アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > ヨーロッパ一般

 最近はめぼしい特売がないのであまり行かなくなったが、以前よく新聞にさるスーパーマーケットの広告が挟まっていることがあって、それを頼りにときどき豚肉を買いに行った。ちょっと遠いところで、市電で5駅の距離の隣町にある。でもそこで電車に乗って運賃を使ってしまったらせっかくの特売も水の泡、節約にならないからいつも歩いて行った。
 川を渡るのだが、その川というのが、目黒川のようなケチな川ではなくて(ローカルな話をするな)、泣く子も黙るライン川だ。めざすスーパーも隣町どころか隣の州にある。

 ライン川といえば普通ローレライとかあの辺を思い浮かべる人が多いだろうが、この町のあたりは無粋・退屈なことこの上ない。岸はコンクリートで固められ、周りに立っている建物も灰色の倉庫だろサビの出たクレーンだろばかりだ。笹本駿二氏の『ライン川物語』でも少し上流のストラスブールと、少し下流のマインツあたりについては延々と情に満ちた記述が続くのにその中間、つまりこのあたりのライン川については冷たく「M,Lなど大工業都市に近づくとラインは殺風景なタンカー船隊を浮かべる不興げな流れに変わってしまう。」というたった2行で済まされている。つまりこのあたりの景色はお墨付きのつまらなさなのだ。
 そのつまらないラインだが、橋を渡っているとよく足の下を船が通る。外国船籍の船が多く、その中でもオランダの旗を立てているのを一番頻繁に見かけるが、スイス船籍もときどき見た。船籍の違う2隻の船がすれ違うこともある。オランダ船はネッカー川の方でも頻繁に見かける。こういう芸当は目黒川にはとてもできまい。

 そもそもここM市自体は人口はたった30万人ばかり、隣のL市と合計してもせいぜい45万人ほど。笹本氏の「大工業都市」という言い方は大袈裟すぎると思う。東京の区部を「町」とすればこんなの「村」を通り越して「集落」のレベルなのだが、その集落がナマイキにやたらと国際的である。
 
 まずうちの最寄り駅の切符の自動販売機を見る。鉄道の駅でなく単なる市電、路面電車の駅だからそれに対応して自動販売機もショボいものだ。日本で言うなら例えば山手線の五反田駅で小銭専用、千円札以上は使えない販売機の前に立っていると想像してもらいたい。そこで買える切符もまさか名古屋とか仙台とかはありえない。土浦だって怪しい。せいぜい柏とか取手までだろう。
 ところがこちらそういうレベルの小銭自動販売機の行き先にLauterbourgという怖い地名が見える。なぜこの地名が怖いかというとドイツ語ならLauterburgとなるべき綴りにoが挟まっているからだ。つまりドイツ語の地名を無理矢理フランス語にしたことが一目瞭然。そう、ここはもうフランス領なのである。実際駅名の後ろに小さく(France)と括弧でくくって書いてある。Frankreich(フランクライヒ)とドイツ語で書かずにFranceとフランス語で表示してあるあたり、さらに怖さ倍増。駅の読み方もラウターブルクでなくローテブールとかいうはずだ。

 その市電でM市の鉄道の中央駅へ行く。新宿とか東京駅はおろか横浜・川崎にだってとても対抗できる規模ではない。乗り入れ路線数は多いのだが、一日の乗降人員はたったの10万人くらいだそうだ。新橋や田町にさえ遥かに及ばない。ちょうど地下鉄の赤坂見附駅の一日の乗降客がこのくらいだ。しかしそのローカルな駅でもフランス、スイス、オーストリアなど外国の列車がジャンジャン行き来している。行き先のプレートにZürich(チューリヒ)あるいはParis-Est(パリ東駅)などと書いてある電車がよく駅に止まっている。新橋に「ウラジオストック行き」と書かれた電車が待機しているようなものだ。
 
 もうかれこれ30年前、まだ東西ドイツがあったころ、この町の大学の夏期講習に参加したとき、講習が終わって皆が帰っていく際に、クラスメートのポーランド人(確かパシコフスカさんという名前だった)を駅に見送りに行ったことがある。ウッジという町に帰るということだったが、そのとき駅のホームに入って来た列車の行き先に「ワルシャワ」と書いてあったので島国気質の抜けていなかった私は妙に感動したのを覚えている。
 一ヶ月ほど前、駅で電車を一本逃してしまい、次が来るまでやることがないからホームの時刻表を眺めていたらそんなことをふと思い出したので、そういえばあのワルシャワ行きはまだあるかなと思って探してみた。さすがにストレートに「ワルシャワ行き」という路線はなかったが、そのかわりMoskva Belorusskaja行きという列車が見つかった。ブレスト経由とある。このブレストというベラルーシの駅はもともとワルシャワ・モスクワ路線の重要中間地点だったところだからつまりこの路線はワルシャワを通るはずだと思った。
 ところがこのあいだまた見たら表示が「ミンスク経由」に変わっている。路線が変更になったのか、それとも単なる表現の差に過ぎないのか。気になったので調べてみたらミンスク経由でちゃんとブレストもワルシャワも通る。それより驚いたのがこの路線の始発がパリだったということだ。するとあのパシコフスカさんが帰って行った路線もパリから来ていたのだろうか。とにかくこの路線の主要停車駅は現在こんな感じになる。

パリ東駅→メッス・ヴィル→フォルバック→(ここからドイツ)マンハイム・中央駅→フランクフルト・アム・マイン・南駅→フルダ→ハノーバー・メッセ・ラーツェン→ベルリン・中央駅→フランクフルト・アン・デア・オーダー→(ここからポーランド)ジェピン-ポズナニ・中央駅→ワルシャワ・中央駅→ワルシャワ・東駅→ウクフ→テレスポル→(ここからベラルーシ)ブレスト・中央駅→ミンスク→オルシャ(ヴォルシャ)・中央駅→(ここからロシア)スモレンスク→ヴャジマ→モスクワ・ベラルーシ駅

5カ国を通り抜けるわけだ。万事こういう調子だから駅の時刻表なども独・仏・英の3言語が基本。私は直接経験していないが、私より前の時代にドイツに住んでいた人は「列車のコンパートメント等には仏・独・西・伊・ポーランド語で表示があった。英語表示はなかった。なぜなら英語は大陸ヨーロッパの言語ではないからである」と報告している。

