アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > バルカン半島

 「日本」および「中国」はドイツ語でそれぞれ普通Japan(ヤーパン)、China(ヒーナ)だが、ときどきLand der aufgehenden Sonne(ラント・デア・アウフゲーエンデン・ゾネ)、Reich der Mitte(ライヒ・デア・ミッテ)と名前を翻訳して呼ばれることがある。これらはそれぞれ「昇る太陽の国」「中央の帝国」という意味だから「日本」「中国」の直訳だ。この直訳形が使われると単にJapanあるいはChinaと呼ぶよりもちょっと文学的というか高級なニュアンスになる。

 日本と中国以外にもときどき使われる直訳形地名はいろいろあるが、その1つがAmselfeld(アムゼルフェルト)。「ツグミヶ原」という意味なのだが、この美しい名はなんと旧セルビアの自治州、現在は独立国となったコソボのことだ。
 ここは一般にはコソボ (Kosovo)と呼ばれるが、実はこれはいわば略称で本当はKosovo Polje(コソヴォ・ポーリェ)という。セルビア語である。Poljeはロシア語のполе(ポーリェ)と同じく「野原」という意味の中性名詞、kosovoが「ツグミの」という所有を表わす形容詞で、「ツグミの野原」、つまり「ツグミヶ原」。この所有形容詞kosovoは、次のようなメカニズムで作られる。

1.まず、kosovoはkos-ov-oという3つの形態素に分解できる。

2.セルビア語で「ツグミ」はkos(コース)、そして-ovが所有形容詞を形成する形態素。セルビア語では、子音で終わる名詞(ここではkos)から派生して所有形容詞を作る場合は名詞語尾に-ovをつける。日本語の「○○の」に対応する機能だ。 ロシア語も同じでIvanov, Kasparovなどの姓の後ろにくっついているovもそれ。 Ivanovは本来「イワンの」という意味である。

800px-Common_Blackbird
これが問題(?)の鳥kos。日本語名はクロウタドリというそうだ。ヨーロッパでは雀と同じくらいありふれた鳥である。

3.最後の-oは形容詞の変化語尾で、中性単数形。かかる名詞のpoljeが中性名詞だからそれに呼応しているわけだ。だから、もし名詞が男性名詞か女性名詞だったらkosovoではなくなる。たとえばgrad(グラート、「町」)は男性名詞、reka(レーカ、「川」)は女性名詞だから、これにつく「ツグミの」はそれぞれ以下のようになる。

kosov grad    ツグミの町
kosova reka    ツグミの川

4.ところが、もし所有形容詞を派生させるもとの名詞がkosのように子音でなく母音のaで終わるタイプだったらどうなるか。所有形容詞は-ovでなく-inをつけて作られるのだ (その場合、母音aは切り捨てられる)。だから、たとえばkosa(コサ)「髪」の所有形容詞「髪の」はkosa-ovではなくkos-in。どうも妙な例文ばかりで面目ないが、理屈としては、

kosino polje    髪ヶ原
kosin grad     髪の町
kosina reka    髪の川

という形がなりたつ。

5.ロシア語の姓のNikitinなどの-inもこれ。この姓はNikitaから来ているわけだ。

 このツグミヶ原は有名なセルビアの王ステファン・ドゥーシャン統治下はじめ、中世セルビア王国を通じて同国領だったから名前もセルビア語のものがついているわけだ。1389年いわゆる「コソヴォの戦い」でオスマン・トルコ軍に破れ、1459年セルビア全土がオスマン・トルコの支配下になってからも、この地はセルビア人にとって文化の中心地、心のふるさとであり続けた。後からやって来たアルバニア人もセルビア語の名前をそのまま受け継いでここをkosovaと呼んでいる。アルバニア語なら「ツグミ」はmëllenjë(ムレーニュ)あるいはmulizezë(ムリゼーズ)だ。

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ステファン・ドゥーシャン統治下の中世セルビア王国。ペロポネソス半島まで領地が広がっているのがわかる。

 名前の直訳形がちょっと高級な雰囲気になるのとは反対に、外国語の名称を頭でちょん切るとドイツ語では蔑称になる。英語でもJapanあるいはJapneseの頭だけを取ってJapというと軽蔑の意がこもるのと同じだ。
 
 実は前からとても気になっていたのだが、日本人が旧ユーゴスラビアを指して平気で使う「ユーゴ」(JugoあるいはYugo)という言い方は本来蔑称だ。Japと同様、家の中やごく内輪の会話で実はこっそり使っていたとしても一歩外に出たら普通口にしない。事実、私はなんだかんだで10年くらい(旧ユーゴスラビアの言語も学ぶ)スラブ語学部にいたが、その間「ユーゴ」という言葉が使われたことはたった一度しかない。その一回というのも、離婚経験のあるクロアチア人の女性がクロアチア人の前夫の話をする際に「所詮あいつはユーゴよ、ユーゴ。たまらない男だったわ」とコキ下ろして使っていたものだ。つまり「ユーゴ」という言葉はそういうニュアンスがあるのだ。
 もちろん日本語の枠内では「ユーゴ」という言葉にまったく軽蔑的なニュアンスなどないから、やめろいうつもりはない。そもそもユーゴスラビアという国自体がなくなってしまったから、いまさらどうしようもないし。ただ、ドイツで旧ユーゴスラビアの話をする際つい日本語の癖を出して「ユーゴ」などと口走らないように気をつけたほうがいいとは思う。「ユーゴスラビア」と略さずに言ったってさほど手間に違いがあるわけでもないのだから。確かにドイツ語のJu.go.sla.vi.en(ユー・ゴ・スラ・ヴィ・エン)をJugoと呼ぶことによって3シラブル節約できるが、相手を侮辱してまで切り詰める価値もあるまい。


