アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

August 2019

 日本人は英語が下手だ、とはすでに大昔からさんざん言われ続け、それを改良しようという様々な試みも空しく今日に至るも耳にする。日本人の英語(ドイツ語やフランス語もだが)が国民レベルでほとんど上達していないからだが、その原因はわかっている。
 第一に日本で生活するためには外国語が必要ないからである。一般教養も全部日本語で身に着けることができる。大学だろでは時々論文やレポートを外国語(主に英語)で書いたりすることもあるが、講義の言語は日本語である。第二に英語は母語である日本語と構造的にも、話者の文化的な面でも全くかけ離れているからである。第三に教授法が非効率だからである。本人も英語をロクにしゃべれない教師がいる。そもそもアメリカや英国など英語圏で全く生活したことのない教師が日本国内で日本人から教わった暗号のような英語を教えているのだから(もちろん英語教師が全員そんなのではないが)、教わるほうだって上達するわけがない。たとえ生徒本人にやる気があっても上達しにくい授業内容な上に、「義務」としてやる気のない生徒にまで教え込もうをするからザルで水をくむようなもので、費やされるエネルギーに対して効果のほうが限りなくゼロに近くなるのはある意味では当然である。
 その、自分たちは国際的に比較して外国語ができない部類だ、という事実に対する日本人の反応は大きく分けて二つである。一つは第一の理由を持ち出してきて居直る、さらに居直りを通り越して「日本の社会が素晴らしい証拠」として外国語ができないのを自慢しだす人たち。「ここは日本ダー。外国語なんてできなくてもいいんダー」というわけである。こういう人たちは「外国語を使わなくていい」と「外国語ができなくていい」の区別がついていない。たとえ生活そのものはすべて日本語でまかなえるにしても、外国語ができて損になることはない。例えば渡辺照宏氏は外国語を学ぶ理由として次のように述べている。

しかしそれ(人食いアヒルの子注:外国人と会話ができるということ)以上に大切なことは、あなたの教養全体の水準が外国語の学習によっていちじるしく高められることなのです。… ただ実用的立場から教えているのではありません。あまり意識的な努力なしに習得した自国語の他に、少なくともひとつの外国語を学ばせるというのには、人間的教養を高めるという大事な目的があるのです。外国語を知らなくても立派な人はいくらもいますし、また出世も金もうけもできるには違いありません。しかし、もしあなたが人間としての完成を目ざしているならば、少なくともひとつの外国語を習得することによって、実利の他に、人生を楽しくかつ愉快にする手段を手に入れることは確実です。

言葉を使わずには(一人きりでいる時でも)一日も人間らしい生活ができないからです。この意味で、外国語の習得は自己の人間的成長ないしは発展にも大いに役立つ、ということができるでしょう。

