アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語学一般

 私がこちらで大学に入学した頃はいわゆる「学部」、つまりBA・Bscという資格が大卒として認められず、人がせっかく日本で取った学士はしっかり高卒扱いされ、始めの一歩からやり直しさせられた。その私の大卒資格はMagisterといって、日本の修士に相当するものだが、専攻科目は主専攻東スラブ語学、第一副専攻一般言語学、第二副専攻南スラブ語学だった。卒業試験は結構ボリュームがあって、主専攻が合計4時間、副専攻が2時間づつの小論文と、それぞれ小一時間の口頭試問だったのだが、ウルサい事にその卒業試験の受験資格にまたいろいろ前提があって、例えば一般言語学では規定の単位を全部とってあり、修論が主専攻側に受理されている、というのが条件だった。
 ところが規定事項をよく見るとその下に小さな字で追加項目として、「少なくとも一つ以上の非印欧語族の言語の十分な知識」とあり、これを土壇場になって知ってパニクるドイツ人学生がいた。

 ドイツ人は大抵高校で英語の他にフランス語とラテン語をやってくるが、そんなものは皆まとめて印欧語、ボツである。ちょっと気の利いた高校では古典ギリシャ語もやっていたが、これも無効。たとえサンスクリットを持ち出してきても「はい、印欧語ですからさようなら」で終わり。 日頃言語コンプレックスに押しつぶされそうになっていた私はここぞとばかり高笑いしてやった。
 現に仲間が一人真っ青になって私の所にやってきて、「ねえねえ、こんな条件があるの知ってた?!あなた非印欧語なんてできる?」とか聞くではないか。聞かれた私のほうが面食らった。できるも何も母語だっての。私の顔を見なさい。

 なぜこの私に「非印欧語ができるか」などと聞いてきたのか?可能性は次の3つだ。1.私のドイツ語がうまいので私のことをドイツ語のネイティブだと思っていた。2.言語というと自動的に「印欧語」と連想してしまい、それ以外の可能性は考えてもみなかった。3.そもそも「印欧語、インド・ヨーロッパ語族」の何たるかがわかっていなかった。
 私としては1だと思いたいところだが、自らにウソはつけない、自分でもわかっているからこれは除外。3も、まさか一般言語学で修士取得直前まで来た者が「印欧語って何ですか?」というレベルであるはずはないからこれも除外。最も可能性のある理由は2、つまりあまりよく考えずにものを言ってしまったということだ。ヨーロッパには2ヶ国語以上の外国語を自由に使う人が大勢いるがそれもヨーロッパ内の印欧語族言語の場合が多く、そこから一歩外に出ると暗闇状態の場合が多い。単数形と複数形の区別とかそんなものは日本語にはありません、というとそれがもう理解できずに夜道でお化けにでも遭ったような顔をして、ではzwei Hunde(two dogs)はいったいどう表現するんだ、とマジに聞いてくる。いったいも何も簡単にzwei Hund(two dog)といったらヨロシ、と答えると、それでは計算するときどうするんだ、と突っ込んでくる。数学上の計算と犬をどう勘定するかは全く別次元の話だろ。言葉に単数複数の区別がなくても日本人は十分ノーベル物理学賞取れてるから安心するがいい。
 それにしても、ちょっと「非印欧語」と言われる度にそういちいち赤くなったり青くなったりしているようでは言語学には向かないから道端に立って信号機でもやってなさい、と内心鼻で笑ってしまった。