 さらについ先日、今度は逆に少し駅に早く着いてしまったら、私がホームに来た時は2本前の列車がまだ止まっていたのだが、それがなんとフランスの誇る特急列車TGVの「パリ東駅」行きだった。ウワサに聞いていた通り、連結部分に車輪が集めてあって揺れを防ぎ、脱線した時被害が最小限になるようなデザイン。車両には誇らしげにSNCFの文字。ドアがまだ開いていたのでちょっと中を覗いてみると壁にはフランスの地図がはってあり、乗客の会話は皆フランス語、ついでに駅のアナウンスもその時だけフランス語に切り替わった。カッコ良すぎてこんなショボイドイツの田舎駅には完全に場違いだった。

 最近はこういう感じが身に付いてしまい、日本に行ったときなど「飛行機に乗るか船に乗らないとここを抜け出せない」「海を越えないと外国に行けない・帰って来られない」と思うと反対に怖くなってしまうようになった。何と言ったらいいか、閉所恐怖症みたいな気がしてくるのだ。パリからモスクワならその気になれば歩いていけるが、新潟からウラジオストックだといくらその気になっても泳ぎ切ることは難しい。船なり飛行機なりの交通機関を利用しないと命が危なかろう。
 「島国」というのを「守られている」と見るか「閉じ込められている」と見るかは人によって違うだろうが、私はどうやら後者のタイプのようだ。もっとも最近は武器でもなんでもボタン一押しで飛んでくるから海なんて全然防壁になっていない反面、中にいる人はミサイルが飛んできても外に逃げられないから「閉じ込められている」方の要素が強くなってきているのではないだろうか。


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 人からちょっと聞かれたことがあって大学図書館から古教会スラブ語の教科書を借り出したことがある。何気なく筆者の名前を見たらアウグスト・レスキーン(A. Leskien)だったのでびっくりした。ドイツ青年文法学派(Junggrammatiker)の主要メンバーだった人だ。

 19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
 レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。

 さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。

 こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。

 トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
 トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。

 「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):

Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.

「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」

 ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
 すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。

 それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。

「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」

 ヴェントリスとは差がありすぎる…。

 ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。


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 もう何年か前の夏、今ほどテロの危険が差し迫っておらずEUが比較的牧歌的だったときのことだ。うちの真ん前で爆弾騒ぎが起こったことがある。地元の新聞にもしっかり載った。
 私がちょっと散歩に出て帰ってきてみたら道にロープが張られていて通行止めになっていたため、住んでいるアパートの入り口まで行くことができない。しかも警官がワンサといる。通ろうとするとお巡りさんにストップをかけられた。「すいません、私ここに住んでいるものでちょっと通してください」といって通してもらい、家に入ったはいいが、しばらくするとアパートの玄関先からお巡りさんが「ここの住民の方、速やかに避難してしてください」とメガフォンで告げるではないか。
 うちのすぐ向かいの建物の前で「不審物」(つまり爆弾の疑いがある、ということだ)が見つかり、周辺の住民は皆避難させているとのことだった。爆弾処理の専門家をわざわざシュツットガルトから呼ばねばならないので彼らがここに到着するまで何時間もかかるから、その間住民は外に「避難」させられたわけだ。うちのアパートばかりでなく、通りの住民は全員そとに出させられた。
 しかしまあ、私が帰って来たとき、荷物を調べられたりしなくてよかった。実は近所の土産物屋というか贈答品屋というか、きれいな花瓶や絵葉書などちょっとしたプレゼントを売っている店で子供がよく風呂に浮かべて遊ぶような小さな黄色いゴムのアヒルを買ってきていたのだ。もちろん自分用にだ。パソコンの脇に置こうと思ったのである。こんなもんをいい大人がビニール袋に入れてぶら下げているのを見つかるほうが爆弾を隠し持っているのよりよっぽど怪しいのではなかろうか。

 で、皆ゾロゾロ前の通りに出たのだが、以下は避難させられている間、アパートの住民間で無責任に交わされていた会話である。

「なんではるばるシュツットガルトなんかから処理班呼ばなきゃいけないんだ?ここにはアメリカ軍の基地があるんだからそいつらの方が得意だろうに。彼らに頼めばいいじゃんかよ」

「爆弾ってわざわざ避難する程の規模なんですかね? ヒロシマ爆弾じゃあるまいし。こうやって外に出てたりしたら破片とか飛んでくるだろうし、家の中に居た方がよっぽど安全と違いますか?」

「これがロシアだったらさ、住民の安全もクソもなくさっさと不審物にバズーカ発砲して『処理』していたところだな」

「もし爆弾が破裂しても崩壊するとしたら向こう側の建物で、私たちんとこは大丈夫だろう。 あっちでまあ良かったわ」

 もっともこういうことでもないと同じアパートの住人ともあまり顔合わす機会がないのも事実だ。そのうち「そういや○○さんは出てきませんね」とかいう方向に話が進み、ほとんど町内会の様相を呈して来た。 エンタテインメントか?
 さらにここは市電の走る一応大通りなのでひっきりなしに通行人が通り、通行止めになってしかも警官がウヨウヨしているのを見て「どうしたんですか?」と聞いてくる。そういう質問に対応するのが住民の仕事と化してしまった。ほとんどスポークスマンだ。
 中には私が「不審物が見つかったそうで爆弾かも知れないそうですよ」と説明すると「爆弾?この暑いのにナニを馬鹿な」とか意味不明なことをいって笑い出す人までいた。笑っている場合か。私のせいじゃないんだからこちらを嘲らないでほしい。

 結局(思っていた通り)「不審物」は爆弾などではなく、晩の8時ごろ町内会は解散となった。そのブツがせめて花火かなんかで「プスン」とか何とか音でも立ててくれればまだスリルがあったのだが、何事もなくて、まあ良かったというべきか、つまらなかったというべきか。
 しかし住民の誰一人として真面目に避難している者がいなかった。事故が起こると「事前に察知できなかった」とか「注意喚起が足りなかった」といって、後から警察だろ内務省を責める人がいるが、当事者の住民がこれでは絶対人のことなど言えない。警察のほうが一生懸命避難を呼びかけているのに当の住民が「この暑いのに何を馬鹿な」と鼻であしらっていて爆死した場合、非は警察にはない。

 しかし不真面目なのは爆弾騒ぎの時ばかりではない。

 実は私はノーベル賞を貰っている。嘘ではない。2012年のノーベル平和賞はEU市民に授与されたが、私はまさにそのEU国籍だ。授賞式には出させてもらえなかったのが残念だ。
 が、その肝心の受賞者、つまりEU市民が受賞の話を聞いて「第二次大戦以来、もう戦争はすまいと堅く心に誓って歯を食いしばって戦後処理をし、犬猿の仲だったフランスとの関係をここまで良好にしたドイツの努力がやっと認められた」とジーンとくるかと思いきや、聞いたドイツ人の第一声は「で、金は誰が受け取るんだ? シュルツか?」。シュルツとはドイツ人の政治家でEU議会の議長マルティン・シュルツ氏のことである。当時務めていた大学でも巡回メールが来て、「賞金は一人当たりだいたい0.2セントくらい」。そう、賞金をEU市民五億人で山分けするから一人当たりの取り分は雀の涙を通り越して限りなくゼロに近いのだ。それにしても皆お金のことしか考えていない。EU内にもこの「EUに平和賞」に批判の声が上がっていたが、むべなるかな。こんなに不真面目な市民にノーベル賞など与えてよかったのか?
 