これは正論ではないだろうか。要するに「外国語ができないのは日本の社会が素晴らしい証拠」というのは見苦しい負け惜しみであろう。

 「日本人は外国語ができない」ということに対しての第二の反応は第一の反応と真逆で「これだから日本はダメなんだ」というもの。時として自分自身は語学ができる人ができない日本人に対してこういうセリフを吐くことがある。「オレは他の日本人とは違うんだ、はっはっは」というのが本音であろう。こういう、たかが外国語の一つや二つしゃべれるのをすぐ鼻にかけだす人が多いのもつまり日本人全体の外国語レベルの低さの裏返しである。しかし逆に誰かがちょっと外国語を話したり書いたり、「〇語ができる」と(事実を)言うとすぐ威張っているの自慢しやがってのと僻み交じりの攻撃をしだす人はもっと困りもの。双方に共通することは「外国語が話せるのは大したこと」という意識である。しかし外国語を話せることなんて自慢にも何もならない社会や国が世界にはゴマンとあるのだ。そのゴマンの中に欧州社会があると思うが、「これだから日本はダメ」発言を展開する人には、「良い例」として欧州を引っ張り出してくる人が多い。「ヨーロッパではまともな教養のある人は3か国語くらいペラペラなのに、日本人は教養人ヅラしていても英語もロクにしゃべれない人がいる」というわけである。確かにこれは真実なのだがこういうことを安易に言い出す人は上で述べた二つ目の理由を無視している点で鵜呑みにするわけにはいかない。
 日本人が言語構造も背景文化も全く違う英語を勉強するのと、ドイツ人が言語構造にほとんど方言差くらいの違いしかなく、文化の背景も同じ英語を勉強する場合と比べて「日本人は外国語ができない」と言ってみても仕方がないからだ。ライオンと柴犬を比べるようなものでそもそも比較になっていない。比べるなら日本人の英語とイギリス人の日本語、あるいは日本人のドイツ語とドイツ人の日本語と全体的にどちらが悲惨かを比べるべきだろう。少なくともドッコイドッコイ、多分それぞれ後者のほうが悲惨度が高いと私は思っている。日本人のほうがやや有利な条件下にあるからだ。
 まずドイツ語・英語は文字の数が笑っちゃう少なさの26文字。補助記号やウムラウト文字を入れてもせいぜい30である。日本語は表音文字だけで100、補助記号、つまり拗音や濁音表記なども入れればさらに多くなる上に何千もの漢字がある。私たちは子供の頃から読みなれ、書きなれているからいいがこれをクリアするだけで相当のエネルギーがいる。新聞記事あたりがまともに読めるようになるには何年もかかるに違いない(というよりなるのか?)。私たちがヒエログリフを見て呆然とする、あの感覚だ。
 次にこれは第一の点とも被ってくるが、孤立した言語である人たちは「外国語とは母語とは全く違うもの。文字から何から全部ワケわかんない想像を絶する世界」という感覚が身についている。文法などが「何だよそりゃ?」と思うものであっても「まあ外国語なんだから何が出てきてもおかしくないか。わかんないけど」と一応黙って消化する。例えば英作文で前置詞をうっかり後置してしまうような人を私は中学のクラスメートにさえ見たことがない(間違った前置詞を使っちゃったというのは皆よくやっている)が、こちらではだいぶ勉強が進んだ後でも「にドイツ」とか「を本と新聞」とかやってしまう人を一人ならず見た。「AのB」という付加語を持った構造はさらに間違いが頻発する。「山田さんの学校」「アメリカの友達」がそれぞれ「学校の山田さん」、「友達のアメリカ」、あるいはもっとひどく「の山田さん学校」、「のアメリカ友達」になってしまうのだ。要するに彼らは外国語といっても自分たちの母語と構造のよく似た印欧語しか知らないのでその外に出られず、「あなたの知らない世界」に入っていくのが日本人より苦手なのではないだろうか。バスク語やフィンランド語でも知っている人はこの点有利かもしれないが、背景となる文化は同じである。そもそも文字が同じだ。
 それで私は時々「ドイツ人が外国語ができますとか言って英語やフランス語を持ち出してくるのを見るたびに笑っちゃうわね。そんなもん全然Fremdsprachen (foreign languages)じゃなくてBekanntsprachen (familiar languages)じゃん」とドイツ人にいって嫌がられている。実は私が最近流行の会話中心・文法なんて気にするな的メソッド(その手のメソッドでは授業の言語、つまりメタ言語と対象言語が必ず一致している)をドイツ人の日本語教育、日本人の英語教育に盲目的に応用するのに不安を感じているのもこの点である(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。もちろんフィンランド語やハンガリー語などの例外はあるが欧州内の言語は基本印欧語で構造がそっくりである。母語の骨組みが外国語にも応用できてしまうから、あとはインプットをガンガン入れ、会話の練習を積めば立派な建物が出来上がる。細かい文法上の差異はあるが、それらは建物の根本構造をいじらなくても済む「改修」程度だ。
 それに対して真正の外国語は学習者は内部に土台を持っていない。そこにやたらと文法を気にしないでインプットだけ吹き付けるのは土台も骨組みもないところに「改修」だけで家を建てるようなもの。できあがるのはちょっと強風が吹けば崩れ落ちるような掘っ立て小屋である。
 ここ何年か主にアラビア語を母語とする難民が増え、ドイツ語の授業も提供されているが、上の『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたようにその教科書は会話中心のきれいなカラー印刷のものだ。もちろん専門家が作ったものだからメソッド的には優れているのだが、いままでは対象者のほとんどは欧州内の他の国か、あるいは長くドイツに住んでいる外国人であった。言語の骨組みがすでにできている人たちだ。ところが今の難民は言語の面でも文化の面でも共通項となるその骨組みを持っていない人たちである。どうなるかと思っていたところ、新聞に「難民のドイツ語教育の効果が上がっていない」という趣旨の記事が載り、申し訳ないが「当然だ。何をいまさら」と思ってしまった。また実際に外国人にドイツ語を教えている知り合いが、学校側からは「会話能力をつけるために授業はドイツ語だけでやるように」と厳しく念を押されていたが、ドイツ語が理解できない学習者(当たり前だ。だからこそ授業を受けに来ているのだ)にそれをやっても全く効果がなく、授業が成り立たなくなってきたので英語で文法説明をしてしまったと話してくれたことがある。この人は最近の会話中心の方法には懐疑的だった。全く言語的背景のない日本人にカラー印刷の教科書で楽しい会話だけさせたら、まともな家が建つ代わりに掘っ立て小屋が増えそうな気がして怖い。私の杞憂だといいのだが。

