アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:語学 > 日本語

 ドイツでは国歌を斉唱したりすることがあまりない。もちろん学校行事で歌うことなどないしそもそも「学校行事」などというものがほとんどない。国旗を掲げたりもあまりしない。ベルリンの国会議事堂なんかにはかろうじて国旗が揚がっているが、地方裁判所になると立ててあるのは州旗である。
 昔フライブルク・バーゼル経由でチューリヒに行こうとして電車に乗っていたところ、パスポートのコントロール(当時はまだ東西ドイツがあったし、EUでなくECだったのでスイスとの国境でパスポートのチェックがあったのだ)に来た警察官のおじさんが雑談を始めて、「スイスに行くんですか。でもシュバルツバルトも見ていくといい。フライブルク、チューリヒ、あとミュンヘンやオーストリアの住人って一つの民族なんですよね。言葉も同じ、文化も同じ、一つの民族なんだ」と言っていた。つまりこの南ドイツの警察官のおじさんにとってはオーストリア・スイスのほうが北ドイツ人より心情的に「同国人」なのだ。一方北ドイツ人も負けていない。「フランクフルトから南はもうドイツ人じゃない。半分イタリア人だ」「バイエルン訛よりはオランダ語の方がまだわかる」などといっている人に遭ったことがある。かてて加えてドイツ国内にはデーン人やソルブ人などの先住民族がいる。後者は非ゲルマン民族だ。こういうバラバラな状態だから国旗なんかより先に州旗が立つのだ。ドイツでいい年の大人が国歌を歌ったり国旗を振り回したりするのはサッカーの選手権のときくらいではないだろうか。時々これでよく一つの国にまとまっていると不思議になるが、国歌斉唱などしなくてもドイツという国自体は非常に堅固である。

 日本では時々小学校、ひどい時には大学で国歌を斉唱させるさせないの議論になっているが、そんなことが国家の安定とどういう関係があるのかいまひとつよく理解できない。理解できないだけならまだいいのだが、小学校の式で国歌を歌わせる際、教師や生徒が君が代を本当に歌っているかどうかを校長がチェックするべきだ云々という報道を見たことがあり、これにはさすがに寒気がした。中年のおじさん教師が10歳くらいの子供の口元をじいっと見つめている光景を想像して気分が悪くなったのである。
 子供たちもこういうキモいことをされたら意地でも歌ってやりたくなくなるだろうが、相手は生殺与奪権を持つ大人である。せいぜい口パクで抵抗するしかない。しかしこの「口パク」というのは結局、実際に音が出ないというだけで頭の中では歌っているわけだから相手に屈したことになる。それではシャクだろうからいっそ君が代を歌っていないことがバレない替え歌を歌うという対抗手段をとってみてはいかがだろうか。

 まず、「バレない替え歌の歌詞」の条件とは何か、ちょっと考えてみよう。

 第一に「母音が本歌と揃っている」ということだ。特に日本語のように母音の数が比較的少ないと、アゴの開口度が外から見て瞭然、母音が違うとすぐ違う歌詞なのがわかってしまう。
 もう一つ。両唇音を揃える、というのが重要条件だ。摩擦音か破裂音かにかかわらず、本歌で両唇音で歌われている部分は替え歌でも両唇音でないといけない。両唇音は外から調音点が見えてしまうからだ。具体的にいうと本歌で m、b、p だったら替え歌でも m、b、p になっていないとバレる。ただしこれは円唇接近音でも代用が利く。円唇の接近音は外から見ると両唇音と唇の動きが似ているからだ。で、m、b、p は w で代用可能。逆も真なりで本歌の w を m、b、p と替え歌で代用してもバレない。
 あと、これはそもそも替え歌の「条件」、というより「こうありたい」希望事項だが、母音は揃えても子音は全て変えてみせるのが作詞者の腕の見せ所だ。音があまりにも本歌と重なっていたら、替え歌とはいえないだろう。少なくともあまり面白くない。

 これらの条件を考慮しつつ、私なりに「バレない君が代」の歌詞を作ってみたらこうなった。

チビなら相場。一人貸し置き。鼻毛記事をヒマほど再生。俺をぶつワケ?

