アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語の対照・比較

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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 セルジオ・レオーネ監督の代表作に Il Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されて The good, the bad and the ugly というタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜか Zwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zwei にして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。
 さらに日本でも I quattro dell’ Ave Maria、「アヴェ・マリアの4人」というタイトルの映画が『荒野の三悪党』になって一人タイトルから消えている。無視されたのは黒人のブロック・ピータースだろうか。だとすると人種差別問題だ。ドイツ語では原題直訳で Vier für ein Ave Maria。

 もっともタイトル上で無視されただけならまだマシかもしれない。映画そのものから消された人もいるからだ。レオーネと同じようにセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品 La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここで人が一人削除されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来なくなっているらしい。「らしい」というのは私が見たのはドイツの劇場公開版ではなく、完全版のDVDだからだ(下記)。劇場版では登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていた。ドイツ語のタイトルは Der Gehetzte der Sierra Madre でちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないが完全版のDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分である。件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。つまり劇場版では全く吹き替えされていない、ということは出てきていないということだ。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 ちょっと話が急カーブしすぎかもしれないがやはり「一人足りない」例に、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれたのがロシア語の мы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳すると we with you なのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でも you and I と訳す。同様にこの友達100人も「私と君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言う inclusive(包括的あるいは包含的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現は exclusive(排除的あるいは除外的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞 we にあたる表現に際して包含的なものと除外的なものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類の we を体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語の方言にもこの区別があるらしい。「少なからず」どころか実はこの区別を持つ言語は世界中に広がっているのだ。南北アメリカやアジアだけでなく環太平洋地域、南インドやアフリカ南部の言語にも見られる。さらに足元琉球語の方言にもある。印欧諸語やセム語にはないが、話者数でなく言語の数でみると包含・除外の区別は決して「珍しい」現象ではない。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左が inclusive、右が exclusiveの「我々」だ。
Tabelle1-22
あちこちの資料から雑多に集めてきたのでちょっと統一がとれていないが、とにかくアフリカ南部からアジア、アメリカ大陸に広がっていることがわかる。ざっと見るだけで結構面白い。
 ジューホアン語というのが見慣れないが、これがアフリカ南部、ナミビアあたりで話されている言葉だ。
 中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的に inclusive、exclusive 両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特に inclusive として用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群のエヴェンキ語にもこの対立がある。満州語とエヴェンキ語は inclusive と exclusive がそれぞれmusə と mit、bə と bū だから形まで近い。
 問題はハワイ語やジューホアン語の双数・複数という分類だ。これらは安易にウィキペディアから持ってきた例だが、双数と言うのはつまり私が一人、あなたも一人の合計二人、複数ではこちら側かあちら側かにさらにもう一人いて3人以上、つまり複数なのかと思うとどうも事情は常にそう簡単ではないらしい。言語によっては双数とやらは実は単数あるいは非複数と解釈するべきで、それを「双数」などと言い出したのは、1.文法には数、人称というカテゴリーがあり、2.人称は一人称、二人称、三人称のきっちり三つであるという思考枠から出られない印欧語頭の犯した誤解釈だというのである。これは松本克己教授の指摘だが(もちろん氏は「印欧語頭」などという下品な言い回しは使っていない)、そもそも「一人称複数で包含と除外を区別」という言い方自体に問題があるそうだ。包含形に単・複両形を持つ言語は消して珍しくない。たとえば松本氏の挙げるニブフ語(ギリヤーク語)の人称代名詞は以下のような体系をなしている。
Tabelle2-22
人称は3つだけではないと考えさえすれば極めてすっきりした体系なのに、パンフィーロフ Панфилов В. З というソ連の学者は「1人称でも2人称でも3人称でもない人称」を見抜くことができず、話し手と聞き手が含まれているのだから単数とは見なせないと考えて、全くニブフ語の言語感覚を逸脱した「双数」という概念を藪から棒に一人称にだけ設定して次のように記述した。思い切りわかりにくくなっている。
Tabelle3-22
包含形を一人称複数の一種とせずに独立した一つの人称カテゴリー(包含人称あるいは一人称+二人称)とみなさざるを得ないのはアイマラ語も同じだ。アイマラ語は数のカテゴリーがないが、後に特殊な形態素を付けて増幅形をつくることができる。
Tabelle4-22
上のように hiwasa と naya-naka を比べても唐突すぎてよくわからないが、こうすれば体系をなしているのがよくわかる。さらに南太平洋のトク・ピシンも同じパターンなのが面白い。
Tabelle5-22
トク・ピシンというのは乱暴に言えばメラネシアの現地語の枠組みの上に英語が被さってできた言語だ。mi というのは英語の me、yu は you である。yumi で包含人称を表わすというのはまことに理にかなっている。トク・ピシンには本当に一人称双数形があるが、パンフィーロフ氏はこれをどうやって図式化するのだろう。不可能としか言いようがない。
 それではこれらの言語での包含人称とやらの本質は何なのか。例えばアイヌ語の(いわゆる)一人称複数包含形には1.一人称の間接表現(引用の一人称)、2.2人称の敬称、3.不特定人称の3つの機能があるそうだ。3番目がポイントで、他の言語とも共通している。つまり包含人称は1・2・3人称の枠から独立したいわば第4の人称なのである。「不特定人称」「汎人称」、これが包含形の本質だ。アメリカの言語学では初め inclusive の代わりに indefinite plural または general plural と呼んでいたそうだ。plural が余計なのではないかとも思うが、とにかく多くの言語で(そうでない言語もあるだろうが)包含対除外の単純な二項対立にはなっていないのである。
 そもそも一口に人称代名詞と言っても独立形か所有形(つまりある意味「語」でなく形態素)か、形の違いは語形変化によるのか膠着かによっても機能・意味合いに差が出てくるからまだまだ議論分析の余地が大ありという事だろう。
 
