アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juni 2016

 もとから高いとはいえなかったロシア語を読む力がめっきり落ちた、というか「なくなった」状態だったのでこれはヤバイと思い、積読してあったトルストイの短編хозяин и работник(ハジャーイン イ ラボートニク、「主人と下男」)を引っ張り出して読んでみたことがある。

 ロシア語原文にドイツ語の対訳がついた本だが、実は私はこの「対訳」というのが語学で役にたったためしがない。高校や大学のときなど日英あるいは日独対訳本をよく買ったものだが、どうしてもつい日本語の訳だけスースー読んでしまい、肝心の原語のほうは素通り、そして日本語だけ読んでストーリーがわかってしまうと、もうわざわざ英語のテキスト見直す気がしなくなって結局何のプラスにもならなかった、という最悪のパターンで終わるのが常だった。
 出版社のほうもそこら辺のことはお見通しらしく、学生用には全訳は載せないで、その代わり所々解説を加えるリーダー形式を出すのが普通だったが、こちらはこちらでまた問題があるのだ。校正者と波長が合わないとイライラの連続になるのである。すでに知っている単語とか文法について延々とくどく説明してある一方、説明してもらいたい肝心の部分の解説がスッポリぬけていたりすることが度重なるとなんかこう、全く話の通じない人と会話をしているような気になって来て、やっぱり途中で投げ出してしまう。私の本棚にはそうやって途中で投げ出された英語ドイツ語のリーダーの死体が山積みになっている。
 幸いと言うか、対訳がドイツ語だとロシア語と比べると差があるとはいえ日本語のように光速では意味が頭に入ってこないから目は嫌々原語に向かい、対訳だけ読んで終わるというハメに陥らず一応全部原語のほうを読み通せた。やれやれ。

 主人公は手広く商売をやっている金持ちとその下男で、ある日例によって「おいしい商談」をしに出かけたところが途中で吹雪に襲われて道に迷う。ロシアの冬の吹雪だ、即凍死を意味する。金持ちのほうはそれまでお金お金でやってきて、「貧乏な奴は努力と頭が足りないんだ」という価値観だったので、吹雪の中で立ち往生した時、自分が今まで築いてきた富、まだ受け取っていない代金、社会での地位などが惜しくてとてもここで死ぬ気にはなれず、街道に出ようとやたらとあちこち走り回って馬を疲れさせ墓穴を掘る。ところが下男のほうは、この吹雪で視界ゼロのところを走り回ったってどうしようもない、じっとしているに限る、死んだら死んだでその時だ、とビバークして凍死の危険をものともせずに悠々と寝だす。これぞまさにБез денег сон крепчеという格言(『10.お金がなければ眠りは深い』の項参照)そのものだ。
 しかし死を前にして主人のほうも人格が浄化され、ついに自分の命を犠牲にして下男の命を救う。死ぬことに対してもはや悲しみも運命に対する怒りも感じず、下男が生き延びるという事は即ち自分も共に生きるということだ、と喜びさえいだくようになる。

 トルストイは晩年には死と信仰をテーマにし続けたが、この作品もそうだ。このхозяин и работникのほうがあの有名な『イワン・イリッチの死』より十年近く後に書かれている。また、言うまでもないことだがこれは短編だったのでかろうじて読破できたが、『戦争と平和』のほうはこの先も原語なんかでは読めそうもないので悪しからず。「やれずに終わってしまうこと」が人生には多すぎる。というより「達成したこと」がまったくない人生で終わってしまいそうだ私は。

 さてドイツ語訳とロシア語原文を比べていて気づいたことだが、ドイツ語のテキストのほうが1割から2割くらい、ページによっては2割5分くらい長い。ロシア語はいわゆるゼロ代名詞をガンガン許すし、シンタクスが複雑でちょっと格を変えただけで微妙に違うニュアンスを表せるから、必須の文構成要素でがんじがらめになっているドイツ語や英語なんかよりずっと短くてすむのだろう。実際ロシア語でよく意味が取れなくてドイツ語の「答え」を見たが、それでもなおよくわからなかった部分がある。例えば

- Бегу ей настоящего нет, снежно, - сказал Василий Андреич, гордясь своей хорошей лошадью.

