アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Februar 2020

 日本人が自分の発音の(悪い)くせと自覚しているのは第一に l と r の区別、第二に子音の後につい母音が入ってしまうということだろう。大多数の日本人にとって第一外国語は英語だから「日本人の英語の発音のくせ」と言った方がいいかもしれない。しかしこの二つは自覚しているだけに対処の方も比較的しっかりしているから、今時は l と r の発音の区別が出来ず、いちいちウザい母音を入れる伝統的日本人の発音をする人など圧倒的少数派だろう。私の場合はドイツ語だが今までに発音を直されたことは一度もない。いや一度だけ「注意された」ことはある。『33.サインはV』でも書いたが、測音 l を発音するとき、舌を上顎につける力が弱すぎるため、接近音の w または母音の u に聞こえることがある、als が aus に聞こえる、と言われたのだ。意表を突かれてむしろ感動した。またどこかで読んだことがあるが、スペイン語やフランス語を習っている日本人の一番の欠点は u の円唇性が弱すぎて母音が聞こえないことだそうだ。天災は忘れた頃にやってくるというか忘れた所にやってくるというか、発音のくせは油断していると現れてくるのである。

 最近もこんなことがあった。Sonne(「太陽」、ドイツ語でゾネ)といったら複数の人にZone(「ゾーン」、ドイツ語でツォーネ)と聞き違えられたのだ。しかもその単語を何回もゆっくり発音したのにほとんど最後まで(最後の最後には通じた)Zone と取られ続けた。これには驚いた。不安になって後で他の人たちに言ってみたら全く問題なく通じたのでこれはいわば突発的な事故だったと思われる。だがあらゆる事故には原因があるわけだから考えざるを得ない。どうもいくつかの要因がかち合ってしまったようだ。
 考えられる要因の一つは母音である。まず当該語が日本語の「日」という意味を説明するための発話だったのでことさらにゆっくりと発音したため当然母音が間延びした一方、その度合いに比べて子音 n の伸び方が少なくて、子音の長さと比較された結果母音が長母音と受け取られてしまったこと。もう一つ、開口度の問題がある。英語もそうだが、ドイツ語は長母音と短母音では音の長さだけでなく母音の音質そのものが違い、短母音は開口度の大きい [ɔ] 、長母音は狭い [o:] である。これは「オ」だけでなく「エ」や「イ」についてもそうで、エとエーがそれぞれ [ɛ] と [e:]、イとイーが [ɪ] と[i:] で母音の性質が違う。だから多少長さが短くても [o] と開口度が狭ければ長母音、またつい長く発音しても [ɔ:] とやれば短母音と取られうる(残念ながらまだ実際に実験してみたことはないが)。現代日本語は基本オ、イ、エが一つしかないので、口の広い狭いの区別がいいかげんになりがちである(なりがちというより常にいいかげん)。そのいいかげんさをつい持ち込んでしまったため開口度が足りなかったのかもしれない。しかしさらに思いめぐらすと、狭い広いというそれぞれの開口度の母音でさらに長さを区別する、つまり例えば [o]、[o:]、[ɔ]、[ɔ:] が全部弁別差を持つ言語、言い換えると母音の長短で音価の変わることがない言語は少ないのではないだろうか。音声学的に細かくみると異論もあるが、日本語は基本的に短母音オンリーで「大坂」「佐藤さん」の「おお」や「おう」は長い o ではなくて二つの o である。ちょっと調べてみたら英語には [e] と [e:]、[æ] と [æ:] の区別はあるらしいが、他の母音は皆長短で音価そのものが変わる。また[ɔ] と [o](ㅓとㅗ)、[ɛ] と [e](ㅐとㅔ)のように開口度によって二つのオとエを区別する韓国語あるいは朝鮮語には母音の長短による弁別差がない。以前は最初のシラブルに限って長短の差があったそうで年配層ではまだ区別しているらしいが、若い層では短母音ばかりになってしまったとのことである。そういえば조용필(趙 容弼)という名前を普通チョー・ヨンピルと「ー」をつけて記すのはこれは本来長母音であったためでもあるのだろうか。しかしその年配層でも短母音と長母音では音価が違うことが多いそうだ。やはり広母音と狭母音のそれぞれでさらに長短を弁別するのは人間の人体構造的に、というか脳の認知メカニズム的に言って苦労が多いのかもしれない。もちろんこれはあくまで私の個人的妄想なのでトンチンカンだったら申し訳ない。
 まあ一旦妄想を始めたついでにさらに妄想を展開すると、面白いことにドイツ語は基本長子音Geminationと単なる一子音を発音し分けない。正書法ではGeminationを同一子音を二つ重ねて書くが、基本的に子音そのものはダブル化しないで先行する母音のほうを短母音として発音する。つまり長子音表記は当該子音を長くしろという意味ではなく、先行母音は短いというシグナル。辞書などの発音表記もそうなっている。Sonne (太陽)は [zɔnə]、betten (寝かせる)は [ˈbɛtn̩]、Russe(ロシア人)は [ʁʊsə]、 Sohn (息子、h は黙字) は [zoːn]、beten (祈る)は [ˈbeːtn̩]、Ruß(すす)は [ʁuːs] 。例外はその子音が二つの形態素にまたがる場合でそういう時は子音が「同じ子音の連続」、長子音となる。Schifffahrt (航海)は Schiff + Fahrt  (船+走行)で子音が二重になり[ˈʃɪfˌfaːɐ̯t]。 それに対してSonne の長子音は一つの形態素内だから「ゾンネ」と子音をダブらす必要はなく「ゾネ」でいいはずだ。しかしゆっくり発音で母音を伸ばすとそれと比例して子音の方も伸ばさなければならないらしい、ということで表面の発音にも辞書のIPA表記にも表れないが、母語者は深い部分でこの n をGeminationと無意識に意識(どうも矛盾した言い方だが)しているのかもしれない。さらに邪推するとドイツ語母語者は短母音を聞くともうその時点で後続の子音がGeminationだな、とスタンバイするのかもしれない。そのスタンバイ状態のところに入ってきた子音の長さが足りないとうっちゃりを食らった感がして今度は今聞いたばかりの母音に目が行き、長母音解釈に走る。言い換えると母音だけ聞いた時点ではまだ短母音なのか長母音なのかわからない。しかしいちいちそんなことをやって行きつ戻りつしていたのでは不便で仕方がないから、長母音と短母音では音価が違うようになったとか。まあそこまで妄想するのは自分でもやりすぎだとは思うが。
 