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 いろいろな言語が、語族が違うにもかかわらず、その地理的な隣接関係によって言語構造、特に統語構造に著しい類似性類似性を示すことがある。これをSprachbund(シュプラッハブント)、日本語で言語連合現象と言うが、この用語は音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイの言葉で、もともとязыковой союз(ヤジコヴォイ・ソユーズ、うるさく言えばイィジカヴォイ・サユース)というロシア語だ。バルカン半島の諸言語が典型的な「言語連合」の例とされる。

 その「バルカン言語連合」の主な特徴には次のようなものがある。
1.冠詞が後置される、つまりthe manと言わずにman-theと言う。
2.動詞に不定形がない、つまりHe wants to go.と言えないのでHe wants that he goes.という風にthat節を使わないといけない。
3.未来形の作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞の活用でもなく、不変化詞を動詞の前に添加して作る。その不変化詞はもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものである。

 このバルカン言語連合の中核をなすのはアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語である。人によっては現代ギリシア語も含めることがある。アルバニア語、ギリシア語は一言語で独自の語派をなしている独立言語(印欧語ではあるが)、ブルガリア語・マケドニア語はセルビア語・クロアチア語やロシア語と同じスラブ語派、ルーマニア語はスペイン語、イタリア語、ラテン語と同様ロマンス語派である。
 セルビア語・クロアチア語は普通ここには含まれない。満たしていない条件が多いからだ。しかしそれはあくまで標準語の話で、セルビア語内を詳細に観察して行くと上の条件を満たす方言が存在する。ブルガリアとの国境沿いとコソボ南部で話されているトルラク方言と呼ばれる方言だ。この方言では冠詞が後置されることがある。つまりセルビア語トルラク方言は、前にも言及した北イタリアの方言などと同じく、重要な等語線が一言語の内部を走るいい例なのだ。

 旧ユーゴスラビアであのような悲惨な紛争が起こって、多くの住民が殺されたり避難や移住を余儀なくされた。言語地図もまったく塗り替えられてしまったに違いない、あのトルラク方言はどうなっているのだろうと気にしていたのだが、先日見てみたらしっかりUNESCOの「危機に瀕した言語リスト」に載っていた。

セルビア語トルラク方言の話されている地域。ウィキペディアから。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1061354
565px-Torlak

 さらに調べていたら、上述の1の現象に関連して面白い話を見つけたのでまずご報告。地理的に隣接する言語の構造がいかに段階的に変化していくかといういい例だ。

1.バルカン言語連合の「中核」ブルガリア語は上で述べたようにこの定冠詞theを後置する。ъという文字はロシア語の硬音記号と違ってここではいわゆるあいまい母音である。
Tabelle1N-18
2.バルカン言語連合に属さないセルビア語標準語には、定冠詞と呼べるものはなく、指示代名詞だけだ。日本語のように「これ」「それ」「あれ」の3分割体系の指示代名詞。標準セルビア語だからこれらの指示代名詞は前置である。
Tabelle2N-18

3.西ブルガリア語方言とマケドニア語、つまりセルビア語と境を接するスラブ語はこの3分割を保ったまま、その指示代名詞が後置される。つまり、「冠詞」というカテゴリー自体は未発達のまま後置現象だけ現われるわけだ。
Tabelle3N-18
3のマケドニア語と2の標準セルビア語を比べてみると前者では3種の指示代名詞が名詞の後ろにくっついていることがよくわかる。形態素の形そのものの類似性には驚くばかりだ。
 Andrej N. Sobolevという学者が1998年に発表した報告によれば、セルビア語トルラク方言でもこの手の後置指示代名詞が確認されている。例えば、
Tabelle4N-18
ə というのは上のブルガリア語の ъ と同じくあいまい母音。godine-ve 以下の3例は複数形だ。全体として西ブルガリア語方言とそっくりではないか。

 おまけとして、「バルカン言語連合中核」アルバニア語及びルーマニア語の定冠詞後置の模様を調べてみた。一見して、1.アルバニア語はルーマニア語に比べて名詞の格変化をよく保持している(ブルガリア語はスラブ語のくせに英語同様格変化形をほとんど失っている)、2.さすがルーマニア語は標準イタリア語といっしょに東ロマンス語に属するだけあって、複数形は-iで作ることがわかる。3.ルーマニア語はさらにスラブ語から影響を受けたことも明白。prieten「友人」は明らかに現在のセルビア語・クロアチア語のprijatelj「友人」と同源、つまりスラブ語、たぶん教会スラブ語からの借用だろう。ついでにクロアチア語で「敵」はneprijatelj、「非友人」という。