私は慌て者なのでбегу(ビェグー)と見ると早とちりして「ああбежать(ベジャーチ、「走る」)の一人称単数形だな、そのくらいの不規則動詞の変化は知ってるぞふふん」と自己陶酔交じりの解釈をしてしまいそうだが(実は実際にしてしまった)、それではこのセンテンスの意味が全然つながらない。もう一度よく見直して考えてみてもやっぱりわからないのでドイツ語の「回答」を盗み見してしまった。

"Er kann nicht so schnell wie üblich laufen, zu viel Schnee", sagte Wassilij Andrejitsch, der stolz auf sein gutes Pferd war.

「馬の奴いつもみたいに早くは走れませんや、この雪じゃね。」と自分の素晴らしい馬がご自慢のヴァシリー・アンドレイッチが言った。

するとこのБегуというのは動詞ではなくて名詞бег(ビェーク、「疾走・駆け足」)としか考えられないが、問題はこの格である。普通に考えればこれは与格だ。自然さを無視して直訳すると「走りぶりには本来のものがない、雪である」。しかしこれで完全に納得はできないのである。このセンテンスにはすでに与格の代名詞ей(「彼女に」、ここでは「馬に(とって)」)が存在しているからだ。つまりこれはダブル与格になっているわけで、「こういうのってアリなのか?」と戸惑ってしまった。といってこのБегуを与格以外の格と解釈しようとすると生格しかありえない。нет(「ニェット」)という否定詞があるから名詞が生格になり、やっぱり生格の形容詞настоящего(ナスタヤーシェヴォ、「本来の・純粋な・現在の」)がこれにかかって「馬には本来の走りっぷりがない」。意味としては合っている。が、この、-уで作る生格というのは非常に限られた名詞にしか許されておらず、辞書に必ず「この名詞は-уでも生格を作ります」と明記してあるはずなのだ。бегの項にはその指示がないから生格形はбегаという形しかありえないはずだ。それとも僻地の農民層はбегの生格を-уで形成することもあったのか?
 
 まあダブル与格だろうが否定の生格だろうがおおよその意味は違わないからどっちでもいいやという気になって(だから私はいつまでたっても語学が上達しないのだ)、次にソルジェニーツィンの『マトリョーナの家』の露独対訳本をみてみると、こちらもやはりドイツ語のほうが長いとはいえ、現代文学であるせいかトルストイより大分差が縮まっている。それでもロシア語では簡単な文構造で言いあらわせることがドイツ語では「説明」になってしまっている部分が散見された。

Из графика вышел?
~から + ダイヤ・時刻表 + 離れた・脱した
時刻表から離れたのか?


というたった3語からなるセンテンスがドイツ語では、

War der Fahrplan nicht eingehalten worden?
時刻表通りに運転しなかったのか?

と倍の6語になっていた。

 さらにしつこくガルシンの『あかい花』だが、これはドイツ語とロシア語のテキストの長さの差がトルストイよりさらに激しかった。ガルシンはトルストイより前の時代の作家である。

 そういえばチェーホフが「ものを書く才能とは短く書くことだ」と言っていたそうだ。内容的に乏しいのに、というか内容が乏しいからこそカムフラージュのためにやたらと改行したり変なモッタイをつけてダラダラ牛のヨダレみたいに長くした文章はチェーホフから見たら駄文の最たるものなんだろう。
 しかし短くすることが最重点なのは小説やエッセイよりなんと言っても映画の字幕ではなかろうか。登場人物がしゃべっている間に読み終わる長さ、いや短さでなければいけないからだ。話す速度のほうが読む速度より速いのと、あまりべったり文字を挿入すると画面が損なわれてしまうのとでセリフが翻訳でなく要約されて出る。実は私はそうやって短くしてもらってもドイツ語の字幕だと映画に追いつけない。最後まで読み終わらないうちに消えてしまうことが多いのだ。日本語字幕では何の問題もないから、ここでも母語と外国語の理解のスピードの間には本質的な違いがあることが明らかだ。この差は一生縮まるまい。

