アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:スポーツ > F1

 次のポーランド語の文を見て完全に硬直した。

Bolid Stuck'a ominął obu porządkowych, jednakże Pryce nie mógł ominąć 19-letniego Jansena Van Vuurena.

このセンテンスがあまりにロシア語と似ていて、全くポーランド語を習ったことのない者にも構造から何からわかってしまうからだ。スラブ諸語間の音韻対応に注目しつつ、ローマ字からキリル文字に変換すればポーランド語がそのままロシア語になるくらい似ている。

 まず、音韻面では次のように変換する。

1.ポーランド語ominąłのąに変な尻尾がついているのが見えるだろう。これは a でなく鼻母音のo だ。ロシア語ではこれがu となる。古教会スラブ語の鼻母音o もロシア語のu に対応する。例えば「知恵・賢さ」という語は以下のようになる。õ が鼻母音のo、у が u である。
 
mõdrosti (古教会スラブ語) - мудрость (ロシア語)

2.jednakżeのjeはロシア語のo。西スラブ諸語だけでなく南スラブ諸語のjeもロシア語のo に対応する。 以下は「1」を意味する語の比較である。

jedan (クロアチア語) - один (ロシア語)

3.ポーランド語には音声学的には /r/ に口蓋音バージョン、つまり r の軟音がないが、音韻的には rz がロシア語のr の軟音、つまりрьに対応する。ベラルーシ語にもr に口蓋・非口蓋の対立がない。

4.ちょっと苦しいが、rz のあとの鼻母音o はu にせずa と変換する、という特別規則を作る。すると、ポーランド語のporządkowychはロシア語では変換してпорядковыхとなる。

5.ć をтьに変換する。

6.kżeをкоにする。

上のポーランド語をここまでの変換規則にインプットすると次のようなロシア語に自動変換してアウトプットされてくる。

Болид Штука оминул обу порядковых, однако Прайс не могл оминуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

 この変換は「自動翻訳」などではなく、単にポーランド語のラテン文字をキリル文字に変換し、ただその際ちょっと修正しただけである。これですでに何となくロシア語になっているのだが、まだ完全ではないので、さらに形態素・シンタクス上で次のような変換をかける。

7. ominąć のo は接頭辞として付け加えられたもの、つまり語幹ではないので削除する。と、ポーランド語ominąćはロシア語のминутьになる。

8. ポーランド語の ł の発音はwで、動詞の男性単数過去形が子音で終わる場合もしつこくくっ付いてくるが、ロシア語ではл はあくまでlで、動詞の男性過去形が子音で終わる場合は現れない。だから子音の後ろでは消えてもらう。するとポーランド語mógł はмогとなる。
 ちなみにクロアチア語ではмогはmogaoである。

9. ポーランド語ではobaが女性名詞単数扱いなのか、対格形がobuになっているが、これを形容詞変化にして活動体の対格形にする。

ここまでで次のロシア語が出来る。

Болид Штука минул обоих порядковых, однако Прайс не мог минуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

 仕上げとして語彙面で次のような変換をする。

10. ロシア語ではпорядковых(パリャートコヴィフ、「順序の」)を(たぶん)名詞的な意味に使って人を指したりしない(と思う)ので、語幹のпорядок(パリャードク、「順序、秩序、制度」)を残しつつ別の単語распорядитель(ラスパリャジーチェリ、「管理者、経営者、担当者」)に変える。

11. ひょっとしたらминуть(ミヌーチ、「まぬがれる、過ぎ去る」)もизбегать(イズビェガーチ、「避ける、まぬがれる」)あたりにした方がいいんじゃないかとも思うが、せっかくだからそのまま使う。

すると、
 
Болид Штука миновал обоих распорядителей, однако Прайс не мог минуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

シュトゥックのマシンは双方のサーキット担当者の脇を通過した。が、プライスは19歳のヤンセン・ヴァン・ヴーレンを避けることができなかった。

となる。ネイティブの審査を通していないので、まだ不自然な部分があるかもしれないが、基本的にはたった11の簡単な規則だけでポーランド語がロシア語に変換できてしまった。これを日本語に変換することなど不可能だ。しかも「翻訳」ではなく単なる「音韻変換」でだ。そんなことををやったらとても「不自然」などというレベルではなくなるだろう。

 ちなみにbolidというのは本来「火を噴きながら落ちて来る隕石」だが、ドイツ語やポーランド語では「競走用のマシン」という意味でも使われている。最新のロシア語辞典なんかにもこの意味が載っているが、私の独和辞典にはこの意味の説明がなかった。辞書が古いからかもしれない。

