アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:日本 > 日本一般

 日本は学歴社会だと平気でいう人がいるが、私は次の2点からこれには賛成しかねる。第一に学歴の意味を取り違えている人が結構いるし、第二に日本はむしろ学歴無関係社会だからだ。

 学歴あるいは高学歴云々の話になると真っ先に大学名を持ち出す人がいるのが学歴の意味をわかっていない証拠である。学歴というのは何処の大学を出たかという事ではない、学士・修士・博士の区別のことだ。だから「東大出という高学歴」という言い方は本来成り立たない。東大でも学部しか出ていない人より、俗に言うFラン大学でいいから博士まで持っている人のほうが高学歴。海外で履歴書を書かされればFラン博士のほうがずっとツブシが利く。
 日本にはさらに不思議な現象がある。普通は学士・修士・博士と進むにつれてその資格を持っている人の数がゆるやかに減っていくのが筋であるのに、日本は学士に比べて修士の人数が異常に少ない。学士はやたらといるが修士でガッタリと減るのである。特に人文科学系はそうだ。日本語に「大学院」などという意味不明の言葉があるのが、学士対修士・博士と観念的にきっぱり2分割されているいい証拠だ。こちらは学士も修士も博士も単なる大学出である。
 ドイツは歴史的な事情もあって学士より修士の方が多い。昔は学士など大卒扱いしてもらえず高卒と見なされてエライ迷惑を被った話は以前にも書いたが(『2.印欧語の逆襲』参照)、これは学制が変更された今でもそんな感じで学士で大学を出てしまうと人から「どうして途中で止めちゃったの?」と聞かれたりする。また、修士も多いが博士も多い。博士など大卒の一種だから、博士持ちの大部分の人は「普通の職業」につく。「博士=研究者」というトンチンカンな連想をされることもない。ドイツの大企業の経営陣などほとんど経営学博士だし、政治家もそう。前コール首相は法学博士、現メルケル首相は物理学博士である。大新聞の記者、コラムニストなども多くが博士号を持っている。職業安定所(ハロワと言え)の職員に博士持ちがいたのを見たことがある。仕事を探している博士号所有者の希望などをきちんと理解し、適切な求人情報を見つけてあげるには職員もそれなりの学歴がないと話がかみ合わないからか。以前ユーゴスラビア紛争の際、当地のNATO軍やコソボ平和軍の総指揮をとったドイツ国防軍のラインハルト将軍は歴史学の博士で(まさに文武両道だ)、引退した今も時々TVに出てきて歴史解説などとしている。さらに『荒野の用心棒』でマリソル役をやったドイツ人女優マリアンネ・コッホは医学博士である(彩色兼備とはまさにこれ)。
 もちろん例外もあるが、学士や修士しか持っていないような学歴の人はこちらでは政治家や企業家として達せる地位が非常に限られているといっていい。日本は学歴社会などとは言えない。ヨーロッパの学歴社会は日本より遥かに厳しいと私は思っている。

 しかもその大学卒とやらが、日本では入学者数と卒業者数がほぼ一致するという異常現象。本来大学と言うところはそんなにホイホイ卒業できるところではないはず、最後の一年間など就職活動をしながらの片手間の勉強で出られるようなところではないはずなのである。アメリカも簡単に卒業させてくれないという話を聞いたことがあるが、ドイツも学部によっては40%以上消えるところもある。これは大学をやめるというより学部を変わる人が多いということだが。だから、日本特有の「学歴より実力」という言い回しは成り立たない。大学を出た人は大抵実力ももっているからである。こういう言い方を何の疑問もなくする人がいるという事自体語るに落ちるでいかに日本には名前だけの学士が多いかの証拠ではあるが、それは世界的に見れば例外現象である。
 また、大学○年生という言葉がこちらにはない(「○回生」などというキモイ言葉は論外)。第一に大学在学期間はゼメスター(学期)で勘定するのが普通だし、終了資格取得のプランは学生各自バラバラで一斉にいちねんせい・にねんせいなどと進んでは行かないからである。もっとも自然科学系や医学系などは結構きっちりプログラムが決まっているらしいが、それでも留年という言葉は大学生には使わない。そういう言い方をするのは子供の学校までだ。その上ドイツでは入学とか卒業と言わずにそれぞれ登録、終了認定といい、日本やアメリカのような式の類が全くない。ギムナジウムの終了資格を貰ったら行きたい大学の事務局で「登録手続き」をする、これが入学である。だから一人一人入学の日が違う。
 入学よりさらにバラバラなのが卒業だ。登録のほうは大学の冬学期が始まる前の3ヶ月ほどの間に集中しているが、卒業、つまり終了認定というのは論文が受理され、教授たちのOKが出て事務局から終了証書が出された日だから年中無休、本当に各自バラバラである。つまり卒業というのは「事務局に行って紙切れを貰ってくること」、それだけである。