 もちろん、ドイツ人の日本語のほうが日本人の英語より悲惨だからと言って「日本人のほうが頭がいい」とか「ドイツ人はものわかりが悪い」などということはできない。上でも述べたようにこれは単に偶然日本人のほうが言語の異次元性に対する免疫ができているというだけの話だからである。多少理解できなくてもいちいち驚いたり拒否反応を起こしたりしない。基本的には民族や国に関係なく(母語と全く違う)外国語というのはできないのが普通なのではないだろうか。それを「普通にやれば誰でも外国語はできるようになる」などと甘い約束をするから、やってもやってもできるようにならない私のような者がマに受けて「私は常人より知能の発達が遅れているのではないか?」と真剣に悩みだしたりするのだ。また、学習者が2年もやっているのに全員ヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のB2レベルくらいにならないからといって、授業のやり方に根本的な欠陥があるように言われたりもする。確かにこちらの大学などの日本語の学習者はほぼ全員2年もすれば会話が成り立つようになるが、それはそこに行く前についていけない者がどんどん脱落するからである。言い換えると授業を受ければ全員2年で会話ができるようになるのではなくて、2年で日本語をマスターできるような者だけが最後まで残っているのだ。授業体制の欠陥を云々するとすればむしろこの点ではなかろうか。生まれつき外国語のセンスがある者、センスの点ではイマイチだがとにかく勉強する意思はあってまじめな者、そういう一部の者だけが到達できるレベルに全員到達させようとする、到達できるはずだとする考え方が根本的に間違っているのではないのか。
 もちろん、日本国民全員を英語B2にするのはどんなやり方をとっても不可能だとしても、かといって日本の外国語の授業のやり方がこのままでいいとはさらに思わない。もうちょっとやり方を変えたほうがいいんじゃないかと思う。それについては英語教育学の学者がいろいろ考えて種々の試みをしたりしているから、素人の私がここで嘴を挟んでも笑われるだけだろうが失礼して無責任な提案をさせてもらうと、まず日本は英語教師その人が英語をロクスッポできないまま教えている(人もいる)のが最大の問題ではなかろうか。言葉を教えられるのは原則的にネイティブだけのはずである。こちらは例えばドイツ語を人に教えられるのはネイティブ、またはドイツ語能力試験でC2をとった人だけである。ただ上でも述べたように私はメタ言語と対象言語が一致する授業形式は特に初心者にはあまり効果がないのではないかと疑っているので文法説明は学習者の母語でやるのがいいと思う。とすると日本で英語を教えられるのは日本語がすっごくできる英語ネイティブか、少なくとも英語圏で大学を正規に卒業した日本人ということになる。これを条件にすると資格を失う英語教師は日本に相当いるはずだ。
 もう一つ、文法や講読(あるいは「英文解釈」)の授業と並行して会話と作文の授業を別途にやったらどうだろう。前者が理論、後者は実践授業である。そして後者の授業は本当にネイティブだけにやらせる。この二つを分ければ学習者のほうもどちらを好きになるかによって自分に向いているのは語学のほうか言語学のほうかわかってくる。将来設計にも役立つのではないだろうか。この二つを基本として、さらに勉強したい者、高校大学からアメリカに留学したいとか、大学はその方面に進みたいとかいう人のためだけに英語のスペシャル授業を自由選択制で設けてやればよろしい。自由選択だからついていけない者は安心して脱落できる。高校から渡米したがっている生徒と一生東京都品川区から出る気のない者とに画一化した授業をやるから効率が悪くなるのだ。
 もっともこんなことはもうとっくに皆考えていて、今の日本ではきちんと準ネイティブが集中的に教えているようになっているのかもしれないが。

 上でも引用したように外国語というのはあくまで自分の人生を豊かにするため、自分を鍛えるために勉強するのである。たかがちょっとくらい外国語ができると言って有頂天になったり、逆に他の人が外国語ができるからといって妬んだり僻んだりするような事柄ではない。

