アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Januar 2018

 米国ペンシルベニアでドイツ語が話されていることは知られているが、私が今までちょっと見かけた限りではこのペンシルベニア・ドイツ語は英語学あるいはアメリカ学の守備範囲のようで、これを研究しているドイツ語学者というのはあまり見たことがない。ペンシルベニア・ドイツ語はまたペンシルベニア・ダッチ、略してペン・ダッチとも呼ぶが、これをオランダ語とカン違いしている人がいた。Dutchという語はドイツ語という意味のドイツ語Deutschと同じで、昔はオランダもドイツも意味していたのである。むしろ私は英語でオランダ語のことをDutchということの方がそもそもおかしいと思うのだが。彼らにはオランダとドイツの区別もつかなかったのか? ついでにこのDutchあるいはDeutschは、ペン・ダッチではDeitschとなる。

 このペン・ダッチの話者はヨーロッパ人が新大陸に移住を始めたそもそもの最初からアメリカに住んでいた人たちである。例えばベンジャミン・フランクリンも1751年にペンシルベニアにはドイツ人が英国系の人たちとは異質の社会を形作っていると報告している。フィラデルフィア周辺もドイツ語圏だったらしい。当時の首都である。英語話者の側ではこのドイツ人たちは自分たち英語話者らの側について英国にちゃんと反旗を翻してくれるのかそれともヨーロッパの旧勢力側につくのか、今ひとつ疑惑の目で見る向きもあったようだ。
 18世紀の中葉のペンシルベニア南部の人口、20万人から30万人のうちドイツ系は6万人から10万人だったというから相当な割合だ。別の資料では1710年から1775年の間にドイツから新大陸に移住してきた人は約81000人。さらに別の資料によると南北戦争直後のドイツ語話者は60万人いたそうだ。いわゆる「アメリカ文化」とされるものの結構な部分は英国起源でなくドイツの文化だそうだ。

 現在ではペン・ダッチは専らアーミッシュやメノナイト派などの宗教コミュニティで使われており、コミュニティのある地域はペンシルベニアばかりでなく米国の30州以上に及んでいる。カナダにもペン・ダッチのコミュニティがある。資料によってズレがあるが、使用人口は30万人強。私の記憶では昔ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック:目撃者』という映画でケリー・マクギリス演ずるアーミッシュの女性がペン・ダッチらしき言葉をもらしていた。確かHochmut(「高慢」)とか何とかいう単語だったと思うが、これはペン・ダッチでなく標準ドイツ語だ(下記参照)。『目撃者』でもアーミッシュの社会の特殊性あるいは閉鎖性が描かれていたが、実はこの閉ざされた世界ゆえにペン・ダッチは今日にいたるまで生き残ったのである。
 ペン・ダッチが独自言語としての道を歩み始めたのは1750年から1775年にかけてだが、当時の話者は決して特定宗派に限られてはいなかった。どの宗派も、そして世俗的な人たちも皆このドイツ語を話していたのだ。上で述べたドイツからの初期の移住者81000人のうち、宗派関係者は3200人に過ぎなかった。その過半数がアーミッシュとメノナイト派だった。しかし宗派以外の人たちは時間が経過するに連れて元住んでいた農村から都会に出て行ったり、他宗教の人との婚姻が進み、大多数が英語に言語転換してしまった。現在のアーミッシュもバイリンガルで、ペン・ダッチは内輪で使うだけ。それでも子供たちにはペン・ダッチを伝え続けているため第一言語はペン・ダッチだそうだ。

 さてこのペン・ダッチについて私が個人的に面白い、というかおぞましいと思うのは、このペン・ダッチの核となったドイツ語地域、ドイツからアメリカへ最初に移住していった人々の故郷がよりによってモロ私の住んでいる地域だということである。うちはよそ者なので家庭内言語は当然標準ドイツ語だが、家の中で時々ここの方言のまねをして遊んだりおちょくったりすることがある(ごめんなさいね)。町の人たちも外で知らない人としゃべったりする時は、明らかにナマってはいるとはいえまあ標準ドイツ語を使うが、内輪でガチに会話を始めると凄いことになる。凄すぎてドイツのTV局に字幕をつけられたことは以前にも書いた通りだ(『106.字幕の刑』)。これがアメリカで話されている、と聞いて私は一瞬「げっ、ここで聞いているだけで十分恥かしいのにアメリカにまでいって恥を曝さないでくれ」と思ってしまった。ヨソ者の分際で申し訳ない。

