アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 文法・文法理論

 SF作家アイザック・アシモフの本で私が一番好きなのが実は自伝だ。肝心のSFの方は、『我はロボット』はさすがに小学生の頃(一回だけ)読んだが『銀河帝国の興亡』も『夜来たる』もまだ読んでいない。なのでとても「アシモフの読者です」とはいえないが、自伝だけは繰り返し読んだ。アシモフ博士をロール・モデルとして勝手に尊敬しているのだが、私なんかに尊敬されて博士も相当迷惑していたのでなかろうか。
 それにしてもアシモフ氏と私と比べてみると(比べること自体が侮辱かもしれないが)愕然とする。これでも同じ人類なのか。

1.博士は米国徴兵検査で計ったとき、知能指数が167とかあっていっしょに検査を受けた者の中では全米一だったそうだが、私はいつだったか就職試験で知能検査のようなものをされたとき、試験を受けた200人以上のなかで(人事部の人曰く)「文句なく最低点」を取ってしまったという折り紙つきの頭の悪さだ。

2.博士はボストン大学医学部教授と作家の二つの職業を両立しつづけ、世界人名事典などにも名前が載っているセレブだが、私の名などせいぜい高校・大学の卒業者名簿の隅のまた隅にしか載っていない。しかもその名簿も会費を払わずにいるため私の手元には届かない。

3.博士は若くして化学の博士号を取ったが、私は高校の授業で「アルファケトグルタル酸」という名前がおかしくて笑いの発作を起こし、化学の先生にどやされた大馬鹿だ。中学の時はメスシリンダーという器具の名前を教わり、さっそく「オスシリンダー」とギャグを飛ばそうと思ったら、理科の先生に「この器具の名前を言うと毎年必ず「オスシリンダー」と突っ込んで来る人がいますが、その駄ジャレはとっくに古くなってますからもうやめなさいね」と先手を打って牽制されてしまった。駄ジャレの先を越されるとさすがに見苦しい。

 こうやって比べていると、私などうっかりすると「人類の出来損ない」あるいは「害虫」として間引き・駆除されてしまいそうな案配だが、でも私を駆除するのはちょっと待ってほしい。たった一つ、ほんとうにたった一つだけ私のほうがアシモフ大博士に勝っている部分があるのだ。 それはロシア語動詞アスペクトだ。

 アシモフ氏はロシア(当時のロシアは現在のウクライナもベラルーシも含んでいた)生まれだが、3歳のときアメリカに移住したのでロシア語は出来なかった。ご両親の母語もロシア語でなくイディッシュ語だったそうだ。アシモフ氏自身はイディッシュ語・英語のバイリンガルだが、妹と弟はもう英語だけのモノリンガルだったという。家族の中で母語が変遷してしまった。この辺の話もとても興味深いが、とにかくアシモフ氏は大人になってからロシア語をやろうとして文法書を買ったと自伝にある。
 名詞の変化・動詞の活用を息も絶え絶えでクリアし、11章の「動詞アスペクト」まで来た時点でついに堪忍袋の尾が切れ、本を壁に叩き付けてロシア語を止めてしまったとのことだ。

 ロシア語は英語やドイツ語のように「行く」ならgoあるいはgehenと覚えればいいというものではない。はしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアをなしていて、「行く」ならgo-1とgo-2の二つの動詞を覚えないといけない。1と2は使い方が決まっていて、同じgoでも1と2を間違えると文の意味が全然違って来てしまう。おまけに1と2は形に決まりがない、つまりどちらか一方を覚えればそこから自動的に他方を派生できるというワザが効かないので、闇雲に覚えるしかないのだ。例として次のようなペアを挙げてみる。それぞれ左が1、右が2だ。不定形が示してあるが、英語では一つの動詞ですむところがロシア語では動詞がそれぞれ二つあること、またその二つの動詞の形には一定の決まりがないことが見て取れるだろう。

записывать - записать (登録する)
кончать – кончить (終える)
махать – махнуть (振る)
говорить – сказать (話す)
делать – сделать (する)
читать – прочитать (読む)
писать – написать (書く)
идти – пойти (歩く)
избегать – избежать (避ける・逃れる)

ここでアシモフ氏は本を投げたが、私はまさにこのアスペクトという文法カテゴリーに魅せられて、それまで名詞や動詞の変化形が覚えられずにいいかげんもう止めようかと思ってたロシア語を続ける気になったのだった。

