アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語学一般

 前回で西ドイツやヨーロッパの西部劇がマカロニウエスタンのベースになったことを述べたが、もう一つ先行となったジャンルがある。
 戦後のイタリア・ネオリアリズムの流れのあと、当地では「サンダル映画」といわれるギリシア・ローマ時代の史劇をモチーフにした映画が盛んに作られ、「ベン・ハー」や「クレオパトラ」などのアメリカ資本も流入していた。 後のマカロニウェスタンの監督もこのサンダル映画のノウハウで育っているのだ。 レオーネのクレジット第一作目を考えて欲しい。Il colosso di Rodi(『ロード島の要塞』)というサンダル映画である。ただしレオーネ自身は「あれは新婚旅行の費用稼ぎに作っただけ」なので「レオーネ作」とは言って欲しくないそうだ。黒歴史ということか。『続・荒野の一ドル銀貨』を撮ったドゥッチョ・テッサリなども本来サンダル映画が専門だからオデュッセイアがベースになったりしているのだし、その他にもタイトルなどにギリシア・ローマ神話から取ったな、と素人目にもわかるモチーフが登場することは『12.ミスター・ノーボディ』の項で書いたとおりである。

 つまり、マカロニウェスタンが誕生したのにはちゃんとした背景・先行者があって、何もないところからいきなり『荒野の用心棒』がポッと出てきたわけではないのだが、これはノーム・チョムスキーの生成文法も同じ事だ。
 まず生成文法はポール・ロワイヤル文法の発想を引き継いでいるが、さらにチョムスキーの恩師のゼリグ・ハリスを通じてアメリカ構造主義の考え方もしっかり流れ込んできており、生成文法をアメリカ構造主義へのアンチテーゼとばかり見るのは間違いだ、と言われているのを当時よく聞いた。大体彼のcompetence、performanceなどという用語はド・ソシュールのラングとパロールの焼き直しではないのか。その他にも生成文法の観念にはヨーロッパの言語学の観念を別の言い方に換えただけとしか思えないものがある。その一方で伝統的な言葉の観念が英語学内でゆがめられてしまった例もある。『51.無視された大発見』でもちょっと書いたが「能格」という言葉の使い方などそのいい例ではないだろうか。

 セルジオ・レオーネとノーム・チョムスキーを比較考察するというのもムチャクチャ過ぎるかもしれないが、まあある意味ではこの両者は比較できる存在だとは思う。以下の文はJ.ライオンズによるチョムスキーの伝記の冒頭だ。

Chomsky's position is not only unique within linguistics at the present time, but is probably unprecedented in the whole history of the subject. His first book, published in 1957, short and relatively non-technical though it was, revolutionized the scientific study of language;

この文章の単語をちょっとだけ変えるとこうなる。

Leone's position is not only unique within italian westerns at the present time, but is probably unprecedented in the whole history of the subject. His first western, released in 1964, short and relatively non-technical though it was, revolutionized the style of westerns of the whole world;

こりゃレオーネそのものである。このフレーズをそのままレオーネの伝記の冒頭に使えそうだ。

 さて、もう一つマカロニウエスタンの発端になったのが黒澤明の『用心棒』であることはさすがに日本では知らない者はあるまいが、その黒澤の自伝に次のようなフレーズがある。

人間の心の奥底には、何が棲んでいるのだろう。
その後、私は、いろいろな人間を見て来た。
詐欺師、金の亡者、剽窃者…。
しかし、みんな、人間の顔をしているから困る。

実はここを読んでドキリとした。この「剽窃者」とはひょっとしたらレオーネのことではあるまいかと思えたからである。確かにああいう基本的なことをきちんとしなかったジョリィ・フィルムとレオーネは批判されても文句は言えまいが、いろいろなところから伝わってきた話によるとまあ向こうの事情もわかる感じなのである。前回も書いたようにもともと『荒野の用心棒』は残飯予算で作った映画だったのでレオーネもジョリィ・フィルムもまさかこんな映画が売れるとは思っていなかったらしい。出した予算の元が取れれば、いやそもそもA面映画Le pistole non discutonoのほうで元をとってくれればいいや的な気分で作ったので著作権などのウルサイ部分は頭になかったそうだ。後で黒澤・東宝映画から抗議の手紙が来たとき、レオーネはカン違いして「黒澤監督から手紙を貰った!」と喜んでしまったという話しさえきいたことがある。当然ではあるのだが、結局ジョリィ・フィルムは東宝映画にガッポリ収益金を持っていかれ、レオーネも『荒野の用心棒』は今までに作った映画の中でただ一つ、全く自分に収益をもたらさなかった作品、とボヤいたそうだ。そしてその際東宝映画は肝心の黒澤には渡すべき金額を渡さなかったという。
 もちろん映画制作のプロならばそういうところはきちんと把握しておくべきだろうし、私も特に自己調査して調べたわけでもなんでもなく、そこここで小耳に挟んだ話を総合して判断しただけなので無責任といえば無責任なのだが、どうもイタリア側をあまり責める気にはなれない。

 実はその他にも黒澤監督の自伝でレオーネと関連付けて読んでしまった部分がある。黒澤監督が師である山本嘉次郎監督を「最高の師だった」と回想するところである。

山さんこそ、最良の師であった。
それは、山さんの弟子(山さんは、この言葉をとてもいやがった)の作品が、山さんの作品に全く似ていないところに、一番よく出ている、と私は思う。
山さんは、その下についた助監督の個性を、決して矯めるような事はせず、それをのばす事にもっぱら意を用いたのである。

ここでも私はドキリとしたのである。どうしてもレオーネとトニーノ・ヴァレリの確執を思い出さないではいられなかったからだ。よく知られているようにヴァレリは最初レオーネの助監督として出発した人である。これは『怒りの荒野』(再び『12.ミスター・ノーボディ』の項参照)を見れば一目瞭然。画風がレオーネにそっくりだからだ。『怒りの荒野』の冒頭シーンを思い出して欲しい。アニメーション(と呼んでいいのか、あれ?)のタイトル画が終わり映画の画面に切り替わるところでカメラがグーッと下がっていくあたり。タイトル画が終わってもテーマ曲は終わらず曲の最後のほうが映画の最初の画面とダブっているところだ。リズ・オルトラーニの曲がまたキマリ過ぎていてたまらないが、この部分が『荒野の用心棒』にそっくりである。もちろん冒頭にアングルを徐々に下げるという手法は珍しくもなんともないし、このタイトル画から映画への移行の方法は他のマカロニウエスタンもやたらと真似しているから私の考えすぎかもしれないが、この映画を見ていると脳裏にレオーネがチラついて仕方がない。
 ヴァレリが撮ったマカロニウエスタンは全部で5作。『怒りの荒野』はその二作目である。私はまだヴァレリの最初の作品per il gusto di uccidere(『さすらいの一匹狼』)と4作目una ragione per vivere e una per morire(『ダーティ・セブン』)をみたことがないのだが、第3作目のil prezzo del potere(『怒りの用心棒』)は『怒りの荒野』と比べてみるとやや「レオーネ離れ」している、政治色・社会色の濃い静かな(もちろんマカロニウエスタンにしては静か、ということだが)作品である。ケネディ暗殺をモティーフにしたストーリーでそもそもマカロニウエスタンにするのには荷が重過ぎた内容だったためか、前作『怒りの荒野』ほどは興行的にヒットしなかったが、このジャンルの映画の作品にありがちなようにストーリーが破綻していない。音楽は『続・荒野の用心棒』のエレキギターで私たちをシビレさせ、『イル・ポスティーノ』でモリコーネより先にオスカー音楽賞を取ったルイス・エンリケス・バカロフだが、哀愁を帯びた美しい曲で私は『続・荒野の用心棒』よりこちらのメロディのほうが好きなくらいだ。
 しかしヴァレリはその後の『ミスター・ノーボディ』では逆戻りというか再びレオーネに飲み込まれてしまった。この映画は発案がレオーネだったので監督作業にもレオーネが相当介入・干渉したんだそうだ。そのためか絵でもスタイルでもやや統一を欠く。その点を批判する声もあるが、それがかえってある種の味になっているとしてこの映画をマカロニウエスタンのベスト作品の一つとする人もいる。とにかくこの映画がマカロニウエスタンの平均水準を越える作品であることは間違いない。
 弟子の作品が師とそっくりであること、そして弟子が自分のスタイルの映画をとろうとしたとき師がそれを妨害、と言って悪ければ積極的に後押ししてやらなかったことなど、レオーネのヴァレリに対する態度は黒澤明に対する山本嘉次郎と逆である。この『ミスター・ノーボディ』を最後にヴァレリはレオーネと袂を別ってしまった。
 
