アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2017

 いわゆる忌み言葉というものがある。結婚式の祝辞で「切れる」の「別れる」のと言ってはいけないし、普段の会話でもうっかり変なことを口走ると「縁起でもないことを言うな」と怒られる。昔は「言霊」ということを言った。
 こういう「縁起でもないことを言うと縁起でもないことがおこる」「ポジティブな言葉を唱えると事象がポジティブになる」といういわゆる言霊思想が「非科学的」であるということには誰も異を唱えないだろう。非科学的であることは十分わかっているのだが、他人の気分を害してまで科学や論理に義理立てする必要もないから、結婚式で別れる切れるを連発したり、言霊を信じていた昔の日本人を「本当に非論理的だな。だから日本人は精神年齢12歳とマッカーサーから言われるんだ」などとこき下ろしたりはまずしない。私もしない。そのくらいの非科学性なら喜んで付き合う、気持ちはわかる、という人が大半ではないだろうか。そもそもこういう発想は多かれ少なかれどこの民族だってやっているのだ。

 ただ、この「非科学性」がどのように非科学的・非論理的なのか、ということをもう少し考えてみると結構面白いと思う。記号論に関わってくるからである。

 いわゆる記号論・記号学は大学の「言語学概論」の類の授業で基礎だけはやらされる。言語というものが記号体系だからである。ではその「記号」とはいったい何かと聞かれると結構複雑だ。ちょっと当時の教科書Studienbuch Linguistik(「言語学概論」)(『43.いわゆる入門書について』の項参照)という本の埃をはらって覗いてみると、記号を

aliquid stat pro aliquo

と、厭味にもラテン語で定義してある。もちろんこの教科書はラテン語の怪しい無学な学生をも念頭においているものなので後で懇切丁寧に訳も解説もしてあり、記号の本質的な性質を

dass sie einem Zeichenbenutzer etwas präsent machen können, ohne selbst dieses etwas zu sein.

「その記号の使用者に対して、それ自体は当該事象ではないのにある事象を出現させられること」だと言っている。つまりある事象、あるモノが別の事象・モノの代わりをするわけだ。言語学では「記号」を一般に理解されているより少し広い意味で把握していることがわかる。もっとも英語やドイツ語で「記号」はそれぞれsignとZeichen、つまり普通に日常会話で使っている「しるし」という単語だから、そもそも元の言葉の意味範囲が日本語の「記号」ということばより意味が広いのだ。

 さて、この記号だが論理学者のパースPeirceは3つのタイプを区別している。インデックス記号(index)、アイコン記号(icon)、シンボル記号(symbol)である。
 インデックスは当該事象とそれを表すもの、つまり当該事象の代わりに立つものが因果関係にあるような記号である。記号をA,当該事象をBとすると、AとBとの間に「Aならば(あるいはAだから)B」という関係が成り立つ。煙は火事の、笑顔は幸せの、発熱は病気の、「じゃん」という語尾は南東京・横浜方言のそれぞれインデックス記号である。英語のsignという言葉ならこういう場合に使って「熱は病気のサイン」と言っても問題ないが、日本語の「記号」のほうは「じゃんは南東京方言の記号」という言い方で使うと相当無理がある感じだ。
 アイコンは当該事象の模写である。ピクトグラムなどがこの種の記号の代表例。パースのころはインターネットなどなかったからもちろん例にはあがっていないが、現在盛んにネットで使われている絵文字などもこれだろう。文字にもこのアイコン起源のものがある。シュメールの楔形もエジプトの象形文字も、何より漢字がもともとがアイコン記号であったのがしだいに抽象度を増していったのだ。
 さらにオノマトペはある意味では音声面でのアイコン記号と言える。「ある意味」といったのはオノマトペが純粋な意味でのアイコンとは言えず、むしろ下のシンボル記号に属すと考えたほうがいいからだ(下記参照)。
 インデックスもアイコンも指し示す事象Aと指し示される事象Bとの間に自然的な繋がりがあるわけだが、AB間にこの自然的つながりの全くないのがシンボル記号である。人間の言語はこの代表だ。AはBを指し示す、ということは社会規約で決められていてその協約を知らなかったら最後、いくら人生経験が多かろうが目や耳が良かろうがAを聞いてBを知る、あるいはAを見てBを想起する、ということが出来ない。
 例えばあのワンワン鳴いて尻尾を振る動物をある言語ではいぬ、またある言語ではHundという全く違った音声で指し示すのは音声と当該事象との間に自然的つながりのない良い証拠である。煙を見て「あっ、火事のサインだ」と感づいたり(インデックス)、スカートをはいた人物のマークを見て婦人用のトイレだと了解したり(アイコン)するのとは違い、いきなり[sɐbakə]という音を聞かされたりძაღლიという文字を見せられても犬が思い浮かんでくることはない。
 シンボル記号のこういう性質、指示されるものと指示対象物との間に自然の繋がりがないという性質をド・ソシュールは「言語の恣意性」と呼んだ。