アルバニア語:
Tabelle-Alb1N-18
Tabelle-Alb2-18
ルーマニア語:
Tabelle-Rum1-18
Tabelle-Rum2-18
 私はある特定の言語のみをやるという姿勢そのものには反対しない。一言語を深くやれば言語一般に内在する共通の現象に行きつけるはずだとは思うし、ちょっと挨拶ができて人と擬似会話を交わせる程度で「何ヶ国語もできます」とか言い出す人は苦手だ。でも反面、ある特定の一言語、特にいわゆる標準語だけ見ていると多くの面白い現象を見落としてしまうこともあるのではないだろうか。言語、特に地理的に近接する言語はからみあっている。そして「標準語」などというのはある意味では幻想に過ぎない。


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 一度バルカン言語連合という言語現象について書いたが(『18.バルカン言語連合』)、補足しておきたい続きがあるのでもう一度この話をしたい。
 バルカン半島の諸言語、特にアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語、現代ギリシア語は語族が違うのに地理的に隣接しているため互いに影響しあって言語構造が非常に似通っている、これをバルカン言語連合現象と呼ぶ、と以前述べた。そこで定冠詞が後置される現象の例をあげたが、いわゆる「バルカン言語」には他にも重大な特徴があるので、ここでちょっとを見てみたい。未来形の作り方である。

 上述の4言語は未来形作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞自身の活用でもなく、不変化詞を定型動詞の前に添加して作る。そしてその不変化詞というのがもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものなのだ。「私は書くでしょう」を順に見ていくと:
Tabelle1-40
「私」という代名詞は必ずしも必要でなく、shkruaj、 scriu、 piša、 γράψωがそれぞれ「書く」という動詞の一人称単数形。アルバニア語、ルーマニア語、現代ギリシャ語は接続法、ブルガリア語の動詞は直接法である。アルバニア語のtë、ルーマニア語の săが接続法をつくる不変化詞、ギリシャ語ももともとはここにναという接続法形成の不変化詞がついていたのが、後に消失したそうだ(下記参照)。まあどれも動詞定型であることに変わりはないからここではあまり突っ込まないことにして、ここでの問題は不変化詞は不変化詞でも、do、 o、 šte、 θαのほう。変わり果てた哀れな姿になってはいるが、これらはもともと「欲しい」という動詞が発達(というか退化)してきた語で、昔は助動詞で立派に人称によって活用していたのである。その活用形のうち三人称単数形がやがて代表として総ての人称に持ちいられるようになり、それがさらに形を退化させてとうとう不変化詞にまで没落してしまったのだ。

 アルバニア語のdoはもともとdua、ルーマニア語のoはoa(これだってすでに相当短いが)で、さらに遡るとラテン語のvoletに行き着く。ブルガリア語のšteはもと古教会スラブ語のxotĕti(ホチェーティ、「欲する」)の3人称単数形で、ロシア語の不定形хотеть(ホチェーチ)→三人称単数хочет(ホーチェット)、クロアチア語不定形htjeti(フティエティ)→三人称単数hoće(ホチェ)と同じ語源だ。現代ギリシア語のθαはθα <  θαν <  θα να < θε να < θέλω/θέλει ναという長い零落の過程を通ってここまで縮んだそうだ。これらの言語は語族が違うから語の形そのものは互いに全く違っているが、不変化詞の形成過程や機能はまったく並行しているのがわかるだろう。
 またこれらの未来形は動詞が定型をとっているわけだから、構造的に言うとI will that I writeに対応する。上で述べた接続法形成の不変化詞të、 să、 ναも機能としてはthatのようなものだ。またこれらの言語には動詞に不定形というものがないのだが、これも「バルカン言語現象」の重要な特徴だ。英語ならここでI will write あるいはI want to writeと言って、that節など使わないだろう。ブルガリア語でもthatにあたるdaを入れて「私は書くだろう」をšta da piša、つまりI will that I writeという方言がある。書き言葉でも時々使われるそうだが、これは「古びた言い方」ということだ。この場合、未来形形成の不変化詞がまだ助動詞段階にとどまり、完全には不変化詞にまで落ちぶれていないから全部一律でšteになっておらず、štaという一人称単数形を示している。「君は書くだろう」だとšteš da pišešだ。問題の語が語形変化しているのがわかるだろう。

 面白いのはここからなのである。

 前にも言ったように、普通「バルカン言語連合」には含まれないセルビア語・クロアチア語が、ここでも微妙に言語連合中核のブルガリア語とつながっているのだ。
 まずセルビア語・クロアチア語は動詞の不定形をもっているので、未来形の一つは「欲しい」から機能分化した助動詞と動詞不定形でつくる。言い換えるとここではまだ「欲しい」が不変化詞にまで退化しておらず助動詞どまりで済んでいるのだ。
Tabelle2-40
ブルガリア語のštはクロアチア語・セルビア語のćと音韻対応するから、上のほう述べたブルガリア語の助動詞3人称単数形šte、その2人称形štešはセルビア語・クロアチア語では計算上それぞれće 、ćešとなるが、本当に実際そういう形をしている。一人称単数はブルガリア語でšta、セルビア語・クロアチア語でćuだからちょっと母音がズレているが、そのくらいは勘弁してやりたくなるほどきれいに一致している。セルビア語・クロアチア語では「書く」がpisatiと全部同じ形をしているが、これが動詞不定形だ。

 セルビア語・クロアチア語では上のような助動詞あるいは動詞+動詞不定形という構造と平行してthatを使った形も使う。おもしろいことに西へ行くほど頻繁に動詞不定形が使われる。なのでクロアチア語では「私はテレビを見に家に帰ります」は動詞の不定形を使って