 さて誤解を生んだもう一つの点は語頭の子音である。これもその発音がゆっくり力を入れたものだったので有声摩擦音の[ z ]を言う際舌が歯茎に触れて破摩音の[dz] になってしまっていたのだろう。私の母語日本語東京方言では有声歯茎摩擦音と歯茎破摩音 [z] と [dz] 、[ʒ] と [dʒ] の間に音韻対立がない。[ z ]と発音しようが [dz] と発音しようが「さじずぜぞ」(「じ」は硬口蓋寄りの [ʒ] または [dʒ] )である。当然「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は同じ音になる。その勢いでSonne [zɔnə] が [dzɔnə] になってしまっていたに違いない。ただし摩擦と破擦の違いに鈍感なのは有声子音の場合のみ、つまり [z] 対 [dz] だけで、対応する無声子音では摩擦と破擦は明確に意識し、混同することはない。だから [s] と [ts] は絶対に間違わないのだ。だから「すいか」と「ついか」は聞き違えたりしない。「なす」と「なつ」も聞き違えない(もっともこの二つはアクセントが違うのでそもそも聞き違えないが)。実はこの「す」と「つ」の区別が語頭以外であいまいになる人がドイツ人には結構いる。書き取りをさせると「いつか」を「いすか」「マインツ」を「マインス」と書いたりする。最初どうして「す」と「つ」などという全く違う音を混同できるのか不思議で仕方がなかったのだが、考えてみるとドイツ語では実際に語尾の [s] が [ts]になってしまうことがあり、eins und zwei (1と2)は [aɪ̯ns ʊnt tsvaɪ̯] でなく[aɪ̯nts ʊnt tsvaɪ̯] と発音されることがある。同様にmeins(私のもの)とMainz (マインツ)、Gans (鵞鳥)とganz(全体の)(ドイツ語で z は [ts])がほとんど同じ発音になってしまったりする(『148.同化と異化』参照)。ただしこれは語尾だけで、語頭でこの二つが混同しているのは見たことがないが。それに比べて有声音では摩擦と破擦が語頭でもあいまいで日本語といい勝負であり、基本的にはSand やSonneの語頭が単に少しくらい(?)[dz] になっただけなら聞き違えられることもないはずだ。
 だから[dz] が [z] と受け取ってもらえずに [ts]と聞き違えられるにはもう一つ条件がいる。ドイツ語では歯茎から硬口蓋にかけての摩擦音に有声・無声の音韻的区別がないというのがそれではないだろうか。何回か前にも書いたが(『47.下ネタ注意』参照)、私にはいや日本人にはこれが不思議で仕方がない。どうやったら「すもう」と「ずもう」が同じに聞こえるのか。語頭や母音間で無声の [s] が全く発音できない人に会ったことさえある。どうやっても、どんなに練習しても最後まで「スイス人」や「いすず」が言えず「ズイス人」「いずず」になってしまうのだ。繰り返すが本当に発音ができないのである(なぜか「スイス」の2番目の「ス」はちゃんと「ス」になることもあった)。[ʃ] や [ʒ] の区別もあいまいで、ロシア語の名前Надежда (ナジェージダ)を Nadeschda (ナデーシダ)、Солженицын(ソルジェニーツイン)を Solschenizyn(ソルシェニーツイン)と綴る。その上後者は頻繁にシェニーツインと発音される。この無声・有声の混同が時として摩擦音を超えて破擦音にまで持ち越されることがあり、ソ連時代の略語(今もまだあるが)の ЦУМ (Центральный универсальный магазин)「ツム」を「ヅム」「ヅム」と言っていた人がいた。一方でドイツ語のzum の方はしっかり無声だった。ドイツ語には歯茎破擦音には無声しかなく、[ts] 対 [dz] のミニマル・ペアがないからであろう。[s] と違って語頭や母音の前で [z] という拘束的アロフォンkombinatorische Allophone(『136.アメーバと音素の違い』参照)が現れたりせず基本無声オンリーだから有声でやられると「あれっ」と音の違いには気づきやすいらしいが、気付いても弁別差がないのだから上の人のように(歯茎摩擦音からの類推からか)語頭をつい有声でやってしまっても意味が取り違えられる危険性はない。また逆方向に [dz] を聞いて [ts] を知る、もとい [ts] と理解することも起きる。これが私なりに考えた本来の [z] が [dz] になり [ts] と聞き違えられた原因解釈である。実証はできていない。さらに考えるとsank (沈んだ、単数形)の語頭子音を標準ドイツ語のように [zaŋk] と有声子音にせず、 [saŋk] と発音したら sank と取ってもらえるかそれとも Zank(小競り合い)と認知されるか、後者の可能性もあるとしたらsank 認知と Zank認知の頻度の割合などはどうなっているのかも調べてみたい気になる。気にはなるが面倒くさそうなので自分で調べてはいない。

