アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:文法上の性

 アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)というソ連の作家に『名も知らぬ花』(Неизвестный цветок)という短篇がある。このプラトーノフという人は当時の国家御用同盟のソ連作家同盟と合わず、しまいには同盟から除名され、名をリストから抹殺され、作品の発表も禁止されて不遇のまま一生を終えた。この短篇に描かれている荒れ地にたった一輪咲いた小さな花が、彼の分身であることは明らかだ。
 ドイツ語の翻訳ではこの作品のタイトルをDie unbekannte Blumeと訳している。これもやはり「名も知らぬ花」だから、意味の上ではまったく問題はない。

 でもこの翻訳には重大な欠陥がある。

 ロシア語の「花」(цветок、ツヴェトーク)は男性名詞だ。だから、この花が作家の分身だということは誰でもわかる。プラトーノフは男性なのだから。事実、話の中でダーシャという女の子とその花が友達になり、ダーシャが一年後その場所に来てみたらもうその花自身は生えていず、二代目の花を見つけるが、その二代目の花は「父のように生き生きとして我慢強く、父よりもさらに力強いのでした」、とある。
 ロシア文学の安井亮平氏も次のように言っている。

「『名も知らぬ花』の、父たちの復活としての子の生、知と意志による死の克服、花と子供の兄弟関係の創造という考えは、プラトーノフの全作品に顕著なイデーです。プラトーノフは、死を予感して、この小さな作品の中で、おのれの思想と真情を吐露したのでしょう。」

しかるにドイツ語の「花」(Blume)は女性名詞なのだ。なので上述の「父のように…」のくだりはドイツ語訳では、「母のように生き生きとして我慢強く、母よりもさらに力強いのでした」と訳されている。そんな馬鹿な。ここでこのように勝手に性転換されてしまったら、この作品の最も重要なモチーフ、「作家が血を吐く思いで吐露した自画像」が跡形もなく消えてしまうではないか。

 『10.お金がなければ眠りは深い』の項で述べたガルシンの『あかい花』(Красный цветок、クラースヌィ・ツヴェトーク)もDie rote Blumeと性転換訳されているが、この場合はストーリー上男性・女性どっちでもいいし、その花は「けしの花」だと原作でも言っているから、イザとなったらDer rote Mohn(あかいけし)というタイトルにでもしてやれば、男性名詞としての整合性をとることも可能だが、「名も知らぬ花」にその手は使えない。なぜなら「けし」とか「桜」とか名前を言ってしまったら「名も知らぬ花」でなく「名を知っている花」になってしまうからだ。

 ではどうしたらいいのか?ドイツ語のネイティブに聞いてみたら「コメントを入れてロシア語では花が男性であることを明記するしかないだろ」との答えが返ってきた。文学の翻訳でコメント・注釈というのは「最後の手段」である。いわば敗北宣言だ。私がそう言い、ネイティブのくせに白旗を挙げる気かと突っ込んだら、「仕方ないだろ、できないものはできないんだ。」とあまりにも簡単に降参されてしまった。

 もうひとつ、似たような事例としてIl grande Silenzioというタイトルのイタリア映画がある。文字通り訳せば「偉大なる沈黙」または「大いなる静寂」で、事実英語ではGreat Silenceというタイトルになっているが、以前これをチェコ語でVeliký klid (偉大なる静寂)と訳しているのを見て感心した。
 このklid(静寂)という単語だが、スラブ語としてはちょっと見かけない言葉だ。 たとえば西スラブ語のポーランド語では「沈黙」はmilczenie、「静けさ」はciszaだ。 クロアチア語もそれぞれšutnja、tišinaで形が近い。 ロシア語もМолчание とТишинаでそっくり。 さらにチェコ語でも実は本来これらに対応する語を持っているのだ。mlčeníとtišinaだ。
 ではなぜここで「静寂」を素直にtišinaとかmlčeníではなくklidで表わしているのか?
 答えは簡単だ。原題の「サイレンス」もしくは「シレンツィオ」というのが男性主人公のあだ名だからだ。なのにチェコ語のtišinaは女性名詞、mlčeníが中性名詞なので、男性の名前にはなれない。どうしても男性名詞のklidを持って来なくてはいけないのだ。イタリア語のsilenzioはうまい具合に男性名詞だからOK、英語に至ってはそもそも男性名詞も女性名詞もないから気を使う必要がないが、チェコ語では文法性と自然性の統一ということを考慮しないといけない。