 しかし黒澤明のほうも山本嘉次郎に比べると自分自身は果たしていい師であったかどうかと自省している。指導者としての良し悪しとクリエーターやプレーヤーとしての良し悪しは必ずしも一致せず、指導が出来ないからと言って能力がないとは絶対にいえないことはスポーツ界でもそうだし、文人の世界でもいえることだろう。もっとも数の上で一番多いのは「そのどちらもできない」という私のような凡人大衆だろうが。


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は『国が金を出し、私経済が懐に入れる』というタイトルで2016年10月21日の南ドイツ新聞にのったものですが、長いので2回に分けました。

言語学者で資本主義批判者のノーム・チョムスキーを存命している世界の頭脳の中では最重要の一人と見なす人は多いが、そのチョムスキー氏がタダ乗り企業、国に作られた携帯電話、国民を馬鹿に保っておこうとする政府の企てなどについて語る。

インタヴュアー:
クラウス・フルバーシャイト
カトリン・ヴェルナー


人が自分を自由主義的な社会主義者と呼ぼうがズバリ無政府主義者と呼ぼうが、チョムスキー氏自身にとってはどうでもいいことだ - この、現在87歳、名門マサチューセッツ工科大学(MIT)の名誉教授はかなり前からすでに他人の目など気にかけていない。氏は両親が20世紀の初頭ウクライナからアメリカ合衆国に移住してきたのだが、存命している世界の頭脳の中では最重要の人物と見なされている。言語の習得は学習過程よりもむしろ先天的な言語能力によるものだというその理論は言語学に革命を起こした。さらにアメリカの国際政治、資本主義、ロビー活動に対する急進的な批判者、またマスコミ批判者としても一般に広く知られている。MITの研究室でインタヴューを受けてもらった。氏は高齢にも関わらず今でもほぼ毎日そこに通ってくる。

南ドイツ新聞
チョムスキー教授、お金の話をしましょう。教授の新刊は『誰が世界を支配しているか?』というタイトルになっています。でも答えはもう何百年も前に出ていると思ったのですが。

ノーム・チョムスキー
金が世界を支配する、というわけですか?いや、そう簡単には行きませんよ。権力と経済力との関係は多くの人が思っているより複雑なんです。ちょっと100年前のことを考えてみてください:アメリカの経済力はイギリス、フランス、ドイツを合わせたより強かったんですよ。でも政治的な権力ということからするとヨーロッパに比べてこの国は問題になりませんでした。

では一体何が世界を支配するのでしょうか?

アメリカの例をさらに見てみましょう。1945年には世界全体の経済の半分をアメリカ合衆国が握っていました。そして戦争で破壊されたヨーロッパの国が追いつた。後にはアジアの国々が台頭して来ました。今日のアメリカのシェアは22%でしかない。でも我が国はそれだけ権力がなくなりましたか?

いえ、逆です。

でしょう。けれどこの数字というのがそもそも誤解の元なんです。30年ちょっと前に新自由主義の時代が始まってから、国際敵に活動している大コンツェルンが国境なんかとは無関係にコンツェルンそれ自体の経済的小宇宙を形成してしまいましたからね。あと銀行とかも見て御覧なさい。50年代60年代の長い経済成長期の間は全体経済から見て金融機関の役割などほとんどありませんでした。市民から貯金を集めてそれを例えば自動車が買いたがっている人に貸す、とそれだけ。その後レーガンとクリントン大統領の政権下で巨大な自由化の波が押し寄せて、銀行が突然利潤全体の40%を懐に入れてるようになった。その結果が2008年の経済危機ですね。

それは逆に言うとこういう意味ですか?国が規制を緩めて税金を下げ、銀行やコンツェルンにその場を任せたりしなかったら、私たちは今頃もっといい世界に住んでいただろう、と?

そう言い切るつもりはありません。影響を持ってくる要因が他にたくさんありすぎますからね。経済現象を100%確実に予測できるのは経済学者だけでしょう。

1対0で言語学者の勝ちですね。

新自由主義だって見方によれば役に立ったことがたくさんあります。おかげで企業の利益は飛躍的に増えたし、そのことによってまた比較的長期間経済が安定していたし。でも圧倒的多数の単純労働者にとっては悪い時代でした。素晴らしい経済成長率にも関わらずその2007年の実質賃金は1979年より低い。

でも新自由主義で枷が外れたおかげで可能になった投資もあるのでは?規制が緩和されなかったらできなかったような投資です。

例えば情報テクノロジーのことですか?

そうです。以前だったら絶対に銀行からクレジットなんて受けられなかったような企業が突然リスクのある融資を受けられるようになったではありませんか。ありていに言うとつまり、新自由主義がなかったらひょっとしてスマートフォンもなかった、と。

すみません、それはちょっと違います。テクノロジーに関心があったのは大抵国のほうです。軍事面から考えても産業政策上の点でもね。最初にいろいろたくさん研究し出したのはシリコンバレーじゃない。例えばまさにここMITとかが国防省から研究費を貰ってやったんです。携帯電話とかパソコンもそう。IBMがパソコンを生産し始めたのはその後ですよ。耳にするのはいつも同じ:国が金を出し、私経済が懐に入れるんです。

他にやり方があるとしたらどんな? 国が自分でスマートフォンを作って売るとか?

公共機関が開発の費用を出すのなら利益のほうも公共的に回収するべきなんです。でもその代わり私たちはいわゆる自由貿易協定というものを結んでいるわけです。そこで製薬、電機、メディアの大コンツェルンの私的な利益が国に保護さえされているという・・・

なぜ国が製薬会社になんらかの保護政策をしてはいけないのですか?よりよい新薬を開発して公共の利益になっているではありませんか。

企業は何も開発しないからです。自社の薬品の分子をちょっといくつか変え、その薬品を売り込むためにマーケティングに大金を投入する。それに対して本来の開発研究はここのような国の実験室でやっているんですよ。ノバルティスとかファイザーのような大製薬企業はそれをちょっと見て回っておいしいアイデアをくすね取るだけ。国がこれを自分でやっていればアメリカの保険費はもっと徹底的に下げられるでしょう。

それはむしろこういうことではないんでしょうか、確かに国は基礎研究の費用はだすが、研究内容の専門的な査定はできず、創造力にも欠けているから、その知識を市場に出せるような、また生活に役立つような製品に変えることが出来ない、と。

おっしゃる通りです。そういうことは大学の研究所がやる必要はない。けれどそのノウハウを民間コンツェルンにタダであげてやる代わりに公共の、市民社会から選ばれた代表者が取り仕切る企業が製品をつくればいいんですよ。そうすれば権力を少数の民間企業に握られないですむ、というメリットもあります。

でも教授が提案しておられるような社会主義的な国の経済はもうテスト済みなのでは?例えば東ドイツとか。悲惨な結果になりましたが。

東ドイツでやっていたことは、社会主義とは何の関係もありません。東ドイツは単なる全体主義国家です。労働者には何の権利もなく、世論もまったく影響力がなかった。西ドイツのほうが東ドイツより社会主義的でしたよ。あそこには少なくとも労働者が経営に参加できる、最低限の線があった。

労働者が資本主義の被害者ならば、どうしてアメリカでは労働者がドナルド・トランプを追いかけているのですか?氏はほとんど資本主義のカリカチュアではありませんか。

他にどんな選択肢があります?アメリカの労働者はもうかれこれ40年以上も両方から無視されているんです。だから今体制全体に背を向けていて、少なくとも自分たちのことを覚えてくれているかのごとく振舞うトランプのような人に従うんです。

現実には人間の生活は、例えば50年前に比べればずっと良くなっているのではないでしょうか?教授は新自由主義が起こる以前の黄金時代のようにおっしゃってますが?

