アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語の消滅

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 インドの遥か東、というよりミャンマーのすぐ南にあるアンダマン・ニコバル諸島は第二次世界大戦中に2年間ほど日本領だったところである。特に占領期の後半に地元の住民をイギリスのスパイ嫌疑で拘束拷問し、しばしば死に至らせたり、食料調達と称して住民から一切合財強奪して餓死させたりした罪に問われてシンガポール裁判で何人も刑を受けた。私がちょっと見てみたのはインドで発行された報告だが、しっかり日本兵向けのComfort Homeについての記述もあった。日本軍はやってきたとき支配目的でさっそく地元の住民の人口調査なども行なっているが、問題はこの「地元の住民」、インド側でいうlocal poepleというのがどういう人たちかである。
 ニコバル諸島はちょっと置いておいてここではアンダマン諸島に限って話をするが、ここは主要島として北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島の3島があり、これらから少し離れてさらに南に小アンダマン島がある。もちろんこのほかにバラバラと無数の離島が存在する。
Andaman_Islands
ウィキペディアから

ビルマ寄りの北・中・南アンダマン島は昔からビルマやインド、果てはイギリスなどから人々が移住してきた。インド各地から来た住民は出身地ごとにかたまってコミュニティーを造り、ビルマ人はビルマ人、イギリス人はイギリス人でコミュニティーを作ったが、これらコミュニティー間では争いもあまりなく、まあ平和に暮らしていたそうである。アンダマン島生まれのインド人など本国よりアンダマン人としてのアイデンティティーの方が強いそうだ。現在人口役20万人強。この多民族な住民が日本軍が来た時のlocal poepleだろうが、問題はアンダマン島にはオーストラリアやアメリカ、さらに日本の北海道のようにもともとそこに住んでいた原住民がいたということである。それらの人々はもちろん固有の言語を持っていた。アンダマン諸語である。そのアンダマン諸語はまず大きく分けて東アンダマン諸語と西アンダマン諸語に分けられるが、東アンダマングループに属する言語はもともと10あり、1800年時点では北・中・南アンダマン島全体にわたって話されていた。
Andamanese_comparative_distribution
これもウィキペディアから

 その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbiというインドの言語学者はこれをPresent-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つStrait Islandというところにコミュニティを作って暮らしている。
 イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。

 その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。

 上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者とaboriginal race(Jarawa)は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
 大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。

 さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述のAbbi氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。

billi-bi bith-om
ship- + sink-非過去
The ship is sinking.


thire-bi bas khuttral beno-k-o
child- + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.


a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam- + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.

thire-bi ŋol-om
child-絶 + cry-非過去
The child cries.

つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。

thire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.

絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例もAbbiは報告し、正直に理由はわからないと述べている。
 能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これはa-という形態素(Abbi はこれらはcliticである、としている)がClass 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象のinalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれa-, εr-, oŋ-, ut-, e-, ara-, o-(あるいはɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr-は主だった外部の人体部分、 oŋ-は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut-は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e-は内臓器官、ara-が生殖器や丸い人体器官 、o-が足や足と関連する器官である。

 え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者のAbbi氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよそのinalienabilityってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。

 大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これがinalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語でteiだが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。

e-tei   (CL5-血)   体の内部の血
ot-tei  (CL4-血)   体の外の血(出血した場合)
oŋ-tei (CL3-血)   指の血または指から出血した血
εr-tei  (CL2-血)   頭から出血した血

名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。

ut-∫ile  (CL4-狙う)→  上から狙う
e-∫ile   (CL5-狙う)→  突き通そうと狙う

ara-pho (CL6-切る)→  切り落とす、(木を)切り倒す
εr-pho   (CL2-切る)→ (前方から)棒で叩く 
ut-pho     (CL4-切る)  → (ココナツなどを)上から切り落とす、叩き落す

同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。

a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い


a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。


「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。

副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
 これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbiはその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。

クラス1 マーカー:a-, ta-
          本来関連する身体部分: 口およびそこから意味的に派生するもの
           動詞につくと: 口と関連する行動、起源、人間の名前
           形容詞につくと: 口と関連する人物の属性
           副詞につくと: 前または後というダイクシス関係、
              ある行為・作用が時間的に前であること

クラス2   マーカー:εr-, tεr-,
           本来関連する身体部分: 主だった外部の身体部分
           動詞につくと: 体の前面部が関わってくる行動
           形容詞につくと: 大きさについての表現、外側の美しさ
           副詞につくと: 隣接または前というダイクシス関係、
             制御不可の行動・感情

クラス3 マーカー:oŋ-, toŋ-
           本来関連する身体部分: 指先やつま先など最も先端にある部分
           動詞につくと: 手と関連する行動、体の先端に関する行動
           形容詞につくと: 手足に関連する属性
           副詞につくと: 急いでいること、急いで行なった活動

クラス4 マーカー:ut-, tut-,
           本来関連する身体部分: 人体から作り出されたものや部分対全体の関係
           動詞につくと: 方向的に自分から離れていくこと、経験されたこと
           形容詞につくと: その一部が切り取られた、短縮されたという属性
           副詞につくと: 何かから現われ出ること、そのものに向かうという
                                             ダイクシス関係

クラス5 マーカー: e-, te-
           本来関連する身体部分: 内部器官
           動詞につくと: 「吸収」の意味合い、行動の影響が対象に及んでいたり、
                                             それが経験されたものであった場合、「内在化」の意味合い
           形容詞につくと: 本来備わっている属性
           副詞につくと: 真ん中、内部というダイクシス関係、
                                           「ゆっくり」という意味合い

クラス6 マーカー:ar-, ara-, tara-
           本来関連する身体部分: 生殖器、丸い形をした中央の人体部分
           動詞につくと: 体の中央または横の部分と関連した行動
           形容詞につくと: 大きさに関する属性、腹に関連すること
         副詞につくと: そのものに触れていたり周辺部であったりという
                                             ダイクシス関係

クラス7  マーカー: o- ~ɔ-, to-,
           本来関連する身体部分: 足とそれに関連する部分
           動詞につくと: はっきりした結果の出た行動
            (丸い対象物の場合は結果が明確でなくとも可)
           形容詞につくと: 手触り、形など外部の属性
           副詞につくと:「日の出」に関連する時間的なダイクシス、 
                                             縦方向のダイクシス

 言語環境によっては別にこれらの意味を付加するわけでもないのにとにかくクラスマーカーをつけること、例えばこういう文法構造の文では形容詞、あるいは動詞をしかじかのクラスでマークしなければいけないという規則になっている場合もあるそうだ。つまりこのクラス分けというのは一部文法化しているのである。
 大アンダマン語の西方で話されているセンティネル語はまだ調査記述が全く出来ていないそうだが(上述)、この言語もこんなに難しいものなのだろうか。私など矢を射掛けられるまでもなく、言語を見せられただけで心臓麻痺を起こして即死しそうだ。
   
大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

Strait Island 2005

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。
Some members of the community


