今でもよく覚えているが、2007年にドイツ連邦議会でDie Linke(左党)という政党が動議を提出したことがある。ドイツが1904年に現在のナミビアで原住民にたいして行なった犯罪行為を埋め合わせすべきだ、という提案であった。

 ナミビアは1884年から1915年までドイツの植民地だった。当時は「ドイツ領南西アフリカ」(Deutsch-Südwestafrika)と言った。ドイツはイギリスやフランスより出遅れたため植民地でのふるまいは英・仏に比べてあまり人の口に上ってこないが、立派に(!)アフリカ人を虐待していたのである。その後第二次世界大戦時に行なった大虐殺がひどすぎて、それ以前に行なったアフリカ人ジェノサイドがかすんでしまっているが(ドイツ人さえこれを知らない人がいるし自称「ドイツ語・ドイツ文学を専攻したドイツの専門家」である日本人の無知さは言うまでもない、下記参照)、ジェノサイドはジェノサイドである。むしろホロコーストの根はこのあたりからすでに始まっていた、という点で史実としての重要度はホロコーストに優るとも劣るまい。

 ドイツ人が行なった「民族浄化」の対象になったのはヘレロとナマという民族である。上述のようにドイツ領南西アフリカは1884年からドイツの植民地であったが、始めから原住民に対する抑圧・無関心は相当のものだったらしい。もっともこの「現地人を自分たちと同等の人間とはみなさない」というのは当時のヨーロッパ列強だけではなく、そもそも植民地支配などというものを考えつく国のスタンダードメンタリティではなかろうか。日本だって例外ではない。
 1904年1月12日、ヘレロがその圧政に耐えかねて蜂起し123人のドイツ人が殺された。これが戦争にまで発展した。後にナマもこれに加わった。この、生意気にご主人様に対して蜂起した原住民に対するドイツ側の報復感情は常軌を逸していた。ドイツ側は住民から義勇兵を募ってSchutztruppe、植民地保護軍隊を形成したが、この手の「準」軍隊というのがどういうものであったかはドイツのSAや種々「討伐隊」などその後の歴史を見てみれば容易に想像がつく。実際私たちが想像する通りの集団であったようだ。最初ドイツ側の指揮をとったのは当時としては穏健でまともなテオドール・ロイトヴァインTheodor Leutweinという司令官だったが、この人は報復感情をあまりむき出しにしないようドイツ人達に警告した。しかしそもそもこのロイトヴァインにしても単に「絶滅指令は出さなかった」というだけで、捕虜を特に人道的に扱ったりはしなかったし、ヘレロ殲滅に反対した理由というのも「民族を1人残らず抹殺することなど物理的に無理」「社会的権利をすべて奪うだけで十分。そうしてヘレロをドイツ人のために働かせればいい」というものだったそうだから、その程度の司令官にさえ「あまり感情をぶつけるな」といわれるほどであったドイツ人の討伐軍がいかなるものであったか、想像するだに背筋が寒くなる。
 ところがこの甘すぎる司令官は1904年2月にはもう更迭され、首都ベルリンのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からロタール・フォン・トロータLothar von Trotha中将という新しい指揮官がアフリカに派遣されてきた。軍隊や武器も強化された。現地の政府は原住民に対する厳しさが足りないと地元南西アフリカのドイツ人たちが本国へ向けていわばロビー活動を行なったらしい。このトロータが悪い意味ですごかった。最初からこの植民地戦争を「人種間戦争」または「人種殲滅戦争」とみなしてヘレロ撲滅を狙い、文書でも堂々とそう宣言したのである。

ロタール・フォン・トロータ
wikipediaから

220px-Lothar_von_Trotha

 1904年8月11日Waterbergというところで戦闘があり、ヘレロは戦いに負けた。トロータにとってはまさに「待ってました」であった。何万人ものヘレロが隣のオマヘケ砂漠に逃走した。大半は非戦闘員、つまり女子供である。ドイツ軍は退路を遮断した上、砂漠で水のあるところを占領したり毒を入れたりして難民が水を得る機会を奪ったため、大半は渇きで死んでいった。砂漠の向こう側はイギリス領だったが、ここまでたどり着けたのは僅か。繰り返すがこれをドイツ軍はワザとやったのである。始めからこの民族を皆殺しにするのが目的だったのだ。トロータはその時こう言っていたそうだ:

„Die wasserlose Omaheke sollte vollenden, was die deutschen Waffen begonnen hatten: Die Vernichtung des Hererovolkes.“

「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」

あまりにも残酷な写真なのでこの記事に載せるべきかどうか迷ったが、ドイツ軍によるヘレロ虐殺。二次大戦時にドイツ陸軍が当時のソ連で行なった住民虐殺の様子と重なってみえる。
http://www.gfbv.it/2c-stampa/04-1/040107it.htmlから