どこからそんなお考えが出て来るんですか?実質賃金の変遷についてはもうお話ししたではありませんか。

実質賃金についてはおっしゃる通りです。でも現在は不動産とか資本収益とか相続遺産とか他の収入を持っている人が多いですよ。

もちろん石器時代に比べれば現在の人間の生活は良くなってますよ。19世紀とくらべたって良くなっているでしょう。それに、まあなんというか、今は車で行くから、馬糞が道に2メートルも積みあがっていたりしていないし。けれどそういうことを尺度にはしていません。尺度にしているのは、豊かさがもっと別な風に配分されていたらどうなりえていたか、ということです。最低賃金の例で考えて見ましょう:70年代の始めには最低賃金は生産が上がるのと平行して上がっていっていた。そのあと、この両者が互いに離れていってしまった。これが当時のように発展して行っていたら今頃最低賃金は7ドル25セントではなくて20ドルくらいあったはずです。

続きはこちら。


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前回の続きです。

南ドイツ新聞:
変革を望んで人は多く動かされるわけですが、変革というのは教授のような自称無政府主義者にとっても本来望むところであるはずですよね。それがトランプのようなポピュリストの利益にもなっていてもやっぱりそうですか?

ノーム・チョムスキー:
変革を望むのは理解できる、問題となるのは人に与えられている選択肢です。

昔からの制度風習はほとんどすべて信望を失ってしまったような気がするんですが - 政府も議会も政党も企業もメディアも、それから教会さえも。

これらは現在では本当に嫌われていますね。

この先どういうことになるんでしょうか?

私には言えません。あのね、私はまだよく覚えているんですが、子供の頃ラジオでヒトラーの演説を聞いたんです。その言葉は理解できませんでしたが、メッセージは伝わりました。こんにち例えばドイツやオーストリアでのアンケートの結果なんか見てみていると、でもまあ、こう言わざるを得ないでしょうねえ:勇気づけられるような感じではないな、と。

現在メディアも右からも左からも攻撃されています。メディアは「体制」に奉仕していてそこから外れる意見は全然言葉にしてくれないと言われてます。教授自身もこれらの批判者のお一人ですが。私たちメディアが一般に言われるようにひどいものなら、どうして私たちはここでこうやって教授とお話しているんですか?

あなた方がひどいとは私は言っていませんよ。間違っていることが多いということです。メディアが視聴者に伝えるニュースを選択するやり方とか。でもそれだからと言って私が毎朝重要な国の内外の新聞を読む妨げにはなりません。

メディアが、使用できる他のソースと比べるとそんなに悪くもないからではないですか?

そうです。読んでいて腹の立つようなこともたくさん書いてありますが、さしあたってはこれよりマシな出発点がありませんからね。私はまず日刊紙を読んでから他のソースにあたります。

教授のような左派の知識人がメディアを批判すると、されたくない側から拍手されたりしますが。右派から自分たちのプロパガンダの正しさを証明してくれる証人として持ち出されると嫌ではありませんか?

どういう風にメディアを批判するかによります。私がメディアを批判するのは例えばコンツェルンを保護するために結んだ条約を自由貿易条約を呼んだりすることです。でもそれでも「私はメディアが大嫌いだ」と言い切るほどではありません。

事実としては、右派と左派は大声で実は同じことを主張している、ということがあります。例えば民主党左派のバーニー・サンダースの信奉者には今はサンダースの党の同僚ヒラリー・クリントンを選ばずにトランプに票を入れようとしている人たちがいますね。

この人たちはクリントンが大嫌いなんですよ。問題はただ、だからクリントンが嫌いなんだというその要素はトランプも持っていて、こちらのほうがさらにひどいということですね。

トランプが勝ったら、世界にとってどういうことになるでしょうか?

私たち全員の生存に関わる二つの問題を見てみましょうか。気候変動と核兵器のことを。気候問題ではトランプは化石燃料に戻るという完全に間違った方向に向かって行進中です。方向転換のタイムリミットまでもうそんなに時間がないのにね。核兵器について言えばこういうことです:無知な上にすぐ感情的になるような誇大妄想狂の人物に地球をふっとばせるような権力を与えてしまっていいのか?

でも選挙戦ではこれらのテーマは二つともほとんど表に出てきませんでしたが。

ええ、メディアが内容そのものはそっちのけでトランプがミスコンテストの優勝者と悶着を起こしたとかそういうことばかりニュースにするからです。本当にこれは読者や視聴者への詐欺行為ですよ。

無政府主義者が世の中をよくするためにできる貢献とはどんなことでしょう?

権威に対してその正当性に疑問を突きつける、また異を唱える、ということです。あらゆる制度機構には正当性がないといけない。それがない制度機構は廃止されるべきです。

そんなにはっきりしていることなら、どうして皆教授のご提案に従いたいと思わないのですか?

誰が従いたくないと言っているんですか?誰もその可能性を与えてくれないんですよ。

革命の革命たる所以は人々が可能性を自分でつかむ、ということにあるのではないですか?

革命はそれをやりますよ、組織されて活動していれば - でも今はもうそうではなくなってしまいました:政治が社会をバラバラにしてしまいましたからね。人々は互いに孤立して生きているし、教会と大学以外は組織というものがほとんどない。意見交換の場がないから政治問題への理解を深められない。時々ボタンを押して候補者に一人票を入れる、それだけ。現在の政治システムではそれ以上することがありません。

その裏には意図的な計画があると?

もちろん。そのためにPR産業が開発されたんです。PR産業は人々の関心が表面的な生活のことにだけ向かうようにしむける。下手にコミットしないで消費だけしていろというわけですね。近代PR産業の創設者の一人、エドワード・バーネイズがズバリ言い切ってますよ:世間の人々ってのは問題だ。彼らは馬鹿で無知だから脇へどいててもらって責任感のある人間になんでも決めてもらうのが彼ら自身にとっても一番いいんだ、と。そのためにPR部門が最も自由な社会にも誕生したんです、つまりアメリカとイギリスにね。これらの社会では前世紀に市民が極めて広い自由を獲得して、権力施行によって人々をコントロールするのが難しくなった。だから人々の意見や行動のほうをコントロールしないといけないというわけです。

そういう陰謀があるとしたら、それに対して教授のような知識人ができることとはどんなことでしょうか?

皆がいろいろな問題点にもっとコミットしてもっとよく理解するように仕向けることができるでしょう。

問題はただ、知識人という集団もまた人々がもう信用していない、ということです。データが増えているのにそれらがそもそもデータとして認めてもらえないことも多い。

本当にそういう人はいます。その原因を理解するためにはアメリカについていくつかはっきりさせておかないといけない。1945年まではアメリカは経済的には世界で最も裕福な国でしたが、知性の点では遥かに劣っていた:学問をやりたかったらヨーロッパに行かなければいけなかったんです。知性ではこの国は後進国というのはいまだにあまり変わっていませんね。

そうお決めになる根拠はどんなことですか?