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 人を魅了してやまないヨーロッパの言語といえばやはりバスク語(『103.新しい家』参照)とエトルリア語ではないだろうか。有史以前の古い時代からヨーロッパで話されていながらズブズブに印欧語化された周囲から完全に浮いている異質の言語。バスク語はヨーロッパ文明圏の周辺部で話されていた上その地も山がちで外部との交流があまりなかったせいかよく保持されて今でも話者がいるが、エトルリア語は文明が早く開花したイタリア半島のど真ん中、しかも交通の便のいい平原に位置していたので紀元一世紀ごろにはラテン語に吸収されて滅んでしまった。しかし一方生き残ったバスク語・バスク人のほうからはヨーロッパに与えた部分が小さいのに対し、死んでしまったエトルリア語・エトルリア人がヨーロッパ文化に与えた影響は大きい。「大きい」というよりヨーロッパ文化の基礎となった部分の相当部をエトルリア人が負っている。ローマがエトルリア文化を吸収しているため、エトルリア文化はある意味ではローマを通じて今日のヨーロッパ文化の基礎にもなっているといえるからだ。さらにローマがギリシャ文化を取り入れた際、文字などその相当部は直接ギリシャ人からではなくエトルリア人を通したからだ(下記参照)。ずっと時代が下ってから考案されたゲルマン民族のルーン文字にもエトルリア文字の影響が見られる。

 中央イタリア、現在トスカーナと呼ばれる地域には多くの碑を残すエトルリア語を話す人々の存在は既に古代ギリシャ人の注意を引いていた。ギリシャ人は彼らをティレニア人とも呼んだ。鉄器時代、紀元前1200年ごろから彼らはそこに住んでいたらしい。時代が下ったローマの文書にもエトルリア人に関する記述がある。どの記述を見ても彼らが洗練された高度な文化をもっていたことがわかる。ギリシャ人のように非常に早くから、紀元前8世紀頃にはすでに高度に発展した都市国家をいくつもイタリアの地に築いていた。一説によるとラテン語などの「エトルリア」という呼び名は turs- という語幹に遡れ、ギリシア語の tyrsis、ラテン語のtrurrisと同じ、つまり「塔」から来ているという。高度な文化を築いていた当時のエトルリア人の家々が(掘っ立て)小屋住まいのローマ人から見ると塔に見えたので「塔を立てる人々」の意味でTursciまたはTyrsenoiと呼ばれたのでは、ということだ。面白い説だが証拠はない。

エトルリア人はローマが勃興する以前にイタリアに多くの都市国家を築いていた。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 2 から

Etrusk3#

 エトルリア語で書かれた文書は紀元前7世紀から紀元前一世紀にわたっているが、言語そのものはもちろん文字で表される前から当地で話されていただろうし、文字化も最古の碑が作られた時代より以前から始まっていたにちがいない。起源前7世紀か8世紀ごろにはすでに言語が文字化されていた、ということはラテン語の文字化、つまりローマ字の発生に先んずる。事実ローマ人がアルファベットを取り入れたのは直接ギリシャ人からではなくてギリシャ文字をいち早く改良して使っていたエトルリア人(つまりエトルリア文字)を通してだ。そのギリシャ文字ももともとはフェニキア文字を改良したもので、もちろん最初のころは表記が結構バラバラだった。エトルリア人が採用したのは「西ギリシャ文字」だが、それもギリシャ文字の非常に早い時期を反映しているそうだ。またギリシャ語の名前もエトルリア語を経由してからラテン語にはいったと思われる例が多い。たとえばギリシャの冥界の女神Περσεφόνη(ペルセポネー)がローマ神話ではプロセルピナProserpinaになっているのはそのエトルリア語バージョンPhersipnaiまたはPhersipneiを経由したからと思われる。ギリシャ語のφは紀元後何世紀かまではph、つまり帯気音の p だったから f で表されていないのである。ラテン語にはおそらくギリシア語から直輸入されたPersephoneという形もあるが、これはProserpinaより後のものではないだろうか。
 およそ13000もの文書や碑が出土しているが、有名なものをあげるとまずVetulonia 近くのMarsiliana d’Albegnaで見つかった碑というか象牙の文字盤。紀元前675年から650年ごろのもので、エトルリア・アルファベットの原型26文字が最も完全な形で保持されている。この原始エトルリア文字26のうち、文字化が進むにつれて使われなくなったものもあり、結局この中の22文字が残った一方、f を表す文字が新たに発明された。

エトルリア文字は少しバリエーションに幅がある。
Pfiffig, Ambros J.. 1969. “Die Etruskische Sprache”. Graz: p.19-20 から
Etrusk1#

Etrusk2#

 さらにPyrgiで1964年に金に刻まれた文書が3枚みつかったが、これはフェニキア語とエトルリア語のバイリンガル文書で、同じ出来事が両言語で記述してある。紀元前500年くらいのころのものと思われるのでまあポエニ戦争のずっと前だ。

エトルリア文字が刻まれた金版
ウィキペディアから
EtruscanLanguage2

あまりの金ピカぶりに目がくらんで読めないという人のために図版も用意されている。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 64 から
Etrusk4#

 しかしなんと言ってもスリルがあるのは現在クロアチアのザグレブに保管されているLiber linteus Zagrebiensisという布切れだろう。18世紀の中ごろにクロアチア人の旅行者がエジプトでミイラを手に入れたが、そのミイラを包んでいた包帯にエトルリア語が書いてあったのである。その亡くなったエジプト人(女性)の親族には新品の布を買うお金がなく、エトルリア人が捨てていった反古布を拾って使ったのだといわれている。なぜそんなところにエトルリア人がいたのかとも思うがローマ(含エトルリア)はアフリカ・エジプトと関係が密だったことを考えるとこれはそんなに不思議でもない。それよりその遺族が故人をミイラにするお金はあったのになぜ布代なんかをケチったとのかという方が私個人としてはよほど不思議だ。そんなに貧乏ならそもそもミイラ代も出せなかったのではないだろうか。とにかく謎だらけのこの布はおそらく紀元前150年から100年くらいの「作」。発見者の死後、1862にその布はザグレブに移されて今もそこの博物館にある。もちろん布ばかりでなくミイラそのものも安置されている。このテキストは今まで見つかったエトルリア語の中で最も長いそうだが、ミイラ本体より包帯の方に学問界の注目が行ってしまったというのも皮肉といえば皮肉である。

重要視されているのは中身のミイラよりその包帯のほう
ウィキペディアから
Lanena_knjiga_(Liber_linteus_Zagrebiensis)