君が代の歌詞を知らない人・忘れた人、念のため本歌の歌詞は次のようなものだ。比べてみて欲しい。母音が揃っているだろう。

君がぁ代ぉは 千代に八千代に さざれ石の巌となりてぇ 苔のむすまで

4点ほど解説がいると思う。

1.本歌では「きみがぁよぉわぁ」と「が」を伸ばして2モーラとして歌っている部分を替え歌の方では「なら」と2モーラにした。もちろん母音はそろえてある。

2.同様に本歌で「よぉ」と2モーラに引き伸ばしてあるところを「そう」と2モーラにした。「そう」の発音は[sou]でなく[so:]だからこれでOKだと思う。

3.「再生」の「生」は実際の発音も「せー」、つまり [sei] でなく [se:] だから本歌の「て」の代わりになる。

4.ここではやらなかったが、「再生」、つまり本歌の「なりて」の部分は「かんで」でも代用できる。ここの/n/(正確には/N/)の発音の際は後続の「え」に引っ張られて渡り音として鼻母音化した[ɪ] (IPAでは ɪ の上に ˜ という記号を付加して表す)が現われ、外から見ると非円唇狭母音「い」と同じように見えるからだ。「再生」より「噛んで」の方がワザとしては高度だと思ったのだが、「ヒマほど噛んで」では全く日本語になっておらず、ただでさえ意味不明の歌詞がさらにメチャクチャになりそうなので諦めた。

 こんな意味不明の歌詞では歌えない、というご意見もおありだろうが、文語の歌詞なんて意味がとれないまま歌っている子供だって多いのだから、このくらいのシュールさは許されるのではなかろうか?私だって子供の頃「ふるさと」の歌詞を相当長い間「ウサギは美味しい」と思っていたのだから。
 そんなことより大きな欠陥がこの替え歌にはある。児童が全員これを歌ってしまったら結局バレてしまうということだ。その場合は、「先生、私はちゃんと君が代の歌詞を歌っていましたが周りが皆変な歌詞を斉唱していました。」と誤魔化せばいい。


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 私個人は嫌いなので、あまり「日本の国技」として下手に外国に紹介などしてほしくないのだが、スモウというのはやはり外から見るとエキゾチック趣味をそそられるらしくこちらでも一時TVなどでよく放映されていた。故九重親方が千代の富士として力士をしていたころも、見たくもないのにスポーツ番組で流されて迷惑したものだ。ファンの方には非常に申し訳ないが、どう見てもあれは私の審美眼には適わない。
 しかし、相撲を外国で見せられると気分が悪くなる原因はあのスポーツ自体が嫌いなことの他に選手の(力士と言え)名前がムチャクチャな発音で呼ばれるからである。もちろんローマ字綴りの日本語が外国語読みになると原型を留めないほどひどい形になるのはドイツに始まったことではない。例えばMr. Kimuraはアメリカではミスター・カイミューラになってしまうそうだが、ドイツ語でもヘボン式で表記された名前がドイツ語読みにされるから大変なことになる。一度千代の富士Chiyonofujiがヒジョノフォーイーと発音されたのを聞いた。しかも妙な強弱アクセントがフォの上に置かれていて、あまりの乖離ぶりに全身の血が凍りついた。こりゃほとんどホラーである。

 ドイツ語ではchは「チ」ではなく後舌母音に続く時は[ç]、その他の母音や子音の後は[x]と読まれる。だからStorch「コウノトリ」は[ʃtɔʀç](シュトルヒ)、durch(英語のthrough)は[dʊʀç]( ドゥルヒ)なのだが、北ドイツの人がこれらをそれぞれ[ʃtɔʀx](シュトルホ)、[dʊʀx](ドゥルホ)と発音しているのを何度か聞いた。オランダ語では[ç] というアロフォンがなく、外来語以外のchは基本的に[x] なのとつながっているのだろうか。Chはさらにフランス語からの借用語では[ʃ]、イタリア語からの借用語では[k]となることもあるが、語頭のchi は普通「ヒ」である。
 さらに英語もそうだがドイツ語には日本語の無声両唇摩擦音 [ɸ] がないので、この音を上歯と下唇による摩擦音 [f] で代用して書く。「代用」と書いたが、欧米の自称「日本語学習者」には日本語の「ふ」が両唇摩擦音であって [f] ではない、というそもそものことを知らない人が時々いる。また前にもちょっと書いたが、「箸」と「橋」と「端」、「今」と「居間」など、「高低アクセントの違いで意味が変わるなんて聞いた事もない」人に会ったこともある。前に日本語を勉強したとのことだったが、私がちょっとアクセントの話をしたら、ほとんどデタラメを言うな的に食ってかかられて一瞬自分のほうが日本語のネイティブ・スピーカーであることを忘れてしまいそうになった。子供の頃「飴が降ってきたね」といった京都の子をからかった記憶(今思い出すとまことに慙愧の念に耐えない。言葉をからかうのは下の下であると今では考えている)は私の妄想だとでもいうのか。
 話を戻すと、その上ドイツ語の母音 u はしっかり円唇母音 [u] だから、非円唇の日本語の「う」 [ɯ] よりもむしろ「お」に聞こえることがある。そこでさらに強弱アクセントを置いた母音がちょっと長くなるので fu が「フォー」と2モーラに聞こえてしまうのだ。
 j はドイツ語では[ʒ]でも[dʒ]でもなくまさにIPAの通り [j] だから、ja、ji 、ju、je、 jo、はジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョでなくヤ、イ、ユ、イェ、ヨである。「柔道」 judo はユードー、柔術 jujitsu はユイーツーとなって一瞬「唯一」かと思う。心理学者のユングの名もJungと j で始まっている。だから ji は「イー」である。

