アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語政策

 しばらく前に何かのドキュメンタリー番組でドイツのお巡りさんが一人紹介されていた。このお巡りさんは子供の頃両親に連れられてペルーから移住してきたので、ドイツ語とスペイン語のバイリンガルだそうだ。
 ある晩、同僚と二人組みでフランクフルトの中央駅周辺をパトロールしていたら、不案内そうな外国人が(たどたどしい)ドイツ語で道を尋ねて来た。そのお巡りさんは即座にそのドイツ語がスペイン語訛であることを見抜いてすぐスペイン語に切り替え、

「お客さん(違)、ひょっとしてスペイン語話すんじゃないですか?」

突然ドイツのお巡りさんから母語でそう話しかけられた時のその外国人の嬉しそうな顔といったら!
 その後の会話はスペイン語だったのでTVではドイツ語字幕が入った。

「そそそ、そうですよ。お巡りさん、スペイン語話すんですか?」
「話すも何も、母語ですよ。私はもともとペルーの出でね。そちらは?」
「えーっ、ラテンアメリカなの?! 私エクアドルですよー」
「えーっ、じゃあ、隣りじゃないですか」

ここで二人はポンポン肩を叩き合う。

「すごいなあ、ペルーから来てドイツ人になって公職に付く事なんて出来るんですか。」
「んなものは、出来ますよ、普通にやってれば。ところでここら辺は危ないし、道違うから早くあっちに行った方がいいですよ。」

その外国人が後ろを振り返り振り返り向こうに行ってしまうと、お巡りさんは隣の同僚と普通にドイツ語で話始めた。スペイン出身だとか親がスペイン人だからドイツ語とのバイリンガル、という人は時々見かけるが、ペルーからの移民というのはたしかにちょっと珍しい。

 そういえば、姉が中国現代文学の翻訳をしているのだが、その姉が以前送ってくれた雑誌に載っていた中国の短編の一つがこういう話だった: 中国吉林省出身の若者、つまり朝鮮民族の中国人が韓国に出稼ぎに来て休日に「とても気さくで親切な」老人と会い、話がはずんだ。老人の韓国語にどうも訛があるな、と思ったら韓国に住んでいる日本人だった。老人の方も老人の方で、この人の韓国語はどうも韓国の韓国人と違うな、と思っていたら中国出身だった。

 こういうちょっとした話が私は好きだ。

 ところで、「バイリンガル」という言葉をやたらと安直に使う人がいるが、実は何をもってバイリンガルと定義するか、というのは結構むずかしいのだ。「母語が二つある人」、つまり両方の言語を言語獲得年齢期にものにした人、と把握されることが多いが、大抵どちらかの言語が優勢で、完全にバランスの取れたバイリンガルというのはむしろ稀だ。たとえ子供のころにある言語を第一言語として獲得してもその後失ってしまった場合、その人はバイリンガルなのかモノリンガルなのか。いずれにせよ、単に「二言語話せる」程度の人などとてもバイリンガルではない。「俺は学校で英語を習ってしゃべれるからバイリンガル」と言っていた人がいるが、どんなにペラペラでも母語が固まってから学校などで習った言語は母語ではないからこの人は立派なモノリンガルなのではないか。
 私は簡単に「バイリンガル」という言葉を使われると強烈な違和感を感じるのだが、これは私だけの感覚ではない。知り合いにも生涯の半分(以上)を外国で過ごし、日常生活をすべて非日本語で送り、お子さんたちとも母語が違う人が結構いるが、その方たちも口を揃えて「私はバイリンガルとは程遠い」と言う。これが正常な言語感覚だと思うのだが。