気候変動のことを考えてみましょう;人口の約40%が「この問題はもう扱う必要がない、だってまもなくキリストが地上に戻ってくるじゃないか」などと信じているようでは難しいでしょう。トランプ現象の大部分はこういうところから発生しているんです。私はたった今中西部のある夫婦についての記事を読んだところですが、さるキリスト教の共同社会で美しい生活を送っていた。庭には小さなチャペルが建ててあった。が、そこで突然そのチャペルで男同士・女同士でまで結婚させるよう、法律で義務付けられてしまった。これらの人々にとっては世界が崩れ落ちたんです - もちろん前近代的な世界ですが、世界は世界ですからね。

そういう後進性は嫌ですか?

それらの人々を責めるつもりはありません。見ていると私の祖父を思い出しますよ。祖父は100年前にアメリカに移住してきましたが、頭の中はまだ17世紀に住んでいました。ウクライナのさる村の生まれですが、アメリカでも超正統派の小さなユダヤ人共同社会の中で生活していて、この国の社会や近代社会とは別のところにいました。だから私にもこういう人たちへの共感がないわけではありません。彼らにだってそういう生活をする権利がある、と思っています。

それでもなお出来ることがあるとしたら?

教育が助けになる。これらの社会でも若い世代は変わりつつあります。

では最後の望みはまだ持っていらっしゃるんですね? 若い世代という。

希望はいつだってありますよ。

元の記事はこちら
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念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。)


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 人工言語あるいは計画言語として知られているのものには、草案段階のものから完成したものまで含めると1000言語くらいあるそうだ。17世紀頃からすでにいろいろな哲学者や自然科学者が試みている。言語学者のイェスペルセンによるノヴィアルNovial、哲学者ブレアらによるインターリングアInterlingua、カトリック僧のシュライヤーによるヴォラピュークVolapükなどが知られているが、なんと言っても有名なのはポーランドの眼科医ザメンホフ(日本語では「ザメンホフ」と「メ」にアクセントを置いて発音しているがこれは本当は「ザ」に強調して「ザーメンホフ」というのが正しいような気がするのだが)によるエスペラントEsperantoだろう。実用段階まで完成を見た計画言語はこのエスペラントだけだ。後にこれを改良したイドIdo(エスペラントで「子孫」の意味)という言語をイェスペルセンらが唱えたが、エスペラントに取って変わることは出来なかった。
 エスペラントは1887年に発表されたが、20世紀の前半には世界中に受け入れられて「エスペラント運動」として広まった。日本でも有島武雄や宮沢賢治がこの言語をやっていたそうだ。二葉亭四迷もエスペラントについての論評を書いている。この言語が発表された直後いち早く運動が広がったのはロシアだったそうだから二葉亭はロシア語経由でエスペラントの存在を知ったのだろうか。しかし一方この運動は、特定の民族が非支配民族に押し付けた言語ではない、世界のあらゆる民族が対等の立場で使える共通言語としてのエスペラントを掲げ、反ナショナリズム、あらゆる民族の平等・連帯、世界平和という理想を目指した一種の社会運動だったから、当然ナチスドイツには弾圧されたし軍国主義の日本でも白い目で見られた。下手をすると現在の日本にもエスペランティストを「お花畑」の「人権屋」の「ブサヨ」のといって罵る人がいるかも知れない。
 残念ながらと言っていいのかどうか、二次大戦後は英語が事実上の世界共通語となってしまったため、世界共通語としてのエスペラントはややその存在意義を失ってしまったが、1980年代には日本でもまだ結構盛んに学習されていた記憶がある。
 そういえば当時、あまりエスペラントを研究している言語学者がいないと指摘する声を聞いたことがある。「君子エスペラントに近寄らず」という言語学者間での暗黙の了解でもあるのか、と誰かが何処かで書いていた。ドイツでも私が学生であった期間、エスペラントが授業やワークショップでテーマになったことは一度もないし、何年か前にはなんと「エスペラント」という言語の存在を知らない学生に会ったことがある。確かに「未知の言語の構造を解き明かし記述する」のが仕事の人にはエスペラントは研究対象にはなりにくいだろうが、社会言語学とか、言語の獲得、ニ言語間の干渉問題が専門の人ならば十分研究対象になるだろう。「エスペラントは母語になりうるか」とか「使用者の母語によってエスペラントは違いを見せるか」なんてテーマはとても面白そうだし、実際に地道に研究している人もいるらしい。先日の新聞でも最近エスペラント学習者が増えつつある、という記事を見かけた。言語学者から特に冷たく扱われているということはなさそうだ。第一ウィキペディアにもエスペラントが使われているし電子辞書の類も多い。コンピューター時代を迎えて、再び「人工言語」というものへの関心が強まったのだろうか。
 もっともこの計画言語が発表された当時は当時言語学の主流であった比較言語学の大家ブルークマンやレスキーン(『26.その一日が死を招く』の項参照)から完全に継子扱いされたらしい。「こんなものは言語学ではない」というわけか。しかし肯定的にみる言語学者もいた。アントワーヌ・メイエやボドゥアン・デ・クルトネなどは肯定的だったそうだ。後にアンドレ・マルティネもまたエスペラントを擁護している。大物言語学者が結構支持しているのである。

 さて、私はレスキーンでもメイエでもない単なるおバカな野次馬であるが、話を聞くとなにやら面白そうな言語なのでちょっと近寄ってみた。例えばこういう文章だが:

羊と馬たち

もう毛のない羊が馬たちを見た。
そのうちのあるものは重い車を引き、
あるものは大きな荷物を、
あるものは人をすばやく運んでいくのを。

羊は言った:
心が痛む。人間が馬たちを駆り立てるのを見ている私には。
馬たちは言った:
聞け羊よ。心が痛む、こういうことを知っている私たちには。
主人である人間が羊の毛を自分のために暖かい衣服にしてしまう。
それで羊には毛がない。

これを聞いて羊は野へ逃げて行った。

このテキストを無謀にも私がエスペラントに訳すと次のようになった。そこら辺の辞書だろ文法書だろをちょっと覗いてみただけなのでエスペランティストの人が見たら間違っているかもしれない。請指摘。

La Ŝafo kaj la Ĉevaloj

Ŝafo, kiu jam ne havis neniun lanon, vidis ĉevalojn,
unu el ili tiri (tirante?) pezan vagonon,
unu porti (portante?) grandan ŝarĝon,
unu (porti/ portante) viron rapide.

La ŝafo diris al la ĉevaloj:
La koro doloras al mi, kiu mi ridas homon peli (pelante?) ĉevaloj.
La ĉevaloj diris:
Aŭskultu, ŝafo, la koroj doloras al ni, kiu ni scias tion ĉi:
homo, la mastro, faras la lanon de ŝafoj je varma vesto por li mem.
Kaj la ŝafo ne havas lanon.

Aŭdinte tion, la ŝafo fuĝis en la kampon

関係節でkiu mi (who I/me)のように関係代名詞と人称代名詞を併記したのは故意である。ドイツ語のich, die ich kein Afrikaans kann, (アフリカーンス語が出来ない私、英語に直訳すればI, who I cannot Afrikaans)などの構文に従ったため。どうも二種の代名詞を併記したほうがすわりがいいような気がしたのである。また、前置詞の選択に困ったときはjeを使いなさいと文法書で親切に言ってくれていたので、さっそく使ってしまった。「毛を暖かい服にする」の「に」、この文脈で使うドイツ語のzuをどう表現したらいいかわからなかったのである。

 人工言語・計画言語ではアプリオリな計画言語、アポステオリな計画言語、それらの混合タイプの3種類を区別するそうだ。アプリオリな計画言語とは自然言語とは関係なく哲学的・論理学的な原理に従って構築されたもの、アポステオリな計画言語は一つあるいは複数の自然言語をベースにしたもの、混合タイプはその中間である。しかし考えるとこれは「計画言語を3種のカテゴリーに分ける」というより純粋なアプリオリタイプと純粋なアポステオリタイプを両極として、その間に様々な段階の計画言語が存在する、つまり連続したつながりと見たほうがいいだろう。
 いわゆる標準語とか共通語などはある意味人工的に設定された計画言語だが、これらは「限りなく自然言語に近い計画言語」、極致的にアポステオリな計画言語と言えるのではないだろうか。もっともこういう共通語が上述の1000言語の中に勘定されているとは思えないが。対してエスペラントは文法規則や単語など確かに様々な自然言語から持ってきているが、出所不明の部分、つまりザメンホフが純粋に頭の中で考えだした要素も少なくないから、ずっとアプリオリ寄りである。

