アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Dezember 2016

「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事はうちでとっている南ドイツ新聞に土曜日ごとに挟まってくる小冊子に『悪のネットの中で』というタイトルで2016年12月16日にのったものですが、長いので6回に分けます。

前回の続きです。

 Arvatoは大会社である。他の企業が抱え込んでいる仕事を引き受ける会社だ:コールセンター、マイレージサービス、発送センターなど様々な業務を担当する。40カ国以上で約70000人がこの外部委託サービス会社で働いている。Arvatoはメディアの巨大企業ベルテルスマンの大黒柱だ。ベルテルスマンの従業員の半分以上がこのArvatoに雇われた人たちだ。会社のウェブサイトには『何をして差し上げましょうか?』というモットー。
 フェイスブックの削除センターがベルリンにある理由の一つに、まさにドイツ当局からの圧力が次第に強まってきたということがある。ドイツ連邦法相のハイコ・マースがフェイスブックのドイツでの窓口を通じて、ドイツ語の投稿をきちんと検討して問題のあるものは速やかに削除するよう要請。目下ミュンヘンの検察がフェイスブックを民族扇動罪幇助の疑いで調査している。問題ありとされているのは会社が違法な内容をスムースに削除しないことが頻繁だからだ。
 2015年の初夏、Arvatoから派遣された少人数のグループがフェイスブックのヨーロッパ本部に招かれた。双方の企業が共同作業する取り決めができていたからである:この世界最大のソーシャルメディア企業にはそのサイトをきれいにしておくため協力が必要、Arvatoの経営者はそのためのチームをどう養成していったらいいか知っておかねばいけないというわけだ。2015年の秋に業務開始となったが、始めのうちはそういう仕事をやっていることは秘密にされた。
 フェイスブックとArvato間で交わされた契約の期間はどのくらいなのか?作業をさせるに当たって従業員にどのような準備をさせるのか?業務を開始する前にArvatoは「コンテンツ・モデレーション」が与える精神的重圧のリスクを見積もっていたのか?『南ドイツ新聞マガジン』はArvatoに19の質問リストを書面で提出しておいた。Arvatoはただ「依頼主のフェイスブックはArvatoとの共同作業についてジャーナリストの質問には全て回答を差し控えています」と説明するだけである。
 フェイスブック・ドイツも『南ドイツ新聞マガジン』がやはり書面で送った質問に対し、具体性に欠けるか、または「それについてはコメントできません」という回答をよこすだけである。フェイスブック側の説明が当紙がインタビューしたArvato側の現従業員、元従業員の言っていることと食い違っている点もいくつかある。例えばフェイスブックは、従業員は全員業務にかかる前にArvatoのフェイスブックチーム内で「6週間のトレーニング」と「4週間の個々訓練プログラム」が義務付けられているという。だが『南ドイツ新聞マガジン』が聞きだした従業員はほとんどがもっとずっと短い訓練期間しかなかったと報告している。2週間だったそうだ。

***

 Arvatoの削除チームは言語ごとに分けられている。廊下では英語で会話をしているが、それ以外ではチームの言語で話す:アラビア語、スペイン語、フランス語、トルコ語、イタリア語、スウェーデン語。それからもちろんドイツ語も。チームはそれぞれの言語地域から投稿された内容を見て回るのだが、中心となる内容は大抵同じようなものだ。

順番待ちのキューから出てくるのはランダムに選ばれた画像です。動物虐待、ハーケンクロイツ、ペニス...

 とても正視できないような画像を処理していくのに、チームによっていろいろ違ったやり方になる:スペイン人はお互いそれらを見せ合う、アラブ人はむしろ引きこもりがち。フランス人は黙々としてコンピューターの前に坐っていることが多い。

最初は私たちも昼休みなどにポルノが多いことなんかに冗談を飛ばしていましたよ。でもそのうち皆気が滅入ってしまいました。

 削除すべきか否か?決めるとすぐに次の課題がスクリーンに現れる。処理した件数(「チケット」と呼ばれる)はスクリーンに表示されてわかるようになっている。

画像はドンドンひどくなっていきました。トレーニングで見たより遥かにひどかった。けれどそれってつまりあなた方が私の故国の新聞で目にするものなんですよね。暴力、メチャクチャにされた死体・・・