 ペン・ダッチにはここラインラント・プファルツ方言の他にも上ラインやスイス、シュヴァーベンや一部ヘッセン州の方言なども混じっているそうだが、うちの周りの方言が中心となっていることには変わりがない。さらにおぞましいことにアメリカ発行の資料にペン・ダッチの起源について次のような記述がある。

... PG (= Pennsylvania German) is most similar to Palatine German. Later work  …  narrowed the dialectal origins even further to the (south)eastern Palatinate (Vorderpfalz in German), especially to dialects spoken in and around the city of Ma**h**m.
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 81から

なんと住んでいる町が名指しされていたのである。これを読んだときの気持ちをどう表現したものか。ネットで自分の名前が曝されているのを見て勘弁してくれと思う、あの感覚だ。とにかくまあこの町で一日乗車券でも買ってのんびり市電に乗り、ずっと乗客の会話を聞いていてみるといい。気分はもうペンシルベニアである。

うちの周りばかりでなく、一部スイスやヘッセンの方言もペン・ダッチには混ざっているが、中心となるのはよりによってモロ私の住んでいる町である。やめてほしい感爆発だ。
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 24からpenn_deutsch_bearbeitet

 だが、その「やめてくれよ感」を抱いたのは私だけではないと見える。プファルツからアメリカへ行った最初のドイツ人は大抵農家だったが、それよりやや遅れてやはりドイツからアメリカへ渡った第二波は北ドイツや都市部の人で標準ドイツ語の話者だったが、それらの同胞からもこのペン・ダッチの使い手は「まともなドイツ語をしゃべれ」と揶揄されたそうだ。彼らの方でも自分たちをDeitsche(「ドイツ人」、上記参照)、後続のドイツ人たちをDeitschlennerといって区別した。Deitschlennerは標準ドイツ語でDeutschländer(「ドイツの国の人」)である。ただ、Deitschlennerたちがペン・ダッチを蔑んで呼ぶ「田舎者のドイツ語と英語のまぜこぜ」という言い方は正しくないそうだ。ペン・ダッチは言われるほど英語に侵食されていない。英語からの借用語は10%から15%に過ぎないという。語形変化のパラダイムも保持されている。

 そのペン・ダッチを話すDeitscheも、書き言葉としては大抵標準ドイツ語を使っていたという。一種のダイグロシア状態だったわけである。今日でもアーミッシュの聖書は標準ドイツ語で書いてあるそうだ。
 一方「大抵」というのはつまり例外も少なくないということで、ペン・ダッチで書かれたテキストは結構ある。18世紀に一定のまとまりのある言語として確立した後、19世紀初頭からこの言語は発展期を迎えた。宗派の人も世俗の人もペンシルベニアから全米に広がっていったのはこの時期である。標準ドイツ語からの借用も行なわれた。ペン・ダッチによる文学活動もさかんになった。また、非ペン・ダッチ話者、事実上英語話者だがそれらのアウトサイダー側にもこの言語を研究する人が現れた。ペン・ダッチは独立言語としての歩みを始めたのである。上のおちょくり発言と矛盾するようだが、私はこれには賛成である。せっかくアメリカに行ってまで標準ドイツ語に義理立てする必要などない、独立言語として文章語を確立し、アフリカーンスより新しい一つのゲルマン語が誕生すればそれは素晴らしいことではないだろうか。