 エスペラントよりはアポステオリ寄りだが共通語よりはアプリオリ寄りという計画言語として私が思いつくのは例の「印欧祖語」というアレである。これも上の1000言語には入っていそうもないが、過去から現在までの様々な言語を徹底的に調べたデータから論理的に帰納した(普通は印欧語「再建」と言っているが)立派な計画言語ではないだろうか。
 最初にこの「再建」を試みたのはアウグスト・シュライヒャーで、上に挙げたわざとらしい文章は実はシュライヒャーが自分で再建した印欧祖語で書いた寓話を訳したのである。一般に「シュライヒャーの寓話」として知られているテキストで、1868年に発表された。

Avis akvāsas ka

Avis, jasmin varnā na ā ast, dadarka akvams,
tam, vāgham garum vaghantam,
tam, bhāram magham,
tam, manum āku bharantam.

Avis akvabhjams ā vavakat:
kard aghnutai mai vidanti manum akvams agantam.
Akvāsas ā vavakant:
krudhi avai, kard aghnutai vividvant-svas:
manus patis varnām avisāms karnauti svabhjam gharmam vastram avibhjams
ka varnā na asti.

Tat kukruvants avis agram ā bhugat.

 シュライヒャーの祖語はサンスクリットに似ていたが、その後研究が進んで、サンスクリットはそれなりに印欧祖語からは離れていたはずだということが次第にはっきりしてきたため、シュライヒャーのほぼ70年後、1939年に再び祖語再建を試みたヘルマン・ヒルトのバージョンは特に母音構成が大きく違っている。

Owis ek’wōses-kʷe

Owis, jesmin wьlənā ne ēst, dedork’e ek’wons,
tom, woghom gʷьrum weghontm̥
tom, bhorom megam,
tom, gh’ьmonm̥ ōk’u bherontm̥.

Owis ek’womos ewьwekʷet:
k’ērd aghnutai moi widontei gh’ьmonm̥ ek’wons ag’ontm̥.
Ek’wōses ewьwekʷont:
kl’udhi, owei!, k’ērd aghnutai vidontmos:
gh’ьmo, potis, wьlənām owjôm kʷr̥neuti sebhoi ghʷermom westrom;
owimos-kʷe wьlənā ne esti.

Tod k’ek’ruwos owis ag’rom ebhuget.

 さらに2013年にもアンドリュー・バードAndrew Byrdが再建している。

H₂óu̯is h₁éḱu̯ōs-kʷe

 h₂áu̯ei̯ h₁i̯osméi̯ h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁ést, só h₁éḱu̯oms derḱt.
só gʷr̥hₓúm u̯óǵʰom u̯eǵʰed;
só méǵh₂m̥ bʰórom;
só dʰǵʰémonm̥ h₂ṓḱu bʰered.

h₂óu̯is h₁ékʷoi̯bʰi̯os u̯eu̯ked:
dʰǵʰémonm̥ spéḱi̯oh₂ h₁éḱu̯oms-kʷe h₂áǵeti, ḱḗr moi̯ agʰnutor.
h₁éḱu̯ōs tu u̯eu̯kond:
ḱludʰí, h₂ou̯ei̯! tód spéḱi̯omes, n̥sméi̯ agʰnutór ḱḗr:
dʰǵʰémō, pótis, sē h₂áu̯i̯es h₂u̯l̥h₁náh₂ gʷʰérmom u̯éstrom u̯ept,
h₂áu̯ibʰi̯os tu h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁esti.

tód ḱeḱluu̯ṓs h₂óu̯is h₂aǵróm bʰuged.

hにいろいろ数字がついているのはいわゆる印欧語の喉音理論を反映させたのであろう(『24.ベレンコ中尉亡命事件』の項参照)。いかにも現代の言語学者らしく、音声面に重きをおいていることがわかる。
 まあこうやって見ている分にはゾクゾクするほど面白いが、この印欧祖語はエスペラントのように実際の言語使用には耐えないだろう。名詞は多分8格あって、数は単・双・複の3つ、動詞の変化も相当複雑なことになっていたろうし、ちょっと学習できそうにない。さらにエスペラントはその体系の枠内で新しい単語を作り出すことが出来るが、印欧祖語はあくまで「再建」だから造語力というものがない。再建した学者本人たちもまさかこれをラテン語や英語の代わりに世界語として使おうとは思っていなかっただろう。特に2013年のバージョンを見るとそれこそ「近寄るべからず」と言われているような気になる。


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 いわゆる忌み言葉というものがある。結婚式の祝辞で「切れる」の「別れる」のと言ってはいけないし、普段の会話でもうっかり変なことを口走ると「縁起でもないことを言うな」と怒られる。昔は「言霊」ということを言った。
 こういう「縁起でもないことを言うと縁起でもないことがおこる」「ポジティブな言葉を唱えると事象がポジティブになる」といういわゆる言霊思想が「非科学的」であるということには誰も異を唱えないだろう。非科学的であることは十分わかっているのだが、他人の気分を害してまで科学や論理に義理立てする必要もないから、結婚式で別れる切れるを連発したり、言霊を信じていた昔の日本人を「本当に非論理的だな。だから日本人は精神年齢12歳とマッカーサーから言われるんだ」などとこき下ろしたりはまずしない。私もしない。そのくらいの非科学性なら喜んで付き合う、気持ちはわかる、という人が大半ではないだろうか。そもそもこういう発想は多かれ少なかれどこの民族だってやっているのだ。

 ただ、この「非科学性」がどのように非科学的・非論理的なのか、ということをもう少し考えてみると結構面白いと思う。記号論に関わってくるからである。

 いわゆる記号論・記号学は大学の「言語学概論」の類の授業で基礎だけはやらされる。言語というものが記号体系だからである。ではその「記号」とはいったい何かと聞かれると結構複雑だ。ちょっと当時の教科書Studienbuch Linguistik(「言語学概論」)(『43.いわゆる入門書について』の項参照)という本の埃をはらって覗いてみると、記号を

aliquid stat pro aliquo

と、厭味にもラテン語で定義してある。もちろんこの教科書はラテン語の怪しい無学な学生をも念頭においているものなので後で懇切丁寧に訳も解説もしてあり、記号の本質的な性質を

dass sie einem Zeichenbenutzer etwas präsent machen können, ohne selbst dieses etwas zu sein.