 日本では学士がいわばレミング状態、もっと露骨に言うとミソもクソも学士なのに対して、修士・博士号になると突然やたらとモッタイをつける。つまり学士号はとてもその資格がないような者にまでホイホイ与える一方、修士・博士は資格を十分に持っていても与えないのである。私は日本のいわゆる大学院という所にはいたことがないのだが、つい最近になって博士号に「論文博士」「過程博士」などという意味不明の区別があると知って驚愕した。そんな区別はこちらにはない、一律「修士号保持者であり、規定の単位を取り、論文が認められれば博士」である。年数制限などあまり厳しくやっても意味がない。論文の内容によってはどうしても時間が必要だったりするからだ。もちろん、あまりにも進み方が遅いと指導教授のほうがシビレを切らせて辞めさせられたりすることもないではないし、そうこうしているうちに指導教授が亡くなってしまい、博士論文が宙に浮いてしまったという冗談のような目に会った知り合いが実際にいるが、それはまた別の話である。
 そもそもいい大学というのは、成績のいい学生だけを集め、そのもともと成績のいい学生にホイホイ卒業スタンプを与えて出させる大学のことではない、多少出来の悪い学生でも入学させれば、優秀な人になって出てくることの出来る大学である。日本など逆に入学した時より馬鹿になって出てくる学生が(私のことだ)後を絶たないではないか。

 もっとも日本だって昔はこういうレミング大学・ミソクソ大学ではなかったらしい。明治時代の小説などを読めば、いや昭和初期に大学を出た人の話でさえ、在学期間も入学年齢も結構バラバラで、就職活動など卒業してからおもむろにし始めるのが普通であったことがわかる。
 つまりこのレミング大学制を推進したのは大学のほうではなくて企業側ということだろうか。戦後すぐの時期に経済復興のベルトコンベア体制に合わせたものであろう。新卒採用と中途採用などというこちらでは説明してもわかってもらえない区別、いやほとんど「差別」があるのもそのせいではないだろうか。この日本語を聞くと私はいつもドイツ語のFrischfleisch(フリッシュフライシュ、「新鮮な肉」)という言葉を思い出す。入ってくるものは新鮮な程いい、加工されていないほうが、つまり下手に能力や自分の考えを持っていないほうがいい、というわけである。それとも江戸時代の外様と親藩の区別をいまだに引きずっているというわけか。

 日本が経済的に羽振りが良かった時期などもう今は昔であるのに相変わらず大学でレミング卒業、企業で外様の差別などやっていて大丈夫なのか?

 さて、日本では特に人文科学系の博士が異常に少ないことは時々日本の知人とも雑談の話題になるのだが、何人かこんな話をしていた(ただし私自身で事実の確認はしていない):日本には博士号すら持っていないのに大学教授をやれてしまっている人が少なからずいる。そういう無博士教授は自分より高い学歴を学生に与えることができない、つまり権限がないのだ、と。この話が本当だとするとこれは低学歴の連鎖である。
 そういえば、私の友人にも大学で教鞭を取っている経験の長さといい研究成果の発表ぶりといい、こちらならとっくの昔に博士号を持っていそうなのに出してくれる資格のある人が見つからず、延々と放浪した人がいる。それでも最近では結構博士号を出すようになってきたとのことだが、その理由が「欧米に出ていってそこで博士取ってくる教授が増えたからね。日本にいたんじゃ埒があかないし」ということだそうだ。つまり言葉の苦労を割り引いてもアメリカで博士を取ってきたほうが早いということか。もちろんこの「早い」というのはアメリカの大学が一旦入学すれば誰でもスコンスコン博士を出す、ということでなく、勉強の制度が整っている、という意味であるが。

 ドイツは日本より厳しい学歴社会、ということはつまりドイツの社会は権威主義、階級社会なのかとも思う。確かにある面ではそういうところもあるが、一方日本よりずっと開かれていると感じられる部分がある。これは英語も同じで中学生の頃mathemacian とかbiologistという単語が「大学の数学あるいは生物学教授」も「数学あるいは生物学専攻の学生」も表すことができると聞いて驚いたのを今でも覚えている。Linguistもそうで、これを「言語学者」などと訳してしまうと研究者や大学教授以外はLinguistを名乗れないような感じになってしまう。これらの言葉は本来「言語学・者」「生物学・者」「数学・者」と形態素分解すべきで、「言語学をやる者」、つまり言語学概論の初日に授業を受けに来た学生もノーム・チョムスキーも一律に言語学・者なのである。もっともチョムスキーはLinguistと呼んだほうがいいかもしれないが、とにかく教授だろ学生だろの社会地位は区別しない。研究者なら本来「言語学学者」と「学」がダブっているはずだと思うが、その「学」が一つ落ちている「言語学者」という日本語を「言語・学者」と誤分析するから話が通じなくなるのだ、アメリカから来た20歳くらいの若い学生がI’m a linguistといったのを「ほう、お若いのに学者さん。頭いいんですね」とか間の抜けた解釈をしてしまいかねない。


