アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:大学受験

 厳密に言うとドイツ語には日本語の「科学」に相当する言葉がない。強いていえばWissenschaft(ヴィッセンシャフト)が「科学」に相当するが、これはむしろ「科学」より広い「学問」という意味だ。日本語だと「科学」というと自然科学が連想されがちだが、ドイツ語では「自然科学」(Naturwissenschaft)、「人文科学」または「精神科学」(Geisteswissenschaft)、どちらも「科学」で表すから「科学者」(Wissenschaftler)といえば物理学者も文学研究者も含まれる。つまりドイツ語には自然科学だけを暗示する「科学」という言葉はない。だからあまり「文系・理系」とすぐ人を二分割でカテゴリー化することもあまりない。
 さらにドイツ語の「人文科学」と日本語の「文系」はちょっとニュアンスが違っている感じで、日本語の「文系」という言葉を聞くと私は文字通り「文学」を思い浮かべるが、ドイツ語でGeisteswissenschaftといわれると真っ先に神学を連想する。ためしにドイツ語ネイティブに聞いてみたら人文科学の代表は「哲学だろ」とのことであった。さらにこのネイティブは続けて、「数学なんてのも本当はこの「人文科学」(あるいは「精神科学」)の最たるもんだろ。ほとんど外界と接触しないんだからな。そもそも今の自然科学だって哲学から発展してきたものだし。まあこんな2分割にはあまり意味がないんじゃないの?」と言っていた。

 実は私が最初入学した大学の学部もこの2分割からハズれていたのである。文系でも理系でもない、私は本来「美系」なのである。芸術学部だ。入試の2次試験は石膏デッサンと色彩構成の実技だった。

 家がビンボーだったので、私は「大学は国立・現役」が至上命令だった。しかも帰省にあまりお金がかからないように東京近郊という条件付きだ。高い私立大学、国立でも遠い大学は始めから視野の外。まあ、一浪くらいなら「おっとすべっちゃった」で許して貰えたかもしれないが、2浪3浪が標準の大学は除外。いわゆる英才教育などとも無縁の環境だったから、有名な芸術家の子弟で高校生のころから各種展覧会に出品するような半プロの受験生がいる東京藝術大学など絶対無理。
 それについて恐ろしい話をきいたことがある。ある年、藝大入試のデッサンの実技試験の課題として、ビニール袋に入ったブルータス像が出たそうだ。なぜ石膏像をビニール袋に入れたりするのか?

「だってブルータス像なんて受験生は何十回もデッサンして練習してるだろう。普通に出したりしたら目をつぶってても描けちゃうからそんなんじゃ全然差が付かないんだよ。」

完全に世界が違う。

 そこで藝大以外の国立の美術学部ということになるが、国立で美術学部をかかえている大学というと大きな総合大学しかなかった。
 当時国立には共通一次試験というものがあったので、私は「普通の勉強」の方も結構まじめにやった。通っていた都立高校が一応受験校だったので周りに引っ張られたし、私自身も人に禁止されるまでもなく浪人したくなかったのだ。実は中学の時も高校の時もさる国立大学の付属校を受けて2回ともボツっており、「行くのはいつも第二志望」という人生展開に嫌気がさしていて、いいかげん大学くらいは第一志望にいきたい、という思いが切実だった。合格発表の会場で自分の受験番号が張り出されていないというあのイヤーな体験は2度もすれば十分だ。

 というわけで私は普通の受験勉強の大変さも人並みには経験していると思うし、試験に落ちたときのショックもよくわかるのだが、実技試験はある意味では勉強よりキツいのでこの機会に言わせて欲しい。
 一番きついのは、実技にはカンニングとか速習・早分かりとかいうワザが通用しないことだ。試験場ではもちろん隣の人のデッサンなど見放題、カンニングし放題である。でも上手い人の絵を見てマネしたからと言ってこちらのデッサンの腕が上がるなどということはあり得ない。むしろ逆。人の真似などしたら、線は不自然になるしパースは狂うしで余計ギコギコになり、受かるものも受からなくなる。受かるものさえ受からなくなるのだからもとから受かるかどうか危ないものはさらに合格が遠のくこと請け合いだ。どんなに頭でわかっていても、手が動かなければ、自分の目でパースが見えなければ、そして紙の上に光を写し取ることができなければどうしようもないのだ。受験準備中も「飛躍的に力が伸びる」などということもない。いわゆる「ヤマかけ一発勝負」なども利かない。つまり運的要素がまったく機能しないので、本当に自分の持っているもので勝負するしかないのだ。