 エトルリア語で書かれた文書だけでなく、ローマの歴史書などにもエトルリアについての記述がある。ローマの力がイタリア全土におよんだのはだいたい紀元前3世紀ごろだが、支配下に入った都市はその後も結構長い間自治都市であった。エトルリア人の都市国家も紀元前1世紀頃までは事実上独立した都市国家であったらしい。上でも述べたようにエトルリアはローマに先んじて洗練された文化を展開していたため、その影響はローマの貴族層、ハイソサエティ層に顕著だったようだ。例えばSpurinnaという、名前からみて明らかにエトルリア人と見られる占い師がカエサルに3月15日にヤバいことがおこるぞと警告していたそうだ。さらにあの、ネロの母親アグリッピナと4回目の結婚をしたばかりに最終的な人生のババを引いてしまったクラウディウス帝は歴史家リヴィウスといっしょにエトルリアの歴史を勉強して自分でも12巻の本を著したと言われている。またエトルリアの知的財産が忘れられることがないよう気を配ったとも。帝の最初の妻Plautina Urgulaniaはエトルリア人で、帝にその伝統・習慣などを伝授したものと思われる。
 しかしエトルリア語という言語そのものは当時すでに話されなくなってしまっていたとみられる。紀元前2世紀から言語転換が始まり、最後のエトルリア語文書が書かれたアウグストゥス(紀元前64~紀元14年)時代には話者はほとんどいなくなっていたそうだから、クラウディウスの時はその「ほとんど」さえ消失して事実上ゼロだったろう。ウルグラニアもエトルリア人の血をひいていはいてもエトルリア語は話せなかったのではなかろうか。ただ僅かに宗教儀式などに残った単語などは伝わっていたから言語についての片鱗は知っていた。だからこそリヴィウスもクラウディウスも失われていく文化への郷愁でエトルリア史を書き残そうとしたのかもしれない。

 またエトルリア語の文書は紀元前7世紀から紀元直前直後までの長いスパンにわたっているのでその間のエトルリア語の音韻変化を追うことさえ出来る。方言差があったこともわかっている。Fiora とPagliaという(小さな)川を境に南エトルリア語と北エトルリア語に分けられるそうだ。ラテン語への吸収は南エトルリア語が早く、北ではやや遅くまで言語が保持された。エトルリア人が自分たちをRasennaと呼んでいたことも伝わっている。また通時的にも初期エトルリア語と新エトルリア語を区別でき、前者はだいたい紀元前7世紀から6世紀にかけて、後者は紀元前5世紀から一世紀にかけての時期であった。分ける基準になっているのは母音変化で、初期の母音が次第に弱まって新エトルリア語では消失していたらしく、紀元前5世紀以降の碑では母音が記されなくなっている。上で述べた自称も最初Rasenna だったものが時代が下るとRasnaになった。消失するほかにもa が u と弱まっている例が見られる。
 文書の量の点でも、当時イタリア半島で話されていたラテン語以外のロマンス語、ウンブリア語、オスク語、ヴェネト語などとくらべるとエトルリア語の文書は格段に数が多い。上でも述べたように万の単位に達しているのだ。それに比べて例えばウンブリア語のはせいぜい数百に過ぎない。いかにエトルリア人が文明化されていたかわかるだろう。

 さてそのようにギリシャ人やローマ人によって注目され書きとめられ、文書も残っているならエトルリア語の解読など楽勝だろうと思うとこれが大きな間違い。古今から一流の言語学者がよってたかって研究しているのにいまだにこの言語は完全には解読されていない。言語の所属さえわかっていない。16世紀にPier Francesco Giambulariという学者がヘブライ語との親族関係を問うたのを皮切りに現在まで、ある時はフィン・ウゴール語、あるときはテュルク・タタール語と、ある時はコーカサスの言葉と結び付けられ、その間にもこれは実は印欧語であるという説がひっきりなしに浮上しては否定されるというルーチンができあがった。イタリック諸語、アルメニア語、ヒッタイト語などとの親族関係が取りざたされたのである。面白いことにヒッタイト語を解読したフロズニーHrozný(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)が1929年にEtruskisch und die „hethitischen“ Sprachen.「エトルリア語とヒッタイト語」という論文を書いて、エトルリア語の属格 –l (-al) とヒッタイト語の属格形態素 -l 、–il、 –alとを比べている。ただしフロズニーはこの共通性を以ってエトルリア語印欧語説は唱えていない。むしろはっきりとエトルリア語とヒッタイト語との相違、共通点の少なさを強調している。そう思っているのならなぜ共通っぽい部分をあげたのかと思うが、ヒッタイト語の第一人者としての手前何か結び付けなければ論文にならなかったからかもしれない。20世紀初頭まではそうやっていろいろ結論を急いだ感があったが、やがて所属関係はひとまず棚上げにしてとにかく地道にエトルリア人・エトルリア語を観察研究していこうということになった。目下は「孤立した言語で(おそらく)非印欧語」とされているが、ここに来るまでにいろいろな人が言いたい放題の説を唱えては消えていった様子を見ていると日本語の状況を彷彿とさせる。しかしこうなってしまったのには理由があるのだ。
 まず文書や碑が名前の羅列や宗教儀式の呪文ばかりで、同じフレーズの繰り返しが多く、13000もの文書がありながら出てくる単語は255くらいに過ぎない。だから基本単語なのにわからないものがある。例えば「妻」はわかっているが「夫」という言葉がみつかっていない。Brotherはわかるがsisterがわからない。またラテン語やフェニキア語とのバイリンガル文書にしても翻訳があまりにも意訳過ぎて、語レベルでの言語対応がつかみ切れないので解読できない単語も少なくない。つまり素材が少なすぎるのである。
 第二にあまりにも異質すぎて周りの言語とくらべようがない。林檎と梨なら比べようがあるが、バナナとブドウを出されて共通点をあげろといわれたら途方に暮れるだろう。基本単語をラテン語やギリシャ語などとちょっと比べてみただけでまさにバナナとブドウ状態なのがわかる。
Tabelle1-122
数詞は次のようになっている。
Tabelle2-122
もちろん印欧語内でだって細かい相違はあるが全体としてみると素人目にも共通性がわかるし、形が全く違っている場合はその原因がはっきりしていることが多い(例えばラテン語の「娘」は明らかに「息子」から派生されたから他の言語の「娘」と形が違うのである)。さらに今日の英語、ドイツ語、ロシア語などと比べてみてもよく似た言葉が容易にみつかる(サンスクリットのbrātāなど)。それに比べてエトルリア語のほうは取っ掛かりというものが全然感じられない。わずかに「7」と「9」を見て一瞬おっと思うが、そういうのに限って「?」マークがついている。
 単語だけではない。音韻組織の面でもエトルリア語は周りの言語からかけ離れている。まず母音は4つで、o がない。だからギリシャ語やラテン語から語を借用する際のo を u で転写している。ラテン語と同じイタリック語派のウンブリア語は文字をエトルリアから取り入れたため、o という字がないそうだ。音そのものはもちろんあったわけだから相当不便だったのではないだろうか。
 次に有声閉鎖音がない。g、d、b がないのである。初期にはこれらの文字そのものはあって、ギリシャ語やラテン語からの借用語に使われていたが、音がないのだからやがてこれらの文字は使われなくなった。さらに f という音がある。f の音なんて別にかけ離れていないじゃないかと思うとさにあらず。印欧語には本来この音がなかったのである。現在の印欧語にはこの音があるがこれは時代が下ってから二次的に生じてきたもの。古典ギリシャ語、サンスクリットなど古い時期の印欧語はこれを欠いている(古典ギリシャ語のφは現代ギリシャ語のような f ではなく帯気音の p だった)。当時のケルト語にもない。ラテン語にもローマ以前には存在せず、この音が生じたのはエトルリア語と接触したためと思われる。その意味で紀元前7~8世紀からすでに f を持っていたエトルリア語は周辺の言語と非常にかけ離れていたのだ。