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 森鴎外の短編『舞姫』を知らないという人はさすがに日本にはいまい。読んでいない人はいるかもしれないが。鴎外のドイツ留学での経験をもとにしているといわれている作品で女主人公がエリスという名前だった。確か高校の現国でこれを読まされたが、私は当時高校で第二外国語としてドイツ語をやっていたので(『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)、エリスというのが全然ドイツ語の名前などではないことに気づいた。が、文学作品にそこまでつじつまを要求するのもアレだろうと思って見過ごした。
 するとそのあと、日本に帰った鴎外を追いかけてきたドイツ人の女性がいて、その人の名がエリーゼ・ヴィーゲルトElise Wiegertという事実が明らかになったと新聞で大きく報道された。そのためさらにエリスはエリーゼである、という解釈が定着してしまった。さらに私の見かけた資料によれば小金井喜美子までが随筆でその婦人の名前はエリスと言っているそうだ。確かにこの二つの名前は似ているので一瞬エリスはエリーゼの短縮形か愛称かと思うが、すでに私の中でモヤモヤしていたように、普通エリーゼの愛称として使われている形に「エリス」というものはない。言い換えるといくらエリーゼを変換してもエリスにはならないのである。エリーゼの愛称ならば、リースとかリーザとか「エ」が消えるはずだ。アクセントが「リー」にあるからである。ところが「エリス」はアクセントが「エ」にある。しかも「リー」の長母音が勝手に短縮されている。どうもおかしい、合わない、と感じてはいた。感じてはいたが私の考えすぎだろうとそれきり忘れてしまった。
 
 ところが、何十年もたってドイツでさる本を書いていた時(『お知らせ:本を出しました』参照。どさくさに紛れて自己宣伝失礼)、突然「エリスはエリーゼじゃない」という証拠を見つけたのである。このことは本の400ページから403ページにかけて書いておいた。一瞬論文にでもしてどこかの専門誌に投稿しようかと思ったくらいだ。しかし一方私は救いがたい文学音痴で、特に日本文学などは長い間島崎藤村を「ふじむらとうそん」と間違えて記憶していたし、二葉亭四迷も二葉・亭四迷かと思っていたくらいの馬鹿なのである。そんな馬鹿が気づくことくらいもうとっくに決着済みに違いない、今更大仰に論文なんて書いたら審査員の物笑いの種になりそうだという気がしたので特に発表することはしないで本の隅でチョチョっと言及するだけにしておいた。日本では誰でもわかっているのかもしれなくても、ドイツだったらさすがに「こんな既知のことをいまさら言うか」と嘲笑される確率は低かろうと思ったからである。それでもまあ全く発表しないのも惜しいなという気が最近してきたので、この場を借りて書くことにする。どうせこんなお笑いブログだし。

 鴎外が『舞姫』を出したのは1890年だが、同じ年の半年後にトゥルゲーネフの短編を翻訳して発表している。その短編の主人公の名がエリスなのだ。ロシア語の原題はПризраки(「幻」)というものだが、鴎外はこれをレクラム文庫のドイツ語翻訳から重訳。ドイツ語タイトルVisionen(「幻」)を『羅馬』として文語に訳している。その『羅馬』、Visionen/Призракиはストーリーというかモティーフが『舞姫』と微妙に並行しているのである。
 主人公(「私」)が女主人公とめぐり合って短い期間人生が交差するが、「私」の女主人公の人生に与えた影響のほうが女主人公が「私」の人生に与えた影響より格段に重い。「私」がもう取り返しがつかない後になってから女主人公との出会いを回想して悲しむというラストなど、舞姫を髣髴とさせる。
 もちろんこのころの女性描写というのは日本でもロシアでもこういう方向のものが多いし、モチーフがちょっとくらい似ているのをもって『舞姫』はトゥルゲーネフのパクリであるなど言い出すのはいくら何でも乱暴すぎることではある。私はただ『舞姫』の元を鴎外のドイツ留学中の実際の経験だけに求めるとピントがずれる可能性もあると言いたいだけだ。少なくともエリスという名前はドイツ人の知り合いの名前などではなくトゥルゲーネフから頂戴したことは確実だと思う。たしかに発表されたのは『羅馬』のほうが数か月遅いが、翻訳にかかる前に「ドイツ語の」原作 Visionenはすでに読んでいたはずだから、時間的にも矛盾しない。
 もっとも『舞姫』のストーリーが鴎外自身の経験に基づくとしている声が全部ではなく、鴎外はむしろ当時の日本からの留学生や政治家などに下半身の行儀が悪い人たちが目立ち、あちこちで現地妻を作ったりしているのを見て義憤を感じ同胞男性をネタにしてやった、という説があった。その手の素行の日本男性自身は当然反省などしておらず、鴎外はそれに抗議する意味で『舞姫』の主人公にはきちんと自分の素行について自省させたのであると。そうだとするとまさにその肝心な部分、鴎外が「文学的に」付け加えた部分がトゥルゲーネフとダブっていることになる。

