突然だが、w と y、IPAで言う [ʋ] と [j] の音を人は普通どう呼んでいるのだろうか。私はこれらを普通「半母音」、会話状況によってはApproximant(「接近音」)と呼んでいた。今までは。
 ところが以前これらをGleitlaut(グライトラウト、英語ではglide)「渡り音」と呼んでいた人がいたのでちょっと驚いたことがある。私はいままで「渡り音」というのは「どうしても出てしまう音」、または「別に出したくはないのだが音声環境のせいで出さないと次の音に進めないから仕方なく出す音」と定義していたので、出すつもりで出す音、それ自体が目的の音は「渡り音」のカテゴリーには入れて考えていなかったからだ。
 しかし後でたまたまChomskyとHalleの共著Sound pattern of Englishという本をビラビラめくっていたらなんとそこで、w、y、h、? (声門閉鎖音)の四つがいっしょにglidesというカテゴリーにいれられていたのでうなってしまった。件の人は英語が専攻の人だったのかもしれない。しかしこの組み合わせを同じカテゴリーに入れるという発想は私にはなかった。[h] と [ʔ] などそれぞれ「無声声門摩擦音」「無声声門閉鎖音」という単なる子音、Chomsky&Halleの用語で言うならobstruentsとしか思えない。ところが両氏はこれら4つの「渡り音」の素性(そせい)を [+sonorant] [-sylabic] [-consonantal] ([h] と [ʔ] も!)としていわゆる純正子音、obstruentsの[-sonorant] [-sylabic] [+consonantal] と区別している。

 音声学・音韻論は奥が深い…

 その奥の深い音声学を一気にレベル下げして面目ないが、私はここで [ʔ] と [j] (ここでは y)がいっしょにされていることが面白かった。
 実は前から気になっていたのだが、次のイタリア語のテキストはどう発音するのか。

Hai amato solo lei,
お前は彼女だけを愛していた、

Che si vive, che si ama
生きることだ、愛することだ

Che si ama una volta sola.
一度だけ愛することだ。

L'hai amata, l'hai perduta
お前は彼女を愛し、そして失った

これは『続・荒野の用心棒』の主題歌の一部である。劇場公開された映画で流れているのはロッキー・ロバーツの歌う英語バージョンだが、その他にベルト(またはロベルトとも)・フィアのイタリア語バージョンがあり、これはそっちのほう。作曲者のルイス・エンリケス・バカロフはモリコーネより先、1996年に『イル・ポスティーノ』でオスカー音楽賞をとっている。(それにしても映画の内容とテーマ曲の歌詞がここまで一致していないのも珍しい。この歌詞はどう見てもマカロニウエスタンのものとは思えない)
 私の母語は日本語東京方言で母音が連続する場合はhiatusとなり、二つの母音の境界がぼやけることはない。連続が語や形態素の境界を越える場合は特にそうだ。だから仮に私がイタリア語の勉強をしているとして、これをカラオケで歌ってみろと言われたらhai amato solo leiやche si ama、またL'hai amataの部分は境界をさらに強調してそれぞれ [aɪʔamatɔsɔlo:leɪ]、[kɛsɪʔama]、[laɪʔamata] とか何とか歌っていたと思う。日本語で書くと「アイアマトソローレイ」、「ケシアマ」、「ライアマタ」である。
 ところがレコード(というかCD)を聞いてみるとイタリア人の歌手は件の部分は声門閉鎖音のかわりにそれぞれ[aɪjamatɔsɔlo:leɪ]、[kɛsɪjama]、[laɪjamata] と、それこそ渡り音の [j] をいれて歌っている。「アイヤマトソローレイ」、「ケシヤマ」、「ライヤマタ」である。なるほど [ʔ] と [j] はある意味では仲間か。「プロのイタリア人歌手が [j] と発音した部分を言葉もできずしかも音痴の私が [ʔ] を入れた」というのが「ある意味」と言えればの話だが。ほとんど無意味に近い無理のありすぎる比較ではある。
 [h] については古典ギリシャ語など語頭に母音が立つと必ずくっ付いてくる言語があるそうだ。例えばἙλλάς(「ギリシャ」)は今はe'lasだが元はhel.lásといい、そのため英語などではいまだにHellasと書く。「ユダヤ人」という意味のロシア語のеврей (jevrej、イェヴレーイと発音)もギリシア語のἑβραῖος から来たものだそうだが、そのギリシア語の語頭母音がやっぱり帯気であった(hebráɪ.os)。つまりギリシア語とロシア語間では、もとは同じ音だった(はずな)のがそれぞれ [h ]と [j] になって対応している。他のヨーロッパ諸言語ではここが h だが(例えば英語のHebrew)。ヘブライ語のそもそもの原語では語頭に気音など立っていなかったらしい。
 こう見ていくとこれらの音は本当に結構仲がいいのかもしれない。ロシア語では他の言葉を写し取る際 [h] は普通 [g] になるのに、どうしてここでは [j] なのかなとは思うが。いずれにせよこのChomsky とHalleのカテゴリーはとても面白かった。古典というのは読んでみるものだ。

