アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

September 2017

 先日はドイツの連邦議会選挙だった。私は善良な市民(どこが?)なので今まで棄権したことがない。いかなる選挙のときもきちんと投票する。
 以下の記事は先の州議会選のことを書いたものだが、極右のAfDが台頭してきた以外は基本は同じである。というわけで古い記事のリサイクルで失礼。

元の記事はこちら。

 ドイツはイギリスあるいはアメリカと違って議会政党の選択肢が二つ以上ある。民主党か共和党のどちらか、労働党か保守党のどちらかという二項対立ではないのだ。もちろん二者選択が基本となっている国だって別に政党は二つまでと決められているわけではない。二大政党以外の党や無党派の比重が前者に比べて極端に低く、事実上二者選択となっているだけだ。
 二大政党そのものはドイツにもある。CDU(とその姉妹党CSU)(それぞれ「ドイツキリスト教民主党」と「ドイツキリスト教社会党」)とSPD(「ドイツ社会民主党」)で、前者が保守、後者が革新である。しかしその他にも強力な政党があり政治を左右する。昔はどちらかの大政党が単独で議席の過半数を取るのが基本だったらしいが、少なくとも私が選挙権を取った頃にはすでに「単独過半数は政党の夢」となっていた。大政党といえども他のどれかの党と連立しなければ過半数は取れないことが普通になっていたのである。
 保守CDUが通常連帯するのがネオリベのFDP(「自由民主党」)、そしてSPDはBundnis90/ DieGrünen(「同盟90・緑の党」)とくっつくのが基本である。その他にDie Linke(「左翼党」)という共産系の党がある。東独から引き継がれてきた党で、投票者も大半は旧東独住民、その意味では「地域限定の党」だ。その他極右や(こういっちゃ何だが)よくわからない泡沫政党が時々急に浮上して議会に参加することがあるが、ドイツの主な政党はCDU/CSU、SPD,FDP,Die Grünenの四つといっていい。
 これらの政党にはシンボルとなる色が決まっている。CDUは黒、SPDは赤、FDPは黄色、Die Grünenは文字通り緑である(もっとも弱小政党もシンボル色を決めてくることが多い。一時議会に顔を見せたが、今はほとんど見かけない「海賊党」は橙色、極右のAfD(「ドイツのもう一つの道」)は青、そしてDie Linkeは「濃い赤」ということでやや紫がかった赤で表される。なぜかピンク色になっていることもある)
 そのため連立政権は色の名を使って呼ばれることが多い。CDUFDP連立の保守政権は黒黄連立政権(schwarz-gelbe Koalition)、SPDDie Grünenだと赤緑連立(rot-grüne Koalition)だ。上でも述べたようにこの二つの組み合わせが基本形というか「基本のコンビ色」である。
 しかし時々二大政党がどちらも票を落とし、いつもの相棒と組んでも過半数に達しないことがある。あるいは相棒のほうが壊滅して大政党が立ち往生してしまったり。そういう時は二大政党が連立を組んだりもする。このCDUSPD連立は黒赤連立と呼ばれないこともないが、大抵は大連合(große Koalition、略して groko)という。
 実はこの大連合は「最後の手段」なのである。もともと政策や政治理念の反対な党が連立するわけだから、足並みがそろわないことが多い。いろいろ調整しなければならないことが出てきて党内部でも意見が分裂したり、妥協妥協の連続で法案が骨抜きになったりする。だから票が取れなかったときは大連合は避けて、いつもの相棒に加えてさらに向こう側の相棒を引っ張り込んで三党連立という手をとることもまれではない。それら「非大政党」、つまりFDPにしろDie Grünenにしろ別にCDUやSPDと組まなければいけないと法律や契約で決まっているわけではないから、政権を取れるとなればいつもの相棒に義理だてなどしない。大政党が選挙で第一党になりながら、連立相手に断られて過半数が取れず、第二党・第三党・第四党が連立を組んで政権をとることさえある。とにかくドイツは選挙のあとの連立作戦が面白く、選挙そのものよりよほどスリルがある。この楽しみのないアングロ・サクソン系の国の選挙はさぞ退屈だろうと思うくらいだ。
 
 その三党連立であるが、こういう事態はいわばイレギュラーなのでインパクトが強いためかその呼び方がまた面白い。単純に色では呼ばないのである。例えばSPDFDPDie Grünenの連立は赤・黄色・緑で信号連立(Ampel-Koalition)。でもこれなんかはまだ平凡な命名だ。
 