 ただし、よく観察してみるとアイコンも実はある程度社会あるいは文化規約を知らないと解読することはできない。例えば女性がスカートを全く穿かない文化圏の人には女性トイレを見分けることは困難であるし、究極のアイコンである写真も、写真というものを全く見たことがない人は自分の写真を見せられても自分だという事がわからないそうだ。鏡では常に自分の顔を知っていても写真だとわからなくなるという。言い換えると写真による対象指示のメカニズムをある程度知っていないとアイコン記号は解読できないのである。絵文字にしても「意味」を誤解されたり理解されなかったりするのは珍しいことではない。例えば私もスマイルマークの絵文字など、こちらの意見をOKと言っているのかそれともせせら笑われているのかわからなくてイライラすることがよくある。
 そういう意味でアイコンも社会規約と無縁ではない。私ごとで恐縮だが、もう20年以上前こちらの「言語学概論」の期末試験に出た問題の一つが「アイコンはconventionalな記号であるか?」というものだった。答えはもちろんイエスである。
 
 もうひとつの微妙な問題は上でも述べたオノマトペである。これは一見音声のアイコン記号、つまりシンボル記号である言語内での例外現象のようだが、当該の自然音が記号化される言語によって全く違う形をとることが多い。例えば馬の泣き声は日本語ではヒヒーンだがロシア語だとイゴゴー、豚は日本語ではブーブー、ドイツ語ではオインクオインクまたはグルンツグルンツ。鳩の鳴き声などドイツ語でRuckediku-ruckedikuと表されているのを見たことがあるが、これでは「鳩ポッポ」という単語が成り立たない。しかしこれだけ違った描写をされているからと言ってドイツの鳩や豚がロシアや日本の同僚と全く別の声を出しているわけではない。つまりオノマトペの本質は「自然音を模写」することでなく、その言語の音韻体系内で当該事象の対応する要素を新しく作り出すことにあるのだ。あくまでシンボル体系内の出来事であるから事象AとBとの繋がりの恣意性は保たれているわけだ。(ということが一応オノマトペに対する言語学者の一致した見解だが、それでもこのオノマトペがアイコン寄りの位置にあることは頭に置いておいたほうがいいと私は思っている。このオノマトペというのはつきつめて考えていくと結構面白い現象であると。)
 それに対して動物学者が狼の鳴き声を正確に再現して群れを呼び寄せたりするのは、すでに人間の言語体系の外に出てしまっているからオノマトペとはいえない。