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 以前沖縄で米軍のヘリコプターが海面に落ちて大破するという事故があった。米軍機が民家の上に落ちたりものを落としたりする迷惑行為そのものはよくあるらしいからこれもその一環として「またか」の一言で片づけられてもよかったのだが、この場合は最初に「米軍機が海面に不時着した」と報じられたため議論がいつもとはちょっと別方向に進んだ。ヘリコプターは大破しているからこれは不時着ではなく墜落ではないのか、という議論が起こったのである。

 私もそうだったが、不時着か墜落かを決める際「飛行機が損傷したか否か」を重要な基準にする人は多いと思う([ + 損傷] ?)。機がバラバラになったら墜落、無傷で着陸できたら不時着である。だから2000年にシャルル・ド・ゴール空港を出たコンコルド機が離陸直後に落ちたときは「墜落」と報道されたし、ニューヨークで2009年にUSエアウェイズ機がラガーディア空港からのこれも離陸直後にガンの群と衝突してハドソン川に降りたときは「不時着」、人によっては単に「着陸」と呼んでいた。
 また「墜落」と聞くと「ある程度の高さから落ちること」と連想する人もいるのではないだろうか。この場合の高さとか落ちる個体と比較しての高さである。登山家が数十メートルの岸壁から地上に堕ちれば墜落だが、地上50cmのところから下に落ちても墜落とは呼びにくい。たとえその人が運悪く大けがをしてもである。個体が人より大きい飛行機の場合、「墜落」というとやはり何千m、何百mの高みから落ちるシーンを想像する。数m、数十mだと何百mの場合より墜落とは呼びにくくなる。ヘリコプターなら数十mでもいいかもしれないが。そしてこのように墜落という言葉の意味要素として「落ちる個体に比例したある程度の高度」を混ぜるのは私だけではないらしく、手元の国語辞典にも「墜落」を「高所から落ちること」と定義してある。
 ひょっとしたらこの「高度性」([ + 高所から]?)のほうが第一義で、破損か無傷かというのはそこから導き出されてくる二次的な意味要素かもしれない。高いところから落ちれば大抵破損するし、高さがなければ普通破損度は低いからである。もちろん例外もあるが。

 しかしさらに調べてみたら、墜落対不時着の区別に破損度や高度は本来関係ないと知って驚いた。両者を分けるのは制御された着地か、制御されていない着地かということなのだそうだ([ - 制御された] ?)。機が大破しても数千mの高度から落ちてもパイロットにコントロールされた着地なら不時着である。上記のヘリコプターはパイロットが民家に突っ込むのを避けようとして海に降りたのでその結果機体がバラバラになっても不時着。コンコルドの場合は管制塔と計器からエンジンが燃えていると警告を受け取ったパイロットが8キロほど離れた前方にあるLe Bourget空港に「不時着」しようとして制御に失敗したわけだから墜落ということになる。
 もちろん制御された着陸といっても「予定外の地点への着陸」([ - 目的地]?)ということで、制御されて予定地に降り立った場合は不時着でなく単なる到着である。だがこの点をしつこく考えてみるとグレーゾーンは残る。飛行機が空港Aに行こうとして何らかの不都合が発生したため行き先を変更して途中の空港Bに何事もなく着陸した場合でも不時着というのだろうか?特にその「何らか」が、乗客の一人が急病を起こしたなどという場合も不時着か?後者の場合は不時着という言葉は大げさすぎるような気もするが、辞書を引いてみたら不時着あるいは不時着陸を「故障・天候の急変などのため航空機が目的地以外の地点に臨時に着陸すること」と定義してあるから乗客の容体急変もこの「など」に含まれると解釈できそうだ。しかし逆に目的地の空港に飛行機が火を吐きながらかろうじて無事に降り立った場合、到着なのか不時着なのか。「故障・天候の急変などはあったが航空機が目的地点に着陸した」場合どっちなのか、ということである。火を噴いたりしたら目的地に着陸しても不時着とする人も多かろうが、急病人が出たにも関わらず目的地に降り立ったりした場合も不時着扱いしていいのか?やはり破損しているか否かのメルクマールを完全に無視するわけにはいかない気がするのだが。