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 サッカーはワールド・カップでもヨーロッパ・カップでもそうだが、予選の総当たり戦ではそれぞれのグループごとの最後の2試合を同時にやる。それまでは順番にやってきたものを、グループ内の順位が最終的に決定される2試合だけは同時に行なうのである。だから見るほうはどちらか一方しか実況観戦ができない。家に一台しかテレビがないと家族間でどちらを見るか争いが起きることもある。負けたほうは見たくもない試合を仏頂面で見るはめになるわけだ。実は私は常にこの仏頂面組である。
 そうやっていつも被害を被っているのに、どうしてそういうことをやるのかについてはまったく疑問に思ったことがなかった。長い間「そういうものだ」としか考えていなかったので、これにはサッカー史上で立派な理由があると知って、いやドイツでは誰でもその理由を知っていると知って驚いた。「そんなことも知らないなんて。だからサッカー弱小国のやつは無教養だというんだ」とか言われそうだが、もしかしたら実は日本でももう「サッカー基礎知識」となっているのかもしれない。無知だったのは私だけ、ということか。

 この規則のきっかけになったのは、1982年の6月25日に行なわれたワールド・カップの予選でのドイツ対オーストリアの試合で、対戦が行なわれたスペインの会場ヒホンの名を取って「ヒホンの恥」(Schande von Gijón)と呼ばれているドイツサッカー史上の大汚点、いまだに何かあるとドイツ国民の口にのぼる、サイテーの試合である。

 その時のグループは、ドイツ、オーストリア、アルジェリア、チリで、当時は順番に一試合ずつやっていた予選の最終戦がオーストリア対ドイツだったが、そこでオーストリアが一点差でドイツに負ければ、ドイツとオーストリアがそろって決勝トーナメントにいけるという得点状況だった。一位オーストリア、二位アルジェリア、3位ドイツ、4位がチリだった。
 アルジェリアは直前にドイツに2対1で勝つという大金星をあげて2位についていた。そのまま進めば初のアフリカ代表として決勝トーナメントに行けるはずだった。普通に考えればオーストリアなんてドイツにジャン負けしたはずだからである。
 しかしドイツは早々と点をとるともうそれ以上攻めようとはせず、ゴールはワザと外し、必要もないのにボールをキーパーに戻してダラダラ時間を潰す、オーストリアも(あとで判明したところによると)監督が「一点差の負けでいい。下手に攻め込んだり点を取り返したりしてドイツを怒らせるな」と指示して選手を遊ばせた。オーストリアがここで下手に点を入れてドイツと引き分けてしまうとドイツが3位になって落ちる、かと言ってドイツがそれ以上点を入れてしまうと今度はオーストリアがゴールの得点差のために落ちるからである。露骨な八百長だ。チーム間にはっきりとそういう約束ができていなかったとしても、ゲルマン民族同士が少なくともお互いに「空気を読みあって」アルジェリアのトーナメント進出を阻んだのである。
 その八百長ぶりにアルジェリア人ばかりでなく、ドイツ人も怒った怒った。ドイツ人レポーターエバハルト・シュタニェクはこの試合振りを「恥」とののしり、オーストリア人のレポーター、ロベルト・ゼーガーは視聴者にテレビを消してしまうよう薦めた。こんな試合を地元でやられたスペイン人も怒った。そのとき会場には41000人の観客がいたそうだが、後半戦の間中白いハンカチを振りつづけた。これは不満の意を示すスペイン人の習慣だそうだ。もちろんFIFAもUEFAも怒った。この「史上最低の作戦」のあと、ルールを変えて、予選の最終戦の2マッチは必ず同時に行い、変な思惑が入らないようにしたのである。

 時は流れてこの前の2014年ワールドカップの時、予選でドイツが実に32年ぶりにアルジェリアと対戦した。ここで「運命」とか「天罰」をいうものを信じている人がいるのがわかる気がしたが、そう思ったのは私だけではない。うちで取っている新聞にもDer Tag ist gekommen(その日が来た)というタイトルで「ヒホンの恥」が論じられていた。ドイツ国民の相当数が同じ事を考えていたに違いない。
 その新聞記事はもちろんドイツの新聞だったが、アルジェリアに対して好意的に論じ、「アルジェリアは事実上すでに手にしていた決勝トーナメント進出権を盗まれた、ドイツとオーストリアは同国に対して大きな借りがあるのだ」と述べ、当時ドイツ・オーストリアに対して抗議したアルジェリアに対し、「これしきのことで騒ぎ立てるな、おとなしく砂漠に帰れ」的なことをいって真面目に相手にしなかったオーストリア・ドイツ両監督のことをボロクソ批判していた。ドイツ人は自国のチームだからといって無条件に応援などしない。実際今でもドイツのチームがダレた試合をすると、ドイツ人から「ヒホンやるな、ヒホン!」と怒号が飛ぶ。
 残念ながら2014年での試合はドイツが制したが、またいつか当たる日が来るだろう。もっともまた32年後ということになってしまうと果たして私はまだ生きているかどうか・・・

