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 私と誕生日が一日違いの(『26.その一日が死を招く』参照)言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの名は言語学外でも広く知られている。その「代表作」Cours de linguistique générale『一般言語学講義』以来、氏が記号学の祖となったからでもあろう。ラング、パロール、シニフィアン、シニフィエ云々の用語を得意げに(失礼)使っている人も多い。オシャレに響くからだろう。私も得意げに使っているので、大きな事はいえないが。
 が、これもよく知られていることだがその『一般言語学講義』はド・ソシュール自身が書いたものではない。ド・ソシュールの講義を受けたセシュエやバイイなどの学生が自分たちのノートを基にしてまとめたものである。あまり知られていないのがCours de linguistique généraleが世界で最初に外国語に翻訳されたのは日本語が最初であることだ。1928年小林英夫氏の訳である。私はこれを聞いた当時日本人の言語学への先見の明・関心が高かったためかと思って「さすが日本人」と言いそうになったが、これは完全に私の思慮が浅かった。Coursが他の国でそんなにすぐ翻訳されなかったのは、当時のヨーロッパではその必要がなかったからである。つまりフランス語などまともな教養を持っている者なら誰でも読めたからだ。現に当時の言語学の論文の相当数がフランス語で書かれている(下に述べるKuryłowiczクリウォヴィチの論文もフランス語である)。これは今でもそうで、例えば大学で論文を書くときドイツ語・英語・フランス語の引用文は訳さなくていい、という暗黙の了解がある。論文ではないがトーマス・マンの『魔の山』(『71.トーマス・マンとポラーブ語』参照)にも何ページもベッタリフランス語で書いてある部分がある。つまりCoursが真っ先に日本語に訳されたのは日本人が言語学に熱心だったからではなくて単に日本人の一般的語学力が低かったからに過ぎない。ずっと遅れはしたが日本語の次にCoursが翻訳された言語が英語だったことを考えるとさらに納得がいく。現在のヨーロッパの国ではイギリスがダントツに「外国語が最もできない国民」である、というアンケートの結果を見たことがあるのだ。

 その、ド・ソシュールの手によるものでない『一般言語学講義』が言語学外でもやたらと知られている一方、まぎれもなく氏本人の手による『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書』Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennesという論文はあまり騒がれてもらえていない。言語学者としてのド・ソシュールの名前を不動のものとしたのはむしろMémoireのほう、俗に印欧語のソナント理論、後に喉音理論と呼ばれるようになった理論の方ではないかと思うのだが。ド・ソシュールが1879年に21歳で発表した印欧比較言語学の論文である。

 印欧語はご存知のように俗に言う屈折語で、語中音、特に母音が交代して語の意味や品詞、またシンタクス上の機能を変える。例えば「死ぬ」というドイツ語動詞の不定形はsterbenでeという母音が来るが、現在形3人称単数はstirbt と i になり、過去形3人称単数はstarb でa、接続法2式はstürbeで ü 分詞でgestorben と母音はoになる。子音は変わらない。祖語の時代からそうだったことは明らかで、19世紀の後半からメラーMøllerなど何人もの言語学者がセム語族と印欧語族とのつながりを主張していたのもなるほど確かにと思う。
 さてその印欧比較言語学の最も重要な課題の一つが印欧祖語の再建であったことは『92.君子エスペラントに近寄らず』の項でも書いたとおりである。基本的には印欧祖語の母音はa, e, i, o, u の5母音とその長音形ā,、ī、,ō、ē、ū と「印欧語のシュワー」と呼ばれる ə というあいまい母音と見なされている。最初から研究が進んでいた印欧語族、現在の印欧語や古典ギリシャ語、サンスクリットなどのデータを詳細に調べて導き出されたのだが、印欧祖語の母音組織についてはいまだに諸説あり最終的な結論は出ていない。i と u はむしろ半母音、つまりソナント(下記参照)、そして ī とū はei、oi、eu、ou などの二重母音の弱まった形だとされることもあるが、ā、ō、ē の3つの長母音は印欧祖語本来のものとみなすのが普通であった。これらの母音が上述のように語中で交代して意味や文法機能を変える。その母音交代現象(Ablaut、アプラウト)は祖語時点ですでに共時的に行なっていたのが、祖語がバラけるにつれて通時的にも母音が変化したから、交代のパターンをきっちり確定するのが難しくなっているわけである。
 様々な母音交代パターンがあるが、大きく分けると量的母音交代(quantitativer Ablaut,またはAbstufung)と質的母音交代(qualitativer AblautまたはAbtönung)の2群に分けられる。後者については印欧祖語にはe 対o またはō 対ē の交代があったと思われ、例えば古典ギリシア語のpatera (「父」、単数対格)対apatora(「父のいない」、単数対格)、patēr (「父」、単数主格)対apatōr(「父のいない」、単数主格)がこれを引き継いでいる。クラーエKraheという人はさらに a とo の交代現象に言及しているがこちらのほうは「非常にまれにしか見出せない」と述べているし、私の調べた限りではその他の学者は全員「印欧祖語のqualitativer Ablaut」としてe 対o しか挙げていなかった。母音交代ではゼロ(ø)形も存在する。サンスクリットのas-mi (「~である」、一人称単数現在)、s-anti(同三人称複数現在)はそれぞれ*es-mi 、*s-entiという形に遡ると考えられるが、ここの語頭でe と ø が交代しているのがわかる。
 前者のquantitativer Ablautは短母音とそれに対応する長母音、または短母音と二重母音間の交代である。e 対 ē のようなわかりやすい対応ばかりでなく、ā、ō、ē 対 ə、ei 対 i、 eu 対 u のような複雑なものまでいろいろな形で現れる。ラテン語tegō(「覆う」、一人称単数現在)対 tēxī(一人称単数完了)に見られるわかりやすいe・ē交代の他、古典ギリシア語のleipō(「そのままにする、去る」、一人称単数現在)対elipon(同一人称単数アオリスト)もまたこのquantitativer Ablautである。この動詞の一人称単数完了形はleloipaだから、母音交代はei 対oi 対 i かと思うとこれは実はe~o~ø。つまり一見様々な量的母音交代は割と簡単な規則に還元できるんじゃないかと思わせるのである。ド・ソシュールがつついたのはここであった。