Idem kući gledati televiziju
go (一人称単数) + home + watch(不定形)+ TV(単数対格)
→ (I) go home to watch television


というのが普通だが、東のセルビア語ではここでthatにあたるdaを使って

Idem kući da gledam televiziju
go (一人称単数) + home + that + watch(一人称単数)+ TV(単数対格)
→ (I) go home that I watch television

という言い方をするようになる。だから未来形もその調子で動詞定型を使って次のようにいえる方言がある、というよりこれが普通だそうだ。
Tabelle3-40
上で述べたブルガリア語の方言あるいは「古風な言い方」とまったく構造が一致している。ところがセルビア語の方言にはさらに助動詞のću /ćeš/ će/ ćemo/ ćete/ ćeという活用が退化してću /će/ će/ će/ će/ ćuとなり、かつdaが落ちるものがあるとのことだ。(私の見た本には三人称複数形の助動詞をćuとしてあったが、これはćeの間違いなのではないかなと思った。)
Tabelle4-40
 ここまできたらću /će/ će/ će/ će/ ću(će?)が全部一律でćeになるまでたった一歩。あくまで仮にだが、未来形が次のようになるセルビア語の方言がありますとか言われてももう全然驚かない。
Tabelle5-40
この仮想方言(?)を下に示すブルガリア語と比べてみてほしい。ブルガリア語は本来キリル文だが、比べやすいようにローマ字にした。
Tabelle6-40
šteがćeになっただけであとはブルガリア語標準語とほとんど同じ構造ではないか。前に述べた後置定冠詞もそうだったが、セルビア語はいわゆるバルカン言語の中核ブルガリア語と言語連合の外に位置するクロアチア語を橋渡ししているような感じである。

 バルカンの言語は結構昔から大物言語学者が魅せられて研究しているが、こういうのを見せられると彼らの気持ちがわかるような気がする。もっとも「気持ちがわかる」だけで、では私も家に坐ってこんなブログなど書いていないで自分で実際に現地に行ってフィールドワークしてこよう、とまでは気分が高揚しないところが我ながら情けない。カウチポテトは言語学には向かない、ということか。


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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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 マカロニウエスタンにはいわばシリーズとなったキャラクターがいくつかある。複数の作品で複数の俳優によって演じられた主役キャラで、『52.ジャンゴという名前』で述べた「ジャンゴ」が最も有名だ。1966年に『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロが演じてバカ受けしその後何十もの「ジャンゴ映画」が製作された。ジャンゴほどではないが、他にサバタ、サルタナというキャラクターも繰り返し登場する。後者のサルタナというキャラクターを普及させたのはジャンニ・ガルコという俳優で1966年のMille dollari sul nero(ドイツ語タイトルSartana、日本語タイトル『砂塵に血を吐け』)が第一作。ガルコは当時ジョン・ガルコと名乗っていた。氏はさらに時々ゲイリー・ハドソンGary Hudsonという芸名も使っている。
 Mille dollari sul neroでのサルタナという名前のキャラクターはむしろ(というより完全に)悪役だったが、この作品が特にドイツで当たって上述のようにタイトルもズバリSartana「サルタナ」となったのを受けて、その後もサルタナの名前をタイトルに使ったジャンニ・ガルコ主演の映画が4本作られた。ガルコ自身がキャラクター設定に関与し監督ジャンフランコ・パロリーニにも提案して、薄汚いカウボーイタイプではなくエレガントで気取った賭博者タイプ、いつも真っ白いシャツを着ているオシャレなタイプのガンマン路線で行くことになったそうだ。さらにガルコは以後の映画出演では契約書にいつも条件をつけて、主人公のキャラクターがこの基本路線に合致しない場合は映画のタイトルにサルタナという名前を出さないことにさせた。ところが1970年に来た「サルタナ映画」のオファーの脚本を見たところ、サルタナという名の役のキャラ設定が全然基本に合致していない。すでに時間が迫っていて脚本の修正も不可能だった。そこでガルコはオファーは受けたが、映画のタイトルにサルタナの名前は使わせなかった。それがUn par de asesinosという作品である。しかしドイツ語のタイトルは… und Santana tötet sie alle「そしてサタナが全員殺す」とちゃっかりサルタナを想起させるようになってしまっているばかりか、本国イタリアでも再上映の際タイトルが変更されてLo irritarono... e Santana fece piazza pulitaにされた。英語タイトルなどモロSartana kills them allである。しかしこの作品はサルタナ映画としては非公認である。
 そういうわけでガルコがサルタナ(あるいは紛らわしいサンタナ)という名の主人公を演じている映画は実は全部で6本あるのだが、最初のMille dollari sul neroではまたキャラクターが完全に確立していなかったし、Un par de asesinosではキャラが基本路線から外れているということで除外され、…Se incontri Sartana prega per la tua morte(1968、ドイツ語タイトルSartana – Bete um Deinen Tod「お前の死を祈れ」)、Sono Sartana, il vostro becchino(1969、ドイツ語タイトルSartana – Töten war sein täglich Brot「サルタナ;殺しは日々の糧」)、Una nuvola di polvere… un grido di morte… arriva Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana kommt…「サルタナがやって来る」、日本語タイトル『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』)、Buon funerale amigos… paga Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana – noch warm und schon Sand drauf「(体は)まだ暖かいのにすでに砂まみれ」)の4本だけが「ガルコ公認サルタナ映画」である。それにしても皆すさまじいタイトルだ。ちょっと調べたところこれらは日本では劇場未公開である。最初の公認サルタナ映画…Se incontri Sartana prega per la tua morteにはウィリアム・ベルガーが共演しているが、そういえばベルガーも後に『野獣暁に死す』で、人を殺した後服装の乱れを気にするというタイプの気取り屋タイプの殺し屋を演じていた。サルタナ路線を引き継いだのかもしれない。また、本家ガルコのサルタナ映画はこの6本(あるいは4本)しかないが、ガルコ以外の俳優、例えばジョージ・ヒルトンなどもサルタナというキャラを演じている。フランコ・ネロ以外もジャンゴをやっているのと同じことだ。逆にガルコのほうもサルタナ以外の西部劇にも出ていて、氏が出演したマカロニウエスタンは14作品ある。

