アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > その他の国(含非ヨーロッパ)

 用事でGという町まで電車で行った時、途中の「鬼門」L中央駅(『28.私のせいじゃありません』参照)につく前の車内アナウンス、「降車口は左側です」というのがフランス語で入ったことがある。 
 英語のアナウンスなんかはしょっちゅうなので何とも思わない、というよりいつも「こんな田舎の電車で英語アナウンスなんてしたって仕方ないでしょに、カッコつけんなって」とせせら笑いながら聞いているのだが、フランス語というのは初めてだったので内心「おっ」と思った。たしかにここはフランスから遠くないが、あくまで「遠くない」であって、決して「すぐ近く」とはいえない距離だからだ。それから何駅かしばらくの間シーンと聞き耳を立てていたが、とうとう二度とフランス語はやってくれなかった。
 それがきっかけというわけではないが、その後しばらくしてちょっとフランスまで行ってみた。その路線を目的のG駅で降りずにそのまま進むとフランスに突っ込むのである。当時はG駅までの一日乗車券とその先のほうにあるLauterbourg(ロテルブール、ドイツ語ではラウターブルク)というフランスの町がギリチョンで射程内に入る一日券とが同じ値段だった(往復キップになると後者の方が高かった)ので、またG駅まで行く用ができた際少し余分に出して一日乗車券を買い、Lauterbourgまで行ってみたのだ。一人で行くのは心細かったのでフランス語のできる(はずの)ドイツ語ネイティブを連れて行った。
 まずGで用を済ませた後、さらにもと来た路線にのって先に進むとWörth(ヴェルト)という駅に着くのだが、こことLauterbourgとの間のたった5駅ばかりを往復している路線があるのでそれに乗り換える。

Bahnstrecke_Wörth–Strasbourg
ヴェルト-ストラスブール間の路線図。ロテルブールの前の小さな丸はBerg(ベルク)という駅でこれが「ドイツ最後の駅」である。そことロテルブールとの間に国境線が走っているのが見える。

毎日毎日たった5駅を行ったり来たりしているというのも筑波大の学内バスより空しい感じだが、ここの「次の停車駅は○○です。降り口は向かって右側です」さらに「次の○○が終点です、○○路線をご利用ありがとうございました」とかいうアナウンスが全てドイツ語とフランス語の二ヶ国語になっていた。もしかしたら私が以前にL中央駅で聞いたフランス語アナウンスは、運転手がボタンを押し間違えてうっかりフランス語を流してしまったためかもしれない。録音の声が全くおなじだった。この段階ですでに外国感爆発だったが、目的地Lauterbourgに実際に行って見てまた驚いた。

1.駅の表示、「何番線」とか「出口・入り口」などが全部フランス語。

2.時刻表、「月曜日から金曜日」「土曜のみ」とかいう指示も全部フランス語。おまけに時刻表はドイツのみたいにダサい白黒でなくオシャレなカラー印刷。ただテキストが読めないのがキツイ。

3.時刻表を見ていたら隣にいたおっちゃんがフランス語で話しかけてきたのでビビリまくり。

4.町をちょっと散歩したら、通りの名前とか行き先案内から何から全部フランス語。

5.バスの停留所とかに貼ってある広告も全部フランス語。

6.そこら辺に止まっていた水道屋さんのらしいバンにかいてある多分「電話一本で迅速工事」とかいう意味らしき宣伝文句が全部フランス語。

7.そこに書いてあったメールのドメインが○○.fr!

8.肉屋さんとか美容室の看板も全部フランス語。

9.極めつけは、道でボールけって遊んでいたガキンチョどもの会話が全部フランス語!

10.町の名所・旧跡とかにはフランス語とドイツ語で説明があったが、そのドイツ語に何気に誤植がある。

もう最後には向こうから人が来るたびに「話しかけられたらどうしよう」という恐怖のあまり冷や汗が出てきた。連れの「通訳」も「○○通り」とか「入り口・出口」「本屋」くらいは読めたようだが、あんまり私がいちいち「これ何てかいてあるの」「これ何これ」と聞くのでしまいには「そう毎回聞かれたって困る。俺だってわかんないんだ!」とヒステリーを起こした。 
 この調子だと一旦道に迷ったらもう一生ドイツに帰れなくなりそうなので、あまり深入りせずにチョチョッと通りをひとつ散歩してそそくさと帰ってきてしまった。以前「アルザス・ロレーヌは表示とか全部バイリンガルだし、皆ドイツ語を話してますよ」とか言っていた学生がいたので鵜呑みにしていたが、ウソではないか。

 しかし町は全体として隣接するドイツのよりこぎれいで、いかにもフランスの政府からお金を貰ってそうだった。そもそもこんな辺鄙なところにストラスブールまで電車路線が引いてあること自体、フランス政府がアルザス・ロレーヌに力を入れているのを垣間見た気がしたのだが、アルザスには原発が多いからひょっとしたらそんなことで潤っていたのかもしれない。今は原発の未来がちょっと危うくなって来たがあの町はどうなっているのだろう。あと、他に見るところもないから道に立っている家の表札を見て歩いたのだがJean-Luc Scholzなどという苗字はドイツ語名前はフランス語というパターンが大半だったのが印象に残っている。
 さらに思い出すと、信号機がドイツとは全く違う形でこれも無骨なドイツのと違ってしゃれたデザインだった。

 帰りも帰りで電車を待っていた時、例によって駅のアナウンスがフランス語で(当たり前だ)入ったが、それを聞いた通訳が「あっ、俺たちの電車のことだ」とか言うので私が「その俺たちの電車がどうしたのよ」と聞いたら「そこまではわからない」とかこきやがった。肝心の情報内容が聞き取れなかったらどうしようもないだろうがこの野郎。
 この調子でうっかり乗る電車の方向を間違えてストラスブールまで連れて行かれたらエライことになるので、さらに「ちょっとそこの人にこの電車が本当にWörthに行くのかどうか聞いてみてよ」と頼んだ。「ちょっとお尋ねしますが、この電車はドイツに行くんですか?」くらいのフランス語を話してくれるかと思いきや、たった二語(しかもドイツ語で)「Nach Wörth?(to Wörth?)」。そんなんだったら私にも出来るわ。

 実は私はこれが人生で2度目のフランス訪問である。最初はもうかれこれ28年も前、日本からドイツへ行くのにスケジュールの合う便がなくて、パリまで飛んでそこから電車でドイツに入ったのだ。夜にシャルル・ドゴール空港についたがもう不安で死ぬかと思った。そこから「パリ北駅」まで何らかの交通機関を使って行かなければならなかったのだが、道に迷ったらもう最後だ。人に聞くことができないからだ。いや、仮に聞けたとしても答えが理解できないから聞けないのと同じことだ。今思い出すと自分でもどうやってそんなことができたのかわからないが、飛行機の中で一生懸命発音練習しておいたAllemagne とGare du Nordを連発して切り抜けた。とにかく目的の電車に乗ってベルギーを通り抜けドイツにたどり着けたのである。夜行だったので窓外は真っ暗で何も見えなかったが、どうせ車内でビンビンに緊張したままずっと前を向いていたから外の景色など見えたところで楽しむ余裕などなかったろう。朝方「アーヘン」というドイツの駅名を見たときは地球に帰還したジェーンウェイ艦長の気分、というと大袈裟すぎるがホッとするあまり緊張の糸が切れて一気に年をとった気がした。