 しかし一方私は今までいわゆる「賞」の類とは全く無縁のヘタレ・底辺人生を送ってきた。「賞」といえるものをとったのは小学校の時通わされていた四谷大塚進学教室とやらの模擬試験で一度理科の満点賞をとったのと、大学を卒業して働いていたとき社内のボーリング大会でブービー賞を貰ったのとの2度だけである。だから一度くらいはまた何らかの賞が取れて嬉しいとは思う。この際理由はなんでもいい、くれるものは貰う。国籍をこっちに移しておいてよかった。日本人のままでいたら私なんて絶対ノーベル賞なんかとは一生無縁のまま死んでいただろう。私の知り合いにやっぱりドイツ国籍を取った日本人がいるが、取得が数ヶ月遅かったので平和賞授与時点ではまだ日本国籍だったため賞は逃した。またクロアチア人の知り合いも、クロアチアのEU参入がノーベル賞の後だったのでやっぱり賞には間に合わなかった。ノーベル平和賞は早いもの勝ちである。
 しかし「これで履歴書の「資格・特技」の欄に「ノーベル平和賞」と記入できる!」と思いきや、考えたらこちら回り中ノーベル賞受賞者だらけだから全くインパクトがない。あまり得にもなっていないのが悔しいところだ。

下の写真は町の新聞Mannheimer Morgen紙が当時そのウェブサイトで提供していたものである。石作りの私たちのアパートは写っているが、私は幸い写っていない。
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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 何年か前にこちらで結構大騒ぎになったニュースがある。ギリシアのロマ居住区で両親とは全く似ていない金髪の少女がみつかったため、親だと自称するロマ夫婦にほとんど自動的に「誘拐・人身売買の手先」の疑いがかかり、少女は保護された、という事件である。
 そのロマ夫婦は最初から、知り合いのブルガリアのロマが、産んだはいいが経済的に自分達では育てられないからと言ってこちらに預けてきたのだ、と主張し続けていたが、当局はそれを信用せず、行方不明となっている子供のリストなどを大掛かりに検索して徹底的に調査した。しかしそのロマの夫婦があっさりと「そんなに疑うのだったらその預け元のブルガリアの知り合いの携帯番号があるからそっちにあたってくれ」と主張するので、調べたらそのロマは始めから本当のことを言っていたのである。
 この事件で心ある人の議論になっていたのは、ロマとみると誘拐の犯罪のとすぐ連想するヨーロッパ社会の暗部であった。ギリシアにもロマ出身の政治家がいて(私の知る限りでは1990年代にスペイン国籍のロマのEU議員がいたし、現在でもハンガリー国籍のEU議員がいる)、真っ先にそのことを問題にしていた。
 期を同じくしてアイルランドでもロマの家庭に金髪の少女がいるのが見つかり、当局はその少女を保護したが、DNA鑑定をしてみたら本当にそのロマの子供だったのだ。そのロマはきちんと社会に溶け込んで仕事もしている普通の市民だった。

ヨーロッパ社会もまだまだだ。

 ロマの言語を「ロマニ語」というが、この「ロマニ」(romani)というのは「ロマの」という形容詞の単数女性主格である。なぜかというとこれはもともとromani čhib(「ロマの言語」)という言葉からとったもので、čhibというのが「言語」という意味の女性名詞なので、それに呼応して形容詞のほうも女性単数になっているからである。この形容詞の男性形はromanoで、男性名詞kher(「家」)にかかるとromano kher(「ロマの家」)。私の家の近くに州のロマの本部、というか文化・情報センターがあるが、ここの名称がromano kherとなっている。
 そのロマニ語の話者はヨーロッパ全体で推定1000万人という。リトアニア語・スウェーデン語など下手な国家言語より規模の大きい大言語である。もっともこの1000万というのがあまり正確な数字ではない。ロマニ語がもう話せなくなっているロマがいる一方でロマ出身ということを隠しておきたいがために実はロマニ語を話せるのに話せないことにしている人などもいて正確な統計が出せないからだ。しかしこの1000万と言う数字が本当ならばロマニ語はカタロニア語を抜いてヨーロッパ最大の少数言語ということになる。以前は最大の少数言語はカタロニア語だったが、ルーマニア・ブルガリア始めバルカン諸国がEUに加わったためロマニ語話者の人口が一気に増大し、カタロニア語はその地位を奪われたわけだ。

 本などにはいたるところに「ロマは北インド起源」と書いてある。でもそれを証明する歴史的文献などは存在しない。彼らがインド起源であるというのは純粋に比較言語学上で証明されたものだ。19世紀にヨーロッパで比較言語学が発展してすぐに関心をロマニ語に向けた学者もいた。バルカン言語学で有名なミクロシッチもその一人であるが、この人の名前は教科書などには普通フランツ・ミクロシッチと書いてある。が、彼はスロベニア人であって、当時そこがオーストリア領であったため本来「フラーニョ」という名前をドイツ語風にして名乗っていたのだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』の項参照)。ついでに言うと例のイヴ・モンタンもトリエステ生まれで、スラブ系の「イヴォ」が本名である。
 話が逸れたが、そのミクロシッチ、サンドフェルドなどの当時の大言語学者達が印欧諸語に対する膨大な知識を駆使して来る日も来る日も詳細に比較していった結果ロマニ語の起源がわかったのだ。
 ロマは元の元の大元は中部インドにいたものが、一旦北インドに移住してそこにしばらく住み、9世紀ごろにアルメニアとかあそこら辺のルートを通って、遅くとも11世紀にはビザンチンに入り、そこでタップリギリシャ語の影響を受けた後、14世紀ごろにヨーロッパ各地に散り始めたというが、本にはしごくあっさり書いてあるそういうことも歴史文献などに出ていたのではなく、すべて比較言語学で理論上出された結果である。例えばロマニ語にはアラビア語起源の借用語が非常に少ない、ということから民族移動のルートがアラビア語の話されている地域とあまり接触しない北の方を通った、と推定されるのだ。
 ドイツには15世紀からロマが住んでいたらしい。ドイツにロマが住んでいたことを述べている最初の文献は1408年にヒルデスハイムという町で書かれた文書だそうだ。

