時々「言語汚染」とか「言葉の乱れ」という言い回しを耳にするが、もちろん正規の言葉ではない。そんなものはない、と言い切る人もいる。水質汚染のようにどんな基準を満たしたら汚染とみなすかがはっきりしていない、いわば感情論から出た観念だからだ。大雑把に言って「言語汚染」は外部の言語の要素の流入に対して、そして「言葉の乱れ(崩れ)」は当該言語内部での変化に対して向けられたものという違いはあるがどちらも規範的な考え方の人が言語の変化に対して抱くネガティブな感情である。「大雑把に言って」と言ったのはグレーゾーンがあるからだ。
 外来語、特にカタカナ語が連発されるのは言語汚染、いわゆるら抜き言葉は言葉の乱れの範疇内だろうが、例えば「会議が持たれました」的な、本来日本語にはなかった文構造が外国語の影響で使われるようになった場合は言語汚染なのか言葉の乱れなのか解釈が分かれるだろう。言語汚染などというものはないと考える人にとっては汚染か乱れかなどという議論そのものが不毛だろうが、中立な価値観に立つ言葉に置き換えてみるとこれは外来要素として扱うべきかあくまで当該言語内部の変化とみるかという問題でまあ議論の価値はあるとは思う。翻訳論(『119.ちょっと拝借』参照)にもかかわってくるからである。私個人は今の段階の日本語での「会議が持たれます」は外来要素とみなしてもいいと思っている。
 しかしこの外来要素というのが実はそれ自体曲者で、何をもって外部の言語とするかという問題自体がそもそも難しく、『111.方言か独立言語か』の項で述べた通りスッパリとは決められない。ユーゴスラビア内戦の爪痕がまだ生々しかったころ「クロアチア語によるセルビア語の汚染」とか「ボスニア語からセルビア語の借用語を排除すべきだ」などという議論を時々耳にしたが、この3言語は語彙の大部分を共有しており、この語はクロアチア語、これはセルビア語とホイホイ区分けなどできるものではない。それでも無理やり見ればボスニア語にはトルコ語からの借用語が多いといえるが、そのボスニア語はボスニア内のクロアチア人が母語なのである。こういう状況で「言語汚染」とか「言語浄化」とか「外来語」などと目くじらを立ててみても始まらないのではなかろうか。
 「外来語」を共時的に定義するのが難しいばかりではない、さらに通時的な視点からみると「外部の言語の要素」と「外来語」が完全にイコールではないことがわかる。日本も明治時代まで、いやある意味では第二次世界大戦の終わりまでそうだったが、書き言葉と話し言葉が非常に離れていてそれぞれ別言語とみなすのが適当であるような言語社会が世界にはたくさんある。いわゆるダイグロシア(『137.マルタの墓』参照)と呼ばれる状態であるが、その規範でがんじがらめになった書き言葉でも書いているうちにどうしても話し言葉の要素が食い込んでくる。これは汚染なのか言葉の乱れなのか。前者にとって後者はある意味立派な「外部の言語」なのだが、当該言語の使い手自身は書き言葉と話し言葉は一つの言語のつもりでいるから、これは乱れと見る人が多いだろう。でも見方によってはこれは汚染である。ところがなぜか逆方向、つまり話し言葉に書き言葉が紛れ込んできてしまった場合、例えば「これは私の若日の写真ですよ」などと言ってしまった場合には「話し言葉が書き言葉に汚染された」とは言わない。理不尽な話だ。

 さらに言語汚染・言葉の乱れという言葉とペアで使われるのがいわゆる「言語浄化」という言い回し。真っ先に思い浮かぶのは第二次世界大戦中に日本がやった敵性語の廃止という措置だろうが、これも理不尽なことに排除されたのは英語からの借用語だけで、英語と同様外国語でありしかも戦争をしていた国の言語、中国語からの借用語はノータッチだった。中国語をとり除いてしまったら日本語での言語生活が成り立たなくなるからだろう。理不尽というよりご都合主義である。もっともこの手の浄化運動は日本人だけでなくほとんどあらゆる民族がやっている。