アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > ソ連・ロシア

 「ホームシック」をドイツ語でHeimweh(ハイムヴェー)というが、Heimは英語のhome、wehがsoreness(「痛み」)に当たるので構造的に英語とよく対応している。ところがドイツ語にはさらにこれと対になったFernweh(フェルンヴェー)という言葉がある。Fernは英語のfarだから、これは「郷愁・故郷が恋しい」の反対で、「遠くが恋しい」つまり「どこか遠くの知らない土地に行って見たくてたまらない衝動」という意味だ。

 私はこのFernwehというのは実は人間の本質的な衝動なのではないかと思う。これがなかったら、人類が全員生まれた土地から一歩も出ずにそこで死にたがるメンタリティだったら、いくらやむを得ない事情があったとしても私たちの祖先はアフリカから出て行っていただろうか?生まれ故郷を出て行く理由は「仕事が欲しい」、「エサが欲しい」、「金がほしい」、それだけだろうか?人は本能的に山を見れば越えたくなる、海を見れば渡りたくなるものなのではなかろうか。

 私も子供の頃この気持ちに駆られたことを覚えている。近所のビルの屋上から東京湾の海が見えたので、「海は広いねえ、あの向こうはアメリカなんだねえ」と私にしては珍しくロマンチックなことを言ったら一緒にいた仲間に「馬鹿、東京湾の向こうは千葉県だろ」とあっさり冷たく返され、幼い私のFernwehはグシャグシャになってしまった。
 しかしさすが人類一般に内在する衝動だけあって、千葉県に邪魔されたくらいではなくならない。引き続いて私の心に存在し続け、高校生になった時、第二外国語としてドイツ語をとる気にさせた。当時入学した都立高校には選択科目として第二外国語があったのだ。

 それでも私が初めて実際に外国に行ったのはやっと就職してからで、その「生まれて初めて見たよその土地」はソ連(当時)のハバロフスクだった。いわゆるパック旅行でドイツへ行く途中で燃料補給に立ち寄ったのだ。
 見渡す限り続く地平線といい、土の色、空の広さといい、日本みたいなみみっちい島国では絶対お目にかかれない景色に感動した。飛行場の建物の入り口にカラシニコフを持って立っていたシケたおっさん兵士についクラクラ来そうになった程だ。飛行場のローカルぶりさえポジティブな印象となって残っている。その印象が強すぎて肝心のドイツ旅行の記憶はほとんど残っていない。

 ところで当時まことしやかに流布していた噂がある。

 「アエロフロートソ連航空のパイロットの腕は世界一だ。なぜならここはふだん、ミグだろスホーイだろの戦闘機に乗っているスゴ腕軍人が本職の片手間に旅客機を操縦しているからだ。しかもアエロフロートの旅客機はボロなので取り扱いに細心の注意を払わないとすぐ墜落して命が危ない。これを落とさずに操縦できるのは世界でもソ連のエリート航空兵だけだ。」

 これを「何を馬鹿な」とあながち一笑に付せなかったところが怖い。

 次にモスクワ空港でも途中下車したのだが(せめて「トランジット」と言ってくれ)、そこを警備していた赤軍兵士が誰も彼も紅顔の美青年だったので驚愕した。そう思ったのは私だけではない。その旅行に参加していた同行の女性陣も結構、みな陰でヒソヒソ大騒ぎしていたから。それ以外にも旅行記などで複数の女性が、ソ連、特にモスクワの赤軍兵士はみな若くてハンサム、今の言葉で言えばイケメンだったと証言している。
 そういえば、日本で誰かが「ソ連では国家の威信を示すためモスクワ空港やレーニン廟など外国人の目につきやすい場所には選りすぐった容姿端麗な赤軍兵士を配置した」と教えてくれたことがあるが、本当だろうか? でもそれを言うなら赤の広場で手を振っていた政府の要人の方がよほど外国人の目につきやすい位置にいたと思うのだが。モスクワ空港やレーニン廟にハベらせるために全ソ連からイケメンをかき集めているヒマがあったら、あのレオニード・ブレジネフ書記長のゲジゲジ眉毛をどうにかしたほうがよかったのではないか、とは思った。

 いずれにせよ、ソ連が崩壊してからは兵士の見てくれも崩壊してしまった。まことに遺憾である。


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 若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。

 まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
 そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
 次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
 グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
 さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
 
 つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。 

 そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
 ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
 
 ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。

 ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
 ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。

 さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。

 自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。


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警告:この記事には下ネタが含まれています。紳士・淑女の方は読まないで下さい。自己責任で読んでしまってから「下品な記事を書くな!」と苦情を言われても一切受け付けられません。