 ところが何年か後、今度は私の方がかつて鼻で笑った印欧語に逆襲され、私自身が信号機化するハメになったのである。
 
 博士論文提出時にもまたウルサい資格条件があるのだが、私は日本人らしく、いつもよく考えてから行動するので(ウソつけ)前々からきちんと把握していた(つもりでいた)。ところが論文を提出する前にドイツ国籍をとってしまったため、突然ドイツ人用の条件規則が適用されることになり、条件項目の最後に小さな字で「ギムナジウムでラテン語を終了していること。当地のギムナジウムを出ていない者は相応の証明書提出のこと」とあるではないか。
 もう「吾輩もボツである」とか自虐的な冗談を飛ばしている場合ではない、赤くなったり青くなったりしながら指導教官の所に飛び込んだわけだ。実は何を隠そう、私は日本でラテン語の単位をたまたま取ってはいたのである。でもそもそも動機が不純、というのは、当時のラテン語の先生が京大から来た物腰の柔らかいダンディな先生で、そのお話を聞きたさに通っていただけなので、肝心のラテン語自体は「ラ」の字も残っていない。すみません先生。
 さて、私が見苦しくもそのときの単位証明を持参したら、指導教官の先生はそれを見もしないであっさり、「ああ、このラテン語規則ね。今度スラブ語学科では廃止する予定です」とのことで、それでも念のため学長宛に一筆、「人食いアヒルの子が日本の大学で受けたラテン語の知識はドイツのギムナジウムのラテン語の単位に相当する」と、ほとんどウソを書いて下さったので事なきを得た。 まったく寿命が10年くらい縮んだじゃないか。

 しかしスラブ語以外、例えば英語学やドイツ語学にはラテン語が必須なわけだ。話によると現在でも公式には「ドイツの大学の公式言語はドイツ語・英語・フランス語・ラテン語」であって、学生はゼミのレポートをラテン語で書いてもいいそうだ、書けるもんなら。ラテン語ができなくても学位をくれたスラブ語学部でも、フランス語、英語、ドイツ語は誰でもできるものとみなし、論文やレポートでほかの論文を引用する場合、当該論文がこれらの言語で書かれていた場合は(スラブ語学科ではそれに加えてロシア語も)翻訳しなくていい、という規則があった。

 外国人は一律でこのラテン語条件が除外されるのだろうか、それともドイツでドイツ語学を勉強している日本人はまさか全員あの京大の先生から(である必要はないが)ラテン語を教わって来ているのだろうか?


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 うちに古いロシア語の教科書が何冊かあるのだが、その一つを何気なくまた覗いてみたら例文がレトロで感激した。ドイツのLangenscheit(ランゲンシャイト)社発行で、初版が1965年、私の手元にあるのは1992発行の第9刷である。そこの例文にこういうのがある。

Товарищ Щукин – рабочий. Сейчас он работает. Он работает хорошо, очень хорошо.

同志シチューキンは労働者です。彼は今働いています。彼はよく働きます、とてもよく働きます。

なんという感動的な文だろう。そう、この教科書が書かれた頃はソビエト連邦真っ盛りだったのだ。もう一冊、ドイツ発行でなくソ連で印刷された教科書(1991年発行)にはこういう会話例がのっている。

– Скажите, пожалуйста, коллега, когда был открыт Московский  университет?  – спрашивает Эдвард.
– В 1755 году, его основал великий русский учёный Михаил Васильевич Ломоносов.
– А сколько студентов учится в университете?
– Около 30 тысяч. И здесь работает почти 8 тысяч профессоров и преподавателей, среди них 126 академиков.

「教えてください、同僚の方、モスクワ大学はいつ開かれたのですか?」とエドワルドが尋ねる。
「1755年に偉大なるロシアの学者ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフが創立しました。」
「ではどれだけの学生がこの大学で勉強しているのですか?」
「3万人くらいです。さらに、ここではほぼ8千人の教授と講師が働いています。そのうち126人がアカデミー会員です。」


こういうのを「シビれる会話」というのではないだろうか。「同僚の方」という呼びかけといい、「偉大なる」という形容詞といい、「ロモノソフ」と苗字だけ言えば済むところをわざわざ「ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフ」とフルネームを持ち出すところといい、「126人のアカデミー会員」とか妙に正確な数字といい(単に「100人以上」とか言えば十分ではないか)、そしてそもそも会話の内容が完全にプロパガンダっているところといい、もうソ連の香気が充満していてゾクゾクする。

 もっとも言語学の専門論文にも面白い例文は多い。妙に時代を反映しているのだ。1960年代に書かれた論文の例文には「ケネディ」や「フルシチョフ」が時々使ってあったし、1990年ごろは「クリントン」が登場した。Enric VallduvíとElisabet  Engdahlと言う学者が1996年に共同執筆した論文にはGorbatschow ist verhaftet worden(ゴルバチョフが逮捕された)という例文が見える。

 日本人で例文の面白い言語学者というと、ハーバード大の久野暲教授ではないだろうか。私のお奨めはこれだ。以下の2文を比較せよ。

a. 強盗僕の家に入った。 その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。

b. 強盗とコソ泥僕の家に入った。強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。コソ泥黙って、カメラを取って家から出て行った。