部屋から突然誰かが飛び出していくなんてしょっちゅうでした。外に走っていって泣き叫ぶんです。

 従業員が『南ドイツ新聞マガジン』に話してくれたディテールには、残酷すぎて活字にできないようなものがある。以下の描写などすでに十分耐えがたいだろう。

犬が一匹つながれていました。裸の東洋人女性がその犬を焼けた鉄でいじめてたんです。その上犬に煮え湯をかける。そういうのを見るとフェチで性的に興奮するような人たち向けです。

子供のポルノが一番ひどい。こんな小さな子供が、まだ6歳以上にはなってないだろうに、上半身裸でベットに横たわっている。その上に太った男がのしかかってその子を暴行するんです。クローズアップ映像でした。

 このような内容を割り当てられた者は言ってみればドアマンとベルトコンベア作業員を足して2で割ったような仕事をするわけだ:これはフェイスブックのサイトに残ってていい。クリック。これは駄目。クリック。最初FNRPチームの要員は一日およそ1000件のチケットを処理するように言われた。つまりフェイスブックのややこしい規約項目に反するかどうかの判定を千回するのである。この規約項目はいわゆる「協同体スタンダード」を呼ばれるもので、何はサイトで公開してよくて何は削除すべきか定めてある。

そのうち斬首のシーン、テロ、裸の画像などが出てくるようになりました。あとからあとからペニス。数え切れないほどのペニス。繰り返し繰り返しものすごく残酷な映像。どのくらいの数だったかとか、はっきり言えません。その時々で違いますが、まあ少なくとも一時間に1件か2件かは絶対あるな。とにかく毎日何かしら恐ろしい目に会います。

2・3日後に最初の死体を見ました。ものすごい血。もうゾッとしてしまいましたよ。画像はすぐ削除しました。そしたら上司が私のところに来て言ったんです。「そりゃ間違いだよ。この画像はフェイスブックの協同体スタンダートに違反してない。」って。この次はもっときちんと仕事をしなさい、と。

***

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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事はうちでとっている南ドイツ新聞に金曜日ごとに挟まってくる小冊子『南ドイツ新聞マガジン』に『悪のネットの中で』というタイトルで2016年12月16日にのったものですが、長いので6回に分けます。

フェイスブックには毎日暴力ビデオや子供ポルノやヘイトスピーチなどが姿を見せる。多くは削除される。だがどんな基準で?そして誰が?フェイスブック側ではそのどちらについても秘密にしている。『南ドイツ新聞マガジン』は、ベルリンでフェイスブックの投稿の削除作業をしていた、Arvatoという会社の従業員を探し出した。閉ざされた世界、ゾッとするような仕事を一瞥してみよう。

執筆
ハネス・グラースエッガー
ティル・クラウゼ


 2015年の夏、インターネットにさる求人広告が載った。『サービスセンター従業員募集。将来性のあるインターナショナルなチームの一員になりませんか?』求められるのは外国語の知識、柔軟であること、時間を守ること。職場:ベルリン。
 
その広告を見たとき思いましたよ、こりゃラッキーだって。そのときちょうどベルリンでドイツ語ができなくてもいい仕事を探していたんです。

こう述べた人は名は出さないで欲しいとのことだった。この人が応募した仕事であるが、発生したのが最近すぎてまだきちんとした名前さえついていない。求人広告を見た限りではコールセンターのような感じで、応募者が実際にやらされることになる仕事とは違う:何人かこの仕事を「コンテンツ・モデレーション」と言う人がいるが、別の人はまた「デジタルごみ処理作業」と呼んでいる。ここで人々がやらされるのは、依頼主のインターネットのサイトをきれいにしておくことである。あらゆるヘイト投稿やホラー投稿を全てクリックして見てまわって、削除するか否かも決定を下さねばならない。その実態がほとんど知られていない仕事だ。そもそもそんな仕事が存在することすら知らない人が多い。
 長い間、その種の作業は新興工業諸国、インドやフィリピンなどのサービス業者が引き受けているというのが常識だった。こういった会社の一番のお得意先の一つがフェイスブックである。このソーシャルメディア企業はドイツに2800万人、世界で18億人のユーザーを抱えているが、毎日山のように投稿される危険な内容のコメントをどのようにして削除するかについてはほとんど何も知られていない。
 今年の1月になってようやくわかったのだが、ベルテルスマン(訳者注:ドイツの大メディア企業)の子会社Arvatoを通してベルリンでも100人以上の従業員が「コンテンツ・モデレーター」としてフェイスブックのために働いている。その作業に対するフェイスブックの報酬はどれだけか、またいかなる基準で作業員が選ばれるのか、こういったことについては企業は情報公開しないのが普通だ。
 『南ドイツ新聞マガジン』は数ヶ月にわたってArvatoの元従業員や現従業員と何人も話をした。ジャーナリストと口と聞くことは上司から禁止されていたのだが、彼らはどうしても自分の話を人に聞いてもらいたがった。その多くが自分は雇用主からひどい扱いを受けたと感じ、毎日見続ける画像から苦しみを受け、ストレスや過労を訴え、自分たちの労働環境のことが明るみに出されるべきだと考えている。仕事のヒエラルキーが下の者もいるし、ずっと上のほうの人もいる。出身国は様々、言語も様々である。すでに退職していたり近く退職する予定だったりで実名で挙げてもらいたがった者さえいた。しかし当方ではソースはすべて匿名にすることにした。従業員は全て企業秘密を守るという契約に署名していたからである。この記事では彼らの証言はイタリックで表すことにする。インタビューはベルリンで直接本人と会うか、スカイプまたは非公開のインターネットコミュニケーションを通して行なった。