 そうやって受かった美術学部を私は2年で出てしまった。理由はいろいろあった、と言いたいところだが実は単純で、一言で言うと絵をやる覚悟・根性が足りなかった、ということだろうか。はっきり「才能がなかった」と言ってもいい。単に大学入試に通るだけなら「絵を描くのが好き・ちょっと人より上手い」レベルでいいかも知れないが、問題はその後なのだ。大学を卒業する、いや卒業後もそれでやっていくにはただ好きなだけでは駄目だ。どうしてもこれを描きたいという内部からの衝動がなければ無理。単にチョコチョコ小手先の基本技術だけ身に付け、小器用にちょっとした絵がかける程度の甘い根性ではやっていけない。私にはその内部からの衝動が決定的に欠けていた。こういうと負け惜しみのようだが自分は絵でやっていける技量はない、と気づいたことだけでもまあ美系に行ってよかった、いい人生の勉強になったと思ってはいる。せっかく人生で初めて「第一志望」に入れたのに結局落ちこぼれてしまったのは残念ではあるが。

 ところでその私のいた大学だが、芸術学部が体育学部とくっついていて、第二外国語や教育原理の授業などがいっしょだった。ここの体育学部というのがまたレベルが高く、日本一など序の口、オリンピックで金メダルをとった体操選手が当時教授をしていたと記憶している。つまり大学中で最も剛健な者と最も軟弱な者がかたまっていて、その中間、「普通の人間」がいない環境だったのだ。「文系・理系」とかそういうカテゴリーを超越した一種独特なシュールな雰囲気が漂っていた。
 後にそこを出て同大学の「普通の」学部(人文学類)に転学したが、そのとき周りの学生が皆あまりにも上品でおとなしく、行儀がいいので驚いたものだ。なるほど普通の人間とはこういうものかと感心した。そしてそのまま落ちこぼれどころか結局最後まで人間にさえなれないまま卒業してしまったのである。気分はほとんど妖怪人間だった。そういえば最近顔も似てきたような気がする。ただし同性の「ベラ」のほうではなくて「妖怪人間ベム」のほうにである。


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 前にも出したダイグロシアという言葉がファーガソンの造語と思われがちなのに実はそうではないのに対し、今流行の(?)メリトクラシーという言葉は巷で思われている通り社会学者のマイケル・ヤング Michael Young の造語である。1958年に出版された the rise of the meritocracy というエッセイで登場した。ファーガソンのエッセイ的論文 Diglossia が出たのが1959年、チョムスキーの Syntactic structures が1957年出版だから、まさかヤングがわざと言語学と連動したとは思えないが、とにかく1960年直前から前半にかけてはエポックメーキングな時期だったようだ。ついでに『荒野の用心棒』もこの時期の制作である。
 ファーガソンの Diglossia も論文と言うよりエッセイに近かったが(『162.書き言語と話し言語』参照)、ヤングの the rise of the meritocracy は本当にエッセイである。しかも2033年にそれまでの社会の歩みを追うという設定だからからエッセイと言うよりはSF小説・未来小説のようで、内容は硬いのに「面白い」という言葉がぴったりだった。しかも最後にオチというかどんでん返しまでついている。ファーガソンやトゥルベツコイのエッセイ(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)はここまでスリルはない。提起される問題・議論が「人類社会は何処に行くのか」と「印欧語とは何か」「バイリンガルとは何か」では重みとしてはやはり前者の圧勝だ。印欧語の何たるかなどという問題は実際の生活に全然関わってこないからだ。

 メリトクラシーというのは「業績主義」「能力主義」ということだが、ヤングはこのメリトクラシーをそれまで英国で続いてきた世襲に変わる新しい階級社会として描き出している。「階級社会である」という軸はぶれていないのだ。だからいわゆる社会主義者が唱える「人は皆平等」という考えかたは、「センチメンタル」「ポピュリスト的」として洟もひっかけない。人類皆平等などというのは幻想というわけだ。念のため言っておくと、ヤングはそう主張しているのではなくわざとそういうことを言って問題提起しているだけだからあまりここで落ち込まないことだ。この先さらに描写が過酷になるから心の準備が必要だ。