 そもそも「何語が母語か」「何語を話すか」という問い自体が本当はすごく重いはずだ。例えばカタロニア語を母語とする人はスペイン語とのバイリンガルである場合がほとんどだが、「母語はスペイン語でなくあくまでカタロニア語」というアイデンティティを守りたがる人を見かける。以前もドイツのTV局の報道番組でバルセロナの人がインタビューされていたのだが、「スペイン語を使うくらいならドイツ語で話そう」といってレポーターに対して頑強にタドタドしいドイツ語で押し通していた。その人はスペイン語も母語なのにだ。
 かなり前の話になるが、私も大学のドイツ語クラスでバルセロナから来た学生といっしょになったことがあるが、この人は「どこから来たのか」という質問に唯の一度も「スペインです」とは答えず、常に「バルセロナです」と応答していた。「ああスペインですね」といわれると「いいえ、バルセロナです」と訂正さえしていたほどだ。
 さらに私が昔ロシア語を習った先生の一人がボルガ・ドイツ人で、ロシア語とドイツ語のバイリンガルだったが、「スターリン時代はドイツ語話者は徹底的に弾圧された。『一言でもドイツ語をしゃべってみろ、強制収容所に送ってやる』と脅された」と言っていた。スターリンなら本当にそういうことをやっていたのではないだろうか。
 つまり「バイリンガルであること」が命にかかわってくることだってあるのだ。

 言語というのは本来そのくらい重いものだと私は思っている。安易に「私は○○弁と共通語のバイリンガル」などとヘラヘラふざけている人を見ると正直ちょっと待てと思う。「方言」か「別言語」かは政治や民族のアイデンティティに関わってくる極めてデリケートな問題だからだ。逆にすぐ「○○語は××語の方言」という類のことをいいだすのも危険だ。
 これもまたカタロニア語がらみの話だが、あるとき授業中に「カタロニア語?スペイン語の方言じゃないんですか?」と堂々と言い放ったドイツ人の学生がいて、周り中に失笑が沸いた。ところが運悪く教室内にカタロニアから来た学生(上の人とは別の人である)がいたからたまらない。自分の誇り高い母語をノー天気な外部者に方言呼ばわりされたその人はものすごい顔をして発言者を睨みつけた。一瞬のことだったが、私は見てしまったのである。

 別に私はカタロニア語の回し者ではないが、やはり「スペイン語」という名称は不適当だと思っている。自分でも「スペイン語」という通称を使ってはいるが、これは本来「カスティーリャ語」というべきだろう。さらに、「カシューブ語はポーランド語の方言」、「アフリカーンス語はオランダ語の一変種」とかいわれると、全く自分とは関係がないことなのに腹が立つ。もちろん私如きにムカつかれても痛くも痒くもないだろうが、そういう人はいちどバルセロナの人に「カタロニア語はスペイン語の方言」、ベオグラードのど真ん中で「セルビア語はクロアチア語の方言」と大声で言ってみるといい。いいキモ試しになるのではないだろうか。


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 うちではARTEというストラスブールに本拠がある独・仏二ヶ国語のTV放送局の番組が入るのだが、そこでJ.L.トランティニャンについてのドキュメンタリー番組を流してくれたことがある。私にとってはちょっと夜遅い時間だった。
 最初「年取ったなあ、この人も」とか思いながら眠い眼をこすりこすり見ていたのだが、氏が「パリの俳優養成所に進学したが、いつまでも南フランスのアクセントがとれなかったこともあって最初教官からは常に見込みがないという評価を受けていた」というフレーズでパッチリ目が覚めてしまった。つまりこの人の母語は俗に言う(正式にもそういう)オクシタン語(またはオック語)ということか、フランス語はL2だったのか、と気になったからだ。
 調べてみたら、トランティニャンはVaucluse県のPiolencという町の生まれで、学校時代は同県南部のAvignonで過ごし、パリに出てきたのはやっと20歳、つまり母語が完全に固まってからである。 
地図を見るとわかるが、トランティニャン氏はオクシタン語地域で生まれ育っている。
Vaucluse県:(ウィキペディアから)
svg

