇所。氏のご両親はロシアの出身だったが、母語はイディッシュ語だったそうだ。ロシア語も出来たはずだとアシモフ氏は言っているが、自分では両親がロシア語を話すのを一度も見た、というか聞いたことがないと書いている。
 アシモフ氏自身は3歳の時にアメリカに渡り、言語は英語とイディッシュ語のバイリンガルだが、優勢言語は英語だった。面白いのはここからで、氏の妹さんはイディッシュ語はわずかに理解することは出来るが話せなかった、9歳下の弟さんに至っては完全に英語のモノリンガルでイディッシュ語を理解することさえ出来ないそうだ。つまり家庭内レベルでイディッシュ語から英語への言語変換が起こっているわけだ。
 移民の家庭などはこのパターンが多く、子供たちはたいてい現地の言語が優勢言語なのでそれがあまりできない両親に通訳や文法チェックプログラムや辞書代わりにコキ使われたりしている。もっとも「WORDの文法チェック代わり・グーグル翻訳代わりに子供をコキ使う」というのは親のほうもある程度現地の言語を習得していないとできない。元の文章がなければチェックして貰うもなにもないからだ。実際何年もその国に住んでいるのにほとんどその言語が話せないという人は決して珍しくない。こうなると子供は通訳というより「手足」あるいは「眼と耳」であり、子供同伴でないと医者にもいけないし、近所の人と立ち話もできないし、それよりTVで映画を見ることができないだろう。本国映画だって現地の言語に吹きかえられているのだから。それともDVDでしか映画を見ないのか?不便だろうなとは思う。

 言語学者のグロータース氏も家庭内言語事情が複雑だったらしい。氏はベルギー出身で家族の全員がフランス語(ワロン語)とオランダ語(フラマン語)のバイリンガルだったそうだが、優勢言語が一人一人微妙に違い、オランダ語優勢のお姉さんにうっかりフランス語でしゃべりかけたりするとムッとされる、また、フランス語が優勢の妹さんでも配偶者がオランダ語話者の人に優勢言語のフランス語で話しかけたりすると、自分の夫がないがしろにされたような気を起こされてやっぱりムッとされる。言語選択には非常に気を使ったそうだ。こういう日常生活を生まれた時から送っていれば、言語というものに敏感にもなるだろう。家庭内どころか、学校でも役所でも一言語だけで用が足りる日本人にはとても太刀打ち出来るような相手ではない。
 このグロータース氏は1980年代だったと思うが、一度専門雑誌の「月刊言語」にインタヴュー記事が載っていたのを覚えている。日本語で聞かれ、日本語での受け答えだったが、氏の発言が全部片仮名で書かれていた。私はなぜ月刊言語ともあろうものがこんなことをするのかわからなかった。普通に平仮名で氏の発言を書けばいいではないか。それとも外国人の話す日本語と日本人の話す日本語を区別したかったのか、氏の発言が日本語であったことを強調するつもりであったのか、いずれにせよベッタリ片仮名で書かれた記事はとても読みにくかった。
 私の知っている教授も、母語はクロアチア語だったがあるとき研究室で話をしていた際、ちょうど娘さんから電話がかかって来たことがある。「電話」である。当時はケータイなどというものはまだなかった。するといままで私とドイツ語でロシア語の話をしていた先生は受話器をとるとやにわにオランダ語で対応を始めたのである。ドイツに来る前はオランダで長く教鞭をとっていたため、お子さんの母語はオランダ語なんだそうだ。溜息が出た。

 もちろんヨーロッパにだってモノリンガルの立派な語学音痴はたくさんいるから「ヨーロッパ人は語学が得意」と一般化することなどできないが、バイリンガルが日本より格段に多いのは事実だ。移民の子供たちも両親の母語がまったくできなくなってしまうのはさすがにまれで、たいていバイリンガルになる。その際優勢言語が個々人で微妙に違っているのは当然だが、本国の言語そのものも両親のと微妙に違ってきてしまうことがある。現地の言語の影響を受けるからだ。私がリアルタイムで見聞きしたそういう例の一つがクロアチア語の「どうしてる、元気かい?」という挨拶だ。本国クロアチア語ではこれを

Kako si?    あるいは
Kako ste?

