アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

April 2017

 セルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』の話は『98.この人を見よ』でもう終わりのつもりだったが、考えてみたらもう一つあった。イーストウッドのポンチョについてである。

 レオーネの『荒野の用心棒』が盗作として黒澤明と東宝映画から訴えられ、製作のジョリ・フィルムがそのおかげでガッポリ慰謝料をふんだくられ、レオーネが後に回想して「『荒野の用心棒』は今まで私が作った中で唯一つ全く収入をもたらさなかった映画」とボヤいたという話は有名だ。
 その際レオーネがどうして他の監督のようにアメリカ西部劇かギリシア・ローマ史劇からモティーフを持ってこないで日本映画からパクったのかは、まあわかりやすい図式である。51年に『羅生門』がヴェネチアでグランプリを取ってから黒澤映画はイタリアに知れわたっていただろうし、60年にジョン・スタージェスが『荒野の七人』で黒澤映画をリメークして成功し、サムライ映画が西部劇のモティーフとして通用することははっきりしていた。そこへ61年、三船敏郎が『用心棒』でヴェネチアの男優賞を取ったからレオーネはそこでこの映画を知ったに違いない。

 この1961年というのは考えようによっては実に含蓄のある年で、まさにそのちょうど100年前、1861年にそれまで多くの小国に分かれていたイタリアがヴィットリオ・エマヌエレ二世の下に統一され、「イタリア王国」が誕生したのである。第二次大戦以後このイタリア王国が共和制になった。途中ムッソリーニなどに引っ掻き回されりしたが、イタリアの現在の国境が確立したのは1861であることに変わりはない。
 このイタリア統一の立役者となり、今でもイタリアで、というよりヨーロッパで英雄視されているのがジュゼッペ・ガリバルディという革命家で、当時ブルボン家の支配下にあったシチリアとイタリアの南半分を解放した。その、自分が命がけで解放したイタリア領土をガリバルディは自分で支配しようとはせずに、北イタリアを支配していたサルディニア王国の国王ヴィットリオ・エマヌエレ二世に献上して男を上げた。もっともこの領土献上は純粋に美談というわけではなく、本来共和制を望んでいたガリバルディには不本意な面もあったし、影でサルディニア王国の政治家カヴールがいろいろ暗躍したらしいが、ともかくこのガリバルディが、多くの革命家と違って権力とか地位とか金とかそういうものにはあまりガツガツしていなかったことは事実である。未だにこの人の人気が高いのはそのせいだろう。

 ガリバルディは若いころから統一イタリアを目指してマッツィーニ率いる青年イタリア党に参加し、一度死刑判決を受けて警察に追われ、南米に亡命している。その地、ウルグアイとブラジルでも革命を助けて12年間活躍した。ウルグアイの首都モンテビデオにはいまでもガリバルディの記念館が建っている。
 ころあいを見てガリバルディは南米から帰国するが、その時はポンチョにソンブレロといういでたちで、これが後にイタリアでも彼のトレードマークになった。ポンチョの下には常に赤いシャツを着ており、これも「赤シャツ隊」として有名になった。

 さて、そこで問題だ。

 『荒野の用心棒』が作られる直前、つまりヴェネチアで黒澤の『用心棒』が紹介された当時、イタリアで建国100年記念を祝う催しの類が全く行なわれなかったということは考えにくい。そしてそこでただでさえ英雄視されているガリバルディがイタリア人の話題になっていなかったはずはない。
 こういう雰囲気の中でレオーネは『荒野の用心棒』を撮ったのだ。その脳裏をガリバルディが横切ったに違いない。レオーネがイーストウッドにポンチョを着せたのはこのためだと私は思っている。イタリア製西部劇が70年に入ってからさかんにメキシコ革命をモティーフとして扱い出したのもこれで納得がいく。メキシコ革命を扱っていなくてもマカロニウェスタンにはポンチョを着てソンブレロをかぶった農民というかガンマンというかやたらと出てくるが、これもガリバルディからの連想なのではないだろうか。もちろん、『荒野の用心棒』でアメリカ農民部落ということにしても別によかったはずの場所の設定をわざわざメキシコにして住民にソンブレロをかぶせたのは、直接には『荒野の七人』からインスピレーションを受けたのかもしれないが。まあレオーネも結構あちこちからいろいろ持って来ているものだ。