 私は言葉の通じない国に行くのが怖い。が、「怖いもの見たさ」というのは私にもある。


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 何年か前、オーストラリアのラジオ局の軽はずみな冗談が人を一人死なせたことがあった。

 当時第一子出産のためにケート妃が入院していた病院にDJが二人して英王室の者を装ってイタズラ電話をかけ、中の様子を聞きだそうとした。電話対応に慣れているいつもの職員がその時たまたま電話を取らず、看護婦さんの一人が電話をとったが、有名人に対してマスコミがよくやる低俗な突撃レポート的な攻勢に慣れておらず、電話をを真に受け、「わかりました、ちょっとお待ちください」と丁寧にとりついで内部の者につないだ。つながれた人は別の職員だったが、王室の者だと最初の看護婦さんがつげたため、内部の様子をいろいろ話してしまった。そのやり取りをオーストラリアのDJたちはラジオで曝し、DJは自分のツイートで「あそこまで簡単に引っかかる人も珍しい」とか何とか騙された看護婦さんを嘲笑った。ところがその看護婦さんは恥ずかしさと責任感から自殺してしまったのである。あとには夫と子供たちが残された。
 その直後はさすがにDJ二人もラジオ局も一応の誠意は見せて神妙に謝罪したが、さらにその後DJの一人がオーストラリアで何かの賞をとったと記憶している。視聴率、というか視なしの聴率を稼いだからだ。本当に後味の悪い事件だったが、これはこういうことを企画したラジオ局やそれをやったDJだけを責めてすむ問題ではないと思う。人が引っ掛けられたりかつがれたりするの見るのが面白いと感じる人が世の中にいる限りこの手の番組は製作され続けるだろう。ある意味では私たち視聴者がこの真面目な看護婦さんを死に追いやったのである。

 さて、そうやって亡くなられた看護婦さんはJacintha Saldanhaという名前のインド人だった。この苗字だが、-nh-という綴りが入っていて明らかにポルトガル語ではないか。hをnの後ろにつけると口蓋化のn、つまりニャ・ニュ・ニョとなるはずだ。名前のJacinthaのほうも見るからにヨーロッパ系で、調べてみたらギリシャ語の「ヒヤシンス」と同源だそうだ。この名前の別バージョンとしてcinthaという形もある。英語のCinthiaあるいはCynthiaと似ているがこちらのほうは全く別語源である。
 どうしてインド人がこういう名前なのか気になってさらに調べてみたら、ヴァスコ・ダ・ガマの時代からインド(の一部)では途切れることなくポルトガル語が母語として話されているらしい。ゴアは1947年にインドがイギリスから独立した時も、香港やマカオと同じく本国のインドには属さず、当時のサラザール政権はインドの度重なる返還要求にも首を縦に振らなかった。シビレを切らしたインド政府が強硬手段に出てゴアを占領し、ここを事実上インド領にしたのはやっとつい最近(でもないが)の1961年のことだ。さらにそれをポルトガル政府が承認したのはサラザールの死後、1974年のことである。故人はMangaloreというゴアの近くの町の出身だったが、ゴア周りばかりでなくインド南東部にもポルトガル語地域がある。そういえば「カースト」という言葉はもともとポルトガル語だったはずだ。
 確かに現在では英語やヒンディー語に押されていってはいるが、年配の人にはポルトガル語を母語とする人がまだいるそうだ。

Map_of_Portuguese_India
インドのポルトガル語地域。Mangaloreという地名ににしっかりマルがついている。(ウィキペディアから)

 知っている人にたまたまタミール・ナドゥから来ている人がいたのでちょっと聞いてみたことがあるが、「はい、ポルトガル人の子孫はタミール・ナドゥに結構います。私の知り合いにもポルトガルが母語の人がいます。全員タミル語とのバイリンガルですが。ポルトガル語話者は北インドにもいます。あと、フランス人話者もいて、彼らには出生と同時に自動的にフランス国籍が与えられるので、成長するとフランスに「帰る」ことが多いです。」とのことだった。上の図を見ると確かにインドの北西部には小さなポルトガル語地域が見えるし、さらに調べてみるとタミール・ナドゥには本当にフランス語地域がある。

French_India_1815
これはちょっと古い時代のフランス語地域だが、なるほどこれなら今でもフランス語話者がいるだろう。(これもウィキペディア)

 ポルトガル語といえば自動的にブラジルが思い浮かぶが、実はアフリカにもポルトガル地域が結構ある。アフリカ西岸の島国、カーボヴェルデやギニアビサウ、果ては南アフリカでもちゃっかりポルトガル語が使われているが、アフリカで最も重要なポルトガル語国はなんと言ってもアンゴラとモザンビークだろう。ここでは西岸の島国と違ってポルトガル語ベースのクレオールではなく、狭い意味での「ポルトガル語」が話され、公用語にもなっている。住民の大多数がポルトガル語を話せるし、2013年現在でこの両国で合わせて4500万人ほどのポルトガル語話者がいるそうだ。2億人のブラジルほどではないが本国の人口は1000万人くらいだからその4倍だ。その他のアフリカの国々のポルトガル語人口も全部合わせると8000万人から一億人にもなるという。そういえばサッカーのポルトガルチームに時々黒人選手が混じっているのを見かけるが、アンゴラかモザンビークの出身なのかもしれない。だとすると言葉には全く困らないはずだ。前にTVでアフリカのこのあたりの地域のドキュメンタリーをやっていたが、現地の人、つまり黒人がポルトガル語の名前だったし、ポルトガル語をしゃべっていた。

 アジアではインドのほかにマカオと東チモールが旧ポルトガル領として有名だが、マカオでは最後までポルトガル語があまり浸透せずに終わった。東チモールでは1975年にここを軍事併合したインドネシアが1981年以来ポルトガル語を一切公式の場から追放したため、今では住民の1割くらいしかポルトガル語ができないそうだ。2002年インドネシアが撤退して東チモールが独立した時、再びポルトガル語に公用語の地位が与えられた。
 以前さる日本の方から聞いた話だが、その人の母方に東ティモール出身のインドネシア人の友人がいたそうで、祖母の代までポルトガル語を話していたといっていたそうだ。それにしてもインドのゴアにしろ、東チモールにしろポルトガル話者は年配の人ばかりのようで気になる。アフリカや南アメリカと違ってアジアでは周辺にヒンディー語、中国語、インドネシア語などの強力な現地語があったから、ポルトガル語は容易には浸透しなかったらしい。亡くなられた看護婦さんも名前は確かにポルトガル語だが、もしかすると言葉自体は話せなかったのかもしれない。現在アジアでのポルトガル人口は広い地域に散らばっているにも関わらず総計でも1万人に遥かに満たないという。アジアのポルトガル語は消滅していくかもしれない。今後が気になるところだ。