 CDUFDPDie Grünenの三党連立は黒・黄・緑で、前は黒信号連立(schwarze Ampel 、シュヴァルツェ・アンペル、略してシュヴァンペルSchwampel)と呼ばれていたが誰かがこれをジャマイカ連立と命名して以来、この名前が主となった。この色の組み合わせをジャマイカの国旗に見立てたのである。
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 先のザクセン・アンハルト州選挙ではCDUSPDDie Grünenが連立を組んだが、これはケニア連立と呼ばれる。
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 またCDUSPDFDPが連立すればドイツ連立だと誰かが言っていたが、実際にこういう連立になっているのを見たことがない。声はすれども姿は見えずといったところか。しかもドイツの国旗の一番下は本当は黄色でなく金色なのだから、この命名は不適切ではないのか。むしろベルギー連立と呼んだほうがいいだろう。
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左がドイツ、右がベルギーの国旗だが、ドイツの一番下の色は黄色でなくて実は金色(のはず)である。

 実は上の信号連立にも国旗に例えた名前がある。まさか「呼び名が面白くないから」という理由でもないだろうがセネガル連立またはアフリカ連立という言い方もあるそうだ。私は知らなかった。後者はこの三色を国旗に使っている国がアフリカに多いからだろう。

 私の住んでいるバーデン・ヴュルテンベルク州では前回の選挙でなんと緑の党が第一党になり(私はここに入れた)同時に大政党のSPDのほうが壊滅したため、緑の党CDUと連立を組んだ。三党連立ではないが、緑と黒の二色連立、しかも前者が第一党というのは極めてまれな現象だったのでさらに話題性が強く、通常のように色では呼ばれず、キウイ連立という名称が考え出された。果物のほうのキウイである。全体が緑色の実の中にポチポチと黒いタネがあるからだ。

SPDFDPの連立というも見たことがないし、今後も起こりそうにないがこれはなんと呼んだらいいのか。マケドニア連立とでも呼びたいところだが、「マケドニア」という国名を使うことをEU仲間のギリシアが頑強に反対しているので旧ユーゴスラビア・マケドニア連立と呼んでやらないとまずそうだ。これでは長すぎるので中国連立あたりにしておいたほうがいいかもしれない。
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左がマケドニア、右が中国。SPDとFDPとの連立ならば多分SPDが第一党になるだろうから赤字に黄色が少し、という意味で「中国連立」と命名したほうがいいかもしれない。


 中国・マケドニア連立よりさらにあり得ないのはFDPDie Grünenとの連立である。でもひょっとしたらバーデン・ヴュルテンベルク州でそのうち本当に実現するかもしれない。万が一こういう連立が誕生してしまったら菜の花連立あるいはたんぽぽ連立とでも名付けるしかない。まあ春らしくて明るいイメージの政権ではある。

なお、上で述べたザクセン・アンハルト州では選挙の直後連立問題が非常にモメ、一時CDUDie Linkeが連立するという噂が立ったことがあった。保守の側ではこれを密かにハラキリ連立と呼んで反対する党員が多かったそうだ。幸い、といっていいのかどうかこのハラキリは成立せず、めでたくケニアになったのであった。

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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は『人生のドラマ』というタイトルで2017年8月24日の南ドイツ新聞に載ったものです。

1944年ドイツ国防軍はトスカーナでロベルト・アインシュタインを探し出そうとしていた。アルベルト・アインシュタインの従兄弟で友人でもあった人である。ドイツ軍はその妻と娘達を殺害した。姪のロレンツァとパウラだけが生き残った。


インタビュー:ユリウス・ミュラー-マイニンゲン

1944年8月3日、ロレンツァとパウラ・マッツェッティにとって世界が瓦解した。トスカーナのヴィラでドイツ軍の兵士達がこの双子の姉妹の養父を殺害したのである。この殺戮行為は本来アメリカに移住したノーベル賞物理学者のアインシュタインを狙ったものだったのか?現在90歳になる姉妹はその最後の生き証人だ。8月24日にフリーデマン・フロム監督による『アインシュタインの姪たち』という映画がドイツ公開される。当紙は公開に先立ってその主人公たち本人にインタビューを行なった。

マッツェッティさん姉妹
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南ドイツ新聞:マッツェッティさんたちの人生のドラマはお母様の死で始まっていますね。マッツェッティさんたちがお生まれになるとすぐ亡くなられましたが

ロレンツァ・マッツェッティ:私たちは母を全く知らないんですよ。医者たちは母はおなかに腫瘍ができたんだと思ってたんです。双子が生まれるとは誰も思わなかったんですよ。

ロレンツァさん
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パオラ・マッツェッティ:父は母に死なれて途方に暮れてしまいました。私たちは子守の人に育てられたんです。

パオラさん (双子だからそっくりですね)
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アインシュタイン家に来ることになったいきさつは?