***

 応募者の大部分はいろいろな理由でベルリンに「来てしまった」若い人たちである:愛のため、冒険心のため、あるいは大学で勉強するため。シリアからの難民も多い。皆「ドイツの大企業で仕事、しかも定職、基本期限付きではあるがとにかく定職」という展望に非常に心をそそられたのだ。面接は早々に済んでしまうのが普通、そこで聞かれるのは外国語の知識とコンピューターの経験があるかどうかということだ。たったひとつ応募者をいぶかしがらせた質問があった:「心に動揺を与えるような画像に耐えられますか?」

初日に仕事の研修トレーニングがありました。私たちは30人くらい研修室に集められていました。国はもう様々:トルコ、スウェーデン、イタリア、プエルト・リコ。シリアの人も大勢いました。

トレーナーは満面に笑みを浮かべて部屋に入ってきて言いました:あなた方は本当に運が良かったんですよ。フェイスブックの仕事をするんですから!と。皆歓声を挙げましたよ。

研修で従業員はArvatoでの就業規約を説明された。1.どこの仕事をしているか誰にも知らせてはいけない。フェイスブックの名を自分の履歴やLinkedInのプロフィールなどに書いてはいけない。家族にさえも仕事内容を漏らしてはいけない。
 Arvatoのトレーナーはさらに新入社員にその職務内容をこう説明した:「あなた方はフェイスブックを清掃して、でないと子供たちが見てしまうような内容をきれいにするんです。そういう内容を削除してプラットフォームからテロやヘイトをなくすんです。」
 元従業員に『南ドイツ新聞マガジン』のインタビューに際してこの研修を「吹き込み」と名付けていた人がいた:従業員たちが、この(彼の言うところによると)「くだらない退屈な仕事」は社会を守るために役立っているんだという気になるように仕向けているからだ。あくまで社会のためであって、何十億人ものユーザーを抱えている超大企業のフェイスブックの個人的利益のためなんかじゃない、できるだけ長い間ユーザーをサイト内に引き止めておくのが目的の企業が、ユーザーが逃げないようにあまり人を動揺させるようなものは目に触れないようにしておかないといけない、と考えたからじゃない、というのである。

研修トレーニングでは画像を見せられましたがそんなにひどいものではなかったですよ:形も大きさもいろいろなペニスの画像とか。私たちクスクス笑ってしまいました。そんなものを仕事中に眺めるというのもおかしなもんです。まあこういうのはすぐ削除せよと。あと裸の乳首とかも。

一度、この仕事をもっと長くやっている人たちと晩に飲んだことがあります。ビールを何杯かやったあとで一人が言いました:悪いことは言わない、できるだけ早くこの仕事をやめることだ。でないとあなた方ダメになるよ。

従業員は入社に際して書類を渡されるが、そこには秘密保持の約款のほかに健康上リスクもリストアップされていた:背中の痛み、モニターを長時間眺めるために起こり得る目の機能の低下など。残酷な内容や映像を長時間読み、眺め続けることによって生じ得る精神障害についてはなんの記述もなかった。その書類の他に新入りのArvato社員にはベルリンの市電マップが手渡され、そこにはHave a good time in Berlinと記してあった。