 以前の英国では世襲的階級社会で、貴族、上流階級、労働者階級という風に枠ができていて、どの枠の中に生まれるかで大方職業や人生が決まってしまっていた。その際各々の階級内にはそれぞれ様々な知能の人がいた。頭のいい貴族もいたが、今の義務教育さえクリアできそうもないバカもいた(「バカ」などという差別用語を使ってしまって申し訳ないがヤングは本当に stupid、moron などの言葉を使っているので失礼)。しかし貴族に生まれればどんなバカでも国の要職につくことができたし金にも困らなかった。逆に下層階級にも天才的な頭脳の人がいたが、生まれが生まれなために社会の階段を這い上がれず、一生単純労働者として自分よりずっと頭の悪い周りの人に混じってトンカチをふるうしかなかった。
 国際間の競争が激しくなってきた昨今、こんなことをやっていたのでは生産性が上がらず国が衰退する。優秀な人を下層階級からドンドン這い上がらせてエリート教育し要職につかせるべきだというので様々な対策が立てられることになる。

 まず教育だ。選抜教育に力を入れるべきで、小学校中学校まで皆同じなんてやり方はアホ。小さい頃から頭の出来に応じて学校は分けるべき。グラマースクールその他の学校格差を廃止して機会均等とやらのために一律の総合学校なんかを設置するのは害にしかならない。頭が悪い生徒といっしょになんかさせておいたら、馬鹿が感染してしまい(とまで露骨な言い方をヤングはしていないが)子供の発達が障害される。できるだけ早い時期に頭のいい子だけでまとめ、エリート教育を開始すべきだ。エリート、つまり国や企業を引っ張っていく力のある人間というのは単に頭の回転が早いだけではだめ、それ相応の教養・立ち居振る舞いを身に着ける必要があるが、そういうのは付け焼刃で身につくものではない。特に下層階級の子供は才能があると分かった時点で上流階級の子供以上にできるだけ早く周りの馬鹿から引き離し自分と同等のIQの子供たちと(だけ)接触させるべき。でないと長年染みついてきた下賤さが振り落とせない。下層階級からIQの高い子供を引っ張り上げてエリートにするのは国益である。
 ヤングはアメリカの教育制度についてもちょっと触れ、馬鹿も利口も一律にエレメンタリ→ジュニア・ハイ→シニア・ハイと進む「平等」な教育をコキ下ろしている。もっとも幸いアメリカには大学間にレベルの差があって、そこで生徒が競争でき、頭の出来によって、いい大学・馬鹿大学というランク分けできるからまだいいが、実は17歳18歳になってからやっとIQによる選抜が始まるのでは遅いのだ。本来小学校に入る以前からしっかり知能検査して振り分けるべき。そして能力のない子供は下手に高等教育に進学させたりしないで中学程度で教育を終わらせ、さっさと働かせなさい。進学させたってどうせついていけないのだから。

 能力のある子供が下層階級だった場合逆の問題が出てくることがある。階級にふさわしく両親の人生観も下賤なことが多く、「知」の価値がわかっていない。せっかく自分の子供が知能的に高等教育の資格を持っていても「大学なんかに行く金が無駄。それよりさっさと就職しろ」と教育を中断させたりする。そういう下賤な親を黙らせるためにグラマースクールに行けた生徒には給料を出したらどうだろう。下手な労働者より多く出してやれば利口な子供の邪魔をする馬鹿な親も黙るだろう。
 もっとも能力のある下層階級の子供を「吸い上げる」のはそれでもまあ比較的簡単だ。やっかいなのは上流階級の子供が馬鹿だった場合である。親は自分たちは上流だと思っているし金もあるから子供にどうしても高等教育を受けさせたがる。さらに自分の所有している会社の幹部にしたがったりする。しかし能力・知能もない奴に大学に来られたりしたら周りの利口な学生の足を引っ張るから社会の迷惑だ。また頭の悪い奴が経営している企業が増えたら国益が損なわれる。同族経営、コネ進学などを不可能にするような制度が必要だ。例えば国民全員のIQリストを国が管理するというのはどうだろう。まあ日本のマイナンバーに「IQ」という項目があるようなものだ。