 このゼロ交代現象で重要な意味を持ってくるのが音韻環境によって母音にもなり子音にもなるソナントと呼ばれる一連の音で、この観念を確立したのがブルクマンBrugmannという印欧語学者である。例えば、英語のsing~sang~sung、ドイツ語の werden~ward (古語、現在のwurde)~gewordenは祖語では*sengh-~*songh-~*s n gh-、*wert-~*wort-~*wr̥t-という形、つまりe~o~øに還元できるが、そのゼロ形語幹ではそれぞれn、rが母音化してシラブルの核となっている。こういう、母音機能もになえる子音をソナントと呼ぶが、印欧祖語にはr̥、l̥、m̥、n̥ (とその長母音形)、w、y(半母音)というソナントが存在したと思われる。「母音の r̥ や」はサンスクリットに実際に現れるがm̥ とn̥ についてはまだ実例が見つかっていないそうだ。ここで私が変な口を出して悪いがクロアチア語も「母音の r」を持っている。言い換えるとクロアチア語には母音 r のと子音の r の、二つrがあるのだ。rad (「作品」)の r は子音、trg (「市場」)の r  は母音である。
 さらに上述の古典ギリシャ語leipō~eliponの語根だが、祖語では*lejkw-~*likw-となり前者では i が子音、半母音の j (英語式表記だと y )だったのが後者では母音化し、i となってシラブルを支えているのがわかる。同様にu についても、半母音・ソナントの w が母音化したものとみることができるのだ。円唇の k が p に変わっているのはp ケルトと同様である(『39.専門家に脱帽』参照)。

 さて、話を上述の印欧祖語のシュワーに戻すが、ブルグマン学派ではこのə をれっきとした(?)母音の一つと認め、ā、ō、ēと交代するとした。サンスクリットではこの印欧語のシュワーが i、古典ギリシャ語とラテン語では aで現れる。だから次のようなデータを印欧祖語に還元すると様々なアプラウトのパターンが現れるわけだ(それぞれ一番下が再現形):

サンスクリットda-dhā-mi(「置く、なす」一人称単数現在)~hi-tas (ḥ)(同受動体分詞)
ラテン語fē-cī(「なす」一人称単数能動完了)~fa-c-iō(同一人称単数現在)
*dhē-~*dhə-

サンスクリットa-sthā-t(「立てる、置く」3人称単数アオリスト)~sthi-tas(同受動体分詞)
ラテン語 stā-re(「立てる、置く」不定形)~sta-tus(同分詞)
*stā-~*stə