 チェコ語では「沈黙」を意味する男性名詞があるからいいが、困るのはドイツ語だ。対応するドイツ語の単語Stille(静けさ)、Schweigen(沈黙)はそれぞれ女性名詞、中性名詞なので、やはりここで直訳はできない上、意味の近い男性名詞が存在しない。そこでこの映画のタイトルはまったく意味を変換させてLeichen pflastern seinen Weg(彼の道は死体で舗装される→彼の行く道は死体で埋まる)というオドロオドロしいものになっている。日本語も「沈黙」などという抽象概念を人の名前にする、という発想に違和感があるためか、やはり直訳しないで『殺しが静かにやって来る』。私個人としてはこの邦題は秀逸だと思う。ついでに言うと主演はフランス人のジャン・ルイ・トランティニャンである。

 「言葉の壁」というと普通「その言葉ができないために社会に溶け込めない」という意味だが、私は本当の「言葉の壁」とはこういうのを言うのだと思う。つまり、言語運用論レベルでなく言語に内在する構造そのものに起因する壁だ。

PlatonovVoronez
プラトーノフは現在では名誉回復されて生まれ故郷のヴォロネジに像も立っている。


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 日本語では生物が主語に立った場合と無生物が主語に立った場合とでは「存在する」という意味の動詞が違う。いわゆる「いる」と「ある」の区別であるが、

犬がいる。
馬鹿がいる。
機関銃がある。

これをもっと詳細に見てみると生物は「いる」、無生物は「ある」とは一概にいえないことがわかる。

あそこにタクシーがいる。
昔々おじいさんとおばあさんがありました。

しかしタクシーに「いる」を使えるのは駅前で客を待つべく待機しているタクシーなど中に運転手がいる、少なくともいると想定された場合で、意味が抽象化して「タクシーという交通機関」を意味するときは「ある」しか使えない。「そっちの町にはタクシーなんてあるのか?」などと小さな町のローカルぶりを揶揄したいときは「ある」である。さらに「この時間にまだタクシーがあるのか?」という疑問は家から電話でタクシーを呼ぼうとしている人に発せられるのに対し、「この時間にまだタクシーがいるのか?」だと駅に夜着いてキョロキョロタクシーを探している人にする質問だ。
 また昔々おじいさんがありましたというと、おじいさんがいましたといった場合よりこのおじいさんが物語の登場人物であることが前面に出てくる。つまり生身のおじいさんより抽象度がやや高くなることはタクシーの場合と同じだ。もっとも「おじいさんがありました」はひょっとしたら、「おりました」の変形かもしれない。

 ロシア語では主語でなく目的語でこの生物・無生物を表現し分ける。パラダイム上で対格形が生物か無生物かで異なったパターンをとるのだ。まず、生物、人間とか子供とかいう場合は目的語を表す対格形と生格形が同じになる(太字)。まず単数形を見てみよう。
Tabelle1-88
それに対して無生物だと主格と対格が同形になる。
Tabelle2-88
ただしこれは男性名詞の場合で、女性名詞の場合は主格、生格、対格が皆違う形をしているからか、生物・無生物の区別がない。
Tabelle3-88
「女性の言語学者」と「言語学」は形の上ではи (i) が入るか入らないかだけの差である。中性名詞はそもそも皆無生物なのでこの区別はする必要がない。

 上の例は単数形の場合だが、複数形になると両性とも生物・無生物の区別をする。生物は主格と生格が同形、無生物は主格と対格が同形という規則が女性名詞でも保たれる。

「言語学」の複数形というのは意味上ありえないんじゃないかとも思うが、まあここは単なる形の話だから目をつぶってほしい。
Tabelle4-88
 さらに上で出した「子供」の単数ребёнок の複数形は本来ребята なのだが、子供の複数を表すには別単語の дети という言葉を使うのが普通だ。ロシア語ではこの語の単数形は消滅してしまった。クロアチア語にはdjete(「(一人の)子供」)としてきちんと残っている。そのдетиは次のように変化する。生物なので対格と生格が同形だ。
Tabelle5-88
 例えば「言語学者が映画を見る」「女の言語学者が映画を見る」はそれぞれ

Лингвист смотрит фильм.
Лигвистка смотрит фильм.

だが、「言語学者が言語学者を殴る」「女の言語学者が女の言語学者を殴る」は

Лингвист бьёт лингвиста.
Лигвистка бьёт лингвистку.