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 『荒野の用心棒』のことでちょっとしておきたい話がある。「今更あの映画についてする話があるのか?」とお思いになるかも知れないが、それがあるのだ。

 以前家の者どもに無理矢理この映画を見せていたら、エステバンを見るなり「あーっ、これドイツ人じゃないかよ。いっつも悪役やっちゃあ撃ち殺される有名な俳優だ。それがマカロニウエスタンなんかで何やってんだよ」と叫んだのである。 
 何やってんだよって、だからエステバン役やってんでしょ、とは思ったが、今までにもしつこく繰り返しているようにマカロニウエスタンにはイタリアだけでなくヨーロッパ中の俳優が参加しており、人によっては「ユーロウェスタン」と呼ぶくらいだ。この『荒野の用心棒』もこちらでは「イタリア映画」ではなく「西独・西・伊合作」と把握されている。『荒野の用心棒』だけでなく、マカロニウエスタンの脇役陣を見ていくと、本国ではスター級の俳優をよくみかけるのである。
 例えば『怒りの荒野』でジェンマの馬小屋の友人、かつての名ガンマン、マーフをやったヴァルター・リラというのもドイツ人。この人は賞を貰ったり、俳優の他にも脚本や小説を書いたり、映画制作もしていた教養人だ。本国では名を知られた俳優である。そのジェンマと『暁のガンマン』で共演したマリオ・アドルフもドイツ人。半分イタリア人なので完全にバイリンガルだが、超がつくほどドイツでは有名で、いまだに映画やTV、果てはコマーシャルにさえ顔を出す。もう70過ぎているがダンディでいまだに女性にモテている。アドルフには最初ペキンパーから『ワイルド・バンチ』のマパッチ将軍役のオファーが行ったそうだが、少年の喉を掻き切るシーンがあったため、アドルフは断った。後に後悔したそうだ。なお、この逸話はアメリカの映画データベースIMDBに載っている『61.惑星ソラリス』の時と同じく、この情報をIMBDに提供したのはこの私である。本当にヒマだ。
 しかしなんと言っても「ドイツ人の大物マカロニウエスタンスター」と言えばテレンス・ヒルだろう。ヒルも半分イタリア人だが、ドレスデン生まれで子供時代をそこで過ごし、これもバイリンガルだ。ただアメリカ生活が長いためかこの間ドイツのTVのトークショーに登場したときはややドイツ語が退化している印象だった。

 話をエステバンに戻すが、あの俳優はジークハルト・ルップSieghardt Ruppというオーストリアの俳優だ。ウィーンで正規の俳優修行をこなした、舞台出身の俳優である。「ドイツ人じゃないじゃないかよ」と言われるかもしれないが、ドイツ人はオーストリア人とドイツ人を区別などしない上、ルップは本当にオーストリアではなくて当時の西ドイツで活躍していたので、まあ「ドイツ人」という把握でいいと思う。

 この人は70年代に西ドイツのTVで人気俳優だった。
 ドイツには1970年から続いているTatort(犯行現場)というTVシリーズがある。刑事ものだ。続き物ではなくて毎回話が独立している。しかし例えば日本の水戸黄門やアメリカの刑事コロンボと違って主人公となるキャラクターが固定しておらず、次々に新しい主役が現れてシリーズが続いていく。一話で消える主人公もあれば、もう25年間、70話以上も断続的に登場しているキャラクターもあるのだ。主役が別のキャラクターに移った後も前主役が「相棒」として登場してくることもあるし、同じキャラクターを別の俳優にやらせてバージョン・アップを図ることもある。

 ルップは1971年に初めて「関税職員クレシーン」というキャラクターで主役を務めたのだが、評判がよく、そのあと7話が彼の主役で作られ、さらに主役が別に移ったあとも3話で「準主役」として登場。そして「クレシーン」が登場人物として消えた後も悪役で何度もこのシリーズで顔を出している。
 ルップの主役は視聴率が大変に良かったそうだ。事実、先日もヘッセン州の公営放送局で彼の「クレシーンもの」を再放送で流していた。つまり40年以上たった後でも見る人がいる、ということだ。うちでも「『犯行現場』のクレシーンって知ってる?」と聞いたら即座に「当たり前だ」という答えが返ってきて、キャラクターの性格・風貌まで詳細に描写してみせた。つまりまだそれだけよく記憶に残っているのである。
 それまでドイツの刑事ものの主人公というと謹厳実直で無愛想なおじさんが、ガチガチと犯人を追い詰めていくというパターンだったのが、このクレシーンは女たらしとまでは行かないまでも、まあ女性にもニョロニョロ愛想がいい新しいタイプだったらしい。「あのエステバンが軟派路線」と聞いて私は一瞬「えー、ウッソー!」と思ってしまったのだが(ごめんなさいね)、考えてみるとなるほどという要素もある。
 サイトなどには、ルップは「声が力強く、特徴的な顔(markantes Gesicht)をしていたので悪役によく起用された」とある。写真を見ていただくとわかるが、濃い眉をしていて、目がパッチリと大きく、まつげが長く、彫りが深い、つまり特徴的な顔といっていいだろう。

Tatortでのジークハルト・ルップ
Rupp0

 またこの人はちょっと不思議な眼の色をしていて、この写真では黒く見えるが、実際は髪の色よりずっと薄い茶色、光線の加減では灰色に見えることもあるくらいだ。碧眼が光の加減で灰色に見える、というか灰色の目が青く見ることはしょっちゅうだが、茶色と灰色の交代というのは面白いと思う。アルバニア語のゲグ方言・トスク方言の n 対 r の音韻交代(『39.専門家に脱帽』参照)と同じくらい面白い。とにかく全体的に見ると「南欧系」の容貌なのである。イタリア人と言っても通りそうだ。『荒野の用心棒』でもジャン・マリア・ヴォロンテの兄弟役をやって全く違和感がなかった。この「南欧風」というのはゲルマン系・スラブ系の女性にモテるキーワードである。それにルップのこの容貌はたしかに特徴的ではあるが決していわゆる悪党面ではない。事実、『荒野の用心棒』で悪役に転ずるまでは地元オーストリアでしっかりモテ役をやっていたそうだし、悪役に転じた後も氏をschöner Bösewicht、「イケメン悪役」と形容していた記事を見た。名前を出して悪いが、リー・バン・クリーフやアルド・サンブレルなんかとはそこが決定的に違う点だ。