 さてエリスという名前を原作では「英語の名前」と言っている。以下がその箇所である。

── Как тебя зовут ── или звали по крайней мере?
── Зови меия Эллис.
── Эллис! Это английское имя! Ты англичанка? Ты знала меня прежде?
── Нет.

「お名前は何というんですか? というよりせめて何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


これを鴎外当時のドイツ語のレクラム文庫ではこう訳してある。

„Wie heißest du? ── oder wie hast du einstmals geheißen?“
„Nenne mich Ellis.“
„Ellis! Das ist ein englischer Name. Bist du eine Engländerin? Hast du mich schon früher gekannt?“
„Nein“

「お名前は何というんですか? というより昔は何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


上の日本語訳ほとんどがそのまま使えるほどロシア語に忠実だ。それに対し、鴎外のほうはここをどう訳しているのかという質問自体が成り立たない。短編とはいえ、40ページ以上ある作品を鴎外はたった4ページで訳しているからである。当然この部分も完全にスッポぬけている。
 原文にしてもこの「英語」という説明は実は正しくない。エリスは英語あるいはイギリスの名前ではなくて本来ウェールズ、つまりケルト語の名前だからである。トゥルゲーネフにとってはイギリスもウェールズも要は大ブリテン島ということでどちらも同じ、つまり「英国の」という意味だったのかもしれない。さらにうがった見方をすれば最後の「いいえ」は「あなたは私を前から知っていたのか」という質問に対してではなく、「エリスは英語の名前じゃないですか!」に対して向けられていたのかもしれない。いずれにせよその、少なくとも「英語あるいは英国の」と断ってある名前をドイツ人の名前ということにした鴎外はイギリスとウェールズどころか、ドイツ語と英語の区別さえついていなかったということになる。形が一見似ているし、「西欧の名前」ということでドイツだろうがイギリスだろうが同じことだと思ったのか。でもEllisとlがダブっているのは決してダテではない、言語を決めるうえで非常に重要なポイントなのだが。
 面白いことに当のイギリス人はエリスを英語の名前と言われて黙ってはいなかった。ロシア文学の英語翻訳で有名なガーネットConstance Garnettは、この作品を英語訳するとき、Эллис を「アリス」Aliceと訂正している。

'What is your name, or, at least, what was it?'
' Call me Alice.'
' Alice ! That 's an English name ! Are you an Englishwoman ? Did you know me in
former days ?'
' No.'

Эллис がアリスでないことくらいガーネット氏だってわかっていたはずだ。確かに英語の[æ]はロシア語で э として写し取られることが多いが、それなら上でも述べたようにアリスは Элис になってlが一つであるはずだ。現にドイツの作家のハインリヒ・ベルHeinrich Böllはロシア語ではГенрих Бёлльでちゃんと原語通りlが二つある。さらに(しつこくてすみません)「不思議の国のアリス」はАлиса в Стране чудесであって、AがЭになっていない上にlが一つである。トゥルゲーネフがAliceをЭллис として写し取った可能性は低く、ガーネット氏の意図的な操作としか思えない。これを例えるに、どこかの人が書いた小説で「サンニョアイヌ」を「日本人の名前」としてあったのを日本人の翻訳家が「三田」あるいは「三村」に変えるようなものか。

  さて、鴎外の「翻訳」であるが、そもそも翻訳になっていないそのテキストにも珍しく原文が特定できる箇所がある。しかしそこでも以下のような意図不明のはしょりが見られる。まずロシア語の原作の部分が

Я задумался.
── Divus Cajus Julius Caesar!… ── воскликнул я вдруг, ── Divus Cajus Julius Caesar!  ── повторил я протяжно.  ── Caesar!

私は考え込んだ。
── ディヴス カユス ユリウス カエサル!… そして突然叫んだ、── ディヴス カユス ユリウス カエサル! それからゆっくりと繰り返した。── カエサル!

ドイツ語訳では忠実にこうなっている。

Ich überlegte einen Augenblick, dann rief ich: Divus Cajus Julius Cäsar! Divus Cajus Julius Cäsar! Wiederholte ich, den Ton dehnend.  Cäsar!