 その別世界言語からラテン語に借用されそこからさらに現在の印欧語に受けつがれて現在まで使われている単語がある。例えばラテン語のpersona(「仮面」)、英語の personはエトルリア語のphersu から借用されたものといわれている。なるほどエトルリア語のほうには o がない。また「書くこと・書いたもの」というラテン語litterae、もちろん現在のletter、literature だが、これもギリシア語のdiphthera が一旦エトルリア語を経由してラテン語に入ったと思われる。元々の意味は「羊や山羊の皮」だった。その上に字が書かれたから意味が変遷して文学だろ字だろそのものを表すようになったのである。

 エトルリア人・エトルリア語は自身は死滅してしまったが、文化面でも言語の面でも後のヨーロッパに大きな遺産を残していった。まさに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」である。

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 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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(こちらはコロナウイルスで大変なことになってしまい、毎日ジョンズ・ホプキンズ大のサイトに張り付いているうちに気がついたら前回の更新から一ヵ月もたっていました…)

 地球に生息する生物についてIUCN国際自然保護連合がレッドリストを作って絶滅の危険の度合いをExtinct (EX) 「絶滅」、Extinct in the Wild (EW)「野生絶滅」、Critically Endangered (CR) 「深刻な危機」、Endangered (EN) 「危機」、Vulnerable (VU) 「危急」、Near Threatened (NT) 「準絶滅危惧」、Least Concern (LC) 「低懸念」に7つの段階に分けているが、それと同じようにUNESCOが消滅危機言語というリストを作っている。使用人口が少なく、話者が誰もいなくなってしまいそうな言語が世界にはたくさんあり、こちらはその危機の度合いを6段階に分けている。Extinct「消滅」、Critically Endangered「深刻な危険」、Severely Endangered「重大な危険」、Definitely Endangered「明らかな危険 」、Vulnerable「脆弱」、Safe「安全」の6つだ。生物の場合とほとんど同じような段階分けをしているが、まず「絶滅」という言葉は言語には使えないのでExtinct という英語では同じになる単語が生物では「絶滅」、言語だと「消滅」となる。もう一つ、言語に関しては当然Extinct とExtinct in the Wild がないので一つ減って6段階だ。
 ここで話題にしたことがある言語もしっかりこのリストに載っている。例えばネズ・パース語は「深刻な危険」、ロマニ語、ソルブ語、南ユトランド語は「明らかな危険 」、フリースランド諸語は「重大な危険」。それに対して心配していたセルビア語トルラク方言(『18.バルカン言語連合』参照)は「脆弱」で済んでいる。ブルシャスキー語もバスク語も「脆弱」。アンダマン語やヘレロの言葉はリストに見当たらない。特にアンダマン語などは相当な危機にあるはず(下記参照)だが、データが不足で評価できないということなのだろうか。ヘレロも決して話者は多くないはずだが、まさか「安全圏」ということなのだろうか?カタロニア語がリストには入ってこないのは「安全」とみなされているからだろうとは思うが。日本の言語ではアイヌ語がまだ「深刻な危機」で止まっている。ということはかろうじて話者がいるのだろうが、これを「消滅」まで進ませないのが文化国家日本の義務だと思う。また琉球語の国頭方言、宮古方言、沖縄方言が「明らかな危険」、八重山方言、与那国方言が「重大な危険」状態にある。
 
 生物の場合と用語が重なっているところが印欧比較言語学、つまり一般言語学の誕生のプロセスを髣髴とさせる。サンスクリットやヒッタイト語とラテン語・ギリシャ語などの類似が見つかって「印欧語」という観念が生まれそれが言語学に発展していった当時、ダーウィンの進化論に強く影響されたからだ。「系統」、「種」という概念である。そもそも当時の印欧語学の目標が「種の起原」ならぬ「印欧祖語」の姿を知ることであった。そこで赤線を超えて優劣を言い出す人が一部にいたのは前に述べたとおりである。印欧語のような屈折語は日本語のような膠着語に比べて「進化した」言語であるという類の主張をする人たちだ。言語を話者から全く切り離して生命体の一種とみなしたり、「祖語」という言葉が本来比喩であることを忘れて本気で言語と生物を同一視しだすといろいろ誤解を引き起こす。見えるものも見えなくなる懼れがある。例えば「絶滅」と「消滅」の決定的違いである。生物種が絶滅するというのはその種に属する個体が物理的に全くいなくなるということだが、言語の消滅の方はそうズバリとはいかない。まず「当該言語の話者・ネイティブ・スピーカー」そのものに段階があるからだ。