韓国では戦後日本語排斥運動が盛んになったそうだし、こちらではフランスの言語政策が有名で現在でも英語の侵略に対する処置なのか例えばコンピューターをordinateurと言わせるなど、言語を計画的に規制している。他の言語ではたいていcomputerという英語からの借用語を使っているところだ。日本語の「計算機」にあたる翻訳語を使うこともあるが(例えばドイツ語のRechner、クロアチア語のračunaloなど)、あくまで「コンピューター」と併用だ。フランス語ではordinateurのみで、しかもこれは翻訳ですらない。意識的な造語という色が濃い。またカタロニアもスペイン語の侵略を食い止めようといろいろやっているらしい。方言に牙が向けられることもある。日本人が沖縄でやった悪名高い方言札などはその最たるもの。共通語の中に方言を持ち込むと共通語が汚されるというわけだ。上述のフランスもやっぱりというか方言に冷たく言語の多様性を守ることには消極的だ。プロヴァンス語やブルトン語をパトワといって排除しようとした。ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章にもまだ批准していない。「言葉の乱れ」のほうも浄化対象になる。「本当は〇〇というのが正しい。最近の若者は言葉の使い方がなっとらん」、こういう発言がなされなかった言語社会は人類発生以来一つもないのではないだろうか。
 しかし言葉を純粋に保つことなどできるのだろうか?そもそも純粋言語というものがあるのだろうか?そもそも現在世界最強言語のひとつ、英語というのがフランス語とドイツ語の混合言語である。そのフランス語自身も元をただせばラテン語とケルト語の混交だ。こういうことを言い出すと全くキリがない。どこの民族だって他の民族と接触し混交しながら発展してきたのだ。純粋な言語など理屈からしてありえない。また仮にホモサピエンス発生以来全く孤立し、他と全く交流しないで来た集団があったとしよう。そこの言語は全く変化せずに何万年も前と同じ状態を保持できるか?これはRudi Kellerという人がその名もズバリなSprachwandel(「言語の変遷」)という著書でNoと言っている。私も同じ考えだ。百年もたてばどんなに孤立した言語でも変化する。言語は必ず内部変化を起こす。止めることはできない。

 ではだからと言って言語はまったくいじらず、なるがままにまかせておけばいいのか?言語の変化を人工的に規制しようとするな、しても無駄だ、言語学者にはそういうことをいう人もいるがこれは言葉通りに取れない場合もある。『34.言語学と語学の違い』でも書いたように言語学者がそういうことを言う時、矛先を向けているのは言語いじりそのものでなくそれに伴う規範意識だからだ。どの言語・どの方言が優秀とか正しいかとか言った価値判断・優劣判断を否定しているだけで、いわゆるlanguage planning、言語計画の必要性を否定しているわけではない。それどころか言語計画を専門にして食べていっている学者だって多い。この言語プランニングという作業には、標準語の制定、母語者向け・非母語者向けの教科書作り、言語教育などがあるが、少数言語の保護、またまれには死語の復活などもまたプランニングに含まれる。いずれにせよその出発点にあるのは「記述」である。いい悪い、正しい正しくないなどということは一切言わないでまず当該言語を無心に記述する。そしてその言語共同体で最も理解者が多いか、他の理由で一番便利と判断されたバリアントを標準語あるいは公式言語ということにしましょうと取り決め、言葉の使い方や正書法を整備する、これがcodificationである。あくまで「便宜上こういう言語形を使うことにしようではありませんか」という提案・取り決めであって、他の形を使うなとかこの形が一番正しいとかいっているのではない。当該共同体での言語生活が潤滑に行くようにするための方便に過ぎない。ここを勘違いして優劣判断を持ちこむ者が後を絶たないのでそれに怒って上記のようにやや発言が過激になるのだ。
