アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Mai 2017

 うちではARTEというストラスブールに本拠がある独・仏二ヶ国語のTV放送局の番組が入るのだが、そこでJ.L.トランティニャンについてのドキュメンタリー番組を流してくれたことがある。私にとってはちょっと夜遅い時間だった。
 最初「年取ったなあ、この人も」とか思いながら眠い眼をこすりこすり見ていたのだが、氏が「パリの俳優養成所に進学したが、いつまでも南フランスのアクセントがとれなかったこともあって最初教官からは常に見込みがないという評価を受けていた」というフレーズでパッチリ目が覚めてしまった。つまりこの人の母語は俗に言う(正式にもそういう)オクシタン語(またはオック語)ということか、フランス語はL2だったのか、と気になったからだ。
 調べてみたら、トランティニャンはVaucluse県のPiolencという町の生まれで、学校時代は同県南部のAvignonで過ごし、パリに出てきたのはやっと20歳、つまり母語が完全に固まってからである。 
地図を見るとわかるが、トランティニャン氏はオクシタン語地域で生まれ育っている。
Vaucluse県:(ウィキペディアから)
svg

オクシタン語地域:(これもウィキペディアから)
Occitania_blanck_map

 このオクシタン語はすでにダンテが「フランス語とは全く別言語」であることを見抜いている。フランス政府はこの言語がフランス語でないことを(まだ)公式に認めてはいないが、カタロニアでは公式言語、イタリアでは公式に少数言語として認められているそうだ。
 私が日本で学生だった頃は「フランス人(移民とか後から来た人ではなく土着のフランス国民)でフランス語を母語としない者は全体の25%」といわれていたが、先日ちょっと言語学事典でしらべてみたら、オクシタン語を自由に話せる者は300万人ほど、1200万人ほどがPassiveな話者、つまり「聞いて理解できる」そうだ。相当減ってきている。しかし20世紀の初頭までは結構普通に話されていたそうだから、1930年生まれのトランティニャンはこの言語で育ったのかもしれない。ただ当地でも公用語はフランス語だから、もちろんバイリンガルではあったのだろうが。それともオクシタン語の方が優勢言語だったのか?職業上の言語が完全にフランス語になったあとも日常ではオクシタン語を話していたのか?そういうことを番組で報道してくれなかったのが残念だ。
 トランティニャンはそのL2フランス語で俳優業だけでなく、詩の朗読などの文化活動もしているそうだ。ジャック・プレヴェールの詩を朗読している姿が映されていた。文学・文化音痴の私だが、ジャック・プレヴェールの名前だけはかろうじてというか偶然知っていた。一つ彼の詩を覚えている:一人の男が恋人に送るために花市場でバラを買い、金物市場で重い鎖を買った。というストーリー(?)だった。なぜ「重い鎖」なんだ?と私がいぶかっていたらラストが

「それから奴隷の市場に行きました。恋人よ、君を探しに。でも君は見つからなかった」

というものでドキリとした。原文はこれだ。

Pour toi, mon amour

Je suis allé au marché aux oiseaux
Et j'ai acheté des oiseaux
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché aux fleurs
Et j'ai acheté des fleurs
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché à la ferraille
Et j'ai acheté des chaînes
De lourdes chaînes
Pour toi
Mon amour

Et je suis allé au marché aux esclaves
Et je t'ai cherchée
Mais je ne t'ai pas trouvée
Mon amour

(Jacques Prévert, Paroles, Éditions Gallimard, 1949, p. 41から引用)

