日本語では形が似ているので「言語学」と「語学」は頻繁に混同されるが、ドイツ語だと前者はLinguistikあるいはSprachwissenschaft(シュプラーハヴィッセンシャフト)、後者がFremdsprachen(フレムトシュプラーヘン、「外国語」)と全然違う語で表すのできちんと区別してもらえる。この二つは本質的に全く異なるもので、その違いをさる音声学の教授は次のように説明している。
 
「『語学』と呼ぶのは技術論であるのに対し、『言語学』は科学(サイエンス)である。換言すれば、語学における究極の目的は、或る言語を読み、書き、話し、聞くことができるようにすることである。これに対し、言語学の方は、人類の営む言語を客観的な視点から構造や体系に分析し、ユニバーサルな尺度によってこれを記述し、説明することを究極の目的にしている」

 喩えでいえばこういうことだろう。鳥類学者は鳥の飛行のメカニズムを観察し、生物学者はゾウリムシの原形質流動の様子を記録するが、だからと言って自分が素手で空を飛びたいとか細胞分裂・クローン技を体得しようなどとは思っていない。言語学者も同じで、「ネイティブはどうしてこの言語がしゃべれるのか」、「人はどうやって第二言語を獲得するのか、どうやったら効果的か」、「この言語のしくみはどういう風になっているのか」それらの事自体が知りたいだけで、自分がその言語をペラペラしゃべってやろうなどと大それたことは考えていない場合が多い。 実際語学の苦手な言語学者などゴロゴロいる。それはちょうど数学者や物理学者が、必ずしも暗算が得意だとは限らないのと同じことだ。
 もちろん数学者や物理学者は数(ここは「かず」でなく「すう」である)というものと日常接しているから暗算が早い人だっているだろうし、言語学者も言語をいじるのが商売だから自然に外国語が出来るようになってしまう人もいる。ただ、それが目的ではないし、苦手でも商売の決定的な支障にはならない。それこそ自然科学系の学者や芸術家、ビジネスマンなどのほうが言語学者なんかよりよっぽど語学が得意なのではないだろうか。

 すこし前、本屋で知らない人とつい立ち話になってしまったことがあるが、聞いてみたら物理学の学生さんだった。その人が「物理学を専攻しても純然と物理で食べていける人なんてほとんどいないですよ。物理それ自体は日常生活から遊離した、全く役に立たない理論です。で、先生やったり企業で電気いじったり機械を作ったりまあ、応用で食べていってるわけで。」と言っていた。それと同じで言語学も日常生活からは完璧に遊離していて、それ自体では絶対生活していけない。なんとか応用してやっていっているわけだ。失語症の治療にあたったり、IT技術者とくっついて自動翻訳を開発したり皆食べていくのに必死だが、語学教師というのもそれら「応用」の可能性のひとつではある。だから語学の教師には純粋な語学教師と言語学崩れが混ざっているのだ。

 ところで、語学の教師が語学系か言語学系か見分ける方法がある。「ここはどうしてこうなるんですか」と質問した際、「とにかく○○語ではそういうんです。覚えましょう」という類のことを連発する人は語学系、それをクドクド説明し始める人は言語学系である。ただ、そこで一生懸命説明してくれてはいるのだが、その説明が全く常人の理解できない単語・言い回しで結局質問者は前よりもっとわからなくなり、質問をしてしまったことを後悔して「下手に質問するべきじゃないな、これからはここはこうだ、とただ覚えることにしよう。その方が早い」と自分から悟ってしまうため、結果的には「覚えましょう」の語学系教師と同じことになるのである。そこでなされた説明にあくまで食い下がるタイプの人は言語学には向いているかもしれないが、語学そのものはいつまでたっても上達しない。常にその調子でなかなか先に進めないからだ。
 また、「○○語ってどんな言葉ですか?」と聞いたとき、「○○語で「こんにちは」は×××ですよ」という方向の答えをする人は語学系、「○○語は帯気と無気を区別するんですよ」とか「能格言語です」とか言い出すのは言語学系である。これは逆も真なりで、「○○語で「こんにちは」はなんて言うんですか?」などとすぐ聞いてくる人は語学系、「○○語にはどんな音素がありますか?」的な質問をする人は言語学系と見なしていい。
 もう一つ、言語学系の人には「その言い方は正しい」とか「間違いだ」といった規範的な表現に対してアレルギー反応を起こす人がいる。「正しい」の代わりに「その言い方は許容されている」、「間違っている」の代わりに「現段階ではまだその言い方は当該言語社会では使われていない」という。言われた学習者はその言い方をしていいのか悪いのかいまひとつよくわからない。小学校の国語の先生が目のカタキにしている「食べれる」「見れる」なども言語学系の人は拒否しないだろう。「その形は類推によって現代日本語に広く浸透しており、事実上許容されている。」で終わりだ。言語学系の教師がOKを出した言い回しを他で使って直され、「あの野郎デタラメ教えやがったな」と矛先を言語学者に向けられても困る。言語学の文法は「規範文法」ではなく、「記述文法」だからだ。

 これだから、一般言語学系の人が語学を教えると生徒は出来るようにならない、と言われるようになるのだ。これは別に被害妄想で言っているのではない。私が日本語教師の口を捜して面接に行った先で、専攻が一般言語学だとバレると露骨に引かれたことが本当に何回かあるのだ。「授業はあまり言語学的にならないように会話を覚えさせることを重点にしてください」とはっきり牽制されたこともある。しかしたしかにその通りなので、何も言い返せない。「皆さんよくわかっていらっしゃる」としか言いようがない。
 もちろん一口に言語学と言っても範囲が広いから、中には応用言語学など言語教育と直接つながっている分野もあるし、最初に誰かが当該言語を科学的に分析調査、そして記述をしなければそもそも文法書も教科書も作れないわけだから、「言語学は語学の邪魔」とまでは言えまい。でもこの両者の微妙だが根本的な姿勢の差ははっきりしている。
 
 そういう事を以前コンコンとさるドイツ語のネイティブに訴え、「私は言語学専攻なんだから語学が苦手なのは当たり前だ。名詞の性を間違える度にいちいち揚げ足とるな!」と諭したら敵は「なんでそんな簡単なもん間違えるんだよ。名詞の性おぼえるなんてオウムにだってできるよ」と来た。それでは私はオウムより頭が悪いというのか。そんなことはない、オウムはたしかに文法上の性も含めてセンテンスをまる暗記して発音するのは私より上手いかもしれない。だがオウムにはこういうエッセイは書けない。「言語の分節性」というものが理解できず、言語を構造を持ったひとつの体系として捉えられないからだ。   


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