 しかも当時ガリバルディは1851年製造の海軍用コルト36を常に武器として携えていたという。1851年といえばロンドンで最初の万国博覧会が開かれた年だが、ここにアメリカが出品したものの一つが「コルト36」だったそうだ。ここでも話が見事に符号している。またレオーネの『荒野の用心棒』に続く「第二のセルジオ」(『86.3人目のセルジオ』参照)、セルジオ・コルブッチ監督の『続・荒野の用心棒』では悪役ジャクソン一味がフランコ・ネロを襲いに来て逆にネロのガトリング砲にやられるシーンでKKK宜しく顔を不気味な頭巾で覆い隠しているが、これが赤い頭巾だった。またジャクソン役のエドゥアルド・ファハルドがいつも首に赤い襟巻き(せめてスカーフと言ってくれ)を巻いているが、これらはガリバルディの赤シャツの暗示だと解釈できないこともない。顔隠しの頭巾を普通にKKKからもじったのなら色は白だったはずだからである。
 そういえばイタリア製西部劇のスターにジョージ・ヒルトンという俳優がいる。決して「私の好きな俳優」とは言えないのだが、純粋に顔だけを問題にしたらマカロニウェスタンのスターの中で最もイケメンの部類に入るのではないだろうか。このヒルトンはウルグアイのモンテビデオの出身である。いくらイケメンとは言え、どうしてよりによってそんな遠いところから俳優を引っ張り出して来たのか。ひょっとしてこれもガリバルディつながりか?まさか。
 さらに(まだある)、これもイケメンではあるがやっぱりB級スターにアンソニー・ステファンという人がいる。この人は引退後ブラジルに移住してそこで亡くなっている。なんでここでいきなりブラジルが出てくるのか。このブラジルもガリバルディの活躍地である。
 とにかくマカロニウェスタンを見ていると背後にガリバルディがチラチラしていて気になって仕方がない。

 以下の文章はタイムライフ社の歴史書「人間世界史」からの抜粋だが、

「1864年4月のその日、50万を越える熱狂的な群集は、ロンドンの街頭に人垣をつくり、外国から訪れてきた英雄に向かって、嵐のような歓声を浴びせた。いまだかつて例を見ぬ歓迎ぶりである。例の有名な赤シャツと南米のポンチョを着た彼(…)こそ、ヨーロッパ中でもっともロマンチックで、人気の高い男なのだ。ジュゼッペ・ガリバルディ、彼の名を耳にするだけで、人々の胸はときめいてくる」

 このちょうど100年後の1964年に『荒野の用心棒』が作られ、ヨーロッパ中を熱狂させたことわけだ。イタリア人がヨーロッパ中を熱狂させた例はこのガリバルディとレオーネの二人くらいなのではなかろうか。なお、『人間世界史』のそのページには「ガリバルディのピストルで、1851年に作られた海軍用のコルト36」の写真が載っている。フレーム上部がなくてシリンダーがむき出しの外観だ。さらに聞くところによるとこのモデルは『続・夕陽のガンマン』でも主役(?)だったそうだ。ガリバルディ氏の方は写真を見るとソンブレロを被ってポンチョを着ており、雰囲気はもう完全にマカロニウェスタンだ。あと足りないのはモリコーネの音楽だけである。

 ところで私はこのガリバルディだろポーランド建国の英雄コシューシコだろのことはかろうじて高校の授業で教わった。さすがにコルト36のことまでは教わらなかったが。「かろうじて」というのはそのちょっと後、第一次世界大戦が終わる頃になると時間切れというか学期末が来てしまい、「あとは各自で教科書を読んでおくように。期末試験には出るから」と放り出されたからである。

