アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 文法・文法理論

 一応前置が基本ではあるが、ロシア語は形容詞が被修飾名詞の前後どちらにも付くことができる。それで例えば「愛しい友よ」は

милый друг
dear + friend
(my dear friend)


とも、

друг милый
friend + dear

とも言うこともできる。形容詞が後置されたдруг милый(ドゥルーク・ミィリィ)は感情のこもった言い方で、こう言われると本当に親しい、愛しい感じがするそうだ。

 ちょっと文法書を見てみたら形容詞が後置されるのは:1.被修飾名詞が人とか物・事など意味的にあまり実体がなく、主要な意味あい、伝えたい情報は形容詞の方が受け持つ場合、2.文学的・詩的な表現である場合など、とある。つまり後置形容詞はいわゆる「有標」表現なわけだ。
 特に1の説明は、「情報価の高い要素ほど右(後ろ)に来る」というプラーグ学派のcommunicative dynamism、いわゆるテーマ・レーマ理論を踏襲した極めて伝統的なスラブ語学の視点に立っている感じでいかにもロシア語の文法書らしい説明ではないだろうか。

 しかし私はこれをシンタクス的に別解釈することも可能だと思う。形容詞が後置される形は同格、つまり名詞句NPが二つ重なった構造であって、前置構造の場合と違って形容詞が名詞にかかる付加語ではない、という解釈も可能だと。 つまり、上の形容詞が前置されているмилый друг(ミィリィ・ドゥルーク)は

[NP [A {милый} ] [N {друг} ] ]

だが、друг милый(ドゥルーク・ミィリィ)はNP(A + N)ではなく

[NP [NP1 [N {друг} ] ]  [NP2 [A {милый} ]  [N {ZERO} ] ] ]

というダブル名詞句構造というわけ(ここでZEROとあるのは形としては表面に現われて来ない要素である。本チャンの生成文法では別の書き方をしていたような気がするが調べるのが面倒なのでここではこういう表記をしておく)。それが証拠に、というとおかしいが「イワン雷帝」、

Иван грозный
Ivan + terrible

は、英語ではterrible IvanでなくIvan the terribleと定冠詞をつけて同格風に訳す。

 つまり後置形容詞は統語上の位置が単なるNの附加語の地位からグレードアップしてNP1枠から脱獄(?)し、披修飾語NP1と同じ位置まで持ち上がって来るのだから(NP2)、形容詞の意味内容が重みを持って来る、つまり情報価が高くなることの説明もつく。言い換えると、後置形容詞は「情報価が高いから」後置されるのではなくて、むしろ逆に後置されることによって、つまりシンタクス上の位置が変わることによって情報価が高まるのではないだろうか。

 さて文法書などの「同格」(ロシア語でприложение、プリロジェーニエ)の項を見ると同格を、「修飾の特殊な形態。複数の名詞で表され、さらに詳しい情報を提供したり補足したりする」と定義されている。例として

старик-отец
old man + father
「老父」


とか
мать-старушка
mother + old woman
「老母」


などが上がっているだけで形容詞を使った言い回しは上がっていない。どこにも例としては載っていなかったが私がソ連旅行をした際(『3.噂の真相』の項参照)当時のレニングラートの駅にデカデカと立っていた看板город-герой(「英雄都市」)も同格表現と見ていいだろう。ちなみに上のмать-старушка(マーチ・スタルーシカ)の例を普通に形容詞を付加語的に使った構造で表現すると

старая мать
old + mother

である。
 一方どの文法書も「品詞間の移動」、「形容詞の名詞化」についてかなりページを割いているし、もともと印欧語は形容詞と名詞の移動が相当自由なので、次の例などは「形容詞の名詞化による同格表現」と解釈しても「そんな無茶な」とは言われないだろう(と思う)。

Что ж ты, милая, смотришь искоса?
what + on earth + you + dear + look at + askance
(What on earth do you, my dear, look at askance?)


