アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

November 2017

 『111.方言か独立言語か』の項でも述べたように私は琉球語は独立言語だと思っている。古くはチェンバレンあたりがその立場だったと聞いたが、これは単純に氏が論文を英語で書いたからそう見えただけかもしれない。ドイツ語でも英語でも言語名称には形容詞を使うので○○語と○○方言とが表現上区別されないことがあるからだ。例えばザクセン方言はSächsischドイツ語はDeutschでどちらも形容詞が語源。形の上では同じである。
 しかしだからと言って琉球語を日本の方言とみなす立場の方が論拠で勝っているかというとそうではない、負けそうなのはむしろ方言組のほうだろう。「研究が進むにつれて琉球語と日本語間の音韻対応が印欧語レベルではっきりと確認され、日本語と同系であることがわかってきたので方言とみなすようになった」と説明してあるのを見かけた。まさかこれを真面目に方言説の根拠にしている人がいるとは思えないが、言語Aと言語Bが同源だからといって方言とみなしていいのなら「ドイツ語はヒンディー語の方言」という見方だって成り立つはずだ。

 琉球語は3母音体系であること、動詞・形容詞の活用・曲用が現在の日本語と著しく違うこと(連体形と終止形では形が異なる)、いわゆる古代のP音を未だに残していることなど構造そのものが十分日本語と離れている上、12世紀までにすでに独立言語として独自の発展をとげていたのをさらに1429年首里王国が統一して「標準語」まで持っていた。島津がドカドカ侵略して来た1609年以降も言語的統一性は崩れず、明治政府が1878年の琉球処分で日本に併合するまでの450年間、れっきとした一つの言語社会であったことなど考えても立派な独立言語である。明治政府が方言扱いして日本語を押し付ける言語政策をとったため、琉球語は衰退の道を辿った。『54.言語学者とヒューマニズム』でも述べたが、愚かな全体主義政府は言語学者の天敵である。ユネスコが2009年に発表した消滅の危機にある言語の調査では、八重山語、与那国語を「深刻な消滅の危険」、沖縄語、宮古語、奄美語、八丈語などを「危険」にある独立言語として分類しているそうだ。
 少し古い資料だが、加治工真市氏の『首里方言入門』(これはもちろん日本語首里方言という意味ではなく琉球語首里方言ということである)、野原三義氏の『琉球語初級会話』という論文をのぞいてみると、琉球標準語というのはだいたい以下のような言語である。下に日本語訳をつける。

ディッカ マヂュン ユマ
「さあ、いっしょに読もう」

あレー ユドーシガ やー ヤユマニ
「彼は読んでいるが、君は読まないか。」
*このヤユマニという動詞形は暗に「読んだほうがいいよ」という薦めの意味がある。また「あ」と「や」だけ平仮名で書き分けてあるのはこれが声門閉鎖を伴うからである。下記参照。

初級会話
ヤーヤ ンジ チイ
「お前は行ってきたか?」
マーカイヨー
「どこへだ?」
チヌー タヌデータシェー
「昨日頼んであったよ。」
ヌー ヤタガヤー
「何だったっけ」
トゥナインカイ ウリ ムッチ イキヨーンディ イチェータノー アラニ
「隣にそれ持って行けよと言ってあったじゃないか。」
ンチャ アン ヤタサヤー
「ああ、そうだったなあ」

 私はこの世界で日本語のたった一人の「親戚」である琉球語に絶対消滅してほしくない。是が非でも存続してさらに発展していってほしい。琉球語を保持していくにはどうしたらいいのか考えた。もちろんこれらはあくまで言語のことだけを考慮したもので、日本人の都合なんかはどうでもいいことはもちろんだが(とか言っている私も一応純粋なヤマト民族である)、現地の人の意向さえ無視した私個人の超勝手なシミュレーションである。いつものことながら無責任で申し訳ない。