となる。

 ところがショーロホフの小説『人間の運命』には次のようなフレーズがある。

Возьму его к себе в дети.
I’ll  take + him + to + myself + in + children

主人公の中年男性が、戦争で両親を失い道端で物乞いをしていた男の子を見かけて「こいつを引き取って、自分の子供にしよう」とつぶやくセリフである。в (in) は前置詞で、対格を支配するから、生物である「子供」の場合はв детейとなるはずだ。なぜまるで非生物のように主格と同形になっているのか。腑に落ちなかったのでロシア人の先生にわざわざ本を持って行って訊ねたことがある。するとその先生はまず「あら、これは面白い。ちょっと見せて」と真面目に見入り出し、「ここでは生身の子供を指しているのではなく、子供という観念というかカテゴリーというかを意味しているから無生物扱いされて主格と同形になっているのだ」と説明してくれた。
 その後、生物の対格が主格と同形になる慣用句があることを知った。いずれも生物がグループとか種類というかカテゴリーを表すものである。

идти в солдаты (本来солдат
go + in + soldiers
(兵隊に行く)


выбрать в депутаты  (本来депутатов
elect + in + members of parliament
(議員に選ぶ)


この、「カテゴリーや種類の意味になるときは無生物化する」というのは上の日本語の例、「タクシーがいる・ある」「おじいさんがいました・ありました」にもあてはまるのではないだろうか。さらに「細菌」とか「アメーバ」とか使う人によって生物と無生物の間を部妙に揺れ動く名詞がある、という点も共通しているが、ロシア語は「人形」(кукла、クークラ)や「マトリョーシカ」(матрёшка)が生物扱いとのことで、完全に平行しているとはいえないようだ。言語が違うのだから当然だが。

 さて、面白いことにロマニ語もロシア語と全く同じように生物と無生物を区別する。以下はトルコとギリシャで話されているロマニ語だが、ロマニ語本来の単語では生物の複数形が語形変化してきちんと対格形(というより一般斜格形というべきか、『65.主格と対格は特別扱い』の項参照)になるのに対し、無生物では対格で主格形をそのまま使う。ロシア語と違って男性名詞・女性名詞両方ともそうなる。
Tabelle6-88
属格は非修飾名詞によって形が違って来るため全部書くのがめんどくさかったので男性単数形にかかる形のみにした。「家」の対格が一般斜格でなく、主格と同形になっているのがわかるだろう。その無生物でも与格以下になると突然語根として一般斜格形があらわれるのでゾクゾクする。女性名詞でもこの原則が保たれる。
Tabelle7-88
複数形でも事情は同じだ。(めんどくさいので)以下主格、対格、与格形だけ示す。
Tabelle8-88
下手にロシア語をやっている人などは「これはロシア語の影響か」とか思ってしまいそうだが、私にはロシア語からの影響とは考えられない。第一にこの例はトルコのロマニ語のもので、この方言はロシア語なんかとは接触していないはずである。第二に生物の対格は古い印欧語から引き継いだ対格・一般斜格をとっていて属格(ロシア語でいう生格)と同形ではない。
 もっともロマニ語でも生物と無生物のあいだを揺れ動くグレーゾーンがあるそうで、魚とか蛆虫とかはどっちでもいいらしい。また無生物が擬人化すると生物あつかいになるとのことで、日本の「タクシーがいる」あたりと同じ感覚なのだろうか。


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 また昔話で恐縮だが1998年のサッカーのW杯の時、スペインチームに「エチェベリア」という名の選手がいたのでハッとした。これは一目瞭然バスク語だからだ。そこでサッカーそのものはそっちのけにして同選手のことを調べてみたら本当にバスク地方のElgóibarという所の生まれでアスレチック・ビルバオの選手だった。この姓は現在ではバスク語の正書法でEtxeberriaと書くがこれをスペイン語綴りにしたEchaverríaという姓もある。メキシコ人にもこういう名前の人がいる。スペイン語ではbとvとを弁別的に区別せず、どちらも有声両唇摩擦音[​β]で発音するからバスク語のbがスペイン語でvとなっているわけだ。

 日本の印欧語学者泉井久之助氏もこんな内容のことを書いていた。

第二次大戦の前、当時日本の委任統治領であったミクロネシアの言語を調査するため現地に赴いた。そのときサイパンの修道院を訪問したが、ここはかつてスペイン領だったのでカトリックの人は皆スペインから来た人であった。するとそこで隣の尼僧院の院長の名が「ゴイコエチェア」Goikoecheaだと知らされた。これはまさにバスク語である。