オクシタン語地域:(これもウィキペディアから)
Occitania_blanck_map

 このオクシタン語はすでにダンテが「フランス語とは全く別言語」であることを見抜いている。フランス政府はこの言語がフランス語でないことを(まだ)公式に認めてはいないが、カタロニアでは公式言語、イタリアでは公式に少数言語として認められているそうだ。
 私が日本で学生だった頃は「フランス人(移民とか後から来た人ではなく土着のフランス国民)でフランス語を母語としない者は全体の25%」といわれていたが、先日ちょっと言語学事典でしらべてみたら、オクシタン語を自由に話せる者は300万人ほど、1200万人ほどがPassiveな話者、つまり「聞いて理解できる」そうだ。相当減ってきている。しかし20世紀の初頭までは結構普通に話されていたそうだから、1930年生まれのトランティニャンはこの言語で育ったのかもしれない。ただ当地でも公用語はフランス語だから、もちろんバイリンガルではあったのだろうが。それともオクシタン語の方が優勢言語だったのか?職業上の言語が完全にフランス語になったあとも日常ではオクシタン語を話していたのか?そういうことを番組で報道してくれなかったのが残念だ。
 トランティニャンはそのL2フランス語で俳優業だけでなく、詩の朗読などの文化活動もしているそうだ。ジャック・プレヴェールの詩を朗読している姿が映されていた。文学・文化音痴の私だが、ジャック・プレヴェールの名前だけはかろうじてというか偶然知っていた。一つ彼の詩を覚えている:一人の男が恋人に送るために花市場でバラを買い、金物市場で重い鎖を買った。というストーリー(?)だった。なぜ「重い鎖」なんだ?と私がいぶかっていたらラストが

「それから奴隷の市場に行きました。恋人よ、君を探しに。でも君は見つからなかった」

というものでドキリとした。原文はこれだ。

Pour toi, mon amour

Je suis allé au marché aux oiseaux
Et j'ai acheté des oiseaux
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché aux fleurs
Et j'ai acheté des fleurs
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché à la ferraille
Et j'ai acheté des chaînes
De lourdes chaînes
Pour toi
Mon amour

Et je suis allé au marché aux esclaves
Et je t'ai cherchée
Mais je ne t'ai pas trouvée
Mon amour

(Jacques Prévert, Paroles, Éditions Gallimard, 1949, p. 41から引用)

トランティニャンがこれを朗読したのかどうかは知らないが。

 話を戻すが、上述のようにフランスは中央権威主義的な言語政策をとっていることで有名で、国内の土着の少数言語の保護に余り熱心ではなく、例のヨーロッパ言語憲章にも批准はおろか署名さえしていない。アカデミー・フランセーズはすでに1635年に創立されているから、フランスの中央集権的な言語政策は長い伝統があるのだ。一方だからといって積極的に少数言語の撲滅を図ったりしているわけではないから、土着の民族に英語を押し付け、うっかり自分たちの言葉を話した者の口に石鹸を押し込んだり(オーストラリア政府はアボリジニに対してこれをやった)、その土地の言葉をしゃべった生徒の首に方言札をかけて晒し者にしたり(日本人が沖縄の人に対してやった)、民族の言葉を口にしたらスパイと見なしてシベリアに送ったり(スターリンがボルガ・ドイツ人をそう言って威した。『44.母語の重み』参照)した国なんかとは同列に論じることはできない。
 もっともソ連にしても、スターリンの言動とは別に表向きの言語政策そのものは少数民族の言語にむしろ寛容だったと聞いている。特にソ連邦の初期、1920年代には、国歌にもあるようにДружба народов(ドゥルージバ・ナローダフ、「民族間の友情」)を旗印に(だけは)していたから、ロマニ語さえ保護の対象になっていたようだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』参照)。フランスと同様、その中央主義的な言語政策の目的は国家言語を「押し付ける」ことではなくあくまで「普及させる」ことにあったようだ。土着の言語の撲滅ではなく、バイリンガルを目的としていたのだろう。