 まず、言語存続のためには、日本とくっついているのが一番よくない。最大の理由は琉球語と日本語が下手に似ている、ということである。隣に同系の強力言語があると当該言語がそれに吸収されてしまう危険が常にあるからだ。だからたとえばカタロニア語のほうがバスク語よりカスティーリャ語に抵抗するために要するエネルギーは大きい。また少数言語側ばかりでなく、多数言語の側にも相当な努力がいる。スペイン語側もうっかりカタロニア語を方言扱いなどしてしまわないよう、常にリスペクトを持ち、気をひきしめていないといけない。少数言語についての感覚が超鈍感な日本政府なんかにそういう微妙な言語政策ができるとは思えない。万が一政府にその意志があっても一般の日本人からまた「なんで沖縄語ダケー。つくば市の方言も独立言語として認めろヨー」とかいう類のトンチンカンなイチャモンがついたりするのではないかという懸念がなくならない。
 ではといって沖縄をデンマークのフェロー諸島のように言語的差異に注目して「自治領」として認める、つまり金は出すが口は出さないことにする、などという技量が日本人にあるだろうか。
 言語を衰退させないために必要な措置とは何か。まず、当該言語が公用語として機能することだ。具体的に言うと学校で当該言語による授業が行われ、法廷でもその言語で裁判をする、ということである。書き言葉の存在も必須である。さらにその言語で文化活動が行われればなおいい。つまり少なくとも中学まで、できれば大学の授業も首里語で行い、米兵が当地で暴行すれば裁判は首里語で行う。義務教育の「国語」の時間にはもちろん源氏物語などでなくおもろそうしなど、つまり沖縄文学を習う。俳句・短歌などという外国文学などやらなくてもよろしい。琉歌をやったらいい。
 こんなことを方言札(『106.字幕の刑』参照)などという前科のある日本政府が「国内で」許すだろうか。日本領なんかに留まっていたら琉球語の未来は暗いといっていい。

 だから言語の面だけで見れば琉球が日本から独立するのが一番いいのである。が、そうなると通貨や経済問題など難しい部分もでてくる。それが理由でもあろう、現地の声は独立反対が多数派だと聞いた。また、これはヨーロッパでもコソボやマルタで見かける現象だが、小さな地域が独立した場合、やや排他的な氏族社会が政治レベルにまで影響してきてしまうことがある。
 そこで、独立を最良の選択肢としながらも、どこか日本以外の国の領土にしてもらうことが出来ないかどうか見てみると可能性は3つある。

 まず「中国領」で通貨は元。実はこっちの方が日本領よりまだマシなのだ。中国の言語政策が中央集権的なのは日本と同じだが、中国語、つまりマンダリンは琉球語と全く異質の言語だからである。吸収されてしまう危険が日本語より少ない。上で述べたスペイン語に似たカタロニア語の話者が700万人もいるのに今では全員スペイン語とのバイリンガルになってしまっているのに対し、数十万しかいないバスク語には主に老人層とはいえ、いまでもバスク語モノリンガルがいるのがいい例だ。
 ただ、中国政府の少数民族に対する扱いをみているとかなり不安が残る。日本での様に吸収の憂き目は見ないだろうが、そのかわりマンダリンに言語転換してしまう危険があるのではないだろうか。

 次の可能性は、私自身「いくらなんでもそれは…」と思うのだが、アメリカ領である。通貨はドル。中国の場合と同じく、英語という系統の違う言語が共通語なので吸収されてしまう心配は少ない。さらにアメリカは日本よりは少数言語や移民の言語に敏感だし、強力な中央政府支配形式でもないから、中国よりプラス点が多い。問題は、英語という言語が強力過ぎるということだ。たとえ政府に少数言語を保護しようとする意思があっても世界最強言語に琉球語が対抗していくのは難しいだろう。言語転換してしまうのではないだろうか。
 ただ、琉球をきちんと州に昇格させてもらえば独自にある程度有効な言語政策が取れる。基地問題にしても現在のように日本政府を通すから埒が明かないのであって、米国の一員、しかも州として中央政府にノーを突きつければ、今度は米国の法律が琉球市民を守ってくれるだろう。といいが。とにかく日本政府を通すより早いのではないだろうか。
 しかし一方あの過去の歴史の深い溝が簡単に埋まるとは思えない。確かに言語的に見れば日本領や中国領よりメリットがあるが、そのメリットが歴史の溝が埋められるほどのメリットかというと強い疑問が残る。

 そこで第3の可能性を考える。台湾領である。ここはまず第一の条件、つまり公用語が琉球語と十分離れているという条件をクリアしている。さらに国内に少数民族を抱えている点では中国と同じだが、こちらは1990年以降はっきりと少数言語の保護政策を打ち出しており、マレー系言語による学校の授業が行なえるようになっている。また台湾社会は同性婚承認に向けて動き出すなど、むしろ日本より国際社会に対して開かれている。言語政策の点でも日・米・中よりプラス点があるのだ。
 なので私は所属するなら台湾が一番いいと思うのだが、最大の懸念は、琉球が台湾領になると中国が怒り狂うのではないか、ということだ。角が立ちすぎるのである。