それと同じく、旧ソ連の国歌の歌詞

Союз нерушимый республик свободных
union(対格) + not to be overthrown + republics(生格) + free

も、

The unoverthrowable Union of the free republics

とあっさり訳すより、同格っぽく

The union, our unoverthrowable union, of the republics, of our free nations

とかなんとかやった方が原文の感じがでると思う。もっともこれらは最初にあげたように単に「文学的な表現」としてあっさり片付けてしまえそうな気もするが。

 それで思い出したが、英語やドイツ語では同格表現でof(ドイツ語でvon)を使うことがある。

The united states of America

は、「アメリカの合衆国」ではなくて「アメリカという合衆国」という意味で、名前つまり詳しい付加情報を付加している同格構造である。もっとも日本語でも

глупый Иван
stupid + Ivan

は、「馬鹿なイワン」だが、形容詞後置の同格的表現

Иван глупый
Ivan the stupid

は、「イワンの馬鹿」とofにあたる「の」を使って表現できる。「太朗の馬鹿野郎」なども「太朗=馬鹿」という図式の同格表現であろう。

 あと、話はそれこそ前後するが、この同格は文法書では「名詞」の項ではなくてシンタクス現象として本のずっと後ろのほうにでてくるのが面白い。
 もう一つ面白いと思ったのは、上の「老父」と「老母」の例で双方の名詞の順序が逆になっているということだ。老父では「年寄り」という名詞が「父」の先に来ているが、「老母」では「母」が先で「年寄り」が後に来ている。つまり名詞句NPの順番はどっちでもいいということだ。こういうところからも同格構造は最終的に一つの名詞句である、つまりあくまで一つのシンタクス上の単位であることがわかる。これがセンテンスやテクストレベルになると、つまり二つの名詞句間になるととそうは行かないからだ。
 代名詞を使わずに名詞句で同一の指示対象を指し示すことがあるが、その場合、2番目の名詞句NP2が意味的に最初の名詞句NP1より包括的でないと、対象指示がうまく機能しないのだ。例えば、

フェリーが座礁した。はたちまち沈んでしまった。

というテクストではNP2の「船」はNP1の「フェリー」より意味が包括的だからこの「船」というのは最初に出てきたフェリーのこと、つまりNP1とNP2はco-referential、指示対象物が同一である。しかしここでNP1とNP2を入れ替えて

が座礁した。フェリーはたちまち沈んでしまった。

というとNP2の意味がNP1より狭くなるため、この二つがco-referentialであるという解釈が難しくなる。船が2隻沈んだ感じになるのである。これを「父」と「老人」に当てはめてみると、

が何十年ぶりに帰ってきた。でも老人には僕がわからなかった。



老人が何十年ぶりに帰ってきた。でもには僕がわからなかった。

になり、後者の例だと帰ってきた老人が父であることがわかりにくい。「父」のほうが指示対象の範囲が狭いからだ。これはレヴィンソンという言語学者が指摘している現象である。

 そういえば、話はそれるが以前ちょっと話に出たwendisch-slawischenという表現(『71.トーマス・マンとポラーブ語』の項参照)。これは名詞でなく形容詞のダブル構造なのでもちろん同格ではないが、この二つの形容詞の意味関係も考えてみると面白い。日本語の訳者はこれを明らかに「ヴェンド人というスラブ民族」と解釈しているが、トーマス・マンは「ヴェンド人、すなわちスラブ人」というつもりだったのではないだろうか。


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 日本語では生物が主語に立った場合と無生物が主語に立った場合とでは「存在する」という意味の動詞が違う。いわゆる「いる」と「ある」の区別であるが、