サンスクリットa-dā-t (「与える」3人称単数能動態アオリスト)~a-di-sta/ adiṣṭa (同反射態)
(これは松本克己氏からの引用だが、氏はここでa-di-taという形を掲げていた。その形の確認ができなかったので私の勝手な自己判断でadiṣṭaにしておいた)
ラテン語dō-num(「賜物」)~da-tus(「与えられた」)
古典ギリシャ語 di-dō-mi(「与える」一人称単数現在)~do-tos(同受動体過去分詞)
*dō-~*də-

サンスクリットbhavi-tum(「なる」不定形)~bhū-tas(同受動体過去分詞)
*bhewə-~*bhū

古典ギリシャ語 gene-sis        ~   gnē-sios        ~     gi-gn-omai
                         (「起源」)  (「嫡出の」)     (「生まれる」不定形)
 (γενεσις~ γνησιος~ γιγνομαι)
*genə-~*gnē-~*gn

サンスクリットでは原母音のā、ō、ēが全てāで現れているのがわかる。最後の二つは2音節語幹だが、とにかく母音交代のパターンも語幹の構造もバラバラだ。ド・ソシュールはこれらを一本化したのである。
 ブルグマンらによれば印欧祖語のソナントr̥、l̥、m̥、n̥ はサンスクリットではaとなるから、サンスクリットの語幹がtan-対 ta-と母音交代していたらそれは印欧祖語の*ten-~*tn̥-に帰するはずである。ド・ソシュールは上のような長母音対短母音の交代もシュワーでなくこのソナントの観念を使って説明できると考えた。
 そこでまず印欧祖語にcoéfficient sonantique「ソナント的機能音」という音を設定し、それには二つのものがあるとしてそれぞれA、O(本来Oの下にˇという印のついた字だが、活字にないので単なるOで代用)で表した。その際ド・ソシュール自身はそれらはどういう音であったかについては一切言及せず、あくまで架空の音として仮にこういう記号で表すという姿勢を貫いた。
 この二つの「ソナント的機能音」が短母音を長母音化し、さらにその色合いを変化させるため、e+A=ēまたはā、e+O=ō, o+A=ō, o+O=ōの式が成り立つ、いや成り立たせることにする。いわゆるゼロ形ではA、Oは単独で立っているわけである。例えば上のラテン語 stā-re~sta-tusは*stā-~*stəでなく*steA-~*stA-、古典ギリシャ語 di-dō-mi~do-tosは*dō-~*də-でなく*deO-~*dOとなる。これはブルクマンが元々唱えていた*sengh-~*sn gh-(上述)、さらにleipō~eliponの*lejkw-~*likw-(これも上記)と基本的なパターンが全く同じ、CeC-のe~ø交代となる。最終的にはド・ソシュールは母音としては e のみを印欧祖語に認めた。
 このド・ソシュールの「式」のほうがブルグマンより説明力が高い例として松本克己氏はbhavi-tum~bhū-tas(上述)の取り扱い方を挙げている。ド・ソシュールの説ではこれも*bhewA-~*bhwA-という単純なe~ø交代に還元でき、*bhewA-ではソナントAがw と t に挟まれた子音間という環境で母音化して祖語の ə つまりサンスクリットの i (上述)となり、*bhwA-ではソナント(半母音)wがbhと Aに挟まれた、これも子音間という環境で母音化してu になる。さらにこれがソナントAの影響によって長母音化して最終的にはūになるのである。見事につじつまが取れている。それに対してシュワーの ə を使うときれいなCeC-解釈ができない。この交代は*bhewə-~*bhwə-と見なさざるを得ず、後者の*bhwə-が「印欧祖語のəはサンスクリットの i」という公式に従ってbhvi-で現れるはずであり、bhū-という実際の形の説明がつかない。といってū-をそのまま印欧祖語の母音とみるやり方には異論がなくないことは上でも述べた。

 しかしド・ソシュールのこのアプローチは言語学で広く認められることとはならなかった。このような優れた点はあってもまだ説明できない点や欠点を残していたことと、当時のデータ集積段階ではブルグマンの母音方式で大半の説明がついてしまったからである。もっとも数は少なかったがド・ソシュールと同じような考え方をする言語学者もいた。例えば上述のメラーMøllerは既に1879年に印欧祖語のā、ō、ēは実はe+xから発生したものだと考えていたし、フランスのキュニーCunyもこの、「印欧祖語には記録に残る以前に消えてしまった何らかの音があったに違いない」というド・ソシュール、メラーの説を踏襲して、それらの音をド・ソシュールのA、Oでなく、代わりにə1、 ə2、 ə3という記号で表した。その際これらの音は一種の喉音であると考えた。キュニーはこれを1912年の論文で発表したが、基本的な考えそのものはそれ以前、1906年ごろから抱いていたらしい。さらにド・ソシュール本人も1890年代にはAを一種のh音と考えていたそうである。