 取り決められた標準形は絶対の存在でも金科玉条でもない。外来語が入ってきたために元の単語が使われなくなったり、内部変化で文法が変わったり、言語は常に変化していくからそれに合わせて標準語も定期的にメンテしていかなければならない。よく言われることだが、外国人のほうが「正しい」言葉を使うことがあるのは、外国人の習う標準語がその時点で実際に使われている言語より時間的に一歩遅れているからである。例えばドイツ語の während(~の間に、~の時に)や statt(~の代わりに)という前置詞は前は属格支配だったが、現在ではほとんど与格を取るようになっている。つまり大抵の人は「第二次世界大戦中に」を während dem zweiten Weltkrieg という。これを während des zweiten Weltkriegs と意地になって属格を使っているのは私などの外国人くらいなものだ。「私の代わりに」はstatt mir が主流で statt meiner と言ったら笑われたことがある。人称代名詞の属格など「もう誰も使わない」そうだ。さらに statt mirさえそもそも「古く」、普通の人は für mich で済ます。しかし逆に古くて褒められることもある。昔何かの試験で verwerfen(「はねつける、いうことをきかない」)の命令形単数として verwirf と書いたら、年配の教授にムチャクチャ褒められて面くらった。他のドイツ人は皆ウムラウトなしの verwerfe という形を書いたそうだ。クラスメートは「母語者が全員間違って正しい形を書いたのは外国人だけ。恥を知りなさい」とまで言われていた。要するに同じことをやっても褒められたり笑われたりするのである。
 しかし逆に日本に来れば「恥を知りなさい、日本人」の例がいくらもある。例えば上でもちょっと述べたら抜き言葉であるが、私がここ何年間かネットの書き込みなどを注意して観察しているぶんには、すでに95%くらいが「見れる」「食べれる」「寝れる」を使っている。私のようにこれも意地になって「見られる」「食べられる」「寝られる」と言っているのは完全な少数派、それもそれこそ意地になってある程度気合を入れないとつい「見れる」「来れる」と言いそうになる。これに対して外国人の日本語学習者はいともすんなりと「見られる」「来られる」が出る。外国人はそれしか習っていないのだから当然といえば当然ともいえるのだが、ここで恥を知らなければいけないのは日本人であろう。
 このら抜きに関しては、いくら私が意地になっても将来これが標準形になると思う(それとももう標準形として承認されているのだろうか)。合理的な理由があるからだ。一つの助動詞、れる・られるが受動・自発・可能(『49.あなたは癌だと思われる』参照)・尊敬などとといくつも機能を持っていると非常に不便だということ。できれば一形態一機能に越したことはない。特に受動と可能などという全く関係のない機能を同じ助動詞で表せというのは無理がありすぎだ。第一グループ、俗にいう5段活用動詞にはすでに可能を表現するのにれる・られるを使わずに活用のパターンを変化させるやり方が存在する。読む→読める、書く→書けるという形のほうを可能に使い、本来可能を表せるはずの「読まれる」「書かれる」は受動など事実上可能以外の意味専用と化している。私個人は I can read 、I can write を「私はこの本が読まれます」「私は日本語が書かれます」とは絶対言わない。「私はこの本が読めます」「日本語が書けます」オンリーであって、れる形は「この本は広く読まれている」「あいつに悪口を書かれた」といった受動だけである。「眠る」や「行く」などはかろうじて「昨日はよく眠られませんでした」とか「明日なら行かれますが」ともいうことがあるが、「眠れませんでした」「行けますが」を出してしまうことのほうがずっと多い。つまり第一グループではすでに受動と可能が形の上で分かれているのだ。だから第二グループ、いわゆる上一段・下一段動詞でもこの二つは分けれたほうが統一が取れる。そこで「食べられる」は受動、「食べれる」は可能と決めてしまい、「人によっては可能表現に受動と同じ形を使う」と注をつければいい。第3グループの「来る」も「来れる」と「来られる」で分ける。もう一つの第3グループ動詞「する」は元から「できる」と「される」に分かれているのだから問題ない。
