アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:語学 > 語学一般

 私はドイツの大学をロシア語学を専攻して卒業した。正式には「東スラブ語学専攻・主要言語ロシア語」といういかめしい肩書きだった。ドイツ語、でなくドイツ語ロシア語を学べばどちらの言語もマスターできるから一石二鳥なのではないかと考えたからだが、これが実は読み間違いだった。確かにそれで両方マスターできるかもしれないが、そのかわりそこに行くまで両言語同時に勉強せねばならないわけで、要するに二石二鳥、つまり単に手間が倍になっただけだった。何をいまさらだが、語学にはラクチンな道というものはないのだ。  
 
 さらにマズイことに、当時はドイツが統一されたばかりのころで(おっと年をバラしてしまった)、まわりの学生はほとんど皆旧東独出身、当地の高校でロシア語をみっちりやってきた者ばかり、中にはドイツ系ロシア人、つまり母語がロシア語の者さえいて私一人完全に異物だった。  

 悲惨だったのはロシア語の翻訳実技試験だ。今までいろいろ悲惨な試験をくぐりぬけて来たが、これはその中でも最も悲惨な部類に入る。
 A4のタイプ用紙に1枚びっちり書かれた全く未知のロシア語テキストが出され、それをその場でドイツ語に訳していく。テキストは直接新聞や小説から取ったもので、学習者用に加工などされていない。もちろん辞書使用禁止。露・露辞典だけは許可されるが、私はそもそもその説明内容を読むのに辞書がいるわけで露・露辞典などあってもしょせん解答用紙が風で飛ぶのを抑えるための重石、文鎮代わりにしかならない。 それでも見栄で側に置いてはいたが。 しかもクラスの半分くらいが旧ソ連から移住してきたロシア語のネイティブだ。 私ら外国人側が「ネイティブと同じ条件かよ。きったねぇ。」と恨みのこもった目をすると、その雰囲気を察した担当教官のP先生、「皆さん、『ネイティブといっしょかよ、きったねぇ』とお思いでしょうが、それは違います。 ネイティブの皆さんはドイツ語が外国語なんです。皆さんもご存知でしょうが、母語を外国語に訳す方が、外国語を母語に訳すより難しいんです。ですからロシア語が外国語である皆さんの方が条件としてはむしろ有利なんです。」と、そこまで言って最後列にいた私と目が合ってしまった先生、ニッコリ笑って頷き、「皆さん、ここにいる人は誰も文句など言ってはいけません。両方とも外国語という人だっているんですから。」と、のたまわった。 そしたらクラス中がこっち振り返って爆笑だ。動物園のパンダですか、私は? 先生も先生だ。私に微笑んではくれたが点はまけてくれなかった。世の中そんなに甘くない。

 卒業するまでこういう悲惨の連続だったが、それでもおかげでドイツ語は大分上達した。肝心のロシア語の方は非常に怪しい。でもロシア語が怪しかったおかげで一度貴重な(?)体験をした。
 大分前になるが、町にモンゴルのサーカス団が来たことがあるのだ。出し物の合間に私が(よせばいいのにまたでしゃばって)ロシア語で話しかけたら向こうに通じて擬似会話が成立し、嬉しくなった。するとそれを脇で見ていた白人のポーランド人男性が私に「あなたポーランド人ですか?」と聞いてきたのである。断っておくが私はどう見ても日本人、いくら拡大解釈しても韓国人か中国人以外にはなれそうもないモロ東洋人である。その私のどこをどう押せば「ポーランド人」が出てくるのか。それにその「も」とは何だ、と茫然とする私を見て男性が説明して曰く。
 「モンゴル人とロシア語で話すのだからモンゴル人ではなかろう、ロシア語を聞いていると旧ソ連出身のバリバリなロシア語話者でもないみたいだから(悪うございましたね)ソ連以外の旧共産圏出身。さらにドイツ語が日常言語のようだからドイツの隣国出身、実際ポーランドの東部、ウクライナやリトアニアとの国境付近には東洋系民族が住んでいるから、多分その辺から来たんだろう、と思った。」

 外れたとは言え、その理路整然とした推論ぶりに感動した。なお、家に帰ってから事典を調べてみたら本当にウクライナとリトアニアの一部には東洋系民族が住んでいるらしい。でもこの次はせめて旧ソ連内の東洋人、カザフ人とかバシキール人とかと間違えて貰えるよう奮励努力するつもりだ。
 
 繰り返すが語学学習に「ラクチン」はないのだ。

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 前に故M.ジャクソンがドイツにコンサートに来た際、本屋に自分の伝記のドイツ語訳が『Die Jacksons』というタイトルで並んでるのを見て「俺を殺す気か?!」と勘違いして怒った、という話を聞いたことがある。ジャクソン氏がその後本当に十分若いまま亡くなってしまったのでこの話はあまり笑えないのだが、Dieは「死ぬ」という英語ではなくドイツ語定冠詞の複数主格形である。だから『Die Jacksons』は「死ね、ジャクソンめら」などではなくて単にドイツ語でThe Jacksons、つまり「ジャクソン・ファミリー」という意味に過ぎない。

 ところで、ドイツ語には女性の名前にUschiというのがある。発音も字の通り「ウシー」。私だと、あの、モウモウ鳴いていまひとつ動作がノロい例の角つき動物を思い浮かべて「こんな名前はつけられたくない」と思ってしまう。 アクセントの位置が違うのでむしろ「齲歯」(うし)、つまり虫歯と解釈した方がいいのかも知れないが、そのほうがよけい悪い。ロシア語でもヒドい事になっていて、Uschiはуши(ウシー)、つまり「両耳」という意味になり、初めてドイツ女性にこう自己紹介されたときは思わず耳を見てしまった、とさるロシア語の先生が言っていた。
 その先生がさらに続けてくれた話によると、Bianca(ビアンカ)という名前はпьянка(ピヤンカ)としか聞えないんだそうだ。そのпьянка(ピヤンカ)とは「酒盛り」または「ベロベロに酔った状態」。こういう名の女性はつまり「酒飲み女、酔っ払い女」ということだ。