 ドイツ語にAuslautverhärtungという言葉がある。「語末音硬化」とでも訳せるだろうか。語末で有声子音が対応する無声子音に変化する現象である。例えば「子供」はkindと書き、語末の音は深層では書いてある通り d、有声歯茎閉鎖音なのだが、ここではそれが語末に来ているため対応する有声歯茎閉鎖音、つまり t となり、「キント」と発音される。複数形はKinderといって d が語末に来ないから本来の通り有声になって「キンダー」。
 私は個人的にこのAuslautverhärtungという言葉か嫌いだ。ドイツ語学の外に一歩出ると通じないからである。「硬化」というが無声音のどこが有声音より硬いんだろう。辞書を引くとVerwandlung eines stimmhaften auslautenden Konsonanten in einen stimmlosen(「語末に来る有声子音が無声のものに変化する現象」)と定義してあってさすがに「硬化」などという非科学的な記述よりはきちんと理解できるが、実はこれでもまだ不正確だ。この現象の本質は単にさる有声子音がさる無声子音に変化するのではなく、調音点・調音方法はそのままで有声性だけが変化する、言い換えると本来弁別的区別をもつ [+ voiced] 対 [- voiced] の素性(そせい)の差が語末では機能しなくなる、ということだからだ。で、人にはいちいちNeutralisierung der Stimmhaftigtigkeit im Auslaut(「語末での有声性の中和」)と言え、と訂正してその度にうるさがられている。
 それと同じ理由でロシア語の「硬音」「軟音」という用語も嫌いだ。ロシア語ではこれを使わないとそもそも語学の学習が出来ないから仕方なく使っているが、本来「非口蓋化音」「口蓋化音」というべきだろう。さらにいうと日本語の「清音」「濁音」「半濁音」という言い方も見るたびに背中がゾワゾワする。
 その、ドイツ語でシモの有声音が中和される現象だが、ドイツ人はこれが深く染み付いていて英語のsentとsend、(生放送という意味の)liveとlifeが発音し分けられない人がたくさんいる。それぞれどちらもセント、ライフになってしまい、「センド」「ライヴ」が言えないのだ。
 同じ西ゲルマン語なのに英語にはこのシモの現象がない。調べてみたら北ゲルマン語のスウェーデン語にもない。だからスウェーデン語でland(「国」)はドイツ語のように「ラント」にはならないが、その代わり d がそり舌化して [ɖ] となるとのことで「ランド」ともいえない。実際に発音を聞いてみたらそもそも語末音が全然聞こえなかった。西ゲルマン語で英語とドイツ語の中間にあるオランダ語にはこの現象がある。聞いてみたらlandはきれいに(?)「ラント」であった。さらにスラブ諸語はこの有声音の中和現象が著しく、ロシア語などは半母音さえ中和されて [j] が [ç] となるばかりか、ソナントの [r] まで語末で無声になっているのを耳にする。特に口蓋化の [r] は無声化しやすいのか、царь (ツァーリ、「皇帝」)の「リ」は [rj ̊] になることが多いようだ。
 またドイツ語では反対に無声歯茎摩擦音、具体的に言うと s が語頭や母音間では必ず有声化して z になるため、「相撲」がいえず「ズーモ」、「大阪」が「オザーカー」、「鈴木」に至っては「ズツーキ」になってしまう。頭突きをやるのは鈴木でなくジダンだろう(などと今頃言っても誰ももうあの事件を覚えていないか)。
 
 しかしこの「有声音と対応する無声音の区別が怪しくなる」というのは中国語や韓国語など、大陸アジアの言葉が母語の人にも時々現れる。それらの言葉では有声無声の対立が弁別的機能を持っていないことがあって、かわりに帯気・無気が弁別的に働くからだ。で、うっかりすると「ねえやは十五で嫁に行き」が「ねえやは中古で嫁に行き」となってしまうそうだ。
 でも昔の日本は武士階級ならともかく、庶民では女性にすでに性体験があっても別に嫁に行く際それほどマイナスにはならなかったと何かの本で読んだことがあるから(現に「夜這い」とかいう習慣があったではないか)、中古でも新品でもあまり関係ないのではないだろうか。そもそも日本語は歴史的に見れば本来有声子音(いわゆる濁音)と無声子音(清音)に弁別的差がなかったそうだし。アイヌ語などは現在に至るもこれらを音韻的に区別しないと聞いた。

 それでさらに思い出したことがある。私がドイツに住み始めた頃はうちの住所はまだ西ドイツと言ったが、その頃、まだ東ドイツもソ連も存在していた頃に「ソ連赤軍合唱団」のCDを近くの本屋さんで買ったことがある。ソ連崩壊の直前、当地の経済状態が壊滅状態で、市民を救おうとチャリティ目的のCDだろなんだろが店頭にドッと並んだのである。チャリティでなくてもとにかく一時旧東欧圏の製品がたくさん流れて来た時期があったのだ。
 もっとも以前からソ連赤軍合唱団の歌は好きでよく聴いたものだった。聴いてみてまず気づくのは、ソロ歌手でもその他歌手でも高い声がきれいだという事だ。以来どうして赤軍合唱団は高音部がきれいなのかずっと疑問に思っていたのだが、あるとき次のような話を複数の人から同時に聞いて疑問が氷解した。真偽の程は定かではない:

「ソ連の戦車は西側諸国の装甲の厚い戦車に対し、被弾率を下げ機動力で対抗するために比較的小型軽量に作られてきた。そのため車内の居住性が悪く被弾経始がキツいので狭い車内で不自然な姿勢で操縦することになる。そこで気をつけて大砲を撃たないと反動で後退してきた砲尾が股間を直撃し睾丸を潰してしまう。そういう女性化した戦車兵が続出するため、高音が出やすくなって、結果として赤軍合唱団のファルセットは世界一なのである」

いいではないか。イタリアでは結構最近まで教会コーラスのボーイ・ソプラノを維持するため、早いうちに男性歌手を組織的に去勢していたそうだし、こういう比べ方もナンだが、ブタも去勢してない雄ブタは肉が臭くて食べられないそうだ。私としてはこういうファルセットがもっと聴けるようになるのは大歓迎、ドンドンヘンな姿勢で大砲を撃って遠慮なくツブれて欲しい感じ。去勢すると攻撃性が減るそうだから、ひょっとしたらそういう兵士は戦闘員には向かなくなって強制的に「合唱専門部隊」にまわされるのかもしれない。

 もっともペットを去勢したところホルモンのバランスが崩れたためか手術の直後一時期かえって攻撃性が増した、という話もきいたことがある。するとツブれた赤軍兵もその直後は一時攻撃性が増して狂ったように撃ちまくったりしたのだろうか。もしかするとその超人的な砲撃のおかげでソ連はドイツに勝ったのか?