これはマサチューセッツ工科大学が発行している言語学の専門雑誌Linguistic Inquiryで1977年に発表されたものだ。だから原文は英語、そして日本語はローマ字で表記してある。ほとんどダーティ・ハリーの世界だが、後にSenko Maynardという学者が別の論文でこの例文をさらに次のようにバージョンアップしている。

強盗僕の家に入った。
その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。
その時友達の山中さん部屋に入ってきた。
山中さんドアのそばにあったライフルをつかむと、あたり構わず撃ち出した。

これも英語論文だが、論文本体はどちらも談話を分析、あるいはセンテンスの情報構造を論じている、理詰め理詰めの非常に堅い内容。その本体の堅さと例文のダーティ・ハリーぶりとの間に落差がありすぎて読んでいると脳が悶えだす。考えると学者というのは本論のデータ分析にギリギリの根をつめないといけないし、そこでは実証のできない単なる思弁や想像が許されない、つまり芸術性を発揮できる機会が少ないから、例文作成にここぞとばかり創造力をつぎ込むのではないだろうか。

 あと、外国人のための日本語の教科書にも次のような例文を見つけた。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『七人の 侍』です。 古いですが、とても おもしろい 映画です。

たしかにその通りなのだが、『七人の侍』では当たり前すぎてちょっとインパクトに欠けるきらいがありはしないか。私が日本語教師だったらこうやってやる。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『続・荒野の用心棒』です。 エグいですが、とても おもしろい 映画です。

『続・荒野の用心棒』の代わりに『修羅雪姫』でもよかったかもしれない。これなら一応日本映画だし。


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 人からちょっと聞かれたことがあって大学図書館から古教会スラブ語の教科書を借り出したことがある。何気なく筆者の名前を見たらアウグスト・レスキーン(A. Leskien)だったのでびっくりした。ドイツ青年文法学派(Junggrammatiker)の主要メンバーだった人だ。

 19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
 レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。

 さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。

 こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。

 トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
 トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。

 「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):

Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.

「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」

 ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
 すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。

 それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。

「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」

 ヴェントリスとは差がありすぎる…。

 ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。


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 日本語では形が似ているので「言語学」と「語学」は頻繁に混同されるが、ドイツ語だと前者はLinguistikあるいはSprachwissenschaft(シュプラーハヴィッセンシャフト)、後者がFremdsprachen(フレムトシュプラーヘン、「外国語」)と全然違う語で表すのできちんと区別してもらえる。この二つは本質的に全く異なるもので、その違いをさる音声学の教授は次のように説明している。
 
「『語学』と呼ぶのは技術論であるのに対し、『言語学』は科学(サイエンス)である。換言すれば、語学における究極の目的は、或る言語を読み、書き、話し、聞くことができるようにすることである。これに対し、言語学の方は、人類の営む言語を客観的な視点から構造や体系に分析し、ユニバーサルな尺度によってこれを記述し、説明することを究極の目的にしている」

 喩えでいえばこういうことだろう。鳥類学者は鳥の飛行のメカニズムを観察し、生物学者はゾウリムシの原形質流動の様子を記録するが、だからと言って自分が素手で空を飛びたいとか細胞分裂・クローン技を体得しようなどとは思っていない。言語学者も同じで、「ネイティブはどうしてこの言語がしゃべれるのか」、「人はどうやって第二言語を獲得するのか、どうやったら効果的か」、「この言語のしくみはどういう風になっているのか」それらの事自体が知りたいだけで、自分がその言語をペラペラしゃべってやろうなどと大それたことは考えていない場合が多い。 実際語学の苦手な言語学者などゴロゴロいる。それはちょうど数学者や物理学者が、必ずしも暗算が得意だとは限らないのと同じことだ。
 もちろん数学者や物理学者は数(ここは「かず」でなく「すう」である)というものと日常接しているから暗算が早い人だっているだろうし、言語学者も言語をいじるのが商売だから自然に外国語が出来るようになってしまう人もいる。ただ、それが目的ではないし、苦手でも商売の決定的な支障にはならない。それこそ自然科学系の学者や芸術家、ビジネスマンなどのほうが言語学者なんかよりよっぽど語学が得意なのではないだろうか。