 以下にインド・イラニアン語派の言語とロマニ語で1から10までと100をなんというか挙げてみたが、互いによく似ている。「ドマリ語」というのは中近東に住んでいる同民族の言語である。

  ヒンディー語 ペルシア語   ロマニ語     ドマリ語 サンスクリット
1  ek        yek       ekh,jekh       jika     eka
2  do        do      duj               dī      dvī
3  tin          se          trin              tærən     tri
4  čhar          tšahor,tšahār     štar             štar      catur    
5  panč         pandž,pendž   pandž         pandž     pañca
6  čeh        šaš,šeš       šov             šaš      şaş
7  saath     haft        ifta              xaut    sapta
8  aath       hašt       oxto            xaišt       aşţa
9  nau     nuh,noh       inja            na      nava
10   das        dah        deš            des       daśa

100 sew            saad       šel             saj        śata

(ここでxというのはあくまで[x]、つまり軟口蓋で出す摩擦音のことで「クス」とか「エックス」ではない)

 しかし実は別にミクロシッチほどの専門家でない、私のような素人目にもロマニ語はインドあたりの起源なのではないかと薄々感じることができる。この言語は音韻上、「無気音」と「帯気音」を弁別するからだ。これらは今のヨーロッパ内の印欧語ではアロフォンだ。帯気音は子音の後ろにhをつけて表すが例えばロマニ語には次のようなミニマル・ペアがある。

perav (I fall)  対 pherav (I fill)
tav (cook!)    対 thav (to threaten)
ker (do!)     対 kher (house)

また日本の印欧語学者泉井久之助氏は

Dadeske hi newi gili

というロマニ語の例を挙げているが、dadeskeは「父」の与格、hiが英語の is、newi が「新しい」、gili が「歌」で、「父には新しい歌がある」。だからロマニ語は『42.「いる」か「持つ」か』の項で述べたようないわゆるbe言語なのである。

 さらに、件のギリシャのロマ夫婦の知り合いがブルガリアのロマだった、ということも考えてみると含蓄がある。ギリシアとブルガリアのロマはいわゆる「バルカングループ」という方言グループを形成しているから、ギリシャとブルガリアのロマは話が通じたのだろう。ルーマニア、セルビアのロマとなると「ヴラフ・ロマ」という別の方言グループに属しているから、相互理解はそれほどすんなり行かなかったのではないだろうか。ハンガリーと一部のオーストリアのロマは「中央グループ」という方言、ドイツのシンティ、フランスのマヌシュは「北方言群」に属すそうだ。

 ことほど左様な大言語なのに、その割にはロマニ語学習者が少ない、というか「ほとんどいない」のには原因がある。一つは上でも述べたように「方言差が大きく、中心となる言語ヴァリアントがない」ことがロマニ語の保護、特に文書化を妨げているからだ。特に強力な中央方言がないためにラテン文字で書くにしてもドイツ語風にするのかフランス語読みにするのか、クロアチア語表記で書くのか統一することができない。語彙や文法でも差が激しいので「ロマニ語文法」として一つにまとめるのが非常に難しい。さらにドイツのシンティなどは文書化・文法書の発刊そのものに反対している(下記参照)。
 理由の二つ目はロマニ語を話す人々に対する偏見。事実ナチの時代にはロマは「劣等民族」として虐殺された。
 三つ目の理由は、ロマ自身がその言語を外部のものに教えたがらないからだ。当然だ。何世紀もの間、周り中から敵意ある目で見られ(その被抑圧ぶりはユダヤ人の比ではない)、あろうことか組織的に虐殺されたりしたら、絶対に周りに対してオープンになどなれない。ナチスの時代には「言語調査」と称してロマのところへやってきて、収容所送りにする下準備したりした御用学者もいたそうだから。
 私自身一度どこかのネットサイトでシンティ、つまりドイツのロマが「ロマニ語を教わりたい」というドイツ人の書き込みに対して「やめてくれよ。ロマはよそ者に言語を漏らしたりしないよ。言語は私たちが誰からも奪われることがなかった唯一のものなんだ。」とレスしているのを目撃したことがある。もっともそれに対して別のロマが「そういう心の狭いことを言うからいつまでも差別されるんだ」と反論していたが。

 そういった事情にもかかわらず、ロマニ語の文法書なども細々と出てはいる。多くはドイツのロマニ語ではなく、抑圧経験がそれほど強烈ではなかったため、比較的オープンなカルデラシュというセルビアのロマグループの言語を基礎にしたものだそうだ。
 その文法書などにも、そして他の研究書などにも「ロマは『あまりにも理解できる理由によって』自分達の言語が記述されることには否定的である」と書かれている。この『あまりにも理解できる理由によって』という言い方に、こんなに魅力的な研究対象に対して手を出すことが許されない、しかもそれは自分達のせいなのだ、というヨーロッパの言語学者の自責の念をヒシヒシと感じるのだが。うめき声が聞こえてくるようだ。

 私は「語学をやる」というのは基本的にこういうこと、相手の最も繊細な部分に土足で突っ込んでいくことだと思っている。だから手軽な学習書を買い集め、「こんにちわ」とか「さようなら」とかしゃべって見せて外国人に通じたと言って悦に入る、すぐに「○○語が出来ます」とかエラそうに言い出す、こういうチャライ態度にはちょっと抵抗を感じる。


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 今でもよく覚えているが、2007年にドイツ連邦議会でDie Linke(左党)という政党が動議を提出したことがある。ドイツが1904年に現在のナミビアで原住民にたいして行なった犯罪行為を埋め合わせすべきだ、という提案であった。

 ナミビアは1884年から1915年までドイツの植民地だった。当時は「ドイツ領南西アフリカ」(Deutsch-Südwestafrika)と言った。ドイツはイギリスやフランスより出遅れたため植民地でのふるまいは英・仏に比べてあまり人の口に上ってこないが、立派に(!)アフリカ人を虐待していたのである。その後第二次世界大戦時に行なった大虐殺がひどすぎて、それ以前に行なったアフリカ人ジェノサイドがかすんでしまっているが(ドイツ人さえこれを知らない人がいるし自称「ドイツ語・ドイツ文学を専攻したドイツの専門家」である日本人の無知さは言うまでもない、下記参照)、ジェノサイドはジェノサイドである。むしろホロコーストの根はこのあたりからすでに始まっていた、という点で史実としての重要度はホロコーストに優るとも劣るまい。