 さて、間に音が入るのではなく逆に母音に挟まれた子音がぶったるむことがある。例えば私が「鏡」をいい加減に発音すると「かぁみ」、「だがしかし」が「だぁしかし」になるが、ここの「ぁ」は [ɣ] という音で、g ([ɡ])、つまり本来閉鎖音だったのが摩擦音になってしまったのである。なお私は東京方言が母語のクセに鼻音のガギグゲゴ、つまり [ŋ] を持っていない。

 あるとき、ニュースを見ていたドイツ語ネイティブが、どうしてトルコの首相(現在は大統領)の名前はRecep Tayyip Erdoganと書くのにトルコ人は「エルドアン」と発音しているんだろうとか聞いてきたので私が「多分この g ってのが軟口蓋閉鎖音ではなくて摩擦音のガンマなんじゃないの?だから消えやすいのよきっと」と言って親切にもググってあげたら案の定この音はトルコ語正書法では単なる g でなくdiacritic、補助記号のついた ğ で、

Das Phonem /ɣ/ (normalerweise yumuşak g genannt („weiches g“)), ğ erscheint niemals am Wortanfang, sondern folgt stets einem Vokal. Am Wortende oder vor anderen Vokalen zeigt es die lange Aussprache des vorhergehenden Vokals an.

音素 /ɣ/ (普通yumuşak、柔らかい g と呼ばれている)、ğ は決して語頭には現われず、常に母音に後続する。語末に立ったり別の母音が先行する場合はその先行する母音を長母音化させる。

とあったので棒読みしてあげた上、

yumuşak/weiches g: zeigt am Silbenende die Längung des davor stehenden Vokals an (vergleichbar mit dem deutschen Dehnungs-h), kann auch einen fließenden Übergang von einem Vokal zum nächsten bewirken; nach Vorderzungenvokalen (e, i, ö, ü) oft als Stimmhafter palataler Approximant wie dt. j in Seejungfrau

yumuşak:柔らかい g:シラブルの末尾では先行する母音が長音化することを示す(ドイツ語の長音記号の h のようなもの)が、ある母音から次の母音への移行を流動的なものにすることもある;前舌母音 (e, i, ö, ü)の後ろでは有声硬口蓋接近音、ドイツ語Seejungfrau(ゼーユングフラウ、「人魚」)のjのような音になることが多い。

ともあったのではしょって

「前舌母音に後続するときは硬口蓋化して接近音の [j] になるそうよ。」

と告げたところ

「何を言っているのか全くわからない。」

と一言の下に撥ねつけられて出て行かれ、親切を無にされた私はムカついた。そこで、

「人にものを訊ねて答えてもらったら少なくとも理解しようと努力するくらいのことはしてよね」

と後ろから応酬したら今度は向こうがムカついた。そしたら別のネイティブが脇から「ガンマ([ɣ])ってどうやって発音するんだ」と口を挟んできたので

「[ɡ] と調音点は同じ軟口蓋だけど、閉鎖しないで摩擦するのよホレ。」

とやって見せて、向こうにやらせて見たらこれがどうしてもうまく行かない。軟口蓋閉鎖音 [ɡ] になるか、うまく摩擦音になったらなったで今度は調音点が移動して口蓋垂の [ʁ] になってしまう。

私が「なんでこんなもんが出来ないのよ。doch(「しかし」)のch ([x])をそのまま有声化すれば済むじゃない。簡単でしょ」と言ったらムカつかれ、

「じゃあ口蓋垂震え音[ʀ]やってみろよホレホレ」

と、日頃から気にしていた痛い点を付かれて逆襲された。この [ʀ] が私は出来ない。仕方がないからいつもその時の気分や体調によって舌先の震え音 [r] または口蓋垂摩擦音 [ʁ] を発音して誤魔化している。「本来の音が発音できないためにその代用として出すアロフォン」を示す学問的名称はまだないが、俗に言うfreie Allophone(自由異音)ならぬ「不自由異音」とでも呼ぶべきか。そこまで苦労して回避していた音を「やってみろホレホレ」と無理強いされた上、その、私に出来ない音をこれ見よがしにデモンストレーション発音までしてみせられたので私もムカついた。

 こうして朝っぱらから全員仲良くムカついたところで会話はめでたくお開きとなった。エルドアンさん、あなたのせいですよ!


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