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事は2022年2月26日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったウクライナ戦争ついての論説です。ロシアのインテリ層の声が聞けて興味深いのでご紹介。記事の原題は Putin ist geliefert です。

全部見るにはアーカイブの有料使用者となるか、無料の「14日間お試し期間」に登録する必要があります。でもサイトをクリックするだけなら別にお金をとられたりしません
念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。

文:ウラジーミル・ソローキン(作家)
1955年モスクワ生まれ。同世代の最も重要な作家の一人。最新作「赤いピラミッド」が Kiepenheuer & Witsch 社から出たばかり。

ソローキン氏。ウィキペディアから。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=632478による
Vladimir_sorokin_20060313-2

 2022年2月24日、プーチンがここ何年もずっとまとっていた「啓蒙専制君主」という外皮が剥がれ落ちた。全世界がこの怪物を目にした。妄想に取りつかれた残酷な怪物。この化け物は絶対的権力、帝国主義的な攻撃性と憎しみに酔い、ソ連終焉のルサンチマンと西側の民主主義に対する嫌悪に駆られながら、徐々に育っていっていたのだ。今後ヨーロッパの相手はこれまでのプーチンではなくなる。もう平和共存など望めない新しいプーチンに対処することになるのだ。
 どうしてこんなことが起こり得たのか?
 ピーター・ジャクソンの3部作「ロード・オブ・ザ・リング」の終わりにこんなシーンがあった:フロドが中つ国の住民にあれだけの苦しみをもたらした権力の呪われた指輪を灼熱の溶岩の投げ込まねばならないところで突然翻意したのである。自分が指輪をはめようとする。指輪の魔力にやられてその顔が変わる。それがどんな怪物になるか、すでに予想がつく。力の指輪のほうが今度はフロドを支配するようになるだろう…
 1999年に病気のボリス・エリツィンに王座に就かせて貰った時、プーチンは好感が持てる感じ、それどころ魅力的でさえあった。話のレトリックも理性的だった。頭のいい、でも傲慢不遜なところのない官吏がここ、権力のピラミッドの頂上に上りつめたと思った人も多かった。ポストソ連のロシアには民主主義への道を歩む以外将来はないことを理解している近代的な人だと思ったのだ。当時プーチンはインタビューで民主主義を口にし、ロシア連邦の市民には改革、自由選挙、言論の自由、人権の保持、西側との協力を約束した。何よりも「自分は玉座にいつまでもしがみつくつもりはない」と保証した。
 よく知られているように、ロシアでは君主のやることなすことをそのまま信じる。ゴーゴリが『死せる魂』で書き表わしているように、この君主様という人は「あらゆる点から見て好ましい」ものなのである:率直で、他人を理解しようと努力し、正直で、しかもユーモアがあって自分にもアイロニーを向ける…
 現在プーチンと熾烈に対抗している政治家、インテリ、政治工学の専門家が当時は氏を支援していた。次の選挙に勝つ必要があったときその参謀本部のメンバーだった者も多い。作戦は成功だったが、しかしその時すでに指には運命の指輪がはまってしまっていたのだ。その人物は一段また一段と倒錯していき、化け物皇帝となる。
 ロシアでは今も昔も権力はピラミッド型の構造だ。このピラミッドは16世紀にイワン雷帝が構築した。妄想に取りつかれ悪徳にまみれた残忍な皇帝だ。護衛兵オプリーチニナの助けを借りて皇帝は権力と民衆、つまりこちら側とあちら側との間に血まみれのクサビを打ち込んだ。イワンはそういうやり方でしかロシアは御せないと確信していたのだ:占領しろ、自分の国の占領者たれ。必要なのは残忍で国民には見通せない権力だ。ピラミッドの頂点立った者があらゆる権利、絶対的な権力を有するのだ。
 逆説的に聞こえるかもしれないが、ロシアのこの権力原理は500年以来変わっていない。私はここに我が国の決定的な悲劇を見る。中世のピラミッドはこんにちまで受け継がれている、いくら表面が変わっても構造そのものは古いままだ。上に立つのは常に独裁者:ピョートル一世、ニコライ二世、スターリン、ブレジネフ、アンドロポフ。そして今はプーチンが20年以上鎮座している。自分のかつての約束に反して氏は王座をしっかり握っては離さない、必死にそれにしがみつく。ピラミッドがそこで君主に毒を吹き込むのは必然だ。君主とその家臣に前時代的な雰囲気をたらしこむ:貴方たちはこの国の支配者、ここを無事に治めるにはあらゆる厳格さをもって臨むしかない;権力がいかがわしければいかがわしいものであるほど権力者もまた厳格で気まぐれであれ;貴方たちには全てが許されている。民衆の間に不安と混乱を呼び起こせ。民衆に貴方たちを理解させてはいけない、ただ恐れさせよ。最近の出来事から判断すればプーチンはロシア帝国を再構築しようという考えに完全に憑りつかれているようだ。
 エリツィンは当時、ペレストロイカの最盛期に権力の座に就いたとき、残念ながらこの中世的なピラミッドには手を付けなかった。表面をちょっといじっただけだ:古臭い、無味乾燥な灰色のソビエトコンクリートで覆う代わりに色とりどりに西側製品の広告版をベタベタ張った。エリツィン自身はこのピラミッドのおかげで人格のマイナス要素が強化されてしまったようだ - 強情、粗野、アルコール中毒がそれだ。その顔はがさつで傲慢な、硬直した仮面となった。権力の座への即位に際しエリツィンは、「ロシア連邦に背きたくてたまらない」チェチェンに対する無意味な戦争を焚きつけた。イワン雷帝の作り上げたピラミッドは一時は民主主義者であったエリツィンをそそのかして帝国主義者にしてしまったのだ。その帝国主義者がチェチェンに戦車を送りチェチェン人に計り知れない苦しみをもたらした。
 エリツィンもその周りのペレストロイカ活動家もこの致命的なピラミッドを取り崩すのに失敗したばかりでない。1950年代にナチの死体を土に埋めた戦後ドイツと違って、彼らはソ連の過去を葬ることさえしなかった。この怪物、何百万人も人々を破滅させ、国を70年も後退させたこの怪物の死体はまだ隅に横たわっている。そこで朽ち果てろというのだ。しかしその死体は中々しぶとく腐りもしないことがわかった。現にプーチンが権力の座に登るや否や変貌を開始したではないか。
 TV放送局NTVはつぶされた。番組はプーチンの仲間の手の内に入った。その後TVでは厳格な検閲制度が敷かれ、プーチンに対してはいかなる批判もできなくなった。ロシアで最も成功した企業の社長ミハイル・ホドルコフスキーは逮捕されて10年間刑務所行きになった。その会社ユーコスはプーチンとグルになった会社に蹂躙された。この「特殊作戦」は他のオリガルヒに脅しをかけるために取られたものだ。そして成功した。オリガルヒの何人かは国を出、国に残ったものはプーチンに屈従。さらにその何人かは氏の「カバン持ち」にさえなったからだ。
 ピラミッドは触らなくてもひとりでに振動した、時間が止まった。まるで大きな流氷の塊のように、国は流されて過去に逆戻りしていった - まずソビエト連邦時代に、それからさらにとうとう中世まで流されていったのだ。
 ソ連の崩壊は20世紀最大の災害だったとプーチンは言った。何百万人もの死者を出したスターリンの赤い車輪に上を転がっていかれなかった家族などなかった国で、理性を保っていた人たちにとってはむしろ幸いであったとは言わないのである。プーチンは自分がかつてそうだったKGBの職員から脱皮しなかった。ソビエト連邦は進歩的な人類にとっての希望であり、西側は我々ロシア人を冒涜しにやってきた敵だと徹底的に吹き込まれたKGB職員そのままだ。タイムマシンを過去に戻すことによって、プーチンはしごく居心地の良かった若い頃のソ連にいると脳内妄想する - その後すぐに自分の家臣にも自分と一緒にあそこに戻れと強制したがった。