 ちなみにどの動詞をもってペアとなすかというのには決まりというか基準があって、ある過去形の文をいわゆる歴史的現在(presens historicum)に変換したとき使われる動詞同士(これは別にわざと駄ジャレを言っているのではない)をアスペクトのペアとみなすことになっている。歴史的現在とは過去の出来事を生き生きと描写するテクだが、この基準を提唱したのは私の記憶によればマースロフという言語学者だ。
 
 それは具体的に言うとこういうことだ。まず英語だが、普通の言い方と歴史的現在とでは次のように同じ動詞の現在形と過去形を使う。

And then Spartacus turned to the south and after three days arrived in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達した。

And then Spartacus turns to the south and after three days arrives in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達する。
(歴史的現在)

 しかしロシア語だと、英語でturned, turns あるいはarrived, arrivesと同じ動詞が使われる部分で、それぞれ違う動詞が使われる。上の英語をロシア語で表すとそれぞれ次のようになる。太字の語を注目。

И тогда Спартак повернул на юг и за три дня добрался до Сиракуз.

И тогда Спартак поворачивает на юг и за три дня добирается до Сиракуз.
(歴史的現在)

повернул поворачивает がそれぞれいわばturn-2とturn-1、добралсядобирается がarrive-2とarrive-1に当たり、ペアをなしている。2の動詞はどちらも過去形、1のほうはどちらも現在形だ。上の表の動詞もそうだが、2のグループの動詞をロシア語文法では「完了体動詞」、1を「不完了体動詞」と呼んでいる。
 つまりこれらペアは活用などによって一方から他方が作られるのではなくて動詞そのものが違い、両方がまたそれぞれ独自に活用するのだ。 例えばповернул (turned)とповорачивает (turns)は、

不定形 поворачивать (to turn-1) (不完了体)
3人称単数男性:
поворачивал(過去)
поворачивает(現在)
удет поворачивать(未来)

不定形 повернуть (to turn-2) (完了体)
3人称単数男性:
повернул(過去)
現在形なし
повернёт(未来)

完了体動詞повернуть (turn-2)の方には現在形がない。

 これはこう考えるとわかりやすいかもしれない。
 「過去形」とか「未来形」とかは動詞の活用のカテゴリーであって、元の動詞は同じ一つの動詞だ。それに対して例えば名詞のカテゴリー「男性名詞」、「女性名詞」は一つの名詞を変化させて作られるのではなく(男性名詞から女性名詞を派生させることもなくはないが、これはむしろ例外現象だ)、元々の名詞がカテゴリー分けされている。 そこからそれぞれ、対格形fだろ複数形だろの語形変化を起こすわけだ。ロシア語の完了体動詞・不完了体動詞も言ってみれば「男性動詞」、「女性動詞」のようなものだ。

  私はまさにここ、アシモフ氏の挫折の原因となった部分で逆に切れそうになっていた堪忍袋の尾がつながったのである。一寸の虫にも五分の魂というか、私がアシモフ大博士に勝っている部分だってあるのだから、すぐには私を始末せずにまだしばらくはこのまま生かしておいてもらいたい。


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 非人称文といったらいいか不特定主語文といったらいいか、動作主体をボカす表現がある。例の英語のThey say that he is stupid.というタイプのセンテンスだ。ドイツ語にもロシア語にもこの手のものがあるが、私にはこれが非常に難しい。文構造の上では主語が現れているのに意味の上では「ない」からである。

 英語のThey say that...などは主語が複数表現だから動詞sayも複数形、これに相当するドイツ語のMan sagt, dass...(One says that...)ではsagtは単数3人称形だ。日本語だといちいちtheyだろmanだろ主語を持ち出さなくてもセンテンスとして成り立つので「彼は馬鹿だと言っている」で済むし、そもそも動詞に複数・単数の区別がない。ロシア語ではthey say thatは複数形でговорят, что(ガヴァリャート・シュト)とやるのが普通だ。говорятが動詞「言う」の複数3人称形、чтоがthatである。主語を特に書く必要がない、つまりsay thatまたはsagt, dassと主語抜きで言えるのが一見日本語と似ているようだが、数と人称は動詞の変化形でしっかりと表現されているので、始めからそういうものが存在しない日本語とは根本的に違うのである。またロシア語ではときどき単数形も使われる。ただし英語もドイツ語も主語(they, oneあるいはman)が人間であることを想起させるのに対しロシア語の単数非人称表現の方は動詞が中性形になる、つまり主語は非生物なのだ。その意味では構造的にはit says thatと対応している感じ。
たとえば、

Рабочий пробил стену.