 しかし残念ながらそう簡単には行かなかったようだ。19世紀の発展期はまた、宗派と世俗の人たちがはっきりわかれ、両者のコンタクトが薄れていった時期でもあるが、そういう状態になっていたところに20世紀を迎えたが、これが転換期となった。20世紀の初頭に産業化の波が押し寄せたからである。
 仕事を求めて生まれ故郷を出て行くのが普通になり、外部の社会との交流も重要性を増した。小さな社会で安定していることが出来なくなったのである。ここでペン・ダッチ話者の人口構成に大きな変化が起きた。19世紀を通じて宗派の人たちはペン・ダッチ話者のごく一部をなしているに過ぎなかった。1890年現在では北米全体のペン・ダッチ話者は約75万人と推定されるが、それに比べてオハイオ、インディアナ、ペンシルベニアのそれぞれ最大のアーミッシュコミュニティの人口の合計が3700人だったそうだ。しかし世俗社会でのペン・ダッチが、英語社会とのコンタクトが急速に強まったおかげでほぼ消滅してしまった。英語社会との接触を最小限に抑え、通婚も閉ざされた社会内で行い続けた宗派のペン・ダッチだけが生き残ったのである。こんにちでは事実上アーミッシュやメノナイト派コミュニティでのみペン・ダッチが使われていることは上でも書いた通りである。
 1920年から1930年にかけてがターニング・ポイントで、それ以降は世俗社会でのペン・ダッチ話者は次の世代にこの言語を伝えなくなってしまった。つまり彼らの子供たちは英語しか話せなくなってしまったのである。そうして1940年以降はペン・ダッチは世俗社会では会話言語として機能しなくなった。1920年代に生まれた人たちがペン・ダッチを普通に話せる最後の世代となったのである。
 もちろん、その消え行くペン・ダッチを復活させ、次代に伝えようという動きはある。すでに1930年代にペン・ダッチ復興運動が存在したそうだが、今でも言語学者がネイティブを探し出して記述したり、言葉は話せなくてもペンシルベニア・ドイツ人としてのアイデンティティを持った子孫達がいろいろな催しを開催したり、文化の保持に努めている。今でもペン・ダッチを話せるアーミッシュもいる。ペン・ダッチはそう簡単には滅ぶまい。滅ばないでほしい。

 さて、その「書かれたペン・ダッチ」をいくつか見てみたい。上述のBronner氏の本から取ったものだが、音読してみるとまさにうちの町で市電に乗っている気分になれる。M市に住んでいない人のために標準ドイツ語の訳をつけてみた。所々わからなかったので標準語ネイティブに聞いたが、向こうも長い間「ウーン」と唸ったりしていたから解釈し間違っているところがあるかもしれない。

Den Marrige hab ich so iwwer allerhand noch geconsidert un bin so an’s Nausheiere kumme, un do hab ich gedenkt und gedenkt un hab des eefeldich Dinge schiegar nimmi los waerre kenne. Un weil ich’s Volksblatt als lees, un sie als iwwer allerlei Sache gschriwwe, so hab ich gedenkt: du gehscht yuscht so gut emol draa un schreibscht e schtick fer’s volksblatt, grad wege dem aus der Gmeeschaft Nausheiere.

標準ドイツ語
Den Morgen habe ich so über allerhand nachgeconsidert (= nachgedacht) und bin so an das Hinausheiraten gekommen, und da habe ich gedacht und gedacht und habe das einfältige Ding schier gar nie mehr loswerden können. Und weil ich das Volksblatt als (immer, ständig?) lese, und als (immer, ständig?) sie (ihnen?) über allerlei Sache geschrieben (habe), so habe ich gedacht: du gehst just so gut einmal dran und schreibst ein Stück fürs Volksblatt, gerade wegen dem Aus-der-Gemeinschaft-Hinausheiraten.

Consider(イタリック部参照)などの英語の単語が借用され、ドイツ語風に動詞変化していることがわかる。また標準ドイツ語の書き言葉の影響も見られる。太字で示したund がそれで、ほかの部分ではこれがきちんと(?)ペン・ダッチ形のunになっているのにここだけ標準形である。Als という超基本単語の使い方に関してもちょっとわからんちんな部分があったので辞書を引いたら古語として意味が載っていた(下線部)。なお資料ではこれに英語訳がついている。イタリック部は原文どおり、下線は私が引いたものである。

This morning I was reflecting about a number of things, including marrying outside the faith. I was thinking and thinking and just could not get this simple thing out of my head. Since I read the Volksblatt regularly, and have written them [sic] about different topics, I thought: you should just go ahead and write a piece for the Volksblatt about marrying outside of the faith.