 このピラミッドの最大の問題点はトップに座っている者が自分の身体・精神状態を国全体に敷衍させてしまうことだ。イデオロギーとしてのプーチン主義はごたまぜ主義だ:全ソ連市民の誇りをくすぐる裏で封建的な倫理観が顔を出す。プーチンの中ではレーニンも帝政ロシアも正教もいっしょくただ。
 プーチンの大好きな哲学者がイワン・イリーンである:君主制主義者でナショナリストで反ユダヤ主義者で白人主義運動のイデオローグで、1922年にレーニンに追い出され、亡命地で人生を終えた。ヒトラーがドイツで権力を握ったときイリーンは心から歓迎した。ヒトラーが「ドイツのボリシェビキ化」を食い止めた由で:「ここ3か月に起こった出来事を対してドイツのユダヤ人の観点から判断を下すことは断固拒否する」とイリーンは書いている。「何かというと話し合いで解決というお題目を唱えだす面々がかけた自由民主主義とかいう催眠術から覚醒したのだ」。ヒトラーがスラブ人を2等級の人種と言い出すにいたって初めてイリーンは気を悪くした。批判表明してゲシュタポの手に落ちたが、セルゲイ・ラフマニノフが保釈金を払って解放してやった。その論文でイリーンはロシアでボリシェビズムが倒れた後、ロシアを立ち上がらせることのできる総統のような存在が出現してくれないかと希望表明している。
 立ち上がるロシア、これがプーチンとプーチン主義者のお気に入りのモットーだ。最近の「レーニンが作ったウクライナ」という言いまわしにもイリーンが見え隠れする。本当はレーニンが独立国家ウクライナを作ったのではなくキエフのウクライナ中央議会が作ったのだ。1918年1月、レーニンが憲法議会を解散した直後のことだ。だからウクライナという国はレーニンの「功績」などではない、その攻撃性の帰結というのがせいぜいのところ。だがイリーンは「もしロシアの権力がボリシェビキに習って反民族主義、国家の敵になり下がれというのなら、外国人にへつらい、国をバラバラにし、愛国無脳、あちこちにたむろしている小ロシア人、レーニンが国をくれてやった小ロシア人抜きの、ロシア民族大国家の利益だけを考えるなというのなら、革命は終わらないだろう。次に来る段階は西側の退廃にやられて滅亡だ。」と確信していた。
 「プーチンの下でロシアは立ち上がった!」信奉者たちが得意げに口にするのを聞く。もしロシアが本当に立ち上がったらそのあとすぐまたコケて四つ足になるよ、と誰かが茶化していた。賄賂、権威主義、お役所の専断、貧困の四つ足さ。
 そのうえさらに戦争まで付け加えてよろしい。
 この20年間でいろいろなことが起きた。この大統領の顔もまた硬直して辛苦、怨恨、不満を発散する仮面となった。主要なコミュニケーション方法はウソである - 小さいウソ、大きなウソ、見え透いたケチなウソ、原則として皆ウソ、ありとあらゆるニュアンスをつけて様々な暗示を自動的に発動させるウソ。ロシア人はとっくにこの大統領のウソ修辞学に慣れているが、残念ながら欧米人にも受け入れられてしまった。わざわざクレムリンに飛んで来て大統領のウソ織りから自分の分をわけてもらい(先日もあの徹底的に偏執病的なテーブルでウソを授与してもらっていた)、ウソを常にフンフンと鵜呑みにし、記者会見で「建設的な会話」とやらをブチあげてまた帰っていったヨーロッパの国の元首は一人だけではない。
 こんな指導者と話をすることにいったいどんなの意味があるのだろう?作家や芸術家ではないのだ、現実の世界で生活し、自分の吐いた言葉にはすべて責任を追うのが筋だ。東ドイツ育ちでプーチンの本性を見抜いていたメルケル氏は16年も「会話を通そうと」試みた。その会話とやらの成果がジョージア領の占領、クリミア併合、ドネツク&ルハンスク人民共和国とやらの占領だ。さらに東ウクライナの戦争がプラスされる。
 プーチンの内なる怪物を育てたのは権力のピラミッドだけではない、まるで皇帝が太守に対するようにプーチンが折に触れてそのテーブルからオイシイ厚切り賄賂を投げてやっていた、買収されたロシアのエリートもである。エサをやっていたのは無責任な西側の政治家もだ。したり顔のビジネスマン、買収されたジャーナリストに政治工学の専門家、それらもだ。首尾一貫した強い支配者だ!それが皆を魅了したのだ!「新しいロシアのツァーリ」 - ヴォートカやキャビアのように景気がつくぞ。ここ何年か私はドイツで何回となく「プーチンの理解者」に遭遇した。タクシードライバーからビジネスマン、大学教授まで多岐にわたる。68年運動を経験したさる老人が信奉表明したことがある:「君らのプーチンは好きだよ。」 - 「なんでまた?」 - 「プーチンは強い。考えていることを口に出すからね。それに反アメリカだ。ドイツの軟弱者めらとは違う」 - 「でも賄賂があんなに横行し、事実上選挙の独立した法廷も存在せず、対抗する者は粛清され、地方は悲惨な状態で、ネムツォフは殺される、TV局はプロパガンダ機構に落ちぶれる、ロシアがそんな国であることは気にならないんですか?」 → 「ならないね。それはあくまでロシアの内政問題だろう。ロシア人がそれに抗議しないということはつまりりプーチンが好きだということだ。」
 鉄のロジック。1930年代のドイツを経験しているのにヨーロッパ人は少しも利口になっていないようだ。
 しかしヨーロッパ人の大部分はそんなではないと思う。独裁主義と民主主義の違い、戦争と平和の違いはわかっているのだ。プーチンはそのウソ製造機を駆使してウクライナ奇襲を「ウクライナの侵攻者」に対する「特別作戦」と名付けた。その心は:「平和を愛する」ロシアが「ウクライナの軍事独裁政権」からクリミアを取り上げ東ウクライナに戦争をふっかけてやった後、さあ今度は国全体を手にするぞ。」 スターリンが1939年にフィンランドにやった手とほとんど同じだ。
 プーチンはそもそも全人生が「特殊作戦」だ。KGBの黒徽章から受け継いだのは「普通の」人々、常に何もかも飲み込む怪物国家ソビエト政権にとって何処へでも勝手に動かすことのできる単なる塊でしかなかった人々への軽蔑ばかりではない、チェキストが誰でも持っていた基本原理も受け継いだ:決してオープンに話をするな。全てが機密事項でなければいけない。個人生活も家族も習慣も。だがしかし:この戦争でプーチンが越えてはいけない一線を越えてしまった。仮面は剥がれ落ちた。ヨーロッパで戦争が押し進められた。プーチンがその侵攻者だ。ヨーロッパはその破壊作用や犠牲者を嘆くことになるだろう。戦争の火付け役は絶対権力に堕落し、世界地図を描き変えようと決心したさる人物である。その人物は木曜の夜の演説で「スペツォ・オペラツィヤ」(特別作戦)をぶち上げたが、その演説に詳細に耳を傾けてみれば、その中でアメリカやNATOのほうがウクライナより頻繁に名指しされていることがわかる。最近やったNATOへの「最終通告」とやらを思い出すではないか。狙いはウクライナでなく西側文明だったのだ。西側文明への憎しみをその人物はKGBの黒い乳と共に吸い込んだのだ。
 こうなったのは誰のせいだ?我々だ。我々ロシア人のせいなのだ。この罪を我々はプーチン政権が崩壊するまで背負っていかねばならない。崩壊はやってくるだろう。自由ウクライナへの襲撃はその終わりの始まりである。
 プーチン主義は没落するのが運命だ。なぜなら氏は自由の敵、民主市議の敵だからだ。今回それが皆よくわかったろう。プーチンは自由な民主主義国を、ただその国が自由で民主主義と言うだけの理由で襲撃した。プーチンは年貢の納め時だ、なぜなら自由世界、民主主義世界は氏の陰鬱で嫌悪を催すケチな板囲いより大きいからだ。年貢の納め時だ、なぜなら氏は新しい中世、賄賂、嘘、人間の自由への軽蔑、そういったものをもくろんでいるからだ。プーチンは - もう過去のものだからだ。そして我々は、この怪物が永久に過去のものになるよう、できるだけのことをするべきだ。