 女性の名前ばかりではない。ドイツの男性の名前にGeroというのがある。Gerは古高ドイツ語の「槍」から来ており、転じて「槍を持つ人」という意味、ドイツ語の男性の名前Gerhard(ゲルハルト)フランス語のGérard(ジェラール)、英語のGarret(ギャレット)という名前の中のGerまたはGarもこれだそうだ。ロシア語の普通名詞герой(ゲローイ)「英雄」もこれかと思ったらどうもこちらの方はギリシア語ήρως((h)eros)「英雄」からの借用語らしく古高ドイツ語のGerとは関係がないようだ。むしろ英語のheroのほうがгеройと同源らしい。GermanあるいはGermanyのGerも「槍」だろ「英雄」だろだと思っているドイツ人がいたが、GermanのGerはおそらくケルト語の由来で、古アイルランド語garim「騒がしい」か、またはgair「隣人」と同源、つまり「槍」と「ゲルマン」ではゲルはゲルでもゲルが違い、別に「ドイツ人は勇壮だからゲルマンという名前」というわけではないのだ。それでもドイツ語ネイティブにはGeroという名前が「勇壮で非常に男らしく」響くということだが、いくら男らしかろうが金持ちだろうがハンサムだろうが、こういう名前の男性と結婚したがる日本女性はいないと思う。現に私など気遅れがしてここでこの名前にルビを振ることが出来ない。

 ギリシア語のへロスがロシア語ではゲローイになる、と聞いて思い出した。そういえばプーシキンの散文作品「スペードの女王」の主人公がゲルマンという名前のドイツ人だが、私はこれを相当永い間「ドイツ人だからゲルマンという名前」なのかと思い込み、プーシキンにしては名前のつけ方が安直だと思っていた。ところが安直だったのは私の方だった。日本語やドイツ語のhをロシア語ではgで写し取るのだ。だから「ヨコハマ」はロシア語では「ヨコガマ」、「ハンブルク」は「ガンブルク」になる。なのでロシア語の「ゲルマン」は本来のドイツ語ではHermann(ヘルマン)、日本の「あきら」とか「まさお」のように、ドイツでは極めてありふれた男性名だ。

 まだある。昔授業で読まされていたロシア語のテキストにСветлана(スヴェトラーナ)という名の女性が出てきたことがあるのだが、この女性が時々愛称のСвета(スヴェータ)で呼ばれていた。私としては美人という設定のこの女性とこの名前の組み合わせに違和感を感じた。「スベタ」じゃあねえ…

 こういうことが続くと自分の名前もどこかの言語ではヤバいことになっているのではないかと気になって、おちおち安心して自己紹介も出来ない感じになってくる。現に「勝男さん」はイタリア語では相当悲惨なことになっているそうではないか。またあの、日本人にとっては聖なる名前の「富士」はドイツ人にはfutsch(フッチ)と聞こえるそうだ。これは「おジャン」とか「イカれた」とか「ポシャッた」とか「ダメになっちゃった」とかいう意味。つまり「富士山」は「ヘタレ山」か。

 もっともこれらは母語の音韻構造をつい外国語のそれに投影してしまっただけだからまあ、仕方がないと言えば仕方がない。母語でさえ名前を誤解釈してしまうことがあるのだから。何を隠そう私は昔、東京から利根川を越えて行ったところにある、さる荒野の大学にいたことがあるのだが、下見がてらにはるばる東京から願書を出しに行った際、バスが行けども行けども畑の中を走り続け、いいかげん不安になり始めたころやっと町らしい景色になってきたと思ってホッとしたはいいがそこの通りが「東大通り」という名前だったので驚いた。一瞬「どうしてこんなところに東京大学があるんだ。ここは筑波大学(あ、大学名バラしちゃった)じゃないのか?!」といぶかしく思ったものだ。その後大学在学中も、卒業してからでさえも周りに聞いてみたのだが、いまだにこの名前を一発で「ひがしおおどおり」と読めたという人に会ったことがない。 なおこの大学の北の方には「北大通り」というのが走っているが、これも別に北海道大学のことではなく、「きたおおどおり」と読むのが正しい。


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 うちに古いロシア語の教科書が何冊かあるのだが、その一つを何気なくまた覗いてみたら例文がレトロで感激した。ドイツのLangenscheit(ランゲンシャイト)社発行で、初版が1965年、私の手元にあるのは1992発行の第9刷である。そこの例文にこういうのがある。

Товарищ Щукин – рабочий. Сейчас он работает. Он работает хорошо, очень хорошо.

同志シチューキンは労働者です。彼は今働いています。彼はよく働きます、とてもよく働きます。

なんという感動的な文だろう。そう、この教科書が書かれた頃はソビエト連邦真っ盛りだったのだ。もう一冊、ドイツ発行でなくソ連で印刷された教科書(1991年発行)にはこういう会話例がのっている。

– Скажите, пожалуйста, коллега, когда был открыт Московский  университет?  – спрашивает Эдвард.
– В 1755 году, его основал великий русский учёный Михаил Васильевич Ломоносов.
– А сколько студентов учится в университете?
– Около 30 тысяч. И здесь работает почти 8 тысяч профессоров и преподавателей, среди них 126 академиков.