『荒野の用心棒』でのルップ。目の色を上の写真と比べてみて欲しい
rupp3

これも『荒野の用心棒』から。舞台出身の正統派俳優だけあってイーストウッドなんか(あら失礼)よりずっと演技力があると思う。
Rupp1

 上記の再放送を30分ほど見てみたのだが(夜中だったので全部見るのはタル過ぎた)オーストリア訛りがはっきりしていて他の登場人物が話すビシバシした標準ドイツ語と比べてずっと響きが柔らかい。これなら軟派役もやり易かろう。
 人気があったのに、その後TVから身を引いてしまった。舞台活動に戻り、1995年以降は公的な活動から完全に退き、2015年に亡くなるまでウィーンでひっそりと暮らしていた。1931年生まれだそうだからモリコーネより若い。周りの話では「自他共に厳しくて気難しい」タイプだったとのことだ。娘さんがいたが亡くなり、30年連れ添った奥さんとも晩年になって離婚し、晩年は一人きりで生活し、接触する者も限られていた。それで亡くなったことも生活の面倒を見ていたソーシャル・ワーカー以外は知らず、一年くらいたってオーストリアの映画アーカイブがルップの85歳の誕生日を祝おうとして連絡を取ったらとっくに亡くなっていることが判明したのである。しかし「ジークハルト・ルップが一年ほど前に亡くなっていた」ことがドイツのTVニュースでも大きく流され、新聞でも一斉に報道され、映画番組がそのため変更になったから、氏は決して忘れられた存在などではなかったことがわかる。隠遁生活は氏自身の意思によるもので、件のソーシャルワーカーも自分が死んでも決して誰にも言わないように、と約束させられていたそうだ。

 ルップは『荒野の用心棒』のほかにも、ジャンニ・ガルコ主演の『砂塵に血を吐け』というマカロニウエスタンに登場しているし、ヴィネトゥ映画(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)にも出てきて撃ち殺されていた。さらにロベール・オッセンとミシェル・メルシエがコンビを組んだ例の「アンジェリク映画」(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)にも顔を出しているそうだ。
 『荒野の用心棒』というとあの棺桶屋のおやじもまたオーストリア人のヨゼフ・エッガーという俳優だ。こちらも本国では名の知れたヴェテラン俳優。きっと撮影の合間に二人でオーストリア訛りのドイツ語で雑談などしていたに違いない。
 と、いうわけで今度『荒野に用心棒』を見る際はエステバンにも注目してやって欲しい。


イーストウッドを助けた棺桶屋のおじいさんをやったヨゼフ・エッガーという俳優もオーストリアのベテラン俳優である。
Egger

オマケとしてもう一つルップの写真
bild


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 セルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』の話は『98.この人を見よ』でもう終わりのつもりだったが、考えてみたらもう一つあった。イーストウッドのポンチョについてである。

 レオーネの『荒野の用心棒』が盗作として黒澤明と東宝映画から訴えられ、製作のジョリ・フィルムがそのおかげでガッポリ慰謝料をふんだくられ、レオーネが後に回想して「『荒野の用心棒』は今まで私が作った中で唯一つ全く収入をもたらさなかった映画」とボヤいたという話は有名だ。
 その際レオーネがどうして他の監督のようにアメリカ西部劇かギリシア・ローマ史劇からモティーフを持ってこないで日本映画からパクったのかは、まあわかりやすい図式である。51年に『羅生門』がヴェネチアでグランプリを取ってから黒澤映画はイタリアに知れわたっていただろうし、60年にジョン・スタージェスが『荒野の七人』で黒澤映画をリメークして成功し、サムライ映画が西部劇のモティーフとして通用することははっきりしていた。そこへ61年、三船敏郎が『用心棒』でヴェネチアの男優賞を取ったからレオーネはそこでこの映画を知ったに違いない。

 この1961年というのは考えようによっては実に含蓄のある年で、まさにそのちょうど100年前、1861年にそれまで多くの小国に分かれていたイタリアがヴィットリオ・エマヌエレ二世の下に統一され、「イタリア王国」が誕生したのである。第二次大戦以後このイタリア王国が共和制になった。途中ムッソリーニなどに引っ掻き回されりしたが、イタリアの現在の国境が確立したのは1861であることに変わりはない。
 このイタリア統一の立役者となり、今でもイタリアで、というよりヨーロッパで英雄視されているのがジュゼッペ・ガリバルディという革命家で、当時ブルボン家の支配下にあったシチリアとイタリアの南半分を解放した。その、自分が命がけで解放したイタリア領土をガリバルディは自分で支配しようとはせずに、北イタリアを支配していたサルディニア王国の国王ヴィットリオ・エマヌエレ二世に献上して男を上げた。もっともこの領土献上は純粋に美談というわけではなく、本来共和制を望んでいたガリバルディには不本意な面もあったし、影でサルディニア王国の政治家カヴールがいろいろ暗躍したらしいが、ともかくこのガリバルディが、多くの革命家と違って権力とか地位とか金とかそういうものにはあまりガツガツしていなかったことは事実である。未だにこの人の人気が高いのはそのせいだろう。

 ガリバルディは若いころから統一イタリアを目指してマッツィーニ率いる青年イタリア党に参加し、一度死刑判決を受けて警察に追われ、南米に亡命している。その地、ウルグアイとブラジルでも革命を助けて12年間活躍した。ウルグアイの首都モンテビデオにはいまでもガリバルディの記念館が建っている。
 ころあいを見てガリバルディは南米から帰国するが、その時はポンチョにソンブレロといういでたちで、これが後にイタリアでも彼のトレードマークになった。ポンチョの下には常に赤いシャツを着ており、これも「赤シャツ隊」として有名になった。

 さて、そこで問題だ。

 『荒野の用心棒』が作られる直前、つまりヴェネチアで黒澤の『用心棒』が紹介された当時、イタリアで建国100年記念を祝う催しの類が全く行なわれなかったということは考えにくい。そしてそこでただでさえ英雄視されているガリバルディがイタリア人の話題になっていなかったはずはない。
 こういう雰囲気の中でレオーネは『荒野の用心棒』を撮ったのだ。その脳裏をガリバルディが横切ったに違いない。レオーネがイーストウッドにポンチョを着せたのはこのためだと私は思っている。イタリア製西部劇が70年に入ってからさかんにメキシコ革命をモティーフとして扱い出したのもこれで納得がいく。メキシコ革命を扱っていなくてもマカロニウェスタンにはポンチョを着てソンブレロをかぶった農民というかガンマンというかやたらと出てくるが、これもガリバルディからの連想なのではないだろうか。もちろん、『荒野の用心棒』でアメリカ農民部落ということにしても別によかったはずの場所の設定をわざわざメキシコにして住民にソンブレロをかぶせたのは、直接には『荒野の七人』からインスピレーションを受けたのかもしれないが。まあレオーネも結構あちこちからいろいろ持って来ているものだ。