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 『172.デルス・ウザーラの言語』で述べたが1975年の黒澤明以前、1961年にソ連の監督アガシ・ババヤンが『デルス・ウザーラ』を映画化している。この2本を比べてみると結構面白い。
 まず単純に長さだが、黒澤のが2時間21分、ババヤンのが1時間26分で前者が一時間近く長い。これは黒澤版が二部構成になっているからだ。
 黒澤映画ではデルスがアルセーニエフの探検に二度同行する。最初の探検の後アルセーニエフは一旦デルスと分かれ、5年後に再びウスリー江領域を訪れて再会を果たす。再会のシーンが感動的だ。その2回目の探検の後アルセーニエフは少し年を取って体も衰えていたデルスをハバロフスクの自宅に引き取るがデルスは町の生活になじめず結局タイガに帰っていく。この二度目の別れの後アルセーニエフに電報が来て、森で死んでいたゴリド人が名刺を持っていたから人物確認してくれと言ってくるのだ。ラストシーンは呆然として埋葬されたデルスの脇にたたずむアルセーニエフの悲痛な姿である。デルスの死後再びその地を訪れたが墓の場所が見つからず、それをまた悼む姿がファーストシーン。1910年とテロップに出る。
 ババヤンでは探検は一回のみ。だから再会シーンがない。構成も一重で、1908年にアルセーニエフのところに使いが来て、死んだ人が名刺をもっていましたと言って見せる。それが自分がかつてデルスに渡した名刺と気づき、デルスを回想し始める。ラストは日本海岸に出て目的に達した探検隊とデルスの別れで、アルセーニエフはそこでいつでも気が向いたとき訪ねてきてほしいといって名刺に住所を書いてデルスに渡す。つまりハバロフスクのシーンはババヤンにはない。
 まとめてみると黒澤の映画が「死を回想→出会い→別れ→再会→二度目の別れ→死の知らせ→追悼」という構成なのに対し、ババヤンでは「死の知らせ→出会い→別れ」と単純なものになっている。さらにうるさく言えば回想の対象も両者では異なっていて、黒澤映画で回想されるのは「死」(死んだデルス)である一方ババヤンのアルセーニエフが想いを馳せるのは「生」(生前のデルス)である。双方デルスとの別れがラストではあるのだが、ババヤンのデルスはアルセーニエフと別れる時もちろんまだ生きている。対して黒澤のラストは永遠の別れで、デルスはもうこの世にはいない。映画製作当時、ババヤンは40歳、黒澤は65歳。40歳といえば黒澤のほうは『七人の侍』映画を撮っていた頃でまさに壮年期だ。さらに『デルス・ウザーラ』を作った時の65歳というのもただの65歳ではない。自殺未遂の直後である。この辺を考えると黒澤は死に想いを馳せ、ババヤンは生を描いたという差がわかる気がする。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』の冒頭。使いが知らせを持ってくる。
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黒澤明の『デルス・ウザーラ』の冒頭で友の墓の場所がわからず、悲嘆にくれるアルセーニエフ。
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ババヤンのラストシーン。デルスとの別れ。デルスは(まだ)生きている。
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黒澤では「永遠の別れ」がラスト。デルスはもうこの世にいない。
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 構成もだが描かれるエピソードもかなり異なっている。原作は同じでもそこから取捨選択し、あるいは付け加え、どう再構成するかに監督の個性や思想が出るのだからこれはまあ当たり前と言えば当たり前だろう。それでも両者に共通するシーンがいくつかあって非常に比べ甲斐(?)がある。
 まずデルス登場の場面だ。兵士らが「熊か」と構えるところにデルスが「撃つな、人間だ。」といいながら近づいてくる。画面の構図はよく似ているしそこで交わされる会話もほとんど同じだ。違うのは邂逅場面にいたるまでの経過で、黒澤はとにかくあらゆるシーンにじっくりと時間をかけて自然を描写し、アルセーニエフの心情を描き出して「準備」を整える。ババヤンはそこでアルセーニエフ一行が探検している地方の「地図」を画面に出すのだ。史実は確かにわかりやすくなるが、自然の神秘性そのもの、あるいは脅威感は薄れ、人間が自然を克服した感が前面に出る。全体的にババヤンの映画は自然描写・心情描写よりもエピソードの描写が主になっている感じだ。出来事の説明である。だから地図も出す。アルセーニエフがデルスと出会う前に実はすでに別の人物が案内役として雇われていたがデルスの登場と前後して道がわからないから家族のところへ帰りたいと言い出し、アルセーニエフがガイド料を半分やって(旅はまだ始まったばかりでこの人は半分の仕事さえしていないんじゃないかと思うが)引き取らせる。そこでデルスに案内を頼むことになるのだが、ババヤンではこういうエピソード語りが「準備」である。また下でも述べるがババヤンには黒澤に比べて自然開発ということへのポジティブ感が漂う。