***

 ベルリンのジーメンシュタットのヴォールラーベダムにある仕事場は実に飾り気のないところである。以前工場だった建物、れんが造り、中には細長い白い一人用の机が何列か並んでいる、その上に黒いコンピューターと白いキーボード。人間工学にそって作られた事務用の椅子、灰色の事務所用カーペット。数十人の仕事場。仕事中の携帯電話は労働契約によって厳格に禁止されている。一階にはスナック菓子と、コーヒー・ココアの自動販売機。喫煙者のために大きな中庭。建物内には他の会社も入っている。

ログインして順番待ちキューに向かうんです。報告を受けた投稿が何千も集められているとこ、そこにクリックして入る、と。さあ仕事開始です。

投稿内容を自動的に選り分けるフィルター機構はある、と元従業員の一人は言っている。だが画像やビデオの場合、医学的な手術のなのか死刑のシーンなのか区別し分けるのはコンピューターでは難しいのだ。それでベルリンのチームがチェックしなければいけない投稿というのは大部分がフェイスブックのユーザーが不快な投稿として通報してよこしたものだ。『この投稿を通報する - この内容はフェイスブックに載せるべきではないと思います』というあの機能である。

私は人間の善に真剣に疑問を感じさせられるような内容のものを見ました。拷問とか動物とのセックスとか。

報告された投稿はヒエラルキーの最も低い従業員のところに送られる。そのチームはFNRPというが、これはFake Not Real Personという意味だ。チームは、ユーザーが問題ありと報告してきたテキスト、画像やビデオのどれが本当にフェイスブックのいわゆる協同体スタンダードに反するのか、選び出さねばいけない。第一歩として、その内容がプロフィールに本名を使っているアカウントから投稿されたものかどうか調べる。そうでない場合は(それだからFake Not Real Personというのだ)その架空のプロフに削除警告が送られる。そのユーザーがそれに対してしかるべき自己証明をしなかった場合はアカウントそのものが削除される。そうやって禁止された内容を広めるために特に作られたプロフィールに対処するのだ。
 FNRPチームの週あたりの労働時間はほぼ40時間、2交代で8時半から夜10時まで。月収はだいたい税込みで1500ユーロ(訳者注:約20万円)、最低賃金の時給8ユーロ50セントをやや上回る程度である。
 「コンテンツ・モデレーター」になるとヒエラルキーがひとつ上で、ビデオも検査する。決めるのが特に難しい場合は「サブジェクト・マター・エキスパート」が始末をつける。その上にさらにチームのボスがいるが、その仕事は精神的重圧が少ないということになっている。ショックを与えるような投稿を見たりすることがほとんどないからである。

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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 ドイツ語をやると必ず覚えさせられるのがいわゆるDiminutiv(「縮小辞」)という形態素だ。普通名詞の後ろにくっついて「小さいもの」を表す縮小名詞を作る。明治時代には時々「メッチェン」などというトンでもないフリガナをふられていたMädchen(メートヒェン、「少女」)が最も知られている例だろう。これはMade +  chenで、-chenがこの縮小辞だから、本来「小さいMade」、「小さい女性」という意味である。もっともここでは語幹のMadeが単独の語としては消失してしまったため、縮小辞つきのMädchen しか今のドイツ語にはない。その他に-lein(単語や方言によっては -le、-li あるいは-el)も縮小辞である。Mädchen の代わりに Mädle あるいは Mädel と言っても意味は同じ。ただニュアンスが少し違い後者の二つは日常会話的である。Fräulein(「お嬢さん」)の-lein も本来縮小辞なのだが、最近はFräulein という言葉自体があまり使われなくなってきているし、この単語もFrau+leinと分けることは出来ず、全体で一つの単語だろう。
 しかしこの縮小辞は確立した単語だけに見られるのではなく、造語用の形態素として日常会話でも頻繁に使われる。例えば「ひよこ」をKüken(キューケン)あるいはKücken(キュッケン)というが、私などはあのモフモフ感を強調するためこれに-chenをつけてKückchen(キュックヒェン)と言わずにはいられない。「ひよこさん」である。アヒルに対しても単にEnte(エンテ)などと辞書どおりに呼ぶと無愛想すぎるのでいつもEntlein(エントライン)、Entchen(エントヒェン)である。いちどアヒルにつけるのは-chenがいいのか –leinがいいのかネイティブに聞いてみたことがあるが、「好きにしろ」とのことだった。
 縮小辞をつけた単語は辞書に載っていないこともあるので、会話でこれを使うと「私は辞書に載っていない言葉を使っているぞ!」ということで、まるで自分のドイツ語が上手くなったような錯覚を起こせて気持ちがいいが、実はこの縮小形使用には気持ちのほかに実際的な利点があるのだ。
 ドイツ語の名詞には女性・中性・男性の三つの文法性があるが、これがロシア語のように名詞の形によっては決まらない。もちろんある程度形から推すことはできるが、Bericht(ベリヒト、「報告」)が男性、それと意味も形も近いNachricht(ナーハリヒト、「報告」)が女性と来ては「何なんだこれは?!」と思う。ところが-chenであれ-leinであれ、この縮小辞がついた語は必ず中性になるのである。だから名詞の文法性が不確かな時はとにかく縮小辞をくっつけて名詞全体を中性にしてしまえばいい。日本語でも丁寧な言葉使いをしようとしてむやみやたらと「お」をつける人がいるが、それと似たようなものだ。日本語の「お」過剰がかえって下品になるように、ドイツ語でも縮小名詞を使いすぎるとちょっとベチャベチャして気持ちわるい言葉使いにはなるが、文法上の間違いだけは避けられる。
 ロシア語には-ик(-ik), -нок (-nok), -к (-k) といった縮小辞がある。たとえば