もうちょっと他の例を出すと(下が標準ドイツ語):

Konsht du Deitsch shwetza?
Könntest du Deutsch schwätzen (= sprechen)?
ドイツ語を話せるかい?

Dunnerwedder noach a-mole!
Donnerwetter noch einmal!
まったくもう!

Nix kooma rous.
Nichts kommt raus.
どうにもならないぞ

Du dummer aisel!
Du dummer Esel!
このうすのろ!

最後の例のaisel(アイゼル)という言葉が気にかかった。これは標準ドイツ語のEsel(「ロバ」、エーゼル)だろうが、普通音韻対応は逆になるはずなのだ。標準ドイツ語の「アイ」が私の町の辺りでは「エー」になるのである。例えばzwei(ツヴァイ、「2」)を私んちのまわりでは「ツヴェー」、eine(アイネ、「一つの」)を「エーネ」という。そして私の家ではこの発音を真似して遊んでいる。町の人の方でもそれが方言だと心得ているから、「エーと言ってはいけない、アイと発音しないといけない」という意識があって、勢い余ってエーでいいところまでアイと言ってしまったのではないだろうか。つまりある種の過剰修正である(『94.千代の富士とヴェスパシアヌス』参照)。私の単なる妄想かもしれないが。

 最後にすこし話がワープするが、『シェーン』の原作者ジャック・シェーファーJack Schaeferも苗字を見れば歴然としている通りドイツ系である。出生地もオハイオ州のクリーブランドだからドイツ人が多く住んでいたところだ。さらに生まれた年が1907年で、ペン・ダッチを話す最後の世代、1920年代生まれよりずっと前。この人はペン・ダッチが話せたのかもしれない。それとも標準語ドイツ人、Deitschlennerの方に属していて、早々に言語転換してしまった組なのだろうか。
 
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 今思うと日本にいたころからもっと真面目にマカロニウエスタンを見ておくんだったと後悔している。当時は単にジュリアーノ・ジェンマやせいぜいフランコ・ネロにキャーキャー言って騒いでいただけだったが今じっくり見てみると顔ではジェンマに負けるが味のあるカッケーおいちゃんが他にも結構たくさんいるのだ。リー・バン・クリーフなどはいくらじっくりみてもちょっとアレではあるが、『12.ミスター・ノーボディ』でも書いたように、ギリシア・ローマ時代の古典さえ時々顔を出すこのジャンルは単に「ぶっ放せジャンゴ」「抜けリンゴ」で済ますには勿体なさすぎると私は思っている。
 ジークハルト・ルップについては『98.この人を見よ』で一度書いたが、実はもう一人記すべきオーストリア人がいる。何度か名前を出しているウィリアム・ベルガーWilliam Bergerである。『血斗のジャンゴ』で第三の主役をやった人だ。これもしつこく前に書いたようにとにかくラストシーンではこの人が大スターのトマス・ミリアンとジャン・マリア・ヴォロンテを食ってしまっていた。
 正義の名を借りて人間狩りをする自称犯罪者討伐対がミリアン&ヴォロンテ目指して砂漠の中を進んでいくがその時後からモリコーネの音楽(これが肝心)に乗って疾走しながら後を追いかけて来た者がいる。これが登場場面ではやたら暗かった(『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』参照)ベルガーである。