ガイドが辞めたいというので、アルセーニエフは料金の半額をやって帰らせる。
babayan-guide2
 同行の兵士の一人が現れたデルスにいろいろ質問するが、ババヤンではその兵士はトルトィーギンといい、旅の間中デルスをちょっと上から目線で扱う。ここでも質問の仕方がまるで尋問だ。黒澤ではこれがずっと若い兵士で、口調は馴れ馴れしいが見下げている感じはない。ロシア人とは毛色の違ったデルスに興味津々だ。この兵士はオレンチエフといってトルトィーギンではない。上でも述べたように黒澤では探検は2度行われるが、トルトィーギンなる人物は第二回目の探検に参加しているメンバーなので、この最初の旅には出てこないのだ。ババヤンでは複数の旅が一回にまとめられているのでトルトィーギンが最初から登場しているのである。

胡散臭げにデルスを見ながら話しかけるババヤンのトルトィーギン
babayan-tortygin
黒澤映画では一回目の旅で最初デルスに話しかけるのはトルトィーギンでなくオレンチエフという若い兵士(右)。
kurosawa-olentiev
 もう一つ気づいた点はデルス登場の際アルセーニエフが名前を聞くシーンで、黒澤ではアルセーニエフは最初に「私はアルセーニエフと言う名前だ」と名乗ってからデルスに名を尋ねる。ババヤンのアルセーニエフはこの自己紹介をしない。もちろんアルセーニエフのその後のデルスに対する感服ぶりを見れば、別にこれは上から目線なのでも何でもなくちょっとした脚本の違いに過ぎないことは明白だが考えてみると結構意味深い。

ババヤンのデルス登場シーン。ちょっと暗くて見にくいが真ん中でデルスが「撃つな」と手を振っている。
Babayan-auftrittDerusu
黒澤での登場シーン
Kurosawa-Auftritt
 他の箇所でもそうだが、黒澤の描く自然は美しさと共に怖さや冷酷さが鮮明だ。ババヤンもそれはある。ババヤンだっていやしくも Заслуженный артист Российской Федерации(「ロシア連邦功労芸術家賞」)を受けたりした手腕のある監督だ。氏の『デルス・ウザーラ』も IMDB での評価は低くないし、決してツーリスト会社の宣伝ビデオみたいな甘い自然描写にはなっていない。黒澤との違いはババヤンがその冷酷で恐ろしい自然と戦って打ち勝つ人間の勇敢さが前面に出ている点だろう。黒澤からは「人間は決して自然に打ち勝つことなどできない」というメッセージが透けて見える。