 ドイツ人が行なった「民族浄化」の対象になったのはヘレロとナマという民族である。上述のようにドイツ領南西アフリカは1884年からドイツの植民地であったが、始めから原住民に対する抑圧・無関心は相当のものだったらしい。もっともこの「現地人を自分たちと同等の人間とはみなさない」というのは当時のヨーロッパ列強だけではなく、そもそも植民地支配などというものを考えつく国のスタンダードメンタリティではなかろうか。日本だって例外ではない。
 1904年1月12日、ヘレロがその圧政に耐えかねて蜂起し123人のドイツ人が殺された。これが戦争にまで発展した。後にナマもこれに加わった。この、生意気にご主人様に対して蜂起した原住民に対するドイツ側の報復感情は常軌を逸していた。ドイツ側は住民から義勇兵を募ってSchutztruppe、植民地保護軍隊を形成したが、この手の「準」軍隊というのがどういうものであったかはドイツのSAや種々「討伐隊」などその後の歴史を見てみれば容易に想像がつく。実際私たちが想像する通りの集団であったようだ。最初ドイツ側の指揮をとったのは当時としては穏健でまともなテオドール・ロイトヴァインTheodor Leutweinという司令官だったが、この人は報復感情をあまりむき出しにしないようドイツ人達に警告した。しかしそもそもこのロイトヴァインにしても単に「絶滅指令は出さなかった」というだけで、捕虜を特に人道的に扱ったりはしなかったし、ヘレロ殲滅に反対した理由というのも「民族を1人残らず抹殺することなど物理的に無理」「社会的権利をすべて奪うだけで十分。そうしてヘレロをドイツ人のために働かせればいい」というものだったそうだから、その程度の司令官にさえ「あまり感情をぶつけるな」といわれるほどであったドイツ人の討伐軍がいかなるものであったか、想像するだに背筋が寒くなる。
 ところがこの甘すぎる司令官は1904年2月にはもう更迭され、首都ベルリンのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からロタール・フォン・トロータLothar von Trotha中将という新しい指揮官がアフリカに派遣されてきた。軍隊や武器も強化された。現地の政府は原住民に対する厳しさが足りないと地元南西アフリカのドイツ人たちが本国へ向けていわばロビー活動を行なったらしい。このトロータが悪い意味ですごかった。最初からこの植民地戦争を「人種間戦争」または「人種殲滅戦争」とみなしてヘレロ撲滅を狙い、文書でも堂々とそう宣言したのである。

ロタール・フォン・トロータ
wikipediaから

220px-Lothar_von_Trotha

 1904年8月11日Waterbergというところで戦闘があり、ヘレロは戦いに負けた。トロータにとってはまさに「待ってました」であった。何万人ものヘレロが隣のオマヘケ砂漠に逃走した。大半は非戦闘員、つまり女子供である。ドイツ軍は退路を遮断した上、砂漠で水のあるところを占領したり毒を入れたりして難民が水を得る機会を奪ったため、大半は渇きで死んでいった。砂漠の向こう側はイギリス領だったが、ここまでたどり着けたのは僅か。繰り返すがこれをドイツ軍はワザとやったのである。始めからこの民族を皆殺しにするのが目的だったのだ。トロータはその時こう言っていたそうだ:

„Die wasserlose Omaheke sollte vollenden, was die deutschen Waffen begonnen hatten: Die Vernichtung des Hererovolkes.“

「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」

あまりにも残酷な写真なのでこの記事に載せるべきかどうか迷ったが、ドイツ軍によるヘレロ虐殺。二次大戦時にドイツ陸軍が当時のソ連で行なった住民虐殺の様子と重なってみえる。
http://www.gfbv.it/2c-stampa/04-1/040107it.htmlから

040107herer

ドイツ人にオマヘケ砂漠に追いやられ水を遮断されてそれでも生き残ったヘレロ
https://segu-geschichte.de/voelkermord-herero/から

Herero

 この民族絶滅意図に批判的であったLudwig von Estorff ルートヴィヒ・フォン・エストルフという人が、すでに戦いに負けている民族をさらに砂漠に追いやり家畜諸共死に至らしめるようなやりかたに何の利があるのか、きちんとそれなりに扱ってやって受け入れてやればいいじゃないか、彼らはもう十分罰を受けているのだから、とトロータに提言したがトロータはガンとして耳をかさず、絶滅措置をそのまま推し進めたという。
 さらに殺しそこなったヘレロを収容するために強制収容所も作られた。この強制収容所Konzentrationslagerというものは元々スペインとアメリカに遡るのだそうだが、このドイツ領南西アフリカで使われて以来一気にその名称が世界に広まった。ナチスの発明ではないのである。男性ばかりか女子供までヘレロやナマが収容され人口を減らすのが目的で残酷な労働をさせられたが、その記述を読むと全くナチス時代の強制収容所そのものである。また、トロータがその典型だろうが弱い者や他の民族に理解や同情を示すのは「お花畑」「アマちゃん」、つまり精神が弱い証拠とみなすあたりもナチスの精神主義とまったく平行する。
 トロータは1905年の1月にドイツに帰り、1907年3月31日には戦争は正式には終結したがそこここに収容されていたヘレロ・ナマは1908年の一月27日までは留め置かれたそうだ。最初7万人から10万人いたヘレロが、戦争の後は1万7千人から4万人しか残っていなかった。2万人いたナマも半数しか残らなかった。ドイツ兵の数は1万4千人から1万9千人と推定されている。数字に幅があるのはしかたがない。

 Jürgen Zimmererユルゲン・ツィメラーという歴史学者はこのドイツ人の行為を「あらゆる定義・観点からみてジェノサイドであった」と断定している。

 ドイツの植民地支配は1915年まで続き、その後この南西アフリカにはブーア人(アフリカーナ、『89.白いアフリカ人』参照)が入り、英国領となり、さらに紆余曲折を経て1990年に独立したわけだが、その植民地支配自体は終了した後、つまり1920年代になってからもドイツ本国や南西アフリカにいろいろ記念碑や銅像が建てられた。「勇敢なドイツ兵士」を記念するためである。フォン・トロータをたたえる記念碑まであったそうだ。1930年代、ナチスの時代になってからはこのドイツ軍カルトぶりがさらに悪化し、いわば国民総ミリオタ状態になったことは想像に難くない。盛んにプロパガンダされたようだ。1935年にもこの「ドイツ人が植民地で行なった英雄行為」をたたえる銅像がデュッセルドルフに立てられている。
 「ホロコーストをやったのはナチ。普通のドイツ市民はむしろその犠牲者」という言い方をそのまま信じているそれこそお花畑な人が日本にはいるが、こんなもんは国土をさほど荒らされる事もなくドイツ人の支配を受けずに国民を虐殺されることがなかった戦勝国英米が余裕で行なったリップサービスである。ポーランドやフランス国民にはそんな絵空事を信じている者などいない。あれはドイツ国民がこぞってやった犯罪だと思っている。事実ソ連やポーランドでユダヤ人やスラブ人を虐殺したのは武装親衛隊ばかりではない、普通の陸軍兵士もやったのである。また、ヒトラーに政権を与えた後もドイツ国民側からこの政権に反対を唱える声があまり聞こえてこなかったのもゲシュタポが怖かったり情報が入って来なかったからばかりではない、「我々は支配者人種」という思想がドイツ人の心の底にはあったから、つまり国民の相当数が消極的にナチスに加担していたからである。歴史の歯車が狂っていたらアジア人の日本人など劣等民族として殲滅対象にされていたはずである。