 実はその直前にドイツはアメリカと対戦していたのだが、アメリカチームの監督はドイツ人の元スター、クリンスマンである。しかもご丁寧にそこで「引き分けならば双方決勝トーナメント」という状況だったので、「ワザと引き分けるんじゃないのか?」という黒い噂があちこちで囁かれていた。皆が胸にいだいているそういういや~な予感が発露されたかの如く、何日か新聞といわずTVといわず、やたらと「ヒホンの恥」が話題に上るので大笑い。挙句は(案の定)記者会見のとき「まさか引き分けの約束が出来てたりしないんでしょうね」とかドイツの選手に堂々と聞く記者まで現れるしまつ。
 そこで、聞かれた選手が「ナニを馬鹿なことを!」とか真面目に怒り出したりしたら「怪しいぞ、こいつ」とかえって疑われていたかもしれないが、選手がそこでゲラゲラ笑い出し「あ~、皆さんがそのことをお考えになる気持ちはよくわかりますが、大丈夫、試合を見てください。そうすればそんな疑いは晴れると思います」とキッパリ言ったのでまあひとまず安心ということにはなった。試合は一応1対0でドイツが勝ったが、アメリカ相手ならドイツは楽勝でもっと点を入れられただろうになぜ一点どまりなのかという疑いは消えなかった。その上、他のチームの結果のためだったにしろアメリカが何だかんだでトーナメントに進めてしまったからどうも「キッパリ白」とは言えない雰囲気ではあった。

Youtubeでこの試合を一部みることができる。「あれはもうサッカーじゃない」、「スキャンダル以外の何者でもない」と解説者にののしられている。


観客からはブーイングの嵐、レポーターも「恥としかいえない」とののしっているのが聞こえる。




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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 エマヌエル・ガイベルという後期ロマン派の詩人の作品にZigeunerleben(「ジプシーの生活」)という詩がある。シューマンの作曲で「流浪の民」として日本でも有名だが、第二連はこうなっている。

Das ist der Zigeuner bewegliche Schar,
Mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
Gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
Gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.

それは移動するジプシーの群れ
きらきら光る眼と波打つ髪
ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い
イスパニアの南国の灼熱に肌を焦がす
(原作の韻など全く無視した無粋な訳ですみません)


3行目「ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い」という部分が気になるが、これはいわゆるジプシー、つまりロマがエジプトから来たと当時広く信じられていたからである。言いだしっぺが誰であるかはわからない。彼ら自身がそう自称したとも言われている。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項でも書いたようにロマの起源はインドであるが、その存在が文献に現れるのは11世紀に当時のビザンチン帝国の記録が最初だ。当時ビザンチン帝国だけでなく、中東全般にわたって広く住んでいたらしい。彼らはキリスト教を受け入れていた(そうだ)。肌の色が浅黒く、その地では周りからコプト人と見なされていたのを巡礼目的や十字軍でパレスティナに来ていたヨーロッパ人が本国に伝えた、とも聞いた。
 これは単なる想像だが、私にはロマの方からコプト人だと自己申告したとはどうも考えにくいのである。浅黒い膚のキリスト教徒を見てヨーロッパ人が勝手にコプトだと思いこみ、ロマが特にそれに異を唱えないでいるうちにそういう説が定着してしまったのではないだろうか。そもそもロマ自身は自分たちがエジプト出身扱いされているのを知っていたのだろうか。 ヨーロッパ人側がロマをエジプトから来た人々と「思いたかった」、出エジプト記を今度はキリスト教徒を主役にして再現したかった、つまりある種の宗教ロマン物語を信じたかったのでないだろうか。そしてそういう図式が当時のキリスト教社会にアピールして定着したのでは。例えば上のガイベルの詩にもこんな部分がある。

Und magische Sprüche für Not und Gefahr
Verkündet die Alte der horchenden Schar.

そして苦境や危機に陥れば
老婆が魔法の言葉を告げる
(モーゼかこの老婆は?)


Und die aus der sonnigen Heimat verbannt,
Sie schauen im Traum das gesegnete Land.