 言霊だろ忌み言葉だろと言い出す人たちはつまりこの言語の本質、つまり「言語がシンボル記号であること」や「言語の恣意性」がわかっていないことになる。シンボル記号である言語をインデックス記号と混同して、指示する側Aと指示対象Bとの間に自然的な繋がりを想定してしまっている。上のドイツ語の説明で、記号は何かをpräsent machen(「そこに出現させる」)という言い回しをしているが、この「出現させる」のは頭の中に出現させるということであるのに、自然界に実際に出現するかのように受け取ってしまっているのだ。その上AとBを逆にして、「AだからB」であるはずのところを「BだからA」と解釈しまっている。記号論上の根本的な誤りを二つも犯しているわけで、精神年齢12歳というお叱りを受けなければならないとしたらマッカーサーからでなく、むしろソシュールやパースからであろう。

 さて、この言霊・忌み言葉と似たようなものに呪文・まじないの類がある。祈祷師が意味不明のフレーズを唱えると雨が降ったり死人が生き返るというアレである。これは一見言霊思想と同じタイプの非論理性に基づいているようだが、よく考えてみると言霊とはメカニズムが違うような気がする。言霊は自分の言語、自分たちが使っているシンボル体系の記号性を誤解釈したものだが、呪文の言葉は自分たちのシンボル体系ではない。「意味不明のフレーズ」である。これは話しかける相手の言葉と自分たちの言葉が違うということを前提にして自然の支配者に話しかけている、言い換えるとこちらにはわからなくともあちらには通じているという前提なわけで、相手のシンボル記号を使っている(つもり)、つまりある意味では「言語の恣意性」ということがわかっているのだ。忌み言葉忌避より罪一等軽いから、ソシュールやパースは見逃してくれるのではないだろうか。

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 この際だから年をバラすが(何を今更)、小学校の頃だからもう半世紀近く前にもなろうというのに、モリコーネの『さすらいの口笛』を初めて耳にした時の驚きをまだ覚えている。
 私は本来音楽の感覚や素養というのものが全くない。例えばマドンナとかいう歌手の名前と顔はかろうじて知っているが曲はひとつも知らない。その他のミュージシャンについては推して知るべしで、名前は聞いたことがあっても顔も曲もわからない。ロッド・スチュアートとジャッキー・スチュアートの区別がつかない(この二人顔が似ていないだろうか?)。最近のミュージシャンで顔も曲もある程度心得ているのはABBAだけである。それも全く「最近の」歌手でないところが悲しい。
 前にも書いたとおり(『11.早く人間になりたい』参照)、私は視覚人間である。小中学校のころ、クラスメートがどこかの歌手のコンサートに行ったりレコード(その頃はまだレコードだった)を買ったりしているとき、私は専ら小遣いを美術館通いに使っていた。上野の近代西洋美術館にはよく行ったし銀座の画廊などにも時々行った。銀座の東京セントラル美術館が開催したデ・キリコ展は2回も足を運んだ。俗に言うこましゃくれたガキだったのである。音楽を鑑賞する能力のないこましゃくれたそのガキが、なぜモリコーネだけは聴いて驚いたかというと曲が直接視覚に訴えてきたからだ。私には『さすらいの口笛』を聴いた瞬間、夜になって暗く涼しくなった砂漠を風が吹いている光景がはっきりと見えた。この「視覚に訴える」というのはたとえば例のEcstasy of Goldでもいえることで、コンサートなどではやらないことが多いが、サントラだと曲の最後の部分に金箔が宙を舞っているような「音響効果」がはいる。私はこの部分が一番好きだ。また『殺しが静かにやってくる』では雪片が空を漂っているのが目の前に浮かび上がってくるし、『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』参照)では遠くにシエラ・マドレの山脈がかすんでいるのがわかる。それも映画のシーンとは無関係に曲自体が引き起こす視覚効果として作用するのだ。
 だから私は映画を見たら音楽が素晴らしかった、というのではなく逆にモリコーネの音楽を聞いて度肝を抜かれたのでマカロニウエスタンを見だした口である。マカロニウエスタンの後期作品、『夕陽のギャングたち』とか『ミスター・ノーボディ』あたりになると、音楽を音楽として鑑賞する能力のない私にはキツくなってくる。しかしモリコーネがヨーロッパを越えて世界的に評価され出したのはそこから、私にはキツくなってからだ。だから他のモリコーネのファンの話についていけなくて悲しくなることがある。まともなファンなら音楽の素養があるのが普通だから、『ミッション』や『海の上のピアニスト』、『ニュー・シネマ・パラダイス』を論じはじめたりするので私には理解することができないからである。私がモリコーネの曲を半世紀以上聴き続けているのに自分で「モリコニアン」だと自称できないのはそれが原因だ。その資格がないような気がするのだ。私にとっての心のモリコーネはいまだに『さすらいの口笛』だからだ。
 ただ、前に新聞の文芸欄で、ということはちゃんと鑑賞能力のあるコラムニストが書いていたということだが、そこでモリコーネの音楽を評して「催眠術効果」と言っていた(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)。確かChi maiをそう評していたと記憶しているが、なるほど私は小学生の頃まさにその催眠術にかけられて以来いまだに覚めていないわけだ。Chi maiもそうだが、『血斗のジャンゴ』のテーマ曲の催眠術効果も相当だと思っている。
 