 第二次大戦後はこの南西アフリカでの行為は忘れられてしまった。その歴史意識が転換し出したのはやっと1970年も終わりになってからだ。そここにいまだに立っている「植民地記念碑」を恥かしがる声が起こってきた。1978年には反帝国主義運動を起こしていたゲッティンゲンの学生の1人と思われる者に南西アフリカ記念碑の鷲の銅像が盗まれた。その銅像から切り取られた鷲の首が1999年になぜかナミビアの首都ウィンドホックで見つかり、現在はナミビア大学の学生協会の所有になっているそうだ。

これがそのワシの首
http://www.freiburg-postkolonial.de/Seiten/Goettingen-kolonialadler.htmから

GoettingenAdler

 さらに1984年、つまりドイツの南西アフリカ支配が始まってからちょうど100年目、学生ばかりでなく教授をも含むミュンスター大学の行動グループがやはりドイツ軍礼賛記念碑にWir gedenken der Opfer des Völkermordes unter deutscher Kolonialherrschaft in Namibia「ドイツの植民地支配下でジェノサイドの犠牲になった人々を追悼する」というプレートを付加しろと運動した。ここでVölkermord(民族浄化、「ジェノサイド」Genozidと同義である)という言葉が論争になり、結局プレートは実現しなかった。
 1990年、ナミビアが正式に国家として独立するが、これを機に1933年に建てられていた植民地支配記念碑を「どうにかしよう」という動きがブレーメンで起こり、1996年にその記念象には逆の意味が与えられ、「ドイツによるナミビアでの植民地支配の犠牲者に捧げる」というプレートがつけられた。除幕式、といっていいのかとにかく完成時には当時のナミビアの大統領Sam nujomaサム・ヌヨマ氏も招かれた。なお記念と書いたのは誤植ではない。この記念碑は本当に象の像なのである。

かつてドイツの植民地支配を誇示するものであった象の像は今は寛容のシンボルとなった。アフリカの国々の国旗を掲げる活動グループ。象のデカさがわかる。
http://www.der-elefant-bremen.de/aktion_10/elefantenfluesterin2.htmlから

schal

 植民地戦争勃発の100年目、2004年を前後してナミビア関係の史学論文や著書の出版も増えた。このブログの参考にしたVölkermord in Deutsch-Südwestafrika(ドイツ領南西アフリカでのジェノサイド)という本も2003年の出版である。また、ナミビアが正式に国家になったことで、ドイツ帝国の後裔である現在のドイツ連邦共和国に対して賠償問題も浮上した。2001年には米国でヘレロがドイツ銀行に対して当時の賠償を請求する裁判を起こしているそうだ。
 話は飛ぶが、1989年にドイツが統一したことによりドイツはワイマール共和国の正式な後裔ということになって、ナチスが一方的に破棄していたフランスに対する第一次世界大戦時の未払い賠償金の義務が生じたため、統一ドイツは2010年に完払するまで毎年フランスに残りの賠償金を払い続けていた。ご苦労なことである。

 さて、ナミビア賠償問題、いやそもそもナミビアでのドイツの戦争犯罪は2004年以降から次第にドイツ国内でも人の口に上るようになり、とうとう2007年に左党が連邦議会に動議を提出したことは始めに述べた通りである。私は長い間ドイツで暮らしていながらこのドイツ帝国の犯罪をこのときまで知らなかった。「戦争犯罪に無神経な日本人」を地で行ってしまったのである。
 左党の要求に対する当時のドイツ連邦議会の答えは「ドイツに責任があったことは認めるが補償やジェノサイド認定はしない」というものであった。これが今日までのドイツ政府の正式なスタンスである。しかし左党はその後もしつこく動議を出しているし、活動家や政治家からの追及の声も高い。2016年、連邦議会議長Norbert  Lammertノルベルト・ラマートが当時の行為について「ジェノサイド」という言葉を使ってニュースになった。けれどもこれは政府の公式な見解とは見なされていない。「謝罪はするがジェノサイド認定も賠償もしない」という連邦政府の姿勢は変わっていない。
 ここでジェノサイドと言った言わないが大騒ぎになるには理由がある。1968年にドイツ連邦共和国が加盟した国連協定、また1974年のヨーロッパ協定でも「戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドには時効がない」とされているからである。ジェノサイドと認定してしまうと芋蔓式に様々な法的義務が生じ、追求を止められなくなる、つまり「この件は歴史的に既に決着しています」ということができなくなるのだ。
 地元ナミビアでは毎年八月の最後の週末に「ヘレロの日」というのを設け、Okahandjaオカハンジャという町で祭り(?)を行ない、ドイツ軍によるヘレロ虐待の模様を芝居で再現しているそうだ。ナミビアには現在でも2万人強のドイツ人がいて、ドイツ語言語島を形成しているが、ヘレロの日にドイツ軍を演じるのは彼らではなくヘレロである。まだ話し合いは続いていくだろう。

ヘレロの日。ドイツ軍はヘレロ人が再現している
http://www.zeit.de/politik/deutschland/2016-07/bundesregierung-herrero-massaker-voelkermord
namibia-hereroから

namibia-herero-voelkermord

イラストに描かれたヘレロ戦争
https://www.welt.de/geschichte/article156071025/Mit-diesem-Genozid-will-die-Tuerkei-kontern.html#cs-Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal.jpgから

Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal

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 すぐに「○ヶ国語できる」と話せる言語の数を言い立てる人がいるが、この手の発言はあまり鵜呑みにしないほうがいい。「○語ができる」と軽々しく言い立てる人に限って実はそれほどでもない場合が目立つ。何をもって「できる」と称するかが自己申告だからである。レストランで注文してみたら望みの物が出てきたとか、挨拶が外人に通じた、道を聞いたらちゃんと答えてもらった程度で「できる言語」に勘定する人がいる。前にもこの手の自称6ヶ国語だか7ヶ国語だかできる芸能人が堂々と「イラン語」という名称を使い、「日本語もできるが字は平仮名しか読めない」と言っていたが、そこですでにこの人の「できる」のレベルが明らかである。文字を持たない言語ならイザ知らず、当該言語でまともな文章が読み書きできないのに「できます」と言い切っていいのか。口だけの会話なら変化語尾もへったくれもなくバラバラと単語を羅列し、足りない部分はジェスチャーで補ったり笑って誤魔化すこともできるが、書くにはある程度正確に文法を知っていないとどうにもならない。笑っている場合ではないのである。