 問題はこれをどうやって文法記述するかだが、これがなかなかやっかいだ。手の一つに第一グループの「-る」、第二・第三グループの「-れる」を異形態素としてまとめ、「-れる」及び「-られる」とは別形態素ということにしてしまうという方法がある。さらに第一グループも第二グループも可能の助動詞は仮定形に接続するとする。第一グループの語幹「読め-」は実際に仮定形と同じだからOK,第二グループは動詞語幹を母音までとしてしまえばどんな助動詞が来ても語幹はどうせ変化しないことになるからこれを仮定形だと言い張る。だがこれはあくまで「読める」「書ける」方の形の歴史的な発達過程を無視しているわけだからどこかに無理がでる。「読めない」と「読まない」の対称でわかる通り否定の助動詞の「-ない」が未然形にも仮定形にも接続することになって、統一が崩れるのが痛い。それよりさらに無理があるのが(無理があると思っているなら最初から言うな)動詞のパラダイムを現在の未然・連用・終止・連体・仮定・命令の6つからさらに増やして未然・連用・終止・連体・仮定・命令・可能の7体系にし、「読め・る」を可能形とするやり方だ。しかしこれも「-ない」の接続が未然と可能の二つに許されるという問題は解決しないばかりか、-e が仮定・命令・可能の3機能を担うことになり、無駄にややこしくなる。ロシア語の数詞問題でもそうだったが(『58.語学書は強姦魔』)、通時面を全く無視して共時的視点だけで言語を記述しようとするとどこかにほころびがでるようだ。もっとも今の学校文法はむしろ逆に意地になって通時面にしがみつきすぎているような気もする。一つの語形としてまとめられている未然形、連用形にそれぞれ2形がある一方、事実上形に区別のない終止と連体、仮定と命令が二つに分かれている。外国語として教える日本語の文法と学校文法の乖離が大きいのも当然だ。やはりここらで学校文法も全面的にメンテしたほうがいいのではないだろうかとは思う。
 第二の方法は可能を表す方法が第一と第二グループ動詞では異なり、第一グループでは語形変化でなく「派生」により、第二グループでは助動詞「れる」を仮定形につけて行うとすることだ。そこで注として派生のしかたを説明しておく。つまり語幹(第一グループの動詞というのはつまり「子音語幹」だから)に-eruを付加して辞書形とし、助動詞は必要ないと。こちらの方が言語事実には合っていると思うが、これも説明が少しややこしいし、ここでもやはり第一グループと第二グループとの亀裂がさらに深まっている。実際はどうなっているのかと思ってちょっと現行の教科書を覗いてみたら、可能表現については第一グループは「読む→読める」のタイプ、第二グループは「食べる→食べられる」という風に(事実上完全に少数派でなっている)られる形をやらせているようだ。でももう「食べる→食べれる」に市民権を与えてもいいのではないだろうか。「可能表現は第一グループと第二グループで全く作り方が違い、前者は派生で、後者は語幹に「れる」を付加して作る(まれに「られる」を付加する場合もある)。受動形その他は第一グループは「れる」、第二は「られる」付加で形成する」と説明する。確かに第一と第二の亀裂は深まるが、その代わり可能と受動その他の亀裂も深まるからかえってすっきりするかもしれない。第三グループについてはどうせ2つしかメンバーがいないから、少数差別するわけではないがまあ「例外です」で済ませる。表現する変化を汚染だろ乱れだろと排除ばかりしていないで時期を見て正式に認めてやるといいと思う。それとももう言語学の方の(つまり語学ではない方の)日本語文法ではすでにそういう方向の記述になっているのだろうか。

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