 氏はフランコ・ネロとロバート・レッドフォードを足して二で割ったのをちょっとゴツくしたような好男子であるが、一度インタビューでマカロニウエスタン誕生の瞬間に立ち会った様子を語っている。

 1964年、セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアで『荒野の用心棒』を撮っていたとき、ガルコもちょうどマルチェロ・バルディ監督のSaul e Davidという聖書映画に出演していたためそこにいた。「イスラエルのように見える景色」ということでアルメリアがロケ地として選ばれたそうだ。あるときホテルで、ちょうど撮影から宿に戻ってきてバーのカウンターに腰を掛けていた男に会ったが、それがどこかで見たような顔だった。誰かがあれはセルジオ・レオーネで、今彼の第一作目の映画を撮っているんだと教えてくれた。そこでその男の隣に坐って、どんな映画を撮っているのか聞いてみたら、レオーネが言うには、ジャン・マリア・ヴォロンテが悪役をやるちょっとした西部劇だ、とのことだった。そして雑談となり、いろいろ話をしていたら突然背の高い痩せた男が入って来たではないか。これが主役さ、アメリカ人でクリント・イーストウッドというんだ、とレオーネは言った。
 翌日自分の方のプロデューサーにその話をして、レオーネの撮っているのはどんな映画か聞いてみたら、プロデューサー曰く、「ちょっとした西部劇だが、ほとんど無予算でね。爆破のシーンがあるというんで工面してやらないといけなかった。レオーネ自身はその金がなかったんでね」。レオーネが極度の予算不足にあえいでいたのは、そのプロデューサーがケチ、というより約束した予算の支払いさえ滞りがちだったからだそうだ。ガルコのプロデューサーのほうはたんまり予算を貰っていたのである。
 ガルコは自分の映画が終わるとイタリアに帰ってミラノで舞台で仕事をしていたが(この人は元々舞台出身である)。『荒野の用心棒』の大当たりを目の当たりにした。映画館で見たそうだ。比べて予算のタップリあった自分の映画は全然ヒットしなかった。イタリア映画界は猫も杓子も西部劇を撮り出していて宗教映画など上映してくれるところがなかったのである。それで二年後に舞台契約が切れたとき、西部劇で役はないかと探していたら簡単に見つかった。それが上述のMille dollari sul neroだ。監督のアルベルト・カルドーネが「舞台経験のある悪役俳優」を探していたそうである。

真っ白なシャツに粋なネクタイというサルタナの特徴的ないでたち
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その粋ないでたちで銃を粋に担ぐ
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Sono Sartana, il vostro becchinoのドイツ語バージョンから。安物DVDだけに画質が悪い。
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 映画史に触れるこういう話も面白いが、それに劣らず面白いのは氏の生まれそのものである。ガルコは本名ジョバンニ・ガルコヴィッチGiovanni Garcovichと言ってクロアチアのダルマチア地方にあるZara(これはイタリア語名。クロアチア語ではZadar)という町の生まれだ。道理で姓が南スラブ系なわけだ。ここでクロアチアが出てくるのには歴史的理由がある。

 ダルマチアもそうだが、現在クロアチア領になっているアドリア海沿岸は長い間イタリア、というよりベネチア共和国に属していた。697年から1797まで千年以上続いた共和国である。ダルマチアは1409年からベネチア領になり、18世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国支配下にはいった。何百年もイタリア領だったうえ直接支配を受ける以前、1000年ごろからアドリア海に出没する海賊などからの保護をベネチアが受け持っていたりしたこともあってすでにダルマチアとベネチアは密接につながっていたから、今でもイタリア系住民がいる。ガルコの生まれたZara市に至っては第一次世界大全から第二次世界大戦の間、1920年から1947年までイタリア領だった。大戦後ユーゴスラビアの領土になった際、そこに住んでいたイタリア系住民はほとんどイタリアに引き上げたそうだが、ガルコは1935年の生まれだから、生まれた時からイタリア国籍のはずである。本名がGarković とクロアチア語綴りでなくGarcovichとイタリア語表記になっているのはそのためかもしれない。

16世紀ごろのベネチア共和国。Zara市がその領土であるのがわかる。ウィキペディアから。
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18世紀になってもイストリア半島を含むクロアチアのアドリア海沿岸部はベネチア領であった。
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両大戦間のイタリア領の飛び地Zara
Zara-Zadar-1920-1947