дом (ドーム、「家」)→  домик (ドーミク、「小さな家」)、
стол (ストール、「テーブル」)→  столик (ストーリク、「小さなテーブル」)
медведь (メドヴェーチ、「熊」)→  медвежонок (メドヴェジョーノク、「小熊」)、
ухо(ウーハ、「耳」) →  ушко (ウーシコ、「小さな耳」)、
заяц (ザーヤツ、「兎」) →  зайчик (ザーイチク、「小さい兎」)

 この -ik についてはちょっと面白い話を聞いたことがある。ロシア語ばかりでなくロマニ語でもこの -ik が使われているが(pos 「埃」→ pošik)、この縮小辞はアルメニア語からの借用だという説があるそうだ。クルド語にもkurrik (「少年」)、keçik(「少女」)などの例があるらしい。同じスラブ語のクロアチア語では男性名詞には-ić(komad 「塊」→komad), -čić(kamen「石」→ kamenčić), -ak (cvijet「花」→ cvijetak)、女性名詞には-ica(kuća「家」→ kućica), -čica(trava「草」→ travčica), -ka(slama「藁」→ slamka)、そして中性名詞だと-ce(brdo「山」→ brdašce)、 -če(momče 「少年」、元の言葉は消失している)を付加して縮小名詞を作るが、ロシア語とはちょっと音が違っている。この違いはどこからきたのか。考えられる可能性は3つである:1.ロシア語の-ikはアルメニア語からの借用。クロアチア語が本来のスラブ語の姿である。2.どちらの形もスラブ語祖語あるいは印欧祖語から発展してきたもの、つまり根は共通だが、ロシア語とクロアチア語ではそれぞれ異なった音変化を被った。3.ロシア語とクロアチア語の縮小辞は語源的に全くの別単語である。クロアチア語の -ak など見ると -k が現れているし、c や č は k とクロアチア語内の語変化パラダイムで規則的に交代するから、私は2が一番あり得るなとは思うのだが、きちんと文献を調べたわけではないので断言はできない。

 さて、縮小形の名詞は単に小さいものを指し示すというより、「可愛い」「愛しい」という話者の感情を表すことが多い。「○○ちゃん」である。上のひよこさんもアヒルさんも可愛いから縮小辞つきで言うのだ。そういえばいつだったか、私がベンチに坐って池のEntleinを眺めていたら(『93.バイコヌールへアヒルの飛翔』の項で話した池である)、いかにも柔和そうなおじいさんが明らかに孫と思われる女の子を連れてきて「ほら、アヒルさんがいるよ」と言うのにуточика(ウートチカ)と縮小辞を使っていた。ロシア人の家族だったのである。普通に「アヒル」ならутка(ウートカ)だ。
 逆にあまり感情的な表現をしてはいけない場合、例えば国際会議などでアヒルやひよこの話をする時はきちんとEnte、Kükenと言わないとおかしい。この縮小辞を本来強いもの、大きくなければいけないものにつけると一見軽蔑的な表現になる。「一見」といったのは実はそうでもないからだ。Mann (「男、夫」)のことをMännchenとか Männleinというと「小男」「チビ」と馬鹿にしているようだが、Männchenなどは妻が夫を「ねえあなた」を親しみを込めて呼ぶときにも使うから、ちょっと屈折してはいるが、やはり「可愛い」「愛しい」の一表現だろう。Männchenには動物の雄という中立的な意味もある。
 ロシア語のнародишко(ナロージシコ)はнарод(ナロート、「民衆・民族」)の縮小形だが、これは本当に馬鹿にするための言葉らしいが、ロシア語とドイツ語では縮小辞にちょっと機能差があるのだろうか。