040107herer

ドイツ人にオマヘケ砂漠に追いやられ水を遮断されてそれでも生き残ったヘレロ
https://segu-geschichte.de/voelkermord-herero/から

Herero

 この民族絶滅意図に批判的であったLudwig von Estorff ルートヴィヒ・フォン・エストルフという人が、すでに戦いに負けている民族をさらに砂漠に追いやり家畜諸共死に至らしめるようなやりかたに何の利があるのか、きちんとそれなりに扱ってやって受け入れてやればいいじゃないか、彼らはもう十分罰を受けているのだから、とトロータに提言したがトロータはガンとして耳をかさず、絶滅措置をそのまま推し進めたという。
 さらに殺しそこなったヘレロを収容するために強制収容所も作られた。この強制収容所Konzentrationslagerというものは元々スペインとアメリカに遡るのだそうだが、このドイツ領南西アフリカで使われて以来一気にその名称が世界に広まった。ナチスの発明ではないのである。男性ばかりか女子供までヘレロやナマが収容され人口を減らすのが目的で残酷な労働をさせられたが、その記述を読むと全くナチス時代の強制収容所そのものである。また、トロータがその典型だろうが弱い者や他の民族に理解や同情を示すのは「お花畑」「アマちゃん」、つまり精神が弱い証拠とみなすあたりもナチスの精神主義とまったく平行する。
 トロータは1905年の1月にドイツに帰り、1907年3月31日には戦争は正式には終結したがそこここに収容されていたヘレロ・ナマは1908年の一月27日までは留め置かれたそうだ。最初7万人から10万人いたヘレロが、戦争の後は1万7千人から4万人しか残っていなかった。2万人いたナマも半数しか残らなかった。ドイツ兵の数は1万4千人から1万9千人と推定されている。数字に幅があるのはしかたがない。

 Jürgen Zimmererユルゲン・ツィメラーという歴史学者はこのドイツ人の行為を「あらゆる定義・観点からみてジェノサイドであった」と断定している。

 ドイツの植民地支配は1915年まで続き、その後この南西アフリカにはブーア人(アフリカーナ、『89.白いアフリカ人』参照)が入り、英国領となり、さらに紆余曲折を経て1990年に独立したわけだが、その植民地支配自体は終了した後、つまり1920年代になってからもドイツ本国や南西アフリカにいろいろ記念碑や銅像が建てられた。「勇敢なドイツ兵士」を記念するためである。フォン・トロータをたたえる記念碑まであったそうだ。1930年代、ナチスの時代になってからはこのドイツ軍カルトぶりがさらに悪化し、いわば国民総ミリオタ状態になったことは想像に難くない。盛んにプロパガンダされたようだ。1935年にもこの「ドイツ人が植民地で行なった英雄行為」をたたえる銅像がデュッセルドルフに立てられている。
 「ホロコーストをやったのはナチ。普通のドイツ市民はむしろその犠牲者」という言い方をそのまま信じているそれこそお花畑な人が日本にはいるが、こんなもんは国土をさほど荒らされる事もなくドイツ人の支配を受けずに国民を虐殺されることがなかった戦勝国英米が余裕で行なったリップサービスである。ポーランドやフランス国民にはそんな絵空事を信じている者などいない。あれはドイツ国民がこぞってやった犯罪だと思っている。事実ソ連やポーランドでユダヤ人やスラブ人を虐殺したのは武装親衛隊ばかりではない、普通の陸軍兵士もやったのである。また、ヒトラーに政権を与えた後もドイツ国民側からこの政権に反対を唱える声があまり聞こえてこなかったのもゲシュタポが怖かったり情報が入って来なかったからばかりではない、「我々は支配者人種」という思想がドイツ人の心の底にはあったから、つまり国民の相当数が消極的にナチスに加担していたからである。歴史の歯車が狂っていたらアジア人の日本人など劣等民族として殲滅対象にされていたはずである。

 第二次大戦後はこの南西アフリカでの行為は忘れられてしまった。その歴史意識が転換し出したのはやっと1970年も終わりになってからだ。そここにいまだに立っている「植民地記念碑」を恥かしがる声が起こってきた。1978年には反帝国主義運動を起こしていたゲッティンゲンの学生の1人と思われる者に南西アフリカ記念碑の鷲の銅像が盗まれた。その銅像から切り取られた鷲の首が1999年になぜかナミビアの首都ウィンドホックで見つかり、現在はナミビア大学の学生協会の所有になっているそうだ。

これがそのワシの首
http://www.freiburg-postkolonial.de/Seiten/Goettingen-kolonialadler.htmから