という。kakoは英語やドイツ語のそれぞれhowとwie、siはコピュラの2人称単数、steは本来2人称複数だが、ドイツ語やフランス語のように敬称である。ロシア語と同じくクロアチア語もコピュラや動詞がしっかりと人称変化するので人称代名詞は省いていい、というより人称代名詞をいちいち入れるとウザくなってむしろ不自然になる。だからこのセンテンスは英語のHow are you?と完全に平行しているのである。
 ところが、ドイツ生まれのクロアチア人にはその「元気かい?」を

Kako ti ide?

という人が非常に多い。これは明らかにドイツ語の「元気かい?」

Wie geht es dir?
how + goes + it + to you/for you

を直訳したもので、tiは人称代名詞tiの与格tebi(ドイツ語のdir、英語の to you)の短縮形(短縮形になると主格と同じ形になるから注意が必要)、 ideは「行く」という意味の動詞 ićiの現在形3人称単数である。ここでもシンタクス上の主語it(ドイツ語のes)は現れないが、構造的に完全にドイツ語と一致しているのである。この表現には両親の世代、いや年が若くても本国クロアチア語しか知らない人、いやそもそもバイリンガルの中にも違和感を持つ人がいる。私のクロアチア語の先生も「最近はね、Kako ti ide?とかいう変なクロアチア語をしゃべる人が多くて嫌になりますが、皆さんはきちんとKako si?と言ってくださいね」とボヤいていた。
 日本語の「会議が持たれます」の類の言い回しにも違和感を持つ人が大分いる。これは英語からの影響だろう。

 バイリンガルといえば、モノリンガルより語学が得意な人が多いというのが私の印象だが(きちんと統計を取ったり調査したりはしてはいない単なる「印象」である。念のため)、これは何故なのか時々考える。以前どこかで誰かが「あなたは記憶力がいいから語学をやれといつも薦めている」という趣旨のアドバイスをしているのを見て「こりゃダメだ」と思った。語学で一番大切なのは記憶力ではない、「母語を一旦忘れる能力、母語から自由になれる能力」である。いったん覚えたことがいつまでも頭から離れない人はずっと日本語に捕らわれて自由になれないから、生涯子音のあとに余計な母音を入れ続け、日本語をそのまま意味不明の英語にし続けるだろう。そういう人はむしろ語学に向いていないのである。母語を通さずに当該外国語の構造をそれ自体として受け入れるという発想ができにくいからだ。
 もちろんバイリンガルも母語にしがみつく人が大半という点では語学音痴のモノリンガルと同じである。が、バイリンガルには母語が二つあり、一方の言語を話しているときはもう一方の言語から自由になっている。言語というものはそれぞれ互いに独立した別構造体系である、ということを身にしみて知っている。だから異言語間の飛躍がうまいのではないか、とそんなことを考えてみたりしている。繰り返すが、これは披験者の脳波を調べて証拠を握ったりしたわけではない、単なる想像だ。

 ところで、こちらで外国人に「どこから来たんですか?」という聞き方する人には教養的に今ひとつな場合がある。気の利いた人は皆「あなたの母語は何ですか?」と聞いてくることが多い。例えば私など見た目は完璧に日中韓だが、旧ソ連かアメリカ出身で母語はロシア語か英語である可能性もなくはないからだ。またクルド人に出身国を聞いてもあまり意味がないし、ベルギーに数万人ほど住んでいるドイツ民族の人を「ベルギー人」と言い切るのも無理がある。教養があって見聞の広い人は「母語」、「所属民族」、「国籍」が本来バラバラであることを実感として知っているが、そうでない人はこの3つを自動的に一緒にしてしまうことが多いわけだ。逆にそれなら人にすぐ出身国を聞いてくる人は皆言葉については無教養とかというと、もちろんそんなことは絶対ないが、私は教養ある人に見せかけたいがために「どこから来たのですか?」という聞き方はせずにいつも母語を訊ねている。が、時々「リンガラ語です」とか「アルーマニア語とアルバニア語のバイリンガルです」とか答えられて、「は?それはどこで話されているんですか?」と結局国を聞いてしまったりしているからまあ私の見せかけの教養程度など所詮そのレベルだということだ。何をいまさらだが。