 しかも当時ガリバルディは1851年製造の海軍用コルト36を常に武器として携えていたという。1851年といえばロンドンで最初の万国博覧会が開かれた年だが、ここにアメリカが出品したものの一つが「コルト36」だったそうだ。ここでも話が見事に符号している。またレオーネの『荒野の用心棒』に続く「第二のセルジオ」(『86.3人目のセルジオ』参照)、セルジオ・コルブッチ監督の『続・荒野の用心棒』では悪役ジャクソン一味がフランコ・ネロを襲いに来て逆にネロのガトリング砲にやられるシーンでKKK宜しく顔を不気味な頭巾で覆い隠しているが、これが赤い頭巾だった。またジャクソン役のエドゥアルド・ファハルドがいつも首に赤い襟巻き(せめてスカーフと言ってくれ)を巻いているが、これらはガリバルディの赤シャツの暗示だと解釈できないこともない。顔隠しの頭巾を普通にKKKからもじったのなら色は白だったはずだからである。
 そういえばイタリア製西部劇のスターにジョージ・ヒルトンという俳優がいる。決して「私の好きな俳優」とは言えないのだが、純粋に顔だけを問題にしたらマカロニウェスタンのスターの中で最もイケメンの部類に入るのではないだろうか。このヒルトンはウルグアイのモンテビデオの出身である。いくらイケメンとは言え、どうしてよりによってそんな遠いところから俳優を引っ張り出して来たのか。ひょっとしてこれもガリバルディつながりか?まさか。
 さらに(まだある)、これもイケメンではあるがやっぱりB級スターにアンソニー・ステファンという人がいる。この人は引退後ブラジルに移住してそこで亡くなっている。なんでここでいきなりブラジルが出てくるのか。このブラジルもガリバルディの活躍地である。
 とにかくマカロニウェスタンを見ていると背後にガリバルディがチラチラしていて気になって仕方がない。

 以下の文章はタイムライフ社の歴史書「人間世界史」からの抜粋だが、

「1864年4月のその日、50万を越える熱狂的な群集は、ロンドンの街頭に人垣をつくり、外国から訪れてきた英雄に向かって、嵐のような歓声を浴びせた。いまだかつて例を見ぬ歓迎ぶりである。例の有名な赤シャツと南米のポンチョを着た彼(…)こそ、ヨーロッパ中でもっともロマンチックで、人気の高い男なのだ。ジュゼッペ・ガリバルディ、彼の名を耳にするだけで、人々の胸はときめいてくる」

 このちょうど100年後の1964年に『荒野の用心棒』が作られ、ヨーロッパ中を熱狂させたことわけだ。イタリア人がヨーロッパ中を熱狂させた例はこのガリバルディとレオーネの二人くらいなのではなかろうか。なお、『人間世界史』のそのページには「ガリバルディのピストルで、1851年に作られた海軍用のコルト36」の写真が載っている。フレーム上部がなくてシリンダーがむき出しの外観だ。さらに聞くところによるとこのモデルは『続・夕陽のガンマン』でも主役(?)だったそうだ。ガリバルディ氏の方は写真を見るとソンブレロを被ってポンチョを着ており、雰囲気はもう完全にマカロニウェスタンだ。あと足りないのはモリコーネの音楽だけである。

 ところで私はこのガリバルディだろポーランド建国の英雄コシューシコだろのことはかろうじて高校の授業で教わった。さすがにコルト36のことまでは教わらなかったが。「かろうじて」というのはそのちょっと後、第一次世界大戦が終わる頃になると時間切れというか学期末が来てしまい、「あとは各自で教科書を読んでおくように。期末試験には出るから」と放り出されたからである。

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 今思うと日本にいたころからもっと真面目にマカロニウエスタンを見ておくんだったと後悔している。当時は単にジュリアーノ・ジェンマやせいぜいフランコ・ネロにキャーキャー言って騒いでいただけだったが今じっくり見てみると顔ではジェンマに負けるが味のあるカッケーおいちゃんが他にも結構たくさんいるのだ。リー・バン・クリーフなどはいくらじっくりみてもちょっとアレではあるが、『12.ミスター・ノーボディ』でも書いたように、ギリシア・ローマ時代の古典さえ時々顔を出すこのジャンルは単に「ぶっ放せジャンゴ」「抜けリンゴ」で済ますには勿体なさすぎると私は思っている。
 ジークハルト・ルップについては『98.この人を見よ』で一度書いたが、実はもう一人記すべきオーストリア人がいる。何度か名前を出しているウィリアム・ベルガーWilliam Bergerである。『血斗のジャンゴ』で第三の主役をやった人だ。これもしつこく前に書いたようにとにかくラストシーンではこの人が大スターのトマス・ミリアンとジャン・マリア・ヴォロンテを食ってしまっていた。
 正義の名を借りて人間狩りをする自称犯罪者討伐対がミリアン&ヴォロンテ目指して砂漠の中を進んでいくがその時後からモリコーネの音楽(これが肝心)に乗って疾走しながら後を追いかけて来た者がいる。これが登場場面ではやたら暗かった(『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』参照)ベルガーである。

モリコーネの音楽を背景に颯爽とやってくるベルガー(左)。まあこの場面はスタントマンがやったのかもしれないが...
Berger-Reiten

こちらの画面右で馬に乗っているのは本当にベルガー。
alledrei

 前項でも述べたように彼も本来この二人を追う側であるから、その討伐隊に加わるのかなと思っていると彼はそこで皆の前に立ちはだかって「お前達のやっていることには法的正統性がないから手を出すな」と怒鳴りつける。せっかくの楽しみを邪魔された討伐隊の一人(知る人ぞ知るマカロニウェスタンの迷脇役アルド・サンブレルが発砲し弾が肩に当たる。それを持ち直してサンブレルを撃ち殺すとあとの者は動揺し、踵を返す。
 肩に弾を入れたままヴォロンテとミリアンの前に来て立ち(すぐ上の写真)、「お前たちを逮捕する」と宣言したものの、無防備でヴォロンテの前に立ったわけだから当然というかなんと言うかヴォロンテから2発目を食らう。ところがミリアンが立ち上がって投降すると言い出す。ヴォロンテは驚いて、ミリアンの決意を覆そうと「原因」になっているベルガーにとどめをさそうとした瞬間、ミリアンがベルガーを殺そうとしたヴォロンテを撃ち殺す。と、どさくさに紛れてネタバレ失礼。
 すでに死ぬ気でいたベルガーは状況を把握するのにちょっと時間を要するが、よろけながら立ち上がるとヴォロンテの死体の顔面に弾を何発も撃ち込み顔をめちゃくちゃにして判別不可能にし、「皆には死んだのはミリアンのほうだと言っておくから行け」とミリアンを逃がす。前にも言ったようにここでタイトルの「顔」という言葉が聞いてくるのだ。

 銃弾を受けた瞬間や、大儀そうに「逮捕する」という姿もカッチョよかったが、それより私が感心したのが最後ヴォロンテに銃を向けられた瞬間の演技である。膝を落としたまま見あげて、まずヴォロンテがわきで銃を構えて立っていることを確認、それから顔を下に向けるが、その状態でヴォロンテが撃鉄(ライフルの場合でも「撃鉄」っていうのか?)を起こした音を聞いて息を一つ吸って少し身を乗り出すようにする。死を覚悟したんだな、ということがはっきりと見て取れる。これは私が今まで見た中での「撃ち殺される直前」の表現のベスト賞である。実際は撃ち殺されなかったが。