 すこし前、本屋で知らない人とつい立ち話になってしまったことがあるが、聞いてみたら物理学の学生さんだった。その人が「物理学を専攻しても純然と物理で食べていける人なんてほとんどいないですよ。物理それ自体は日常生活から遊離した、全く役に立たない理論です。で、先生やったり企業で電気いじったり機械を作ったりまあ、応用で食べていってるわけで。」と言っていた。それと同じで言語学も日常生活からは完璧に遊離していて、それ自体では絶対生活していけない。なんとか応用してやっていっているわけだ。失語症の治療にあたったり、IT技術者とくっついて自動翻訳を開発したり皆食べていくのに必死だが、語学教師というのもそれら「応用」の可能性のひとつではある。だから語学の教師には純粋な語学教師と言語学崩れが混ざっているのだ。

 ところで、語学の教師が語学系か言語学系か見分ける方法がある。「ここはどうしてこうなるんですか」と質問した際、「とにかく○○語ではそういうんです。覚えましょう」という類のことを連発する人は語学系、それをクドクド説明し始める人は言語学系である。ただ、そこで一生懸命説明してくれてはいるのだが、その説明が全く常人の理解できない単語・言い回しで結局質問者は前よりもっとわからなくなり、質問をしてしまったことを後悔して「下手に質問するべきじゃないな、これからはここはこうだ、とただ覚えることにしよう。その方が早い」と自分から悟ってしまうため、結果的には「覚えましょう」の語学系教師と同じことになるのである。そこでなされた説明にあくまで食い下がるタイプの人は言語学には向いているかもしれないが、語学そのものはいつまでたっても上達しない。常にその調子でなかなか先に進めないからだ。
 また、「○○語ってどんな言葉ですか?」と聞いたとき、「○○語で「こんにちは」は×××ですよ」という方向の答えをする人は語学系、「○○語は帯気と無気を区別するんですよ」とか「能格言語です」とか言い出すのは言語学系である。これは逆も真なりで、「○○語で「こんにちは」はなんて言うんですか?」などとすぐ聞いてくる人は語学系、「○○語にはどんな音素がありますか?」的な質問をする人は言語学系と見なしていい。
 もう一つ、言語学系の人には「その言い方は正しい」とか「間違いだ」といった規範的な表現に対してアレルギー反応を起こす人がいる。「正しい」の代わりに「その言い方は許容されている」、「間違っている」の代わりに「現段階ではまだその言い方は当該言語社会では使われていない」という。言われた学習者はその言い方をしていいのか悪いのかいまひとつよくわからない。小学校の国語の先生が目のカタキにしている「食べれる」「見れる」なども言語学系の人は拒否しないだろう。「その形は類推によって現代日本語に広く浸透しており、事実上許容されている。」で終わりだ。言語学系の教師がOKを出した言い回しを他で使って直され、「あの野郎デタラメ教えやがったな」と矛先を言語学者に向けられても困る。言語学の文法は「規範文法」ではなく、「記述文法」だからだ。

 これだから、一般言語学系の人が語学を教えると生徒は出来るようにならない、と言われるようになるのだ。これは別に被害妄想で言っているのではない。私が日本語教師の口を捜して面接に行った先で、専攻が一般言語学だとバレると露骨に引かれたことが本当に何回かあるのだ。「授業はあまり言語学的にならないように会話を覚えさせることを重点にしてください」とはっきり牽制されたこともある。しかしたしかにその通りなので、何も言い返せない。「皆さんよくわかっていらっしゃる」としか言いようがない。
 もちろん一口に言語学と言っても範囲が広いから、中には応用言語学など言語教育と直接つながっている分野もあるし、最初に誰かが当該言語を科学的に分析調査、そして記述をしなければそもそも文法書も教科書も作れないわけだから、「言語学は語学の邪魔」とまでは言えまい。でもこの両者の微妙だが根本的な姿勢の差ははっきりしている。
 