「その記号の使用者に対して、それ自体は当該事象ではないのにある事象を出現させられること」だと言っている。つまりある事象、あるモノが別の事象・モノの代わりをするわけだ。言語学では「記号」を一般に理解されているより少し広い意味で把握していることがわかる。もっとも英語やドイツ語で「記号」はそれぞれsignとZeichen、つまり普通に日常会話で使っている「しるし」という単語だから、そもそも元の言葉の意味範囲が日本語の「記号」ということばより意味が広いのだ。

 さて、この記号だが論理学者のパースPeirceは3つのタイプを区別している。インデックス記号(index)、アイコン記号(icon)、シンボル記号(symbol)である。
 インデックスは当該事象とそれを表すもの、つまり当該事象の代わりに立つものが因果関係にあるような記号である。記号をA,当該事象をBとすると、AとBとの間に「Aならば(あるいはAだから)B」という関係が成り立つ。煙は火事の、笑顔は幸せの、発熱は病気の、「じゃん」という語尾は南東京・横浜方言のそれぞれインデックス記号である。英語のsignという言葉ならこういう場合に使って「熱は病気のサイン」と言っても問題ないが、日本語の「記号」のほうは「じゃんは南東京方言の記号」という言い方で使うと相当無理がある感じだ。
 アイコンは当該事象の模写である。ピクトグラムなどがこの種の記号の代表例。パースのころはインターネットなどなかったからもちろん例にはあがっていないが、現在盛んにネットで使われている絵文字などもこれだろう。文字にもこのアイコン起源のものがある。シュメールの楔形もエジプトの象形文字も、何より漢字がもともとがアイコン記号であったのがしだいに抽象度を増していったのだ。
 さらにオノマトペはある意味では音声面でのアイコン記号と言える。「ある意味」といったのはオノマトペが純粋な意味でのアイコンとは言えず、むしろ下のシンボル記号に属すと考えたほうがいいからだ(下記参照)。
 インデックスもアイコンも指し示す事象Aと指し示される事象Bとの間に自然的な繋がりがあるわけだが、AB間にこの自然的つながりの全くないのがシンボル記号である。人間の言語はこの代表だ。AはBを指し示す、ということは社会規約で決められていてその協約を知らなかったら最後、いくら人生経験が多かろうが目や耳が良かろうがAを聞いてBを知る、あるいはAを見てBを想起する、ということが出来ない。
 例えばあのワンワン鳴いて尻尾を振る動物をある言語ではいぬ、またある言語ではHundという全く違った音声で指し示すのは音声と当該事象との間に自然的つながりのない良い証拠である。煙を見て「あっ、火事のサインだ」と感づいたり(インデックス)、スカートをはいた人物のマークを見て婦人用のトイレだと了解したり(アイコン)するのとは違い、いきなり[sɐbakə]という音を聞かされたりძაღლიという文字を見せられても犬が思い浮かんでくることはない。
 シンボル記号のこういう性質、指示されるものと指示対象物との間に自然の繋がりがないという性質をド・ソシュールは「言語の恣意性」と呼んだ。

 ただし、よく観察してみるとアイコンも実はある程度社会あるいは文化規約を知らないと解読することはできない。例えば女性がスカートを全く穿かない文化圏の人には女性トイレを見分けることは困難であるし、究極のアイコンである写真も、写真というものを全く見たことがない人は自分の写真を見せられても自分だという事がわからないそうだ。鏡では常に自分の顔を知っていても写真だとわからなくなるという。言い換えると写真による対象指示のメカニズムをある程度知っていないとアイコン記号は解読できないのである。絵文字にしても「意味」を誤解されたり理解されなかったりするのは珍しいことではない。例えば私もスマイルマークの絵文字など、こちらの意見をOKと言っているのかそれともせせら笑われているのかわからなくてイライラすることがよくある。
 そういう意味でアイコンも社会規約と無縁ではない。私ごとで恐縮だが、もう20年以上前こちらの「言語学概論」の期末試験に出た問題の一つが「アイコンはconventionalな記号であるか?」というものだった。答えはもちろんイエスである。
 
 もうひとつの微妙な問題は上でも述べたオノマトペである。これは一見音声のアイコン記号、つまりシンボル記号である言語内での例外現象のようだが、当該の自然音が記号化される言語によって全く違う形をとることが多い。例えば馬の泣き声は日本語ではヒヒーンだがロシア語だとイゴゴー、豚は日本語ではブーブー、ドイツ語ではオインクオインクまたはグルンツグルンツ。鳩の鳴き声などドイツ語でRuckediku-ruckedikuと表されているのを見たことがあるが、これでは「鳩ポッポ」という単語が成り立たない。しかしこれだけ違った描写をされているからと言ってドイツの鳩や豚がロシアや日本の同僚と全く別の声を出しているわけではない。つまりオノマトペの本質は「自然音を模写」することでなく、その言語の音韻体系内で当該事象の対応する要素を新しく作り出すことにあるのだ。あくまでシンボル体系内の出来事であるから事象AとBとの繋がりの恣意性は保たれているわけだ。(ということが一応オノマトペに対する言語学者の一致した見解だが、それでもこのオノマトペがアイコン寄りの位置にあることは頭に置いておいたほうがいいと私は思っている。このオノマトペというのはつきつめて考えていくと結構面白い現象であると。)
 それに対して動物学者が狼の鳴き声を正確に再現して群れを呼び寄せたりするのは、すでに人間の言語体系の外に出てしまっているからオノマトペとはいえない。

 言霊だろ忌み言葉だろと言い出す人たちはつまりこの言語の本質、つまり「言語がシンボル記号であること」や「言語の恣意性」がわかっていないことになる。シンボル記号である言語をインデックス記号と混同して、指示する側Aと指示対象Bとの間に自然的な繋がりを想定してしまっている。上のドイツ語の説明で、記号は何かをpräsent machen(「そこに出現させる」)という言い回しをしているが、この「出現させる」のは頭の中に出現させるということであるのに、自然界に実際に出現するかのように受け取ってしまっているのだ。その上AとBを逆にして、「AだからB」であるはずのところを「BだからA」と解釈しまっている。記号論上の根本的な誤りを二つも犯しているわけで、精神年齢12歳というお叱りを受けなければならないとしたらマッカーサーからでなく、むしろソシュールやパースからであろう。

 さて、この言霊・忌み言葉と似たようなものに呪文・まじないの類がある。祈祷師が意味不明のフレーズを唱えると雨が降ったり死人が生き返るというアレである。これは一見言霊思想と同じタイプの非論理性に基づいているようだが、よく考えてみると言霊とはメカニズムが違うような気がする。言霊は自分の言語、自分たちが使っているシンボル体系の記号性を誤解釈したものだが、呪文の言葉は自分たちのシンボル体系ではない。「意味不明のフレーズ」である。これは話しかける相手の言葉と自分たちの言葉が違うということを前提にして自然の支配者に話しかけている、言い換えるとこちらにはわからなくともあちらには通じているという前提なわけで、相手のシンボル記号を使っている(つもり)、つまりある意味では「言語の恣意性」ということがわかっているのだ。忌み言葉忌避より罪一等軽いから、ソシュールやパースは見逃してくれるのではないだろうか。

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 私と誕生日が一日違いの(『26.その一日が死を招く』参照)言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの名は言語学外でも広く知られている。その「代表作」Cours de linguistique générale『一般言語学講義』以来、氏が記号学の祖となったからでもあろう。ラング、パロール、シニフィアン、シニフィエ云々の用語を得意げに(失礼)使っている人も多い。オシャレに響くからだろう。私も得意げに使っているので、大きな事はいえないが。
 が、これもよく知られていることだがその『一般言語学講義』はド・ソシュール自身が書いたものではない。ド・ソシュールの講義を受けたセシュエやバイイなどの学生が自分たちのノートを基にしてまとめたものである。あまり知られていないのがCours de linguistique généraleが世界で最初に外国語に翻訳されたのは日本語が最初であることだ。1928年小林英夫氏の訳である。私はこれを聞いた当時日本人の言語学への先見の明・関心が高かったためかと思って「さすが日本人」と言いそうになったが、これは完全に私の思慮が浅かった。Coursが他の国でそんなにすぐ翻訳されなかったのは、当時のヨーロッパではその必要がなかったからである。つまりフランス語などまともな教養を持っている者なら誰でも読めたからだ。現に当時の言語学の論文の相当数がフランス語で書かれている(下に述べるKuryłowiczクリウォヴィチの論文もフランス語である)。これは今でもそうで、例えば大学で論文を書くときドイツ語・英語・フランス語の引用文は訳さなくていい、という暗黙の了解がある。論文ではないがトーマス・マンの『魔の山』(『71.トーマス・マンとポラーブ語』参照)にも何ページもベッタリフランス語で書いてある部分がある。つまりCoursが真っ先に日本語に訳されたのは日本人が言語学に熱心だったからではなくて単に日本人の一般的語学力が低かったからに過ぎない。ずっと遅れはしたが日本語の次にCoursが翻訳された言語が英語だったことを考えるとさらに納得がいく。現在のヨーロッパの国ではイギリスがダントツに「外国語が最もできない国民」である、というアンケートの結果を見たことがあるのだ。