 ここまでは単にヘボン式のローマ字の読み方を知らずに単細胞にドイツ語読みしやがっただけだから発音の悲惨さの原因はまだわかりやすい。問題はどうして yo が「ジョ」になるのかということである。ドイツ人が yo を「ジョ」と読むのを他でも一度ならず聞いた。例えばTakayoだったかなんだったか、とにかく最後に「よ」のつく日本の女性名が「タカジョ」と呼ばれていたのだ。これはアルファベットのドイツ語読み云々では説明できない。Ya、yi、yu、ye、yoはドイツ語でもヤ、イ、ユ、イェ、ヨだからである。

 私はこれはいわゆる過剰修正の結果なのではないかと思っている。

 まず j は上で述べたようにフランス語では摩擦音の[ʒ]、英語では破擦音の[dʒ]だから日本語と大体同じ、というより日本語のアルファベット表記が英語と同じになっている。ドイツ人にとっても日本人と同じく学校で最初に学ぶ外国語は英語、その後中学でフランス語だから、その際「ja、ji、ju、je、joをヤ、イ、ユ、イェ、ヨと発音してはいけない」ということを叩き込まれる。学校で真面目に勉強しないでいて英語の全く出来ない人はドイツにもいるが、そういう人たちはJohnを「ヨーン」、Jacksonを「ヤクソン」と呼んでケロリとしている。しかし普通の教養を持っている人は英語やフランス語ができなくてケロリとしているわけにはいかないから、必死に「ja、ji、ju、je、joをヤ、イ、ユ、イェ、ヨというのは間違い、ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョが正しい」と自分の頭に刷り込むのである。そのうち「ja、ji、ju、je、joを」という条件項目が後方にかすんでしまい、「ヤ、イ、ユ、イェ、ヨは間違い、ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョが正しい」という強迫観念が固定して、勢い余って本当にヤ、イ、ユ、イェ、ヨで正しい場合までジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョと言ってしまう。このため yo をついジョと発音してしまうのではないだろうか。
 ここでわからないのはむしろ、直さなくていいところで余計な修正が入り、直すべき肝心の富士の「ジ」の部分では修正メカニズムが起動せず「イー」に戻ってしまっていることだ。

 もう一つ思いついたのは、スペイン語で y が [j] ではなく時々、というより普通軟口蓋接近音 [ʝ] になることである。時によるとこれがさらに破擦音の[ɟʝ]、時とするともっと進展して軟口蓋閉鎖音の[ɟ]にさえなってしまうそうで、実際私の辞書にはyo(「私」)の発音が[ɟo]と表記してある。ドイツ人には(日本人にも)これらの音はジャジュジョと聞こえるだろう。それでドイツ人はyoを見ると「ジョ」といいたくなるのかもしれない。
 しかし反面、この[ʝ] [ɟʝ] [ɟ]はあくまで [j] のアロフォンであり、どの外国語もそうだが、音声環境を見極めてアロフォンを正確に駆使するなどということは当該言語を相当マスターしていないとできる芸当ではない。今までに会った、yo を「ジョ」と読んだドイツ人が全員スペイン語をそこまでマスターしていて、ついスペイン語のクセがでてしまった、とはどうも考えにくい。上でも述べたように、何年間も勉強した学習者でも発音をなおざりにしていることなどザラだからだ。それにどうせスペイン語読みになるのだったら、他の部分もスペイン語読みになって「チジョノフッヒ」とかになるはずではないのか?これはこれでまたホラーだが。