しかし鴎外はこれを勝手に足し算してこう訳している。

余はしばいたゆたひしが、声高くヂウス カユス ユリウス チエザルと三たびまで叫びぬ。

呼ばれた名前の発音表記はここでは不問にするが、この訳だと内容が原文と違ってくる。なぜなら主人公が3回叫んだのはカエサルだけでその他の部分ディウス カユス ユリウスは2回しか口に出していないからだ。そういえばこの手の「勝手な足し算」は『23.日本文学のロシア語訳』で述べた井上靖のロシア語訳にも見られる。まあ鴎外のこの翻訳は40ページを4ページに切り詰めたわけだから、この程度のチョン切り方は不思議でないが。

 とにかく鴎外を追いかけてきたエリーゼと『舞姫』のエリスとは名前の上では結びつかない。実は苗字のほうがよほど怪しい(?)。舞姫エリスの苗字「ワイゲルト」(Weigertと書くのだろう)と追っかけてきたエリーゼの苗字ヴィーゲルトWiegertは i と e を並べ替えただけの違いだからである。ではその追っかけエリーゼとは誰なのか。その人となりを鴎外の義弟(歳はこちらのほうが上だったが)の小金井良精が「ちっとも悪気のないまったくの善人。むしろ少し足りないくらいに思われる」と描写している。いわゆるナイーブで世間知らずな人だったようで、留学生たちが冗談で鴎外を追って日本に行けとそそのかしたらしい。それをマに受けて日本で手芸などで身を立てるつもりで来てしまったようだ。問題はその旅行費の出所で、良精の孫の星新一は「手芸や踊りで貯められる額ではない。鴎外がドイツで手切れ金を手渡していたのではないか。その際これは手切れ金であることを向こうに通じていなかったのでは」と推測している。
 このこととエリーゼという名前を踏まえて鴎外の『独逸日記』をみてみると候補者が二人見つかる。その一人だが、明治18年8月13日に鴎外はフォーゲルさんといううちの晩さん会に招かれるがそこで赤い服を着た女の子に会う。その子のことを鴎外は「性はなはだ温和なり。」と描写している。フォーゲル家に行儀見習いで住み込んでいたのだという。その次、9月12日にまたフォーゲル家に言ったとき家の者からその女の子が鴎外がまた来るのを楽しみにしてましたよと告げられる。この女の子の名前が「リイスヘン」Lieschenといって、これは代表的なエリーゼの愛称形の一つだ。ただ鴎外自身は名前を覚えておらず、「リイスヘンが待っていたんだよ」と言われて初めて誰かいなと思ってみてみたら先の赤い服の少女であったという。さらにその次の12月の24日にまたフォーゲル家に行ったらそのリイスヘンが「ドクターが来た!」と歓声をあげて喜んだ。この鴎外の描写をみた限りでは、鴎外のほうはリイスヘンを別に何とも思っていなかったようだ。もちろんその後もフォーゲルさんちに遊びにいった際リースヘンに会っていただろうが、単なる知り合いのレベルを超えたとは思えない。やはり日本の留学生が無責任にあることないこと吹き込んだのだろう。また渡航費の出所も別にエリーゼ自身が貯めたり鴎外から貰ったりしたのではなく、娘に大甘な裕福なパパが出してくれたのかもしれない。当時のフォーゲル家にはリイスヘンの他にも見習いや家事手伝いで富商の子供が住み込んでいたのだ。
 私はこの女の子がエリーゼ・ヴィーゲルトの第一候補だと思っているが、もう一人リイゼLiseという名前が出てくる。これもエリーゼの愛称形だ。明治19年10月31日に「家主シャウムベルヒSchaumbergの子オットオ、リイゼOtto、Lise等を伴ひて「パノプチイクム」Panoputicumを観る。蠟偶の見せ物なり」とある。 Schaumbergをシャウムベルヒと発音するのはベルリン訛だが、それよりこの名前は『舞姫』に出てくる狒狒爺、といっては言いすぎだがエリスを囲い者にしようとする座長の名前である。さらにオットーという名前を鴎外は自分の息子につけているくらいだから、リイゼのほうも鴎外にとっては重要な人だったのかな、と思えないこともない。このリイゼが第二候補である。

 いろいろ気になっていたのでこのエリスという名前の出所や鴎外へのトゥルゲーネフの影響について言及している研究論文でもあるかと思って検索してみたのだが見つからなかった。トゥルゲーネフについては鴎外自身、上述の『独逸日記』での明治20年5月28日にカフェでたむろしていた玄人筋の女性の一人が「魯人ツルゲエネフ」の小説を知っていたので驚いた、と書いている。鴎外がある意味トゥルゲーネフに私淑していたことがわかるし、ロシア文学は明治時代の日本文学に絶大な影響を与えたのだから鴎外に影響しないはずはないのにその辺が無視されているのはなぜなのか。
 天下の森鴎外・舞姫である。百の単位でいそうな研究者がこれだけ長い間研究し続けてきた中で鴎外が訳したトゥルゲーネフ作品にエリスという人物がいることに誰一人気づかなかったとなどということは100%ありえないのでその可能性は除外すると、『舞姫』とトゥルゲーネフとの文学的関連性について積極的に扱った著作が見つからなかった原因として考えられるのは次の3つである。可能性の高い順に並べてみる。
1.私の探し方が悪かった。
2.エリスの名がロシア文学から来ていることなど皆とっくに知っているので当たり前すぎてわざわざ言い立てる必要がなかった。
3.あくまでエリスはエリーゼであって鴎外の文学活動はトゥルゲーネフには影響されていないとすでに確認されていた。