 もちろんある言語共同体に属している人間を一気に皆殺しにすれば言語も亡ぶ。そういうことは有史以前にはあっただろうし、20世紀に入ってもナチスドイツなどが試みた。それまではヨーロッパで強力な言語のひとつであったイディッシュ語が壊滅的な打撃を受けたのはナチスのホロコーストのせいである。
 しかし言語の消滅は話者をいきなり皆殺しにしなくても起こる。話者はいても言語は滅びうるからだ。いわゆる「言語転換」という現象である(下記)。この言語転換は決して一気には進まない。個人内部の言語転換もそうだが、言語共同体全体が言語転換してしまうにはさらに時間がかかる。長い間話者も存在し続けるから最初のうちは当該言語も話者の頭の中に潜在的に残る。しかし話者はもうその言語をアクティブに使うことができなくなる。パッシブな言語能力、つまり「聞いてわかる」能力は話す力より長く残ることが多いがやがて聞いても理解できなくなる。こうなると言語学者が当該言語を記述したくても(すでに話者とはいえない)話者が発話することができないので記録も何もできない。いわば言語が話者の中で死ぬのだ。
 もちろんこういう言語状態なら当該言語はまだ(わずかでも)覚えている人がいるということで「まだ消滅していない」と判断され、脳死というか「深刻な危険」の範疇にいれられる。そしてその最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする。実際今までに消滅してしまった言語で最後の話者の名前が記録に残っていることが少なくない。例えば『108.マッチポンプの悲劇』で言及した大アンダマン語だが、そのうちの方言の一つボ語は2010年に最後の話者Boa Srさんが亡くなって消滅したそうだ。『マッチポンプ』の項で参照した資料にはBoaSrさんとみられる人の写真も載っていたが、その後この言語がどうなったかについては説明がなかったので知らないでいた。本当に残念だ。
 またアイルランドと大ブリテン島の間にあるケルト語系のマン島語も最後のネイティブ・スピーカーとしてNed Maddrellという名前が記録されている。言語学者たちが1972年8月17日に氏をインフォーマントとしてマン島語の記述を行ったがその時氏は94歳だった。1973年にその言語学者の一人が再びMaddrell氏を訪れて調査しようとしたが、氏はすでに耳が聞こえず、調査が成り立たなかったという。1974年の12月27日に亡くなった。このMaddrell氏は完全に流暢なマン島語を話せた最後の人だったばかりではない、マン島語のモノリンガル状態を経験している(多分)唯一の人であった。他のマン島語話者は英語とのバイリンガル環境しか知らず、最初から英語が圧倒的に優勢言語である人ばかりだが、Maddrell氏は2歳か2歳半くらいのときほとんど英語の話せない年取ったおばさんのところに預けられて育っている。
 もう一人、Ewan Christianという話者の名前が記録されている。この人も1972年にインフォーマントとなったが、Maddrell氏とこのChristian氏がまだ母語が固まらないうちにマン島語に触れた最後の生き残りだ。ただし後者のマン島語はつっかえつっかえになることがあり、文法もあやしかったそうだ。5歳の時いっしょの通りに住んでいた二人のマン島語ネイティブから言葉を教わり、その後も周辺にいた話者から言語を吸収したが、生活言語は英語だったし、それにマン島語を教わったときすでに5歳だった。つまり習い方も不完全だったうえ使用する機会もあまりなかったため、セミ・スピーカーにとどまったのだ。Christian氏はMaddrell氏よりずっと若く、言語調査当時65歳、1978年に再びインフォーマントになっている。1985年初めに78歳で亡くなった。
 関係ないがここでマン島語調査をした「言語学者たち」の一人は『51.無視された大発見』『17.言語の股裂き』でも言及した私の学位取得時の口頭試問の試験官である。

 これらの例を見てもわかるように言語の消滅宣言は動物の場合の「当該種」にあたる「当該言語の母語者」に幅があるから難しい。例えばDresslerという学者は母語者に5段階あるとしている:1.健全な話者Healthy speakers、2.やや脆弱な話者Weaker speakers。名詞の語形変化などが簡略化の傾向、語彙も減少している。3.前最終段階の話者Preterminal speakers。語形パラダイムの縮小と一般化が起こる。4.最終段階前期の話者Better terminal speakers。縮小と一般化がさらに進む。5.最終段階後期の話者Worse terminal speakers。語彙は極めて減少し、語形の縮小も著しい。
 この最終段階の母語者が後からみつかったりすることもある。さらにマン島語の場合もそうだが、言語の記述や調査がある程度進んでいると母語者がいなくなっても再生の試みが可能である。そのためかマン島語はまだ絶滅宣言を受けていない。ステータスは「深刻な危険」である。上で「最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする」と変な書き方をしたのもそういうことを考慮したためだ。
 もう一つ「絶滅」と違う点は、話者全員がいっぺんに一人残らず死に絶える場合は別として(それなら確かに話者の「絶滅」である)、言語が「消滅」するときは通過点として必ず話者がバイリンガル状態になるということだ。生物は別に他の種に押されなくてもエサがなくなったり気候が変わったりすれば自分たちだけで勝手に(?)死に絶えることもあるが、言語が消滅するには必ず他の言語が入ってこなければいけない。人間はなにがしかの言語を話さずにはいられないからだ。言語が消滅はイコール言語転換と述べたのはそのためで、母語者が当該言語で上の5段階の階段を下るにつれ、もう一方の言語能力は逆に高まっていっているのである。
 構成員が全員モノリンガルだった当該言語共同体が別の言語共同体と接触する。双方の言語共同体の政治的、文化的、あるいは軍事的な力が拮抗し、人口にも特に差がなければ接触は一部の通訳・翻訳家を通じて行われるのでその他大勢はそれぞれの言語のモノリンガルで生活に何ら支障がない。そもそもその通訳にしてももう一方の言語は後から習っただけだから、モノリンガルであることには変わりがないのである。またバイリンガルになるにしてもどちらか一方の言語が圧倒的に優勢ということはない。もちろん個人レベルでは言語Aと言語BとのバイリンガルでAが優勢という人がいるだろうが、その代わりもう一方の言語共同体にはBが優勢のバイリンガルがいるのだから、全体としてはどちらの言語が優勢ということはなく、まあバランスがとれているわけだ。ところが一方の言語共同体がもう一方より圧倒的に強力だったり一方が他方を政治的に支配したりするとこのバランスが崩れだす。最初の段階として、言語Aの共同体には1.Aのモノリンガル、2.A・BのバイリンガルでAが優勢、3.A・Bの優勢無しバイリンガル、4.A・BのバイリンガルでBが優勢というグループがいる一方でB共同体には1にあたるBのモノリンガルがいなくなり、全員Aとのバイリンガルになる。次の段階は2にあたる構成員がBの共同体から消える。B言語の共同体にいるくせにBの方がAよりずっと楽に話せるという人がいなくなるのだ。さらに度が進むとBの共同体から3が消える。B共同体の構成員全体がBよりAが得意という状態だ。この辺になるとB共同体に「Aのモノリンガル」が発生しだす。そうなるとBはもう共同体のコミュニケーション言語としての機能は果たしにくい。社会生活は全部Aで済ますようになり、B言語の方は(一部の)構成員の頭の中に思い出というか痕跡として残っているだけで、しかも使わないからドンドン虫が食ったりさび付いてきたりする。そしてふと気づいてみると自分の他には誰もBを知っているものがいない。なぜ「ふと」かというと、コミュニケーションや社会生活はAのみで何の不都合もなく、Bなど使わないから言語Bがなくなったことなど普段目に入らないからだ。とにかく言語共同体の全員がバイリンガルになったら黄信号が灯ったとみていい。言語学者が当該言語のモノリンガル話者の存在を重要視するのはそういう理由である。
 ただ、念のため言っておくが、このバイリンガルというのは「母語」が二つあるということで(『44.母語の重み』参照)、学校で習った外国語などというのは全くこの範疇に入らない。その意味で日本人がいくら英語を勉強してもモノリンガルであることには変わりがないから、安心して外国語の学習をしていい。というより日本人はもうちょっと外国語をやったほうがいいのではないだろうか。時々バイリンガルという言葉をトンチンカンな意味に誤解している人がいるので蛇足とは思うが念のため。