という文では主語はРабочий(ラボーチイ、「労働者」)という男性名詞の単数主格形、пробил(プラビール) が「孔を開けた」という意味の動詞の過去形で主語に呼応して単数男性形、стену(スチェヌー)が「壁」という女性名詞の単数対格形だから、この文は「労働者が壁に孔を開けた」という意味だ。
 これをを非人称文にして単に「壁に孔を開けた」と言いたい場合、上で述べたように2通りのやりかたがある。

1.Пробили стену.
2.Пробило стену.

1はいわば(They) drilled through the wall、2が(It) drilled through the wall。どちらも主語それ自体は表されていない(これを仮に「ゼロ主語」と呼んでおこう)が、動詞Пробили (プラビーリ)とПробило(プラビーロ、正確にはプラビーラ)のほうがそれぞれ複数と単数中性形になっているので必要ないからだ。

 問題はここからなのである。
 
 1のほうは動詞が複数形であることによってすでにゼロ主語が複数の動作主、つまり人間、少なくとも意志を持った主体(これを[+ human]あるいは[+ animate]と表しておこう)であることが暗示されているから、ここにさらに「によって」という斜格で動作主を表示できないことはすぐわかる。具体的に言うと(They) drilled through the wall by themというセンテンスは成り立たない。動作主がダブってしまうからだ。
 でも2の方はどうか。ここではゼロ主語は中性だからつまり[- human] あるいは[- animate]、属性が違うから理屈の上では動作主を斜格で上乗せできるんじゃないか、という疑問が浮かんでしまった。いわばIt drilled through the wall by themだ。ここで主格のitと斜格のthemは指示対象が同一ではないのだからダブらないのではないか。

 この英語のセンテンスが成り立つか成り立たないかはひとまずおいておいて(成り立たない!下記参照)、ロシア語の方の考察を続けると、ちょっと不自然なロシア語かもしれないが次のような受動態をつい類推してしまう。受動形も上のゼロ主語センテンスも「注意の焦点を動作主である主語から孔をあけられた壁のほうに向かわせる」ことが目的なのだから。

3.Стена была пробита бомбой.
4.Стена была пробита рабочим.

Стена(スチェナー)が「壁」の主格形、была пробита(ブィラ・プロビータ)が「孔をあける」の受動形で「孔をあけられた」。「によって」をロシア語では名詞の造格という格で表し、3のбомбой(ボーンバイ)、4のрабочим(ラボーチム)がそれぞれ「爆弾」、「労働者」の造格形。主格形はそれぞれбомба(ボーンバ), рабочий(ラボーチイ)である。だからギンギンに直訳すると3が「壁が爆弾によって孔をあけられた」、4が「壁が労働者によって孔をあけられた」。
 実際「爆弾」の造格形を上の1と2の文に付加して、

5.Пробили стену бомбой.
6.Пробило стену бомбой.

というセンテンスが成り立つ。どちらも「爆弾によって壁に孔を開けた」という表現である。5では動詞が複数形(Пробили、プラビーリ)、6では単数中性形(Пробило、プラビーロ)であることに注目。上で検討した理由により5から類推した

7.Пробили стену рабочим.

という構造は成り立たないだろうが、6から類推した、2に動作主を造格で付加したセンテンス、

8.Пробило стену рабочим.

は、成り立つのではないか。
 
 そこまで考えた私が、自らのセンテンス分析能力に自己陶酔さえしながらチョムスキー気取りで最後列から手を上げて「先生! Пробило стену рабочимとは言えないんですか?」と、デカい声で質問したとたん、地獄のような笑いの竜巻が教室中を吹き荒れた。「爆笑」などという生やさしいものではなかった。

私は何をやってしまったのか。

 英語でもドイツ語でも受動態文で動作主と手段を表すにはそれぞれby (ドイツ語ではvon)とwith (ドイツ語ではmit)と別の前置詞を使い分けるが、上述のようにロシア語はどちらも名詞の造格形で表す。で、私はここで「労働者壁に孔を開けた」と言ってしまったのである。
 つまりドリルの先っぽに作業員を一人はめ込んで人間孔搾機として使用した訳だ。そんなことをしたらヘルメットは割れ頭蓋骨は砕け、飛び散る脳髄であたりは血まみれのほとんどホラー映画の世界になること請け合いだ。あのスターリンだってそこまではやらなかっただろう。
 