犬がいる。
馬鹿がいる。
機関銃がある。

これをもっと詳細に見てみると生物は「いる」、無生物は「ある」とは一概にいえないことがわかる。

あそこにタクシーがいる。
昔々おじいさんとおばあさんがありました。

しかしタクシーに「いる」を使えるのは駅前で客を待つべく待機しているタクシーなど中に運転手がいる、少なくともいると想定された場合で、意味が抽象化して「タクシーという交通機関」を意味するときは「ある」しか使えない。「そっちの町にはタクシーなんてあるのか?」などと小さな町のローカルぶりを揶揄したいときは「ある」である。さらに「この時間にまだタクシーがあるのか?」という疑問は家から電話でタクシーを呼ぼうとしている人に発せられるのに対し、「この時間にまだタクシーがいるのか?」だと駅に夜着いてキョロキョロタクシーを探している人にする質問だ。
 また昔々おじいさんがありましたというと、おじいさんがいましたといった場合よりこのおじいさんが物語の登場人物であることが前面に出てくる。つまり生身のおじいさんより抽象度がやや高くなることはタクシーの場合と同じだ。もっとも「おじいさんがありました」はひょっとしたら、「おりました」の変形かもしれない。

 ロシア語では主語でなく目的語でこの生物・無生物を表現し分ける。パラダイム上で対格形が生物か無生物かで異なったパターンをとるのだ。まず、生物、人間とか子供とかいう場合は目的語を表す対格形と生格形が同じになる(太字)。まず単数形を見てみよう。
Tabelle1-88
それに対して無生物だと主格と対格が同形になる。
Tabelle2-88
ただしこれは男性名詞の場合で、女性名詞の場合は主格、生格、対格が皆違う形をしているからか、生物・無生物の区別がない。
Tabelle3-88
「女性の言語学者」と「言語学」は形の上ではи (i) が入るか入らないかだけの差である。中性名詞はそもそも皆無生物なのでこの区別はする必要がない。

 上の例は単数形の場合だが、複数形になると両性とも生物・無生物の区別をする。生物は主格と生格が同形、無生物は主格と対格が同形という規則が女性名詞でも保たれる。

「言語学」の複数形というのは意味上ありえないんじゃないかとも思うが、まあここは単なる形の話だから目をつぶってほしい。
Tabelle4-88
 さらに上で出した「子供」の単数ребёнок の複数形は本来ребята なのだが、子供の複数を表すには別単語の дети という言葉を使うのが普通だ。ロシア語ではこの語の単数形は消滅してしまった。クロアチア語にはdjete(「(一人の)子供」)としてきちんと残っている。そのдетиは次のように変化する。生物なので対格と生格が同形だ。
Tabelle5-88
 例えば「言語学者が映画を見る」「女の言語学者が映画を見る」はそれぞれ

Лингвист смотрит фильм.
Лигвистка смотрит фильм.

だが、「言語学者が言語学者を殴る」「女の言語学者が女の言語学者を殴る」は

Лингвист бьёт лингвиста.
Лигвистка бьёт лингвистку.

となる。

 ところがショーロホフの小説『人間の運命』には次のようなフレーズがある。

Возьму его к себе в дети.
I’ll  take + him + to + myself + in + children

主人公の中年男性が、戦争で両親を失い道端で物乞いをしていた男の子を見かけて「こいつを引き取って、自分の子供にしよう」とつぶやくセリフである。в (in) は前置詞で、対格を支配するから、生物である「子供」の場合はв детейとなるはずだ。なぜまるで非生物のように主格と同形になっているのか。腑に落ちなかったのでロシア人の先生にわざわざ本を持って行って訊ねたことがある。するとその先生はまず「あら、これは面白い。ちょっと見せて」と真面目に見入り出し、「ここでは生身の子供を指しているのではなく、子供という観念というかカテゴリーというかを意味しているから無生物扱いされて主格と同形になっているのだ」と説明してくれた。
 その後、生物の対格が主格と同形になる慣用句があることを知った。いずれも生物がグループとか種類というかカテゴリーを表すものである。

идти в солдаты (本来солдат
go + in + soldiers
(兵隊に行く)


выбрать в депутаты  (本来депутатов
elect + in + members of parliament
(議員に選ぶ)