トランティニャンがこれを朗読したのかどうかは知らないが。

 話を戻すが、上述のようにフランスは中央権威主義的な言語政策をとっていることで有名で、国内の土着の少数言語の保護に余り熱心ではなく、例のヨーロッパ言語憲章にも批准はおろか署名さえしていない。アカデミー・フランセーズはすでに1635年に創立されているから、フランスの中央集権的な言語政策は長い伝統があるのだ。一方だからといって積極的に少数言語の撲滅を図ったりしているわけではないから、土着の民族に英語を押し付け、うっかり自分たちの言葉を話した者の口に石鹸を押し込んだり(オーストラリア政府はアボリジニに対してこれをやった)、その土地の言葉をしゃべった生徒の首に方言札をかけて晒し者にしたり(日本人が沖縄の人に対してやった)、民族の言葉を口にしたらスパイと見なしてシベリアに送ったり(スターリンがボルガ・ドイツ人をそう言って威した。『44.母語の重み』参照)した国なんかとは同列に論じることはできない。
 もっともソ連にしても、スターリンの言動とは別に表向きの言語政策そのものは少数民族の言語にむしろ寛容だったと聞いている。特にソ連邦の初期、1920年代には、国歌にもあるようにДружба народов(ドゥルージバ・ナローダフ、「民族間の友情」)を旗印に(だけは)していたから、ロマニ語さえ保護の対象になっていたようだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』参照)。フランスと同様、その中央主義的な言語政策の目的は国家言語を「押し付ける」ことではなくあくまで「普及させる」ことにあったようだ。土着の言語の撲滅ではなく、バイリンガルを目的としていたのだろう。

 外国人の語学学習者からすると、この中央主義的あるいは権威主義的な言語政策はむしろありがたい面もあるのだ。規範ががっちり決まっているからである。そういえば私がこちらでロシア語を学んだ時は教師から教科書からまだソビエト連邦の残滓が完全に残っていたが、まず文法だろなんだろに入る前に発音練習をさせられた。特にアクセントのない o を[ʌ]または[ə]で発音するように(『6.他人の血』『33.サインはV』参照)徹底的に仕込まれた。これはモスクワの発音である。これに対してドイツ語は地方分散性が強いから、学習者が舌先の[r]を口蓋垂の[ʀ]に矯正させられたりはしない。方言にも寛容で、TVのインタビューなどでも堂々と丸出し言葉をしゃべっているドイツ人を見かける。時とするとその、ドイツ人がしゃべっているドイツ語に標準ドイツ語の字幕がつく。実は私の住んでいる町で一度全国放送のドキュメンタリー番組が撮られたことがあるのだが、番組に登場する地元の人たちの発話にはすべて字幕がつけられていた。うちは皆ヨソ者なのでまあ標準ドイツ語話者だが、一瞬「げっ、これは恥かしい」と思ってしまった。しかし自分の話す言葉に標準語の字幕をつけられると恥かしい、という発想そのものが言語権威主義に染まっているいい証拠かもしれない、考えてみれば恥かしいことなど何もないのだとも思うが、ドイツ人の知り合いにこの話をしたらその人もやっぱり開口一番「うえー、それは恥ずかしい」と絶叫していたからまあ私だけが特に権威主義思想に侵されているわけでもないらしい。スイスのドイツ語だと字幕では間に合わず、吹き替えされることがある。フランス語などではこういうことはあまりないのではないだろうか。
 実はドイツ語にドイツ語の字幕をつけられるのは方言の話者ばかりではない。外国人が「字幕の刑」に処せられることもある。これもいつかTVで見た光景だが、さるアジア人の男性がインタビューに答えてドイツ語で受け答えしていたが、その発音があまりに悲惨だったためか、局のほうで「これはドイツ語としては通じまい」と判断されたらしく、字幕を出されていた。男性本人はドイツ語のつもりでしゃべっていたのだろうが、その得意げな(失礼)表情と字幕という現実との間の差に、見ているこちらのほうがいたたまれなくなった。局側としては、向こうが気持ちよく話しているのをやめさせては気の毒だから、それがドイツ人に通じるように手助けしたつもりなのだろうが、外国人・非母語者に対しては何か他にやりようがあるのではないだろうか。ネイティブ・スピーカーが字幕をつけられたのは見ても笑っていられるが、外国人が対象だと全然笑えない。


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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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