 しかし私が硬直したのはもちろんポーランド語とロシア語の類似よりも内容のせいだ。書いてあるのは1977年に南アフリカのキャラミというサーキットで起きた事故の模様の描写の一こまで、ここで事故死したトム・プライスというレーサーを私は当時ひそかに応援していたのだ。プライス選手はそのとき27歳だった。
 ちなみに私はF1というと富士スピードウェイ、「ロータス」というとM・アンドレッティの運転していた漆黒のJPSロータスを思い出すというどうせ年寄りだが放っておいて貰いたい。1976年と1977年には2回とも富士スピードウェイにF1観戦に行った。6輪タイレルにそこでベタベタ触ったし、後に世界チャンピオンになったジョディ・シェクターとは握手して貰った。ジェームズ・ハントも新宿のホテルの前で見かけた。当時エンジンはフォードV8、フェラーリ水平対抗12、リジェ・マトラV12、アルファロメオ(気筒数を忘れた)の4つだけという牧歌的な時代で、目をつぶって音だけ聞いていてもエンジンが区別できた。マトラのやたらキンキン甲高いエンジン音がまだ耳に残っている。さらに漆黒ならぬ赤いロータスImperial Specialもしっかり記憶に残っている。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。とかいう話を始めると止まらなくなりそうなのでここでは自制することにして、ちょっと上の文章の登場人物だけ解説させてもらいたい(自制していないじゃないか)。
 Stuckというのはドイツ人のレーサーH.J.シュトゥック選手のことで、事故のときプライス選手のすぐ前を走っていた。よく「スタック」という名前になっているが、これは日本人の悪いクセでドイツ人の名前をなぜか英語読みにしたせい。「シュトゥック」と読むべきだ。
 そのシュトゥック選手の前方で別のマシンがクラッシュして発火したのでサーキットの従業員が二人消火器を持って駆けつけたのだが、その一人がコースを横切ろうとした時、ちょうどそこに走ってきたプライスのマシンに轢かれた。全速力のF1とぶつかった彼も即死だったが、彼の抱えていた消火器がプライスの頭部を直撃し、こちらもその場で亡くなった。プライス選手の足が死後もなおアクセルを踏み続けていたのでマシンはそのまま全速力で走り続け、フェンスに突進してそこでようやく止まった。Jansen Van Vuuren(ヤンセン・ヴァン・ブーレン)というのが亡くなった従業員の名前で、当時まだ19歳の少年だった。見てのとおりアフリカーンス語の名前である。またサーキットの名前「キャラミ」(Kyalami)というのはズールー語で、「私のうち」という意味だそうだ。あまりに衝撃的な事故だったのでいまだに当時の新聞記事の日付まで覚えている。朝日新聞3月6日の朝刊で報道されていた。事故そのものは3月5日だった。


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 私の住んでいる町はホッケンハイムのすぐ近くである。そう、あのジム・クラークが亡くなったサーキットだ。そもそも私がこの町に来たのもここがホッケンハイムから近かったのも一因なのだが、もう30年近く前こちらに来てすぐ、まだロクにドイツ語もしゃべれず右も左もわからないのにさっそく電車に乗ってホッケンハイムのサーキット見物に出かけた。あの頃は勝手に中に入って散歩ができたが、今はどうなっているのだろう。当時はまだ最寄の駅がちょっとボロかったが、何年か後に電車で通り過ぎたらきれいに改造されていた。
 『38.トム・プライスの死』でも書いたように実は私は1970年代のF1を結構覚えているのだが、世界チャンピオンにもなったJ・ハントとしばらくの間いっしょにマクラレンM23・M26に乗っていたヨッヘン・マスという選手がこの町の出身と聞いていた。一度M大学の学食でさっそくそんな話を隣の人にしたら、「うん、皆マスがここの出身だって言うけど、本当はここの近くのバート・デュルクハイムって小さな町の出なんだよね。まあ、本拠地ここだったみたいだし、住んでたのはこっちだから「M市出身」であながち間違いでもないけどさ」といきなりツーカー話が通じてしまった。日本では「ヨッヘン・マスって誰ですか?」と聞き返されるのがオチだったから、ああ、ドイツに来たんだなあ、としみじみ思ったものだ。

 さて、ジム・クラークといえばロータスである。私よりちょっと年上の方々には、ロータスというと真っ先に「モスグリーン」と連想する人も多いだろうが、大抵の人はM・アンドレッティが運転していた漆黒のJPSロータスを思い浮かべると思う(すでにこれが古いって)。が、77年の富士スピードウェイに限ってロータスが一台真っ赤だったことをご存知だろうか?このときだけロータスに一台だけスポンサーがついてJPS LotusでなくImperial special Lotusだったのだ。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。ロニー・ピーターソンもそんな感じだったが、いかにもスウェーデンらしく顔は少し怖かったがおとなしい人だった。
 私は76年、77年とももちろん富士スピードウェイにF1を見に行ったが、雨もよいの76年はメインスタンド付近、秋晴れの美しい日となった77年は最終コーナーのところに陣取った。そこでマシンが次々にやってくるのを見ていたわけだが、全く見慣れないマシンをみつけて驚いた。一周目には何だかわからなかったが、2周めにまた走ってきたときやっとロータスだと見分けがついたのである。でもその赤いロータスに驚いたのは私だけではない。周りで観戦していた人も結構ザワザワしだして、「おい、あれはロータスだぜ!なんと!ロータスが赤いぜ!」と皆口々に興奮して騒いていたから。