 情勢がはっきり変わり、この「喉音理論」が言語学一般に認められるようになったのは1917年にフロズニーHroznýによってヒッタイト語が解読され、印欧語の一つだと判明してからである。
 ヒッタイト語にはḫまたはḫḫで表される音があるが、これを印欧祖語の子音が二次的に変化して生じたものと解釈したのでは説明がつかなかった。結局「この音は印欧祖語に元からあった音」とする以外になくなったのだが、この説を確立したのが上でも名前を出したポーランドのKuryłowiczクリウォヴィチである。1927年のことだ。その時クリウォヴィチはこのḫがまさにド・ソシュールの仮定したAであることを実証してみせたのである。ただし彼もキュニーと同じくə1、 ə2、 ə3の3つの記号の方を使い、e+ ə1= ē、 e+ə2= ā、 e+ə3=ōという式を立てた。つまりə2がド・ソシュールのAに対応する。
 例えば次のようなヒッタイト語の単語とその対応関係をみてほしい。左がヒッタイト語、右が他の印欧語。「ラ」とあるのはラテン語、「サ」がサンスクリット、「ギ」が古典ギリシャ語、括弧の中がシュワーを用いた印欧祖語再建形である。:

naḫšarjanzi (「恐れる」、3人称複数現在) ⇔  サnāire(「恥」) <* nāsrija
paḫšanzi(「守る」3人称複数現在) ⇔  ラpā(s)-sc-unt(「放牧する」3人称複数現在)
newaḫḫ-(「新しくする」語幹) ⇔  ラnovāre(同不定形)
šan-(「追い求める」不定形) ⇔  サsani-(例えばsanitar「勝者」)<*senəter-


最初の3例ではa+ḫ=āという式が成り立つことがわかる。そしてヒッタイト語のaを印欧祖語のeと見なせば、このa+ḫ=āはまさにド・ソシュールのe+A=ā 、クリウォヴィチのe+ə2= ā、つまりド・ソシュールが音価を特定せずに計算式(違)で導き出した「ソナント」または「ある種の喉音」が本当に存在したことが示されているのである。一番下の例ではこのソナントが子音の後という音韻環境で母音化してブルクマンらのいうシュワーとなり、サンスクリットで公式どおり i で現れているのだ。
 さらにクリウォヴィチはすべての印欧祖語の単語はもともと語頭に喉音があった、つまりCV-だったが、後の印欧語ではほとんど消滅して母音だけが残ったとした。ただ、アルバニア語にはこの異常に古い語頭の喉音の痕跡がまだ残っている、と泉井久之助氏の本で読んだことがある。

 もちろんこの喉音理論もクリウォヴィチが一発で完璧に理論化したわけではなく、議論はまだ続いている。同じ頃に発表されたバンヴニストの研究など、他の優れた業績も無視するわけにはいかない。そもそもその喉音とやらが何種類あったのかについても1つだったという人あり、10個くらい設定する説ありで決定的な解決は出ていない。それでもこういう音の存在を60年も前に看破していたド・ソシュールの慧眼には驚かざるを得ない。私はオシャレなラング・パロールなんかよりむしろこちらの方が「ソシュールの言語学」なのだと思っている。高津春繁氏は1939年に発表した喉音理論に関する論文を次の文章で終えている。

F.de Saussureの数学的頭脳によって帰結された天才的発見が六十年後の今日に到って漸く認められるに到った事は、彼の叡智を證して余りあるものであって、私は未だ壮年にして逝った彼に今二三十年の生を与へて、ヒッタイト語の発見・解読を経験せしめ、若き日の理論の確証と発展とを自らなすを得さしめたかったと思ふのである。彼の恐るべき推理力はCours de linguistique généraleにも明らかであるが、その本領はMémoireに於ける母音研究にあり、彼の此の問題に対する画期的貢献を顧りみて、今更の様に此の偉大なる印欧比較文法学者への追悼の念の切なるを覚える。

なるほど、あくまで「Cours de linguistique généraleにも」なのであって「Cours de linguistique générale」や「Mémoireにも」ではないのだ。

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