 この言語の消滅という現象が言語学の一分野として確立されたのは比較的最近だそうで、以前は単発に研究が行われていた。私の印象では1990年ごろから少数言語とか消滅言語とかの用語をさかんに聞くようになった感じだ(私にとっては1990年は立派に最近なのである)。
 例えばSasseという学者は以下の3つのタイプの要因をベースにして言語消滅の過程をモデル化した。
1.言語外状況External Setting(ES):言語共同体にプレッシャーを与えて当該言語を放棄させる方向に持って行く文化、社会、民族、経済的な要因。これが言語消滅への最初のきっかけを作る。
2.話者の言語行動パターンSpeech ehaviour (SB):言語共同体の中で話者がどの言語を使うか、またその言語で文体、どんな言葉使いを状況によって使い分けるのか、使い分けられるのか、ということ。
3.言語構造への影響 (Structural Conseqzuence (SC):言語の形自体が被る変化。語形変化が簡略化したり(simplication)、以前はできた表現が構造的にできなくなったりする(reduction)。変化は言語のあらゆるレベル、音韻、形態、シンタクス、語彙面で起こる。
 Sasseは、ESが最初のきっかけとなって両言語のバランスが崩れてSBが変わり、SBが変われば当該言語が使われる場面が減り(つまりその言語がAbandoned language AL「放棄言語」になり)、使う機会が減れば文法構造は単純化し語彙も減ってしまう、そして最終的に言語の死に至る、言い換えるとES→SB→SCの順に言語転換・ALの消滅が進むのが全体としての傾向だとしている。もちろんその途中に小さなフィードバック現象もある。表現の可能性が減れば益々その言語を使わなくなるというSC→SBという方向のプロセスなどだ。
 そうやって優勢言語が転換していく中で、まず人が生まれて最初に取得する言語Primary Language PLが当該言語ALからもう一方の言語にかわる。逆から言うともう一方の言語(Target language TL)は最初第二の母語secondary Language SLであったのがPLになる。そしてTLがドンドン優勢になっていき、ある時点で話者がALを後続世代に伝えなくなったらそこでアウトだ。残った母語者は誰ともALで話す機会がないから、その言語は母語者の中で死んでいく。事実、最後のネイティブ・スピーカーのマン島語にはすでにそれ以前に記録されたマン島語と比較して構造上の簡略化が見られたそうだ。伝えられたマン島語そのものがそこに来るまでにすでに弱まっていた、言語の内部崩壊はすでに始まっていたのだ。さらにそのMaddrell氏はマン島語モノリンガル生活を経験したといってもすでにそれ以前に英語には触れていた。PLは英語でマン島語はSLだったのだ。氏は調査の時言語学者に「昔英語と同じくらいよくマン島語をしゃべれた頃のことをまだ覚えています。でも外に出てってからは使う機会もなかったし、マン島語を聞くこともなかったからもう忘れてしまいました。でもこうやってみるとまた思い出してきたからできるだけ話してみますが、どうも思うようにはねえ…」とマン島語で語っていたそうだ。

 こうやって見ていくと、どの時点をもって当該言語の消滅というのかということ自体がすでに難しい課題であることがわかる。話者の死、つまり人間の死と言語の死が必ずしも一致していないからだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。ネイティブの話す当該言語が「健全」ではなくなった時点で消滅宣言か、それとも最後の母語者が亡くなったときか。一度コミュニケーションとして使われなくなった言語が復活する場合があるが(ヘブライ語など)、そういう場合死者が生き返ったと考えるべきか、当該言語は実は一度も死んでいなかったというべきか。独立言語と方言との区別同様(『111.方言か独立言語か』参照)、死語か死語でないかの区別も割とケース・バイ・ケースなのである。ただ上のSasseは、日常のコミュニケーションで使われなくなった時点でその言語は死語だとしている。しかしその「日常のコミュニケーション」という観念自体にまた段階というか幅があるからとにかくスッパリ何年何月何時何分に消滅、と宣言することはできない。

Broderickはマン島語の消滅を図式化するのにSasseのモデルを使っている。コピーのそのまたコピーですみません。(私の書き込みがある上ファイルの閉じ穴があいてますね…)
Broderick, George. 1999. Language death in the Isle of Man. Tübingen:p.11から

Sasse


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 世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
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 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。
Tabelle-165
いかにもサンスクリットの「馬」aśva- とつながっていそうな語だ。 トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
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 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
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 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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 前にちょっと出したインド領アンダマン諸島に住んでいるセンティネル人もそうだが、いわゆる未接触部族と言われる人々がいる。「いわゆる」と前置きしたのはこの言葉が厳密に定義されたものではない上に、あくまで外部側の一方的視点に根ざしている語だからである。一般に理解されている意味では「最初から外部世界と接触を保つことをを拒否するか、あるいは一旦外部と接触したのち、自ら進んで孤立した生活を続けるかそこに戻った人々」のことだ。
 2007年に先住民族の権利に関する国連宣言が出されて先住民族が同化を強制されず異なった独自の民族として自由に生活する権利を保証されたが、アメリカ大陸にもIACHR (Inter-American Commission on Human Rights)という組織がある。先住民族との接触事件はヨーロッパが世界征服を始めた時点から頻繁に起きているが、ほぼ全部が散々な結果に終った。先住民の土地に勝手にドカドカ入り込み、資源を奪い、挙句は先住民を支配したり奴隷化したりするのは論外だが(その「論外」がむしろスタンダードだった)、侵入者にたとえ悪気がなくても彼らが持ち込んだ疾病のせいで免疫のない住民が全滅したりほぼ全滅する憂き目を見た。たとえば宣教師などは意図としては「住民が神の子として幸せになれるように」するつもりだっただろうし(少なくとも一部のまじめな宣教師は)、また支配者側には先住民を「文明化」して生活を楽にしてあげようとしたのだろうが、住民の側は病気は持ち込まれるわ、今までの生活の伝統を急に破壊されるわで身体的にも精神的にもとてつもない打撃を受けた。いまだにアボリジニや米あるいはカナダ領のイヌイットにはアルコール中毒患者が多いのを見ても外部者の無神経さがいかに大きな破壊的作用をもたらすかわかる。例えばこの未接触部族の一番多い国はアマゾン熱帯雨林の半分以上を領土にかかえるブラジルだが、1500年ごろには当地にはおよそ1000部族、2百万から4百万人ほどの先住民族がいたと見られる。ところが5世紀を経た現在では先住民族は40万人、知られている限りでは220部族となってしまった。ブラジルの全人口の0.2%とかその辺である。
 そういう反省から国連でもIACHR などの組織でも、住民がその民族として生きる権利を最重要視して同化政策などはとらないことにした。もっともその原理を遂行するのにはいろいろ実際的な問題があるようで、そう理想的にばかりはいっていないらしい。1980年代の半ばになっても、外部から来た森林伐採者と何人か「ちょっと」接触したペルーのナワ族(メキシコのナワとは別でまたの名をヤミナワYaminawáと呼ばれる人たち)が居住地に風邪を持ち帰って60%の部族民が亡くなるという事件が起こっている。
 上記のブラジルには1967年からFUNAI(Fundação Nacional do Índio、国立先住民保護財団)という政府組織があって、アマゾンの先住民族の保護にあたっている。FUNAIには元になった組織がある。SPI(Serviço de Proteção ao Índio、インディオ保護業務)といい、1910年に創立されて先住民の保護にあたっていたが創立者の死後いわば組織が堕落し、業務員による賄賂事件や性的虐待が続いたので解体され、今のFUNAIにとってかわられた。私がニュースなどを見てみた限りではFUNAIはきちんとした仕事を行っており、活動内容も透明である。もちろん批判もある。FUNAIはあくまでブラジル政府下の組織だから、時とすると政府の方針に従ってしまい、先住民を十分に保護していないなどだが、これも上記のような「実際的な問題」であって、組織そのものの欠陥とは言えないのではないだろうか。
 他の国の他の先住民保護組織もそうだがこのFUNAIも1980年の終わりごろからその保護政策が方向転換した。外から人を送り込んでその部族を助けたり妙な〇〇人文化センターなどを建てたりする余計なお世話をしないことにし、先住民とコンタクトせずに保護することにしたのだ。これは前に出したセンティネル人に対するインド政府の態度も同じである。部族民とコンタクトせずにどうやって保護するのか。まず、周囲の住民の報告などから当地には先住民族が住んでいる(らしい)ことがわかる。報告を受けたらFUNAIは当地に専門家を送り、存在を確認する。この「専門家」というのが大事で、接触していいのは人類学者や言語学者、医者などから構成されるチームであって、素人がシャシャリでてはいけない。存在が確認されたら当該民族の住んでいる地域を「進入禁止」として、周りの住民が勝手にドカドカ入れないようにする。ただ、当該民族がすでに周囲の住民や特に牧畜業、大規模な農家の侵入によって存続が危ぶまれるような場合は例外的に介入し、その民族を別の安全な地域に移動させたりする。さらにこれも例外的に向こうのほうが周囲の住民に近づいてきて交流を求めたりしたら、応じなければいけない。いずれにせよコンタクトは極めて慎重に、専門家によってのみなされるべきで、その際も決してパターリズムに陥ってはいけない。あくまで向こうの意思に従うのでないといけない。
 ブラジル政府は1988年に憲法で先住民が自分たちのアイデンティティに従って、同化を強制されることなくその民族として生きる権利を保証した。2009年にはFUNAIの権限が強化されたが、現ボルソナロ政権でまた先住民の立場が危なくなってきているようだ。