「教えてください、同僚の方、モスクワ大学はいつ開かれたのですか?」とエドワルドが尋ねる。
「1755年に偉大なるロシアの学者ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフが創立しました。」
「ではどれだけの学生がこの大学で勉強しているのですか?」
「3万人くらいです。さらに、ここではほぼ8千人の教授と講師が働いています。そのうち126人がアカデミー会員です。」


こういうのを「シビれる会話」というのではないだろうか。「同僚の方」という呼びかけといい、「偉大なる」という形容詞といい、「ロモノソフ」と苗字だけ言えば済むところをわざわざ「ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフ」とフルネームを持ち出すところといい、「126人のアカデミー会員」とか妙に正確な数字といい(単に「100人以上」とか言えば十分ではないか)、そしてそもそも会話の内容が完全にプロパガンダっているところといい、もうソ連の香気が充満していてゾクゾクする。

 もっとも言語学の専門論文にも面白い例文は多い。妙に時代を反映しているのだ。1960年代に書かれた論文の例文には「ケネディ」や「フルシチョフ」が時々使ってあったし、1990年ごろは「クリントン」が登場した。Enric VallduvíとElisabet  Engdahlと言う学者が1996年に共同執筆した論文にはGorbatschow ist verhaftet worden(ゴルバチョフが逮捕された)という例文が見える。

 日本人で例文の面白い言語学者というと、ハーバード大の久野暲教授ではないだろうか。私のお奨めはこれだ。以下の2文を比較せよ。

a. 強盗僕の家に入った。 その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。

b. 強盗とコソ泥僕の家に入った。強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。コソ泥黙って、カメラを取って家から出て行った。

これはマサチューセッツ工科大学が発行している言語学の専門雑誌Linguistic Inquiryで1977年に発表されたものだ。だから原文は英語、そして日本語はローマ字で表記してある。ほとんどダーティ・ハリーの世界だが、後にSenko Maynardという学者が別の論文でこの例文をさらに次のようにバージョンアップしている。

強盗僕の家に入った。
その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。
その時友達の山中さん部屋に入ってきた。
山中さんドアのそばにあったライフルをつかむと、あたり構わず撃ち出した。

これも英語論文だが、論文本体はどちらも談話を分析、あるいはセンテンスの情報構造を論じている、理詰め理詰めの非常に堅い内容。その本体の堅さと例文のダーティ・ハリーぶりとの間に落差がありすぎて読んでいると脳が悶えだす。考えると学者というのは本論のデータ分析にギリギリの根をつめないといけないし、そこでは実証のできない単なる思弁や想像が許されない、つまり芸術性を発揮できる機会が少ないから、例文作成にここぞとばかり創造力をつぎ込むのではないだろうか。

 あと、外国人のための日本語の教科書にも次のような例文を見つけた。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『七人の 侍』です。 古いですが、とても おもしろい 映画です。

たしかにその通りなのだが、『七人の侍』では当たり前すぎてちょっとインパクトに欠けるきらいがありはしないか。私が日本語教師だったらこうやってやる。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『続・荒野の用心棒』です。 エグいですが、とても おもしろい 映画です。

『続・荒野の用心棒』の代わりに『修羅雪姫』でもよかったかもしれない。これなら一応日本映画だし。


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 日本語では形が似ているので「言語学」と「語学」は頻繁に混同されるが、ドイツ語だと前者はLinguistikあるいはSprachwissenschaft(シュプラーハヴィッセンシャフト)、後者がFremdsprachen(フレムトシュプラーヘン、「外国語」)と全然違う語で表すのできちんと区別してもらえる。この二つは本質的に全く異なるもので、その違いをさる音声学の教授は次のように説明している。
 
「『語学』と呼ぶのは技術論であるのに対し、『言語学』は科学(サイエンス)である。換言すれば、語学における究極の目的は、或る言語を読み、書き、話し、聞くことができるようにすることである。これに対し、言語学の方は、人類の営む言語を客観的な視点から構造や体系に分析し、ユニバーサルな尺度によってこれを記述し、説明することを究極の目的にしている」

 喩えでいえばこういうことだろう。鳥類学者は鳥の飛行のメカニズムを観察し、生物学者はゾウリムシの原形質流動の様子を記録するが、だからと言って自分が素手で空を飛びたいとか細胞分裂・クローン技を体得しようなどとは思っていない。言語学者も同じで、「ネイティブはどうしてこの言語がしゃべれるのか」、「人はどうやって第二言語を獲得するのか、どうやったら効果的か」、「この言語のしくみはどういう風になっているのか」それらの事自体が知りたいだけで、自分がその言語をペラペラしゃべってやろうなどと大それたことは考えていない場合が多い。 実際語学の苦手な言語学者などゴロゴロいる。それはちょうど数学者や物理学者が、必ずしも暗算が得意だとは限らないのと同じことだ。
 もちろん数学者や物理学者は数(ここは「かず」でなく「すう」である)というものと日常接しているから暗算が早い人だっているだろうし、言語学者も言語をいじるのが商売だから自然に外国語が出来るようになってしまう人もいる。ただ、それが目的ではないし、苦手でも商売の決定的な支障にはならない。それこそ自然科学系の学者や芸術家、ビジネスマンなどのほうが言語学者なんかよりよっぽど語学が得意なのではないだろうか。