 結局、属性の如何にかかわりなく一センテンス内では深層格(deep cases)あるいは意味役割(semantic roles。最近の若い人はθ役割とかワケのわからない名で呼んでいるようだが)はダブれないというとっくに言われていることをいまさら思い知っただけというつまらないオチで終わってしまった。
 それはこういうことだ。ここでは文構造内にすでに「動作主格(Agent)」という深層格、あるいはθ役割がすでに形式上の主格(ここではゼロ代名詞)で現れているわけだからそこにまた具格(スラブ語では「造格」)を上乗せしたら、その具格で表される深層格はすでに主格で場所がふさがっている動作主格ではなく「その他・残り」、つまり道具格でしかありえなくなる。上で挙げた英語It drilled through the wall by themが成り立たないのも、一つの文構造の中にitとthemで動作主格が2度現れてしまうからだろう。わかりやすく言えばこれは指示対象云々でなく純粋に文構造内部の問題だということか。全然わかりやすくなっていないが。
 さらに今さら思い当たったのだが、1、2のような能動態の非人称文のそもそもの役割は「動作主体をボカす」ということなのだから、一方でこの構造をとって動作主体をボカそうとしておきながら、他方でわざわざ造格の動作主体をつけ加えたりしたらやっていることが自己矛盾というか精神分裂というか、θ役割など持ち出さなくてもちょっと考えれば成り立たないことはわかりそうなものだった。

 しかしそうやって笑いものになるのは私だけではない。

 英語でもドイツ語でも「○○で」、つまり手段と、「○○といっしょに」、つまり同伴はどちらもwith やmitで表すが、ロシア語だと前者は上記の通り名詞の造格で、後者は造格に前置詞 с(ス)を付加して、と表現し分ける。そこでドイツ人には「壁に爆弾で孔を開けた」と言おうとして、

Пробили стену с бомбой.

と前置詞つきで言ってしまう者が後を絶たない。上の5と比較してほしい。これだと「爆弾といっしょに壁に孔を開けた」、つまり「作業員と爆弾はお友達で、仲良く工事作業にいそしんだ」という意味になってしまい、やっぱりロシア人から鬼のように笑われる。人の事を笑えた立場か。
 この「お友達爆弾」をドイツ人はよほど頻繁に爆発させてしまうと見え、с を入れられるたびにロシア人の先生はまたかという顔をして悲しそうに首を振る。まったく油断も隙もない。もっともドイツ人学生の名誉のために言っておくと、с で道具や手段を表すことも実際にはあるらしい。辞書には рассматривать с лупой (「ルーペで観察する」)という例が載っていた。これは外国語、フランス語などからの影響かなんかなのだろうか。手段を表すのに前置詞を使わないのがロシア語本来の形であることには変わりないとしても、ひょっとしたらそのうちこのお友達爆弾のほうも手段を表す形として許されるようになるかもしれない。


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 アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)というソ連の作家に『名も知らぬ花』(Неизвестный цветок)という短篇がある。このプラトーノフという人は当時の国家御用同盟のソ連作家同盟と合わず、しまいには同盟から除名され、名をリストから抹殺され、作品の発表も禁止されて不遇のまま一生を終えた。この短篇に描かれている荒れ地にたった一輪咲いた小さな花が、彼の分身であることは明らかだ。
 ドイツ語の翻訳ではこの作品のタイトルをDie unbekannte Blumeと訳している。これもやはり「名も知らぬ花」だから、意味の上ではまったく問題はない。

 でもこの翻訳には重大な欠陥がある。

 ロシア語の「花」(цветок、ツヴェトーク)は男性名詞だ。だから、この花が作家の分身だということは誰でもわかる。プラトーノフは男性なのだから。事実、話の中でダーシャという女の子とその花が友達になり、ダーシャが一年後その場所に来てみたらもうその花自身は生えていず、二代目の花を見つけるが、その二代目の花は「父のように生き生きとして我慢強く、父よりもさらに力強いのでした」、とある。
 ロシア文学の安井亮平氏も次のように言っている。

「『名も知らぬ花』の、父たちの復活としての子の生、知と意志による死の克服、花と子供の兄弟関係の創造という考えは、プラトーノフの全作品に顕著なイデーです。プラトーノフは、死を予感して、この小さな作品の中で、おのれの思想と真情を吐露したのでしょう。」