 泉井氏によればGoikoは「高い」という意味の形容詞でecheaが「家」だから、この名は「高家」とでも訳せる。goikoはさらにgoi-と-koに形態素分析でき、 goi-が形容詞の本体、-koは接尾辞である。バスク語は本来形容詞が名詞のあとに来るから、echegoikoになりそうなものだが、この-koという接尾辞がつくと例外的に形容詞は文法上属格名詞扱いされ、形容される名詞の前に立つそうだ。Goikoecheaの最後のaは定冠詞とのことである。つまりバスク語はいわゆる膠着語タイプの言語なのだ。
 面白半分でさらに調べてみたら1994年のW杯のスペイン代表にJon Andoni Goikoetxeaという名の選手がいたのでまた驚いた。この選手は所属チームはFCバルセロナだが、パンプローナの生まれだそうだ。見事に話の筋が通っている。このetxe- あるいはecheのつく名前はバスク語ではよくあるのかもしれない。上のEtxeberriaはEtxe-berri-aと形態素分析ができ、Etxe-が「家」(上述)、-berri-が「新しい」、最後の-aは定冠詞だからこの名前の意味はthe new houseである。

 日本人から見ればバスク語など遠い国の関係ない言語のようだが、実は結構関係が深い。日本にキリスト教を伝えた例のフランシスコ・ザビエルというのがバスク人だからである。一般には無神経に「スペイン人」と説明されていることが多いが、当時はそもそもスペインなどという国はなかった。
 ザビエル、あるいはシャビエルはナバーラ地方の貴族で、Xavierというのはその家族が城の名前。ナバーラはバスク人の居住地として知られる7つの地方、ビスカヤ、ギプスコア、ラブール(ラプルディ)、スール(スベロア)、アラバ、低ナバーラ、ナバーラの一つで、ローマの昔にすでにバスク人が住んでいたと記録にあり、中世は独立国だった。もっともフランス、カスティーリャ、アラゴンという強国に挟まれているから、その一部あるいは全体がある時はフランス領、またある時はカスティーリャの支配下になったりして、首尾一貫してバスク人の国家としての独立を保っていたとは言い切れない。例えば13世紀後半から14世紀前半にかけてはフランスの貴族が支配者であったし、1512年にはカスティーリャの支配下に入った。その後フランス領となり、例えばカトリックとプロテスタントの間を往復運動したブルボン朝の祖アンリ4世の別名はナヴァール公アンリといって、フランス国王になったときナバーラ王も兼ねた。ただしアンリはパリの生まれだそうだ。
 とにかくヨーロッパの中世後期というのは、どこの国がどこに属し、誰がどこの王様なのかやたらと複雑で何回教えて貰ってもいまだに全体像がつかめない。

 では一方ナバーラは二つの強国に挟まれたいわゆる弱小国・辺境国であったのかというとそうも言い切れないらしい。まずフランスやカスティーリャの支配といってもボス(違)はパリだろなんだろの遠くにいて王座には坐っているだけ、実際に民衆を支配し政治を司ったのは地元のバスク人貴族である。さらにどこの国の領土になろうが社会的にも経済的にもバスク人同士の結びつきが強かったようだ。ザビエルの生まれた頃に当時のカスティーリャの支配になった後も、ナバーラばかりでなくその周辺の地域に住むバスク人には民族としての習慣法が認められるなどの、カスティーリャ語でFueroという特権を持ち一種の自治領状態だったらしい。民族議会のようなものもあり、カスティーリャの法律に対して拒否権を持っていたそうだ。独自の警察や軍隊まで持っていた地域もあったそうだから、統一国ではないにしろ、いわば「バスク人連邦」的なまとまりがあったようだ。
 経済的にも当時この地域は強かった。14世紀・15世紀には経済状況が厳しかったようだが、16世紀になるとそれを克服し、鉄鉱石の産地を抱え、造船の技術を持ち、地中海にも大西洋にも船で進出し、今のシュピッツベルゲンにまでバスク人の漁師の痕跡が残っているそうだ。また、地理的にも北にあったためアラブ人支配を抜け出た時期も早く、イベリア半島の他の部分がまだアラブ人に支配されていた期間にナバーラ王国の首都パンプローナはキリスト教地域であった。カトリック国としては結構発言力があったのではないだろうか。
 