黒澤明の凄まじいまでの自然描写。
Kurosawa-blackSun
 もう一つ共通なのが、デルスがパイプを失くして探しに戻った際虎の足跡に気付いて自分たちが跡をつけられていることを知り、虎に対して「自分たちはお前の邪魔をする気はないからあっちへ行け」と話しかける場面だ。ババヤンではここで虎がちゃんと(?)姿を現す。黒澤では出てこない。周りには濃い霧がかかり、虎の姿は見えない。しかしデルスには虎がどこにいるかはっきりと察知して霧の中のその方向に呼びかけるのである。闇もそうだが、霧も人間にとっては怖い。これのおかげで遭難や難破して命を落とした人間は数えきれない。人間は「目を見えなくするもの」が怖いのである。デルスはその闇や霧を怖がらない。それらと共存しているからである。そういう、いわば霧中や闇夜でも目が見えるデルスと比べると、ちゃんと足跡があるのにそれを見逃し嵐になるぞと風が大声で報せてくれているのに気付かない兵士など(もちろん私などもその最たるものだ)イチコロだ。現にデルスも兵士たちの目の節穴ぶりに呆れて「それじゃ一日だってタイガではやっていけないぞ」と溜息をつく。ごもっとも。
 そのデルスが闇を怖がるようになる。探検隊が森の中で新年を迎えるシーンだ。このシーンは双方にあるが、黒澤とババヤンではまったく取り上げ方が違っている。黒澤ではこの夜デルスは虎の幻影を見る。虎が自分を殺しに来るという恐怖に怯える。デルスが森を怖がり、闇を怖がったのはこれが初めてだ。そしてアルセーニエフとハバロフスクに行くことを承知、というより懇願するのである。デルスの悲劇の始まりだ。これには伏線があって、その前にデルスは不本意にも虎に発砲してしまい「虎を殺せば森の神が怒る。そして自分が死ぬまで虎を送ってよこす」と信じこむ(これがデルスの宗教だ。アニミズムである)。恐れに囚われるようになり「デルスは変わってしまった。ゴリド人の魂に何がおきたのか」とまでアルセーニエフに言わせている。虎への発砲シーンでは本当の虎が登場するが、評論家の白井芳夫の話によると最初ソ連側はそのためにサーカスの虎を連れて来たそうだ。すると黒澤は「こんな飼育された虎じゃダメだ、野生の虎を連れてこい」と言い出した。そうしたらソ連側は本当に探検隊を組織してマジに野生の虎を捕まえて来たというから驚く。しかしそこでソ連のさる監督が「オレが鹿を十頭捕まえてくれと頼んだときは無視したくせになんで黒澤にだけは虎なんだ」と怒った。それに対し当時のモスフィルムの所長ニコライ・シゾフ氏はあわてず騒がず、「あんたも黒澤くらいの映画を撮ってみなさい。そうすれば鹿なんて100頭でも捕まえてやるぞ」と言い放ったという。その怒ったソ連の監督とは誰なのかが気になる。まさかババヤンではないと思うが。
 話が逸れたが、ババヤンでは探検記をつけていたアルセ―ニエフがその夜が一月一日である事に気づき、兵士の一人が「じゃあ今日は祝日だ」という。原始林の中で祝日も何もないもんだが、デルスはロシアではその日が祝日なと聞いて「では」とばかりに「特別食」を作って兵士に提供する。しかし兵士の一人は疲労困憊の極致に陥っており、探検の続行を拒否しようとする。その折も折、別の兵士が暗い空をカモメが飛んでいるのを見つける。カモメがいる、ということは海が近いのだ。探検はその目的地に達したということである。こうしてギリギリのところで救われたのだが、ここで私はつい旧約聖書にあるノアの箱舟の話を思い出してしまった。いつまでも水が引かないので絶望しかけていた最後の瞬間、放っておいた鳩がオリーブの小枝をくわえて戻って来たというアレだ。唐突な連想のようだが、私がここで聖書を想起したのには訳がある。ババヤンの『デルス・ウザーラ』にはそれまでにいくつもキリスト教のモチーフが登場していたのだ。
 これもどちらの映画にも出てくるが、一行が森小屋をみつけるシーン。デルスが小屋を修繕し後から来る(かもしれない)者のために米と塩とマッチを残していく。「会ったこともなく、今後も会うことはないであろう見知らぬ人のため」に当たり前に見せるデルスの思いやりにアルセーニエフは感銘を受ける。ここは両者に共通だが、ババヤンではその直前に同行のトルトィーギンが「心のいい人物だが神を信じていない。キリスト教徒ではないから魂がない。」と言い切り「オレはれっきとしたクリスチャンだが奴は何だ」と威張る。トルトィーギンの周りに座っていた兵士らもあまりその発言に同調していなさそうな雰囲気だが、デルスの見知らぬ人への献身を見たアルセーニエフは明確にトルトィーギンの姿勢に根本的な疑問を抱く。しかしそのトルトィーギンも最後の最後、別れていくとき自分がいつも首にかけていた十字架をデルスに渡すのだ。あなたをクリスチャンと少なくとも同等の者と見なすという意味だろう。いいシーンだとは思うが結局「キリスト教徒」というのが人間として最上の存在という発想から抜け切れてはいない。
 念のため繰り返すが、この森小屋のエピソードは一回目の探検のときであり、黒澤ではトルトィーギンはまだいない。二回目の旅では黒澤でもトルトィーギンというキャラが登場するが外見は似ていても少し印象が違い、デルスといっしょに写真を撮ってもらう際自分の帽子を相手にかぶせておどけるなどずっと気さくそうな感じだ。十字を切ったりクリスチャン宣言する宗教的な場面は一切ない。

「キリスト教ではないから魂がない」と主張するトルトィーギン(左端)。周りの兵士はあまり同調していない感じ。
Babayan-christ2
気さくそうな黒澤のトルトィーギン。
Kurosawa-Tortygin
 しかし実はこのトルトィーギンばかりではない、ババヤンではそもそもの冒頭、上で述べたようにアルセーニエフのところに来た使いも「タイガで殺された иноверец が見つかりましたが、閣下の名刺を持っておりました」と伝えるのだ。иноверец というのは「異教徒」「非キリスト教」という意味で、つまり非クリスチャンが撃たれて死んでいたということ。黒澤のラストで死体の発見を使える電報には異教徒などといっしょくたにされることなく、きちんとゴリド人と民族名が書いてある。

アルセーニエフにところに来た「撃たれて死んでいたゴリド人が貴兄の名刺を持っていた」という電報。下記参照
Kurosawa-telegramm
 ソ連では宗教活動が禁止されていたはずなのにこの宗教色がでているのはババヤンがアルメニア人だからかなと一瞬考えもしたが、別にそんな深い理由があるわけでもなく単に「帝政ロシア時代の風物詩」として描写しただけかもしれない。いずれにせよ黒澤の映画のほうにはキリスト教色が全く感じられない。