 すこし前、本屋で知らない人とつい立ち話になってしまったことがあるが、聞いてみたら物理学の学生さんだった。その人が「物理学を専攻しても純然と物理で食べていける人なんてほとんどいないですよ。物理それ自体は日常生活から遊離した、全く役に立たない理論です。で、先生やったり企業で電気いじったり機械を作ったりまあ、応用で食べていってるわけで。」と言っていた。それと同じで言語学も日常生活からは完璧に遊離していて、それ自体では絶対生活していけない。なんとか応用してやっていっているわけだ。失語症の治療にあたったり、IT技術者とくっついて自動翻訳を開発したり皆食べていくのに必死だが、語学教師というのもそれら「応用」の可能性のひとつではある。だから語学の教師には純粋な語学教師と言語学崩れが混ざっているのだ。

 ところで、語学の教師が語学系か言語学系か見分ける方法がある。「ここはどうしてこうなるんですか」と質問した際、「とにかく○○語ではそういうんです。覚えましょう」という類のことを連発する人は語学系、それをクドクド説明し始める人は言語学系である。ただ、そこで一生懸命説明してくれてはいるのだが、その説明が全く常人の理解できない単語・言い回しで結局質問者は前よりもっとわからなくなり、質問をしてしまったことを後悔して「下手に質問するべきじゃないな、これからはここはこうだ、とただ覚えることにしよう。その方が早い」と自分から悟ってしまうため、結果的には「覚えましょう」の語学系教師と同じことになるのである。そこでなされた説明にあくまで食い下がるタイプの人は言語学には向いているかもしれないが、語学そのものはいつまでたっても上達しない。常にその調子でなかなか先に進めないからだ。
 また、「○○語ってどんな言葉ですか?」と聞いたとき、「○○語で「こんにちは」は×××ですよ」という方向の答えをする人は語学系、「○○語は帯気と無気を区別するんですよ」とか「能格言語です」とか言い出すのは言語学系である。これは逆も真なりで、「○○語で「こんにちは」はなんて言うんですか?」などとすぐ聞いてくる人は語学系、「○○語にはどんな音素がありますか?」的な質問をする人は言語学系と見なしていい。
 もう一つ、言語学系の人には「その言い方は正しい」とか「間違いだ」といった規範的な表現に対してアレルギー反応を起こす人がいる。「正しい」の代わりに「その言い方は許容されている」、「間違っている」の代わりに「現段階ではまだその言い方は当該言語社会では使われていない」という。言われた学習者はその言い方をしていいのか悪いのかいまひとつよくわからない。小学校の国語の先生が目のカタキにしている「食べれる」「見れる」なども言語学系の人は拒否しないだろう。「その形は類推によって現代日本語に広く浸透しており、事実上許容されている。」で終わりだ。言語学系の教師がOKを出した言い回しを他で使って直され、「あの野郎デタラメ教えやがったな」と矛先を言語学者に向けられても困る。言語学の文法は「規範文法」ではなく、「記述文法」だからだ。

 これだから、一般言語学系の人が語学を教えると生徒は出来るようにならない、と言われるようになるのだ。これは別に被害妄想で言っているのではない。私が日本語教師の口を捜して面接に行った先で、専攻が一般言語学だとバレると露骨に引かれたことが本当に何回かあるのだ。「授業はあまり言語学的にならないように会話を覚えさせることを重点にしてください」とはっきり牽制されたこともある。しかしたしかにその通りなので、何も言い返せない。「皆さんよくわかっていらっしゃる」としか言いようがない。
 もちろん一口に言語学と言っても範囲が広いから、中には応用言語学など言語教育と直接つながっている分野もあるし、最初に誰かが当該言語を科学的に分析調査、そして記述をしなければそもそも文法書も教科書も作れないわけだから、「言語学は語学の邪魔」とまでは言えまい。でもこの両者の微妙だが根本的な姿勢の差ははっきりしている。
 
 そういう事を以前コンコンとさるドイツ語のネイティブに訴え、「私は言語学専攻なんだから語学が苦手なのは当たり前だ。名詞の性を間違える度にいちいち揚げ足とるな!」と諭したら敵は「なんでそんな簡単なもん間違えるんだよ。名詞の性おぼえるなんてオウムにだってできるよ」と来た。それでは私はオウムより頭が悪いというのか。そんなことはない、オウムはたしかに文法上の性も含めてセンテンスをまる暗記して発音するのは私より上手いかもしれない。だがオウムにはこういうエッセイは書けない。「言語の分節性」というものが理解できず、言語を構造を持ったひとつの体系として捉えられないからだ。   


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 この間電車の中で偶然以前の同僚に会った。その人は私と同世代で母語がスペイン語である。雑談をするうち、いつしか話は「最近の若い者は(出た、年寄りの愚痴!)ラテン語ができない」とかいう方向に進んで行った。
 一昔前はドイツのギムナジウムではラテン語をやるのが普通だった。その上さらに古典ギリシャ語もやらされるところもあった。それに加えて現代の外国語、当時は大抵フランス語を一つマスターさせられたのだ。ラテン語ができないものはそもそも文科系の大学に入学する資格がなかった。できなくてもよかったのは外国籍の学生だけで、「まあ外のものにドイツ人並の教養を要求するわけにもいかんだろ。けっ。」と甘やかされていたのである。そのアマちゃんの私でさえ、一度「ラテン語資格」を要求されそうになって青くなったことは『2.印欧語の逆襲』の項でも書いたとおりだ。