 外国人の語学学習者からすると、この中央主義的あるいは権威主義的な言語政策はむしろありがたい面もあるのだ。規範ががっちり決まっているからである。そういえば私がこちらでロシア語を学んだ時は教師から教科書からまだソビエト連邦の残滓が完全に残っていたが、まず文法だろなんだろに入る前に発音練習をさせられた。特にアクセントのない o を[ʌ]または[ə]で発音するように(『6.他人の血』『33.サインはV』参照)徹底的に仕込まれた。これはモスクワの発音である。これに対してドイツ語は地方分散性が強いから、学習者が舌先の[r]を口蓋垂の[ʀ]に矯正させられたりはしない。方言にも寛容で、TVのインタビューなどでも堂々と丸出し言葉をしゃべっているドイツ人を見かける。時とするとその、ドイツ人がしゃべっているドイツ語に標準ドイツ語の字幕がつく。実は私の住んでいる町で一度全国放送のドキュメンタリー番組が撮られたことがあるのだが、番組に登場する地元の人たちの発話にはすべて字幕がつけられていた。うちは皆ヨソ者なのでまあ標準ドイツ語話者だが、一瞬「げっ、これは恥かしい」と思ってしまった。しかし自分の話す言葉に標準語の字幕をつけられると恥かしい、という発想そのものが言語権威主義に染まっているいい証拠かもしれない、考えてみれば恥かしいことなど何もないのだとも思うが、ドイツ人の知り合いにこの話をしたらその人もやっぱり開口一番「うえー、それは恥ずかしい」と絶叫していたからまあ私だけが特に権威主義思想に侵されているわけでもないらしい。スイスのドイツ語だと字幕では間に合わず、吹き替えされることがある。フランス語などではこういうことはあまりないのではないだろうか。
 実はドイツ語にドイツ語の字幕をつけられるのは方言の話者ばかりではない。外国人が「字幕の刑」に処せられることもある。これもいつかTVで見た光景だが、さるアジア人の男性がインタビューに答えてドイツ語で受け答えしていたが、その発音があまりに悲惨だったためか、局のほうで「これはドイツ語としては通じまい」と判断されたらしく、字幕を出されていた。男性本人はドイツ語のつもりでしゃべっていたのだろうが、その得意げな(失礼)表情と字幕という現実との間の差に、見ているこちらのほうがいたたまれなくなった。局側としては、向こうが気持ちよく話しているのをやめさせては気の毒だから、それがドイツ人に通じるように手助けしたつもりなのだろうが、外国人・非母語者に対しては何か他にやりようがあるのではないだろうか。ネイティブ・スピーカーが字幕をつけられたのは見ても笑っていられるが、外国人が対象だと全然笑えない。


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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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 『111.方言か独立言語か』の項でも述べたように私は琉球語は独立言語だと思っている。古くはチェンバレンあたりがその立場だったと聞いたが、これは単純に氏が論文を英語で書いたからそう見えただけかもしれない。ドイツ語でも英語でも言語名称には形容詞を使うので○○語と○○方言とが表現上区別されないことがあるからだ。例えばザクセン方言はSächsischドイツ語はDeutschでどちらも形容詞が語源。形の上では同じである。
 しかしだからと言って琉球語を日本の方言とみなす立場の方が論拠で勝っているかというとそうではない、負けそうなのはむしろ方言組のほうだろう。「研究が進むにつれて琉球語と日本語間の音韻対応が印欧語レベルではっきりと確認され、日本語と同系であることがわかってきたので方言とみなすようになった」と説明してあるのを見かけた。まさかこれを真面目に方言説の根拠にしている人がいるとは思えないが、言語Aと言語Bが同源だからといって方言とみなしていいのなら「ドイツ語はヒンディー語の方言」という見方だって成り立つはずだ。