そして陽光に満ちた故郷を追われ
祝福の地を夢に見る
(das gesegnete Landあるいはgesegnetes Land(祝福された土地)というのも聖書からの概念)


 こうやって都合のいい時だけは(?)ロマンチックな描写をするが、何か起こると、いや起こらなくてもロマは一般社会で差別抑圧されていたのである。「虐待」といってもいい。ひょっとしたら文学者はロマが普段虐待されているそのために、せめて言葉の上では美しくロマンチックに描いてやって、言い換えるとリップサービスでもしてやって読者の、いや自身の目をも現実から背けようとしたのかもしれない。
 この詩が出版されたのは1834年で、比較言語学者のポットがロマの言語とインド・イラニアン語派との類似に気づいたのは1844年、ミクロシッチが詳細な研究を行なったのが1872年から1880年にかけてだから、ガイベルはまだこの時点ではロマがインド起源ということを知らなかったのだろう。しかし一方ガイベルは1884年まで生きており、古典文献学で博士号までとっているのだからミクロシッチの論文を読んでいたかもしれない。もっとも文学と言語学というのが既に仲が悪いことに加えて、ガイベルの当時いたプロイセンとミクロシッチのいたオーストリア・ハンガリー帝国は敵同士だったから、その可能性は薄いと思うが。

 ロマはビザンチン帝国内に結構長い間住んでいたらしく、その語彙には当時のギリシア語からの借用語が目立つそうだ。例えば:

ロマニ語        ギリシア語
foro(s)  「町」   ←  foros    「広場、市場」
drom    「道」   ←  dromos   「道」
zumin   「石鹸」  ←  zumi    「石鹸」
kokalo  「骨」   ←  kokkalo   「骨」
kurko    「週」   ←  kyriaki     「日曜日」
luludi    「花」    ←  luludi    「花」
petalo  「蹄鉄」 ←  petalon   「蹄鉄」

 語彙ばかりでなく、派生語を作る際の形態素などもギリシャ語から輸入している。抽象名詞をつくるための-mos (複数形は-mota)がそれ。
 ギリシア語に触れる以前、つまり現在の北インドからコーカサスの言語からの借用は、はっきりどの言語からと断定するのが難しい。借用から時間が経って借用元の言語でもロマニ語内でも語の形が変化を起こしてしまっている上、そもそもあそこら辺の言語はロマニ語と同じく印欧語だから、当該単語が借用語なのか双方の言語で独立に印欧祖語から発展してきたのか見分けがつけにくいらしい。
 それでも当地の非印欧語、グルジア語やブルシャスキー語からの借用を指摘する人もいる。ブルシャスキー語というのはパキスタンの北で細々と話されている言語である。能格言語だ。それにしてもグルジア語にしろその他のコーカサスの言語にしろ、あのあたりの言語がそろって能格言語なのはなぜだ?以前にも書いたように、シュメール語と無関係とは思えないのだが。
 そのブルシャスキー語からロマニ語への借用をヘルマン・ベルガー(Hermann Berger)という学者が1959年に発表した『ジプシー言語におけるブルシャスキー語からの借用語について』(Die Burušaski-Lehnwörter in der Zigeunersprache)という論文で指摘し、13ほど例を挙げ、嫌というほど詳細な検討を加えている。ベルガーの説には批判や疑問点も多いらしいが、面白いので一部紹介しておきたい。著者はこの論文の中でブルシャスキー語とバスク語との親類関係についても肯定的に発言している。

ロマニ語                   ブルシャスキー語
ciro   「時間・天気」          ← cir 「機会」
serd-  「引く」               ← car et- (過去形語幹), car ee- (現在形語幹)、
                    「引き裂く、裂く」
xev   「穴」< *kham         ← qam
sapano 「濡れた・湿った」 < *sapam-o  ← hayum
                                                                     「湿っている(服・木材・パンについていう)
                     < *sawom < *sapam.
sulum  「藁」               ← hwnul "「家畜のエサ用に干した葉」 < *sumul
kazom 「それくらい、どれくらい?」    ← akurum 「そのようにたくさん」 < *akadzom  