 ところで私の感覚だと、日本語の「私たち」と「私ども」の間にちょっとこの包含対除外のニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまり exclusive 寄りの意味が強いのではないだろうか。実はこの点を松本教授も指摘していて、それを読んだとき私は「おおっ、著名な言語学者を同じことを考えてたぞ私!」と万歳三唱してしまった。これは私だけの考えだが、この「私たち」と「私ども」の差は直接 inclusive 対 exclusive の対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えると inclusive 対 exclusive の対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれない。
 また上述のロシア語 мы с тобой 、つまりある意味では包含表現は単純に ты и я(you and me)やмы(we)というより暖かい響きがあるそうだ。 まどみちおさんも実は一人抜かしたのではなくて、むしろ暖かい友だち感を強調したかったのかも知れない。登場人物を映画やタイトルでぶった切るのとは逆である。
 さらに驚くべきことには安井稔氏が英語にも実は inclusive と exclusive を表現し分ける場合があることを指摘している:
Let's go.
Let us go.
という例だが、前者は単に後者を短く言ったものではない。意味と言うか会話上の機能が違う。前者は Shall we go?(さあ行きましょう)、後者は Let us be free! (私たちを行かせてください、自由にしてください)と同じ、つまり Let's の us は相手が含まれる inclusiv、Let us の us は相手が含まれない exclusive の we である。
 
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 若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。

 まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
 そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
 次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
 グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
 さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
 
 つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。 

 そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
 ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
 
 ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。

 ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
 ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。

 さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。

 自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。


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 セルジオ・レオーネ監督の第二作(正確には第三作)『夕陽のガンマン』の英語タイトルはFor a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルでは以下のようになっている。

イタリア語:         Per qualche dollaro in più
フランス語:         Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:    Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語: Por uns dólares a mais
本国スペイン語:     Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:     Por unos pocos dólares más