 さらなるグレーゾーンはパイロットが意図的に飛行機を地上に突っ込ませた場合である。実際に2015年にフランスでそういう悲劇的な事故があった。ルフトハンザ系のジャーマンウィングスという航空会社だったが、鬱病で苦しんでいた副操縦士がバルセロナを出てドイツに向かう途中フランスのアルプ=ド=オート=プロヴァンス県で何百人もの乗客もろとも飛行機で山に突っ込んで自殺したのである。ここでは操縦する側がきちんとコントロールを行って目的地以外で降りたのだから下手をするとこれも「不時着」ということになってしまう。上で述べた辞書の定義でも暗示されているようにやはり「意図的に機を落としたか、それともできることなら落としたくなかったか」というメルクマールが重要になってくるだろう([ +/- 不慮性]?)。このルフトハンザの出来事を「カミカゼ」と呼んでいた人がいた。私個人は外の人に安易にカミカゼという言葉を使われるのが嫌いなのだが他に一言でこういう悲劇を表す言葉がないから仕方がないのだろうか。
 ここまでの考察をまとめて二項対立表(『128.敵の敵は友だちか』参照)で表してみるとみると、「墜落」「不時着」「普通の着陸」「カミカゼ」の違いは次のようになる。高いところから落ちたか否かは問わなくてもいいと思う。
墜落
[ - 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

不時着
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

普通の着陸
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

カミカゼ
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ - 不慮性]
[ + 損傷]

予定地に機が損傷して降り立った場合(適当な名称がない):
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ + 損傷]

これに従うと急病人を抱えたまま目的地に降りたら到着、航空機が火を噴いたら「適当な名称がない着陸」である。どちらも「不慮性」に対しては中立だから機が損傷したか否かが決定的な意味を持ってくるのだ。またテロリストがハイジャックして目的地を変更させた場合、テロリスト側からみると「普通の着陸」、パイロット側にすれば「不時着」である。

 ドイツ語では「墜落」はAbsturz、「不時着」は Notlandungである。辞書にはAbsturzはSturz in die Tiefe(「深いところに落ちること」)、 Notlandung はdurch eine Notsituation notwendig gewordene vorzeitige Landung [an einem nicht dafür vorgesehenen Ort](「非常事態のため必要に迫られて(着陸予定でなかった場所に)予定を早めて着陸すること」)とある。日本語と同様やはり墜落では高度が問題にされている。つまり定義としては問題にされないが事実上連想としてくっついてくるメルクマールということなのだろうか。不時着のほうは「予定より早く」と定義されているが、こう言い出されると上述のようなテロリストが目的地より遠い空港に着陸を強制した場合を「不時着」と呼ぶことができない。また定義の側にNot-という言葉が使われていて一種のトートロジーに陥っている。日本語のほうは言葉をダブらせずに非常事態の例を挙げているのでトートロジーは避けられているが、「など」という部分が今ひとつすっきりせず、まあ言葉の定義というのは難しいものだ。

 ハドソン川の事件はその後映画化されたが、その『ハドソン川の奇跡』で、事故調査委員会側がcrashと呼んだのに対し、パイロットのサレンバーガー機長がlandingと訂正していたシーンがあったそうだ。念のためcrashを英和辞書で引くと「墜落」「不時着」とある。つまり日本語の墜落や不時着と違って [ 制御された] というメルクマールに関しても [ 目的地] に関しても中立、その代わり [ 損傷] が中立ではなく+ということになる。landingのほうは[ 損傷] が-となっている点でcrashと対立するが、landingでは [ 不慮性] も中立となるので全体としてはきれいな対立の図にはならない。

crash
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ + 損傷]

landing
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

ハドソン川の奇跡のように不慮性がはっきりしている場合はあっさりlandingとも言い切れまい。不慮の事故であることは明確だが、機体は大破せずとも川に沈んでしまったから損傷してもなししないでもなしというどっち付かずであるから損傷性メルクマールは問わない、つまり中立とする。一方機長は委員会側のcrashという言葉に対してNo を突き付け訂正している。これは何に対してなのか考えると [ + 損傷] と言われたことより [ 制御された] をゼロにされた事に対する反発なのではないだろうか。機長は機を完璧に制御していたからである。そこで [ 制御された] をプラスにする。すると以下のような図式になる。

[ + 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

これが一応英語のemergency landing ということになろう。上で出した日本語の不時着と似ているが、英語では目的地であるか否かは問わないのである。それにしても大して中身のある意味分析を行ったわけでもないのに(自分で言うな)、二項対立表にするとやたらと学問っぽい外見になるものだ。
 なおこのハドソン川の不時着ニュースを聞いたとき私は真っ先に「えっ、ガンがエンジンに巻き込まれたの?!かわいそうに」と反応してしまった。

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