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 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法admirativeの存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によってserというコピュラとestarというコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合はser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合はestarを使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.                              (the + life + ser.3.sg. + hard)
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).  (the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.                (Michael + ser.3.sg + very + proud)
ミゲルは誇り高い人だ
Miguel está muy orgulloso de su éxito.
                                                       (Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success))
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.                      (this + trick + ser.3.sg + dirty)
このトリックは汚い
Ese coche está sucio.                 (this + car + estar.3.sg + dirty)
この車は汚い

El señor Garrote es moreno        (the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark)
ガローテ氏は目と髪が黒い
El señor Garrote está moreno.    (the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark)
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.                       (his + eyes + ser.3.pl. + red)
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)
Sus ojos están rojos.                    (his + eyes + estar.3.pl. + red)
彼の目は充血している。

Eres joven                 (ser.2.sg. + young)
あなたは若い。
Estás joven                (estar.2.sg. + young)
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合にはestarを使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo                   (ser.3.sg + new) 
新品だ。
está nuevo                (estar.3.sg + new)         
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語のhow is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su?(3.sg.)にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel?                 (how + ser.3.sg + Isabel?)
イサベルはどんな人だ?
¿Cómo está Isabel?              (how + estar.3.sg + Isabel?)
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.        ((she) + ser.3.sg + very + kind)
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente. ((she) + estar.3.sg + very + kind + lately)
最近とても親切だよ
あるいは
(Ella) está muy bien.                             ((she) + estar.3.sg + very + well)
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、このser かestarかの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまりA=BのBの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.              (boy + (is) + healthy-.m.sg.)
Мальчик здоровый.         (boy + (is) + healthy-.m.sg.)

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.                 (he + (is) + living-.m.sg. -> alive)
Он живой.            (he + (is) + living-.m.sg. -> lively)

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.       (Chinese + language + (is) + hard-m.sg.)
Китайский язык трудный.    (Chinese + language + (is) + hard-m.sg.)

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語のser 対estarと似ているが、Ljudmila Geistという言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.        (universe +  (is) + endless-.n.sg.)
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語のser 対estarと似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.          (Anna + was + teacher-.sg.)
Анна была учительницей.        (Anna + was + teacher-.sg.)
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.        (Irina + was + good-natured-.f.sg)
Ирина была доброй.        (Irina + was + good-natured-.f.sg)
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語のser対estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。だから * をつける。

*Он несколько лет был директор.        (he + several years + was + director-)
Он несколько лет был директором.    (he + several years + was + director-)
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.          (Pushkin + was + always +great- + poet-主)
Пушкин всегда был великим поэтом.     (Pushkin + was + always +great- + poet-造)
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.        (Anna +  was + daughter-+ doctor’s)
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:бытьというのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。бытьには実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取るбыть-1は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとるбыть-2は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だがTPというのはTense Phraseのことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形のтруден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語ではПространство бесконечноという言い回しが許されるがスペイン語でuniverso está infinitoとかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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