 クロアチアの北西部、スロベニアと境を接するところにある三角型をした半島、イストリアもまた伝統的にベネチア領で、やはりイタリア系住民が少なくない。先日もTVのドキュメンタリー番組でイストリア半島の漁師のことをやっていたが、この人の母語はクロアチア語でもスロベニア語でもなく、「イタリア語の一方言」と番組では言っていた。この「方言」とは普通ウェネティー語またはウェネト語(ヴェネト語)と呼ばれるベネチアの言葉であろう。クロアチアの南にある「モンテネグロ」という国名がこのウェネト語であることは以前にも書いた(『45.白と黒』参照)。
 ただし、ここでいうウェネト語は『122.死して皮を留め、名を残す』の項で名を出した、ローマ時代のウェネト語とは違う。ローマ時代のウェネト語はラテン語のいわば兄弟言語で、後にラテン語に吸収されてしまった。エトルリア語と運命を共にしたのである。現在のウェネト語はラテン語の末裔である。同姓同名なのでややこしいが「別人」だ。

 またクロアチア人は宗教的にもカトリックで、マリオとかアントニオとかのイタリア系の名前が目立つ。事実上同じ言語を話しているセルビア人は名前もスラブ系なのと対照的だ。ジャンニ・ガルコの本名もしっかりこのパターン、名前がイタリア語、姓がスラブ語というパターンを踏襲している。氏は少なくともイタリア語・クロアチア語のバイリンガル、ひょっとすると母語はイタリア語オンリーだったと思われる。「若いうちにトリエステに移住し俳優学校で学んだ」と非常に簡単に経歴には書いてあるがこれが曲者で、トリエステに出たのは1948年、つまり僅か13歳のとき。まだ子供といっていい年齢の時だ。しかもZara市がユーゴスラビア領になってまもなくである。この時期、ユーゴスラビアのアドリア海沿岸部、つまりイストリアとダルマチアで、戦争中ファシストがバルカン半島で働いた蛮行への復讐のためイタリア系の住民が虐殺される事件があいついだ。イタリア系住民ばかりでなく「戦争中共産党ではなかった」人まで殺された。フォイベの虐殺と呼ばれているが、このFoibeというのはイタリア語でカルスト地形にできた穴を指し、犠牲者が殺された後、または生きながらここに放り込まれたためそう呼ばれている。ガルコもこの虐殺から逃げてきたのではないだろうか。トリエステまで親戚といっしょに来たのか、それとも親戚は殺されてたった一人でトリエステに辿りついたのか私にはわからないが、「移住」などという生易しいものではなかったはずだ。とにかく、このトリエステで舞台演技を学び、後にローマに出てAccademia d’Arte Drammaticaでさらに学び、1958年から映画にも顔を出すようになって、ヴィスコンティなどとも仕事をしている。

 時は流れて今度はクロアチア人が辛酸を舐めたが、この国はユーゴスラビア崩壊の後、2013年に晴れてEUに加盟する遥か以前、ドイツが批准するより一年近くも早い1997年11月にいち早くヨーロッパ地方言語・少数言語憲章Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen(『37.ソルブ語のV』参照)を批准し、1998年から施行した。それによってイタリア語が国内の少数言語として正式に認められ保護されている。正式にクロアチアの少数言語と認められているのはイタリア語のほかにルシン語(パンノニアで話されている東スラブ語)、セルビア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、ウクライナ語である。ドイツの批准は1998年9月、施行が1999年11月。イギリスはさらに遅くて批准が2001年3月、施行が同年6月である。フランスやイタリアのほうはいまだにこれを批准していない(『83.ゴッドファーザー・PARTI』『106.字幕の刑』参照)。

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 アルバニアの北部地方とコソボには「男として生きる」女性たちがいる。「いた」と言った方がいいかもしれないが、「宣誓処女」(英語でsworn virgin、ドイツ語でSchwurjungfrau)と呼ばれる人たちだ。アルバニア語でburrneshëまたはvirgjineshëといい、北アルバニアやコソボの他、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアなどにも存在していた記録がある。アルバニアということはつまりいわゆるゲグ方言地域である。『100.アドリア海の向こう側』でも書いたようにアルバニア語は南部のトスク方言、北部のゲグ方言に大きく二分され、トスク方言地域はイタリアとも近く、海に向かって開けているある意味コスモポリタン的なところで古くからギリシャ・ローマの文化にも接触のあった先進部だった。現在の標準アルバニア語のもとになったのはこのトスク方言である。対してゲグ方言地域は山がちで外部との接触も少なく人々は閉ざされた封建的な部族社会を形成していたので、ゲグ方言は単にトスク方言と違うばかりでなく方言内部の差も大きい。ゲグ方言とトスク方言の最も顕著な違いの一つは、ゲグ方言で n にあたるところがトスク方言ではロータシズムを起こしていることだ。前に出した例の繰り返しになるが、ゲグ方言の dimën「冬」がトスク方言では dimërとなる。さらにゲグ方言ではバルカン言語連合(『40.バルカン言語連合再び』参照)の特徴に反し、未来形を作る助動詞に「欲しい」 でなく「持つ」を使う。例えば「私は書くだろう」はそれぞれ次にようになる。