しかるにドイツ語の「花」(Blume)は女性名詞なのだ。なので上述の「父のように…」のくだりはドイツ語訳では、「母のように生き生きとして我慢強く、母よりもさらに力強いのでした」と訳されている。そんな馬鹿な。ここでこのように勝手に性転換されてしまったら、この作品の最も重要なモチーフ、「作家が血を吐く思いで吐露した自画像」が跡形もなく消えてしまうではないか。

 『10.お金がなければ眠りは深い』の項で述べたガルシンの『あかい花』(Красный цветок、クラースヌィ・ツヴェトーク)もDie rote Blumeと性転換訳されているが、この場合はストーリー上男性・女性どっちでもいいし、その花は「けしの花」だと原作でも言っているから、イザとなったらDer rote Mohn(あかいけし)というタイトルにでもしてやれば、男性名詞としての整合性をとることも可能だが、「名も知らぬ花」にその手は使えない。なぜなら「けし」とか「桜」とか名前を言ってしまったら「名も知らぬ花」でなく「名を知っている花」になってしまうからだ。

 ではどうしたらいいのか?ドイツ語のネイティブに聞いてみたら「コメントを入れてロシア語では花が男性であることを明記するしかないだろ」との答えが返ってきた。文学の翻訳でコメント・注釈というのは「最後の手段」である。いわば敗北宣言だ。私がそう言い、ネイティブのくせに白旗を挙げる気かと突っ込んだら、「仕方ないだろ、できないものはできないんだ。」とあまりにも簡単に降参されてしまった。

 もうひとつ、似たような事例としてIl grande Silenzioというタイトルのイタリア映画がある。文字通り訳せば「偉大なる沈黙」または「大いなる静寂」で、事実英語ではGreat Silenceというタイトルになっているが、以前これをチェコ語でVeliký klid (偉大なる静寂)と訳しているのを見て感心した。
 このklid(静寂)という単語だが、スラブ語としてはちょっと見かけない言葉だ。 たとえば西スラブ語のポーランド語では「沈黙」はmilczenie、「静けさ」はciszaだ。 クロアチア語もそれぞれšutnja、tišinaで形が近い。 ロシア語もМолчание とТишинаでそっくり。 さらにチェコ語でも実は本来これらに対応する語を持っているのだ。mlčeníとtišinaだ。
 ではなぜここで「静寂」を素直にtišinaとかmlčeníではなくklidで表わしているのか?
 答えは簡単だ。原題の「サイレンス」もしくは「シレンツィオ」というのが男性主人公のあだ名だからだ。なのにチェコ語のtišinaは女性名詞、mlčeníが中性名詞なので、男性の名前にはなれない。どうしても男性名詞のklidを持って来なくてはいけないのだ。イタリア語のsilenzioはうまい具合に男性名詞だからOK、英語に至ってはそもそも男性名詞も女性名詞もないから気を使う必要がないが、チェコ語では文法性と自然性の統一ということを考慮しないといけない。

 チェコ語では「沈黙」を意味する男性名詞があるからいいが、困るのはドイツ語だ。対応するドイツ語の単語Stille(静けさ)、Schweigen(沈黙)はそれぞれ女性名詞、中性名詞なので、やはりここで直訳はできない上、意味の近い男性名詞が存在しない。そこでこの映画のタイトルはまったく意味を変換させてLeichen pflastern seinen Weg(彼の道は死体で舗装される→彼の行く道は死体で埋まる)というオドロオドロしいものになっている。日本語も「沈黙」などという抽象概念を人の名前にする、という発想に違和感があるためか、やはり直訳しないで『殺しが静かにやって来る』。私個人としてはこの邦題は秀逸だと思う。ついでに言うと主演はフランス人のジャン・ルイ・トランティニャンである。

 「言葉の壁」というと普通「その言葉ができないために社会に溶け込めない」という意味だが、私は本当の「言葉の壁」とはこういうのを言うのだと思う。つまり、言語運用論レベルでなく言語に内在する構造そのものに起因する壁だ。

PlatonovVoronez
プラトーノフは現在では名誉回復されて生まれ故郷のヴォロネジに像も立っている。


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 1980年代に沖縄でヤンバルクイナという鳥の新種が発見されてマスコミで大騒ぎしていたのをまだ覚えている。後天性免疫不全症候群、続にいうエイズの発見と言うか確認も80年代でこれもマスコミは大きく取り上げた。