 ヨーロッパでは「○語ができます」などという玉虫色の言い方はあまりしない。Gemeinsamer Europäischer Referenzrahmen für Sprachen(ヨーロッパ言語共通参照枠、略してGER)という全ヨーロッパ共通のできる基準というか等級がきっちり決まっているからである。初心者のA1から準ネイティブC2まで語学の能力レベルが段階的に決められていて、ドイツ語ばかりでなく語学は全部この基準で判断する。こちらで出ている日本語の教科書も「日本語A1/A2」などとなっている。だから単に「○語ができます」などとは言わない。例えば「○語がBレベルです」というのである。
 そのGERは大体次のような内訳である。
 A(elementare Sprachverwendung)は初歩レベルで文法を一通りやった状態、B(selbständige Sprachverwendung)になるとその言語で社会生活が可能、C(kompetente Sprachverwendung)の人は当該言語で文化生活が営める。A,B,Cがまたそれぞれ2段階にわけられている。まずAだが:

A1:初心者
慣れ親しんだ日常生活上の表現ができ、具体的な必要事項を満たすためのごく簡単な文を理解して使える。自己紹介、他人の紹介ができ、他の人に、どこに住んでいるのか、どんな知り合いがいるか、どんな物をもっているかなどの個人情報が聞け、また自分のほうでもこれらの質問に答えられる。対話者がゆっくり明確な発音で話し手助けしてやれる用意があれば簡単な意志の疎通が可能である。

A2:基礎知識
その場に直接関連した範囲の意味ならば文や頻繁に使われる表現が理解できる(例えば個人情報や家族について、買い物、仕事、ごく身近な環境でのことなど)。簡単なルーチン的シチュエーション、つまり慣れ親しんだよく知っている事柄についての情報を簡単な言葉で直接交換するような状況でなら意志の疎通ができる。出身地のことや受けた教育、すぐ周りの環境やその場の必要事項のことを簡単に描写できる。

原文を見るとやたらと「簡単・単純」einfachという言葉が使われているのがわかる。レストランでの注文や道を尋ねるというのはせいぜいA2,多分A1レベル、いずれにせよこのAレベルであろう。
 Bに行くと本当の意味での会話がなりたつようになる。

B1:進んだ言語使用
明確な標準語が使われ、仕事、学校、レジャーなど慣れ親しんだ事柄が話題であれば要旨の把握ができる。当該言語地を旅行した際に出会う大抵の状況を処理できる。よく知っているテーマや個人的な興味関心事について簡単に筋の通った説明ができる。自分の経験、夢、希望や目標が描写でき、自分の計画、意図などについてはその根拠を手短に述べたり説明したりできる。

B2:自立した言語使用
具体的なテーマでも抽象的なテーマでも複雑なテキストの大意が理解できる;自分の専門分野では専門的なディスカッションができる。練習や準備をしなくてもよどみなく意志を伝えることができるので、どちらの側もさほど骨を折ることなくネイティブスピーカーと普通の会話が成り立つ。幅広いテーマについてわかりやすく詳細な表現ができる。目下の問題について自分の立場を説明し、考えうる様々な事柄についてメリットとデメリットを挙げることができる。

同じBレベルとしてくくられてはいるが、B1とB2の間には大きな差がある。B1ではまだ言語的に自立していない。
 またB1に旅行云々とあるのでみやげ物屋で値段を聞いたりホテルで交渉できたから私はB1ダーと思いそうになるが、よく考えて欲しい。「大抵の状況」である。ちゃんと現地の言葉で全てやっているか?ドイツで英語を使ったりしてズルをしていないか?例えば一目で旅行者とわかる人が血相を変えてお巡りさんに「財布!財布!」など現地の言葉をバラバラ連呼すれば向こうは「スリに会ったんだな」と察してそれなりの処置をしてくれるだろうし、外国人が駅で「○○ホテル!○○ホテル!」と叫んでいれば、話しかけられた人は道順を示してくれるだろう。でもそれは言葉が通じたのではなくて察してもらえただけである。「私は○広場で財布を盗まれました」と文法的に正しいセンテンスを現地の言葉でちゃんと言ったのとは根本的に違う。その正しいセンテンスも、空港かなんかで買ったピラピラの旅行会話集とやらをわけもわからず棒読みしていたら落第である。あくまで自分の力で表現できなければいけない。ちゃんと目的のホテルに連れて行ってもらえたからと言ってB1とは限らないのだ。
 大学でやっていくには基本的には次のC1が必要ということになっているが、自然科学など、学部によってはB2でもついていけるだろう。B2で大学に入ってC1あるいはC2になって大学を出る、というパターンも多いと思う。

C1:熟練した言語使用
程度の高い、比較的長いテキストを幅広く理解できる。また暗示されている意味を読みとれる。準備や練習なしでよどみなく自己表現ができ、言葉をさがしていることを頻繁に相手に気づかせることがない。社会生活、職業生活、職業教育の場や学業生活で言語を柔軟に使いこなせる。複雑な事象についても明晰で筋の通った詳細な説明ができる。その際文章と文章の論理的なつながりを示すため種々の言語表現を適切に使いこなせる。

C2:ネイティブスピーカーに近い言語知識
読んだり聞いたりしたことは事実上全て困難なく理解できる。目からのものでも耳からのでも様々なソースから得た情報を要点整理し、論の根拠や説明などを筋の通して再現できる。準備も助けもなく非常に流暢に正確に意志の疎通ができ、さらに複雑な事象に関しても、より微妙なニュアンスの違いをはっきり表現しわけることができる。

いちどこの基準をさるドイツ語ネイティブスピーカーに見せたら、溜息をついて「ネイティブだってC2まで行くのは少数派なんじゃないの?」と言っていた。日本語ネイティブにだってダラダラ量だけはしゃべったり書いたりするが論旨が全然進まず、結局何が言いたいのかわからない人などいくらもいるではないか(とか人のことが言えた立場ではないが)。言い換えるとCになると「語学は単なるツール」「コミュニケーションが成り立てばそれでいい」という枠から出ていわば当該言語がその人の精神活動全域にかかわってくるのである。言語の内在化が始まるのだ。
 またここで面白い、言語憲章を見てもわかるように小数言語に敏感なヨーロッパらしいと思うのは、言語能力を標準語だけに限っていないで、ある程度方言が聞いてわかる能力も求めていることである。C1のテストを見てみたことがあるが、スイスでの駅のアナウンスの聞き取りが課題の一つだった。こういうことは特にドイツ語圏では重要だろう。