 ザビエルがバスク人だったと聞くと「どうしてバスク人なんかがわざわざ日本まで出てくるんだ」と一瞬不思議に思うが、中世後期のバスク地方のこうした状況を考えるとなるほどと思う。1536年にイエズス会を創立したイグナチウス・デ・ロヨラもまたバスク人だった。ただしナバーラでなく北のギプスコアの出身である。ザビエルはパリ大学でロヨラと会い、イエズス会に参加したのだ。バスク人同士のよしみということではなかったのだろうか。
 もちろんザビエルらが普段何語を使っていたかについての記録は残っていないが、おそらく少なくともカスティーリャ語あるいはフランス語とバスク語のバイリンガルだったのではないかと思われる。「少なくとも」と言ったのはバスク語が優勢言語だったかもしれないからだ。今日のバスク地方では300万人の住人のうちバスク語を話すのは22%だが、主に老人層とはいえバスク語モノリンガルがいまだに存在する。20世紀になってスペイン語話者がどんどん流入し、政治的にも内戦やフランコによる弾圧を経験してもバスク語は壊滅していない。ザビエルの時代にはずっとバスク語人口、しかもモノリンガル人口が多かったに違いない。
 もっともバスク語はずっと「話し言葉」だった。統一したバスク語文語の必要性はすでに17世紀頃から主張されていたが、この「共通バスク語」(バスク語でEuskera Batua)が実現を見たのはやっと20世紀になってからである。1918年にバスク語アカデミー(Euskaltzaindia)がギプスコアに創立されて第一歩を踏み出した。第一次世界大戦の最中だが、スペインは参戦していなかったから、隣国フランスへの特需などもあって当時はむしろ経済的には好調だったようだ。そのあと辛酸を舐めたが現在では言語復興運動もさかんで正書法も確立されている。

 さてザビエルの名前、Xavierであるが、これはもともとバスク語の名前がロマンス語化されたもので、もとのバスク名は驚くなかれEtxeberri。後ろに-aがないのでthe new houseではなく a new houseであるが、どちらも「新しい家」。サッカーの選手と同じ名前なのだ。このXavierあるいはJavierという名前は現在のスペイン語、カタロニア語、フランス語、ポルトガル語、つまりイベリア半島のロマンス語のみに見られ、イタリア語とルーマニア語にはこれに対応する名前がない。イタリア語、ルーマニア語はバスク語と接触しなかったからである。
 さらに驚いたことに私が今までスペイン語の代表的な名前だと思っていた「サンチョ」Sanchoはバスク語起源だそうだ。これはラテン語のSanctus(後期ラテン語では Sanctius)のバスク語バージョンで、905年にナバーラのパンプローナにバスク人の王国を立てた王の名前がSancho Garcés一世という。パンプローナ国の最盛期(1000-1035)に君臨していたこれもサンチョ三世という名前の大王は別名を「全てのバスク人の王」といったとのことだ。

 バスク語のことをバスク語でEusikera またはEusikaraというが、この謎の言語は16世紀からヨーロッパ人の関心を引いていた。これに学問的なアプローチをしたのがあのヴィルヘルム・フォン・フンボルトで、1801年に言語調査をしている。その後19世紀の後半にシューハルトがバスク語をコーカサスの言語と同族であると主張したりした。
 私のような素人がバスク語と聞いてまず頭に浮かべるのはこの言語が能格言語である、ということだろう(『51.無視された大発見』参照)。それだからこそバスク語はコーカサスの言語と同族だと主張されたりしたのだ。ロールフスという学者が北インドのやはり能格言語ブルシャスキー語と比較していたことについては以前にも述べた(『72.流浪の民』)。今日びでは能格言語を見せられても誰も驚いたりしないだろうが、フンボルトの当時はこういう印欧語と全く異質な格体系は把握するのに時間を要したに違いない。事実フンボルトはその1801年から1803年にかけて執筆したバスク語文法の記述にあくまで「主格」という言葉を使って次のように説明している。

Eine, die ich in keiner anderen Sprache kenne, ist, ist das c, welches der Nominativ an sich trägt, sobald das Subject als handelnd vorgestellt wird. Alle andern, mir bekannte Sprachen bezeichnen den Unterschied des verbi neutri und actiui nur an dem verbum selbst; die Vaskische deutet ihn schon vorher am Subject selbst an, indem sie demselben im letzteren Fall ein c anhängt. In den beiden Phrasen also: Gott lebt u. Gott schaft wird Gott in der ersten durch Jainco-a, in der letzteren durch Jainco-a-c ausgedrückt. Denn dies c wird, wie alle Praepositionen hinter den Artikel gesetzt;

筆者が他の言語では見たことのない前置詞のひとつがこの c で、主語が何らかの行為を行なうものとして表されると主格そのものがこれを担う。筆者の知る限り他の言語では全て中動態と能動態を区別をただ動詞自体の形によってのみ行なうが、バスク語ではこの区別をすでにそれより前、主語自体がつけているのである。それで主語が行為の主体であった場合は -c が付加される。例えば次の2例、Gott lebt (「神は生きている」)と Gott schaft(「神は創造する」)では、「神」が前者では Jainco-a、後者ではJainco-a-cと表現される。前置詞が全てそうであるように、この -c も定冠詞の後に付加されるからである。