 しかし、これら弁別機能のない音でも出す方は実はまだマシなのだ。発音という意識的でアクティブな行為ではいろいろ気を使うからやればできる。上述のような最後までできない人というのはむしろまれだ。気が緩むとすぐ元に戻ったりするが直せばまたちゃんと出るようになる。日本人の l と r の区別にしても発音し分けること自体は簡単だし円唇母音 u も一度口を丸めろと言われればそれからはどうしても発音できないということは(ほとんど)ない。問題は日本語の音素体系が発信する場合だけでなく(だったら苦労はない)、認知の側にも影響してくることだ。違いが聞き取れないのである(『93.バイコヌールへアヒルの飛翔』参照)。同じ音に聞こえてしまうのだ。日本人だと [paʁaˈleːl] といわれてスッとparallel という綴りが出てこない。その場でちゃんとそう書き取りできてもしばらくしてまたその語を書く段になると「えーっと、これは palarrel だったか pararrel だったかそれとも pallallel だったか」とつい考えてしまう。私もいつだったかTVで Meirelles という名前を聞いて後でググろうとしたら(いや「ダクろう」としたら、『112.あの人は今』参照)、Meilerres だったか Meirerres だったか Meilellesだったか記憶が怪しくなっており間違った綴りでメクラメッポウ検索してしまったのだが、なぜかちゃんと修正されて正しい名前が現れたので驚いた。つまり一旦聞き分けはできた語でも(できないこともある)、別の音素として脳に定着しないことがあるのだ。もう一つ、私は子音のみの発音と子音+ u が記憶の中でごっちゃになることがある。私の母語日本語東京方言では、狭母音(「う」と「い」)が無声子音間と語尾で消失する。東京方言話者の中でもなぜか私はこの母音の無声化現象が特にはっきりしている方で、発音するとき音が消えるばかりでなくそれらの区別そのものが脳内で時々怪しくなるのか、発音するときはまだしも、例えばロシア語の суммарный (「合計の」)や предупреждение (「警告」)を調べようとしてそれぞれ сммарный、 предпреждение で辞書を引いてしまったことがある。当然見つからなくて「なんでこんな基本っぽい単語が出てないんだ」といぶかってもう一度確かめてみたら、у(u)が記憶から抜けていたことがわかった。もっともこの現象は母語が東京方言のせいだけとはどうも思えないフシがある。なぜならこれらのロシア語の u は無声子音間でも語尾でもない、私でも本来母音を入れて発音するような音声環境にあるからだ。これはそもそも日本語そのもののせいではないだろうか。日本語では、外国語の子音は歯茎破裂音、t と d を覗いては u を添加して写し取るからである。この子音オンリーと子音+u との混同の割合が東京方言話者と大阪方言話者で違うのかどうか調べてみるのも面白いかもしれない。どちらにせよ母語に呪われているとしか思えない。
 でもそういえばもう日本語がペラペラで何をいまさらと思うような韓国人の日本語学習者が「いまだに「外国」の語頭音は有声、「開国」は無声、といちいち考える」と言っていたのを聞いて感銘を受けたことがある。同じ思いを「雑記」と「殺気」を聞き分けたり発音したりする際ドイツ人が抱いているはずだ。私だけではない、人は皆母語の音韻体系に呪われているのである。