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 世界には何千年もの伝統を持つ古い言語やもう何千年も前に死滅してしまった古語がある一方、生まれたばかりの新しい言語というのがある。例えば南アフリカ共和国、ナミビアの公用語であるアフリカーンス。最も新しい言語のひとつであろう。以前に先生がこれを称してdie neueste germanische Sprache(「もっとも新らしいゲルマン語」)と言っていたのがまだ耳に残っている。
 アフリカーンスの母体になったのは17世紀初頭のオランダ語であるから、まだ生まれてから400年くらいにしかならない。もっともブラジルのポルトガル語などもいまや本国との乖離が激しく、時々本当に「ブラジル語」という名称が使われている。ついでに「アメリカ語」という言い方もよく見かける(アメリカ合衆国で話されている言葉はすでに英語とは言えない、というわけだ)。それでもアメリカ大陸の言語はまだ本国名称で呼ばれるのが普通で、まあせいぜい「南米スペイン語」「ブラジル・ポルトガル語」と補足がつくくらいである。アフリカーンスも昔はケープ・オランダ語(Kapholländisch)ともいったそうだが、現在は誰もそんな名称は使わないだろう。Kap(ドイツ語)、 Kaap(オランダ語、アフリカーンス)あるいは Cape(英語)の名で呼ばれているのは17世紀の半ばに最初にここに入植して植民地を作ったのがオランダ人だからだ。Kaapというのはオランダの船乗りの言葉で「山が海にグンと突き出している地形」を表す、つまり「岬」のことである。南アフリカの先っちょがそういう地形をしていたからここに造った町をKaapstedt(ドイツ語だとKapstadt)と名付けたのである。その後イギリス人が来てオランダ人を追い出していったのはやっと19世紀の初頭である。1814年にはKaap地域がイギリスのものになり、オランダ人は北東に追いつめられてトランスヴァール共和国、オラニエ自由国などを作っていたが、1899年から1902年にかけて南アフリカで起こった戦争でとうとうイギリスに負けて一つの国に併合された。その、後からやってきたイギリス人にとってはオランダ人が「アフリカ原住民」であったろう。事実彼らは自分たちを「アフリカーナー」とも自称している。アフリカ原住民には白人もいるのだ。
 それらの「オランダ人」をブール人、またはボーア人といい、上述の対英戦争はボーア戦争と呼ばれている。1880年から1881年の第一次ボーア戦争ではトランスヴァール共和国がイギリスに一旦勝っているが、上述の「第二次ボーア戦争」で敗北した。このボーア(Boer)というのはドイツ語のBauerと同語源で「農民」という意味である。現在のボーア人はほぼ全員が英・アのバイリンガルだそうだ。そのため不幸なことに南アフリカの文学は大抵英語で書かれ、アフリカーンスで書かれた文学作品は数が非常に少ない。それでも1990年代から目に見えてアフリカーンスの文学作品が増えていっている。90年代と言えばナディン・ゴーディマがノーベル文学賞を受け、ネルソン・マンデラ大統領が誕生したころである。なるほどという感じだ。
 ただ、ボーア人とアフリカーンス話者はイコールではない。いわゆるカラード、黒人やアジア人にもアフリカーンスを母語としている者がいるからである。L2としての話者も勘定に入れれば、この言語の使用範囲はカラードの間でさらに広がるはずだ。