Jainco-aは絶対格だが、-a は後置冠詞だから、細かく言えば絶対格の格マーカーはゼロ形ということになる。一方Jainco-a-c(またはJainco-a-k)は能格だから、-c は実は単なる格マーカーである。しかしフンボルトはこれを「主格マーカー+(特殊な)前置詞」と分析している。うるさく言えば(本当にうるさいなあ)後置詞というべきだろうが、いずれにせよ -a-c を「主格の特殊形」と見なすやりかたは1810頃の、ビルバオの言語を基にした言語記述でも引き継いでいる。さすがのフンボルトも「主格・対格」の枠組みを離れるのには苦労したようだ。能格言語の絶対格と能格の区別の本質そのものは理解しているからなお面白い。さらに例文にあげたGott lebt対Gott schaftで、後者の他動詞構文で目的語を抜かしてあくまで印欧語では主格に立つ主語だけを比較している。このGott schaftにあたるバスク語では目的語がGott lebtの場合のGottと同じ形になるはずだが、それは論じられていない。今なら「能格言語では他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格をとり、一方他動詞と自動詞では主語の格が違う」の一言ですむ簡単な事象でさえ、理解するのには先人の長い思索があったのだ。これは自然科学もそうだが、現在では小学生でも知っている事もそれを発見した当時最高級の頭脳の努力の賜物なのだということを思わずにはいられない。


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 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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 英語かドイツ語が母語の人が日本語を勉強していて、「今日は寒くなる」とか「部屋がきれいになりました」と言えずに「今日は寒いなるでしょう」、「部屋がきれいなりました」あるいは「部屋がきれいだなりました」とやっているのを見たことがないだろうか。それぞれ heute wird kalt 、das Zimmer wurde sauber あるいは it will be cold today、the room became clean といった母語での言い方が干渉したのであろう。ドイツ語・英語では「~になる」という文ではコピュラ構造の場合と同じく、述部に形容詞の辞書形がそのまま来るからだ。ウルサイことを言えば例えば「寒い」という形容詞は kalt あるいは cold と等価ではなく、be cold とか kalt sein とかコピュラ付きでいうべきだろう。が一方日本語にはコピュラという動詞がない。「です」だろ「だ」だろは動詞ではなくセンテンスの当該部分にくっ付いてそれがpredicate nounまたはcomplement(ドイツ語でPrädikatsnomen)であることを示す単なるマーカーである。そのPräkatsnomenは格に関しては基本的に中立だから、「です」がつくと格マーカーが削除されることが多い。特に主格マーカーは必ず削除される。「山田さんは先生です」であって絶対「山田さんは先生がです」にはならない。しかしドイツ語のクセを出してこの「です」をコピュラとみなしてしまうと自動的にPräkatsnomenを主格と解釈してしまうことになる。現にドイツ語母語者には「山田さんは今アメリカです」という極簡単なセンテンスが理解できない者がいる。「アメリカ」が処格であることがわからないからだ。ついでに言えば主題の「は」も格は中立だから、主格グセがつくと「その本は昨日読みました」「山田さんは先週お嬢さんに赤ちゃんが生まれました」がわからない。

 話を戻すが、そこで「なる」と「です」では全くセンテンスの構造が違い、前者は動詞、後者はマーカーで、動詞「なる」のほうはその補語に形容詞がそのまま来ないで副詞化した形で置かれる、と説明してもドイツ語母語者相手だとまだ十分でないことがある。英語だと簡単だ。日本語では it became beautiful でなくit became beautifullyというんですよと言えばいいが、ドイツ語は形容詞がそのまま副詞になるからだ。Sie ist schön のschön は形容詞で「彼女は美しい」だが、Sie singt schön は「彼女は美しく歌う」でschönが副詞なのに形は全く同じである。gut(形)→ gutØ(副)、schön(形) → schönØ(副)といういわばゼロ付加だ。対して英語には -ly という目に見えるマーカーがつく(beautiful → beautifully )。英語ではさらにゼロマーカーも使うし(cold → coldØ)、語そのものを変換してしまうことがある(good → well)が、ともかく -ly という副詞形成の形態素が存在しているからいい。ドイツ語のように一つの形がいわゆる形容詞と副詞の2つの品詞にまたがっていると、頭ではわかっても気を抜くとすぐ区別が怪しくなる。
 そもそも副詞というカテゴリーに入れられているメンバーは形容詞崩れあり前置詞起源のものあり種々雑多で、副詞というのを一つの独立した品詞とみなしていいのかという議論さえあるくらいだ。「つまり動詞でも名詞でも形容詞でもない単語が消去法で副詞として扱われるのだ」と主張する言語学者も少なくないそうだ。カルツェフスキーあたりもそんなことを言っていたらしい。特に形容詞との境界線があいまいで、ヘルマン・パウルでさえこんなことを言っている;