この、「カテゴリーや種類の意味になるときは無生物化する」というのは上の日本語の例、「タクシーがいる・ある」「おじいさんがいました・ありました」にもあてはまるのではないだろうか。さらに「細菌」とか「アメーバ」とか使う人によって生物と無生物の間を部妙に揺れ動く名詞がある、という点も共通しているが、ロシア語は「人形」(кукла、クークラ)や「マトリョーシカ」(матрёшка)が生物扱いとのことで、完全に平行しているとはいえないようだ。言語が違うのだから当然だが。

 さて、面白いことにロマニ語もロシア語と全く同じように生物と無生物を区別する。以下はトルコとギリシャで話されているロマニ語だが、ロマニ語本来の単語では生物の複数形が語形変化してきちんと対格形(というより一般斜格形というべきか、『65.主格と対格は特別扱い』の項参照)になるのに対し、無生物では対格で主格形をそのまま使う。ロシア語と違って男性名詞・女性名詞両方ともそうなる。
Tabelle6-88
属格は非修飾名詞によって形が違って来るため全部書くのがめんどくさかったので男性単数形にかかる形のみにした。「家」の対格が一般斜格でなく、主格と同形になっているのがわかるだろう。その無生物でも与格以下になると突然語根として一般斜格形があらわれるのでゾクゾクする。女性名詞でもこの原則が保たれる。
Tabelle7-88
複数形でも事情は同じだ。(めんどくさいので)以下主格、対格、与格形だけ示す。
Tabelle8-88
下手にロシア語をやっている人などは「これはロシア語の影響か」とか思ってしまいそうだが、私にはロシア語からの影響とは考えられない。第一にこの例はトルコのロマニ語のもので、この方言はロシア語なんかとは接触していないはずである。第二に生物の対格は古い印欧語から引き継いだ対格・一般斜格をとっていて属格(ロシア語でいう生格)と同形ではない。
 もっともロマニ語でも生物と無生物のあいだを揺れ動くグレーゾーンがあるそうで、魚とか蛆虫とかはどっちでもいいらしい。また無生物が擬人化すると生物あつかいになるとのことで、日本の「タクシーがいる」あたりと同じ感覚なのだろうか。


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 印欧語本来の名詞変化パラダイムをすっかり失って廃墟と化した英語は別として、印欧語族の言語では名詞が格変化して形を変えるのが普通である。もっともドイツ語も相当廃墟状態で4つの格しか残っていない、しかもその際名詞自体は形をあまり変えずに冠詞に肩代わりさせるというズルイ言語になり下がってしまっているが、本来の印欧語は少なくとも8つの格を区別していた。
 サンスクリットは主格、呼格、対格、具格、与格(または「為格」)、奪格、属格、処格の8格を区別するが、a-語幹の名詞(男性名詞と中性名詞の場合がある) aśva-(「馬」)のパラダイムは以下のようになっている。この文法書では単数主格、双数属・処格、複数主・呼・具・与・奪格の語尾が s になっているが、別の教科書ではこれが h の下に点のついたḥ、いわゆるヴィサルガという音になっている。
Tabelle1-90
i-語幹には男性・女性・中性すべての文法性がありうるが、例えばこのグループの男性名詞のkavi-(「詩人」)は次のように語形変化する。
Tabelle2-90
a-語幹と違って単数で奪格と属格が溶け合って同じ形になってしまっているが、この手の融合現象は特に双数形で著しい。双数では主・呼・対格と、具・与格、奪・属・処格がそれぞれ同形、つまり形が3つしかないのが基本である。さらに「友人」sakhi-はちょっと特殊な変化をするそうだ。
Tabelle3-90
私が面白いと思うのは「呼格」というやつだ(太字)。廃墟言語の英語やドイツ語くらいしか知らない人は John is stupid.のように John がセンテンスの主語になる場合も Hi, John! と呼びかける場合もどちらも同形を使って平然としているが、本来の印欧語では「ちょっとそこの人!」と呼びかける場合と「そこの人が私の友人です」と文の主語にする場合とでは「そこの人」の形が違ったのである。前者が呼格、後者が主格だ。ラテン語も単数で呼格を区別するから知っている人も多かろう。「友人」amīcus の変化は以下の通り。サンスクリットとは格の順番が違っているが、格の順番が言葉によって文法書でバラバラなのは不便だ。サンスクリットタイプで統一すればいいのにとも思うが、欧州ではインドとは別にもうラテン語タイプが慣用になってしまっているので無理なのかもしれない。大坂と東京の電源周波数が今更統一できないのと同じようなものか。
Tabelle4-90
サンスクリットに比べてラテン語は語形変化が格段に簡単になっているのがわかる。まず双数がないし、格も6つに減っている。かてて加えて単数でも複数でもあちこちで格が融合してしまっている。しかも実は呼格も退化していて普通は主格と同形。この-usで終わる男性名詞だけが形として呼格をもっている例外なのである。その呼格も形としては単数形にしか現れない。それでも「ブルータス、お前もか」という場合、Brutusとは言わないでBruteと語形変化させないと殺されるのだ。させてもカエサルは殺されたが。