トスク方言: do të shkruaj
ゲグ方言:       kam me shkrue

トスク方言の do (下線)は助動詞と言うより助詞・不変化詞にまで退化してしまっているが、元々は「欲しい」という動詞である。次に続く本動詞のtë shkruajは接続法単数一人称。対してゲグ方言の kam(下線)は「持つ」という動詞で語形変化のパラダイムも維持しており、これは直説法単数一人称だ。本動詞の me shkrue のほうが語形変化を消失していて、これは不定形である。「不定形の消失」もバルカン言語連合の特徴の一つだから、この点でもゲグ方言は乖離していることになる。もっともこの「have未来」は他のバルカン言語にも周辺部で細々と観察されてはいる。こちらの方が古い形で「will未来」はそれこそバルカン現象として新しく発生した形らしい。上で挙げたn についてもロータシズムを「起こさない前の」形だから、つまり色々な点でゲグ方言は古い形を維持しているわけだ。社会慣習についてもそれが言えるのだろう。

アルバニア語の方言分布。ゲグ方言の方が細分化の程度が大きいのがわかる。ウィキペディアから。
Albanian_language_map_en.svg
 話を戻すが、burrneshë(ブルネシェ)というのは単数形で複数形はburrnesha(ブルネシャ)。またアルバニア語は冠詞を拘置するからそれぞれの定冠詞形はburrnesha(the burrnesha)、burrneshat(the burrneshas)となる。そのブルネシャは自分の属する村あるいは共同体の長老たちの前で、一生処女で過ごし男となることを宣言する。以後は男の服を着、煙草を吸い、一人で外に出かけて酒場で皆と酒を飲み、さらに職を持って収入を得ることができる。周りの男たちからも男仲間として扱われ、家長にもなれる。それらを定めた慣習法は中世以前、いやローマ以前からあったらしいが、法典(Kanunと呼ばれる)として文書化もされている。最も有名なのが15世紀にレケ・ドゥカジニLekë Dukagjiniという北アルバニアの支配者がまとめたKanunだが、20世紀初頭に至ってもコソボの司祭が再法典化している。

レケ・ドゥカジニの支配した地域。なるほど北アルバニアだ。ウィキペディアから。
Ungefähres_Herrschaftsgebiet_Leke_III._Dukagjini
法典では「復讐法」と言ったらいいのかblood fuedの定めもある。家族の者が害を受けたら加害者の家族に同じことをやり返していい、いややり返さなければいけないという規定で、似た習慣はシチリア、コルシカにもある。『ゴッドファーザー パートII 』の主要テーマにもなっていた。ついでに言えば、シチリアには中世からアルバニア人が住んでいた。

 女性がブルネシャになる主な理由は二つある。第一に、家長によって決められた結婚をしたくない、そもそも結婚したくない場合。上で述べたブルネシャの特権とやらを見てほしい。人とバーに行ったり酒を飲んだり家族の大黒柱になるなど、日本社会なら女性が普通にやっている。男友達も含めた知り合いで集まって楽しくビールを飲むなど、やったことのない女性がいたらお目にかかりたい。そういう普通のことが当地では男性にしかできなかったのである。こういう社会での「結婚」というものが女性にとってどれだけの苦痛であるかは想像するに難くない。もっとも結婚が女の地獄であったのはロシアでもそうだったらしい。プーシキンだのカラムジン、果ては『イーゴリ戦記』だのの貴族文学ばかり読んでいるとわかりにくいが、ロシアの民謡には「嘆きの歌」というジャンルがあるそうだ。どういう時にこの歌を歌うのかと言うと、若い女性が結婚の際に心痛を吐露するのだという。ショーロホフやゴーリキイの短編にもこの地獄を描写した作品がある。これから逃れるには男になるしかなかったのだ。女のままでいたら最後、家長が勝手に夫を決めて強制的に向こうの家族に「あてがわれて」しまう。拒否権はないのである。もちろん現在ではそこまで酷くはないだろうが、私も何年か前にそういうアルバニアの社会意識がドイツに持ち込まれたのを垣間見る機会があった(『13.二種の殺人罪』参照)。
 ブルネシャになる第二の理由は、家族に息子が生まれないことだ。息子がいないと父親の土地や財産を相続することができない。職業につける者もいないから、家族が没落してしまう。また息子がいてもあまりにもボンクラでとても家族を率いる技量がない場合、娘の一人が男にならざるを得ないのである。また親戚の家、例えば叔父さんの家などにまともな息子がいなくて、頼まれてブルネシャとして向こうの家族に出向く女性などもいたということだ。
 このブルネシャの存在は20世紀の初頭に英国の旅行家イーディス・ダラム Edith Durham が著書のHigh Albania(1985年にリプリントが出ているそうだ)で報告しており、最近でも(でもないが)2000年にアントニア・ヤング Antonia YoungのWomen who became menという本が出ている。ヤングはそこでブルネシャたちへのインタビューも行った。以後人類学者ばかりでなく普通のマスコミ雑誌などでもこのブルネシャが取り上げられて有名になった。ストラスブールの放送局ARTEも2019年にもドキュメンタリを流している。ネット上にもブルネシャについての記事が結構あるが、どうも興味本位というか怖いもの見たさというか、知られざる世界的なセンセーション狙いを感じさせられてちょっと引っかかるものが多かった。そういう私もここでこうやってブルネシャについて書いているので同じ穴のムジナかもしれないが、『138.悲しきパンダ』でもちょっと述べたようにエキゾチック感覚に飢えて人様の文化・習慣にドカドカ土足で踏み込む、珍獣を写真に捉えたと言って喜ぶような感覚には違和感を覚える。日本人からすると舞子と芸者の区別もつかない外国人が京都にドカドカ押しかけてただ単に着物を来ていただけ女の人を撮影し、インタビューし、「接触に成功。これがニッポンのゲイシャだジャーン」的な薄っぺらい記事を書かれた時の感覚だろうか。ひょっとしたら外国に日本の文化が紹介されたと言って喜ぶ人もいるかもしれないが、私だったら「見せもんじゃないぞ!」と怒っただろう。当地の社会学者がそこら辺のことに触れているが、今も残るブルネシャ(たいていはすでに高齢だ)はマスコミに完全に誤解されたと感じており、もうジャーナリストとやらとは関わりたくないといっているそうだ。きわめて少数だが外部の「エキゾシズム・フリーク」に乗じて商売を始めた者もいる。3時間から5時間のインタビューに100ユーロだかの料金を要求したりするそうだ。ブルネシャに会うパッケージ・ツアーまである。ブルネシャに会って握手をしてもらうと150ユーロ、インタビューが250ユーロ、いっしょに写真を取ると400ユーロという具合だ。その社会学者はそういう様子を見て非常に心を痛めていたが、私の方まで悲しくなりそうだ。
 上述のARTEにしても、この放送局は非常に硬い番組しか流さないので全く大衆受けがせず視聴率の低い放送局だが、そのARTEのドキュメンタリでさえ、人工的なストーリー性を感じすぎた。ただ、他のアルバニア人、例えばティラナなど開けたトスク方言地域の人は自国のこういう習慣についてどう思っているのかも見せてくれたのでその点公正だと思う。「主人公」の若いアルバニア人女性は北にブルネシャという習慣があることを知り会って話を聞こうとする。それを知った母親は「止めなさいよ、そんな人に会うのは。だって普通じゃないでしょそんな人」と吐き捨てるように言っていた。

