少し前まではコーカサスやシベリア諸民族の言語をやるにはロシア語が不可欠だった。文献がロシア語で書いてあったからだ。今はもう論文なども英語になってきてしまっているのでロシア語が読めなくても大丈夫だろう。残念といえば残念である。別に英語が嫌いというわけではないのだが、何語であれ一言語ヘゲモニー状態には私は「便利だから」などと手放しでは喜べない。どうしても思考の幅が狭まるからだ。
 そのコーカサス地方の言語、タバサラン語についてちょっと面白い話を小耳にはさんだことがある。

 タバサラン語では「本」のことをkitabと言うそうだ。アラビア語起源なのが明らかではないか。よりによってこのkitab、あるいは子音連続K-T-Bは、私が馬鹿の一つ覚えで知っている唯一のアラビア語なのである。イスラム教とともにこの言語に借用されたのだろう。
 そこで気になったので、現在イスラム教の民族の言語で「本」を何というのかちょっと調べてみた。家に落ちていた辞書だろネットの(無料)オンライン辞書だろをめくら滅法引きまくっただけなので、ハズしているところがあるかも知れない。専門家の方がいたらご指摘いただけるとありがたい。その言語の文字で表記したほうがいいのかもしれないが、それだと不統一だし読めないものもあるのでローマ字表記にした。言語名のあとに所属語族、または語群を記した。何も記していない言語は所属語族や語群が不明のものである。

1.アラビア語 (セム語族): kitab
2.ペルシア語 (印欧語族): ktâb
3.ウルドゥ語 (印欧語族): kitab, kitaab-chaa (booklet)
4.パシュトー語 (印欧語族): kitaab
5.アルバニア語 (印欧語族): libër (a bookの意。the bookはlibri)
6.ボスニア語 (印欧語族): knijiga
7.トルコ語 (テュルク語): kitap
8.タタール語 (テュルク語): kitab
9.カザフ語 (テュルク語): kitap
10.インドネシア語 (マライ・ポリネシア語群): buku, kitab, pustaka
11.タバサラン語 (コーカサス語群): kitab

 このようにアラビア語の単語が実に幅広い語族・地域の言語に取り入れられていることがわかる。例外は5のアルバニア語と6のボスニア語。前者は明らかにロマンス語からの借用、後者はこの言語本来の、つまりスラブ語本来の語だ。ここの民族がイスラム化したのが新しいので、言語までは影響されなかったのではないだろうか。10のインドネシア語のbukuは英語からの借用だと思うが、kitabという言葉もちゃんと使われている。pustakaは下で述べるように明らかにサンスクリットからの借用。インドネシア語はイスラム教が普及する(ずっと)以前にサンスクリットの波をかぶったのでその名残り。つまりpustakaは「本」を表わす3語のうちで最も古い層だろう。それにしても単語が三つ巴構造になっているとは、なんというスリルのある言語だ。しかも調べてみるとインドネシア語にはkitabと別にAlkitabという語が存在する。これはAl-kitabと分析でき、Alはアラビア語の冠詞だからいわばThe-Bookという泥つきというかTheつきのままで借用したものだ。そのAlkitabとは「聖書」という意味である。

 さらにイスラム教徒が乗り出していった地域で話されていたアフリカのスワヒリ語は「イスラム教の民族の言語」とは言いきれないのだが、「本」という文化語をアラビア語から取り入れているのがわかる。ハウサ語の「本」は形がかけ離れているので最初関係ないのかと思ったが、教えてくれた人がいて、これも「ごく早い時期に」アラビア語から借用したものなのだそうだ。ハウサ語のfは英語やドイツ語のfとは違って、日本語の「ふ」と同じく両唇摩擦音だそうだから、アラビア語bがfになったのかもしれないが、それにしても形が違いすぎる。「ごく早い時期」がいつなのかちょっとわからないのだが、ひょっとしたらイスラム教以前にすでにアラビア語と接触でもしていたのか?

12.ハウサ語 (アフロ・アジア語群): littafiまたはlitaafii (「手紙」がharàfii)
13.スワヒリ語: kitabu (複数形 vitabu)

 次に、以下の言語は2、3、4と言語的に非常に近い(印欧語族、インド・イラン語派)にもかかわらず、アラビア語が借用されていない。宗教がヒンドゥ、または仏教だったからだろう。

14.ベンガル語: bôi (これは口語。正式には pustôk)
15.シンハラ語: pothakまたはpota
16.ヒンディー語: pustak
17.サンスクリット: pustaka

 タバサラン語のすぐ隣、つまりコーカサスで話されていてもキリスト教民族の言語だと「本」は別系統の単語になっている。

18.アルメニア語 (印欧語族): girk (kは帯気音)
19.グルジア語 (コーカサス語群): cigniまたはts’igni

 また次の言語は本家アラビア語と近いのに「本」をkitab と言わない。アムハラ・エチオピア民族はキリスト教国だったし、ヘブライ語はもちろんユダヤ教。

20.アムハラ語 (アフロ・アジア語群): mäTS’häf またはmeTsa’HeFe
21.ヘブライ語 (セム語族): sefer (語根はS-F-RまたはS-P-R)

 アムハラ語の単語はいったいどう読むのかよくわからないが、äは単に開口度が高いeと解釈すれば「メツヘフ」または「メツァヘフェ」か。「メ」の部分をアラビア語から類推して接頭辞と判断し、勝手に無視すると、この語もセム語族と同様「語幹は3つの子音からなる」という原則を保持している。つまりTs-H-Fなのだろうか。ハウサ語の例があるから断言はできないが、kitab起源ではなさそうだ。

 最後に出血サービスとしてインド南部の非印欧語・非セム語のタミル語。ここはヒンドゥー教あるいは仏教地域だ。サンスクリットからの借用語であることが明白。上のインドネシア語pustakaもこれ、イスラム以前の借用に違いない。

22.タミル語: puththakam (複数形 puththakangal)

 以上である。我ながら私は本当にヒマだと思う。


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