 縮小辞の反対が拡大辞augumentativeである。この形態素を名詞にくっつけると「大きなもの」の意味になる。ネットを見てみたらドイツ語の例として ur-(uralt 「とても古い」)、über-(Übermensch「超人」)、 aber- (abertausend「何千もの」)が例として挙げてあったが、これは不適切だろう。これらの形態素はむしろ「語」で、つまりそれぞれ語彙的な意味を持っているからだ。しかも -chen や -lein の縮小辞とちがって全部接頭辞である。単なる強調の表現と拡大辞を混同してはいけない。
 ロシア語には本当の拡大辞がある。-ище (-išče)、–ина (-ina)、–га (-ga) だ。縮小辞と同じく接尾辞だし、それ自体には語彙としての機能がない:дом (「家」)→ домище (ドーミッシェ、「大きな家」)またはдомина (ドミナ、「大きな家」)、 ветер(ヴェーチェル、「風」)→ ветрога(ヴェトローガ、「大風」)。クロアチア語には-ina、-etina、-urina という拡大辞があり、明らかにロシア語の –ина (-ina) と同源である:trbuh (「腹」)→trbušina (「ビール腹、太鼓腹」)、ruka(「手」)→ ručetina (「ごつい手」)、knjiga (「本」)→ knjižurina(「ぶ厚い本」)。この縮小形はそれぞれ trbuščić(「小さなお腹」)、ručica (「おてて」)、knjižica(「小さな本」)で、上で述べた縮小辞がついている。
 クロアチア語は縮小形名詞ばかりでなく、拡大形のほうも大抵辞書に載っているが、ロシア語には縮小形は書いてあるのに拡大形のでていない単語が大部ある、というよりそれが普通だ。辞書の編集者の方針の違いなのかもしれないが、もしかしたらロシア語では拡大辞による造語そのものが廃れてきているのかもしれない。クロアチア語ではこれがまださかんだということか。
 また、拡大形は縮小形よりネガティブなニュアンスを持つことが多いようだ。 上の「ビール腹」も「ごつい手」も純粋に大きさそのものより「美的でない」という面がむしろ第一である感じ。さらにクロアチア語にはžena(「女」)の拡大形で ženetina という言葉があるが、物理的にデカイ女というより「おひきずり」とか「あま」という蔑称である。
 だからかもしれないが、さすがのクロアチア語辞書にも「アヒル」(patka)については縮小形の patkica しか載っていない。ロシア語も当然縮小形の「アヒルさん」(уточика)だけだ。この動物からはネガティブイメージが作りにくいのだろう。例の巨大なラバーダックも物理的に大きいことは大きいが、それでもやっぱり可愛らしい容貌をしている。


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 日本は学歴社会だと平気でいう人がいるが、私は次の2点からこれには賛成しかねる。第一に学歴の意味を取り違えている人が結構いるし、第二に日本はむしろ学歴無関係社会だからだ。