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 日本語では名詞の格を印欧諸語のような語形変化でなく助詞を後置して表す。この「助詞」という言葉だが、こちらでは普通「不変化詞」Partikelと呼んでいる。何度か「後置詞」Postpositionと呼んでいるのも見た。その種々の不変化詞の中で文法格を表すものを学校文法では格助詞というが、私はこれを格マーカーと言っている。
 日本語にはいくつ格があるのかとこちらでは頻繁に聞かれるが、正直返事に困る。はっきりした語形変化のパラダイムがなく格そのものの観念がユルいし、一つの助詞、例えば「に」など(『140.格融合』参照)、複数の格を担っているものがあったりするので、見る人によって格の数が違ってくるからだ。それでも「人によって違います」では答えにならないので私個人はドイツ人には一応日本語には次のような13の格があると説明している。
Tabelle152
「山田さんは鈴木さんより頭がいい」という場合の「より」は果たして「格」といっていいのがどうかやや不安な気もする。これは後述するように、名詞句で使うことができない上限定格の添加も許さない。だから括弧に入れておいた。
 最初にも述べたようにこれらの不変化詞は日本語でも助詞と呼ばれているのだから、日本語側でもこれらが当該名詞のセンテンス内でのシンタクス上の位置を表す機能を持っている(つまり格を表す)と把握されているわけで、私の説明の仕方もそれほどムチャクチャではなかろう。しかしこれらの助詞をじいっとみてみると、当該名詞の格を表すという基本的は働きそのものはいっしょだが、助詞自身のシンタクス上の現れ方によって大きく3つのグループに分類できることがわかる。「が、を、に」と「へ、から、で、と、まで」と「の」の3グループだ。(「より」は観察から除外)。
 まず第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」はセンテンスの直接構成要素の名詞にしか付加できない、言い換えると当該名詞は動詞の直接の支配下でないといけない。ドイツ語や英語の前置詞と大きく違う点である。ドイツ語のin、an、 bei、nach、mit、英語の from、withなどの前置詞は動詞句VP内でも名詞句NP内でも使うことができる。