 そこでどこにも角の立たない選択肢はないかと探してみたら、あった。言語的にも言語政策的にも最もオススメだが、実現の可能性は残念ながら限りなくゼロに近い選択肢(それで上で述べた「3つの可能性」のうちには入っていない)としてEU領というのはいかがだろうか。
 EUは結構世界中に飛び地を持っている。まずアフリカのマダガスカルとタンザニアの半自治領ザンジバルの間にあるマヨットMayotteという島が、住人の希望によりフランス領、つまりEU領である。南米にある仏領ギアナもやはりフランス・EU領。カリブ海にもサン・マルタンSaint Martinというフランス領の島があり、先日台風に襲われた直後マクロン大統領がお見舞いに来た。これらは通貨もユーロだ。サン・マルタン島の南半分はオランダ領でスィント・マールテンSint Maartenといい、やはり台風の後アレクサンダー国王のお見舞いを受けた。その他にも結構点々とEU領は世界に広がっている。だから琉球もEU領になってしまえばいい、そうすれば私は琉球の人といっしょにEU市民だ。想像するとウキウキしてくる。
 が、残念ながら大きな壁がある。EU直轄領というものが存在しないので畢竟どこかの国に所属するしかない。この国の選択が結構難しいのである。ます、はじめに述べた、フェロー諸島やグリーンランドに自治権を与えているデンマーク。言語政策などの社会そのものはいいとしてもデンマークはユーロを使っていない。だから通貨はクローネということになるだろう。これはちょっと弱かろう。飛び地をいろいろ持っているフランスはユーロが通貨だが、この国は言語政策が中央集権的でいまだにヨーロッパ言語憲章を批准していない点に不安が残る。飛び地の経験もあり、言語憲章の批准もしているオランダは本国はユーロだが飛び地ではまだグルデンを通貨としている。そもそも琉球がオランダ領となる政治的・歴史的根拠がない。もっともそれを言うならEUのどの国にも根拠がないわけで、私としては非常に心残りなのだが、EU領はやはり無理だろう。

 やはり独立しかない。通貨はしばらくの間は円を使わせてもらえるといいが、日本人はダメと言い出しそうだから、アメリカ・台湾・中国と交渉してそのどれかの通貨を使わせてもらうことにすればいいのではないだろうか。

 さてそうやって目出度く日本からオサラバしたら、まず第一に標準琉球語(多分首里語)をきちんと制定してほしい。文字は日本語の片仮名・平仮名を使えばいい。その際日本語にはない弁別性があるから、少し改良して補助記号をマルや点々のほかに考案すればいい。たとえば声門閉鎖のあるなし、有気対無気喉頭でもやはり得弁別的対立があるそうだ。前者は[?ja:]「お前」対[ja:]「家」、後者は[phuni]「骨」対[p?uni]「船」がその例である。これを区別して表記しないといけないが、そんなに難しいことでもないだろう。日本にも国の都合なんかより言語の都合を優先させる非国民な学者がゴマンといるから喜んで協力してくれるだろうし、そもそも琉球側にすでに優秀な言語学者が大勢いるから、この点については全く問題は起こるまい。
 最後に言わずもがなだが、琉球の領土を「首里王国の領土」と規定した場合、奄美大島や喜界島まで入る。だから筋からいえば日本はこれらの島を琉球に返還すべきなのではないだろうか。日本がロシアから北方領土を返還してもらうことには異論がないが、自分たちもきちんと南方領土を返還することだ。

 琉球には世界でも貴重な琉球語を守り、偏狭な氏族社会に陥らず、領土は小さくても日本、アメリカ、中国、韓国、台湾間の力のバランスをとって互角にやりあっていける国際的な貿易国家になってもらいたい。ドイツから観光客がジャンジャン行くように私もこちらで宣伝させていただくから。

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 今でもよく覚えているが、2007年にドイツ連邦議会でDie Linke(左党)という政党が動議を提出したことがある。ドイツが1904年に現在のナミビアで原住民にたいして行なった犯罪行為を埋め合わせすべきだ、という提案であった。