モリコーネの音楽を背景に颯爽とやってくるベルガー(左)。まあこの場面はスタントマンがやったのかもしれないが...
Berger-Reiten

こちらの画面右で馬に乗っているのは本当にベルガー。
alledrei

 前項でも述べたように彼も本来この二人を追う側であるから、その討伐隊に加わるのかなと思っていると彼はそこで皆の前に立ちはだかって「お前達のやっていることには法的正統性がないから手を出すな」と怒鳴りつける。せっかくの楽しみを邪魔された討伐隊の一人(知る人ぞ知るマカロニウェスタンの迷脇役アルド・サンブレルが発砲し弾が肩に当たる。それを持ち直してサンブレルを撃ち殺すとあとの者は動揺し、踵を返す。
 肩に弾を入れたままヴォロンテとミリアンの前に来て立ち(すぐ上の写真)、「お前たちを逮捕する」と宣言したものの、無防備でヴォロンテの前に立ったわけだから当然というかなんと言うかヴォロンテから2発目を食らう。ところがミリアンが立ち上がって投降すると言い出す。ヴォロンテは驚いて、ミリアンの決意を覆そうと「原因」になっているベルガーにとどめをさそうとした瞬間、ミリアンがベルガーを殺そうとしたヴォロンテを撃ち殺す。と、どさくさに紛れてネタバレ失礼。
 すでに死ぬ気でいたベルガーは状況を把握するのにちょっと時間を要するが、よろけながら立ち上がるとヴォロンテの死体の顔面に弾を何発も撃ち込み顔をめちゃくちゃにして判別不可能にし、「皆には死んだのはミリアンのほうだと言っておくから行け」とミリアンを逃がす。前にも言ったようにここでタイトルの「顔」という言葉が聞いてくるのだ。

 銃弾を受けた瞬間や、大儀そうに「逮捕する」という姿もカッチョよかったが、それより私が感心したのが最後ヴォロンテに銃を向けられた瞬間の演技である。膝を落としたまま見あげて、まずヴォロンテがわきで銃を構えて立っていることを確認、それから顔を下に向けるが、その状態でヴォロンテが撃鉄(ライフルの場合でも「撃鉄」っていうのか?)を起こした音を聞いて息を一つ吸って少し身を乗り出すようにする。死を覚悟したんだな、ということがはっきりと見て取れる。これは私が今まで見た中での「撃ち殺される直前」の表現のベスト賞である。実際は撃ち殺されなかったが。

大儀そうに「逮捕する」というウィリアム・ベルガー。
Berger1

『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』の項でも紹介したが、構図の美しいラスト。
Berger12

 もうひとつ印象に残っているのは「この人は撃たれ方が上手い」ということだった。皆さん、西部劇で人が銃に撃たれるところをどう描写しているか思い出して欲しい。もっとも多いパターンはうっと言って撃たれた箇所を手で押さえ苦痛に顔をゆがめる、というものだろう。派手にうわーとか叫んで両手を上に挙げグルグル回って倒れる、というのもありふれた描写だ、レオーネの『夕陽のガンマン』では撃たれた人が派手に叫んだり手を挙げたりぐるぐる回ったりしている割には弾傷が全くなく、なんなんだこれはと思った。
 また、撃たれた方がしばらく微動だにしないこともある。決闘シーンなどで観客にマを持たせるためによく使われる手だ。どちらが勝ったのかすぐにはわからせないでおいてこちらをハラハラさせようという戦法。何秒か立ってから一方がおもむろにバッタリ倒れるまで緊張感が続く。私に言わせればこういうのは緊張感でなく「わざとらしい」である。マカロニウエスタンではそれがまた特に不自然だ。
 さて上のシーンでのベルガー氏、弾を食らったときどう動いたか。当たった部分(肩だった)が一瞬何かにぶつかったようにピクリと動き、ほんのすこし足元がよろけたが、そのあとすぐ姿勢を持ちなおして敵に向かっていったのである。うーともいわなかったし痛そうな顔もしない、それでいてわざとらしく微動だにしなかったわけではない、当たったことはこちらに見てとれたのである。また痛そうな、というより疲れたような顔になったのはしばらく時間がたってからである。

 これは本当に銃で撃たれたことのある人たちの体験談と一致している。そこで皆が異口同音に述べているのは、銃で撃たれると一瞬何かぶつけられたか棒でその場所を叩かれたような気がする。かなり長い間痛みは感じない。まさに氏の撃たれかたはそんな感じだった。
 この撃たれ方の見事さはベルガー氏の演技力によるのか、それともセルジオ・ドナーティのスクリーン・プレイの書き方が上手かったのか。この映画のほかのシーンでは皆スタンダードなうわー的撃たれ方をしていたからこれはやっぱり氏の演技に帰するのではないかと思ったのでちょっとこの俳優の経歴を調べてみた。
 