 そういう事を以前コンコンとさるドイツ語のネイティブに訴え、「私は言語学専攻なんだから語学が苦手なのは当たり前だ。名詞の性を間違える度にいちいち揚げ足とるな!」と諭したら敵は「なんでそんな簡単なもん間違えるんだよ。名詞の性おぼえるなんてオウムにだってできるよ」と来た。それでは私はオウムより頭が悪いというのか。そんなことはない、オウムはたしかに文法上の性も含めてセンテンスをまる暗記して発音するのは私より上手いかもしれない。だがオウムにはこういうエッセイは書けない。「言語の分節性」というものが理解できず、言語を構造を持ったひとつの体系として捉えられないからだ。   


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 おおまだこんな物が本棚にあったのかと、ふと学生時代に使った「言語学入門」の教科書(Studienbuch Linguistik)をめくって見る、内心「ふふん、入門書か」という感じでエラそうに高をくくって覗いたつもりが、改めて読み始めてみると「ふふん」どころではない、面白い、というか何を隠そう本当に勉強になってしまう。「そうか、あれはこういうことだったのか!」などといまさら感動する。こういうことをいまだにやっている私がいつまでたっても専門家になれないのは当たり前か。

 しかし以前にも誰か「入門書というのはド素人が読むものではありません。ある程度専門知識をつけた人が、自分の知識に穴がないか、自分の立場は全体からみるとどういう所にいるのか、他の人は大体どういうことをやっているのか確認するために読むものです」と言っていたが、当時は「まーたまた先生、逆説的ないい方してカッコつけちゃって」とか鼻であしらってしまった。私が浅はかだった。ほんとうにその通りかもしれない。
 しかしそうなるとその「ド素人」はどうやって勉強したらいいのだろう?地道に専門論文を読んでいくしかないのだろう。最初(まあそれが最初だけですめばいいのだが。私はいまだにこれだ)何を言ってるのか全くワケがわからない、蚊が石を刺している思いなのを、人に聞いたりしながらいくつも論文を読み進み、次第に専門書が理解できるようになっていく。これしかないのだ、きっと。
 そういえば昔筑○大学で受けた「音韻論概説」という授業がこんな感じだった。「概説」とは名ばかりで、教授はチョムスキー直下の生成音韻論の専門家だったが、カイザーという人とキパルスキーという人が共著で当時MITから発表したばかりの湯気のたっているガチな論文を学生に読ませたのである。この著者は有名な学者なので生成文法をやった人なら知っているのではないだろうか。「オートセグメンタル音韻論」とかを展開していた人たちである。まあ英語学専攻者なら他の授業でも生成文法をやってもらっていたからまだいいだろうが、私はそもそも英語そのものがあやしい「元美系」(『11.早く人間になりたい』の項参照)である。タイトルがすでにちんぷんかんぷんだったが、もちろん内容も見事なまでに理解できなかった。20ページか30ページのペーパーだったから、慣れた人なら1時間もあれば内容がスースー把握できただろうが、私は毎晩何時間もかけて2ページくらいづつ亀の歩みで読んでいくしかなかった。1ページ読み進むと前に書いてあったことを忘れて話が見えなくなるのでしょっちゅう逆戻りしたから、亀というより自分の尻尾を咥えていつまでも同じところを回っている蛇の心境だ。仕方がないから前を忘れないように余白に「あらすじ」をメモしつつノロノロすすむ。その学期では精神エネルギーを全部カイザー&キパルスキーに吸い取られて他の授業の勉強が全然できなかった。
 え、なぜそこまでしてそんなもんに付き合ったのかって?仕方ないだろう、最後に期末試験があったし、その単位は必須だったんだから。逃げが利かなかったのである。
 その期末試験の設問の一つを今でも覚えている。「キパルスキーは/ts/を二つの音素と見なしているか破擦音として一つの音素と見なしているか、その論拠も書きなさい」というものだった。ペーパーでは英語の音をそれそれウルサく細かく機械で音声解析した図表だのグラフだのを総動員して英語の音韻構造を考察していっていたが、英語のtsは破擦音として一音素とみなすべきである、というあまりスリルのない結論に達していた。その結論に至るまでの論旨をかいつまんで回答したのを覚えている。ただし覚えているのは「答えを書いたということ」だけであって、答えに何を書いたかは完全に忘れた。「忘れた」というよりはなから自分でも自分の書いている事がわかっていなかったのだ。ほとんど夢遊病者である。