 実は80年代にはもう一つ人類規模の大発見がなされていたのだが、これを取り上げて騒いでいた新聞を見かけた記憶が全くない。もしかしたら新聞の片隅で報道されていたのを見落としたのかもしれないが、そのころシュメール語がいわゆる能格言語であることが発見されていたのである。もっとも「大発見!! シュメール語は能格言語だった!」とか一面の見出しなどにつけたら新聞の売り上げ一気に落ち込みそうだ。実は私も最近まで全く知らなかったのだが、何気なく言語事典を見ていたらシュメール語の項に「1980年代に能格言語であることが確認された」とあっさり凄いことがかいてあるので驚いた。
 驚いたついでに、その事典に参考書として上がっていたThe Sumerian Language: An Introduction to Its History and Grammatical Structureというシュメール語についての本をアマゾンで検索してみたら古本で549ドル、新品だと850ドルというすさまじい値段で、驚きが「戦慄」にグレードアップした。一瞬こちらが桁の位置を見間違えたかと思ってしまった。誰がこんなに出せるんだ。(これは何年か前の検索だが、最近また見てみたら大分値下がりしていて中古が250ドル、新品が748ドルだった。しかしこれでも十分高い)

 幸い大学の図書館にあったので借りた。まあ大学にとってはこのくらいの値段痛くもないのだろう。それとも発行当時はもっと安かったのか。
 中を覗いてみたが普通の文法書・研究書で、どうしてこんな値段がついているのかわからない。

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これがその700ドル以上するシュメール語についての本の表紙だが、地味な装丁でとてもそんなに高いようには見えない。

ハードな文法の記述はひとまず置いておいてIntroductionの章にサッと目を通してみたら、16ページ目にこんなことが書いてあるではないか。

The Sumerian influence may already rather early have caused the Akkadian word order: S-O-V, which is unusual for a Semic language. Most early contact is shown in the archaic texts from Fara and Abu Salabikh´.

 これで思い出した。昔一般言語学の口頭試問で、「ケルト語の語順はどうしてVSOなんだと思いますか?」と聞かれて答えられなかったことがあるのだ。「どう思いますか」と聞かれたくらいだから、はっきり証明された定説はなくて、答えよりも私の思考能力というか推論能力というか、学生としての底力を試したのだろう。こういうことはいわゆる試験勉強をやってもできるようにはならない。ここで正直に「見当もつきません。考えてみたこともありません」とか答えていたらその場で首が飛んでいたかもしれないが、私が一応「うーん」とうなりながら考えるふりをしてごまかしていたら、試験官の先生のほうが向こうからいろいろ考えるヒントを出してくれた。
 ケルト語はラテン語やギリシア語が入ってくる前にヨーロッパ大陸で広く話されていた言語だが、その際フェニキア語と接触した。フェニキア語はセム語族だ。そしてセム語族の言語はアッカド語を唯一の例外として語順がVSOなのである。アラビア語も基本VSOで、時々SVOも現れるそうだが、つまりケルト語のVSOはセム語族のフェニキア語の影響と考えられるのだ。
 その唯一の例外アッカド語はセム語族のくせに語順SOV。そしてシュメール語は非セム語・非印欧語である。つまり、親戚のアッカド語が非セム語に影響されてSOVに変身させられたため、怒った同族フェニキア語がその仕返しに(多分元々はSVOだった)何の罪もない印欧語のケルト語をVSOに変えて復讐してやったのだ。「江戸の仇を長崎で取る」とはこういう事をいうのではないだろうか

 話を戻すが、能格言語というのは一言で言うと自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格を取り、他動詞の主語と自動詞の主語が同じ格にならない言語だ。自動詞の主語と他動詞の目的語が取る格を「絶対格」、他動詞の主語がとる格を「能格」という。これに対して日本語や印欧諸語では自動詞だろうが他動詞だろうが動詞の主語は主格で、目的語がとる対格に対する。「主語は主格」としか考えられない頭の硬直している者にはちょっと想像を絶する構造だ。前に『7.「本」はどこから来たか』の項でちょっと書いたタバサラン語やグルジア語など、コーカサス語群の言語はこの能格を持っている。ヨーロッパではバスク語が能格言語として有名だし、オーストラリアやパプア・ニューギニアのあたりにも能格言語が多いそうだ。
 ネットなどを見てみたら同じバスク語の例が、そこら中でたらい回し的に引用されている。それをまたそのままここで垂れ流す私も横着だが、下の2文を比べてみてほしい。能格の何たるかがよくわかるだろう。