 この人がオーストリア人であることは知られている。私はてっきりジークハルト・ルップなどのように本来ヨーロッパの本国で活動していたのがマカロニウェスタンに引っ張り出されたのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。本名をヴィルヘルム・トーマス・ベルガーWillhelm Thomas Bergerといい、1928年にインスブルックの裕福な医者の家に生まれたが、一家は戦争が始まるとすぐにアメリカに逃げた。当時戦争がヤバくなって来てから国外逃亡した人は多いが、「始まってすぐ」というのは少ないのではないか。余程先見の銘があったかナチ嫌いだったのか。家が「裕福な医者」であったこと、1939年の時点、つまりオーストリアがドイツ支配下に入った時点で(しかも大部分のオーストリア国民はこの「ドイツ統一」を歓喜して迎えた)間髪を入れず亡命したところを見るとユダヤ系ででもあったのかと思うが確証はない。アメリカの俳優・監督などには亡命ユダヤ人が多いのだし。とにかくアメリカでコロンビア大学を出てしばらくIBMで働いた後に俳優に転向、NYのブロードウェイなどでそこそこの成功を収めている。また3年間兵役にも服している。なおコロンビア大学在学時に陸上競技で学内最高記録を出し、オリンピックに出そうになったそうだ。朝鮮戦争に従事したとのことで、ひょっとしたらこの人は本当に撃たれたことがあったのかも知れない。
 そのあとハリウッドに進出しようとして果たせず、生まれ故郷のヨーロッパを巡っているうちにイタリアでマカロニウェスタンに抜擢されたらしい。当時はヨーロッパ出身で英語に吹き替えしてやる必要のない俳優は希少価値だったらしい。

 いわゆる反体制派、既成の権力に対して反抗的な人であったらしく生活も派手で少なくとも4回結婚しているし(それはそれで大変結構です)、当時の住まいにはキース・リチャードなども時々やってきていたそうだ。一度麻薬所持の疑いで留置所に何ヶ月入っていたこともある。ただしこの時は結局「証拠なし」で刑は受けていない。どうもあらぬ疑いだったらしい。それよりも驚いたのがそのときの留置所での悲劇的な出来事で、映画史家なんかは結構皆知っているようだが、私は今回調べてみて始めて知った。
 ある夜中に例によってパーティーでドンチャン騒ぎの後、皆寝静まっていたら警察がいきなりドヤドヤ家宅捜査にのりこんできた。そしてそこでハシッシュの包みを見つけたそうだ。ベルガーが自分の所有ではないと誓ったが請合ってもらえず、そのとき家に泊まっていた客もろとも全員留置場に入れられた。バラバラにである。
 悲劇はそこからだ。当時の妻Carolyn Lobravicoさんは肝炎を患っており、それが劇症を起こして痛んでいるのを警察は「麻薬の禁断症状」とカン違いして精神疾患者の病院に入れベッドに縛り付けた。そのまま長い間放って置かれ、やっと他の病気であると気づいて普通の病院に担ぎ込まれたときはすでに遅く、Lobravicoさんは別のところに収容されている夫のベルガーにも会えずにそのまま亡くなった。その際の経過を後にベルガーは本に書いて出版している。私の本なんかより余程読む価値がありそうだ。
 数ヵ月後にベルガーは釈放されて俳優業を続けていった。チェルヴィの『野獣暁に死す』はその事件の前に撮られている。

 マカロニウエスタンの後はジャッロ映画などにも出て、マリオ・バーヴァ、ヘスス・フランコなど名前を聞くとウッと思ってしまう様な(失礼)監督の下で仕事をしているが、とにかく最後まで俳優業はまっとうしている。187もの(TV映画も含む)映画に出演しているから決して無名の俳優とはいえない。事実私程度のジャンルファンでもウィリアム・ベルガーという名はよく知っている。演技だって正当教育を受けている。顔もロバート・レッドフォード(我ながら出す俳優名が古い)にはかなわないだろうがハンサムの部類に入るだろうし、とにかくもうちょっと上まで行ける技量を持っていた俳優だったと思うが、残念ながら1993年にカリフォルニアで亡くなっている。65歳だったそうだ。同じオーストリア人でも人生経歴が堅実で地味なジークハルト・ルップとは対照的である。

オマケといってはナンだが、『野獣暁に死す』のウィリアム・ベルガー。画質が悪くて申し訳ない。
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