ロレンツァ:私たちの父の妹のチェザリーナ・マッツェッティがね、皆ニーナと呼んでいましたが、その人がね、自分の夫に私らを養子にしようと提案したんですよ。「ねえロベルト、私たちにはもう二人娘がいるけど、母をなくした姪たちがいるのよ。父親1人じゃ育てられないわ。二人を引き取って育てましょうよ!」って。

ロベルト・アインシュタイン氏はアルベルト・アインシュタインの従兄弟で親友でもありましたね。二人とも最初ミュンヘンで育ち、ご両親の電機会社があるパヴィアに引っ越してからはイタリアでお育ちになりました。マッツェッティさんのご家庭でアインシュタインはどんな役割を果たしていたんでしょうか?

パオラ:アインシュタインから教わったことは本当に多いですよ。大きな自由の精神が行き渡っていてね。スノッブとか本音を隠したりとか何かの振りをしたりとかね、そういう人はいませんでした。ヒッピーのメンタリティみたいなのが行き渡っていました。自由にものを考えること、これを教わったんです。

ロレンツァ:アインシュタイン家は一種独特なメンタリティで、私たちもその中で育ったんです。ロベルト・アインシュタインの妹はチューリヒで物理学の教授をしていました。フィレンツェに住んでいて私らもちょくちょく遊びに行っていたアルベルトの妹のマヤもしっかりそのメンタリティの権化でしたね。芸術家が大勢遊びに来ていて、いつも音楽を演奏してましたよ。

アルベルト・アインシュタインとはどんなお付き合いをなさってましたか?

ロレンツァ:アインシュタインが家に来ていた頃は私たちはまだ本当に幼かっんです。でもブランコに坐って皆と話をしていた年かさの男性を覚えてます。私ら子供たちとも話をしてましたよ。

パオラ:私はその他に皆で家に来た人を捕まえて捕虜にして遊んだのを覚えてます。アルベルトおじさんも捕虜になったことあると思いますよ。家にはアルベルトの大きな肖像画がありますしね、まあアルベルトはずっと私らの家でいっしょなんです。

ロレンツァ:ロベルトおじさんはよく昔の話をしてくれました。二人がパヴィアで学校に通っていたとき、バスで行っていたこととか。アルベルトが切符を買おうとして小銭を間違えた、そしたら運転手から怒られて「バスに乗る前に数学をちゃんとやってこい」といわれたんですって!もう大笑いですよ。

アインシュタインが天才であることは当時からご存知でしたか?

ロレンツァ:すでに兆候はありましたよ。しょっちゅう裸足で歩き回ることとか、有名な話でした。アルベルトおじさんは、単に靴下をあと何足か揃えればいいということがわからなくてね。その代わり手持ちの数少ない靴下を洗ってはそれが乾くまで裸足で歩いてたんです。

パオラ:ロベルトとアルベルトは小学校がいっしょでした。いつか通信簿を貰ってアルベルトの欄に「児童アルベルトはやや精神発達が遅れている。答えるのに時間がかかりすぎる。他の児童は遥かに答えが早い」ってあったって。素晴らしい話ですわ!

ロレンツァ:そう、天才といえば、一度手紙を貰ったことがありましてね、そこでアルベルトおじさんがこう書いてました;『子供たちよ、こんなに優秀で天才的な姪が二人いるなんて私は嬉しい、幸せだよ』って。

その手紙を貰ったきっかけは?

パオラ:1944年8月3日の悲劇の後、ロレンツァと私で歌を作詞したんですよ。その一行は「悲劇が起きたこところ、痛みのあるところ、魂はそこで清められる」というものでした。それを山岳救助隊の合唱団が歌ってくれてラジオで放送されたんです。そのニュースが載っている新聞記事をアルベルトおじさんに送ったら返事をくれました。

ロレンツァ:そのうち失くしてしまったんですけど、それまではその手紙はいつも手元においてました。ああやって生活がメチャクチャにされた後、映像芸術を勉強しにロンドンに行きましたけど、そこでもずっと持ってました。スレイド美術学校の面接試験でね、この大学でどうしても勉強したい理由は何かと学長から聞かれました。私答えたんですよ、「私は天才だからです」って。その手紙はまあ何か起こったときの保証書みたいなもので。何かあったらアルベルトおじさんに手紙を出せばすむわとも考えてたんです。アルベルト・アインシュタインの世界と似たような世界を求めていたんですよ。

その世界はマッツェッティさんの育ての母であるニーナ・マッツェッティの殺害によってアインシュタインにとってもニーナの娘さんたち、ルーチェとチチにとっても崩壊してしまいました

ロレンツァ:ニーナ伯母さんと二人の女の子が殺された理由はアインシュタインでした。ヒトラーが最も憎んでいた人でしたから。アインシュタインは1933年にドイツを出ていた、ユダヤ人であるばかりでなく、平和主義者であらかさまにナチの悪口を言ってましたから。アインシュタインは象徴だったんですよ。それに加えてヒトラーはそのアインシュタインなしでは原爆が作れませんでしたしね。叔父さんに対する憎しみは相当なものでした。アインシュタイン本人を殺すわけには行かないから、ヒトラーはその家族を殺すよう命令したんです。

ヒトラーはアインシュタインに復讐しようとした?