 こうして並べて眺めていたら一点気になった。

 英語のmoreにあたる語は伊・仏語ではそれぞれpiù, plusとp-で始まるが、西・葡ではm-が頭についている(それぞれmás, mais)。調べてみるとpiù, plusはラテン語のplūsから来ているそうだ。これは形容詞multus「たくさんの、多くの」の比較級である。以下に単数形のみ示す。

原級:    multus, -a, -um
比較級:plūs
最上級:plūrimus, -a, -um

 比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべてplūsに統一されている。古ラテン語ではこれは*pluosだったそうで、印欧語祖語に遡ると*plē-ないしは*pelu-。古典ギリシャ語のπολύς、古期英語のfeoloあるいはfioluも同源である。もちろんドイツ語のviel(フィール「たくさんの」)もこれだし、オランダ語のveel(フェール)もそう。この、pからfへの音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 古代インド語のpurū-も同語源だそうだがきりがないのでやめる。しかしなんとlがrになっているではないか。これでは「lとrの区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 それに対して西・葡のmais,más等はラテン語のmagisが語源。これは形容詞magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞magnusだが、次のように変化する。

原級:   magnus, -a, -um
比較級:maior, -ius
最上級:māximus, -a, -um

 比較級の元の形は印欧祖語では*magiōsもしくは*magyosで、これは*mag-「大きい」(別の資料では*mē-)+*yos(比較級形成の接尾辞)。magisという形はこの比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象はロシア語でも頻繁に見られる。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞хороший(ハローシィ。これは長形・単数男性形)の短形単数男性・女性・中性形はそれぞれхорош(ハローシュ)、хороша(ハラシャー)、хорошо(ハラショー)だが、中性のхорошоは副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски(ヤー・ガヴァリュー・ハラショー・パ・ルースキ)は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中→副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいだろう。文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。

 この、moreにあたる単語がp-で始まるかm-で始まるかは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。p-組は伊・仏のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(prusまたはpius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言のciùもこれに含まれるという。m-組は西・葡以外にはアルマニア語(ma)、カタロニア語(més)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)、ルーマニア語(mai)。
 中世ポルトガル語ではm-形とp-形の両方が使われていて、それぞれmais とchusという2つの単語があったそうだ。chusがp-形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言ciùがp-起源だそうだからchusが実はP形であってもおかしくない。
 「両方使う」といえば、厳密に言えば伊・仏もそう。フランス語のmais「けれど」はこのmagis起源だと聞いたことがある。イタリア語でたとえばnessuno ... mai 「誰も…ない」、non ... mai「決して…ない」、mai più「もう決して…ない」などの言い回しで使う、否定の意味を強めるmaiの元もこれ。maiはさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti?は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしている。
 続いて目を凝らして見るとm-組スペイン語も本国ポルトガル語も英語と同じくmore(それぞれmásとmais)を裸で使っているのにブラジル・ポルトガル語はa maisと前置詞を置いている。m-組のくせにp-組の伊・仏と共通する構造だ。その意味ではこれも「両者にまたがっている」といえるのではないだろうか。

 話がそれるが、イタリア語のpiùがフランス語でplusになっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、piùのpは後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化したp」に円唇母音(つまりu)が続くとフランス語ではpとuの間に唇音lが現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形はкупить(クピーチ、ローマ字ではkup'it'と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味である)だが、これの一人称単数未来形は、理屈ではкупью(クピユー、kup'ju)になるはずなのに実際の形はкуплю(クプリュー、kuplju)と、どこからともなくlが介入するのだ。対応する有声子音bの場合も同様で、「愛する」という動詞любить(リュビーチ、ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形любью(リュビユー、ljub'ju)にならずにлюблю(リュブリュー、ljublju)という形をとる。

 ポルトガル語で(だけ)more(mais)が披修飾名詞の前に来ているのも気になって仕方がないのだが、ここでやると長くなりすぎるので、回を改めて続けようと思う。


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 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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