 ところが最近のギムナジウムではラテン語などやらないところがむしろ普通で、文科系の学部もラテン語なしで入学できてしまうそうだ。外国語学部・言語学部に入学してくる、つまり言語というもののプロになりたいと思っているものでさえラテン語ができない学生がいるのだから、あとは推して知るべし。「だから文法の用語とかも皆知らなくてさ、自動詞とか他動詞とかいう言葉の意味がわかんなくてポカーンとしてるから動詞のバレンツを書いてそこから説明してやったよ。これじゃ語学だって進歩しないだろ。説明が理解できないんだから。」他動詞・自動詞よりも「動詞のバレンツ」などという用語のほうが余計わかってもらえないんじゃないかとも思ったが、全くそういう理論武装なしで語学をやることは不可能だと私も思っている。理屈や堅い話なしで、「覚えましょう・覚えましょう」だけで言葉を覚えるのではそれこそ九官鳥やオウムの訓練所ではないか(『34.言語学と語学の違い』参照)。

 さて、この人は古典ギリシャ語もやったそうだが、続けて「ラテン語は語形変化のパラダイムが美しい」という。名詞や動詞の変化表をみるとその均整のとれた美しさに感動するのだそうだ。私もそれには異存がなかったので、「そうですね。特にo-語幹の名詞がいいですよね。呼格なんかもあるし」と話をあわせたが、さらに言えば私はラテン語だけでなく、いや印欧語だけでなく全ての言語体系は美しい、と思っている。言語の本質はその構造性・体系性にあると思っているのだ。その音韻体系、形態素体系、シンタクスの構造、これらが図式化してあるのを見るのが好きで、語学書などでも中身はすっ飛ばして真っ先に巻末の変化表に目が行ってしまう。ただ、パラダイム表をみるのは好きだが覚えるのは嫌い(いうより「できない」)なのが我ながら情けないところだが。

 この言語の構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう。現在の物理学の知識を駆使しても10m上空からアヒルの羽を一枚落としたときの落下地点をぴたりと当てることが出来ないのと似ている。しかもあらゆる言語がそういう構造を内在させている。現在存在している言語、過去に存在していた言語、これから生まれるであろう言語はすべて「決して人間程度の知力では完全に解析・解明することはできない」存在なわけだ。現在地球上にある言語だけで5000、今までに存在した言語なんて何万、いや何十万あったかわからない。それらはどれ一つとして同じ構造のものがない、すべてただ一回きりこの世に存在し、これからも決して生じることはない現象である。
 こういうことを考えるにつけ、たかが10や20言語のちょっとした挨拶や言い回しを覚えて九官鳥気取りで軽々しく「語学ができる」とか言い出す人にはちょっと反発を覚える。

 また、「体系」「構造」という言葉は一時日本でも流行ったのですでに日常語になっているが、では「体系って何ですか?」とあらためて聞かれるとその言葉を得意げに使っている本人も一瞬うっとつまってしまうことが多い。私は馬鹿なので一瞬でなく一分間くらいつまる。でも聞かれたからには答えなければならないのでいつもまあテキトーに(あのねぇ・・・)こんなことをいって誤魔化している。

「要素Aがそれ自体のものでなく他の要素、BとかCとかの関連において初めて意味を持ってくる、あるいは要素Aの本質はAの内部そのものにではなくBやCとの関係のなかにある、と考えるのが体系という観念です。」

つまり、ある文法カテゴリー、例えば過去形という奴をそれだけじいっと考察していてもあまり意味はないということだ。当該言語がどんな時制体系を持っているかによって意味も使用範囲も全く違ってくるからだ。現在-過去-未来しか持たない言語と過去完了、非完了、アオリストなどやたらとたくさんの時制形を持っている言語では「過去形」といっても全く別物なのである。
 語彙にしてもそうで、例えば「「てつだう」ってどういう意味ですか?」という類の質問をしてくるのは初期段階だけである。ちょっと学習が進むと必ず「手伝うと助けるはどう違うんですか?」というような質問をしてくるようになる。体系内での要素間の関係に目が行くようになるのだ。逆にいつまでも言語の体系性ということが実感として捉えられない人は語学のセンスがないのでせいぜい九官鳥と競争でもしていてほしい、とまでは言わないが(そんなことを言ったら私自身も相当長い間その口だったのだ。『25.なりそこなったチョムスキー』参照)、教師がいくら優秀でも途中で壁に突き当たる場合が多い。一生懸命勉強したはずの語学が使い物にならないのはどうしてなのかか自分でもわからず、結局教師の教え方が悪いからだ、と人のせいにしたりするのだ。

 話は少しワープするが、映画も一つ一つの作品を単発でバラバラ無作為に鑑賞したり紹介していてもどうにもならないことがある、と私は思っている。作品Aが当該体系内の作品Bとの関連で初めて意味を持ってくることもあると。ただ、映画では全体として統一の取れた体系というものをきちんと枠組みすることが難しい。いわゆる「ジャンル」というのは枠にはならない。映画芸術発生以来100年余り連綿と作られてきた、またこれからも作られていく映画をポンポンジャンルという箱の中に放り込んだところで収集も統一も取れていないばかりか、どのジャンルにいれたらいいのか人によって違う映画も多い上に(『タイタニック』は恋愛映画なのかアクション映画なのか?)、そもそもジャンルというもの自体、いったいどうやって定義したらいいのか曖昧なこともある(「ブロックバスター」というのは果たして一つのジャンルや否や)からだ。つまり映画のジャンルというものは雑多な映画のテキトーな集合に過ぎない。
 ところがそういう映画にも時々「擬似体系」とでも呼べそうな、全体的に一定のまとまりを示す作品群がある。どの映画がそこに所属するかも明確に決めることができて、枠組みがクリアな集合が。その一つがいわゆるマカロニウエスタンと呼ばれるジャンルというかグループで、これらの作品群は例えば「恋愛映画」などというふやけたジャンルと違ってまずモチーフ(西部劇)が一定している上、1.製作時期がはっきりと限定されている(1964年から1970年代の後半まで)、2.製作国(イタリア)が定義されている、2.監督、音楽、俳優、脚本などが極めて限られた面子である、ので内部の統一性が極めて高い。事実マカロニウエスタンの作品はジャンル内部での相互影響、露骨に言えばパクリ合いが非常に密で独特の小宇宙・閉ざされた空間を形成しているのである。
 また他のジャンルではいわゆる駄作というのは存在の意義が薄く、ガチなフリークならともかく、普通のレビューの網の目からは落ちこぼれることが多いが、内部作品が相互関連して全体の体系を形作っているマカロニウエスタンでは、駄作でも要素Bとして立派に要素Aの存在意義に関与しているのだ。わかり易く言えば、ジャンルの傑作の引き立て役として小宇宙内で重要な意味を持っているのである。そもそもマカロニウエスタンの9割以上は駄作凡作なのだから、体系というかジャンル全体として考察しなければどうにもならない。とにかくこのジャンルは明確に閉ざされた一つの小宇宙を形作っているので一旦ハマると抜けられなくなるのだ。