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 また昔話で恐縮だが1998年のサッカーのW杯の時、スペインチームに「エチェベリア」という名の選手がいたのでハッとした。これは一目瞭然バスク語だからだ。そこでサッカーそのものはそっちのけにして同選手のことを調べてみたら本当にバスク地方のElgóibarという所の生まれでアスレチック・ビルバオの選手だった。この姓は現在ではバスク語の正書法でEtxeberriaと書くがこれをスペイン語綴りにしたEchaverríaという姓もある。メキシコ人にもこういう名前の人がいる。スペイン語ではbとvとを弁別的に区別せず、どちらも有声両唇摩擦音[​β]で発音するからバスク語のbがスペイン語でvとなっているわけだ。

 日本の印欧語学者泉井久之助氏もこんな内容のことを書いていた。

第二次大戦の前、当時日本の委任統治領であったミクロネシアの言語を調査するため現地に赴いた。そのときサイパンの修道院を訪問したが、ここはかつてスペイン領だったのでカトリックの人は皆スペインから来た人であった。するとそこで隣の尼僧院の院長の名が「ゴイコエチェア」Goikoecheaだと知らされた。これはまさにバスク語である。

 泉井氏によればGoikoは「高い」という意味の形容詞でecheaが「家」だから、この名は「高家」とでも訳せる。goikoはさらにgoi-と-koに形態素分析でき、 goi-が形容詞の本体、-koは接尾辞である。バスク語は本来形容詞が名詞のあとに来るから、echegoikoになりそうなものだが、この-koという接尾辞がつくと例外的に形容詞は文法上属格名詞扱いされ、形容される名詞の前に立つそうだ。Goikoecheaの最後のaは定冠詞とのことである。つまりバスク語はいわゆる膠着語タイプの言語なのだ。
 面白半分でさらに調べてみたら1994年のW杯のスペイン代表にJon Andoni Goikoetxeaという名の選手がいたのでまた驚いた。この選手は所属チームはFCバルセロナだが、パンプローナの生まれだそうだ。見事に話の筋が通っている。このetxe- あるいはecheのつく名前はバスク語ではよくあるのかもしれない。上のEtxeberriaはEtxe-berri-aと形態素分析ができ、Etxe-が「家」(上述)、-berri-が「新しい」、最後の-aは定冠詞だからこの名前の意味はthe new houseである。

 日本人から見ればバスク語など遠い国の関係ない言語のようだが、実は結構関係が深い。日本にキリスト教を伝えた例のフランシスコ・ザビエルというのがバスク人だからである。一般には無神経に「スペイン人」と説明されていることが多いが、当時はそもそもスペインなどという国はなかった。
 ザビエル、あるいはシャビエルはナバーラ地方の貴族で、Xavierというのはその家族が城の名前。ナバーラはバスク人の居住地として知られる7つの地方、ビスカヤ、ギプスコア、ラブール(ラプルディ)、スール(スベロア)、アラバ、低ナバーラ、ナバーラの一つで、ローマの昔にすでにバスク人が住んでいたと記録にあり、中世は独立国だった。もっともフランス、カスティーリャ、アラゴンという強国に挟まれているから、その一部あるいは全体がある時はフランス領、またある時はカスティーリャの支配下になったりして、首尾一貫してバスク人の国家としての独立を保っていたとは言い切れない。例えば13世紀後半から14世紀前半にかけてはフランスの貴族が支配者であったし、1512年にはカスティーリャの支配下に入った。その後フランス領となり、例えばカトリックとプロテスタントの間を往復運動したブルボン朝の祖アンリ4世の別名はナヴァール公アンリといって、フランス国王になったときナバーラ王も兼ねた。ただしアンリはパリの生まれだそうだ。
 とにかくヨーロッパの中世後期というのは、どこの国がどこに属し、誰がどこの王様なのかやたらと複雑で何回教えて貰ってもいまだに全体像がつかめない。