 ボーア人の作家で有名な人といえばまずHerman Charles Bosman(1905-1951)の名があがるだろう。Kaap地方にボーア人の両親のもとで生まれ、学校教育は英語で受けたバイリンガル。その後トランスヴァール、つまりボーア人地域で暮らし、ボーア人の生活社会という閉ざされた小宇宙を描写し続けた作家である。作品の質も高く、南アフリカでは極めてポピュラーで誰でも知っているが一歩外に出ると知られていないという、知名度の乖離の非常に激しい地域限定作家である。
 なお、ボスマン氏は若い頃、父違いか母違いかの兄弟を撃ち殺して死刑判決を受けたことがある。その後刑が10年に軽減され、4年で執行猶予つきで刑務所から出ることができたそうだ。
 私はFuneral Earthという10ページ足らずの超短編しか氏の作品を読んでいないが、いわゆる「南アフリカ英語」ばかりか、ガチのアフリカーンスまでたくさん出てくるし、描写されている社会事情や当地では誰でも知っている史実などに無知なのでこの長さでも十分難しかった。テキストは解説つき、つまり英語がわかんない人用にヘルプがついたものだったから何とか読めたが、完全に自力で読めといわれたら無理だったろう。そもそも普通の英語だって危ないのだ私は。
 その作品には例えばこんな「アフリカーンス英語」が使われていた: 

oom: おじさん
Nietverdiend: 西トランスヴァールの地名、
        (ドイツ語だとunverdientで「値しない」とか「その価値がない」という意味)
veld-kornetseksie: 軍務も負っている役人
withaak : 植物の名前 (ドイツ語ならWeißhaken「白鉤」)
seksie: 班、隊
volksraad : トランスヴァール共和国議会
koppie : 小さな丘
goël : 魔的な
veldskoen : ボーア人が野外で履く特殊な靴

 さて、ボスマンは作家活動をもっぱら英語で行なったようだが、時々はアフリカーンスででも著作活動をしている。例えば1948年にオマール・ハイヤームの4行詩『ルバイヤート』のアフリカーンス語訳を発表しているそうだ。ペルシャ語からではなく、エドワード・フィッツジェラルドによる英語からの重訳らしい。まず、もとのフィッツジェラルドの訳の最初の部分。朝日を描写したものである。

Awake! for Morning in the Bowl of Night
Has flung the Stone that puts the Stars to Flight:
And Lo! the Hunter of the East has caught
The Sultan's Turret in a Noose of Light.

これをボスマンは次のように訳している。

Ontwaak! die steen waarvoor die sterre wyk
Het Dag in Nag se kom gewerp - en kyk!
Die Ooste het sy jagterstrik van lig
Oor die toring van die Sultan reeds gereik.

さらにこれを無理矢理ドイツ語に訳してみると以下のようになった。「無理矢理」というのはできるだけ対応するドイツ語の単語を当てはめたからである。だからドイツ語としては許容範囲ギリギリ。ギリギリにさえならない部分はさすがに変更してある。また私はアフリカーンス語もオランダ語もできないから、そこら辺の無料電子辞書だろ文法書をめくら滅法ひきまくり、それでもわからない場合は似たような単語をドイツ語やオランダ語から見つけてきて「多分これだろう」と勝手に決め込んで翻訳したので、質は保証できない。

Entwacht! Den Stein, wofür (-> für den) die Sterne weichen,
Hat Tag in (den) Schüssel der Nacht geworfen – und kiekt!
Der Osten hat seine Jägerschlinge des Lichts
Über den Turm des Sultans bereit gereicht.

確かにドイツ語としてギリギリだが、意味はなんとなくわかる。ちなみに「見ろ!」を表すアフリカーンスのkykという単語は最初ドイツ語のgucken(「見る」)と同じかと思ったが、そうではないらしい。ドイツ語に「方言・俗語」としてkieken(「覗く」)という動詞が実在するが(ネイティブに聞いてみたが、「そんな単語知らない」とのことだった)、どうもこちらの方が同源くさい。
 これを2014年にDaniel Hugoという人がやはりアフリカーンスに訳しているのだが、そのテキスト

Ontwaak! Die oggend het in die kom van die nag
die blink klip geslinger wat die sterre laat vlug.
En kyk, die ruiter uit die ooste het
die sultanstoring gevang met ’n lasso lig.

