アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

September 2019

「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事は2018年10月23日(ちょっと古いです)の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものですが、当ブログの記事『113.ドイツ帝国の犯罪』で名前を出したJürgen Zimmerer教授の投稿です。ネットのでなく新聞の記事のほうをもとにしましたので、レイアウトなどちょっと違っているところがあります。原文のタイトルは「やたらと煙がたっているわりには火が出ない」というものでした。

ドイツ連邦政府は本気で植民地支配の歴史を見直そうとする気があるのか疑わざるを得ない。

ユルゲン・ツィメラー

 自国の植民地政策の処理の見直し問題でドイツは今ターニングポイントに立っている。政府は何年も前から当時の南西アフリカで行ったジェノサイドの扱いについてナミビアと交渉してきた。夏には連邦政府の文化・メディア部門を担当しているモニカ・グリュッタースがドイツ博物館連盟に向けて、植民地時代に収集した物件をどうすべきかについての手引き第一稿を提出。連邦政府の連立契約にも今回初めて東ドイツや第三帝国時代の処理とともにこの植民地支配政策の見直しの件が取り込まれている。
 しかし本当に今後本気で処理していく気があるのだろうか?批判的な声はすでに前々から出ていて警告を発していたのだが声が大きい割にはあまり目に見える変化が見られない、煙はもうもうと立っているのだが火がでていないのである。例えば植民地から運んできた物件の出所の調査を促進せよという政治イニシアチブだが、これに対しても言い分がある:この調査をする機関が基本的には博物館内部に設置されていることだ。博物館自身でその所有物件の調査をしていいということで、中立な監視もないし、外部の協力もなく、あくまで内部のヒエラルキー構造の内側でやるということ。それでは外側に漏らす情報のコントロールはできるだろうが、失われた信ぴょう性は回復できない。「世界遺産」とか「共有遺産」などという観念を持ち出すと本来の問題がさらにかすんでしまう。なぜこの遺産がほぼ全部北半球にあって、南で称賛してやることができないのかという問題が。
 フンボルト・フォーラムも、ただ単に喪失している植民地支配の記憶を戻そうとするのさえ拒否して騒動が危険なレベルになったが、ここでもやはり国内外の批判者とは議論するのを避けている。議論をする相手は自分で選んだ方がよろしいというわけ。そうこうするうちに新しいディレクターのハルトムート・ドルガーローがきちんと起動するエスタレーターの設置計画の方を(ポスト)植民時代の遺産についての議論より重要視しだした。わかることはわかる。何事もマネージャーが必要だし、極めて時間に迫られてもいるわけだから。それでも言わせてもらうが、未来のことを考えるなら他のやりかたを取るべきだ。
 かてて加えて20世紀最初のジェノサイドを認定する件も結局全然進捗していない。連邦議会の承認もないし、首相や連邦大統領の謝罪もない。
 首相も外相もこの問題についてはすべて口を閉ざしており、文化政策担当の政治家に丸投げする気らしい。植民支配の見直そう、植民支配の思想から脱しようという意思が政治権力の中枢まで届いているのか否か?連邦政府が個人的に委託したアフリカ問題顧問、以前に東独で人権問題に携わっていたCDUの政治家ギュンター・ノーケが行ったインタビューを見ると強い疑問がわいてくる。
 ベルリン新聞に対し、氏は植民支配は「現在にも影響を及ぼしている」ことを認め、「北アメリカの奴隷交易は悪い事だった」と言ってはいる。一方「植民支配は大陸全体を先史時代的な構造から解放した」とのことだ。そもそも「冷戦の方が…植民支配よりよほどアフリカの害になった」と。
 氏の政治使命がどういう分野なのかを考えただけで、この発言、いやそもそもこのインタビュー全体がすでにスキャンダルである。これが首相のアフリカ担当者の発言だろうか!氏がこの調子なのに他の誰に歴史を知れというのか。ホロコーストについての基本的知識さえ持たない、いやそれどころか史実を意識的に捻じ曲げるイスラエル担当官というのが想像できるだろうか。強制連行、自由の剥奪、何百万人もの人々の死、これらに対して「悪い」などという完全に不適切な言葉を使う。それくらいはまあ目をつぶってやろうとする人がいるかもしれない。だが氏は人が連れ去られたのは北アメリカにとどまらず、それ以上の人が南アメリカで奴隷にさせられた事実は全くご存じないらしい。いやもうこのインタビューには植民支配のイメージがしっかり織り込まれている。氏にいわせれば「アフリカは違っている」。ありふれた言い回しだが、本音が透けて見える。そこにはアフリカは近代的ではない、ひょっとしたらいまだに先史時代だとの認識がしみ込んでいるからだ。そしてその実例として出生率の高さに言及し、ニジェールをその極端な例とし、しかもそこでもう使いものにならない古い数値を持ち出す。氏がこういうことをするなら、少なくとも軽率だとは言わせてもらう。