 「できる」と言えるにはB2、少なくともB1くらいになっていないといけないだろうが、方言のほかにもそのあたりから重要になってくるのは場面によって様々なスタイルを使い分ける、社会言語学で言うレジスターregisterを区別する能力である。日本語で例えば「オレ」とか「アタシ」とかを公式の場で使ったり書き言葉で書いたらお里を疑われるだろう(文学的表現として小説などで使うのはまた別だが)。また「ニホンゴデキマス」という外国人から場面にふさわしくない妙にくだけたいい回しを使われてギョッとしたことのある日本人は多いのではないだろうか。さらにドイツ語やフランス語の教師が「下手に勉強の途中で留学とかさせると変にチャライ言い回しを覚えて得意げにそれを使い、語学が上達したような錯覚に陥って帰ってくるものが多い。でも語学自体は実は全然進歩していない」と言っていたのを何回も聞いた。耳学問だけで覚えた語学というのはある意味では危険だ。それあるに本人は「オレの語学は現地で鍛えた本物」とか思い込んでいる人がいるから始末が悪い。私も「てにをは」さえロクに使いこなせていない人がアニメで覚えた「メッチャ」という言葉を嬉しそうに連発したり「とゆ~」と得意げに書いているのをみると釈然としないものがある。いくら図々しい私だってマカロニウエスタンで覚えたイタリア語なんかをそのままイタリア人に使って見せて「生きたイタリア語を話せます」などと人に自慢する気にはなれない。耳学問で覚えられるのはせいぜいA1までだろうし、正規に習わないと自分がまだAであって、その後に長い長い道のりがあるのだという事がそもそもわからない。だからA1くらいをゴールだと思ってしまうのである。私はもちろん権威主義は大嫌いだが、やはり正規に習わない耳学問・独学オンリーでは限界があることは認めざるを得ない。

 語学に限らないがそもそも始めたばかりの時は上達が早く、自分でも日に日に上達していっているのがわかるが、レベルが上がるにつれて速度は鈍る。下手をすると後退しているような気にさえなることもある。私の勝手な印象だが、B2からC1に進むためには時間の点でも努力の点でもA1からB2、つまり今までに費やしたものと同じくらいの苦労がいるのではないだろうか。C1からC2に進むにはまたA1からC1までに費やしたのと同じくらいの努力と時間がいる。自分の限られた周辺だけに限っていたのではどうしても「上のレベル」というものがどれだけ遠いか見えてこない。
 例えば私にも長くアメリカに住んでいる知り合いが何人かいるが、皆現地の大学を出たり現地の会社で日本語を全く使わずに働いていたりする人たちである。英検一級を持っている人が多い。その一人が以前別の日本人から「英語がペラペラで羨ましい」といわれてものすごくムカついたという話をしていた。厭味をいわれたと思ったそうだ。つまりその人は自分は英語ができないつもりでいたのである。他の人たちも似たり寄ったりで、口を揃えて「英語が出来なくて困る」という。安易に英語ができると言っているのを聞いた事がない。家庭内でしか通じない言い回しをチョロチョロ覚えただけですぐできます宣言をする人とはいい対照である。
 私は最初、こちらでも現地に来て一年くらいにしかならない人たちが「日常生活にはなんとか困らなくなりました」と言っているのを見て、20年以上経っても困っている自分自身やそれらアメリカの知り合い(彼らもそのくらい住んでいる)と比べてみてどうしても信じられず、「この人たちがホラを吹いているか、私の方に徹底的に語学の才能がないかのどちらかだ」と思っていた。もちろん一日6時間くらい毎日教室に通ったというのなら一年も経てば相当話せるようになるだろうが、その人たちは正規に習いにもいかないでそういうことをいうのである。まあ私に才能がないというのはその通りだが、アメリカの大学を卒業した人が言葉で苦労しているのに全く文法も何もやらずにドイツに来て一年たってもう「困らない」と言われるとさすがに考え込む。
 しばらく考えて思い当たったのが、これらの人が「言葉に困っていない」というのはウソではない、本当の話なのではないかということだ。理屈は簡単、彼らのいう日常生活と英検一級持っていてもまだ英語に困る人たちの日常生活とは日常生活そのものが違うのである。家庭内しか生活の場がなく、せいぜいスーパーのレジの人に値段を聞くくらいしか現地語を使わなかったり日本人のいる職場で働いていたりすると現地語は限られたフレーズやアウンの呼吸で話が通じてしまう。助動詞でなく語形変化そのもので形成する接続法2式表現など知らなくていい。それこそ現地語の単語をバラバラ数珠繋ぎ発音するだけで生活全体が包括できるのである。大学のゼミのレポートをウンウンいいながら書き怖い教授に提出して見てもらったり日本人のいないところでプレゼンしたりが日常の人とは日常が違うのだ。言い換えれば彼らの言語生活は「日常生活」ではあっても「社会生活」にはなっていないのである。これなら一年もあれば困るまい。

 少しばかりの口語を覚え、それを現地で覚えた本物の言葉と定義し、そういう「本物の語学」をたくさん集めて○ヶ国語できると言い張っている人を見ると私はつい犬と電信柱の関係を連想してしまう。犬がちょっとクンクン嗅いでみただけで「この電信柱はオレのテリトリー」とオシッコをかけてマーキングするような感じだからだ。この手の語学を私は「犬のションベン語学」と呼んでいる。いかにも私らしい下品な名称で恐縮である。
 ただ、では逆にたくさん語学のできる人は自動的に犬のションベンとみなしていいかというともちろんそんなことはない。例えば渡辺照宏氏が著書で「私が一応文法書を一通り終え、辞書の引き方を知っている言語は20以上になるが、人様に多少ともやりましたといえるのはドイツ語とサンスクリットだけ。この二つはもう何十年も毎日欠かさず勉強している」と言っていた。この短い発言のうちにすでに上で述べた最重要な点が見て取れる。氏は当該言語をきちんと書ける、あるいは公式な場所で使えるような言葉が使えるという点、「できる」などという玉虫色の言い回しでなく、具体的にどの程度できるのか述べている点(「文法をやり、辞書の引き方を知っている」)、そして安易にできるできると言い出さない、言い換えると「できる」と宣言できるようになるまでの道のりの長さがわかっているという点だ。
 語学という電信柱はせめて少しくらいは苦労してよじ登るべきではないのか。それもせずに地上にいたまま小便だけひっかけて「○語ができる・○語をやった」と所有宣言するのは当該言語、いやそのネイティブ・スピーカーや苦労してその言語を学んだ人に対するある種の侮辱ではないのかと私は思っている。


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