 あと、これはマカロニウエスタンのような「小宇宙ジャンル」に限ったことではないが、映画を論じる際、製作年を無視すると解釈を誤ると私は思っている。映画は製作と公開が時期的にかなりずれていることが多いのでドイツでの公開時、日本での公開時だけを基にして作品を云々しているとトンチンカンな解釈をしてしまう。少なくとも本国公開はいつだったのか押さえておかないとまずいだろう。本当は本国公開時でなく製作年の方をを考慮すべきなのだろうが残念ながら資料などには出ていないことが多い。
 たとえば私もやってしまったのだが、ブレット・ハルゼイBrett Halsey演ずる『野獣暁に死す』の主人公ビル・カイオワ。最初私はこれは『殺しが静かにやって来る』の主人公サイレンスのコピーかと思ってしまった。陰気な黒装束も同じだったし、顔もちょっと似た方向だったからである。でも調べてみたら前者のほうが制作も本国公開も早かった。つまりカイオワはサイレンスからのコピーではなくてむしろ『続・荒野の用心棒』のジャンゴから直接持ってきたのだとわかる。『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』では後者のほうが圧倒的に名を知られているし評価も高いため、私は見誤ってしまったのである。
 なお、「閉ざされた小宇宙」と言ってもマカロニウエスタンは作品が500以上ある。『52.ジャンゴという名前』の項でも書いたが、その中で私の見た作品など、「見たかどうかよく覚えていない」ものまで無理矢理含めてもせいぜい90作品。あと410作品を見るなんてこの先一生かかっても無理だ。まさに上でも述べたように「構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう」と言える。


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 すぐに「○ヶ国語できる」と話せる言語の数を言い立てる人がいるが、この手の発言はあまり鵜呑みにしないほうがいい。「○語ができる」と軽々しく言い立てる人に限って実はそれほどでもない場合が目立つ。何をもって「できる」と称するかが自己申告だからである。レストランで注文してみたら望みの物が出てきたとか、挨拶が外人に通じた、道を聞いたらちゃんと答えてもらった程度で「できる言語」に勘定する人がいる。前にもこの手の自称6ヶ国語だか7ヶ国語だかできる芸能人が堂々と「イラン語」という名称を使い、「日本語もできるが字は平仮名しか読めない」と言っていたが、そこですでにこの人の「できる」のレベルが明らかである。文字を持たない言語ならイザ知らず、当該言語でまともな文章が読み書きできないのに「できます」と言い切っていいのか。口だけの会話なら変化語尾もへったくれもなくバラバラと単語を羅列し、足りない部分はジェスチャーで補ったり笑って誤魔化すこともできるが、書くにはある程度正確に文法を知っていないとどうにもならない。笑っている場合ではないのである。

 ヨーロッパでは「○語ができます」などという玉虫色の言い方はあまりしない。Gemeinsamer Europäischer Referenzrahmen für Sprachen(ヨーロッパ言語共通参照枠、略してGER)という全ヨーロッパ共通のできる基準というか等級がきっちり決まっているからである。初心者のA1から準ネイティブC2まで語学の能力レベルが段階的に決められていて、ドイツ語ばかりでなく語学は全部この基準で判断する。こちらで出ている日本語の教科書も「日本語A1/A2」などとなっている。だから単に「○語ができます」などとは言わない。例えば「○語がBレベルです」というのである。
 そのGERは大体次のような内訳である。
 A(elementare Sprachverwendung)は初歩レベルで文法を一通りやった状態、B(selbständige Sprachverwendung)になるとその言語で社会生活が可能、C(kompetente Sprachverwendung)の人は当該言語で文化生活が営める。A,B,Cがまたそれぞれ2段階にわけられている。まずAだが:

A1:初心者
慣れ親しんだ日常生活上の表現ができ、具体的な必要事項を満たすためのごく簡単な文を理解して使える。自己紹介、他人の紹介ができ、他の人に、どこに住んでいるのか、どんな知り合いがいるか、どんな物をもっているかなどの個人情報が聞け、また自分のほうでもこれらの質問に答えられる。対話者がゆっくり明確な発音で話し手助けしてやれる用意があれば簡単な意志の疎通が可能である。

A2:基礎知識
その場に直接関連した範囲の意味ならば文や頻繁に使われる表現が理解できる(例えば個人情報や家族について、買い物、仕事、ごく身近な環境でのことなど)。簡単なルーチン的シチュエーション、つまり慣れ親しんだよく知っている事柄についての情報を簡単な言葉で直接交換するような状況でなら意志の疎通ができる。出身地のことや受けた教育、すぐ周りの環境やその場の必要事項のことを簡単に描写できる。