 では一方ナバーラは二つの強国に挟まれたいわゆる弱小国・辺境国であったのかというとそうも言い切れないらしい。まずフランスやカスティーリャの支配といってもボス(違)はパリだろなんだろの遠くにいて王座には坐っているだけ、実際に民衆を支配し政治を司ったのは地元のバスク人貴族である。さらにどこの国の領土になろうが社会的にも経済的にもバスク人同士の結びつきが強かったようだ。ザビエルの生まれた頃に当時のカスティーリャの支配になった後も、ナバーラばかりでなくその周辺の地域に住むバスク人には民族としての習慣法が認められるなどの、カスティーリャ語でFueroという特権を持ち一種の自治領状態だったらしい。民族議会のようなものもあり、カスティーリャの法律に対して拒否権を持っていたそうだ。独自の警察や軍隊まで持っていた地域もあったそうだから、統一国ではないにしろ、いわば「バスク人連邦」的なまとまりがあったようだ。
 経済的にも当時この地域は強かった。14世紀・15世紀には経済状況が厳しかったようだが、16世紀になるとそれを克服し、鉄鉱石の産地を抱え、造船の技術を持ち、地中海にも大西洋にも船で進出し、今のシュピッツベルゲンにまでバスク人の漁師の痕跡が残っているそうだ。また、地理的にも北にあったためアラブ人支配を抜け出た時期も早く、イベリア半島の他の部分がまだアラブ人に支配されていた期間にナバーラ王国の首都パンプローナはキリスト教地域であった。カトリック国としては結構発言力があったのではないだろうか。
 
 ザビエルがバスク人だったと聞くと「どうしてバスク人なんかがわざわざ日本まで出てくるんだ」と一瞬不思議に思うが、中世後期のバスク地方のこうした状況を考えるとなるほどと思う。1536年にイエズス会を創立したイグナチウス・デ・ロヨラもまたバスク人だった。ただしナバーラでなく北のギプスコアの出身である。ザビエルはパリ大学でロヨラと会い、イエズス会に参加したのだ。バスク人同士のよしみということではなかったのだろうか。
 もちろんザビエルらが普段何語を使っていたかについての記録は残っていないが、おそらく少なくともカスティーリャ語あるいはフランス語とバスク語のバイリンガルだったのではないかと思われる。「少なくとも」と言ったのはバスク語が優勢言語だったかもしれないからだ。今日のバスク地方では300万人の住人のうちバスク語を話すのは22%だが、主に老人層とはいえバスク語モノリンガルがいまだに存在する。20世紀になってスペイン語話者がどんどん流入し、政治的にも内戦やフランコによる弾圧を経験してもバスク語は壊滅していない。ザビエルの時代にはずっとバスク語人口、しかもモノリンガル人口が多かったに違いない。
 もっともバスク語はずっと「話し言葉」だった。統一したバスク語文語の必要性はすでに17世紀頃から主張されていたが、この「共通バスク語」(バスク語でEuskera Batua)が実現を見たのはやっと20世紀になってからである。1918年にバスク語アカデミー(Euskaltzaindia)がギプスコアに創立されて第一歩を踏み出した。第一次世界大戦の最中だが、スペインは参戦していなかったから、隣国フランスへの特需などもあって当時はむしろ経済的には好調だったようだ。そのあと辛酸を舐めたが現在では言語復興運動もさかんで正書法も確立されている。

 さてザビエルの名前、Xavierであるが、これはもともとバスク語の名前がロマンス語化されたもので、もとのバスク名は驚くなかれEtxeberri。後ろに-aがないのでthe new houseではなく a new houseであるが、どちらも「新しい家」。サッカーの選手と同じ名前なのだ。このXavierあるいはJavierという名前は現在のスペイン語、カタロニア語、フランス語、ポルトガル語、つまりイベリア半島のロマンス語のみに見られ、イタリア語とルーマニア語にはこれに対応する名前がない。イタリア語、ルーマニア語はバスク語と接触しなかったからである。
 さらに驚いたことに私が今までスペイン語の代表的な名前だと思っていた「サンチョ」Sanchoはバスク語起源だそうだ。これはラテン語のSanctus(後期ラテン語では Sanctius)のバスク語バージョンで、905年にナバーラのパンプローナにバスク人の王国を立てた王の名前がSancho Garcés一世という。パンプローナ国の最盛期(1000-1035)に君臨していたこれもサンチョ三世という名前の大王は別名を「全てのバスク人の王」といったとのことだ。