大儀そうに「逮捕する」というウィリアム・ベルガー。
Berger1

『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』の項でも紹介したが、構図の美しいラスト。
Berger12

 もうひとつ印象に残っているのは「この人は撃たれ方が上手い」ということだった。皆さん、西部劇で人が銃に撃たれるところをどう描写しているか思い出して欲しい。もっとも多いパターンはうっと言って撃たれた箇所を手で押さえ苦痛に顔をゆがめる、というものだろう。派手にうわーとか叫んで両手を上に挙げグルグル回って倒れる、というのもありふれた描写だ、レオーネの『夕陽のガンマン』では撃たれた人が派手に叫んだり手を挙げたりぐるぐる回ったりしている割には弾傷が全くなく、なんなんだこれはと思った。
 また、撃たれた方がしばらく微動だにしないこともある。決闘シーンなどで観客にマを持たせるためによく使われる手だ。どちらが勝ったのかすぐにはわからせないでおいてこちらをハラハラさせようという戦法。何秒か立ってから一方がおもむろにバッタリ倒れるまで緊張感が続く。私に言わせればこういうのは緊張感でなく「わざとらしい」である。マカロニウエスタンではそれがまた特に不自然だ。
 さて上のシーンでのベルガー氏、弾を食らったときどう動いたか。当たった部分(肩だった)が一瞬何かにぶつかったようにピクリと動き、ほんのすこし足元がよろけたが、そのあとすぐ姿勢を持ちなおして敵に向かっていったのである。うーともいわなかったし痛そうな顔もしない、それでいてわざとらしく微動だにしなかったわけではない、当たったことはこちらに見てとれたのである。また痛そうな、というより疲れたような顔になったのはしばらく時間がたってからである。

 これは本当に銃で撃たれたことのある人たちの体験談と一致している。そこで皆が異口同音に述べているのは、銃で撃たれると一瞬何かぶつけられたか棒でその場所を叩かれたような気がする。かなり長い間痛みは感じない。まさに氏の撃たれかたはそんな感じだった。
 この撃たれ方の見事さはベルガー氏の演技力によるのか、それともセルジオ・ドナーティのスクリーン・プレイの書き方が上手かったのか。この映画のほかのシーンでは皆スタンダードなうわー的撃たれ方をしていたからこれはやっぱり氏の演技に帰するのではないかと思ったのでちょっとこの俳優の経歴を調べてみた。
 
 この人がオーストリア人であることは知られている。私はてっきりジークハルト・ルップなどのように本来ヨーロッパの本国で活動していたのがマカロニウェスタンに引っ張り出されたのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。本名をヴィルヘルム・トーマス・ベルガーWillhelm Thomas Bergerといい、1928年にインスブルックの裕福な医者の家に生まれたが、一家は戦争が始まるとすぐにアメリカに逃げた。当時戦争がヤバくなって来てから国外逃亡した人は多いが、「始まってすぐ」というのは少ないのではないか。余程先見の銘があったかナチ嫌いだったのか。家が「裕福な医者」であったこと、1939年の時点、つまりオーストリアがドイツ支配下に入った時点で(しかも大部分のオーストリア国民はこの「ドイツ統一」を歓喜して迎えた)間髪を入れず亡命したところを見るとユダヤ系ででもあったのかと思うが確証はない。アメリカの俳優・監督などには亡命ユダヤ人が多いのだし。とにかくアメリカでコロンビア大学を出てしばらくIBMで働いた後に俳優に転向、NYのブロードウェイなどでそこそこの成功を収めている。また3年間兵役にも服している。なおコロンビア大学在学時に陸上競技で学内最高記録を出し、オリンピックに出そうになったそうだ。朝鮮戦争に従事したとのことで、ひょっとしたらこの人は本当に撃たれたことがあったのかも知れない。
 そのあとハリウッドに進出しようとして果たせず、生まれ故郷のヨーロッパを巡っているうちにイタリアでマカロニウェスタンに抜擢されたらしい。当時はヨーロッパ出身で英語に吹き替えしてやる必要のない俳優は希少価値だったらしい。

 いわゆる反体制派、既成の権力に対して反抗的な人であったらしく生活も派手で少なくとも4回結婚しているし(それはそれで大変結構です)、当時の住まいにはキース・リチャードなども時々やってきていたそうだ。一度麻薬所持の疑いで留置所に何ヶ月入っていたこともある。ただしこの時は結局「証拠なし」で刑は受けていない。どうもあらぬ疑いだったらしい。それよりも驚いたのがそのときの留置所での悲劇的な出来事で、映画史家なんかは結構皆知っているようだが、私は今回調べてみて始めて知った。
 ある夜中に例によってパーティーでドンチャン騒ぎの後、皆寝静まっていたら警察がいきなりドヤドヤ家宅捜査にのりこんできた。そしてそこでハシッシュの包みを見つけたそうだ。ベルガーが自分の所有ではないと誓ったが請合ってもらえず、そのとき家に泊まっていた客もろとも全員留置場に入れられた。バラバラにである。
 悲劇はそこからだ。当時の妻Carolyn Lobravicoさんは肝炎を患っており、それが劇症を起こして痛んでいるのを警察は「麻薬の禁断症状」とカン違いして精神疾患者の病院に入れベッドに縛り付けた。そのまま長い間放って置かれ、やっと他の病気であると気づいて普通の病院に担ぎ込まれたときはすでに遅く、Lobravicoさんは別のところに収容されている夫のベルガーにも会えずにそのまま亡くなった。その際の経過を後にベルガーは本に書いて出版している。私の本なんかより余程読む価値がありそうだ。
 数ヵ月後にベルガーは釈放されて俳優業を続けていった。チェルヴィの『野獣暁に死す』はその事件の前に撮られている。

 マカロニウエスタンの後はジャッロ映画などにも出て、マリオ・バーヴァ、ヘスス・フランコなど名前を聞くとウッと思ってしまう様な(失礼)監督の下で仕事をしているが、とにかく最後まで俳優業はまっとうしている。187もの(TV映画も含む)映画に出演しているから決して無名の俳優とはいえない。事実私程度のジャンルファンでもウィリアム・ベルガーという名はよく知っている。演技だって正当教育を受けている。顔もロバート・レッドフォード(我ながら出す俳優名が古い)にはかなわないだろうがハンサムの部類に入るだろうし、とにかくもうちょっと上まで行ける技量を持っていた俳優だったと思うが、残念ながら1993年にカリフォルニアで亡くなっている。65歳だったそうだ。同じオーストリア人でも人生経歴が堅実で地味なジークハルト・ルップとは対照的である。