 ノーケはまたヨーロッパは文明を伝播したという例のメルヘンを蒸し返し、植民支配のプロパガンダを行う。氏にすれば植民支配をもっとポジティブなイメージにしなければということなのだろうが、それどころか自身の政治見解が植民支配の続きそのものだ。その調子でノーベル経済学賞ポール・ローマーの思想を拠り所にして、地中海で難民が死んでいくのを食い止めるためにはアフリカに治外法権の飛び地を作れと言い出す:もちろんアフリカ人の福利のためというわけである。植民支配する側の利益を植民支配をされる側の福利だと主張する、これこそまさに「文明の伝道者」の中心要素だった。今もそうだ。
 しかしノーケの考えは植民時代の記憶をなくすのがいかに危険かも示している。私たちはこの手の飛び地が政治的に極めて危険なことを知っているが、それは植民の歴史を見てきたからではないか。治外法権の飛び地を作るのは単に植民地としてそこを占領するための典型手段というばかりではない、それをすると事が自動的に進行しだすのだ。例えばそういう飛び地の一つで騒動が起こったり、外から脅威が迫ったらどうなるだろう?それぞれの飛び地を管理している機構が中の住民を守るために介入しないといけなくなる。そしてその際犠牲者が出ればそのままにしておくことはできず、面目を保持するために増援を送らなければならない。インドなどもそうだったが、そうやって植民帝国全体が植民地化されていったのだ。そしてドイツの植民地帝国自身もそうやって成立したのだ。このことをノーケは知っていなければならない。何といっても交渉しているのは連邦政府、そして氏はその代表のアフリカ担当官なのだ。
 このノーケの件で問われているのはノーケ自身だけでなく、連邦政府全体の信用問題だ。ノーケの扱いの如何によって、政府の連立契約が植民支配の見直しにどれだけの価値があるのか見えてくる。また、モラルの点でそれなりの理由があったなどという言い訳は全部置いておいて、とにかく植民地支配の歴史についてきちんと啓蒙するのが不可欠ということもはっきりしてくるだろう:植民支配を記憶から消してしまおうというのは間違った政治選択である。
 そろそろ本気で植民支配時代の見直しを始めるべきだ。博物館や収集品云々に話を限ってはいけない。オープンでないといけない、そして市民社会全体が自由に参加でき、当時の植民地出身の市民や同僚たちとも議論するようにしないといけない。最近設立された文化会議が、連邦、州、共同体からなる研究グループを作って植民地からの物件の処理を検討していくと発表した。仕事の範囲を広げて植民支配の記憶が残っている地域はすべて網羅し、植民支配について学習、研究する場所をつくるのが目標とのことだ。

元の記事のネット版はこちら
この問題についてのパネルディスカッションはこちら。司会を務めているのがツィメラー教授です。


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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。

「目」
                   Yasin          Hunza              Nager  
単数            -l-ći             -l-ćin                -l-ćin
複数           -l-ćim-u        -l-ćum-u-c        -l-ćim-u-c

「肝臓」
                   Yasin          Hunza           Nager  
単数            -ken            -kin               -kin
複数            -ken-iŋ        -kim-iŋ          -kin-iŋ

「人間・男」
                    Yasin          Hunza        Nager  
単数             hir               hir               hir
複数             hur-í            hir-í            hir-íkanc


「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出したが、特筆すべきは Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。

hm        hf           x          y
khené   khomó   gusé     guté

フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。

単数
 h           x                                       y
 khiné    gusé, khosé(ナゲル)    guté, khoté(ナゲル)
複数
 h          x                                       y
 khué    guċé, khoċé(ナゲル)    guké, khoké(ナゲル)

 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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