 さて、そうやって小学生の頃から音楽というとモリコーネとあとせいぜいソ連赤軍合唱団くらいしか聴かない私は周りから「典型的な馬鹿の一つ覚え。ここまで音楽の素養のないのも珍しい」と常に揶揄され続けてきた。私自身もこのまま音楽鑑賞の能力ゼロのまま、馬鹿のままで死ぬことになるだろうと覚悟していたのだが、運命の神様がそれを哀れんででもくださったか、よりによって私の住んでいるドイツのこのクソ田舎の町にモリコーネがコンサートにやってきたのである。家の者が街角でポスターを見たと言って知らせてくれたのが半年ほど前だが、最初私はてっきりまたからかわれたのだと思って、「いいかげんにもうよしてちょうだい!」と情報提供者を怒鳴りつけてしまった。それが本当だと知ったときの驚き。気が動転してチケットを買うのが2・3日遅れた。金欠病なので一番遠くて安い席を買ったが、販売所のおねえさんが私が最初くださいと言った席を見て、そこだと確かに少し近いが角度が悪いのでこっちにしたほうがよく見えますよと同じ値段の別の場所を薦めてくれた。それをきっかけに雑談になったが、なんとこの人は日本に観光旅行にいったことがあるそうだ。そうやって受け取ったチケットに印刷してあるEnnio Morriconeという名前を見たらもう頭に血が上り、次の瞬間上った血が一気に下降して貧血を起こしそうになった。家では「半年も先で大丈夫なのか。」と言われた。「大丈夫」って何がだ?
 でも私自身最後の最後まで半信半疑だったのは事実である。『さすらいの口笛』を日本で聴いてから半世紀近く経って、さほど大きくもないドイツの町でその作曲家に遭遇できるなんて話が出来すぎだと誰でも思うだろう。そういえばコンサートの一週間ほど前にイタリアン・レストランに行く機会があったが、そこの従業員がイタリア人だったので(ドイツ語に特有の訛があったのですぐわかった)、勘定を済ませた後おもむろに「あのう、質問があるんですが。エンニオ・モリコーネって知ってますか?」と聞いてみたら「知っているどころじゃない、スパゲティウエスタンは私の一番好きな映画ですよ」といいだして話がバキバキに盛り上がってしまい、私の同行者たちは茫然としていた。ただこの人はモリコーネがこの町にやって来るということは知らなかったので、教えてあげたついでにチケットを買ったんだと自慢してやった。私自身が半信半疑なのを吹き飛ばしたかったのである。