 さて上にあげたこの「入門書」だが、何もない所からいきなりこういうことを言われて(143~144ページ)そもそも理解できる人、まして「そういうことか、これは面白い!こんなに面白いものならば私は是非言語学がやりたい!」などと思う人がいるのだろうか(いるかも知れない。世界は広いから):

「『完全解釈可能の原則』とは、表出された言葉はLFまたはPFにおいて完全に解釈できなければならない、つまり音声的にも、意味的にも解釈不可能ないかなる素性(そせい)をも示してはいけない、という意味である。さらに『素性(そせい)照合』で句内の素性がそれぞれの機能ヘッド(3.3.2章と比較せよ)と照合され、それらが一致すればハズされる(チェックされる)。解釈不可能な素性(そせい)が照合で消去されてしまうので、もう解釈の邪魔ができない。もし素性照合で付き合わされた要素間を『一致』(Agree)が支配しない場合はその素性を消去することができない。」

原文はこれだ。何も私がワザと理解しがたい訳をつけているのではないことがわかって貰えると思う。

Das Prinzip der vollen Interpretierbarkeit besagt, dass ein sprachlicher Ausdruck auf LF und PF voll interpretierbar sein muss, d.h. dass er keine phonetisch oder semantisch uninterpretierbaren Merkmale aufweisen darf. Bei der Merkmalüberprüfung werden nun die Merkmale der Phrase mit den Merkmalen des jeweiligen funktionalen Kopfs (vgl.3.2.2) verglichen und – falls sie übereinstimmen – ‚abgehakt’(gecheckt). Die uninterpretierbaren Merkmale werden beim Checken gelöscht und können so die Interpretation nicht mehr ‚stören’. Falls bei der Merkmalüberprüfung keine Übereinstimmung (Agree) zwischen den Merkmalen herrscht, kann das Merkmal nicht gelöscht werden.

執筆者は abgehakt や stören などの「普通の」言葉を使ったりして、一応素人にもわかるような説明をしようとしている様子は見て取れるのだが、むしろそれが裏目に出ている感じ。こんなのだと読むほうは、「ああ、ここまで一生懸命気を使ってもらっているのにそれでもわからない自分はなんて才能がないのだろう」と自信喪失して専攻を変えてしまうんじゃないか?

 この本は複数の学者が共同で書いた教科書の中の「生成文法」についての記述だが、同じ分野でも英語の入門書は次のような言い回しで説明している。わかりやすさで有名な A.Radfordという人の書いたSyntax:A minimalist introductionから(120ページ)。

「ここの私たちの議論から出てくるのは、定形動詞が強い呼応素性(そせい)を持つか弱い呼応素性をもつかという点に関して言語間でパラメーターに違いがあるということ、そしてそれらの素性の相対的な強さが助動詞以外の動詞がINFLまで上昇することができるかどうか、またゼロ主語が許されるかどうかを決めるということだ。けれど、それなら動詞に強い呼応素性のある初期近代英語のような言語でなぜ動詞がVからIに上昇できるのか、という疑問がわく。これに対しての答えの一つをチェック理論で出すことができる:ムーブメントが他の場合ならチェックされないで残る強い素性をチェックする、と仮定してみよう。」

What our discussion here suggests is that there is parametric variation across language in respect of whether finite verbs carry strong or weak agreement-features, and that the relative strength of these features determines whether nonauxiliary verbs can raise to INFL, and whether null subjects are permitted or not. However, this still poses the question of why finite verbs should raise out of V into I in language like EME  where they carry strong agreement-features. One answer to this question is provided by checking theory: let us suppose that movement checks strong features which would otherwise remain unchecked.

単語や内容が難しいのはドイツ語の入門書も英語の入門書もドッコイドッコイなのだが、英語のほうは読むほうが話しかけられている、つまり相手にされている雰囲気が伝わって来る。「です・ます体」で訳したくなるくらいだ。この著者は別の箇所で「ちょっと進み方が速すぎたかもしれない。もう一度前の例に戻って…」というような言い回しを使っているほか、時々本当に冗談を言うので「普通の読み物」として通用するのではないだろうか。

 実は他の場合でもドイツ語圏と英語圏との「入門書」には温度差というか態度というかに違いがある。ドイツ語の入門書からは上にも挙げたような、「ホレこれを読め」的な突き放したニュアンスを時々感じるのだが、英語の教科書は素人にも優しい。ただ、上のドイツ語の著者は学生ばかりでなくチョムスキーをさえ突き放していて、読むべき文献としてチョムスキーの名を挙げる際(147ページ)、

Chomsky: Immer noch richtungsweisend (und immer noch schwer lesbar) sind die Arbeiten von Chomsky (1992, 1995a und b, 2001, 2003).