 そのFUNAIの接触報告は時々ニュースも流れてくる。例えば2014年に周囲の住民から見知らぬ人たちが作物を奪いマチェットその他の工具を持って行ってしまうとの報告を受けたFUNAIが現地に人類学者のホセ・カルロス・メイレレスJosé Carlos Meirellesを始めとした専門家を送り、そこでその非接触部族をカメラに捉えた。エンビラ川Rio Enviraの上流、ペルーとの国境近くの、両国にまたがる先住民保護地域にあるシンパティアSimpatiaという村である。1988年まではそのあたりの地域には白人は全く住んでいなかったが、そのあと木を伐採しに来たり地下資源を掘りに来たりコカインを栽培しに来たりする(もちろんいずれも不法侵入)白人が先住民を追い出し、時として殺戮したりし始めたそうだ。

その非接触民族との邂逅が行われたのはブラジルとペルーにまたがる保護区。マクイーン氏のドキュメンタリ(下記)から
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人類学者ホセ・カルロス・メイレレス氏(ウィキペディアから)
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 最初の邂逅時は向こうの言語がわからず、メイレレス氏が聞き取れたのは「帽子」、シャラという言葉だけであった。私はその様子をストラスブールのTV局ARTEが流したドキュメンタリ番組で見たのだが、そこにはその非接触部族が村の家々に入り込んで勝手に服や工具を持ち出していく様子が映っている。FUNAI側が何とかしてコミュニケーションをとろうと必死になっているのも見て取れる。ドキュメンタリの制作者はアンガス・マクイーンAngus MacQueenという英国の映画作家。そのあとFUNAIはそうやって「接触してしまった」部族の居住地を確保して隔離し、服や食料を提供して周囲の村から略奪しなくてもいいようにした上健康検査なども行って保護した。全部で34人の部族民がその居住地で暮らすようになった。邂逅地シンパティアからさらに何時間もエンビラ川をさかのぼった処である。隔離したのは上記にも書いたように外部と少しでも接触すると、こちらのなんでもない病気が感染して致命的な結果になる懼れがあるからだ。

FUNAIが発表した、邂逅の模様を映すビデオ


 最初の邂逅から9ヵ月後にマクイーン氏の一行は、ブラジル政府の許可を得てその居住地を訪れた。言語的に近いヤミナワ族(上記)を通訳として2名連れてメイレレス氏に同行して貰った。その通訳を通して彼らの話を聞いたのだが、ドキュメンタリの最初の邂逅時の映像についている字幕も多分その2名の通訳が訳したのだろう。部族の人たちの話によると、彼らが住んでいた保護地に不法に侵入してきた「白人」から、攻撃を受け埋葬しきれないほどの人が殺されたので、もとの部族は四方八方に逃げ回って散り散りになり、彼らも逃げてきたとのことである。その殺戮はどうもペルー側で起こったらしい。昔からそこに住んでいる彼らにとってはもちろんベル―とブラジルの国境など存在しない。それで他の者にその「邪悪な人間」について警告もしようと思ったそうだ。彼らは自分たちをサパナワ族と名乗った。
 集団の指揮をとっていたのはシナと名乗る比較的若い男性だったが、ジャングルでの生活についていろいろと語っている。とにかく夜は満足に眠れた事がない。いつ誰に、または何に襲われるかわからないのでおちおち寝てなどいられないのだ。実際この人の祖母はジャガーに食われてしまったそうだ。雨が降り続くと獲物がないから4日くらい何も食べ物がないことなど日常茶飯事だった。
 またこの人は人を殺している。自分の村が襲われた時、部族を守るために「白人」を矢で射殺したそうだ。またこの人たちが「人の物を勝手にとってはいけない」という感覚を持っていないのは、ドキュメンタリの最初で人の村に勝手に入ってきて服を堂々と持って行ってしまうのを見てもわかる。彼らは以前から「白人」が服を着ていろいろな道具を持っているのを見かけて、自分たちもああいう服が欲しいと思っていた。欲しかったから当然それを盗み、皆で着ていたら、ほぼ全員病気になって死者まで出たと話している。メイレレス氏が最初に彼らが村の住民の物を持って行くのを見て必死に止めたのも「汝盗むなかれ」だからではなくて服から病気が感染する懸念があったからである。事実メイレレス氏が奥の居住地を訪れたときは女性の一人がひどい膀胱炎にかかっていた。