2と3はまとめることができて、要するに「日本文学研究者の間では『舞姫』へのトゥルゲーネフの影響というテーマには研究する価値がないというコンセンサスがあった」ということだ。その価値なし・決着済みのテーマを何も知らない二葉・亭四迷なアホ部外者がほじくり返してしまった、ということなのだろうか。知っている人がいたらちょっと教えてほしい。

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 日本人は英語が下手だ、とはすでに大昔からさんざん言われ続け、それを改良しようという様々な試みも空しく今日に至るも耳にする。日本人の英語(ドイツ語やフランス語もだが)が国民レベルでほとんど上達していないからだが、その原因はわかっている。
 第一に日本で生活するためには外国語が必要ないからである。一般教養も全部日本語で身に着けることができる。大学だろでは時々論文やレポートを外国語(主に英語)で書いたりすることもあるが、講義の言語は日本語である。第二に英語は母語である日本語と構造的にも、話者の文化的な面でも全くかけ離れているからである。第三に教授法が非効率だからである。本人も英語をロクにしゃべれない教師がいる。そもそもアメリカや英国など英語圏で全く生活したことのない教師が日本国内で日本人から教わった暗号のような英語を教えているのだから(もちろん英語教師が全員そんなのではないが)、教わるほうだって上達するわけがない。たとえ生徒本人にやる気があっても上達しにくい授業内容な上に、「義務」としてやる気のない生徒にまで教え込もうをするからザルで水をくむようなもので、費やされるエネルギーに対して効果のほうが限りなくゼロに近くなるのはある意味では当然である。
 その、自分たちは国際的に比較して外国語ができない部類だ、という事実に対する日本人の反応は大きく分けて二つである。一つは第一の理由を持ち出してきて居直る、さらに居直りを通り越して「日本の社会が素晴らしい証拠」として外国語ができないのを自慢しだす人たち。「ここは日本ダー。外国語なんてできなくてもいいんダー」というわけである。こういう人たちは「外国語を使わなくていい」と「外国語ができなくていい」の区別がついていない。たとえ生活そのものはすべて日本語でまかなえるにしても、外国語ができて損になることはない。例えば渡辺照宏氏は外国語を学ぶ理由として次のように述べている。

しかしそれ(人食いアヒルの子注:外国人と会話ができるということ)以上に大切なことは、あなたの教養全体の水準が外国語の学習によっていちじるしく高められることなのです。… ただ実用的立場から教えているのではありません。あまり意識的な努力なしに習得した自国語の他に、少なくともひとつの外国語を学ばせるというのには、人間的教養を高めるという大事な目的があるのです。外国語を知らなくても立派な人はいくらもいますし、また出世も金もうけもできるには違いありません。しかし、もしあなたが人間としての完成を目ざしているならば、少なくともひとつの外国語を習得することによって、実利の他に、人生を楽しくかつ愉快にする手段を手に入れることは確実です。

言葉を使わずには(一人きりでいる時でも)一日も人間らしい生活ができないからです。この意味で、外国語の習得は自己の人間的成長ないしは発展にも大いに役立つ、ということができるでしょう。