Die formelle Scheidung des Adjektivums vom dem Adv. beruht auf der Flexionsfähigkeit des ersteren und der dadurch ermöglichten Kongruenz mit dem Subst. Wo dies formelle Kriterium entfällt, da kann auch die Scheidung  von dem Sprachgefühl nicht mehr strikt aufrecht erhalten werden. ... Wir haben eigentlich kein Recht mehr gut in Sätzen wie er ist gut gekleidet, er spricht gut und gut in Sätzen er ist gut, man hält ihn für gut einander als Adv. und Adj. gegenüberzustellen.

形容詞は副詞と形式上分離させられるが、それは前者が語形変化して名詞と呼応できるという点に基づいている。この基準が満たされなかったりすると言語感覚からしてこの二つをきっちり分ける必要性があまり感じられなくなる。… 本来 er ist gut gekleidet (「彼は良く着飾っている」)、er spricht gut (「彼は上手く話す」)の gut とer ist gut(「彼はいい(人だ)」)、man hält ihn für gut(「皆彼をいい(人だ)と思っている」)という文の gut を副詞対形容詞として対立させて考えなければならない理由はないのだ。

現代ドイツ語文法の権威Dudenでは gut は品詞としては形容詞だが、形容詞には付加語的用法(attributiver Gebrauch)、述語的用法(prädikativer Gebrauch)、副詞的用法(adverbialer Gebrauch)があるとしている。つまり品詞という言語範疇そのものとその機能を分けて考えているわけで、近代言語学的というか説明力が強い。このように機能と形を観念的に区別すると例えば副詞の形容詞的用法というのも成り立つわけで、die Zeitung heute ist interessantという言い回しの副詞 heute がまさにそれであろう。heute は品詞としては副詞だが、ここでは動詞でなく名詞(それともDPとか何とか呼ぶべきか)の die Zeitung(「新聞」)にかかっており、この文は「今日の新聞は面白い」である。
 言い換えると品詞そのものが移行するのでなく機能が移行するのである。上述の見方だとgut(形)→ gut(副)はゼロ付加による品詞の転換だが、機能と形を分けるこの考えかただとer singt gut (「彼は上手に歌う」)の gut は形容詞の「転用」と見なせる。日本語ではこれが形容詞の活用として文法化されているのである(いい → よく、寒い → 寒く、きれい → きれいに)。

 ロシア語でも形容詞を副詞にするのは一定の形態素の付加による「造語」あるいは「派生」とみなされているようだが、転用、さらには活用と接触する点があって面白い。
 文法書をみると形容詞の項に「性質を表す形容詞(Qualitätsadjektiveまたはqualitative Adjektive)からは語尾を -o、-e にすることによって規則的に性質を表す副詞(qualitative Adverbienまたはdeterminative Adverbien)が作られる」とあるし、反対側の副詞の項には「形容詞の語幹から性質を表す副詞を形成するのはロシア語でもドイツ語でもさかんに行なわれている方法である。」と同じことを言っている。詳しくいうと:

1.語幹が硬音子音(非口蓋化音)で終わっている性質形容詞 качественные прилагательные には –о、軟音(口蓋化音)なら –е をつける。
2.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっている性質形容詞語幹には -и をつける。
3.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっていても関係形容詞относительные прилагательныеならさらに前に по- をつけ、後ろの -и とで挟む。性質形容詞にもこの型で副詞をつくるものがある。
4.形容詞の女性対格形に в-、за- の前置詞をつける。
5.前置詞に古い短形活用のパラダイムを継続させる。с-、из-、до-+短形生格、 на-、за-+短形対格、по-+短形与格、в-、на-+短形前置詞格を後続させる。

それぞれ次のような例が挙げられる。左に示した形容詞は男性単数主格形、下線部が語幹である。
1.
быстрый → быстро(速い → 速く)、красивый → красиво(美しい → 美しく)
односторонний → односторонне(一面的な → 一面的に)、
крайний → крайне(極端な → 極端に)

2.
творческий → творчески(創造的な → 創造的に)、
дружеский → дружески(親しげな → 親しげに)

3.
русский → по-русски(ロシアの → ロシア風に・ロシア語で)

4.
крутой → вкрутую(堅い → 堅く)(卵の茹で方に関してのみ)、
частый → зачастую(頻繁な → 頻繁に)(частоという1のパターンの造語も可)