ARTEのドキュメンタリに登場したブルネシャ。
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 この記事の冒頭に「いたと言った方がいいかもしれない」と書いたが、ブルネシャの習慣はもう廃れていっており、存命のブルネシャは100人もいないのではないかと思われる。だから「全滅しない今のうちに」と(あさましい)パッケージ・ツアーまで生まれるのだろうが、そのうち誰もいなくなるであろうことは確実だ。現在のアルバニアではブルネシャなどになる必要がなくなったからだ。女性は女性のままで(?)男性の付き添いなどなくても外に出られる、職業にもつける、Kanusはその影響力を失い、強制結婚も行われなくなった(まだ残滓のあることは上で述べたとおりである)。もちろんまだ男女同権からは程遠いが、ブルネシャの存在意義はもうなくなっている。

 さて、社会学者はさすがにセンセーション狙いなどせず地味にジェンダー論的観点からブルネシャを観察していた。ブルネシャは「第三の性」なのか、またブルネシャという制度は超封建的な男社会の軛から女性が少しでも開放できるいわば救済制度だったのか。ある意味では女性はブルネシャになることによって男性の持つ殺傷与奪圏外に逃れられたからである。
 まず二番目の疑問に対してはLittlewoodという人(だけではないが)がキッパリとノーといっている。むしろその逆で、男性が支配し女性が隷属するという封建体制をさらに強固にするものであったと。女性と言うジェンダーのままでは自分自身の人生を謳歌できない、それができるのは男性だけだという厳しい2分割原則は全く揺るがないからだ。例えばヤングのインタビューしたブルネシャには過剰適応気味の人がいた。男性以上に女性(つまりセックスの点では同性)に対して支配的、ほとんど攻撃的にふるまう人がいたそうだ。ブルネシャはいわゆる「女性解放」とは反対の側にたっている。
 さらにいわゆる「男装の麗人」ともメカニズムが反対だ。男のような着物を着、男のような言葉使いで暮らしている女性のタイプは映画やマンガに時々出てくるが、これはあくまで女性性を強調にする作戦に過ぎない。現に「麗人」という言葉が表している通り、こういう女性は若くて美人、つまり男性の要求する女性性そのものであり、それが証拠にその手の麗人たちが最後にはちゃっかり男の恋人を見つけてめでたしめでたしになるストーリー展開が多い。変なたとえだが塩を少し入れると汁粉の甘さが引き立つごとく、標準のジェンダー像からわざと外して奇をてらうことによってさらに女性性を強調する手で、一見方向が逆のようだが胸にシリコンを入れ唇にはこれでもかとルージュを塗りたくって女を前面に押し出すのと目的は同じである。
 ブルネシャの本質はセックスの点では「無性」(だから処女を宣誓するのだ)、ジェンダーとしては男ということだ。LGBTなどで時々言われる「第三の性」とも違う。無性だからセックスとジェンダーのギャップ問題も起きない。インタビューで見る限り自己内部の葛藤に悩む声も聞こえてこない。ただ、無性であっても人体構造上は女性だから全く男性と同じわけにはいかない時もある。病気をしたとき男性病棟に入院したいか女性病棟か聞かれたブルネシャは女性病棟だと答えたそうだ。また血の復讐法でも理論上は殺される権利(!)のあるブルネシャが実際に殺された例はほとんどないという話も聞いた。そういった「誤差」はある。あるが「男性ジェンダーの強化」という本質は変わるまい。
 いずれにせよ、このブルネシャが全くいなくなる日は近そうだ。

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