 してみるとやはりあの発音はやはり過剰修正の結果と考えたほうがいいだろう。

 この過剰修正はローマ皇帝のヴェスパシアヌスもやっているらしい。風間喜代三氏がこんな逸話を紹介してくれている:あるときヴェスパシアヌスに向かってお付きのフロールスFlōrusが「plaustra(「車」)をplōstraといってはなりませんぞ」と注意した。これを聞いた皇帝は翌日そのお付きをFlaurusと呼んだ。
 スエトニウスの皇帝伝に書かれているこの話が面白いのはまず第一にこれがau, ō → ōというラテン語の音韻変化の記録になっているからだが、これも千代の富士のホラー発音と同じメカニズムだろう。もっともヒジョノフォーイーと比べたらフロールス→フラウルスなんて可愛いものである。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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 日本語のいわゆる格助詞は基本的に使い方がドイツ語などの格体系と並行しているから実は説明しやすい。「が」が主格、「の」が属格、「に」は与格、「を」は対格、「で」が処格あるいは具格という具合に割とスース―説明できる。もちろんこれはあくまで「ドイツ人用の語学の説明」であって、日本語の記述や構造研究、つまり日本語言語学にこういうラテン語の用語をそのまま持ち込むことはできないし、語学にしても細かな補足説明は常に必要になってくる。例えばドイツ語では処格などは名詞や冠詞のパラダイムとしては形を失っているので前置詞を使わないと表現できないものがある。さらにその際付加される名詞の格によって意味が違ってきたりする。典型的なものはin、auf、 an、überなどの対格と与格の両方を支配する前置詞で、対格をとると行為の方向、与格をとれば純粋な処格、つまりその行為が行われる場所を示す。例えばan die Tafel schreiben(「黒板に書く」)ならば対格の die Tafel(「黒板」。最近はホワイトボードというのもあるが)はschreiben(「書く」)という行為が黒板に向かっているという意味、an der Tafel stehen(「黒板に書いてある」)と与格をとれば書いてある場所が黒板ということである。同様にin das Haus gehen と対格ならば「家の中に行く」、in dem Haus lesenと与格ならば「家で読書する」。この与格対格の違い、方向か場所かの違いは日本語だと基本的に「に」対「で」で表せるのだが、「に」が純粋に処格を意味する場合があるからややこしい。上の「黒板に書いてある」もそうだが動詞が本当の意味での行為を現さず、単に「ある」とか「いる」などの存在を表現するもの、言い換えると動詞自身の意味内容が希薄で場所のほうに焦点が置かれている場合は「に」を使うのである。2番目の例も動詞が「読書する」でなく「いる」になると助詞は「に」になって「家にいる」。「家でいる」とは言えない。この「に」と「で」を使い分けられないドイツ人はかなりいる。ドイツ語ではこういう区別がないからである。しかし逆もあってドイツ語ではすんなり表せるが、日本語だとズバリとは表現できない違いもある。例えばeine Ente fliegt über den See(対格)とeine Ente fliegt über dem See(与格)はどちらも「アヒルが一羽湖の上を飛ぶ」(アヒルは飛べないから「カモ」と訳すべきかもしれない、と寒いギャグを言ってみる)だが、対格ではアヒルは湖の上空を通過して渡って行っているのに対し、与格だとアヒルが湖の上空を旋回していることになる。この違いは日本語の格助詞では表せない。
 このようにドイツ語では方向と場所の違いが対格対与格の差になっているが、ロシア語やクロアチア語だとこの違いは対格対前置格あるいは処格の差となる(ロシア語で前置格と呼ばれているものは事実上処格のことである)。アヒルが旋回する場合「湖」が与格でなく処格になるのだ。スラブ諸語は名詞の格を6つあるいは7つ保持している一方、ドイツ語では4つしか残っておらず処格の機能を与格が吸収してしまったからだ。つまり旋回アヒルの湖は処格をとるのが本来の姿なのである。