VP内
Meine Bekannte wohnt in Heidelberg.
my + acquaintance + is living + in + Heidelberg 
NP 内
meine Bekannte in Heidelberg
my + acquaintance + in Heidelberg

VP内
Er arbeitet bei Nintendo.                        
he + is working + at + Nintendo
NP 内
Angestellter bei Nintendo           
an employee + at + Nintendo
NP 内
die Arbeit bei Nintendo                    
the + work + at + Nintendo

VP内
Sie fährt nach Moskau.
she + is going to drive + to + Moscow
NP 内
der Weg nach Moskau
the + way + to + Moscow

VP内:My Friend came from Germany.
NP内:my friend from Germany               

VP内:I discussed the problem with Mr. Yamada.   
NP内:a discussion with Mr. Yamada                 

対応する日本語の構造では格助詞が名詞句NP内では使えない。動詞句VP内のみである。

VP内:私の知り合いはハイデルベルク住んでいる。
NP 内:*ハイデルベルク知り合い          

VP内:彼は任天堂働いている。
NP内:*任天堂社員
NP 内:*任天堂仕事

VP内:彼女はモスクワ行く。
NP 内:*モスクワ

VP内:私の友達はドイツから来た。
NP内:*ドイツから友だち

VP内:山田さんその問題について議論した。
NP内:*山田さん議論

*のついている構造はOKじゃないかと思う人がいるかもしれないが、それは当該構造を名詞句ではなくて省略文として解釈しているからである。そのことはちょっとつつくと見えてくる。例えば

任天堂で仕事は楽しかった。
任天堂で仕事はプログラミングだった。

を比べてみると、最初の文では

任天堂で仕事(をするの)は楽しかった。

と動詞が省略されているのがわかる。つまり「任天堂で」は名詞の「仕事」ではなく省略された動詞の「する」にかかっているから名詞句内ではないのだ。2番目の文もそう。「任天堂で」は「仕事」でなく「プログラミングだった」という述部にかかると解釈しない限り非文である。さらに

ドイツから友だちは先週のことでした。

という文は私の感覚ではおおまけにまけてギリチョンでOKだが(これを許容しない人も多かろう)、それは「ドイツから友だちが来たのは先週のことでした」という省略文解釈がギリチョンでできるからで、

*ドイツから友だちはシュミットさんといいます。

はオマケのしようがない非文である。さらに以下のセンテンスもオマケがしにくい。

モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

前者はそれでもまだマシで上記の任天堂同様「モスクワへ」は「道が遠い」という述部全体にかかっているという解釈が成り立つが、後者はその解釈が成り立たないので非文度がアップする。
 このように日本語では「が、に、を」と「へ、から、で、と、まで」といった格マーカーは名詞句内では使えない。それではどうするのかというと第三のグループ(「グループ」と言ってもメンバーは一人しかいないが)の限定格マーカー「の」を付加するのだ。そうするとあら不思議(でもなんでもないが)上では非文だった構造が許容できるようになる。

任天堂で仕事はプログラミングだった。
ドイツから友だちはシュミットさんといいます。
モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