 ビザンチンがオスマントルコに滅ぼされると、ロマはヨーロッパ内部へ移動し始めた。現在ヨーロッパ大陸にいるロマは方言の差が激しく、すでに意思の疎通が困難な場合が多いそうだが、これはロマニ語内部での変化に加えて(それだけだったらたかが600年ぽっちの間に意思疎通が困難になるほど変遷するとは思えない)、あちこちでいろいろな言語と接触して外部から変化させられたためだろう。面白い例が一つある。セルビアで話されているErliというロマニ語方言(というべきか言語というべきか)では未来形をまさにバルカン言語連合の図式どおりに作るのである。Erliでは動詞の接続法に不変化詞kaをつけて表すが、このkaは「欲しい」という動詞kamelが後退したもの。

Ka   dikhav
未来. + see(一人称単数形・接続法)
私は見るだろう

『40.バルカン言語連合再び』の項で挙げたアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語と比べてみてほしい。構造が完全に平行しているのがわかる。

アルバニア語:     do   të        shkruaj
         未来 +  接続法マーカー + (「書く」一人称単数現在)
ルーマニア語:     o     să       scriu
                 未来 + 接続法マーカー + (「書く」一人称単数現在)
ブルガリア語:     šte  piša
                 未来 +(「書く」一人称単数現在)
現代ギリシア語:    θα   γράψω
                未来 + (「書く」一人称単数接続法)


ところが同じロマニ語でもブルゲンラント・ロマニ語というオーストリア、ハンガリーで話されている方言だと未来形を純粋な語形変化で表す。

phirav (「行く」一人称単数現在) + a -> phira    「私は行くだろう」
phires (「行く」二人称単数現在) + a -> phireha    「君は行くだろう」 など

 上で述べたようにロマの一部がバルカン半島を去ったのはそれほど古い話ではない。それなのにブルゲンラントのロマニ語がバルカン言語連合現象の影響を受けていない、ということはバルカン言語連合という現象自体が比較意的新しい時代に起こったか、現象そのものは昔からあったがロマが周りとあまり接触しなかったとかの理由で影響を被るのが他の言語より遅かったかのどちらかである。語彙面での借用状況を考えると「周りとの接触が乏しかった」とは考えにくいので最初の解釈が合っているような気がするが、なにぶん私は素人だから断言はできない。

 またロマニ語は借用語と本来の言葉との差を明確に意識しているらしく、外来語と土着の単語とでは変化のパラダイムが違う。下は旧ユーゴスラビアのヴラフ・ロマの例だが、kam-(「欲しい」)という動詞はロマニ語本来の、čit-(「読む」)はセルビア語からの借用。ロシア語でも「読む」はчитать(čitat’)である。

       「欲しい」 「書く」
一人称単数   kam-av          čit-ov
二人称単数      kam-es          čit-os
三人称単数      kam-el           čit-ol
一人称複数   kam-as           čit-os
二人称複数   kam-en           čit-on
三人称複数   kam-en           čit-on

つまり土着の単語で母音aやeが現れる部分が外来語ではoになっているのである。これは名詞の変化パラダイムでもそうで、ロマニ語本来の語raklo(「男の子」)と上でも述べたギリシア語からの借用語foroの語形変化ぶりを比べるとわかる。単数形のみ示す。

    「男の子」    「町」
主格   raklo                  foro
与格           rakl-es-ke          for-os-ke
奪格           rakl-es-tar          for-os-tar
具格           rakl-e(s)-sa        for-o(s)-sa
処格            rakl-es-te          for-os-te

ここでもeとoがきれいに対応している。なお、私の参照した資料にはなぜか対格形が示されていなかったが、『65.主格と対格は特別扱い』で見たように対格は膠着語的な接尾マーカーなしの第一層一般斜格を使うから「男の子を」はrakl-esになるはずである。それに対して「町を」は一般斜格のfor-osではなく主格と同形のforoになるはずだ。ロマニ語はロシア語と同じく(というよりロシア語がロマニ語と同じく)生物・非生物の差を格変化形で表すからである。
 そういえば日本語は外来語とヤマト言葉を片仮名と平仮名(と漢字)で書き分けるがロマニ語はこの区別をパラダイムでやるわけか。


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 またまたサッカーECがやってきた。今回は出場の面子があまり面白くない、例えばオランダが出ないので今ひとつ見所に欠ける気がする。なんと言ってもデ・ヨングのクンフー・キックはジダンの頭突きと共にすでに伝説化しているのだ。
 以下の記事はもう2回くらい前のECのとき書いたものだが、今回も周りの様子はまったくこのまんまである。というわけで古い記事のリサイクルで失礼。