ロレンツァ:連合軍がヴィラに到着する直前に家族を殺害するよう詳細な指定を出していたんです。

パオラ:イギリス軍はその翌日にはもう到着していました。それで余計大事になったんです。そこら中でもう機関銃射撃や爆発音が聞こえていました。ドイツ人は本当に大急ぎだったに違いない、そのすぐ前に部隊が一隊ヴィラに来てロベルト・アインシュタインがどこにいるのか訊ねました。それで養父は身を隠したんです。ドイツ人たちがニーナ伯母さんに、森へ行ってロベルトを呼んで来いと命令しても叔父は出て行きませんでした。そういう約束になっていたんです。

マッツェッティさんたちはその数日前に17歳になられたばかりでしたが、それからどうなりましたか?

ロレンツァ:コマンド部隊は家にいた者を皆駆り立てて二階の一部屋に閉じ込めました。指令権のある将校は家の中でダイナマイトが見つかったと言いはりました。それで簡易裁判をしましてね、その後は皆行っていいことになりました。まだ年のいかない若い歩哨がライフルをこちらに向けて立っていました。

パオラ:小さな特殊部隊でね、国防軍より色の黒い制服を着ていました。最初にニーナおばさんが、それからルーチェとチチの娘たちが下に呼ばれていきました。銃声が3発と機関銃の音が聞こえました。私たちの見張りをさせられていたその若い兵士がね、多分私たちと同じくらいの年でしたが、体中震え出してね。顔が涙でくしゃぐしゃなんですよ。そのときやっとわかったんです、何が起こったのか。

ロレンツァ:私はサロンで遺体を見ましたよ。将校から答えを聞きだそうとしました。部下が私を引き離して叫んだんです、「出ろ、早く出て行け」って。彼らは本当に急いでいました。私たちが外に走り出ると、ヴィラから炎があがっているのが見えました。ドイツ人が火をつけたんです。犯人達は木にタイプで打った紙切れを残していきました。

そこには何と書いてあったのですか?

ロレンツァ:「アインシュタイン一家はスパイ罪で有罪である。一家は常に敵の連合軍と連絡を取っていた。1944年8月3日戒厳令にしたがって銃殺。司令官」

パオラ:作戦行動がアルベルトの従兄弟のロベルトとその家族に向けられていたことは明らかです。あの地域にはユダヤ人がたくさん住んでいました。でも標的はアルベルト・アインシュタインと親しい付き合いがあった養父ロベルトだったんです。

その後どうなりましたか?

ロレンツァ:アルベルト・アインシュタインは自分の事だという受け取り方をしました。私たちに小包を送ってもくれたんです。でもとうとう届きませんでした。アインシュタインはこういう状況にいる私たちに光を一条ともそうとしてくれたんです。

パオラ:ミルトン・ウェクスラーというアメリカの将校が殺害事件に関する情報を欲しがりましたが、アメリカの検閲に引っかかりました。当時合衆国と敗戦側との間で解明の動きがあったとは思えません。厄介な捜査をして敗戦側にあまり負担をかけるなということだったのでは。

ご自身で事件を解明しようとされたことは?

ロレンツァ:殺人命令を出した指揮官を写真で見たことがあります。その人であったと確信しています。パドゥレ・ディ・フチェッキオの大虐殺に関わったとしてイタリアで本人不在のまま無期刑を言い渡されました。そこでは民間人が184人銃殺されました。その人は今ミュンヘンで何不自由なく暮らしてますよ。2016年に私はドイツの検察庁にその人を訴えましたが、裁判は取り下げられました。私たちはこの人の生活を妨害したいわけじゃない、もうそろそろ真実を明るみに出したいだけです。

ロベルト・アインシュタインはどうなりましたか?

パオラ:1945年の7月に自殺しました。苦痛が大きすぎたんです。ニーナ、ルーチェ、チチが殺害された後は私たちはまた実父に引き取られました。このことも叔父の自殺願望を強めてしまったのではと想像しています。

アルベルト・アインシュタインが亡くなる1955年までにまだコンタクトはありましたか?

パオラ:アインシュタインは親切な手紙を何通かくれましたよ。でも私たちは当時精神が錯乱していてアメリカのアインシュタインを頼ろうという考えが浮かばなかったんですよ。私たちがやっとのことで何とか人生を立て直したときはすでにもう遅すぎました。

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念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。

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