 琉球語は3母音体系であること、動詞・形容詞の活用・曲用が現在の日本語と著しく違うこと(連体形と終止形では形が異なる)、いわゆる古代のP音を未だに残していることなど構造そのものが十分日本語と離れている上、12世紀までにすでに独立言語として独自の発展をとげていたのをさらに1429年首里王国が統一して「標準語」まで持っていた。島津がドカドカ侵略して来た1609年以降も言語的統一性は崩れず、明治政府が1878年の琉球処分で日本に併合するまでの450年間、れっきとした一つの言語社会であったことなど考えても立派な独立言語である。明治政府が方言扱いして日本語を押し付ける言語政策をとったため、琉球語は衰退の道を辿った。『54.言語学者とヒューマニズム』でも述べたが、愚かな全体主義政府は言語学者の天敵である。ユネスコが2009年に発表した消滅の危機にある言語の調査では、八重山語、与那国語を「深刻な消滅の危険」、沖縄語、宮古語、奄美語、八丈語などを「危険」にある独立言語として分類しているそうだ。
 少し古い資料だが、加治工真市氏の『首里方言入門』(これはもちろん日本語首里方言という意味ではなく琉球語首里方言ということである)、野原三義氏の『琉球語初級会話』という論文をのぞいてみると、琉球標準語というのはだいたい以下のような言語である。下に日本語訳をつける。

ディッカ マヂュン ユマ
「さあ、いっしょに読もう」

あレー ユドーシガ やー ヤユマニ
「彼は読んでいるが、君は読まないか。」
*このヤユマニという動詞形は暗に「読んだほうがいいよ」という薦めの意味がある。また「あ」と「や」だけ平仮名で書き分けてあるのはこれが声門閉鎖を伴うからである。下記参照。

初級会話
ヤーヤ ンジ チイ
「お前は行ってきたか?」
マーカイヨー
「どこへだ?」
チヌー タヌデータシェー
「昨日頼んであったよ。」
ヌー ヤタガヤー
「何だったっけ」
トゥナインカイ ウリ ムッチ イキヨーンディ イチェータノー アラニ
「隣にそれ持って行けよと言ってあったじゃないか。」
ンチャ アン ヤタサヤー
「ああ、そうだったなあ」

 私はこの世界で日本語のたった一人の「親戚」である琉球語に絶対消滅してほしくない。是が非でも存続してさらに発展していってほしい。琉球語を保持していくにはどうしたらいいのか考えた。もちろんこれらはあくまで言語のことだけを考慮したもので、日本人の都合なんかはどうでもいいことはもちろんだが(とか言っている私も一応純粋なヤマト民族である)、現地の人の意向さえ無視した私個人の超勝手なシミュレーションである。いつものことながら無責任で申し訳ない。

 まず、言語存続のためには、日本とくっついているのが一番よくない。最大の理由は琉球語と日本語が下手に似ている、ということである。隣に同系の強力言語があると当該言語がそれに吸収されてしまう危険が常にあるからだ。だからたとえばカタロニア語のほうがバスク語よりカスティーリャ語に抵抗するために要するエネルギーは大きい。また少数言語側ばかりでなく、多数言語の側にも相当な努力がいる。スペイン語側もうっかりカタロニア語を方言扱いなどしてしまわないよう、常にリスペクトを持ち、気をひきしめていないといけない。少数言語についての感覚が超鈍感な日本政府なんかにそういう微妙な言語政策ができるとは思えない。万が一政府にその意志があっても一般の日本人からまた「なんで沖縄語ダケー。つくば市の方言も独立言語として認めろヨー」とかいう類のトンチンカンなイチャモンがついたりするのではないかという懸念がなくならない。
 ではといって沖縄をデンマークのフェロー諸島のように言語的差異に注目して「自治領」として認める、つまり金は出すが口は出さないことにする、などという技量が日本人にあるだろうか。
 言語を衰退させないために必要な措置とは何か。まず、当該言語が公用語として機能することだ。具体的に言うと学校で当該言語による授業が行われ、法廷でもその言語で裁判をする、ということである。書き言葉の存在も必須である。さらにその言語で文化活動が行われればなおいい。つまり少なくとも中学まで、できれば大学の授業も首里語で行い、米兵が当地で暴行すれば裁判は首里語で行う。義務教育の「国語」の時間にはもちろん源氏物語などでなくおもろそうしなど、つまり沖縄文学を習う。俳句・短歌などという外国文学などやらなくてもよろしい。琉歌をやったらいい。
 こんなことを方言札(『106.字幕の刑』参照)などという前科のある日本政府が「国内で」許すだろうか。日本領なんかに留まっていたら琉球語の未来は暗いといっていい。