GoettingenAdler

 さらに1984年、つまりドイツの南西アフリカ支配が始まってからちょうど100年目、学生ばかりでなく教授をも含むミュンスター大学の行動グループがやはりドイツ軍礼賛記念碑にWir gedenken der Opfer des Völkermordes unter deutscher Kolonialherrschaft in Namibia「ドイツの植民地支配下でジェノサイドの犠牲になった人々を追悼する」というプレートを付加しろと運動した。ここでVölkermord(民族浄化、「ジェノサイド」Genozidと同義である)という言葉が論争になり、結局プレートは実現しなかった。
 1990年、ナミビアが正式に国家として独立するが、これを機に1933年に建てられていた植民地支配記念碑を「どうにかしよう」という動きがブレーメンで起こり、1996年にその記念象には逆の意味が与えられ、「ドイツによるナミビアでの植民地支配の犠牲者に捧げる」というプレートがつけられた。除幕式、といっていいのかとにかく完成時には当時のナミビアの大統領Sam nujomaサム・ヌヨマ氏も招かれた。なお記念と書いたのは誤植ではない。この記念碑は本当に象の像なのである。

かつてドイツの植民地支配を誇示するものであった象の像は今は寛容のシンボルとなった。アフリカの国々の国旗を掲げる活動グループ。象のデカさがわかる。
http://www.der-elefant-bremen.de/aktion_10/elefantenfluesterin2.htmlから

schal

 植民地戦争勃発の100年目、2004年を前後してナミビア関係の史学論文や著書の出版も増えた。このブログの参考にしたVölkermord in Deutsch-Südwestafrika(ドイツ領南西アフリカでのジェノサイド)という本も2003年の出版である。また、ナミビアが正式に国家になったことで、ドイツ帝国の後裔である現在のドイツ連邦共和国に対して賠償問題も浮上した。2001年には米国でヘレロがドイツ銀行に対して当時の賠償を請求する裁判を起こしているそうだ。
 話は飛ぶが、1989年にドイツが統一したことによりドイツはワイマール共和国の正式な後裔ということになって、ナチスが一方的に破棄していたフランスに対する第一次世界大戦時の未払い賠償金の義務が生じたため、統一ドイツは2010年に完払するまで毎年フランスに残りの賠償金を払い続けていた。ご苦労なことである。

 さて、ナミビア賠償問題、いやそもそもナミビアでのドイツの戦争犯罪は2004年以降から次第にドイツ国内でも人の口に上るようになり、とうとう2007年に左党が連邦議会に動議を提出したことは始めに述べた通りである。私は長い間ドイツで暮らしていながらこのドイツ帝国の犯罪をこのときまで知らなかった。「戦争犯罪に無神経な日本人」を地で行ってしまったのである。
 左党の要求に対する当時のドイツ連邦議会の答えは「ドイツに責任があったことは認めるが補償やジェノサイド認定はしない」というものであった。これが今日までのドイツ政府の正式なスタンスである。しかし左党はその後もしつこく動議を出しているし、活動家や政治家からの追及の声も高い。2016年、連邦議会議長Norbert  Lammertノルベルト・ラマートが当時の行為について「ジェノサイド」という言葉を使ってニュースになった。けれどもこれは政府の公式な見解とは見なされていない。「謝罪はするがジェノサイド認定も賠償もしない」という連邦政府の姿勢は変わっていない。
 ここでジェノサイドと言った言わないが大騒ぎになるには理由がある。1968年にドイツ連邦共和国が加盟した国連協定、また1974年のヨーロッパ協定でも「戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドには時効がない」とされているからである。ジェノサイドと認定してしまうと芋蔓式に様々な法的義務が生じ、追求を止められなくなる、つまり「この件は歴史的に既に決着しています」ということができなくなるのだ。
 地元ナミビアでは毎年八月の最後の週末に「ヘレロの日」というのを設け、Okahandjaオカハンジャという町で祭り(?)を行ない、ドイツ軍によるヘレロ虐待の模様を芝居で再現しているそうだ。ナミビアには現在でも2万人強のドイツ人がいて、ドイツ語言語島を形成しているが、ヘレロの日にドイツ軍を演じるのは彼らではなくヘレロである。まだ話し合いは続いていくだろう。

ヘレロの日。ドイツ軍はヘレロ人が再現している
http://www.zeit.de/politik/deutschland/2016-07/bundesregierung-herrero-massaker-voelkermord
namibia-hereroから

namibia-herero-voelkermord

イラストに描かれたヘレロ戦争
https://www.welt.de/geschichte/article156071025/Mit-diesem-Genozid-will-die-Tuerkei-kontern.html#cs-Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal.jpgから

Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal

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