を上のボスマンのものと比べてみると、ボスマンの文体がやや「古風」な感じがする。例えばwykというのはたぶんオランダ語のwijken、ドイツ語の weichen(「避ける、逃げる」)だろうが、これをput ... to Flightの訳として使っている。フーゴ訳ではこれが素直にlaat vlug(たぶん英語のlet flee)、つまり関係節の主語が逆になっていて「星を退散させる石」だがボスマンでは「そのために星が退散する石」となっているわけだ。さらに3行目ではたぶんボスマンは非常に抽象的な名詞「東」を主語にしているが、フーゴ訳ではたぶん「東から来た騎士」という一応人物が主語になっていて意味がとりやすい。アフリカーンスというものを見たのがほとんど初めての私にさえ上のボスマンの訳よりわかりやすいものであることが見て取れる、ような気がする。フーゴの訳をドイツ語に訳するこうなる。

Erwacht! Der Morgen hat in den Schüssel von der Nacht
Den blanken Stein geschlingert (-> geschleudert), was die Sterne fliehen lässt.
Und kiekt, der Reiter aus dem Osten hat
Den Sultanturm gefangen mit einem Lichtlasso.

 そういえばナディン・ゴーディマの作品にもbaas(「旦那」)というアフリカーンスの単語が使われていたのを見たが、それよりも何よりもアパルトヘイトapartheitという言葉がアフリカーンスである。
 ボーア戦争で南アフリカが統一されてから1961年までは「南アフリカ連邦」、1961年からは「南アフリカ共和国」という国家形式だがその「元首」、連邦では首相、共和国では大統領はほとんど全員アフリカーンス系の名前である。さすがにイギリスの植民地時代は大英帝国の王・女王を元首としてかついではいたが、実際に政治を司ったのはずっとボーア人であったことがわかる。だからその人種政策も英語ではなく、アパルトヘイトとアフリカーンスで呼ぶのだ。この制度を確立して維持したのはボーア人だが、これを廃止に持っていったのもまたボーア人の大統領デ・クラークだった。


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 南西ドイツにGという町がある。結構こじんまりしたきれいな町なのだが、場所が辺鄙な上にやたらと小さな町なので、最初内心「なんでこんなところに人が住んでいるんだ」と馬鹿にしていたのだが(まことに申し訳ない)、なんとこの町はローマ帝国がゲルマニア侵略のための要塞として建設した町なんだそうだ。下手なドイツの町よりずっと古い。そこの中央駅(中央駅のくせに無人駅)の近くに池があっていつもアヒルが泳いでいるのだが、ある日私がその池のほとりのベンチに坐ってボーっとしていた時のことだ。

 隣のベンチの周りでどこかのおっちゃんたちが何人か真っ昼間から酔っ払ってワイワイ騒いでいる。そのうち一人がビールのカンを片手に私んとこにやってきてAlles klar?「すべてOKかい?」と話しかけてきた。実は私はそれまでについおっちゃんたちの会話に耳を傾けてしまっていて、その言語がロシア語だと気づいていたので、またしてもよせばいいのにズに乗って(『1.悲惨な戦い』参照)всё ясно(「すべてOKです」)とか答えたら、そのおっちゃんは「へっ、どうしてロシア語がしゃべれるんだい?」とか言いながら私の隣にドッカリと腰を下ろして勝手にしゃべり始めた。互いに「ドイツで何をしているのか、どこから来たのか」という身の上話の展開になったが、私のほうは時々ドイツ語が混じる、というよりドイツ語が主で時々ロシア語が混じるというヘタレロシア語だったのに、おっちゃんは酔っ払っているせいか私が聞き取れなくて馬鹿面をしようが、しゃべれなくて文法を間違えようが委細構わずロシア語でガンガン話を進める。
 しかし、ある意味では酔っている人というのは語学の練習の相手としては最高かもしれない。こちらが間違えても向こうはそもそも間違ったことに気がつかないから、馬鹿にしたり訂正したりしないので気兼ねなくロシア語で話せるし、またこちらがわかっていなくても手加減せずロシア語で来るからヒアリングの練習には最適だ。どうせ明日になれば向こうだって私のことなど忘れているだろうと思えば勇気を持ってというか恥を忘れて話しかけられる。酔って攻撃的になる人は論外だが、相手が気持ちよく酔っ払っているとこっちまで気持ちよく語学の練習が出来るのだ。