 ラテン語はもちろんサンスクリットでさえもすでにその傾向が見えるが、呼格は主格に吸収されることが多かったので今日びのドイツ語学習者などにはそもそも Mein Freund ist blöd (My friend is stupid)と Hey, Freund! とでは「友達」の格が違う、という意識すらない人がいる。が、スラブ諸語などにはいまだに呼格をモロに形として保持している言語があるので油断してはいけない。何を隠そう私の専攻したクロアチア語がそれである。例えば女性の名前「マリア」は呼格が「マリオ」になるので、「ちょっと、マリアさん!」は「ヘイマリオ!」である。男性名詞の「マリオ」は呼格もマリオなので、クロアチア語ではマリアさんとマリオ君を区別して呼びかけることができない。ちょっと不便だが、その代わり(?)o-で終わらない男性名詞は皆しっかり呼格と主格が違うので変化形を頭に叩き込んでおかないと、人に呼びかけることもできない。小学生が教室で「先生!」ということもできないのである。例えばprijatelj(「友人」)という単語は次のように語形変化する。
Tabelle5-90
格の順番がまたしてもラテン語やサンスクリットと違っているが、それを我慢して比べて見ると単数で主格と呼格が違った形になっているのがわかる。面白いことに単数呼格はなんと別の斜格、処格と同形だ。こういうのはちょっと珍しい。複数では定式どおり主・呼格が同形である。なお、単数属格と複数属格は字で書くと同形だが発音が少し違い、複数のほうは母音を伸ばして prijatēljā という風に言わないといけない。もう少し別の例を見てみよう。
Tabelle6-90
「友人」の場合と同じく複数属格の最後の-aは長いāである。単数の主格で k だった音が呼格では č と子音変化しているがこの k→č というのは典型的なスラブ語の音韻交代で、ロシア語にもみられる(下記参照)。同じ音が複数では c [ts] になっているが、これも教科書どおりのスラブ語的音韻交代である。
 ラテン語では上の amīcus などいわゆる第二活用(o-語幹)の名詞の一部でしか呼格を区別しないから第一活用(a-語幹)か第三活用(子音語幹やら i-語幹やら)をとる女性名詞は主格と呼格が常に同形ということになるが、クロアチア語ではラテン語の第一活用に対応する、-a で終わる女性名詞にも呼格がある。上でも述べたとおりだ。正書法には現れないが複数語尾の a(下線)は長母音。
Tabelle7-90
なるほど上の「友人」や「男の子」のようにここでも複数形では主格(対格も)と呼格が同形なんだな、と思うとこれが甘い。女性名詞では複数主格と複数呼格ではアクセントが違うのである。クロアチア語は強勢アクセントのあるシラブルでさらに高低の区別をするが、複数主格のženeでは最初のeが「短母音で上昇音調」、複数呼格ではこれが「短母音で下降音調」である。つまり主格では žene(ジェネ)を東京方言の「橋」のように、呼格だと「箸」のようなアクセントで発音するのだ。
 実は男性名詞の単数の主格と呼格の間にもアクセントの相違があるものがあって、例えば Franjo という名前の主格は a が「長母音で上昇音調」、呼格は「長母音で下降音調」だ。私の母語日本語東京方言には対応するアクセントパターンがないが、主格は「フラーニョ」の「フラ」を低くいい、「ー」で上げる。呼格は「ラ」の後で下げればいいだけだから、東京人が普通に「フラーニョ」という文字を見て読むように発音すればいい。で、上の「マリオ」も呼格と主格では音調が違うんじゃないかと思うが、ちょっと資料がみつからなかった。
 とにかくクロアチア語というのは余程勉強しておかないとおちおち呼びかけもできないのだ。スロベニア語に至ってはこれに加えて双数というカテゴリーをいまだに保持している。これらに比べればドイツ語の語形変化なんて屁のようなものではないか。

