時々、というよりよく相手に向かって馬鹿だろゴキブリだろという言葉を使い、それを咎められると「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレる人がいるが、もしこの人が本当に何が悪いのかわかっていないとしたらこの人の方こそ真正の馬鹿だ、と私がここでいったら「そんな馬鹿な」と言われるだろうか。

 そこでこういう人たちのどこが馬鹿なのかちょっと考察してみたい。

 彼らは言語の機能は単に指示対象を指し示すことだけではない、ということがわかっていないのである。『78.体系とは何か』でも述べたように言語の単語というのは当該言語内で体系をなしていて、その指示対象や純粋な意味内容より当該単語の言語体系内での位置のほうが重要になってくることがあるのだ。指示対象は同じでも機能が違うのである。そして人間の言語の言語たるところはまさにその体系構造の複雑さにあるのだから、「馬鹿」と「理解が遅い」、「ババア」と「老婦人」が全く同じに見えるという人、つまり同じ対象を別の言い方で表現すれば言語内での機能が違ってくるということがわからない人はホモサピエンスの頭を持っていないということになる。「目の不自由な方」などと表現するのは「偽善・きれいごと」、そこで「メクラ」というのが「正直」だという類の主張をしている人(ネットなどに結構いる)を見るといつも、この人は生まれつき言語取得能力に欠陥があるのか、それとも成長の過程で何かしらの障害を負い言語の発達が阻害されたか、それとも単に捨てゼリフを吐いているだけなのか考える。
 最後のカテゴリー、つまり捨てゼリフ組は言語能力そのものは備わっているのだからいいじゃないか、と言われるかもしれないが問題なしとしない。なぜなら彼らは論理的に自己矛盾をおかしているからである:彼らが人をゴキブリと呼ぶとき、自分自身でもこの言葉の持つ機能をきちんと意識している、つまり本人も罵倒のつもりで使っているのである。そして相手が「その言葉使いはなんだ」と咎める時、矛先が向いているのは語の意味そのものではなくその機能である。だからここまででは相手はきちんと発話者のメッセージを理解している。しかしそこで発話者が「ゴギブリをゴキブリといって何が悪い」と返すとき、話題は機能でなく語の純粋な意味にすりかえられている。最初自分の方から機能面を前面に押し出しておきながら、相手がそれを正しく受け取ると今度は意味面に話題を摩り替える。自ら談話を打ち切っているのだ。これもやはり意味と機能をはっきりとは区別できていない馬鹿ではないだろうか。「話す」という行為、発話行為の何たるかがよくわかっていないのである。

 その発話行為(speech actまたは Sprecheakt)は階層をなしていて、例えばサールSearleは一つ一つの発話行為は次の4つの行為に分解できるとしている。

1.発語行為(utterance actまたはÄußerungsakt):意味のある言語音声を現実に発生する行為。この発語行為の基準は文法性、つまり当該言語音姓がまともな発音でまともな文章になっているかということである。
2.叙述行為(propositional actまたはProposionaler Akt)で実現されるのは世界についての叙述である。サールはこの行為の基準として当該命題真であるか偽であるかを問題にしていたそうだが、そもそも真偽を云々できない事象というのもあるし、例えば「花子はもう来たよ」と命題内容が等価な「花子はもう来たのか?」はその真偽そのものを問うているわけだからもちろん真偽判断は下せない。とにかく意味のある何らかの叙述を行なっていればこの叙述行為である、ということでいいと思う。
3.発話内行為(illocutionary actまたはillokutionärer Akt)では発語された命題の機能が問題になってくる。当該命題は発語された言語環境とのかかわりの中で初めて意味を持ってくる。つまりその発言による話者の意図である。文法性とか意味のある叙述かということではなくその意図が伝わったかどうかが基準となるのである。全く同じ命題でも環境によって単なる供述なのか警告なのか脅しなのか推薦なのか、全く意味機能が違ってくるからだ。この意図はイントネーションや語の選択などによって積極的に表現することもできる。
4.発語媒介行為(perlocutionary act またはperlokutionärer Akt)は相手が話者の発言によって話者の意図した通りの状態になれば成功したと言える。警告によって相手が「そうか危ないな」と思ったり、相手がビビったりしてくれれば発語媒介行為がうまく行ったのである。

 なおオースチンAustinも同じような分類をしているが、オースチンでは1と2がいっしょにされて、発語行為(locutionary act またはlokutionärer Akt)としてまとめられている。つまりここでは発話行為が3階層になっているわけだ。
 だいたいサールやオースチンにことさら言われなくても本能的に誰でもわかっていることだが、発話で重要な意味を持ってくるのは発話の命題内容そのものより3や4の点、これが発話された具体的なコンテクストにおける機能である。だから自分が馬鹿と言われたり人が馬鹿と言われているのを見て抗議するのは「侮辱されたと感じる」という肝心な機能をきちんと把握する人間としての言語能力が備わっている証拠である。発話の命題内容だけで機能を理解することができず、ここで「何が悪い」と聞く人は「今何時かわかりますか?」と聞かれると時間を言わずに「わかりますよ」とだけ答えるのだろうか。そういう人はこの発話の目的が「時間を知る」ことであるのがわからず、「わかりますか?」という言葉どおりのイエス・ノー・クエスチョンと把握するからである。
 また「本当の事をいって何が悪い」というタイプの質問形式をとってくる人もいるが、こういう人は「本当のこと」、つまり真偽判断のみが発話行為の目的だと思っているわけだから、まさに上で述べた叙述行為より先には思考が進めないということで、いわばサールに図星を付かれていることになる。

 さて「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレてくる馬鹿にはどういう対応をしたらいいのだろうか。上記のようにサールやオースチンの発話行為理論を丁寧に説明してやって、発話の命題の外にある発話の機能というものを感知できない点が悪いんですよ、と教えてあげる以外にはあるまい。
 もっとも捨てゼリフでこういうことを言っている人からは、「あなたはこの発話の機能、捨てゼリフということを理解せず発話の命題そのもの、「何が悪い」という質問形式にだけ対応した」と抗議されるかもしれない。まあそもそもそういう議論が出来る人が「ゴキブリをゴキブリといって何が悪い」などという言い回しは使いそうもないが、万が一そう返されたら「発話に捨てゼリフという機能を持たせたいのだったら他に言い回しがたくさんある。時間を聞いたり蔑称として社会的に既に因習となっている言葉を用いたりする場合と違って捨てゼリフの形式というのはまだ十分に因習化されていない。それあるに誤解される危険性のある質問形式をとってそこに捨てゼリフの機能を持たせようとしたあなたの言語戦略は詰めが甘い。言い換えると発話内行為が不成功に終わったのは発話を言葉どおりにとった相手の所為でなく、発話者の戦略がまずかったからだ。つまりあんたが悪い。」と言い返してやればいい。

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