5.
новый → снова(新しい → 新しく・もう一度始めから)、
далёкий → издалека(遠い → 遠くから)、сытый → досыта(満腹な → 満腹に)、
скорый → наскоро(速やかな → 速やかに)、 новый → заново(新しい → 新しく)、
пустой → попусту(空しい・無駄な → 空しく・無駄に)、
далёкий → вдалеке(遠い → 遠くへ)、 лёгкий → налегке(軽装の → 軽装で)

明確に「造語」と言い切れる英語と違って、ロシア語の形 → 副変換はむしろ文法の範疇に入ることが一見して明らかだ:前綴りとしてあげられている по- や с- などはれっきとした前置詞、つまり独立単語だし、特に4と5で顕著だがその前置詞がきちんと格支配までしている。しかも前置詞が本来の意味を保持している。だから同じдалёкий(「遠い」)という形容詞に из(「~から」)がつくと「遠くから」、в(「~へ」)がつくと「遠くへ」になるのだ。さらにこの形容詞には当然1のパターンのдалекоという副詞もありこれが「遠いところにある」。だからこれらは品詞としての副詞というよりむしろシンタクス上の単位、れっきとした前置詞句PPである。
 では1と2はどうか。быстро、 крайнеなど -o、-e で終わる形は形容詞の活用形の一つ短形活用の単数中性形と同じだ。実は私は今までこの быстрый → быстро タイプの副詞化は形容詞の短形中性単数が「転用」されたのものだと思っていた。ところが文法書ではこれが「造語」扱いされているのでむしろ驚いたのである。
 ロシア語の形容詞の活用には長形と短形の二つのパラダイムがあり、上でも述べたように形容詞の代表形として挙げてあるのは長形活用の男性単数主格だが、この長形活用形は形容詞一つにつき単数男性、単数中性、単数女性、複数形の4つにそれぞれ主・生・与・対・造・前置の6格あるから理論的には4×6=24形を区別する。「理論的には」と書いたのは複数生格と複数前置格など、同形のものがあるので実際には24より少なくなるからだ。なお、20世紀の初頭までに書かれたロシア語には複数男性・中性と複数女性形を区別しているものがある。前者は語尾が -ые、後者は -ыя となる。例えばкрасивый(「美しい」、男性単数)の主格形は красивая(女性単数)、красивое(中性単数)、красивые(複数)の4つだが、一方男性単数ではкрасивый(主格)、красивого(生格)、красивому(与格)、красивый/красивого(対格)、красивым(造格)、красивом(前置格)という6つの格変化形があるが、中性単数と男性単数は主格と対格以外同形である。上の4で出してある形は女性単数対格である。
 対して短形活用のほうは現在では主格形しかないし、形容詞によっては短形を作らないものがある。「美しい」の短形単数男性はкрасив、単数女性がкрасива、単数中性красиво、複数形がкрасивы。語幹が口蓋化音で終わると女性、中性、複数形がそれぞれ-я、-е、-и で終わる。しかし上で「現在では」と但し書きをつけたように、昔はこの短形が長形と同じくフルバージョンで活用し、名詞と全く同じ活用語尾をとった。上の5を見てもらいたい。形容詞が短形中性単数形の格変化形を完全に供えているのがわかる。1の -o、-e も中性単数の活用語尾ではないのか。英語の -ly とは違って造語・派生形態素ではなく活用語尾、形 → 副の転換は形容詞の一つの活用形をシステマティックに転用したもの、という気がしてならない。さらにこれらは中性単数主格なのではなく実は対格なのではないかと私は疑っている。
 問題は2、3のタイプ、-ский などで終わる形容詞で、これらに -и がつくのはどうしてかちょっと調べてみたがわからなかった。落ちこぼれロシア語学習者で申し訳ないが、落ちこぼれなりに考えてみると、このタイプの形容詞は名詞から派生してきたもの、つまり形容詞としては新参者が多い。だから5と違って形容詞が中性名詞的に働くことが出来ず、付加語としての陰を引きずっているのかもしれない。言い換えると昔は後ろに「様式」とか「やり方」を表す名詞がくっついていたのかもしれないとも思ったがこれがあまり上手く行かない:現在は「やり方」はобразという男性名詞で、形容詞を無理やり短形パラダイムにすると「創造的に」はпо творческу образу となるはずで -и  が出てこないからだ。では昔はобраз という意味の女性名詞があったのかと解釈しても、与格支配の по とは合わない。では少なくとも2は複数対格かあるいは女性単数生格か複数対格起源だとして逃げようとしても3の例が残るので逃げ切れない。やっぱり -и となる理由が考えつかないまま堂々巡りである。
 やはり素直に-o、-e、-и は派生の形態素とみるしかないのか。

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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
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そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
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