オマケといってはナンだが、『野獣暁に死す』のウィリアム・ベルガー。画質が悪くて申し訳ない。
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 米国ペンシルベニアでドイツ語が話されていることは知られているが、私が今までちょっと見かけた限りではこのペンシルベニア・ドイツ語は英語学あるいはアメリカ学の守備範囲のようで、これを研究しているドイツ語学者というのはあまり見たことがない。ペンシルベニア・ドイツ語はまたペンシルベニア・ダッチ、略してペン・ダッチとも呼ぶが、これをオランダ語とカン違いしている人がいた。Dutchという語はドイツ語という意味のドイツ語Deutschと同じで、昔はオランダもドイツも意味していたのである。むしろ私は英語でオランダ語のことをDutchということの方がそもそもおかしいと思うのだが。彼らにはオランダとドイツの区別もつかなかったのか? ついでにこのDutchあるいはDeutschは、ペン・ダッチではDeitschとなる。

 このペン・ダッチの話者はヨーロッパ人が新大陸に移住を始めたそもそもの最初からアメリカに住んでいた人たちである。例えばベンジャミン・フランクリンも1751年にペンシルベニアにはドイツ人が英国系の人たちとは異質の社会を形作っていると報告している。フィラデルフィア周辺もドイツ語圏だったらしい。当時の首都である。英語話者の側ではこのドイツ人たちは自分たち英語話者らの側について英国にちゃんと反旗を翻してくれるのかそれともヨーロッパの旧勢力側につくのか、今ひとつ疑惑の目で見る向きもあったようだ。
 18世紀の中葉のペンシルベニア南部の人口、20万人から30万人のうちドイツ系は6万人から10万人だったというから相当な割合だ。別の資料では1710年から1775年の間にドイツから新大陸に移住してきた人は約81000人。さらに別の資料によると南北戦争直後のドイツ語話者は60万人いたそうだ。いわゆる「アメリカ文化」とされるものの結構な部分は英国起源でなくドイツの文化だそうだ。

 現在ではペン・ダッチは専らアーミッシュやメノナイト派などの宗教コミュニティで使われており、コミュニティのある地域はペンシルベニアばかりでなく米国の30州以上に及んでいる。カナダにもペン・ダッチのコミュニティがある。資料によってズレがあるが、使用人口は30万人強。私の記憶では昔ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック:目撃者』という映画でケリー・マクギリス演ずるアーミッシュの女性がペン・ダッチらしき言葉をもらしていた。確かHochmut(「高慢」)とか何とかいう単語だったと思うが、これはペン・ダッチでなく標準ドイツ語だ(下記参照)。『目撃者』でもアーミッシュの社会の特殊性あるいは閉鎖性が描かれていたが、実はこの閉ざされた世界ゆえにペン・ダッチは今日にいたるまで生き残ったのである。
 ペン・ダッチが独自言語としての道を歩み始めたのは1750年から1775年にかけてだが、当時の話者は決して特定宗派に限られてはいなかった。どの宗派も、そして世俗的な人たちも皆このドイツ語を話していたのだ。上で述べたドイツからの初期の移住者81000人のうち、宗派関係者は3200人に過ぎなかった。その過半数がアーミッシュとメノナイト派だった。しかし宗派以外の人たちは時間が経過するに連れて元住んでいた農村から都会に出て行ったり、他宗教の人との婚姻が進み、大多数が英語に言語転換してしまった。現在のアーミッシュもバイリンガルで、ペン・ダッチは内輪で使うだけ。それでも子供たちにはペン・ダッチを伝え続けているため第一言語はペン・ダッチだそうだ。

 さてこのペン・ダッチについて私が個人的に面白い、というかおぞましいと思うのは、このペン・ダッチの核となったドイツ語地域、ドイツからアメリカへ最初に移住していった人々の故郷がよりによってモロ私の住んでいる地域だということである。うちはよそ者なので家庭内言語は当然標準ドイツ語だが、家の中で時々ここの方言のまねをして遊んだりおちょくったりすることがある(ごめんなさいね)。町の人たちも外で知らない人としゃべったりする時は、明らかにナマってはいるとはいえまあ標準ドイツ語を使うが、内輪でガチに会話を始めると凄いことになる。凄すぎてドイツのTV局に字幕をつけられたことは以前にも書いた通りだ(『106.字幕の刑』)。これがアメリカで話されている、と聞いて私は一瞬「げっ、ここで聞いているだけで十分恥かしいのにアメリカにまでいって恥を曝さないでくれ」と思ってしまった。ヨソ者の分際で申し訳ない。

 ペン・ダッチにはここラインラント・プファルツ方言の他にも上ラインやスイス、シュヴァーベンや一部ヘッセン州の方言なども混じっているそうだが、うちの周りの方言が中心となっていることには変わりがない。さらにおぞましいことにアメリカ発行の資料にペン・ダッチの起源について次のような記述がある。

... PG (= Pennsylvania German) is most similar to Palatine German. Later work  …  narrowed the dialectal origins even further to the (south)eastern Palatinate (Vorderpfalz in German), especially to dialects spoken in and around the city of Ma**h**m.
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 81から

なんと住んでいる町が名指しされていたのである。これを読んだときの気持ちをどう表現したものか。ネットで自分の名前が曝されているのを見て勘弁してくれと思う、あの感覚だ。とにかくまあこの町で一日乗車券でも買ってのんびり市電に乗り、ずっと乗客の会話を聞いていてみるといい。気分はもうペンシルベニアである。

うちの周りばかりでなく、一部スイスやヘッセンの方言もペン・ダッチには混ざっているが、中心となるのはよりによってモロ私の住んでいる町である。やめてほしい感爆発だ。
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 24からpenn_deutsch_bearbeitet

 だが、その「やめてくれよ感」を抱いたのは私だけではないと見える。プファルツからアメリカへ行った最初のドイツ人は大抵農家だったが、それよりやや遅れてやはりドイツからアメリカへ渡った第二波は北ドイツや都市部の人で標準ドイツ語の話者だったが、それらの同胞からもこのペン・ダッチの使い手は「まともなドイツ語をしゃべれ」と揶揄されたそうだ。彼らの方でも自分たちをDeitsche(「ドイツ人」、上記参照)、後続のドイツ人たちをDeitschlennerといって区別した。Deitschlennerは標準ドイツ語でDeutschländer(「ドイツの国の人」)である。ただ、Deitschlennerたちがペン・ダッチを蔑んで呼ぶ「田舎者のドイツ語と英語のまぜこぜ」という言い方は正しくないそうだ。ペン・ダッチは言われるほど英語に侵食されていない。英語からの借用語は10%から15%に過ぎないという。語形変化のパラダイムも保持されている。