 あと、語学系の教師がすぐ「決まった言い方」と言い出す(『34.言語学と語学の違い』『58.語学書は強姦魔』の項参照)ロシア語の Боже мой(ボジェ・モイ、Oh my God!)という言い回し。この Боже は Бог(ボーク、「神」)の呼格形である。ロシア語はパラダイムとしての呼格は失ってしまったがそれでもそこここに古い痕跡を残しているのだ。この Бог  → Боже (bog → bože)という音韻変化はまさに上のクロアチア語の momak  →momče と平行するもの。前者が有声音、後者が無声音という違いがあるだけである。
 
 さらに私の知っている限りではクロアチア語の他にロマニ語が呼格を保持している。以下はトルコで話されている Sepečides(セペチデス)というロマのグループの例だが、男性名詞も女性名詞も単数・複数どちらにも呼格がパラダイムとして存在している。(『65.主格と対格は特別扱い』『88.生物と無生物のあいだ』の項も参照)
Tabelle8-90
単数呼格と複数主格とではアクセントの位置が違うので、誤解のないようにこの二つだけアクセント記号をつけておいた。女性名詞も呼格の区別ははっきりしている。
Tabelle9-90
ロマニ語も方言によっては使用がまれになってきているものもあるらしいが、まあ呼格がよく残されている言語といっていいだろう。

 さて日本語であるが、以前「日本語のトピックマーカー「は」は文法格に関しては中立である」ということを実感として味わってもらおうと、

私の友人は来ないで下さい。

という文をなるべくこの構造の通りにラテン語に訳してみろ、と言ってみたことがある。英語やドイツ語だと意訳して my friends may not ... とか Meine Freunde sollten nicht...とか話法の助動詞かなんかを使って「私の友人」を主格の主語にしてしまう危険性があるが、それでは構造の通りではない。なぜなら「来ないで下さい」は命令文だからである。しかも、私の意図としてはここで日本語不変化詞「は」はあくまでトピックマーカーであって主語だろ主格だろを表すものではないことを特に強調しておくことにあったので、Meine Freunde sollen とか Mein Freund soll とかやられてはこちらの意図が丸つぶれになってしまう。
 ここでの「私の友人」は呼格である。だから呼格であるかどうかわかっているかどうか、言い換えると「は」は斜格中の斜格である呼格にさえくっ付くことができると理解できたかどうかを確かめるためには呼格を区別する言語に訳させてみるのが一番。ラテン語ならギムナジウムで皆やってきているはずだから「来ないで下さい」は無理でも文頭の「(私の)友人」なら大丈夫だろうと思ったのである。念のため「ドイツのギムナジウムを終えた人に質問します」と前置きまでしておいた。
 ところが意に反してラテン語を履修していたドイツ人が一人もおらず、座が沈黙してしまった。良かれと思って前の晩から一生懸命こういうワザとらしい例文を考えて準備しておいたのに完全に裏目に出た感じ。いわゆる「間が持たない」という状況。漫才師だったら即クビになっているところだ。どうしようと思っていたら、イタリアの人が「ドイツのギムナジウムは出ていませんが、国でラテン語をやりました」と手を挙げた。やれやれありがたいと上の日本語を訳させてみたら(これもまた念のため、「単数形でやってみなさい」と指示した)、開口一番「Amīce…」と呼格で大正解。それさえ聞けばもう「来ないで下さい」なんてどうでもよろしい。さすがラテン語の本場、マカロニウエスタンの国の国民は教養があると感心した。
 後で私が「最近のドイツの若いもんって古典語やらないの?ヨーロッパ人のクセにラテン語できないとか、もうグロテスクじゃん」と外で愚痴ったら「日本語の説明にラテン語を持ち出すほうがよっぽどグロテスクだろ」と逆襲された。さらにこの例文は不自然だと指摘されたので、また一晩考えて