 学歴あるいは高学歴云々の話になると真っ先に大学名を持ち出す人がいるのが学歴の意味をわかっていない証拠である。学歴というのは何処の大学を出たかという事ではない、学士・修士・博士の区別のことだ。だから「東大出という高学歴」という言い方は本来成り立たない。東大でも学部しか出ていない人より、俗に言うFラン大学でいいから博士まで持っている人のほうが高学歴。海外で履歴書を書かされればFラン博士のほうがずっとツブシが利く。
 日本にはさらに不思議な現象がある。普通は学士・修士・博士と進むにつれてその資格を持っている人の数がゆるやかに減っていくのが筋であるのに、日本は学士に比べて修士の人数が異常に少ない。学士はやたらといるが修士でガッタリと減るのである。特に人文科学系はそうだ。日本語に「大学院」などという意味不明の言葉があるのが、学士対修士・博士と観念的にきっぱり2分割されているいい証拠だ。こちらは学士も修士も博士も単なる大学出である。
 ドイツは歴史的な事情もあって学士より修士の方が多い。昔は学士など大卒扱いしてもらえず高卒と見なされてエライ迷惑を被った話は以前にも書いたが(『2.印欧語の逆襲』参照)、これは学制が変更された今でもそんな感じで学士で大学を出てしまうと人から「どうして途中で止めちゃったの?」と聞かれたりする。また、修士も多いが博士も多い。博士など大卒の一種だから、博士持ちの大部分の人は「普通の職業」につく。「博士=研究者」というトンチンカンな連想をされることもない。ドイツの大企業の経営陣などほとんど経営学博士だし、政治家もそう。前コール首相は法学博士、現メルケル首相は物理学博士である。大新聞の記者、コラムニストなども多くが博士号を持っている。職業安定所(ハロワと言え)の職員に博士持ちがいたのを見たことがある。仕事を探している博士号所有者の希望などをきちんと理解し、適切な求人情報を見つけてあげるには職員もそれなりの学歴がないと話がかみ合わないからか。以前ユーゴスラビア紛争の際、当地のNATO軍やコソボ平和軍の総指揮をとったドイツ国防軍のラインハルト将軍は歴史学の博士で(まさに文武両道だ)、引退した今も時々TVに出てきて歴史解説などとしている。さらに『荒野の用心棒』でマリソル役をやったドイツ人女優マリアンネ・コッホは医学博士である(彩色兼備とはまさにこれ)。
 もちろん例外もあるが、学士や修士しか持っていないような学歴の人はこちらでは政治家や企業家として達せる地位が非常に限られているといっていい。日本は学歴社会などとは言えない。ヨーロッパの学歴社会は日本より遥かに厳しいと私は思っている。

 しかもその大学卒とやらが、日本では入学者数と卒業者数がほぼ一致するという異常現象。本来大学と言うところはそんなにホイホイ卒業できるところではないはず、最後の一年間など就職活動をしながらの片手間の勉強で出られるようなところではないはずなのである。アメリカも簡単に卒業させてくれないという話を聞いたことがあるが、ドイツも学部によっては40%以上消えるところもある。これは大学をやめるというより学部を変わる人が多いということだが。だから、日本特有の「学歴より実力」という言い回しは成り立たない。大学を出た人は大抵実力ももっているからである。こういう言い方を何の疑問もなくする人がいるという事自体語るに落ちるでいかに日本には名前だけの学士が多いかの証拠ではあるが、それは世界的に見れば例外現象である。
 また、大学○年生という言葉がこちらにはない(「○回生」などというキモイ言葉は論外)。第一に大学在学期間はゼメスター(学期)で勘定するのが普通だし、終了資格取得のプランは学生各自バラバラで一斉にいちねんせい・にねんせいなどと進んでは行かないからである。もっとも自然科学系や医学系などは結構きっちりプログラムが決まっているらしいが、それでも留年という言葉は大学生には使わない。そういう言い方をするのは子供の学校までだ。その上ドイツでは入学とか卒業と言わずにそれぞれ登録、終了認定といい、日本やアメリカのような式の類が全くない。ギムナジウムの終了資格を貰ったら行きたい大学の事務局で「登録手続き」をする、これが入学である。だから一人一人入学の日が違う。
 入学よりさらにバラバラなのが卒業だ。登録のほうは大学の冬学期が始まる前の3ヶ月ほどの間に集中しているが、卒業、つまり終了認定というのは論文が受理され、教授たちのOKが出て事務局から終了証書が出された日だから年中無休、本当に各自バラバラである。つまり卒業というのは「事務局に行って紙切れを貰ってくること」、それだけである。