 いわゆる印欧祖語には8つの名詞格を区別したと思われる。実際に例えばサンスクリットでは主格nominative、呼格vocative、対格accusative、具格instrumental、与格(あるいは為格)dative、奪格ablative、属格genitive、処格locativeと語尾変化する。それが時代が下るにしたがって格が融合し、スラブ語派では奪格と属格が、イタリック語派では奪格と具格が、ドイツ語などのゲルマン語派では奪格、処格、具格が融合してしまった。細かく言えばロシア語はそこからさらに形としての呼格を失い、ラテン語では処格形が消失した。それでロシア語は現在名詞のパラダイムとしては主格・属格(あるいは生格)・与格・対格・具格・前置格(処格)6つとなっているわけだ。クロアチア語がこれに加えていまだに呼格形を保持している、つまり7格あることは『90.ちょっと、そこの人!』で述べたとおりである。ラテン語も6格ではあるが内容が違っていて、主格・属格・与格・対格・奪格・呼格となっている。このうち呼格は o-語幹の男性名詞単数にしか残っていない。8格保持しているサンスクリットでも単数では奪格と属格が、複数では奪格と与格(為格)が融合してしまっていた。両数ではさらに格融合が進んでいる。余談だが、現在私たちが一般に使っている格の順番、主→属→与→対→その他というのはラテン語文法から来ているので、サンスクリットなどではこの順番が違う(上記参照)。学習以前にすでにこれで戸惑った人もいるのではないだろうか。
 形としての格が失われてしまうと、何らかの措置を外から施して本来名詞の語尾変化形が受け持っていた機能を明確にしてやる必要が出てくる。例えばあちこちで他の格と併合の憂き目にあっている奪格。これは起点を表す格であるが、パラダイムとしての語尾形が消失してしまったのでそれを埋め合わせるため前置詞が使われるようになった。奪格と具格の区別がなくなってしまったラテン語では奪格という形だけでは起点を表すことができなくなり、ab、ex、de などの前置詞を奪格名詞の前に付加するようになったのだ。具格を表したいときは cum+奪格。現在のドイツ語や英語などは前置詞なしではもうどうにもならない。後者では起点はvon、aus (英語のfrom)という前置詞を与格名詞の前に置いて表現する。

 日本語で奪格を表す助詞は「から」であろうが、よく見てみると上述の与格・処格助詞「に」も奪格として作用することがある。例えば:

1.私はその人に本をあげました。
2.私はその人に本をもらいました。

では、1の「その人に」は意味の上でも与格である。ドイツ語でも

Ich gab dem Mann ein Buch.

で、その人が与格形になっている。対して2の「その人」は格の意味としては奪格である。現にこの「その人」を「その人から」と入れ替えて「私はその人から本をもらいました」としても文の意味が変わらない。さらに

3.私はパステルナークさんロシア語を習いました。
4.私はパステルナークさんからロシア語を習いました。

は意味が同じだ。ここの「に」は奪格である。つまり全く方向性が逆の事象を同じ助詞が表しているわけだ。この奪格の「に」もドイツ人は理解するのに手間取る人が多い。そこで私は勇気づけのために「いや~、本当に日本語って意地が悪いですね。与格と奪格をいっしょの後置詞で表すんですから。なんなんだこれは、と思う気持ちよくわかります。」と自虐的な冗談を飛ばしていたのだが、最近これと似た、全く同じ形で与格と奪格という正反対な方向を表す意地の悪い構造がドイツ語にもあることに気づいた。日本語だけが性格の悪い言語ではなかったのである。例えば次のようなセンテンスを新聞で見ておやと思ったのだが、

5.Die Hoffnung auf einen klaren Sieg entsprang jedoch Wunschdenken.
はっきりと勝ちたいという希望が「だといいな」という考えから湧き出てきた。

ここでは、Wunschdenken「だといいなという考え」は与格であるが、「から」をつけて奪格としてしか訳せない。つまりこの名詞は形としては与格だが機能的には奪格なのだ。
これをきっかけにしてさらに思いめぐらしてみると思いつくわ思いつくわ。

6.Dieser Aussage ist zu entnehmen, dass …
この発言から次のようなことが読み取れる、すなわち…

ここでも「この発言」(太字)は形は与格だが、意味は奪格である。もっともこれら2例では動詞にent- という前綴りがついていることを理由にして「これは動詞のバレンツとして与格が要求されるから与格が来ているのであって、与格形そのものが奪格の意味を持っているのではない。つまり動詞の支配の問題に過ぎない」という説明も成り立つが、さらにこういう文も思いついてしまった。

7.Ich nahm dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを取った。

8.Ich stahl dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを盗んだ。

「もうちょっとどうにかした例文を考えつかないのか」とネイティブに文句を食らったが、2文とも文法的には正しい。この文で「その人から」dem Mann(太字)は与格形である。ここで奪格性を明確にするため前置詞を付加してそれぞれ

9.Ich nahm von dem Mann seine Ente.