チョムスキー: 今だに指導的な役割は失っていない(そして今だに読みにくい)のがチョムスキーの著書(1992, 1995a und b, 2001, 2003).

と堂々と書いている。つまり上で暗に示したかったのは「生成文法がわからないのはわざと難しい言い方をしているからです。わからなくても結構です。何もこれだけが言語学じゃありませんから。ふふん」ということか。どうもそういう気がする。そういえば上の箇所で stören などの普通の言葉を専門用語と並立してあるのも、「こいつらはやたらと難しい特殊な単語を使ってますが、ナーニ大したことはない、要は単にこういう意味ですよ」と、わかりにくいことをわかりにくい言葉でわかりにくく表現する生成文法系の用語の特殊性をおちょくっているのかもしれない。ドイツ人のユーモアと言うのはちょっと屈折していてついていくのが大変だ。


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 一般言語学の教授が一度国粋主義・民族主義を嫌悪してこんなことを言っていたことがある。

「ナチスがヨーロッパのユダヤ人やロマを「浄化」したが、彼らの母語イディッシュ語やロマニ語がどんなに言語融合現象の研究やドイツ語学にとって重要な言語だったか彼らにはわかっているのか(わかってなかっただろう)。そんな貴重な言語のネイティブ・スピーカーをほとんど全滅させてしまった。惜しんでも惜しみきれない損害。」

さらにいわせて貰えばプラーグ学派の構造主義言語学が壊滅してしまったのもトゥルベツコイが早く亡くなったのもヒトラーやスターリンのせいである。ネイティブスピーカーばかりでなく研究者までいなくなっては研究は成り立たない。それまでは世界の言語学の中心はヨーロッパだったが以後は優秀な学者が亡命してしまったためと、国土が荒廃して言語学どころではなくなったため、中心がアメリカに移ってしまった。

 そもそもナチスがやたらと連発した「アーリア人」という名称は実は元々純粋に言語学の専門用語で、人種の民族のとは本来関係ないのである。「アーリア人」という用語を提唱したフリードリヒ・ミュラーという言語学者本人が1888年にはっきりと述べているそうだ。

「私がアーリア人という場合、血や骨や髪や頭蓋のことなど考えているのではないと、何度も繰り返してはっきりと言ってきた。私はただ、アーリア語系の言語を話す人々のことを言っているにすぎないのだ。アーリア人種とか、アーリアの血、アーリアの眼、アーリアの髪などという民俗学者は、私には、短頭の文法などという言語学者とまったく同じ罪人のように思われる。」

だからもしアメリカ生まれの日本人が英語を母語として育てば立派なアーリア人だし、そもそもロマはドイツ人なんかよりよっぽど由緒あるアーリア人である。
 上で述べた教授も、「ナチスのせいで本来中立な言語学の用語であった「アーリア語族」という用語が悲劇的な連想を誘発するようになってしまい、使えなくなった」と嘆いていた。だいたい「印欧語」という折衷的な名称は(ドイツで以前使われていた「インド・ゲルマン語族」は論外)不正確な上誤解を招くのでできることなら使わないほうがいいのだ。これだと「インド」と「ヨーロッパ」との間に一線画せるような間違った印象を抱かせる上、インドで話されているのは印欧語だけではないからこの名称は本来全く意味をなさない。普通の神経を持っている者ならヒッタイト語やトカラ語を「インド・ヨーロッパ語族」などとは呼びたくないだろう。「アーリア語族」という名称が使えれば全て丸く収まるのである。
 その、本来最適であった中立的名称を使えなくしてしまったのは言語学ドシロートの国粋主義者である。もっとも「母語」、「民族」、「国籍」という全く別の事象を分けて考えられない人は結構いるのではないだろうか。