 ところがそこでそのおっちゃんが、「ドイツに来る前はバイコヌールで宇宙船の組み立てをしていた」と言い出したので絶句。酔いがいっぺんに冷めた感じだ(私は別に酔ってはいなかったが)。今まで気兼ねなく好き勝手な口を利いていた相手が実は水戸黄門だとわかったときのスッ町人の気分である。私の顔が尊敬の念と驚愕のあまり硬直したのを見て、おっちゃんは私を慰めてくれた。「いやいや、でもエンジニアとか学者じゃなくて単なる組立作業員だよ。でも私の組み立てた宇宙船はちゃんと宇宙に行ってる」。

 そんな人がどうしてGなどという辺鄙な町のアヒルの池のほとりにいるのか?

 東西ドイツが統一し、ソ連が崩壊した時、統一ドイツ政府はソ連領内に残っていたドイツ系住民にほぼ無条件でドイツ国籍を与え、難民としてドイツに迎え入れた。Russlanddeutsche、ロシア・ドイツ人と呼ばれる人たちで、先祖がドイツ人であることを文書で証明できたのである。そのおじさんもドイツ系ロシア人だったのではないだろうか。
 ソ連、あるいはロシア領内へのドイツ人の入植が盛んになったのはもちろんエカテリーナ2世(エカテリーナ2世はドイツ人)の時代からで、ボルガ川流域に多くのドイツ人居住地域ができた。それで彼らは「ボルガ・ドイツ人」と呼ばれた。プーシキンの『スペードの女王』にも(『4.荒野の大学通り』参照)、ドストエフスキーの『悪霊』にもそれぞれゲルマン、フォン・レンプケという名前のドイツ人が登場する。先の日露戦争終結時に全権委任されて小村寿太郎と交渉したロシアの政治家もWitte(ウィッテまたはヴィッテ)といってゲルマン語系の姓であるが、調べてみたらヴィッテはボルガ・ドイツ人ではなく、リトアニアの貴族であった。つまりドイツ人が東プロイセンに建てた騎士団領の貴族の子孫ということになる。ボルガ・ドイツ人より由緒のある家の出なのである。
 
 もっともドイツ語系の姓をもったロシア人・ソ連人にはドイツ人ばかりでなく、アシュケナージと呼ばれるユダヤ人が相当いる。
 映画監督のエイゼンシュテインЭйзенштейнも名前からみてもわかるように本来ユダヤ人なのだが先祖はとうにキリスト教正教に改宗しており、エイゼンシュテイン自身も自分をユダヤ人とは思っていなかったようだ。それに対して詩人のマンデルシュタームМандельщтамはアイデンティテイの面でもユダヤ人でワルシャワの生まれである。どちらもドイツではもとのドイツ語綴りにもどしてそれぞれEisenstein、 Mandelstamと書く。ロシア語を忠実にドイツ語に写していればsでなくschと書いていたはずだ。エイゼンシュテインは発音もドイツ語読みにされてアイゼンシュタイン。
 さらに演出家のメイエルホリドМейерхольдの名前ももとはMeyerholdというドイツ語で、ドイツではマイヤーホルトと呼ばれる。この人はアシュケナージではなくドイツ人でボルガ領域の町ペンザの出身である。本当の名前はМейерхольд でなくМайергольдといったそうだが、これはドイツ語や英語の h は普通ロシア語ではг (g)で写し取る(『4.荒野の大学通り』参照)からである。最近は h を г でなく х (ドイツ語の ch)と書くことが多いと教えてくれた人がいた。でもメイエルホリドなんてあまり「最近の人」ではないような気がするのだが。