 その、ド・ソシュールの手によるものでない『一般言語学講義』が言語学外でもやたらと知られている一方、まぎれもなく氏本人の手による『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書』Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennesという論文はあまり騒がれてもらえていない。言語学者としてのド・ソシュールの名前を不動のものとしたのはむしろMémoireのほう、俗に印欧語のソナント理論、後に喉音理論と呼ばれるようになった理論の方ではないかと思うのだが。ド・ソシュールが1879年に21歳で発表した印欧比較言語学の論文である。

 印欧語はご存知のように俗に言う屈折語で、語中音、特に母音が交代して語の意味や品詞、またシンタクス上の機能を変える。例えば「死ぬ」というドイツ語動詞の不定形はsterbenでeという母音が来るが、現在形3人称単数はstirbt と i になり、過去形3人称単数はstarb でa、接続法2式はstürbeで ü 分詞でgestorben と母音はoになる。子音は変わらない。祖語の時代からそうだったことは明らかで、19世紀の後半からメラーMøllerなど何人もの言語学者がセム語族と印欧語族とのつながりを主張していたのもなるほど確かにと思う。
 さてその印欧比較言語学の最も重要な課題の一つが印欧祖語の再建であったことは『92.君子エスペラントに近寄らず』の項でも書いたとおりである。基本的には印欧祖語の母音はa, e, i, o, u の5母音とその長音形ā,、ī、,ō、ē、ū と「印欧語のシュワー」と呼ばれる ə というあいまい母音と見なされている。最初から研究が進んでいた印欧語族、現在の印欧語や古典ギリシャ語、サンスクリットなどのデータを詳細に調べて導き出されたのだが、印欧祖語の母音組織についてはいまだに諸説あり最終的な結論は出ていない。i と u はむしろ半母音、つまりソナント(下記参照)、そして ī とū はei、oi、eu、ou などの二重母音の弱まった形だとされることもあるが、ā、ō、ē の3つの長母音は印欧祖語本来のものとみなすのが普通であった。これらの母音が上述のように語中で交代して意味や文法機能を変える。その母音交代現象(Ablaut、アプラウト)は祖語時点ですでに共時的に行なっていたのが、祖語がバラけるにつれて通時的にも母音が変化したから、交代のパターンをきっちり確定するのが難しくなっているわけである。
 様々な母音交代パターンがあるが、大きく分けると量的母音交代(quantitativer Ablaut,またはAbstufung)と質的母音交代(qualitativer AblautまたはAbtönung)の2群に分けられる。後者については印欧祖語にはe 対o またはō 対ē の交代があったと思われ、例えば古典ギリシア語のpatera (「父」、単数対格)対apatora(「父のいない」、単数対格)、patēr (「父」、単数主格)対apatōr(「父のいない」、単数主格)がこれを引き継いでいる。クラーエKraheという人はさらに a とo の交代現象に言及しているがこちらのほうは「非常にまれにしか見出せない」と述べているし、私の調べた限りではその他の学者は全員「印欧祖語のqualitativer Ablaut」としてe 対o しか挙げていなかった。母音交代ではゼロ(ø)形も存在する。サンスクリットのas-mi (「~である」、一人称単数現在)、s-anti(同三人称複数現在)はそれぞれ*es-mi 、*s-entiという形に遡ると考えられるが、ここの語頭でe と ø が交代しているのがわかる。
 前者のquantitativer Ablautは短母音とそれに対応する長母音、または短母音と二重母音間の交代である。e 対 ē のようなわかりやすい対応ばかりでなく、ā、ō、ē 対 ə、ei 対 i、 eu 対 u のような複雑なものまでいろいろな形で現れる。ラテン語tegō(「覆う」、一人称単数現在)対 tēxī(一人称単数完了)に見られるわかりやすいe・ē交代の他、古典ギリシア語のleipō(「そのままにする、去る」、一人称単数現在)対elipon(同一人称単数アオリスト)もまたこのquantitativer Ablautである。この動詞の一人称単数完了形はleloipaだから、母音交代はei 対oi 対 i かと思うとこれは実はe~o~ø。つまり一見様々な量的母音交代は割と簡単な規則に還元できるんじゃないかと思わせるのである。ド・ソシュールがつついたのはここであった。

 このゼロ交代現象で重要な意味を持ってくるのが音韻環境によって母音にもなり子音にもなるソナントと呼ばれる一連の音で、この観念を確立したのがブルクマンBrugmannという印欧語学者である。例えば、英語のsing~sang~sung、ドイツ語の werden~ward (古語、現在のwurde)~gewordenは祖語では*sengh-~*songh-~*s n gh-、*wert-~*wort-~*wr̥t-という形、つまりe~o~øに還元できるが、そのゼロ形語幹ではそれぞれn、rが母音化してシラブルの核となっている。こういう、母音機能もになえる子音をソナントと呼ぶが、印欧祖語にはr̥、l̥、m̥、n̥ (とその長母音形)、w、y(半母音)というソナントが存在したと思われる。「母音の r̥ や」はサンスクリットに実際に現れるがm̥ とn̥ についてはまだ実例が見つかっていないそうだ。ここで私が変な口を出して悪いがクロアチア語も「母音の r」を持っている。言い換えるとクロアチア語には母音 r のと子音の r の、二つrがあるのだ。rad (「作品」)の r は子音、trg (「市場」)の r  は母音である。
 さらに上述の古典ギリシャ語leipō~eliponの語根だが、祖語では*lejkw-~*likw-となり前者では i が子音、半母音の j (英語式表記だと y )だったのが後者では母音化し、i となってシラブルを支えているのがわかる。同様にu についても、半母音・ソナントの w が母音化したものとみることができるのだ。円唇の k が p に変わっているのはp ケルトと同様である(『39.専門家に脱帽』参照)。

 さて、話を上述の印欧祖語のシュワーに戻すが、ブルグマン学派ではこのə をれっきとした(?)母音の一つと認め、ā、ō、ēと交代するとした。サンスクリットではこの印欧語のシュワーが i、古典ギリシャ語とラテン語では aで現れる。だから次のようなデータを印欧祖語に還元すると様々なアプラウトのパターンが現れるわけだ(それぞれ一番下が再現形):

サンスクリットda-dhā-mi(「置く、なす」一人称単数現在)~hi-tas (ḥ)(同受動体分詞)
ラテン語fē-cī(「なす」一人称単数能動完了)~fa-c-iō(同一人称単数現在)
*dhē-~*dhə-

サンスクリットa-sthā-t(「立てる、置く」3人称単数アオリスト)~sthi-tas(同受動体分詞)
ラテン語 stā-re(「立てる、置く」不定形)~sta-tus(同分詞)
*stā-~*stə

サンスクリットa-dā-t (「与える」3人称単数能動態アオリスト)~a-di-sta/ adiṣṭa (同反射態)
(これは松本克己氏からの引用だが、氏はここでa-di-taという形を掲げていた。その形の確認ができなかったので私の勝手な自己判断でadiṣṭaにしておいた)
ラテン語dō-num(「賜物」)~da-tus(「与えられた」)
古典ギリシャ語 di-dō-mi(「与える」一人称単数現在)~do-tos(同受動体過去分詞)
*dō-~*də-

サンスクリットbhavi-tum(「なる」不定形)~bhū-tas(同受動体過去分詞)
*bhewə-~*bhū

古典ギリシャ語 gene-sis        ~   gnē-sios        ~     gi-gn-omai
                         (「起源」)  (「嫡出の」)     (「生まれる」不定形)
 (γενεσις~ γνησιος~ γιγνομαι)
*genə-~*gnē-~*gn