 さて言語学者が嫌うのは特定の言語話者を低く見ることばかりではない。その逆、特定の言語を他言語より優れたものと見なして自己陶酔する民族主義者も嫌悪する。
 時々、安易に「日本語は世界でも特殊な言語だ」とか「優れた言語だ」と言って喜んでいる人がいる。不思議なことにそういう、「日本語の特殊性」と無闇に言いだす人に限ってなぜか比較対照にすべき外国語をロクに知らなかったり、ひどい場合は日本語を英語くらいとしか比較していない、いやそもそも全く外国語と比較すらしていない場合が多い。難しいの珍しいのなどといえるのは日本語を少なくとも何十もの言語と比べてみてからではないのか?日本語しか知らないでどうやって日本語が「特殊」だとわかるのだろう。例えば日本語を英語と比べてみて違っている部分を並べ立てればそりゃ日本語は「特殊」の連続だろうが、裏を返せば英語のほうだって日本語と比べて特殊ということになるのではないだろうか。そもそも特殊でない言語なんてあるのだろうか。
 以前筑波大学の教授だったK先生が、この手のわかってもいないのに得意げに専門用語を振り回す者(例えば私のような者とか)に厳しかった。私は直接授業は受けたことはないが、書いたものを読んだことがある。どこの馬の骨ともわからない者の書いたエッセイ(例えばこのブログとか)とか評論、時によると小説などを鵜呑みにして「日本語は特殊で世界でも珍しい言語だ」とかすぐ言い出す人々を先生は、Japan-is-unique-syndromeと揶揄、つまりビョーキ扱いしていた。いったい日本語のどこが珍しいのかね? 母音は5つ、世界で最もありふれたパターンだ。主格・対格の平凡きわまる格シスム。「珍しい」と自称するなら能格くらいは持っていてから威張ってほしいものだ。

 確かにこれら言語学者たちの言葉はヒューマニストのものとして響く。そこに共通しているのは人間を肌の色や民族で差別することに対する怒りだからだ。しかし私はこれを「ヒューマニズム」と呼んでいいのか、と聞かれると無条件で是とは答え得ないのである。意地の悪い見方をすれば上の教授が痛恨がったのは言語の消滅であって人間の消滅ではないからだ。
 たしかに実際問題として言語はネイティブスピーカーという人間なしでは存在しえないし、「言語」は人間として本質的なものだ。「人類は言語によって他の動物から区別される」「言語がなかったら文明も文化も、つまり人類の創造物はすべて存在し得なかった」と本に書いてあるのを何回も見た。だから言語と人間は不可分なわけで、その意味では上の言語学者は結果としてヒューマニストである。その怒りは事実上人間を差別したり、自分たちを特殊な存在と考えたりすることへの嫌悪なのだが、いわゆるヒューマニズムとは完全にはイコールでないような気がしてならない。

 言語学者にあるのは、未知の現象と遭遇しえた喜び、あるいは話には聞いていた・理論としては知っていたが実際には見たことがなかった現象(言語)を実際にこの眼で目撃しえたという純粋な喜びだ。確かにこういう純度の高い喜びの前では国籍の民族の肌の色の眼の色のなどという形而下の区別など意味をなさないだろう。
 実は私もさる言語学の教授を狂喜させたことがある。私の母語が日本語だとわかると、教授は開口一番、「おおっ、では無声両唇摩擦音をちょっと発音してみてくれませんか?」と私に聞いてきた。そんなのお安い御用だから「ふたつ、ふたり、ふじさん」と「ふ」のつく単語を連発してみせたら、「うーん、さすがだ。やっぱりネイティブは違う」と感動された。後にも先にもこの時ほど人様が喜んてくれたことはない。
 でもこれを「ヒューマニズムの発露」と受け取っていいかというと大変迷うところだ。

 しかし一方ヒューマニズムという観念自体定義が難しいし、「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もあるように「結果としてヒューマニズム」「事実上のヒューマニズム」というのもアリなのではないかとは思う。最初に抽象度の高いヒューマニズムという観念が与えられて各自がそれを実行・実現する、という方向とは逆に、最初に各自それぞれ人間という存在に何かしら具体的な尊厳を感じ取って守る。言語学者は言語がそれだが、他の人はまた人間の別の要素に犯しがたい崇高なものを感じ取る、そういう、各自バラバラに感じ取った神聖不可侵感をまとめあげ積みかさねていったものが「ヒューマニズム」という観念として一般化・抽象化される、そういう方向もアリだと。


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