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 何気なく17世紀の初頭に書かれたロドリゲスの『日本語小文典』(もちろん翻訳をだ。そんな古い、しかもポルトガル語の原本なんか読めるわけがない)を見ていたら、ちょっと面白いことに気付いた。「お」と「を」を区別せずにどちらもvo、「う」を単に v と、v を使って表記してあるのだ。 例えば「織物」をvorimono、「己」をvonore、丁寧語の「御」がvo、「馬」がvma、「訴え」がvttaeだ。
 これは日本語の音が当時そうなっていたというより、単なる表記の仕方の問題だろうが、東スラブ諸語では実際にv音が語頭に付加される(これをprothetic v という)から面白い。これが本当の「サインはV」だ。(今時「サインはV」などというギャグを飛ばすと年がバレる、といいたいところだが、年がバレるも何もそもそももう誰もこんなTVシリーズなど知らないだろうから単に素通りされる可能性のほうが高いと思う)。

 例えばロシア語の川の名前Волга(ヴォルガ)はもともとスカンジナヴィア系のОлга(オルガ)という名前だったのにв (v)が語頭付加されたものだ、と聞いたことがある。また、トゥルゲーネフのНесчастливая(『不しあわせな女』)という小説にвотчим(ヴォートチム、「義父」)という単語が出てくるが、これは辞書に出ている普通の形はотчим(オートチム)。これなど明らかにprothetic  v だろう。

 ベラルーシ語などはこのprothesis(語頭音付加)が体系的に現れて、語頭の後舌円唇母音にアクセントがあった場合は в (v) が規則的に付加される。例を挙げると

ベラルーシ語 - ロシア語
вока - око (目)
востры - острый (鋭い)
вуліца - улица (通り)
вуха - ухо (耳)

ベラルーシ語では対応するロシア語の単語に対して語頭に в (v) が立っていることがわかるだろう。なお、око (オーコ、目)という語はロシア語では古語化していて現代語で普通に目を意味するときはглаза(グラザー)という語を使う。もっとも歌の文句などちょっと文学的なニュアンスにしたいときは古語のоко を使うことがある。例えば『バルカンの星の下で』という歌があったが、その第一行目が

Где ж вы, где ж вы, очи карие
あなたはいずこ、あなたはいずこ、茶色の瞳(の人)よ

という歌詞だった。очи(オーチ)というのはоко(オーコ)の複数形である。

 後舌円唇母音が語頭にたってもアクセントがなければ в(v) が付加されないのが本来なのだが例外的にアクセントのない語頭の円唇母音にprothesic v が現れることがある。
 例えばвусаты (ヴサーティ、「髭の(ある)」)という単語はアクセントのある母音はа (a)であってу (u)ではないから、本当は в なしのусаты(ウサーティ)になるはずなのだ。それなのになぜここで в が付加されているのか。この形容詞の語幹となった名詞のвус(ヴース、ロシア語のус、ウースに対応)にすでに в が付着している、つまり元の語がすでに в 付きなので、そこから派生した語から今更 в を取り払うことができないからだ。
 
 さらにロシア語に対するベラルーシ語の特徴として次のようなものがある。ロシア語ではr音に口蓋音・非口蓋音、俗に言う軟音・硬音の2種類あるが、ベラルーシ語ではrに口蓋・非口蓋の弁別的対立が失われて硬音の r しかないのだ。だからロシア語では口蓋化している r(р)で発音する

Я говорю. (ヤー・ガヴァリュー、私は話す)

はベラルーシ語では

Я гавару. (ヤー・ハヴァルー

となる。私はロシア語の有声軟口蓋閉鎖音、つまり г (g)はベラルーシ語では有声軟口蓋摩擦音、国際音声字母IPAで[γ]になる、と教わったが、実際の発音を聞かせてもらった限りでは無声軟口蓋摩擦音[x]、あるいは無声喉頭摩擦音[h]にしか聞こえなかった。内心「あれ?」と思っていたら、いつだったかオリンピックでベラルーシの選手にOlhaという名前の人を見た。これは明らかにロシア語のОльга(オーリガ)だ。ロシア語のgがベラルーシ語の英語表記ではhになっている、ということはつまりベラルーシ語の г は英語話者にも h に聞こえる、ということで特に私の耳が悪いからでもないと思う。

 目のいい人はさらにお気づきになったかもしれないが、ベラルーシ語はいわゆるаканье(アーカニエ、『26.その一日が死を招く』の項参照)を律儀に文字化する。アーカニエとはロシア語でアクセントのない o が a と発音される現象のことだが、発音は a でも文字では o と表記する。上のロシア語говорюが、「ゴヴォリュー」でなく「ガヴァリュー」と発音されるのはそのせいだ。もっともoが弱化して出来た「あ」はロシア語ではクリアに[a]とは発音せず、強勢のあるシラブルの直前では[ʌ]、それ以外では[ə]となるのだが、ベラルーシ語ではきちんと[a]で発音されると聞いた。ただし自分の耳で確認はしていない。