10.Ich stahl von dem Mann seine Ente.

ということもできるが「そういう文はエレガントじゃない」というのが先のネイティブの言であった。なくても意味が分かるような前置詞を無駄・余計に加えるのは「ダサい」そうである。これらの動詞「取る」(不定形nehmen)、「盗む」(不定形stehlen)はどちらもバレンツとしては与格を要求しない。そんなもんがなくても対格目的語と主格主語だけあれば完全な文として成立する。つまりこの与格名詞は奪格機能を持っているのだ。そういうことを考えているとさらに以下のような文を新聞で見つけた。

11.Dass … dem Verein Sponsoren abspringen.
その協会からスポンサーが手を引くということ。

この与格名詞dem Verein(「その協会から」)も意味的には奪格である。面白いことに独和辞書には(von + 3) abspringenという使い方しか載っていない。von という前置詞を名詞に付加せよということだから、つまり上の7~10の例とパターンがいっしょではないか。

 そこでこれらの奪格機能を持った与格形を文法書ではどう説明しているのか調べてみた。まず日本語のドイツ語広文典では与格の用法として「つぎのような意味の他動詞は対格の事物目的語の他に与格の人物目的語を支配する」として geben(「与える」)などの動詞とともにまさに上で出したnehmen、stehlenなどの動詞も例として掲げている。しかし7と8のような文の中の与格名詞を「目的語」と名付けるのは非常に疑問だったので念のためドイツ語のDuden を参照してみたら疑問はさらに拡大してこの著者は与格に奪格的な機能があることそのこと自体をまったく無視しているか、まさかのまさかだが思い至らなかったのではないかと疑うに至った。Duden では与格の人物目的語の一つとして以下のように説明されている。

Eine Person, … zu deren Vorteil oder Nachteil etwas geschieht. Mann spricht hier von einem Dativus commodi und incommodi.
何かその人にとってメリットあるいはデメリットになるようなことが起こる人物。それぞれcommodi の与格(メリット)及び incommodi の与格(デメリット)という。

一瞬このincommodi の与格というのが私の言う奪格の与格かと思うが、挙げてある例を見るとそういう意味ではないことがわかる。

12.Sie hat mir den Teller zerbrochen.
彼女は私に対して皿を割った→彼女は私の皿を割った

「私」が与格となっているが(太字)、これがいわゆるincommodi の与格というものだろうが、与格名詞のデメリットになっているとは言え、行為の方向はやっぱり私のほうを向いている。奪格ではない。さらに例として

13・Er hat ihr (für sie) einen Apfel gestohlen.
彼は彼女に(彼女のために)林檎を盗んだ。

という文が掲げてある。括弧内の (für sie)(「彼女のために」)というのは原文ですでに入っている。私が付け加えたのではない。だからこの文の意味は、「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」ということだ。これも方向は明確に与格の「彼女」(太字)を向いている。
 するとこの構造Er hat ihr einen Apfel gestohlen.は多義的ということ、日本語の「山田さんあげる」と「山田さん貰う」に似て同じ形が正反対の方向性を示していることになる。「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」(意味としての与格)と「彼は彼女から林檎を盗んだ」(意味としては奪格)である。ネイティブに聞いてみたら与格の意味の方、「盗んだ林檎を彼女にあげた」ほうは文学的・古風なニュアンスで「日常会話にはあまり使わないだろ」とのことである。
 いずれにせよ、似ている点はあってもincommodi の与格は奪格の与格と完全には一致しない。上のドイツ語広文典で「与格の人物目的語」ではこの「デメリットの与格」さえ言及されていないのとすると著者は「彼女のために」という意味しか念頭に置いていなかったのだろうか。
 私には融合の憂き目を見た奪格の機能が与格にくっついて細々と生き残っているように見えてならない。
 

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