 それより面白いのがMeyerhold→Мейерхольдと、ドイツ語の l がロシア語では ль、口蓋化音の l で表されていることだ。ドイツ人の名前で l が子音の前に立ったり語末に来たりするとロシア語では必ず ль になる。現首相の名メルケルMerkelはロシア語で書くとМеркельだし、ソユーズにも乗ったドイツ人の飛行士メルボルトMerboldの胸にもМербольдという名札がかかっているのを見た。時期的に一致しているからアヒルの池のほとりのおじさんはひょっとしたらメルボルト宇宙飛行士とバイコヌールで会っていたかもしれない。また地名もそうで、ハイデルベルクHeidelbergはГейдельберг、オルデンブルクOldenburgはОльденбург。
 ロシア人は l に関して「口蓋化・非口蓋化」の区別に非常に敏感で、以前ロシア語の授業でもドイツ人の学生がбыл(ブィル、「~だった」)というとロシア人にはбыль(ブィーリ、「実話」)に聞こえるらしく、何回もやり直しさせられていた。しかしドイツ人は単に発音できないのではなくてそもそもそれらの音の違いが感知できない、つまりどちらの音も同じに聞こえるわけだから、いくらロシア人が発音して聞かせてやっても無駄なのである。超音波が聞こえるコウモリ男が私にいくら「こんなものも聞き取れないのか、根性を出してもっとよく聞いてみろ」と言ったって無理なのと同じだ。さらにドイツ人には「箸」と「橋」、「お菓子」と「お貸し」と「岡氏」の区別が全くできない人がいる。私めがありがたくも高貴な東京型アクセントを聞かせてやっても、「全部同じに聞こえる」「高さの違いが全くわからない」。だから「あなたは昨日何をしましたか?」が「あなたは昨日ナニをしましたか?」という卑猥な質問に変形してしまうのである。もっともこの「ナニ」については双方同じ人間だから聴覚器官そのものは共通なわけで、訓練すれば区別できるようになる点がコウモリ男の超音波とは違うが。

 話が逸れたが、そのロシア語の先生によると当時ドイツで人気のあったオランダ人のTVコメンテーターが発音する l はまさににロシア語の硬音(非口蓋音)の л だから彼女の発音を真似しなさい、とのことであった。実際ドイツ語と違ってオランダ語の名前では l が軟音(口蓋化音)の ль でなく、 л で写し取られるのが普通である。ドイツ語の名前と比べてみて欲しい。

人名
Joost van den Vondel → Йост ван ден Бондел
Johan van Oldenbarnevelt → Йохан ван Олденбарневелт

地名
Tilburg → Тилбург
Almere → Алмере
Helmond → Хелмонт

BondelやOldenbarneveltという名前では l の現れる環境がそれぞれ上に挙げたドイツ語のMerkel 、Oldenburg、 Merboldとそっくりなのに硬音の л で表されている。稀にオランダ語の名前が軟音 ль になっていた例も見たが、全体としてはロシア語の先生の言ったとおりだ。ただ、これが本当にオランダ語の名前をロシア人が耳で聞いてキリル文字に写し取ったからなのか、単にドイツ語・ロシア語間の文字化の仕方がロシア語・オランダ語間のと慣習によって違った風になっているだけなのかはわからない。

 さて、そのボルガ・ドイツ人だが、第二次世界大戦時にはスターリンからスパイの疑いをかけられ、本国ドイツ人と接触することができないように中央アジア、特にカザフスタンに強制移住させられた。「ドイツ語を一言でもしゃべってみろ。シベリアの強制労働キャンプに送り込んでやる、銃殺してやる」とはっきり脅された、と知り合いから聞いたことがある。その人もロシア語が母語のドイツ人でカザフスタンからドイツに「帰国」してきた人だった。カザフスタン出身のドイツ人の知り合いはその他にも何人かいる。
 それらの「帰国ドイツ人」も二世代目になるとバイリンガルであることが多いが、ロシア・ドイツ人の人口が百万の単位、つまり大勢いることに加えてロシア・ドイツ人同士のつながりも密なので、ロシア語は比較的よく保たれている。今後もそう簡単にはドイツ語に完全移行はしないだろう。私の個人的な希望的憶測ではあるが。


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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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