 メイレレス氏は非接触部族とのコンタクトは向こう側ばかりでなく、こちら側にとっても常に危険があることを語っている。最初の邂逅の直後が一番危ない。彼らに殺される危険性があるからだ。この20年間にFUNAIの職員がすでに100人以上邂逅した後非接触部族に殺されているそうだ。先住民からすれば、自分たちの土地に侵入してきて最初はいい顔をしていてもやがて仲間を虐殺しだす白人とFUNAIの白人の区別がつかないからだ。メイレレス氏自らも矢を射かけられたり襲われたりする目に何度も遭っている。別の資料によると一度など身内を守るために襲撃してきた先住民族の一人を殺めなければいけなかった。それが生涯のトラウマになっている。そういうことを淡々と話すメイレレス氏はいわゆる文明人がよくやるように昔ながらの生活をしている人々を変に牧歌的に理想化して見てもいなければ、逆に「未開人」だといって見下してもいない。この、文明化した現代の人間が「未開の」人々にたいしていだく傲慢な考えを嫌悪する態度は以前にアイザック・アシモフからも感じたことがある。古代エジプトのピラミッドの設計の正確さや、ペルーの巨大壁画(これらの人々は「未開」とは言えないが現代ほど科学技術や知識が発達していなかったことは確かだ)を見て「技術的に遅れていた当時の人々がこんな正確なものを造れるわけがない。宇宙人の仕業ではないのか」などと言い出す輩(おっと失礼)に対して「自分たちに理解できないことを遅れているはずの人たちが成し遂げるとすぐそういう発想をする人たちは肝心なことを忘れている。技術的に遅れていようが我々より知識がなかろうが、脳そのものは変わらないのだ。私たちの大部分が理解できないようなことを理解できる人は当時からいたのだ。」と怒りをぶつけていた。非接触部族にしても、私なんかより語学や数学の才能がある人などいくらもいるはずだ。
 メイレレス氏は彼らの事を単に「異なった生活様式」と言っているが、その「異なった生活様式、異文化」を見下すのと逆にやたらと憧れるのとは結局コインの裏表で、地に足が付いていない、さらに言ってよければ無責任な精神的自慰行為だと私は思っている。『138.悲しきパンダ』でもちょっと述べたが、異民族に自分たちの文化を押し付けて同化を強制しそれを「発展の手助け」と思うのも、勝手なイメージで「〇〇文化大好き」などと横恋慕しだすのも根は同じで、相手を血の通った自分たちと同等の人間だとは思っていない。だから私はアニメだけ見て「日本大好き」とかドイツ人に言ってこられても全然嬉しくも感謝する気にもなれない。
 メイレレス氏は違う。氏はドキュメンタリーの最後のほうで、「非接触部族を保護するのは彼らをガラスの箱に入れて標本さながらに昔ながらの生活をさせることではない。」とはっきり言っている。つまり自分たち用の見世物として永久保存するためではないのだ。部族を存続させるのが最大の目的で、そのため接触には細心の注意を払うが、それによって向こうの生活が良くなり、精神的にも部族としてのアイデンティティが保たれ、向こうもそれを望むなら伝統を捨てて習慣を変えるのに反対する理由は何もない。「サパナワ族はもう昔の裸には戻りませんよ(シナ本人も「服を着る習慣がついてしまうともう裸なんか恥ずかしくって」と言っている)。考えてもご覧なさい。今回サパナワが私たちの前に出てきて接触を求めなかったら、彼らはジャングルの中で全滅しその存在すら永久に知られずに終ったかも知れない。生活を変えたおかげで34人全員生き残っているんです。彼らに文明化を完全に拒否しろと命令することは出来ない。文明と衝突するのは危険な過程だし死人も出るだろう。でもそれが生きるということだ。彼らの子供たちはやがて書くことを覚え、大学に行くものだって出るだろう。環境に従って誰でも変わっていく。それが現実だ。」

子供は学習が早い。つい先日まで衣料さえ知らなかったのにもうカメラを抱えてジャングルを撮影し始めたサパナワ族の子供
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 さらに私は個人的に、人間の頭の出来は文明人だの未開人だのとは関係ないという当たり前の事実をもっともヒシヒシと感じるのは言語においてだと思っている。このブログでも時々「先進国ほど技術が発達していない」人々の言語に言及してきたが、どれもこれも難しい文法ばかりである。こういう凄い文法の言語を彼らは子供でもマスターしているのだ。いくら宇宙船の操縦ができて、やたらと難しい哲学論争ができて、グルメで金持ちで高尚な趣味を持っていても、これらの文法がスース―理解できる助けにはならない。難しいものは難しいのである。
 このドキュメンタリではヤミナワ族が助けてくれたからなんとかサパナワとも意思の疎通が取れた。そのヤミナワ人がサパナワ語とポルトガル語間を通訳する様子などもう神業としか思えない。その神業の助けが全くないといくら先進国から来た人でもお手上げだ。そういう、全く話の通じない非接触部族と接触した例はいくつかある。例えば1980年代に非接触部族の男性が2名現れたが、彼らの言語は周りの他の部族と完全に異なっていて、複数の先住民の言語ができる言語学者のノルバウ・オリベイラNorval Oliveiraが30年かけても十分にわからなかったそうだ。名前もわからないからこちら側で勝手にアウレAure、アウラ Aurá と呼んで、彼らに居住地を与えようとする試みは全て失敗に終わった。行く先々で人に害を加えたりものを盗んだり、トラブルがたえなかったらしい。結局亡くなるまでオリベイラ氏が保護したそうだ。これは日本のNHKで放映されたと教えてもらったが、残念ながら私はこちらにいるので見ていない。

メイレレス氏に同行したヤミナワ族の通訳
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 サパナワ族の話に戻るが、マクイーン氏はメイレレス氏らと分かれたあとペルー側に入ってもともとサパナワと同じ部族だったという別の人たちと遭っている。定住してキャッサバの栽培などで暮らしていたが、その人たちにメイレレス氏が撮影したビデオを見せたところ「この人たちは個人的には知らないが、話す言葉はすべてわかる」と答えた。さらに「リーダーがこんなに若い人というのは解せない。年配者が全員殺されたんじゃないか」とも言っていた。そのペルーの人たちはジャングルから出てきて生活を始めたが、奥のジャングルにはまだ親戚身内が住んでいるそうだ。「こっちに出てきて私たちと同じ暮らしをしたらいいのに」とその「親戚」は言っていた。
 ペルー側でも非接触民とその地に住む人たち(白人でなく定住生活に入った先住民であることが多い)との間に死人さえ出る争いが起こるそうだ。人を殺され家畜を奪われた村人は当然非接触民に報復したくなるだろう。双方にとって本当に危険で困難な過程である。

 なお最初に述べたようにFUNAIは「生活を変えるのに反対しない」からと言って自分の方から同化を促して生活を変えさせるようには絶対働きかけない。基本は「存在を確認したらその地区を立ち入り禁止にして外部と接触させない」やり方をとる。それでも外部から文明人はドンドン押しかける。先住民を邪魔だと言って殺したり追い出したりする。これが続けばいくらFUNAIが保護しても「いずれは非接触民族はいなくなるだろう。もうこの流れは止まらない。」とメイレレス氏でさえ言っている。文明とは何のためにあるのか、人間とは何か。

ARTEが流したドキュメンタリのフランス語版



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