原文を見るとやたらと「簡単・単純」einfachという言葉が使われているのがわかる。レストランでの注文や道を尋ねるというのはせいぜいA2,多分A1レベル、いずれにせよこのAレベルであろう。
 Bに行くと本当の意味での会話がなりたつようになる。

B1:進んだ言語使用
明確な標準語が使われ、仕事、学校、レジャーなど慣れ親しんだ事柄が話題であれば要旨の把握ができる。当該言語地を旅行した際に出会う大抵の状況を処理できる。よく知っているテーマや個人的な興味関心事について簡単に筋の通った説明ができる。自分の経験、夢、希望や目標が描写でき、自分の計画、意図などについてはその根拠を手短に述べたり説明したりできる。

B2:自立した言語使用
具体的なテーマでも抽象的なテーマでも複雑なテキストの大意が理解できる;自分の専門分野では専門的なディスカッションができる。練習や準備をしなくてもよどみなく意志を伝えることができるので、どちらの側もさほど骨を折ることなくネイティブスピーカーと普通の会話が成り立つ。幅広いテーマについてわかりやすく詳細な表現ができる。目下の問題について自分の立場を説明し、考えうる様々な事柄についてメリットとデメリットを挙げることができる。

同じBレベルとしてくくられてはいるが、B1とB2の間には大きな差がある。B1ではまだ言語的に自立していない。
 またB1に旅行云々とあるのでみやげ物屋で値段を聞いたりホテルで交渉できたから私はB1ダーと思いそうになるが、よく考えて欲しい。「大抵の状況」である。ちゃんと現地の言葉で全てやっているか?ドイツで英語を使ったりしてズルをしていないか?例えば一目で旅行者とわかる人が血相を変えてお巡りさんに「財布!財布!」など現地の言葉をバラバラ連呼すれば向こうは「スリに会ったんだな」と察してそれなりの処置をしてくれるだろうし、外国人が駅で「○○ホテル!○○ホテル!」と叫んでいれば、話しかけられた人は道順を示してくれるだろう。でもそれは言葉が通じたのではなくて察してもらえただけである。「私は○広場で財布を盗まれました」と文法的に正しいセンテンスを現地の言葉でちゃんと言ったのとは根本的に違う。その正しいセンテンスも、空港かなんかで買ったピラピラの旅行会話集とやらをわけもわからず棒読みしていたら落第である。あくまで自分の力で表現できなければいけない。ちゃんと目的のホテルに連れて行ってもらえたからと言ってB1とは限らないのだ。
 大学でやっていくには基本的には次のC1が必要ということになっているが、自然科学など、学部によってはB2でもついていけるだろう。B2で大学に入ってC1あるいはC2になって大学を出る、というパターンも多いと思う。

C1:熟練した言語使用
程度の高い、比較的長いテキストを幅広く理解できる。また暗示されている意味を読みとれる。準備や練習なしでよどみなく自己表現ができ、言葉をさがしていることを頻繁に相手に気づかせることがない。社会生活、職業生活、職業教育の場や学業生活で言語を柔軟に使いこなせる。複雑な事象についても明晰で筋の通った詳細な説明ができる。その際文章と文章の論理的なつながりを示すため種々の言語表現を適切に使いこなせる。

C2:ネイティブスピーカーに近い言語知識
読んだり聞いたりしたことは事実上全て困難なく理解できる。目からのものでも耳からのでも様々なソースから得た情報を要点整理し、論の根拠や説明などを筋の通して再現できる。準備も助けもなく非常に流暢に正確に意志の疎通ができ、さらに複雑な事象に関しても、より微妙なニュアンスの違いをはっきり表現しわけることができる。

いちどこの基準をさるドイツ語ネイティブスピーカーに見せたら、溜息をついて「ネイティブだってC2まで行くのは少数派なんじゃないの?」と言っていた。日本語ネイティブにだってダラダラ量だけはしゃべったり書いたりするが論旨が全然進まず、結局何が言いたいのかわからない人などいくらもいるではないか(とか人のことが言えた立場ではないが)。言い換えるとCになると「語学は単なるツール」「コミュニケーションが成り立てばそれでいい」という枠から出ていわば当該言語がその人の精神活動全域にかかわってくるのである。言語の内在化が始まるのだ。
 またここで面白い、言語憲章を見てもわかるように小数言語に敏感なヨーロッパらしいと思うのは、言語能力を標準語だけに限っていないで、ある程度方言が聞いてわかる能力も求めていることである。C1のテストを見てみたことがあるが、スイスでの駅のアナウンスの聞き取りが課題の一つだった。こういうことは特にドイツ語圏では重要だろう。

 「できる」と言えるにはB2、少なくともB1くらいになっていないといけないだろうが、方言のほかにもそのあたりから重要になってくるのは場面によって様々なスタイルを使い分ける、社会言語学で言うレジスターregisterを区別する能力である。日本語で例えば「オレ」とか「アタシ」とかを公式の場で使ったり書き言葉で書いたらお里を疑われるだろう(文学的表現として小説などで使うのはまた別だが)。また「ニホンゴデキマス」という外国人から場面にふさわしくない妙にくだけたいい回しを使われてギョッとしたことのある日本人は多いのではないだろうか。さらにドイツ語やフランス語の教師が「下手に勉強の途中で留学とかさせると変にチャライ言い回しを覚えて得意げにそれを使い、語学が上達したような錯覚に陥って帰ってくるものが多い。でも語学自体は実は全然進歩していない」と言っていたのを何回も聞いた。耳学問だけで覚えた語学というのはある意味では危険だ。それあるに本人は「オレの語学は現地で鍛えた本物」とか思い込んでいる人がいるから始末が悪い。私も「てにをは」さえロクに使いこなせていない人がアニメで覚えた「メッチャ」という言葉を嬉しそうに連発したり「とゆ~」と得意げに書いているのをみると釈然としないものがある。いくら図々しい私だってマカロニウエスタンで覚えたイタリア語なんかをそのままイタリア人に使って見せて「生きたイタリア語を話せます」などと人に自慢する気にはなれない。耳学問で覚えられるのはせいぜいA1までだろうし、正規に習わないと自分がまだAであって、その後に長い長い道のりがあるのだという事がそもそもわからない。だからA1くらいをゴールだと思ってしまうのである。私はもちろん権威主義は大嫌いだが、やはり正規に習わない耳学問・独学オンリーでは限界があることは認めざるを得ない。