 そのペン・ダッチを話すDeitscheも、書き言葉としては大抵標準ドイツ語を使っていたという。一種のダイグロシア状態だったわけである。今日でもアーミッシュの聖書は標準ドイツ語で書いてあるそうだ。
 一方「大抵」というのはつまり例外も少なくないということで、ペン・ダッチで書かれたテキストは結構ある。18世紀に一定のまとまりのある言語として確立した後、19世紀初頭からこの言語は発展期を迎えた。宗派の人も世俗の人もペンシルベニアから全米に広がっていったのはこの時期である。標準ドイツ語からの借用も行なわれた。ペン・ダッチによる文学活動もさかんになった。また、非ペン・ダッチ話者、事実上英語話者だがそれらのアウトサイダー側にもこの言語を研究する人が現れた。ペン・ダッチは独立言語としての歩みを始めたのである。上のおちょくり発言と矛盾するようだが、私はこれには賛成である。せっかくアメリカに行ってまで標準ドイツ語に義理立てする必要などない、独立言語として文章語を確立し、アフリカーンスより新しい一つのゲルマン語が誕生すればそれは素晴らしいことではないだろうか。

 しかし残念ながらそう簡単には行かなかったようだ。19世紀の発展期はまた、宗派と世俗の人たちがはっきりわかれ、両者のコンタクトが薄れていった時期でもあるが、そういう状態になっていたところに20世紀を迎えたが、これが転換期となった。20世紀の初頭に産業化の波が押し寄せたからである。
 仕事を求めて生まれ故郷を出て行くのが普通になり、外部の社会との交流も重要性を増した。小さな社会で安定していることが出来なくなったのである。ここでペン・ダッチ話者の人口構成に大きな変化が起きた。19世紀を通じて宗派の人たちはペン・ダッチ話者のごく一部をなしているに過ぎなかった。1890年現在では北米全体のペン・ダッチ話者は約75万人と推定されるが、それに比べてオハイオ、インディアナ、ペンシルベニアのそれぞれ最大のアーミッシュコミュニティの人口の合計が3700人だったそうだ。しかし世俗社会でのペン・ダッチが、英語社会とのコンタクトが急速に強まったおかげでほぼ消滅してしまった。英語社会との接触を最小限に抑え、通婚も閉ざされた社会内で行い続けた宗派のペン・ダッチだけが生き残ったのである。こんにちでは事実上アーミッシュやメノナイト派コミュニティでのみペン・ダッチが使われていることは上でも書いた通りである。
 1920年から1930年にかけてがターニング・ポイントで、それ以降は世俗社会でのペン・ダッチ話者は次の世代にこの言語を伝えなくなってしまった。つまり彼らの子供たちは英語しか話せなくなってしまったのである。そうして1940年以降はペン・ダッチは世俗社会では会話言語として機能しなくなった。1920年代に生まれた人たちがペン・ダッチを普通に話せる最後の世代となったのである。
 もちろん、その消え行くペン・ダッチを復活させ、次代に伝えようという動きはある。すでに1930年代にペン・ダッチ復興運動が存在したそうだが、今でも言語学者がネイティブを探し出して記述したり、言葉は話せなくてもペンシルベニア・ドイツ人としてのアイデンティティを持った子孫達がいろいろな催しを開催したり、文化の保持に努めている。今でもペン・ダッチを話せるアーミッシュもいる。ペン・ダッチはそう簡単には滅ぶまい。滅ばないでほしい。

 さて、その「書かれたペン・ダッチ」をいくつか見てみたい。上述のBronner氏の本から取ったものだが、音読してみるとまさにうちの町で市電に乗っている気分になれる。M市に住んでいない人のために標準ドイツ語の訳をつけてみた。所々わからなかったので標準語ネイティブに聞いたが、向こうも長い間「ウーン」と唸ったりしていたから解釈し間違っているところがあるかもしれない。

Den Marrige hab ich so iwwer allerhand noch geconsidert un bin so an’s Nausheiere kumme, un do hab ich gedenkt und gedenkt un hab des eefeldich Dinge schiegar nimmi los waerre kenne. Un weil ich’s Volksblatt als lees, un sie als iwwer allerlei Sache gschriwwe, so hab ich gedenkt: du gehscht yuscht so gut emol draa un schreibscht e schtick fer’s volksblatt, grad wege dem aus der Gmeeschaft Nausheiere.

標準ドイツ語
Den Morgen habe ich so über allerhand nachgeconsidert (= nachgedacht) und bin so an das Hinausheiraten gekommen, und da habe ich gedacht und gedacht und habe das einfältige Ding schier gar nie mehr loswerden können. Und weil ich das Volksblatt als (immer, ständig?) lese, und als (immer, ständig?) sie (ihnen?) über allerlei Sache geschrieben (habe), so habe ich gedacht: du gehst just so gut einmal dran und schreibst ein Stück fürs Volksblatt, gerade wegen dem Aus-der-Gemeinschaft-Hinausheiraten.

Consider(イタリック部参照)などの英語の単語が借用され、ドイツ語風に動詞変化していることがわかる。また標準ドイツ語の書き言葉の影響も見られる。太字で示したund がそれで、ほかの部分ではこれがきちんと(?)ペン・ダッチ形のunになっているのにここだけ標準形である。Als という超基本単語の使い方に関してもちょっとわからんちんな部分があったので辞書を引いたら古語として意味が載っていた(下線部)。なお資料ではこれに英語訳がついている。イタリック部は原文どおり、下線は私が引いたものである。

This morning I was reflecting about a number of things, including marrying outside the faith. I was thinking and thinking and just could not get this simple thing out of my head. Since I read the Volksblatt regularly, and have written them [sic] about different topics, I thought: you should just go ahead and write a piece for the Volksblatt about marrying outside of the faith.

もうちょっと他の例を出すと(下が標準ドイツ語):

Konsht du Deitsch shwetza?
Könntest du Deutsch schwätzen (= sprechen)?
ドイツ語を話せるかい?

Dunnerwedder noach a-mole!
Donnerwetter noch einmal!
まったくもう!

Nix kooma rous.
Nichts kommt raus.
どうにもならないぞ

Du dummer aisel!
Du dummer Esel!
このうすのろ!

最後の例のaisel(アイゼル)という言葉が気にかかった。これは標準ドイツ語のEsel(「ロバ」、エーゼル)だろうが、普通音韻対応は逆になるはずなのだ。標準ドイツ語の「アイ」が私の町の辺りでは「エー」になるのである。例えばzwei(ツヴァイ、「2」)を私んちのまわりでは「ツヴェー」、eine(アイネ、「一つの」)を「エーネ」という。そして私の家ではこの発音を真似して遊んでいる。町の人の方でもそれが方言だと心得ているから、「エーと言ってはいけない、アイと発音しないといけない」という意識があって、勢い余ってエーでいいところまでアイと言ってしまったのではないだろうか。つまりある種の過剰修正である(『94.千代の富士とヴェスパシアヌス』参照)。私の単なる妄想かもしれないが。

 最後にすこし話がワープするが、『シェーン』の原作者ジャック・シェーファーJack Schaeferも苗字を見れば歴然としている通りドイツ系である。出生地もオハイオ州のクリーブランドだからドイツ人が多く住んでいたところだ。さらに生まれた年が1907年で、ペン・ダッチを話す最後の世代、1920年代生まれよりずっと前。この人はペン・ダッチが話せたのかもしれない。それとも標準語ドイツ人、Deitschlennerの方に属していて、早々に言語転換してしまった組なのだろうか。
 
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