 もちろん能力検査のやりかたは心理学者や脳神経学者が研究を重ねて、能力のある人を捕りこぼさないようにしていかなければいけない。またIQ検査も受験者が当日たまたま風邪を引いていたり心の悩みを抱えていたりして低く出る可能性もあるし、そもそもスロースターターで知能の高さがある程度の年齢になってからジワジワ現れてくる人もいるからIQ検査は定期的に何度でも受け直せてアップデートできるようにする必要がある。

 つまり目ざすべき社会では学歴と能力・実力が完全に一致していて、学歴を見れば実力がすぐわかる社会、能力がある者だけがのし上がれ、貴族だろうが親が金持ちだろうが馬鹿だったら下に甘んじてもらうという、ある意味非常に厳しい階級社会なのである。いわゆる社内教育にもヤングは否定的。企業がグラマースクールや大学の真似事をして偉ぶりたい気持ちはわかるが、そんなものは「正規の学歴」の代わりにはならないというわけである。
 学者が粋を集めた能力検査は非常に精密なので無能な人がいいスコアを出してしまったり、能力のある人を捕りこぼしたりはしないようになっている上、上で述べたように繰り返しがきく。グラマースクールの生徒には給料が出る。そこまでしてやっても這い上がれない労働者階級と言うのは要するに能力がないということ。運が悪いの金がないからだのという慰めは通用しない(「彼らは劣等感を持っているのではない、実際に劣等なのだ」という表現が出てくる)。「勉強だけデキテモー」とか「頭デッカチ」と能力上流階級を罵ることもできない。IQの高い者にはその「社会の実力」も身につけさせるからである。救いようがない厳しさだ。その厳しい階級制度を維持するにはいろいろ解決すべき課題が生じる。
 まず、能力的に下層階級の人をどうするか。彼らが嫉妬や絶望のあまり外で暴れたり人生に希望を失って自暴自棄になったりしないよう懐柔しないといけない。その1は彼らにスポーツをさせることだ。頭で誇れない代わりに筋肉自慢をさせて得意になっていて貰えばいい。その2は、自分は下層でもいつか頭の良い子供や孫が生まれるかもしれないと、次の世代に希望を持たせ、自分は一生下層階級という人生に甘んじてもらうことだ。その3は「何もしない」ことだ。能力が下層の人にはそもそも組織的な抗議運動を起こしたり、政治の場に代表を送り込んだりできる頭はないから譬え多少暴れてもそれは単発に終わり、社会不安にまではならないだろう。
 さらにこれもある意味懐柔策だが、職業名称などをマイルドにしてあまり下層感を持たせないように変更する。だから例えば rat-catcher の代わりに rodent officer、lavatory cleaner の代わりに amenities attendant、 worker でなく technician と呼ぶ。Labour PartyはTechnicians Partyという名前に変更だ。こういうリップサービスをしておけば彼らもまあ自分が高級になったような気になってくれるだろう。

 ここまでですでに背筋が寒くなるが、まだ先がある。もう鬱病になりそうだ。

 さて、馬鹿が劣等感に駆られて暴れないように懐柔策を練ることに成功はしたとする。しかしそこでさらに大きな問題が起こる。IQ上流階級の人がドンドン社会を合理化し生産性が上がるにつれてIQの低い人たちにできる仕事が減っていくのである。単純作業などは皆機械がやるからだ。彼らに居場所を提供してやらないと社会が不安定になる。解決策としてIQの低い人たちには高い人たちの召使になってもらうというのはどうだろう。生産性の高い人がその能力を全て社会のために発揮できるよう、部屋の掃除やスーパーでの買い物などという下賤な仕事から解放してやり、そういう些末な作業はそれにふさわしいIQの人たちにやってもらえばいい。そうすれば能力的下層階級の人も失業しないで済む。
 