 だから言語の面だけで見れば琉球が日本から独立するのが一番いいのである。が、そうなると通貨や経済問題など難しい部分もでてくる。それが理由でもあろう、現地の声は独立反対が多数派だと聞いた。また、これはヨーロッパでもコソボやマルタで見かける現象だが、小さな地域が独立した場合、やや排他的な氏族社会が政治レベルにまで影響してきてしまうことがある。
 そこで、独立を最良の選択肢としながらも、どこか日本以外の国の領土にしてもらうことが出来ないかどうか見てみると可能性は3つある。

 まず「中国領」で通貨は元。実はこっちの方が日本領よりまだマシなのだ。中国の言語政策が中央集権的なのは日本と同じだが、中国語、つまりマンダリンは琉球語と全く異質の言語だからである。吸収されてしまう危険が日本語より少ない。上で述べたスペイン語に似たカタロニア語の話者が700万人もいるのに今では全員スペイン語とのバイリンガルになってしまっているのに対し、数十万しかいないバスク語には主に老人層とはいえ、いまでもバスク語モノリンガルがいるのがいい例だ。
 ただ、中国政府の少数民族に対する扱いをみているとかなり不安が残る。日本での様に吸収の憂き目は見ないだろうが、そのかわりマンダリンに言語転換してしまう危険があるのではないだろうか。

 次の可能性は、私自身「いくらなんでもそれは…」と思うのだが、アメリカ領である。通貨はドル。中国の場合と同じく、英語という系統の違う言語が共通語なので吸収されてしまう心配は少ない。さらにアメリカは日本よりは少数言語や移民の言語に敏感だし、強力な中央政府支配形式でもないから、中国よりプラス点が多い。問題は、英語という言語が強力過ぎるということだ。たとえ政府に少数言語を保護しようとする意思があっても世界最強言語に琉球語が対抗していくのは難しいだろう。言語転換してしまうのではないだろうか。
 ただ、琉球をきちんと州に昇格させてもらえば独自にある程度有効な言語政策が取れる。基地問題にしても現在のように日本政府を通すから埒が明かないのであって、米国の一員、しかも州として中央政府にノーを突きつければ、今度は米国の法律が琉球市民を守ってくれるだろう。といいが。とにかく日本政府を通すより早いのではないだろうか。
 しかし一方あの過去の歴史の深い溝が簡単に埋まるとは思えない。確かに言語的に見れば日本領や中国領よりメリットがあるが、そのメリットが歴史の溝が埋められるほどのメリットかというと強い疑問が残る。

 そこで第3の可能性を考える。台湾領である。ここはまず第一の条件、つまり公用語が琉球語と十分離れているという条件をクリアしている。さらに国内に少数民族を抱えている点では中国と同じだが、こちらは1990年以降はっきりと少数言語の保護政策を打ち出しており、マレー系言語による学校の授業が行なえるようになっている。また台湾社会は同性婚承認に向けて動き出すなど、むしろ日本より国際社会に対して開かれている。言語政策の点でも日・米・中よりプラス点があるのだ。
 なので私は所属するなら台湾が一番いいと思うのだが、最大の懸念は、琉球が台湾領になると中国が怒り狂うのではないか、ということだ。角が立ちすぎるのである。