 語学に限らないがそもそも始めたばかりの時は上達が早く、自分でも日に日に上達していっているのがわかるが、レベルが上がるにつれて速度は鈍る。下手をすると後退しているような気にさえなることもある。私の勝手な印象だが、B2からC1に進むためには時間の点でも努力の点でもA1からB2、つまり今までに費やしたものと同じくらいの苦労がいるのではないだろうか。C1からC2に進むにはまたA1からC1までに費やしたのと同じくらいの努力と時間がいる。自分の限られた周辺だけに限っていたのではどうしても「上のレベル」というものがどれだけ遠いか見えてこない。
 例えば私にも長くアメリカに住んでいる知り合いが何人かいるが、皆現地の大学を出たり現地の会社で日本語を全く使わずに働いていたりする人たちである。英検一級を持っている人が多い。その一人が以前別の日本人から「英語がペラペラで羨ましい」といわれてものすごくムカついたという話をしていた。厭味をいわれたと思ったそうだ。つまりその人は自分は英語ができないつもりでいたのである。他の人たちも似たり寄ったりで、口を揃えて「英語が出来なくて困る」という。安易に英語ができると言っているのを聞いた事がない。家庭内でしか通じない言い回しをチョロチョロ覚えただけですぐできます宣言をする人とはいい対照である。
 私は最初、こちらでも現地に来て一年くらいにしかならない人たちが「日常生活にはなんとか困らなくなりました」と言っているのを見て、20年以上経っても困っている自分自身やそれらアメリカの知り合い(彼らもそのくらい住んでいる)と比べてみてどうしても信じられず、「この人たちがホラを吹いているか、私の方に徹底的に語学の才能がないかのどちらかだ」と思っていた。もちろん一日6時間くらい毎日教室に通ったというのなら一年も経てば相当話せるようになるだろうが、その人たちは正規に習いにもいかないでそういうことをいうのである。まあ私に才能がないというのはその通りだが、アメリカの大学を卒業した人が言葉で苦労しているのに全く文法も何もやらずにドイツに来て一年たってもう「困らない」と言われるとさすがに考え込む。
 しばらく考えて思い当たったのが、これらの人が「言葉に困っていない」というのはウソではない、本当の話なのではないかということだ。理屈は簡単、彼らのいう日常生活と英検一級持っていてもまだ英語に困る人たちの日常生活とは日常生活そのものが違うのである。家庭内しか生活の場がなく、せいぜいスーパーのレジの人に値段を聞くくらいしか現地語を使わなかったり日本人のいる職場で働いていたりすると現地語は限られたフレーズやアウンの呼吸で話が通じてしまう。助動詞でなく語形変化そのもので形成する接続法2式表現など知らなくていい。それこそ現地語の単語をバラバラ数珠繋ぎ発音するだけで生活全体が包括できるのである。大学のゼミのレポートをウンウンいいながら書き怖い教授に提出して見てもらったり日本人のいないところでプレゼンしたりが日常の人とは日常が違うのだ。言い換えれば彼らの言語生活は「日常生活」ではあっても「社会生活」にはなっていないのである。これなら一年もあれば困るまい。

 少しばかりの口語を覚え、それを現地で覚えた本物の言葉と定義し、そういう「本物の語学」をたくさん集めて○ヶ国語できると言い張っている人を見ると私はつい犬と電信柱の関係を連想してしまう。犬がちょっとクンクン嗅いでみただけで「この電信柱はオレのテリトリー」とオシッコをかけてマーキングするような感じだからだ。この手の語学を私は「犬のションベン語学」と呼んでいる。いかにも私らしい下品な名称で恐縮である。
 ただ、では逆にたくさん語学のできる人は自動的に犬のションベンとみなしていいかというともちろんそんなことはない。例えば渡辺照宏氏が著書で「私が一応文法書を一通り終え、辞書の引き方を知っている言語は20以上になるが、人様に多少ともやりましたといえるのはドイツ語とサンスクリットだけ。この二つはもう何十年も毎日欠かさず勉強している」と言っていた。この短い発言のうちにすでに上で述べた最重要な点が見て取れる。氏は当該言語をきちんと書ける、あるいは公式な場所で使えるような言葉が使えるという点、「できる」などという玉虫色の言い回しでなく、具体的にどの程度できるのか述べている点(「文法をやり、辞書の引き方を知っている」)、そして安易にできるできると言い出さない、言い換えると「できる」と宣言できるようになるまでの道のりの長さがわかっているという点だ。
 語学という電信柱はせめて少しくらいは苦労してよじ登るべきではないのか。それもせずに地上にいたまま小便だけひっかけて「○語ができる・○語をやった」と所有宣言するのは当該言語、いやそのネイティブ・スピーカーや苦労してその言語を学んだ人に対するある種の侮辱ではないのかと私は思っている。


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