サンスクリットでは原母音のā、ō、ēが全てāで現れているのがわかる。最後の二つは2音節語幹だが、とにかく母音交代のパターンも語幹の構造もバラバラだ。ド・ソシュールはこれらを一本化したのである。
 ブルグマンらによれば印欧祖語のソナントr̥、l̥、m̥、n̥ はサンスクリットではaとなるから、サンスクリットの語幹がtan-対 ta-と母音交代していたらそれは印欧祖語の*ten-~*tn̥-に帰するはずである。ド・ソシュールは上のような長母音対短母音の交代もシュワーでなくこのソナントの観念を使って説明できると考えた。
 そこでまず印欧祖語にcoéfficient sonantique「ソナント的機能音」という音を設定し、それには二つのものがあるとしてそれぞれA、O(本来Oの下にˇという印のついた字だが、活字にないので単なるOで代用)で表した。その際ド・ソシュール自身はそれらはどういう音であったかについては一切言及せず、あくまで架空の音として仮にこういう記号で表すという姿勢を貫いた。
 この二つの「ソナント的機能音」が短母音を長母音化し、さらにその色合いを変化させるため、e+A=ēまたはā、e+O=ō, o+A=ō, o+O=ōの式が成り立つ、いや成り立たせることにする。いわゆるゼロ形ではA、Oは単独で立っているわけである。例えば上のラテン語 stā-re~sta-tusは*stā-~*stəでなく*steA-~*stA-、古典ギリシャ語 di-dō-mi~do-tosは*dō-~*də-でなく*deO-~*dOとなる。これはブルクマンが元々唱えていた*sengh-~*sn gh-(上述)、さらにleipō~eliponの*lejkw-~*likw-(これも上記)と基本的なパターンが全く同じ、CeC-のe~ø交代となる。最終的にはド・ソシュールは母音としては e のみを印欧祖語に認めた。
 このド・ソシュールの「式」のほうがブルグマンより説明力が高い例として松本克己氏はbhavi-tum~bhū-tas(上述)の取り扱い方を挙げている。ド・ソシュールの説ではこれも*bhewA-~*bhwA-という単純なe~ø交代に還元でき、*bhewA-ではソナントAがw と t に挟まれた子音間という環境で母音化して祖語の ə つまりサンスクリットの i (上述)となり、*bhwA-ではソナント(半母音)wがbhと Aに挟まれた、これも子音間という環境で母音化してu になる。さらにこれがソナントAの影響によって長母音化して最終的にはūになるのである。見事につじつまが取れている。それに対してシュワーの ə を使うときれいなCeC-解釈ができない。この交代は*bhewə-~*bhwə-と見なさざるを得ず、後者の*bhwə-が「印欧祖語のəはサンスクリットの i」という公式に従ってbhvi-で現れるはずであり、bhū-という実際の形の説明がつかない。といってū-をそのまま印欧祖語の母音とみるやり方には異論がなくないことは上でも述べた。

 しかしド・ソシュールのこのアプローチは言語学で広く認められることとはならなかった。このような優れた点はあってもまだ説明できない点や欠点を残していたことと、当時のデータ集積段階ではブルグマンの母音方式で大半の説明がついてしまったからである。もっとも数は少なかったがド・ソシュールと同じような考え方をする言語学者もいた。例えば上述のメラーMøllerは既に1879年に印欧祖語のā、ō、ēは実はe+xから発生したものだと考えていたし、フランスのキュニーCunyもこの、「印欧祖語には記録に残る以前に消えてしまった何らかの音があったに違いない」というド・ソシュール、メラーの説を踏襲して、それらの音をド・ソシュールのA、Oでなく、代わりにə1、 ə2、 ə3という記号で表した。その際これらの音は一種の喉音であると考えた。キュニーはこれを1912年の論文で発表したが、基本的な考えそのものはそれ以前、1906年ごろから抱いていたらしい。さらにド・ソシュール本人も1890年代にはAを一種のh音と考えていたそうである。

 情勢がはっきり変わり、この「喉音理論」が言語学一般に認められるようになったのは1917年にフロズニーHroznýによってヒッタイト語が解読され、印欧語の一つだと判明してからである。
 ヒッタイト語にはḫまたはḫḫで表される音があるが、これを印欧祖語の子音が二次的に変化して生じたものと解釈したのでは説明がつかなかった。結局「この音は印欧祖語に元からあった音」とする以外になくなったのだが、この説を確立したのが上でも名前を出したポーランドのKuryłowiczクリウォヴィチである。1927年のことだ。その時クリウォヴィチはこのḫがまさにド・ソシュールの仮定したAであることを実証してみせたのである。ただし彼もキュニーと同じくə1、 ə2、 ə3の3つの記号の方を使い、e+ ə1= ē、 e+ə2= ā、 e+ə3=ōという式を立てた。つまりə2がド・ソシュールのAに対応する。
 例えば次のようなヒッタイト語の単語とその対応関係をみてほしい。左がヒッタイト語、右が他の印欧語。「ラ」とあるのはラテン語、「サ」がサンスクリット、「ギ」が古典ギリシャ語、括弧の中がシュワーを用いた印欧祖語再建形である。:

naḫšarjanzi (「恐れる」、3人称複数現在) ⇔  サnāire(「恥」) <* nāsrija
paḫšanzi(「守る」3人称複数現在) ⇔  ラpā(s)-sc-unt(「放牧する」3人称複数現在)
newaḫḫ-(「新しくする」語幹) ⇔  ラnovāre(同不定形)
šan-(「追い求める」不定形) ⇔  サsani-(例えばsanitar「勝者」)<*senəter-


最初の3例ではa+ḫ=āという式が成り立つことがわかる。そしてヒッタイト語のaを印欧祖語のeと見なせば、このa+ḫ=āはまさにド・ソシュールのe+A=ā 、クリウォヴィチのe+ə2= ā、つまりド・ソシュールが音価を特定せずに計算式(違)で導き出した「ソナント」または「ある種の喉音」が本当に存在したことが示されているのである。一番下の例ではこのソナントが子音の後という音韻環境で母音化してブルクマンらのいうシュワーとなり、サンスクリットで公式どおり i で現れているのだ。
 さらにクリウォヴィチはすべての印欧祖語の単語はもともと語頭に喉音があった、つまりCV-だったが、後の印欧語ではほとんど消滅して母音だけが残ったとした。ただ、アルバニア語にはこの異常に古い語頭の喉音の痕跡がまだ残っている、と泉井久之助氏の本で読んだことがある。

 もちろんこの喉音理論もクリウォヴィチが一発で完璧に理論化したわけではなく、議論はまだ続いている。同じ頃に発表されたバンヴニストの研究など、他の優れた業績も無視するわけにはいかない。そもそもその喉音とやらが何種類あったのかについても1つだったという人あり、10個くらい設定する説ありで決定的な解決は出ていない。それでもこういう音の存在を60年も前に看破していたド・ソシュールの慧眼には驚かざるを得ない。私はオシャレなラング・パロールなんかよりむしろこちらの方が「ソシュールの言語学」なのだと思っている。高津春繁氏は1939年に発表した喉音理論に関する論文を次の文章で終えている。

F.de Saussureの数学的頭脳によって帰結された天才的発見が六十年後の今日に到って漸く認められるに到った事は、彼の叡智を證して余りあるものであって、私は未だ壮年にして逝った彼に今二三十年の生を与へて、ヒッタイト語の発見・解読を経験せしめ、若き日の理論の確証と発展とを自らなすを得さしめたかったと思ふのである。彼の恐るべき推理力はCours de linguistique généraleにも明らかであるが、その本領はMémoireに於ける母音研究にあり、彼の此の問題に対する画期的貢献を顧りみて、今更の様に此の偉大なる印欧比較文法学者への追悼の念の切なるを覚える。

なるほど、あくまで「Cours de linguistique généraleにも」なのであって「Cours de linguistique générale」や「Mémoireにも」ではないのだ。

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