これは正論ではないだろうか。要するに「外国語ができないのは日本の社会が素晴らしい証拠」というのは見苦しい負け惜しみであろう。

 「日本人は外国語ができない」ということに対しての第二の反応は第一の反応と真逆で「これだから日本はダメなんだ」というもの。時として自分自身は語学ができる人ができない日本人に対してこういうセリフを吐くことがある。「オレは他の日本人とは違うんだ、はっはっは」というのが本音であろう。こういう、たかが外国語の一つや二つしゃべれるのをすぐ鼻にかけだす人が多いのもつまり日本人全体の外国語レベルの低さの裏返しである。しかし逆に誰かがちょっと外国語を話したり書いたり、「〇語ができる」と(事実を)言うとすぐ威張っているの自慢しやがってのと僻み交じりの攻撃をしだす人はもっと困りもの。双方に共通することは「外国語が話せるのは大したこと」という意識である。しかし外国語を話せることなんて自慢にも何もならない社会や国が世界にはゴマンとあるのだ。そのゴマンの中に欧州社会があると思うが、「これだから日本はダメ」発言を展開する人には、「良い例」として欧州を引っ張り出してくる人が多い。「ヨーロッパではまともな教養のある人は3か国語くらいペラペラなのに、日本人は教養人ヅラしていても英語もロクにしゃべれない人がいる」というわけである。確かにこれは真実なのだがこういうことを安易に言い出す人は上で述べた二つ目の理由を無視している点で鵜呑みにするわけにはいかない。
 日本人が言語構造も背景文化も全く違う英語を勉強するのと、ドイツ人が言語構造にほとんど方言差くらいの違いしかなく、文化の背景も同じ英語を勉強する場合と比べて「日本人は外国語ができない」と言ってみても仕方がないからだ。ライオンと柴犬を比べるようなものでそもそも比較になっていない。比べるなら日本人の英語とイギリス人の日本語、あるいは日本人のドイツ語とドイツ人の日本語と全体的にどちらが悲惨かを比べるべきだろう。少なくともドッコイドッコイ、多分それぞれ後者のほうが悲惨度が高いと私は思っている。日本人のほうがやや有利な条件下にあるからだ。
 まずドイツ語・英語は文字の数が笑っちゃう少なさの26文字。補助記号やウムラウト文字を入れてもせいぜい30である。日本語は表音文字だけで100、補助記号、つまり拗音や濁音表記なども入れればさらに多くなる上に何千もの漢字がある。私たちは子供の頃から読みなれ、書きなれているからいいがこれをクリアするだけで相当のエネルギーがいる。新聞記事あたりがまともに読めるようになるには何年もかかるに違いない(というよりなるのか?)。私たちがヒエログリフを見て呆然とする、あの感覚だ。
 次にこれは第一の点とも被ってくるが、孤立した言語である人たちは「外国語とは母語とは全く違うもの。文字から何から全部ワケわかんない想像を絶する世界」という感覚が身についている。文法などが「何だよそりゃ?」と思うものであっても「まあ外国語なんだから何が出てきてもおかしくないか。わかんないけど」と一応黙って消化する。例えば英作文で前置詞をうっかり後置してしまうような人を私は中学のクラスメートにさえ見たことがない(間違った前置詞を使っちゃったというのは皆よくやっている)が、こちらではだいぶ勉強が進んだ後でも「にドイツ」とか「を本と新聞」とかやってしまう人を一人ならず見た。「AのB」という付加語を持った構造はさらに間違いが頻発する。「山田さんの学校」「アメリカの友達」がそれぞれ「学校の山田さん」、「友達のアメリカ」、あるいはもっとひどく「の山田さん学校」、「のアメリカ友達」になってしまうのだ。要するに彼らは外国語といっても自分たちの母語と構造のよく似た印欧語しか知らないのでその外に出られず、「あなたの知らない世界」に入っていくのが日本人より苦手なのではないだろうか。バスク語やフィンランド語でも知っている人はこの点有利かもしれないが、背景となる文化は同じである。そもそも文字が同じだ。
 それで私は時々「ドイツ人が外国語ができますとか言って英語やフランス語を持ち出してくるのを見るたびに笑っちゃうわね。そんなもん全然Fremdsprachen (foreign languages)じゃなくてBekanntsprachen (familiar languages)じゃん」とドイツ人にいって嫌がられている。実は私が最近流行の会話中心・文法なんて気にするな的メソッド(その手のメソッドでは授業の言語、つまりメタ言語と対象言語が必ず一致している)をドイツ人の日本語教育、日本人の英語教育に盲目的に応用するのに不安を感じているのもこの点である(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。もちろんフィンランド語やハンガリー語などの例外はあるが欧州内の言語は基本印欧語で構造がそっくりである。母語の骨組みが外国語にも応用できてしまうから、あとはインプットをガンガン入れ、会話の練習を積めば立派な建物が出来上がる。細かい文法上の差異はあるが、それらは建物の根本構造をいじらなくても済む「改修」程度だ。
 それに対して真正の外国語は学習者は内部に土台を持っていない。そこにやたらと文法を気にしないでインプットだけ吹き付けるのは土台も骨組みもないところに「改修」だけで家を建てるようなもの。できあがるのはちょっと強風が吹けば崩れ落ちるような掘っ立て小屋である。
 ここ何年か主にアラビア語を母語とする難民が増え、ドイツ語の授業も提供されているが、上の『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたようにその教科書は会話中心のきれいなカラー印刷のものだ。もちろん専門家が作ったものだからメソッド的には優れているのだが、いままでは対象者のほとんどは欧州内の他の国か、あるいは長くドイツに住んでいる外国人であった。言語の骨組みがすでにできている人たちだ。ところが今の難民は言語の面でも文化の面でも共通項となるその骨組みを持っていない人たちである。どうなるかと思っていたところ、新聞に「難民のドイツ語教育の効果が上がっていない」という趣旨の記事が載り、申し訳ないが「当然だ。何をいまさら」と思ってしまった。また実際に外国人にドイツ語を教えている知り合いが、学校側からは「会話能力をつけるために授業はドイツ語だけでやるように」と厳しく念を押されていたが、ドイツ語が理解できない学習者(当たり前だ。だからこそ授業を受けに来ているのだ)にそれをやっても全く効果がなく、授業が成り立たなくなってきたので英語で文法説明をしてしまったと話してくれたことがある。この人は最近の会話中心の方法には懐疑的だった。全く言語的背景のない日本人にカラー印刷の教科書で楽しい会話だけさせたら、まともな家が建つ代わりに掘っ立て小屋が増えそうな気がして怖い。私の杞憂だといいのだが。