 もう一つババヤンにあって黒澤にないのが上でも述べた「自然開発や国の発展へのポジティブ思考」である。探検隊が密猟者の罠を見つけてそこにかかった鹿を助け、他の罠も全部撤去するシーンがどちらの映画にもある。黒澤では誰がやったかについては「悪い中国人だ」というデルスの発言があるだけで、罠の撤去そのものはロシア兵たちが行う。ババヤンでは犯人の中国人が実際に画面に登場し(残念ながらロシア人の俳優らしくあまり中国人に見えない)、その一味に対してアルセーニエフが「2日以内にこれらの罠を全て撤去しろ」と厳しく言い渡す。アルセーニエフにはその権限があるからだ。ここはロシア領、皇帝配下の将校は支配者なのだ。黒澤にはこういう支配者の側に立った視点、国家権力というものをポジティブに描く視点はない。
 また、これはババヤンの映画にだけだが、大規模な山火事が発生しデルスがアルセーニエフを救う場面がある。そこで動けないアルセーニエフを一旦安全な場所に運んだデルスは、アルセーニエフがいつもそばに置いていた航海記というか探検の記録ノートを置いてきたことに気付いてもう一度火の中に戻っていく。探検の報告書というのはつまりロシア政府がウスリー江畔開発の下調査として命じたもの、つまり国家発展・自然開発の一環だ。デルスは命をかけてこれを守る。そういうデルスを描くその心は「少数民族ながら国の発展に貢献するのはあっぱれ」ということで、さらに突き詰めればロシア国家万歳である。まあ「万歳」というのは大げさすぎるにしてもこれが黒澤には一切ない。ロシアだけではない。黒澤は日本政府も一切万歳したことがない。黒澤が万歳するのはあくまで(正直で誠実に生きる)人間で、『デルス・ウザーラ』でも吹雪のハンカ湖でデルスが救うのはアルセーニエフというあくまで一個人である。

ババヤンのデルス・ウザーラはアルセーニエフを山火事から救い出す。
Babayan-Brand
黒澤ではアルセーニエフは凍死から救われる。
Kurosawa-Wind
 もう一つババヤンのほうだけにあるエピソードがある。アルセーニエフが石炭鉱を見つけて「石炭が出る。ここに町が作れるぞ。そして発展していくだろう」と喜ぶのを見てデルスが「何なんだその汚い黒い石は」とワケが分からなそうな顔をするシーンだ。アルセーニエフは歓びのあまり手帳の地図に感嘆符つきで уголь!「石炭!」と記入する。ここでもババヤンが、「発展・開発」というものを肯定的に見ていることがわかる。そもそも史実としてもアルセーニエフの探検の目的はウスリー江地域の開発の下調べなのだから。デルスのような純粋な魂の持ち主に住むことを許さない町、その人を死に追いやるだけでは飽き足らず、墓の場所をわからなくして静かに永眠することさえさせない「開発」とやらに対して否定的感情を隠さない黒澤との大きな相違点だと私は思っている。

アルセーニエフが石炭鉱を見つけて喜ぶ。
Babayan-Ugol2
歓びのあまり感嘆符付きで石炭の出る箇所を記入。
Babayan-Ugol1
 このようにいろいろ相違点はあるのだが、それでも双方ソ連映画だけあって、あまり「興行成績」や「採算」、もっと露骨に言えば「儲け」にカリカリしていない、独特の上品さが漂っていると思った。もちろんまったく金のことを念頭から外すなど不可能で、一応予算枠はあったそうだ。しかしその枠というのがユルく、多少オーバーしても「黒澤監督の芸術性を最優先する」ということでしかるべき理由があればホイホイ(でもないが)追加を認めてくれたらしい。さらに「金に換算できない部分が非常に大きかった」と当時日本から同行したプロデューサーの松江陽一が語っている。上で述べた虎捕獲などもそうだが、探検隊が引き連れている馬。これらは全部モスクワから運んで来たそうだ。その際馬一匹に各々一人ずつ世話をする赤軍兵士が同行していたというから、もしそれらの兵士に報酬を払ったりしていたら物凄い額になっていたはずである。
 松江氏はさらに続けて、言葉も習慣も政治体制も全く違う国でも同じ映画人同士、監督の意向はうまく現地のスタッフに伝わった、ソ連側は非常に協力的だったと述べている。もちろんそこへ行くまでの特に松江氏本人の苦労は並大抵ではなかったろうが、ソ連側のプロダクション・マネージャー(つまり「映画人」だ)など管理者側の役人の目を盗むために尽力してくれたりしたそうだ。言い換えるとソ連映画界には黒澤監督の創造・芸術的判断と意向を実現されてやれるだけの技術的下地があったということである。上で「上品」と言う言葉を使ったが、映画が上品であるためには質もいい作品でなければいけない。その上品な映画を作れる底力がソ連映画界にはあったのだ。まあエイゼンシュテインやタルコフスキイを生み出した国なのだから今さらそんな当たり前のことを言い立てるほうがおかしいか。変な言い方だが黒澤がいなくてもあれだけの『デルス・ウザーラ』を撮れる国だったのだ。ババヤンの映画を見ていてそう思った。
 さて第二の共通点は非常に些末な話なのだが、どちらも画面に出てくるロシア語が旧かな使いであることだ。『159.プラトーノフと硬音記号』で書いたように子音の後ろに律儀に硬音記号が入れてある。ババヤンでアルセーニエフが最後にデルスに渡す名刺をよく見ると自分の住所ハバロフスクがХабаровскъ と硬音記号つきの綴りになっている。ハバロフスクについては黒澤にもテロップが出るが、これにも硬音記号がついていて芸が細かい。現在なら Хабаровск となる。さらに上でも述べたが黒澤のアルセーニエフのところに届いた電報も硬音記号や і という文字が使われていて、それこそ「帝政ロシア時代の風物詩」だ。映画の電報の文面は

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となっているが(該当箇所を赤にした)、現代綴りではこうなる。I の代わりに И の字。

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V. K. あるせーにえふドノ
コロサレタごりどジンノ イタイカラ キケイノ
メイシ ミツカル イタイノ カクニンニ 
オコシ ネガイタシ ケイサツショ
カンカツ こるふぉふすかや

ババヤン(上)でも黒澤でも「ハバロフスク」が旧綴り。
babayan-unterschrift
Kurosawa-Chabarovsk


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