 ここでお花畑の社会主義者からクレームがつく。人間の価値とは何か?学歴・能力・IQだけが人間の価値なのか?それに対する答えはこうだ。人間の価値、美徳の基準などというものは世につれて変わる。昔槍をもって戦争していたころは力が強く人殺しの上手いのが美徳だった。封建制の頃は忍従の美徳、自分を捨ててご主君様に追従するのが美徳とされた。今の社会では生産性が美徳なのである。今の時代は学歴IQの高いものは低学歴よりも人間としての価値があるのだ。時代や社会に全く影響されないユニバーサルな「人間の価値」などというものは社会主義者のお花畑脳の産物だ。
 そもそも馬鹿も利口も選挙で同じ一票が入れられるというのは不合理だ。IQ値の高い人の一票は馬鹿の何倍かの重みを与えたほうがいい。

 しかしメリトクラシー社会を内部から不安定にしそうな要素は馬鹿の暴走ばかりではない。実は議会制・民主主義が危なくなる危険性があるのだ。今述べた「学歴によって一票の重みに差をつける」というのも相当危ないが、例えば労働者を代表する党を考えてみて欲しい。党員になるのはつまり労働者、知的下層階級である。そういう知能平均の党とそれよりずっと知能の高い大学教授や企業主を代表とする党はそもそも議会で話合う事さえできない。言語能力、教育程度が違いすぎるからだ。議会の権限を弱めて立法機能の一部を行政側に移行する手もあるがそれでは議会が単なる飾りになってしまう危険がある。それだと民主主義そのものがヤバくなるので(上述のように馬鹿の一票を軽くしたりすればすでに十分ヤバくなると思うが)、「下層階級の声を代表する」党が幹部や党員を当該階級でなく、ヨソのもっとIQの高い職業層から引っ張って来るしかない。どちらにしてもIQが下と見なされる職業層は政治に自分たちの声を送り込めなくなるのだ。これをどうするかが課題となる。

 もう一つの課題は女性問題である。基本的にはIQの高い女性にはドシドシ上昇してもらって馬鹿な男がのさばったりしないようにするのが国益だ。制度を整備してそういうことにならないようにすべきだが、現在の社会時点では実際問題として結婚すると女性の負担が増え、能力を上手く生かせないことが頻繁だ。そこで女性は結婚生活と仕事と力を半々に分散させるか、あるいは家事なんかはIQの低い召使に全部任せるか、さらにあるいは自分のIQを犠牲にして家庭生活を選ぶかということになるが、子供が生まれると頭だけでなく体にも負担が出るのでたとえ召使を使っても女性のIQの損失を賄いきれない。またIQの高い女性は当然子供も少なくとも自分と同等のIQを持ち自分より下の階級に落ちないように望むから、その確率を上げるため(頭のいい両親に馬鹿が生まれることだってある)できるだけIQ値の高い配偶者を探すようになる。
 だが考えてみて欲しい。結婚すると自分のIQが無駄になるのは確実、譬え高知能の配偶者を選んでも自分の子供が下に転落する危険性があるとなれば、馬鹿でもない限り(これらの女性は文字通り馬鹿ではない)結婚なんてヤーメタとなるだろう。子供も下手に自分で産んで転落のリスクを犯すより出来合い、つまり労働者階級の親から生まれた高IQ値の子供を養子として持ってきた方が確実だ。それで「養子仲介業」が盛んになる。下層階級の人はすぐ金のことを考えるので養子受け入れ側の女性が親にたんまり金を出せばすべて丸く収まる。この人身売買があまりにも横行したため、ついに政府は養子制限令を出すに至る。でないと一旦能力の上流階級に属してしまうとそれが世襲する危険が生じるからだ。
 そうこうするうち能力検査のやりかたも脳神経学者たちの努力の結果非常に確実さを増し、子供が生まれた時点、いや生まれる前にすでに将来のIQがわかるようになる。これも養子獲得競争が熾烈化した原因だ。

  以上がヤングの2034年以前の英国社会のシミュレーションである。昔は生まれた家柄で人生や職業が決まってしまっていたが、それが生まれたときのIQでその後の人生がすべて決まるようになるのだ。もっともヤング自身も描き出しているように実際は様々な問題が噴出してきてそうすんなりとは行かない。それからどうなるのか、人類社会はどこに行くのかという問題提起がエッセイの趣旨だ。