 もちろん、ドイツ人の日本語のほうが日本人の英語より悲惨だからと言って「日本人のほうが頭がいい」とか「ドイツ人はものわかりが悪い」などということはできない。上でも述べたようにこれは単に偶然日本人のほうが言語の異次元性に対する免疫ができているというだけの話だからである。多少理解できなくてもいちいち驚いたり拒否反応を起こしたりしない。基本的には民族や国に関係なく(母語と全く違う)外国語というのはできないのが普通なのではないだろうか。それを「普通にやれば誰でも外国語はできるようになる」などと甘い約束をするから、やってもやってもできるようにならない私のような者がマに受けて「私は常人より知能の発達が遅れているのではないか?」と真剣に悩みだしたりするのだ。また、学習者が2年もやっているのに全員ヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のB2レベルくらいにならないからといって、授業のやり方に根本的な欠陥があるように言われたりもする。確かにこちらの大学などの日本語の学習者はほぼ全員2年もすれば会話が成り立つようになるが、それはそこに行く前についていけない者がどんどん脱落するからである。言い換えると授業を受ければ全員2年で会話ができるようになるのではなくて、2年で日本語をマスターできるような者だけが最後まで残っているのだ。授業体制の欠陥を云々するとすればむしろこの点ではなかろうか。生まれつき外国語のセンスがある者、センスの点ではイマイチだがとにかく勉強する意思はあってまじめな者、そういう一部の者だけが到達できるレベルに全員到達させようとする、到達できるはずだとする考え方が根本的に間違っているのではないのか。
 もちろん、日本国民全員を英語B2にするのはどんなやり方をとっても不可能だとしても、かといって日本の外国語の授業のやり方がこのままでいいとはさらに思わない。もうちょっとやり方を変えたほうがいいんじゃないかと思う。それについては英語教育学の学者がいろいろ考えて種々の試みをしたりしているから、素人の私がここで嘴を挟んでも笑われるだけだろうが失礼して無責任な提案をさせてもらうと、まず日本は英語教師その人が英語をロクスッポできないまま教えている(人もいる)のが最大の問題ではなかろうか。言葉を教えられるのは原則的にネイティブだけのはずである。こちらは例えばドイツ語を人に教えられるのはネイティブ、またはドイツ語能力試験でC2をとった人だけである。ただ上でも述べたように私はメタ言語と対象言語が一致する授業形式は特に初心者にはあまり効果がないのではないかと疑っているので文法説明は学習者の母語でやるのがいいと思う。とすると日本で英語を教えられるのは日本語がすっごくできる英語ネイティブか、少なくとも英語圏で大学を正規に卒業した日本人ということになる。これを条件にすると資格を失う英語教師は日本に相当いるはずだ。
 もう一つ、文法や講読(あるいは「英文解釈」)の授業と並行して会話と作文の授業を別途にやったらどうだろう。前者が理論、後者は実践授業である。そして後者の授業は本当にネイティブだけにやらせる。この二つを分ければ学習者のほうもどちらを好きになるかによって自分に向いているのは語学のほうか言語学のほうかわかってくる。将来設計にも役立つのではないだろうか。この二つを基本として、さらに勉強したい者、高校大学からアメリカに留学したいとか、大学はその方面に進みたいとかいう人のためだけに英語のスペシャル授業を自由選択制で設けてやればよろしい。自由選択だからついていけない者は安心して脱落できる。高校から渡米したがっている生徒と一生東京都品川区から出る気のない者とに画一化した授業をやるから効率が悪くなるのだ。
 もっともこんなことはもうとっくに皆考えていて、今の日本ではきちんと準ネイティブが集中的に教えているようになっているのかもしれないが。

 上でも引用したように外国語というのはあくまで自分の人生を豊かにするため、自分を鍛えるために勉強するのである。たかがちょっとくらい外国語ができると言って有頂天になったり、逆に他の人が外国語ができるからといって妬んだり僻んだりするような事柄ではない。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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