 ナミビアは1884年から1915年までドイツの植民地だった。当時は「ドイツ領南西アフリカ」(Deutsch-Südwestafrika)と言った。ドイツはイギリスやフランスより出遅れたため植民地でのふるまいは英・仏に比べてあまり人の口に上ってこないが、立派に(!)アフリカ人を虐待していたのである。その後第二次世界大戦時に行なった大虐殺がひどすぎて、それ以前に行なったアフリカ人ジェノサイドがかすんでしまっているが(ドイツ人さえこれを知らない人がいるし自称「ドイツ語・ドイツ文学を専攻したドイツの専門家」である日本人の無知さは言うまでもない、下記参照)、ジェノサイドはジェノサイドである。むしろホロコーストの根はこのあたりからすでに始まっていた、という点で史実としての重要度はホロコーストに優るとも劣るまい。

 ドイツ人が行なった「民族浄化」の対象になったのはヘレロとナマという民族である。上述のようにドイツ領南西アフリカは1884年からドイツの植民地であったが、始めから原住民に対する抑圧・無関心は相当のものだったらしい。もっともこの「現地人を自分たちと同等の人間とはみなさない」というのは当時のヨーロッパ列強だけではなく、そもそも植民地支配などというものを考えつく国のスタンダードメンタリティではなかろうか。日本だって例外ではない。
 1904年1月12日、ヘレロがその圧政に耐えかねて蜂起し123人のドイツ人が殺された。これが戦争にまで発展した。後にナマもこれに加わった。この、生意気にご主人様に対して蜂起した原住民に対するドイツ側の報復感情は常軌を逸していた。ドイツ側は住民から義勇兵を募ってSchutztruppe、植民地保護軍隊を形成したが、この手の「準」軍隊というのがどういうものであったかはドイツのSAや種々「討伐隊」などその後の歴史を見てみれば容易に想像がつく。実際私たちが想像する通りの集団であったようだ。最初ドイツ側の指揮をとったのは当時としては穏健でまともなテオドール・ロイトヴァインTheodor Leutweinという司令官だったが、この人は報復感情をあまりむき出しにしないようドイツ人達に警告した。しかしそもそもこのロイトヴァインにしても単に「絶滅指令は出さなかった」というだけで、捕虜を特に人道的に扱ったりはしなかったし、ヘレロ殲滅に反対した理由というのも「民族を1人残らず抹殺することなど物理的に無理」「社会的権利をすべて奪うだけで十分。そうしてヘレロをドイツ人のために働かせればいい」というものだったそうだから、その程度の司令官にさえ「あまり感情をぶつけるな」といわれるほどであったドイツ人の討伐軍がいかなるものであったか、想像するだに背筋が寒くなる。
 ところがこの甘すぎる司令官は1904年2月にはもう更迭され、首都ベルリンのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からロタール・フォン・トロータLothar von Trotha中将という新しい指揮官がアフリカに派遣されてきた。軍隊や武器も強化された。現地の政府は原住民に対する厳しさが足りないと地元南西アフリカのドイツ人たちが本国へ向けていわばロビー活動を行なったらしい。このトロータが悪い意味ですごかった。最初からこの植民地戦争を「人種間戦争」または「人種殲滅戦争」とみなしてヘレロ撲滅を狙い、文書でも堂々とそう宣言したのである。

ロタール・フォン・トロータ
wikipediaから

220px-Lothar_von_Trotha

 1904年8月11日Waterbergというところで戦闘があり、ヘレロは戦いに負けた。トロータにとってはまさに「待ってました」であった。何万人ものヘレロが隣のオマヘケ砂漠に逃走した。大半は非戦闘員、つまり女子供である。ドイツ軍は退路を遮断した上、砂漠で水のあるところを占領したり毒を入れたりして難民が水を得る機会を奪ったため、大半は渇きで死んでいった。砂漠の向こう側はイギリス領だったが、ここまでたどり着けたのは僅か。繰り返すがこれをドイツ軍はワザとやったのである。始めからこの民族を皆殺しにするのが目的だったのだ。トロータはその時こう言っていたそうだ:

„Die wasserlose Omaheke sollte vollenden, was die deutschen Waffen begonnen hatten: Die Vernichtung des Hererovolkes.“

「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」

あまりにも残酷な写真なのでこの記事に載せるべきかどうか迷ったが、ドイツ軍によるヘレロ虐殺。二次大戦時にドイツ陸軍が当時のソ連で行なった住民虐殺の様子と重なってみえる。
http://www.gfbv.it/2c-stampa/04-1/040107it.htmlから

040107herer

ドイツ人にオマヘケ砂漠に追いやられ水を遮断されてそれでも生き残ったヘレロ
https://segu-geschichte.de/voelkermord-herero/から