 日本では学士がいわばレミング状態、もっと露骨に言うとミソもクソも学士なのに対して、修士・博士号になると突然やたらとモッタイをつける。つまり学士号はとてもその資格がないような者にまでホイホイ与える一方、修士・博士は資格を十分に持っていても与えないのである。私は日本のいわゆる大学院という所にはいたことがないのだが、つい最近になって博士号に「論文博士」「過程博士」などという意味不明の区別があると知って驚愕した。そんな区別はこちらにはない、一律「修士号保持者であり、規定の単位を取り、論文が認められれば博士」である。年数制限などあまり厳しくやっても意味がない。論文の内容によってはどうしても時間が必要だったりするからだ。もちろん、あまりにも進み方が遅いと指導教授のほうがシビレを切らせて辞めさせられたりすることもないではないし、そうこうしているうちに指導教授が亡くなってしまい、博士論文が宙に浮いてしまったという冗談のような目に会った知り合いが実際にいるが、それはまた別の話である。
 そもそもいい大学というのは、成績のいい学生だけを集め、そのもともと成績のいい学生にホイホイ卒業スタンプを与えて出させる大学のことではない、多少出来の悪い学生でも入学させれば、優秀な人になって出てくることの出来る大学である。日本など逆に入学した時より馬鹿になって出てくる学生が(私のことだ)後を絶たないではないか。

 もっとも日本だって昔はこういうレミング大学・ミソクソ大学ではなかったらしい。明治時代の小説などを読めば、いや昭和初期に大学を出た人の話でさえ、在学期間も入学年齢も結構バラバラで、就職活動など卒業してからおもむろにし始めるのが普通であったことがわかる。
 つまりこのレミング大学制を推進したのは大学のほうではなくて企業側ということだろうか。戦後すぐの時期に経済復興のベルトコンベア体制に合わせたものであろう。新卒採用と中途採用などというこちらでは説明してもわかってもらえない区別、いやほとんど「差別」があるのもそのせいではないだろうか。この日本語を聞くと私はいつもドイツ語のFrischfleisch(フリッシュフライシュ、「新鮮な肉」)という言葉を思い出す。入ってくるものは新鮮な程いい、加工されていないほうが、つまり下手に能力や自分の考えを持っていないほうがいい、というわけである。それとも江戸時代の外様と親藩の区別をいまだに引きずっているというわけか。

 日本が経済的に羽振りが良かった時期などもう今は昔であるのに相変わらず大学でレミング卒業、企業で外様の差別などやっていて大丈夫なのか?

 さて、日本では特に人文科学系の博士が異常に少ないことは時々日本の知人とも雑談の話題になるのだが、何人かこんな話をしていた(ただし私自身で事実の確認はしていない):日本には博士号すら持っていないのに大学教授をやれてしまっている人が少なからずいる。そういう無博士教授は自分より高い学歴を学生に与えることができない、つまり権限がないのだ、と。この話が本当だとするとこれは低学歴の連鎖である。
 そういえば、私の友人にも大学で教鞭を取っている経験の長さといい研究成果の発表ぶりといい、こちらならとっくの昔に博士号を持っていそうなのに出してくれる資格のある人が見つからず、延々と放浪した人がいる。それでも最近では結構博士号を出すようになってきたとのことだが、その理由が「欧米に出ていってそこで博士取ってくる教授が増えたからね。日本にいたんじゃ埒があかないし」ということだそうだ。つまり言葉の苦労を割り引いてもアメリカで博士を取ってきたほうが早いということか。もちろんこの「早い」というのはアメリカの大学が一旦入学すれば誰でもスコンスコン博士を出す、ということでなく、勉強の制度が整っている、という意味であるが。

 ドイツは日本より厳しい学歴社会、ということはつまりドイツの社会は権威主義、階級社会なのかとも思う。確かにある面ではそういうところもあるが、一方日本よりずっと開かれていると感じられる部分がある。これは英語も同じで中学生の頃mathemacian とかbiologistという単語が「大学の数学あるいは生物学教授」も「数学あるいは生物学専攻の学生」も表すことができると聞いて驚いたのを今でも覚えている。Linguistもそうで、これを「言語学者」などと訳してしまうと研究者や大学教授以外はLinguistを名乗れないような感じになってしまう。これらの言葉は本来「言語学・者」「生物学・者」「数学・者」と形態素分解すべきで、「言語学をやる者」、つまり言語学概論の初日に授業を受けに来た学生もノーム・チョムスキーも一律に言語学・者なのである。もっともチョムスキーはLinguistと呼んだほうがいいかもしれないが、とにかく教授だろ学生だろの社会地位は区別しない。研究者なら本来「言語学学者」と「学」がダブっているはずだと思うが、その「学」が一つ落ちている「言語学者」という日本語を「言語・学者」と誤分析するから話が通じなくなるのだ、アメリカから来た20歳くらいの若い学生がI’m a linguistといったのを「ほう、お若いのに学者さん。頭いいんですね」とか間の抜けた解釈をしてしまいかねない。


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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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