 しかしその日3月9日マエストロは本当にやってきた。随分年を取っていた。もっとも世の中には年を取ると若い頃の顔の原型をとどめないほど容貌が変わってしまう人がいるが、そういう意味ではマエストロは本当に変わっていなかった。
 話に聞いていた通り立ち居振る舞いに仰々しいところが全くない人だった。ミュージシャンだろ指揮者だろがよくやるように、観客に投げキッスをしたり手を振ったり、果ては頭の上で手を打って見せて暗に観客に拍手を要請したりという芝居じみた真似は一切しない。普通に歩いてきて壇上に上がり、黙々と指揮をして一曲済むたびにゆっくりと壇から降りて聴衆に丁寧なお辞儀をする。そしてさっさとまた指揮に戻る。終わると普通に歩いて退場する。それだけだ。指揮の仕方も静かなもんだ。髪を振り乱したりブンブン手を振り回したりしない。とにかく大袈裟なことを全くしない。感動して大歓声を挙げる観客とのコントラストが凄い。
 次の日の記事にも書いてあったが映画音楽を演奏する際は壇上のスクリーンにその映画のシーンを映し出したりすることが多い。私の記憶によればジョン・ウィリアムズのコンサートにはクローン戦士だろダースベイダーだろのコスプレ部隊が登場して座を盛り上げていた。マエストロはそういうことも一切させない。スクリーンには舞台が大写しにされるだけ。間を持たせる司会者さえいない。つまりコンサートを子供じみた「ショウ」や「アトラクション」にしないのだ。いろいろと盛りだくさんにとってつけて姑息に座を盛り上げる必要など全くない。あえて言えばそういうことをやる人とは格が違う感じ。

 さて、コンサートでは『続・夕陽のガンマン』『ウエスタン』、『夕陽のギャングたち』をメドレーでやってくれた。『ミッション』で〆てプログラムを終了したが当然のことに拍手が鳴り止まず、アンコール三回。本プログラムにもあったEcstasy of Goldをもう一度やってくれた。私としてはさらにもう一度これを聴きたかったところだ。とにかく拍手をしすぎてその翌日は一日中掌と手首の関節が痛かった。また、席が遠いため双眼鏡を持っていってずっと覗いていたため目も疲れて翌日は視界がずっとボケていた。やれやれ、こちらももう若くはないのだ。

 コンサートの詳しい経過などはネットや新聞にいくらでも記事があるので今更ここでは述べないが、一つ書いておきたい。アンコールの3曲目にかかる直前、マエストロが壇上に楽譜を開いてから、突然「あれ、これでよかったかな皆さん?」とでも言いたげに観客の方を振り返ったのである。観客席からは笑いが起こった。それは「ひょうきん」とか「気さく」とかいうのとはまた違った、何ともいえない暖かみのある動作だった。小さなことだが非常に印象に残っている。
 このやりとりを私はこう考えている。モリコーネのコンサートでは曲の選択の如何にかかわらず、必ずといっていいほど後から「あの曲をやってほしかった」とか「この曲が聴きたかった」というクレームをつける人が現れる。まあ500もレパートリーがあるのだからそれも仕方がないかもしれないが、私は自分の知っている曲だけ聴きたいのだったらコンサートなんかに来ないで家でCDでも聴いていればいいのにと思う。好きな曲をやってくれなかったからといってスネるなんてまるでおやすみの前にママにお気に入りのご本を読んでくれとせがむ幼稚園児ではないか。それを世界のマエストロ相手にやってどうするんだ。少なくとも私は自分のお気に入りの曲を聴くために行ったのではない、モリコーネを見にいったのだ。そこで自分の知らない曲をやってくれたほうがむしろ世界が広がっていいではないか。
 そういう選曲についてのクレームというかイチャモンにモリコーネ氏は慣れっこになっていたに違いない。それで「これでよかったかな」的なポーズをとって見せたのではないだろうか。そして数の上から言えば私のような「モリコーネの音楽そのもの」を鑑賞しに来る観客の方が圧倒的に多いだろうから、「ははは、いますよねそういう人って。どうか何でも演奏して下さい、マエストロ」という意味合いで笑いが起こったのではないだろうか。

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