だから助詞の「の」は単に属格というより連体格とか限定格とかいうべきだと思う。この「の」は常に名詞句NP内にしか現れず、センテンス、あるいは動詞句VP、またはCPとかという節で使うことができないし、他の格マーカーとの共存できる。使われるセンテンス内の位置が他のマーカーとはっきり異なっているのだ。その際私の感覚では

任天堂での社員

という名詞句は「の」がついているのに許容できないが、実はこれが最初の私が「に」と「で」を一括りに処格としないでそれぞれExistentiell-Lokativ(存在処格)とAktional-Lokativ(動作処格)とに分けた理由である。「に」は「アメリカにいる」とか「アメリカに住む」とかいうように、場所そのものが主体で、動詞は「いる」とか「ある」とか「住む」とか意味の薄いものである。「で」は「アメリカで働く」とか「図書館で本を読む」とか動詞がはっきりした「活動」を表し、処格が意味的にも完全に動詞の支配下にある場合に使われる。畢竟「AでのB」という構造ではBが何らかの活動を表す名詞でないとおかしい。「社員」は活動でなく人であるからいくら「の」をつけてシンタクス的にはNP構造にしても「で」の意味と被修飾語の「社員」が不適合だからはじかれるのである。他方「任天堂での仕事」は、「仕事」が活動を表すからOKとなる。

 さてNP内では使えないというのは第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」に共通の性質だが、第二グループが「の」と共存できるのに第一グループの不変化詞は当該名詞句内でダブル非変化詞を許さないという大きな違いがある。「の」が付くと自身は削除されるのだ。

*アメリカの旅行は楽しかった。
アメリカの旅行は楽しかった。

*田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。
田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。

*映画の鑑賞は私の趣味だ。
映画の鑑賞は私の趣味だ。

*高橋さんの批判は辛らつだった。
高橋さんの批判は辛らつだった。

このうち「に」については与格、方向格は「へ」、奪格は「から」でそれぞれ代用できる。「へ」も「から」も「の」と両立するから名詞句内での両名詞のシンタクス関係または意味関係を表すことができる。

アメリカへの旅行は楽しかった。
田中さんへのお土産は日本で買ったパソコンだ。
モハメド・アリからのパンチは強烈だった。
(「モハメド・アリにパンチを食らった」と比較)

しかし存在処格、主格、対格の区別は表現しわけられない。「映画の鑑賞」ならまあ「映画」が対格だなとわかるが「高橋さんの批判」となると高橋さんが批判したのかそれともされたのか、つまり主格なのか対格なのかはどうやっても表すことができない。意味に頼るしかないのだ。
 この、二つの名詞からなる名詞句で修飾するほうがされるほうの主格なのか対格なのかというのはドイツ語でもよくわからないことがある。それについて個人的な思い出があるのだが、『85.怖い先生』で述べたドストエフスキーの『悪霊』のゼミの期末レポートで私は Mord Šatovs (「シャートフの殺人」)と書いた。小説ではシャートフという人が殺されるのである。そしたら教授が私のレポートについて批評してくれた際、これではシャートフが人を殺したことになってしまうから Mord an Šatov(「シャートフへの殺人」)か Ermordung Šatovs(「シャートフの殺害」)と書かないといけないと教えてくれた。提出前にネイティブチェックを通してはいたが、そのネイティブは『悪霊』を読んでいなかったので誰が被害者なのか知らず、これにOKを出していたのであった。
 逆に、日本語では単純に「AのB」という構造になっているのでそれ以上深くAとBとの意味関係について考えずにいたところ外国語に訳された形を見て初めて両者の格構造に思いが行く、ということもあった。安倍公房の小説『砂の女』のタイトルがロシア語で Женщина в песках となっていたのである。直訳すると the/a woman in sands、英語タイトルでは the woman in the dunes で、存在処格の「に」が削除された名詞句である。

 まあどこの言語でも名詞句内の名詞の関係(『150.二つの名詞』も参照)には苦労するようだが、とにかく私はこうやって日本語の格マーカーを3つのグループに分けて説明している。

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