ブルータスさんはイタリアの方ですか?

という例文を、「ブルータスさんというのは第三者でなく、話し相手です」と発話状況を明確に限定した上でラテン語に訳させてみることにしている。しかしまだ上述のような Brute という形を出してきた者はいない。ドイツ語や英語だとこれが

Brutus, sind Sie Italiener?
Brutus, are you an Italian?

となってしまい、ブルータスが呼格であることがはっきり形に出ない。

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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法 admirative の存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によって ser というコピュラとestar というコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合は ser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合は estar を使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.
the + life + ser.3.sg. + hard
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).
the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.
Michael + ser.3.sg + very + proud
ミゲルは誇り高い人だ

Miguel está muy orgulloso de su éxito.
Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success)
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.
this + trick + ser.3.sg + dirty
このトリックは汚い

Ese coche está sucio.
this + car + estar.3.sg + dirty
この車は汚い

El señor Garrote es moreno
the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は目と髪が黒い

El señor Garrote está moreno.
the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.
his + eyes + ser.3.pl. + red
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)

Sus ojos están rojos.
his + eyes + estar.3.pl. + red
彼の目は充血している。

Eres joven
ser.2.sg. + young
あなたは若い。

Estás joven
estar.2.sg. + young
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合には estar を使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo
ser.3.sg + new 
新品だ。

está nuevo
estar.3.sg + new        
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語の how is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su? (3.sg.) にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel? 
how + ser.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな人だ?

¿Cómo está Isabel?
how + estar.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.
(she) + ser.3.sg + very + kind
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente.
(she) + estar.3.sg + very + kind + lately
最近とても親切だよ

あるいは

(Ella) está muy bien.
(she) + estar.3.sg + very + well
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、この ser か estar かの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまり A=B の Bの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.
boy + (is) + healthy-.m.sg.
Мальчик здоровый.
boy + (is) + healthy-.m.sg.

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.
he + (is) + living-.m.sg. -> alive
Он живой.
he + (is) + living-.m.sg. -> lively

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.
Китайский язык трудный.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語の ser 対 estar と似ているが、Ljudmila Geist という言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.
universe +  (is) + endless-.n.sg.
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語の ser 対 estar と似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.
Anna + was + teacher-.sg.
Анна была учительницей.
Anna + was + teacher-.sg.
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.
Irina + was + good-natured-.f.sg
Ирина была доброй.
Irina + was + good-natured-.f.sg
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語の ser 対 estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。それで * をつける。

* Он несколько лет был директор.
he + several years + was + director-
Он несколько лет был директором.
he + several years + was + director-
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.
Pushkin + was + always +great- + poet-主
Пушкин всегда был великим поэтом.
Pushkin + was + always +great- + poet-造
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.
Anna +  was + daughter-+ doctor’s
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist 氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:быть というのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。быть には実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取る быть-1 は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとる быть-2 は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だが TP というのは Tense Phrase のことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形の труден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語では Пространство бесконечно という言い回しが許されるがスペイン語で universo está infinito とかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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