 そこでどこにも角の立たない選択肢はないかと探してみたら、あった。言語的にも言語政策的にも最もオススメだが、実現の可能性は残念ながら限りなくゼロに近い選択肢(それで上で述べた「3つの可能性」のうちには入っていない)としてEU領というのはいかがだろうか。
 EUは結構世界中に飛び地を持っている。まずアフリカのマダガスカルとタンザニアの半自治領ザンジバルの間にあるマヨットMayotteという島が、住人の希望によりフランス領、つまりEU領である。南米にある仏領ギアナもやはりフランス・EU領。カリブ海にもサン・マルタンSaint Martinというフランス領の島があり、先日台風に襲われた直後マクロン大統領がお見舞いに来た。これらは通貨もユーロだ。サン・マルタン島の南半分はオランダ領でスィント・マールテンSint Maartenといい、やはり台風の後アレクサンダー国王のお見舞いを受けた。その他にも結構点々とEU領は世界に広がっている。だから琉球もEU領になってしまえばいい、そうすれば私は琉球の人といっしょにEU市民だ。想像するとウキウキしてくる。
 が、残念ながら大きな壁がある。EU直轄領というものが存在しないので畢竟どこかの国に所属するしかない。この国の選択が結構難しいのである。ます、はじめに述べた、フェロー諸島やグリーンランドに自治権を与えているデンマーク。言語政策などの社会そのものはいいとしてもデンマークはユーロを使っていない。だから通貨はクローネということになるだろう。これはちょっと弱かろう。飛び地をいろいろ持っているフランスはユーロが通貨だが、この国は言語政策が中央集権的でいまだにヨーロッパ言語憲章を批准していない点に不安が残る。飛び地の経験もあり、言語憲章の批准もしているオランダは本国はユーロだが飛び地ではまだグルデンを通貨としている。そもそも琉球がオランダ領となる政治的・歴史的根拠がない。もっともそれを言うならEUのどの国にも根拠がないわけで、私としては非常に心残りなのだが、EU領はやはり無理だろう。

 やはり独立しかない。通貨はしばらくの間は円を使わせてもらえるといいが、日本人はダメと言い出しそうだから、アメリカ・台湾・中国と交渉してそのどれかの通貨を使わせてもらうことにすればいいのではないだろうか。

 さてそうやって目出度く日本からオサラバしたら、まず第一に標準琉球語(多分首里語)をきちんと制定してほしい。文字は日本語の片仮名・平仮名を使えばいい。その際日本語にはない弁別性があるから、少し改良して補助記号をマルや点々のほかに考案すればいい。たとえば声門閉鎖のあるなし、有気対無気喉頭でもやはり得弁別的対立があるそうだ。前者は[?ja:]「お前」対[ja:]「家」、後者は[phuni]「骨」対[p?uni]「船」がその例である。これを区別して表記しないといけないが、そんなに難しいことでもないだろう。日本にも国の都合なんかより言語の都合を優先させる非国民な学者がゴマンといるから喜んで協力してくれるだろうし、そもそも琉球側にすでに優秀な言語学者が大勢いるから、この点については全く問題は起こるまい。
 最後に言わずもがなだが、琉球の領土を「首里王国の領土」と規定した場合、奄美大島や喜界島まで入る。だから筋からいえば日本はこれらの島を琉球に返還すべきなのではないだろうか。日本がロシアから北方領土を返還してもらうことには異論がないが、自分たちもきちんと南方領土を返還することだ。

 琉球には世界でも貴重な琉球語を守り、偏狭な氏族社会に陥らず、領土は小さくても日本、アメリカ、中国、韓国、台湾間の力のバランスをとって互角にやりあっていける国際的な貿易国家になってもらいたい。ドイツから観光客がジャンジャン行くように私もこちらで宣伝させていただくから。

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 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない:
            標準デンマーク語     南ユトランド語
selv       [sɛlˀ]                               [siel], [sjel]       「自分、自身」
salt        [salˀd̥]                             [sɔld]                  「塩」
hånd      [hɔnˀ]                             [ha:(ʔ)n]              「手」
trug       [tʁuʔ]                              [tʁɔʋ]                  「桶」

l と n が対応している例もある。
              標準デンマーク語   南ユトランド語
nøgle      [nɔilə]                           [løçl]                  「鍵」

 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもへどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起原だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは起原60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフレデリック2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語を書き言葉の座から奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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