 で、ベラルーシ語だとアクセントのない o は発音どおり a と書く。だから上のгавару では母音が発音どおり а になっているのだ。вокаとかвухаとかいう綴りはロシア語だと間違いだが、ベラルーシ語では正書法通りである。書き間違いではない。まあ、覚えやすいと言えばこちらの方が覚えやすいが、私は「ここは а だったっけか、о だったっけか」と年中わからなくなる学習者泣かせのロシア語の綴りの方が味があると思う。 

 あと、ベラルーシ語では /w/ と /l/ の交代が見られる。 ロシア語と比べてみるとさらに面白い。ベラルーシ語の /w/ はロシア語の /l/ だけでなく/ v/、/v'/、/u/ とも交代するのだ。まさに七変化だ。下に例を挙げるが「ベ」がベラルーシ語、「ロ」がロシア語だ。 

/w/ (ў) 対 /v/ (в)
леў (ベ「ライオン」単数・主格)        対  льва(ベ、単数・生格)、лев (ロ)
з давён-даўна (ベ、「もう長い間」) 対  давно (ロ)

/w/ (ў) 対 /v'/ (вь)
любоў (ベ、「愛」単数・主格)  対 любовi (ベ、単数・生格)、любовь(ロ)
кроў (ベ、「血」 単数・主格) 対 кравi (ベ、単数・生格)、кровь(ロ)

/w/ (ў) 対 /l/ (л)
быў (ベ、「~であった」男性・単数) 対 была  (ベ、女性・単数)、был(ロ)

/w/ (ў) 対  /u/ (у)
паехаў ён у чыстае поле(ベ、「彼は広い野原に出て行った」)

паехаў Iлля ў Кiеў         (ベ、「イリヤはキエフに出発した」)
поехол Илья в Киев      (ロ、「イリヤはキエフに出発した」)

 ベラルーシ語ではロシア語の前置詞вは基本уになる(下から3番目の例паехаў ён у чыстае полеと一番下の例поехол Илья в Киевを比較)。ところが、この前置詞が母音の後に来る場合は ў (w) になるのだ(下から二番目の例文と比較)。

 そういえばもう20年近く前、ドイツ語の授業で「人食いアヒルの子さんの als は aus に聞こえる」と発音を直されたことがあって、l と u という組み合わせに意外な気がしたのを覚えている。l と u は他の言語でも交代しやすいのかもしれない。
 もっとも l は o とも交替しやすそうだ。セルビアの首都はBeogradともBelgradとも言う。さらにロシア語のбыл (「~だった」、男性単数形)はセルビア語(あるいはクロアチア語)では bio で、ここでも l と o が対応している。

 実は面白いことにベラルーシ語にはprothetic i (語頭音付加のi)がある。トルコ語などにもこれがある。イスタンブールの「イ」は後から付加された母音で、これは本来「スタンブル」だったそうだ。

iзноў (ベ、「もう一度」) 対 снова (ロ)
iржа  (ベ、「錆」)            対 ржа (ロ)
iмгла (ベ、「靄」)           対 мгла (ロ)

 さて、アザレンカというテニスの選手がいるが、この人はベラルーシ出身だ。ウィキペディアにあるこの名前の原語ベラルーシ語バージョンとロシア語バージョンを比べてみると次のようになるが、この短い名前の中に今まで述べてきたロシア語とベラルーシ語の重要な音韻対応のうち3つもを見ることが出来る。

ベラルーシ語
Вікторыя Фёдараўна Азаранка
ロシア語
Виктория Фёдоровна Азаренко

 1.ロシア語の、歯と下唇による有声摩擦音 в がベラルーシ語では特定の環境では摩擦性が弱まり半母音ўとなる。それでベラルーシ語のФёдараўна(フョードラウナ)はロシア語ではФёдоровна(フョードロヴナ、正確にはフョードラヴナ)。

2.ベラルーシ語ではロシア語と違い р (r) に口蓋・非口蓋の音韻対立がないので ри(ri) は ры (ry) となる。ロシア語バージョンの ре (re) がベラルーシ語で ра(ra) と書いてあるのもここの р (r) が口蓋音ではない、つまり硬音だからだ。

3.ベラルーシ語ではアーカニエを文字化するのでФёдараўна Азаранкаと、母音が全部 a で書いてある。

 こういう風に、教科書など話にだけしか聞いたことのなかった事柄の実際例に遭遇すると嬉しくなってしまうのは私だけではあるまい。


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