ああ懐かしい。これがニルソンの「赤いロータス」。エンジンはフォードV型8気筒であった。
grandprixinsider.comから

1977-nilsson-imperial-lotus-78

 あの頃は本当に牧歌的ないい時代で、エンジンはフォードV8、マトラV12、フェラーリ水平対抗12くらいしかなく、目をつぶって音聞いただけでエンジンがわかったものだ。腹の底にドーンと響いて来るような低音がフォード、頭のてっぺんにキンキン来るような甲高い音がマトラ12、その中間がフェラーリだった。たしかアルファロメオも走っていたはずなのだが、これは全く音が記憶にない。
 マリオ・アンドレッテイ、ジェームス・ハント、パトリック・デパイエやピーターソンは実物に会ったし(ハントは新宿で見かけた)、ジョディ・シェクターには握手してもらった。6輪タイレルP34とかにもベタベタこの手で触ってやった。あまり自慢にもならないが。
 1980年代になると富士スピードウェイにF1が来なくなったのとレースが妙にショー化してきたので興味がなくなった。だからアラン・プロストとかいわれるともう時代が新しすぎてついていけない。私が「フランス人レーサー」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはパトリック・デパイエ、ジャン・ピエール・ジャリエ、ジャック・ラフィー、あとフランソア・セヴェールである。当時セナはまだカートに乗っていたし、ロスベルクは父親のほうがF2で走っていた。本当に私は年寄りである。

 「マシンの色変わり」ということでもう一つ思い出すのが、1977年に南アフリカで事故死したトム・プライス選手の乗っていたシャドウというマシンだ。このチームはドン・ニコルズという人がやっていたが、この「シャドウ」というネーミングはどうやってつけたのか、インタビュー記事を読んだことがある。
 このチームの創立は72年、つまりマシンが葉巻型から楔形に移行した頃。マシンはまず空気抵抗をできるだけ抑えなければいけないが、同時に上に舞い上がらないように地面に密着していなければいけないという基本コンセプトが常識になった頃だ。そのときニコルズは考えたそうだ。「空気抵抗がゼロでしかも地面にぴったりつく理想のマシンはつまり「影」ということだ」。それでその理想のマシンを目指していこう、という意気込みで「シャドウ」というチーム名にしたのだと。
 フェラーリとかマクラレンとかチームに自分の名前をつけて自己顕示する輩と比べてすごく哲学的で奥ゆかしいとは思った。ただ残念なことにこのチームはネーミングだけでなく、チームそのものも奥ゆかしい、つまり今ひとつ弱くてとてもフェラーリ・マクラレンとコンストラクターズ・ポイントを争えるようなレベルではなかったから(ごめんね)、私としてはプライスが早いとここんな所やめてロータスかそれこそマクラレンに移ってくれないかと思っていた。本当にプライスがロータスに移りそうだという噂があったそうだ。
 そのシャドウは前年あたりまで黒かったが1977年には新しいスポンサーがついていきなり白くなった。上で名を挙げたジャン・ピエール・ジャリエというのはプライスと黒いシャドウに乗っていたチームメイトである。その白いマシンで事故死したプライスの後釜に来たA.ジョーンズが77年のオーストリアGPで優勝したとき、私は「この勝利は本来プライスに与えられてるはずだったのに」と思った。
 ところで、このジョーンズはその後世界チャンピオンになった人だが、一見「近所の商店街の金物屋のおやじ」、あるいは「麦藁帽子を被り熊手持って干草をつついてる農家のおじさん」という感じで、誰がどう見てもレーシング・ドライバー、いわんや世界チャンピオンになったようには見えない。ここまでレーシング・スーツの似合わない人も珍しいのではないかと思うのだが、そういえば、ジャック・ブラバムもそんな感じだった。オーストラリア人ってこういう「気さくで気のいいおじさん」風の人が多いのだろうか。

トム・プライスの黒いシャドウDN8(only-carz.comより)
shadow-dn8-02

これもおなじくプライス(ウィキペディアから)

Tom_pryce_watglen_75

A.ジョーンズの白いアンブロシオ・シャドウ。オーストリアGPの時のもの。シャドウはこの勝利が唯一である。
(gettimages.comより)

156527205

プライスの亡くなった1977年南アフリカGPの次のレースでチームメイトのレンツォ・ツォルツィ(またはゾルジ)が運転したアンブロシオ・シャドウ。プライスは一レースだけしかこのアンブロシオに乗っていないためか写真が見つからなかった。(racer.comから)
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