gizon-a etorri da.
男(絶対格) + 到着した +(完了)
→ その男がやってきた。


gizon-ak mutil-a ikusi du.
男(能格) + 少年(絶対格) + 見た +(完了)
→ その男がその少年を見た。

「男」はgizonだが、「やってくる」という自動詞の主語に立つときは-a、「見る」という他動詞の主語の時は-akという別の形態素が付いていることがわかるだろう。 これが絶対格と能格の違いで、日本語だとどちらも主格を表す「が」がついて「男が」となる。また、主語の「男」が見た対象、日本語では「を」をつけて対格になる「少年」(mutil )に、自動詞の主語gizon-aと同じく-aがついてmutil-aという形をとっている。絶対格である。
バスク語をもう一例。

Ume-a erori da.
子供(絶対格) + 転ぶ +(完了)
→ その子供が転んだ。


Emakume-ak gizon-a ikusi du.
女(能格) + 男(絶対格) + 見た +(完了)
→ その女がその男を見た。

ここでも-aが絶対格、-akが能格だ。

その700ドルの本には(しつこい)シュメール語の例として以下のような例がのっている。ここでğとしてあるのは本ではgの上に半円というか河童のお皿というかでなく~がのっている字だ。

-e sağ mu-n-zíg
その男(能格) + 頭(絶対格) + 上げた
→ その男が頭を上げた。

i~-ku4.r-Ø
その男(絶対格) + 入ってきた。
→ その男が入ってきた。

ゼロ形態素(-Ø)と-eがそれぞれ絶対格と能格のマーカーなのがわかるだろう。つまり自動詞と他動詞では主語の格が違い、他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格(絶対格)で、他動詞の主語のみ能格になっている。

 ちなみに、グルジア語は能格を持っていると上で書いたが実はグルジア語は能格と主格を併用している。能格が現れるのはアオリストの場合だけだそうだ。まず現在形では主語は他動詞も自動詞も主格をとる。

student-i midis
学生(主格) + 行く(現在)
→ 学生が行く

student-i ceril-s cers
学生(主格) + 手紙(対格) + 書く(現在)
→ 学生が手紙を書く。

ところがアオリストでは他動詞の主語は能格に、目的語は主格になる。自動詞の主語は現在形と同じく主格。

student-i mivida
学生(主格) + 行った(アオリスト)
→ 学生が行った。

student-ma cereil-i dacera
学生(能格) + 手紙(主格) + 書いた(アオリスト)
→ 学生が手紙を書いた。


グルジア語はいわゆる膠着語で動詞にベタベタいろいろな形態素がくっ付いてきてドイツ語のように単純にこれは「過去形」、これは「現在形」とキッパリ線を引けないので困るが、もう一つこういう例があった。

dato ninos c’ign-s ačukebs.
ダト(主格)+ ニノ(与格) + 本(対格) + 寄付する(現在)
→ ダトがニノに本を寄付する。

dato-m ninos c’ign-i ačuka.
ダト(能格)+ ニノ(与格)+ 本(主格)+ 寄付した(アオリスト)
→ ダトがニノに本を寄付した。


さすがに間接目的語はどちらも与格だ。そうでなくては困る。それにしても、ここで「ある場合は能格、別の場合は主格などという玉虫色の言語では困る。どちらかにはっきり決めてくれ」とグルジア語に文句をつける人がいたら、実は自分たちだってそういうヒョウタンナマズだということを考えたほうがいい。日本語でだって「私は映画が好きだ」または「私はあの本が欲しい」というだろう。ここで主語に立っている「映画が」と「あの本が」は対格でも表現できて「私は映画を好きだ」「私はあの本を欲しい」と言っても間違いではない(私個人の言語感覚では主格の「が」のほうが座りがいい)。日本語では「好きだ」も「欲しい」も動詞ではないが、対応する英語はそれぞれlikeとwantという立派な動詞。言い換えるとこれはいわば目的語が主格に立っているわけで、擬似能格現象といえるのではなかろうか。
 事実、「能格」という言葉の意味を本来より少し広く取ってこういうのをも含めて「能格性」として扱う言語学者も多い。例えば英語文法でも「能格」ergativeという言葉の意味が少し広い。生成文法の入門書で有名なAndrew Radfordが例として掲げているが

Someone broke the window
The window broke

という構造も「能格現象」として扱われている。ドイツ語でも 

Dieser Kuli schreibt gut.
this + ballpoint + writes + well

という言い方ができるので、英語・英文法の得意な人はこちらが能格の本来の意味で、一般言語学がこの用語を転用したのだと思っているかもしれないが、シュメール語、バスク語のほうが本家である。Radfordも

This term originally applied to languages like Basque in which the complement of a transitive verb and the subject of an intransitive verb are assigned the same case.