Herero

 この民族絶滅意図に批判的であったLudwig von Estorff ルートヴィヒ・フォン・エストルフという人が、すでに戦いに負けている民族をさらに砂漠に追いやり家畜諸共死に至らしめるようなやりかたに何の利があるのか、きちんとそれなりに扱ってやって受け入れてやればいいじゃないか、彼らはもう十分罰を受けているのだから、とトロータに提言したがトロータはガンとして耳をかさず、絶滅措置をそのまま推し進めたという。
 さらに殺しそこなったヘレロを収容するために強制収容所も作られた。この強制収容所Konzentrationslagerというものは元々スペインとアメリカに遡るのだそうだが、このドイツ領南西アフリカで使われて以来一気にその名称が世界に広まった。ナチスの発明ではないのである。男性ばかりか女子供までヘレロやナマが収容され人口を減らすのが目的で残酷な労働をさせられたが、その記述を読むと全くナチス時代の強制収容所そのものである。また、トロータがその典型だろうが弱い者や他の民族に理解や同情を示すのは「お花畑」「アマちゃん」、つまり精神が弱い証拠とみなすあたりもナチスの精神主義とまったく平行する。
 トロータは1905年の1月にドイツに帰り、1907年3月31日には戦争は正式には終結したがそこここに収容されていたヘレロ・ナマは1908年の一月27日までは留め置かれたそうだ。最初7万人から10万人いたヘレロが、戦争の後は1万7千人から4万人しか残っていなかった。2万人いたナマも半数しか残らなかった。ドイツ兵の数は1万4千人から1万9千人と推定されている。数字に幅があるのはしかたがない。

 Jürgen Zimmererユルゲン・ツィメラーという歴史学者はこのドイツ人の行為を「あらゆる定義・観点からみてジェノサイドであった」と断定している。

 ドイツの植民地支配は1915年まで続き、その後この南西アフリカにはブーア人(アフリカーナ、『89.白いアフリカ人』参照)が入り、英国領となり、さらに紆余曲折を経て1990年に独立したわけだが、その植民地支配自体は終了した後、つまり1920年代になってからもドイツ本国や南西アフリカにいろいろ記念碑や銅像が建てられた。「勇敢なドイツ兵士」を記念するためである。フォン・トロータをたたえる記念碑まであったそうだ。1930年代、ナチスの時代になってからはこのドイツ軍カルトぶりがさらに悪化し、いわば国民総ミリオタ状態になったことは想像に難くない。盛んにプロパガンダされたようだ。1935年にもこの「ドイツ人が植民地で行なった英雄行為」をたたえる銅像がデュッセルドルフに立てられている。
 「ホロコーストをやったのはナチ。普通のドイツ市民はむしろその犠牲者」という言い方をそのまま信じているそれこそお花畑な人が日本にはいるが、こんなもんは国土をさほど荒らされる事もなくドイツ人の支配を受けずに国民を虐殺されることがなかった戦勝国英米が余裕で行なったリップサービスである。ポーランドやフランス国民にはそんな絵空事を信じている者などいない。あれはドイツ国民がこぞってやった犯罪だと思っている。事実ソ連やポーランドでユダヤ人やスラブ人を虐殺したのは武装親衛隊ばかりではない、普通の陸軍兵士もやったのである。また、ヒトラーに政権を与えた後もドイツ国民側からこの政権に反対を唱える声があまり聞こえてこなかったのもゲシュタポが怖かったり情報が入って来なかったからばかりではない、「我々は支配者人種」という思想がドイツ人の心の底にはあったから、つまり国民の相当数が消極的にナチスに加担していたからである。歴史の歯車が狂っていたらアジア人の日本人など劣等民族として殲滅対象にされていたはずである。

 第二次大戦後はこの南西アフリカでの行為は忘れられてしまった。その歴史意識が転換し出したのはやっと1970年も終わりになってからだ。そここにいまだに立っている「植民地記念碑」を恥かしがる声が起こってきた。1978年には反帝国主義運動を起こしていたゲッティンゲンの学生の1人と思われる者に南西アフリカ記念碑の鷲の銅像が盗まれた。その銅像から切り取られた鷲の首が1999年になぜかナミビアの首都ウィンドホックで見つかり、現在はナミビア大学の学生協会の所有になっているそうだ。

これがそのワシの首
http://www.freiburg-postkolonial.de/Seiten/Goettingen-kolonialadler.htmから