 バスク語のことをバスク語でEusikera またはEusikaraというが、この謎の言語は16世紀からヨーロッパ人の関心を引いていた。これに学問的なアプローチをしたのがあのヴィルヘルム・フォン・フンボルトで、1801年に言語調査をしている。その後19世紀の後半にシューハルトがバスク語をコーカサスの言語と同族であると主張したりした。
 私のような素人がバスク語と聞いてまず頭に浮かべるのはこの言語が能格言語である、ということだろう(『51.無視された大発見』参照)。それだからこそバスク語はコーカサスの言語と同族だと主張されたりしたのだ。ロールフスという学者が北インドのやはり能格言語ブルシャスキー語と比較していたことについては以前にも述べた(『72.流浪の民』)。今日びでは能格言語を見せられても誰も驚いたりしないだろうが、フンボルトの当時はこういう印欧語と全く異質な格体系は把握するのに時間を要したに違いない。事実フンボルトはその1801年から1803年にかけて執筆したバスク語文法の記述にあくまで「主格」という言葉を使って次のように説明している。

Eine, die ich in keiner anderen Sprache kenne, ist, ist das c, welches der Nominativ an sich trägt, sobald das Subject als handelnd vorgestellt wird. Alle andern, mir bekannte Sprachen bezeichnen den Unterschied des verbi neutri und actiui nur an dem verbum selbst; die Vaskische deutet ihn schon vorher am Subject selbst an, indem sie demselben im letzteren Fall ein c anhängt. In den beiden Phrasen also: Gott lebt u. Gott schaft wird Gott in der ersten durch Jainco-a, in der letzteren durch Jainco-a-c ausgedrückt. Denn dies c wird, wie alle Praepositionen hinter den Artikel gesetzt;

筆者が他の言語では見たことのない前置詞のひとつがこの c で、主語が何らかの行為を行なうものとして表されると主格そのものがこれを担う。筆者の知る限り他の言語では全て中動態と能動態を区別をただ動詞自体の形によってのみ行なうが、バスク語ではこの区別をすでにそれより前、主語自体がつけているのである。それで主語が行為の主体であった場合は -c が付加される。例えば次の2例、Gott lebt (「神は生きている」)と Gott schaft(「神は創造する」)では、「神」が前者では Jainco-a、後者ではJainco-a-cと表現される。前置詞が全てそうであるように、この -c も定冠詞の後に付加されるからである。

Jainco-aは絶対格だが、-a は後置冠詞だから、細かく言えば絶対格の格マーカーはゼロ形ということになる。一方Jainco-a-c(またはJainco-a-k)は能格だから、-c は実は単なる格マーカーである。しかしフンボルトはこれを「主格マーカー+(特殊な)前置詞」と分析している。うるさく言えば(本当にうるさいなあ)後置詞というべきだろうが、いずれにせよ -a-c を「主格の特殊形」と見なすやりかたは1810頃の、ビルバオの言語を基にした言語記述でも引き継いでいる。さすがのフンボルトも「主格・対格」の枠組みを離れるのには苦労したようだ。能格言語の絶対格と能格の区別の本質そのものは理解しているからなお面白い。さらに例文にあげたGott lebt対Gott schaftで、後者の他動詞構文で目的語を抜かしてあくまで印欧語では主格に立つ主語だけを比較している。このGott schaftにあたるバスク語では目的語がGott lebtの場合のGottと同じ形になるはずだが、それは論じられていない。今なら「能格言語では他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格をとり、一方他動詞と自動詞では主語の格が違う」の一言ですむ簡単な事象でさえ、理解するのには先人の長い思索があったのだ。これは自然科学もそうだが、現在では小学生でも知っている事もそれを発見した当時最高級の頭脳の努力の賜物なのだということを思わずにはいられない。


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