 ヤングのこのシミュレーションは舞台が英国社会に限られている。英国が台頭してきたアメリカ、ソ連、アジア諸国と生産性競争で勝ち抜くにはどういう社会を目ざすべきかというシミュレーションである。このエッセイが書かれたのは1958年だからまだ現在のようにはグローバル化が進んでいなかった頃なので、その点では視点が狭い。ちょっとこれを世界規模にまで敷衍して思考ゲームをして見よう。

 今までは生まれた国で一生を過ごすのが基本であった。国にはもちろん馬鹿から天才まで幅広い知能、幅広い能力の人がいた。イギリスの閉ざされた階級社会のようなものだ。このカースト、国籍だの民族の壁が取り払われて頭のいい人はジャンジャン自分の生まれた国を出てもっといい国に移動するべき、出身階級・出身国になんてこだわっていないで「上流国」に渡ってそこで自分の能力を十分発揮するのが人類全体の発展のためという国際社会の社会意識や価値観、コンセンサスが確立されたとする。というよりすでにそれがある程度コンセンサスだが。すると文明文化・技術の進んだ国にはガンガン世界から頭のいい高学歴の人が集まってくる。頭のいい人は語学だって得意だから言葉の壁なんて屁のようなものだ。そうやって住民の50%がIQ150以上である国が出てくる一方、国民の1%くらいしかIQ150がいない(むしろそっちのほうが普通だろよ)国も生じる。IQ100以下などめったにいない国とIQが80くらいの人が10%以上もいる(これもそっちが普通)国ができる。150と80ではお互い意思の相通が困難になるほどだから、国連総会なんて存在意義がなくなる。そもそも国民総低IQになったら政治ができないから国が成り立たない。ヤングのシミュレーションした英国の労働党ではないが、自党のメンバーでは組織を維持できないから頭のいい人を外国から引っ張ってきて行政をやってもらうしかない。
 では高IQ国が万々歳かというとそうはいかない。その国にふさわしくないような頭の悪い自国民をどうすべきかという問題が生ずる。馬鹿に国内に居残られたら自国民・移民を問わず頭のいい人たちの足を引っ張るからである。それに国内にはそういう人たちが就ける仕事も能力の高い人の召使くらいしかない。やはり定期的に国民にIQ検査をして一定のスコアを取れなかった人は等級の低い国に移住してもらおう。国民引き取り代として向こうの国に金を払えば喜んで馬鹿を受け入れてくれるに違いない。こちらも別の意味で言葉の壁の心配などいらない。引受先にはどうせサバイバル程度の語学で足りる仕事しかないからだ。
 現在の調子だとそういうことを本当にやる国が出てきそうで怖い。

 こういうのが人類の幸福か。「冗談じゃない」というのが私の気持ちであるが、ではこういう暴走をふせぐために逆にガッチガチに民族・国籍で国を囲ってしまい、ちょっと外国人が来たくらいでパニックを起こし、自国民が出ていくと裏切者だのもう帰って来るななどの罵声を浴びせる国ならいいのかというと、それも「勘弁してくれ」だ。「外人来るな」はむしろ実行が簡単だろうが、能力のある自国民の流出を食い止めるのは難しい。頭のいい人は国を出る能力もあるからだ。その力のある自国民を引き留めるのがどんなにむずかしいかは、旧ソ連や東ドイツを見ればわかる。壁を作り情報を統制し国民を監視するには膨大な費用がかかる。この国際競争時代にそんなムダ金を使っていたら国は衰退するばかりだ。物質・経済面ばかりではない、壁を作ってしまったら中の国民は精神的にもガラパゴス化し、知識をアップデートできないから周りの発展についていけない、搾りカスのような国民国家になること請け合いである。

 つまりメリトクラシー全開の国とガラパゴス単一民族国家間の選択は「冗談じゃない」か「勘弁してくれ」かの選択ということになる。ドイツ語ではこういう状態を表わすのに「ペストかコレラかのどちらかを選べ」という言葉がある。まさに救いようのない選択肢だ。

the rise of the meritocracy の表紙。表紙のイラストはちょっと可愛いが中身は過酷。
rise-of-meritocracy

本の内容はこちら。表紙が上とちょっと違いますが…

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