GoettingenAdler

 さらに1984年、つまりドイツの南西アフリカ支配が始まってからちょうど100年目、学生ばかりでなく教授をも含むミュンスター大学の行動グループがやはりドイツ軍礼賛記念碑にWir gedenken der Opfer des Völkermordes unter deutscher Kolonialherrschaft in Namibia「ドイツの植民地支配下でジェノサイドの犠牲になった人々を追悼する」というプレートを付加しろと運動した。ここでVölkermord(民族浄化、「ジェノサイド」Genozidと同義である)という言葉が論争になり、結局プレートは実現しなかった。
 1990年、ナミビアが正式に国家として独立するが、これを機に1933年に建てられていた植民地支配記念碑を「どうにかしよう」という動きがブレーメンで起こり、1996年にその記念象には逆の意味が与えられ、「ドイツによるナミビアでの植民地支配の犠牲者に捧げる」というプレートがつけられた。除幕式、といっていいのかとにかく完成時には当時のナミビアの大統領Sam nujomaサム・ヌヨマ氏も招かれた。なお記念と書いたのは誤植ではない。この記念碑は本当に象の像なのである。

かつてドイツの植民地支配を誇示するものであった象の像は今は寛容のシンボルとなった。アフリカの国々の国旗を掲げる活動グループ。象のデカさがわかる。
http://www.der-elefant-bremen.de/aktion_10/elefantenfluesterin2.htmlから

schal

 植民地戦争勃発の100年目、2004年を前後してナミビア関係の史学論文や著書の出版も増えた。このブログの参考にしたVölkermord in Deutsch-Südwestafrika(ドイツ領南西アフリカでのジェノサイド)という本も2003年の出版である。また、ナミビアが正式に国家になったことで、ドイツ帝国の後裔である現在のドイツ連邦共和国に対して賠償問題も浮上した。2001年には米国でヘレロがドイツ銀行に対して当時の賠償を請求する裁判を起こしているそうだ。
 話は飛ぶが、1989年にドイツが統一したことによりドイツはワイマール共和国の正式な後裔ということになって、ナチスが一方的に破棄していたフランスに対する第一次世界大戦時の未払い賠償金の義務が生じたため、統一ドイツは2010年に完払するまで毎年フランスに残りの賠償金を払い続けていた。ご苦労なことである。

 さて、ナミビア賠償問題、いやそもそもナミビアでのドイツの戦争犯罪は2004年以降から次第にドイツ国内でも人の口に上るようになり、とうとう2007年に左党が連邦議会に動議を提出したことは始めに述べた通りである。私は長い間ドイツで暮らしていながらこのドイツ帝国の犯罪をこのときまで知らなかった。「戦争犯罪に無神経な日本人」を地で行ってしまったのである。
 左党の要求に対する当時のドイツ連邦議会の答えは「ドイツに責任があったことは認めるが補償やジェノサイド認定はしない」というものであった。これが今日までのドイツ政府の正式なスタンスである。しかし左党はその後もしつこく動議を出しているし、活動家や政治家からの追及の声も高い。2016年、連邦議会議長Norbert  Lammertノルベルト・ラマートが当時の行為について「ジェノサイド」という言葉を使ってニュースになった。けれどもこれは政府の公式な見解とは見なされていない。「謝罪はするがジェノサイド認定も賠償もしない」という連邦政府の姿勢は変わっていない。
 ここでジェノサイドと言った言わないが大騒ぎになるには理由がある。1968年にドイツ連邦共和国が加盟した国連協定、また1974年のヨーロッパ協定でも「戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドには時効がない」とされているからである。ジェノサイドと認定してしまうと芋蔓式に様々な法的義務が生じ、追求を止められなくなる、つまり「この件は歴史的に既に決着しています」ということができなくなるのだ。
 地元ナミビアでは毎年八月の最後の週末に「ヘレロの日」というのを設け、Okahandjaオカハンジャという町で祭り(?)を行ない、ドイツ軍によるヘレロ虐待の模様を芝居で再現しているそうだ。ナミビアには現在でも2万人強のドイツ人がいて、ドイツ語言語島を形成しているが、ヘレロの日にドイツ軍を演じるのは彼らではなくヘレロである。まだ話し合いは続いていくだろう。

ヘレロの日。ドイツ軍はヘレロ人が再現している
http://www.zeit.de/politik/deutschland/2016-07/bundesregierung-herrero-massaker-voelkermord
namibia-hereroから

namibia-herero-voelkermord

イラストに描かれたヘレロ戦争
https://www.welt.de/geschichte/article156071025/Mit-diesem-Genozid-will-die-Tuerkei-kontern.html#cs-Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal.jpgから

Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal

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