と、ちゃんと説明してくれている。


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 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば

Ten soldiers killed hundred civilians with twenty guns.

と、いうセンテンスだが、この英語だけ見ると一見soldiers、civilians、gunsの深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところがsoldiers、civiliansなどの名詞がここで主格や対格にたたない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後のsoldiers、civilian peopleが複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(10、ジェーシャッチ)、сто(100、ストー)は普通名詞的なのだ。事実ロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中のдвадцатью ружьями(ドヴァッツァチユー・ルジヤーミ)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べるとtantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

もdiが入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dēまたはex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないがドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したとはいえ、やっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆるdeterminator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞meineの前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くないのだ。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。

英語                 ドイツ語                 ロシア語
a table         ein Tisch                 odin stol
two tables      zwei Tische             dva stola    
three tables      drei Tische              tri stola
four tables        vier Tische                    četyre stola
five tables      fünf Tische                 pjat’ stolov
...
twenty tables       zwanzig Tische          dvadcat’ stolov
twenty one tables    einundzwanzig Tische        dvadcat’ odin stol
twenty two tables     zweiundzwanzig Tische     dvadcat’ dva stola
...
twenty five tables     fünfundzwanzig Tische       dvadcat’ pjat’ stolov

数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格、5以上になると複数属格をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみるとなるほどと思う;

    単数            複数
主格     stol           stoly
生格     stola            stolov
与格     stolu            stolam
対格     stol           stolz
造格     stolom           stolami
前置格    stole              stolach

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同系である。

   単数      複数                 双数
主格    plodъ       plodi                ploda
生格    ploda       plodъ               plodu
与格    plodu       plodomъ            plodoma
対格    plodъ       plody                 = 主格
造格    plodomь     plody              = 与格
処格    plodĕ       plodĕchъ           = 処格
呼格    plode       = 主格             = 主格

それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語でtakeという意味の不規則動詞の不定形はвзять(ヴジャーチ)だが、定形・現在時称だとвозьму(ヴァジムー、一人称単数)、возьмёшь(ヴァジミョーシ、2人称単数)などとなって突然鼻音のмが現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語のяが古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。

      つの机           ルーブリ       50冊の本
主格    два стола      три рубля      пятьдесять книг
生格    двух столов     трёх рублей     пятидесяти книг
与格    двум столам    трём рублям    пятидесяти книгам
対格    два стола      три рубля       пятьдесять книг
造格    двумя столами     тремя рублями   пятьюдесятью книгами
前置格      двух столах     трёх рублях      пятидесяти книгах

どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く → 鳥がは鳴く → 鳥(が)は鳴く→ 鳥Øは鳴く → 鳥鳴く
殺さない → 人をは殺さない → 人(を)は殺さない → 人Øは殺さない → 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。

     単数       複数
主格  rom                    rom-á     
対格    rom-és                  rom-én
呼格    róm-a                    rom-állen
与格    rom-és-ke             rom-én-ge
奪格    rom-és-tar             rom-én-dar
具格    rom-és-ar              rom-én-džar
処格    rom-és-te              rom-én-de
属格    rom-és-koro           rom-én-goro (披修飾名詞が男性単数の場合)
属格    rom-és-kiri             rom-én-giri  (披修飾名詞が女性単数の場合)
属格    rom-és-kere           rom-én-gere    (披修飾名詞が複数の場合)

ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは-ésがついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では-jaが付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及したphen- phen-jáも主格・対格以外は男性名詞のromと同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。

    単数          複数
主格  phen                       phen-já     
対格  phen-já                           phen-(j)én
呼格  phén-e                            phen-álen
与格  phen-já-ke                      phen-jén-ge
奪格  phen-já-tar                      phen-jén-dar
具格  phen-já-ar                       phen-jén-džar
処格  phen-já-te                       phen-jén-de
属格  phen-já-koro                   phen-jén-goro (披修飾名詞が男性単数の場合)
属格  phen-já-kiri                     phen-jén-giri  (披修飾名詞が女性単数の場合)
属格  phen-já-kere                   phen-jén-gere (披修飾名詞が複数の場合)

 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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