元の記事はこちら

 何回か前のサッカー・ヨーロッパ選手権の際、うちでとっている南ドイツ新聞(Süddeutsche Zeitung)に載っていた論説の中に、ドイツ人の本音が思わず出てしまっていた部分があって面白かった。

曰く:

... Da geht es also um einen der weltweit wichtigsten Titel, die der Fußball zu vergeben hat - für viele Trainer zählt eine Europameisterschaft mehr als eine Weltmeisterschaft, weil das Niveau von Beginn an höher ist und sich die Favoriten in den Gruppenspielen nicht gegen ***** oder ***** warmspielen können ...

(…なんと言っても事はサッカーに与えられる世界中で最も重要なタイトルの一つに関わる話だから--監督の多くが世界選手権よりヨーロッパ選手権の方を重く見ている。なぜならヨーロッパ選手権の方がすでに初戦からレベルが高いし、優勝候補のチームがグループ戦で*****とか*****とかと当たってまずウォームアップから入る、ということができないからだ…)

 *****の部分にはさる国々の名前が入るのだが、伏字にしておいた。そう、ヨーロッパと一部の南アメリカの国以外は「練習台」「刺身のツマ」、これが彼らの本音なのだろう。こういうことを露骨に言われると私も一瞬ムカッと来るが、考えてみれば確かにその通りなのだから仕方がない。

 世界選手権の前半戦はドイツ人はあまりまじめに見ない人も多い。通るのが当たり前だからだ。前半戦なんて彼らにとっては面倒くさい事務的手続きのようなもの。気にするとしたら、トーナメントで最初にあたる相手はどこになるか、対戦グループの2位はどこか、という話題くらいだろう。つまり自分たちのほうはグループ1位だと決めてかかっているところが怖い。たまにヨーロッパのチームがその「単なる事務的手続き」に落ちることがあって嘲笑の的になったりするが、つまり前半戦さえ通らないというのは嘲笑ものなのである。
 だから、日本で毎回世界選手権になるとまず「大会に出られるかどうか」が話題になり、次に「トーナメントに出る出ない」で一喜一憂しているのを見ると、なんかこう、恥ずかしいというか背中が痒くなってくるのだ(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめなさい)。こちらで皆が本腰を入れて見だすのはやっとベスト8あたりからだ。
 世界選手権はまあそうやって手を抜く余裕があるが、ヨーロッパ選手権は前半から本腰を入れなければならず、全編暇なし・緊張の連続で、見ているほうはスリル満点、ドイツ人もトーナメント前から結構真剣に見だす。最初の方ですでにポルトガル対スペイン戦などというほとんど決勝戦レベルのカードが行なわれたこともあった。もったいない。
 そういう調子だから、選手権が始まると前半戦から、いやそもそも大会が始まる一ヶ月くらい前から大変な騒ぎだ。TV番組はこれでもかと「選手団が当地に到着しました」的などうでもいいニュースを流す。到着しなかったほうがよほどニュースだと思うのだが。スナック菓子やビールのラベルに選手の写真やチームのロゴが登場し出すのはまだ序の口、そのうちサッカーボール型のパンが焼かれるようになる。大会が始まったら最後、ドイツの登場する日など朝から異様な雰囲気が立ち込める。私のような善良な市民はやっていられない(サッカーが好きな人は善良ではない、と言っているのではない)。
 ではドイツが負ければ静かになるかというとそうではない。まずいことにドイツが負けるのは大抵ベスト4か決勝戦、つまり優勝が下手に視界に入ったところだから、ドイツがいなくなっても騒ぎは急に止まれない、というか、余ったビールの持って行き所がない、というか、結局最後まで騒ぎとおすのが常だ。さらに、ドイツには外国人がワンサと住んでいるから、特にヨーロッパ選手権だと勝ち残っている国の人が必ずいる。私のうちのそばには、イタリア語しか聞こえてこない街角があるくらいだ。だからドイツが敗退しても全然静かになどならない。

 ではTVもラジオもつけないでいれば静かにしていられるか?これも駄目、TVを消しても外の騒ぎの様子でどちらが何対何で勝ったかまでわかってしまうのだ。たとえば、上述の大会のドイツ・イタリア戦は私はもちろんTVなど見ないで台所で本を読んでいたのだが、試合の経過はすぐわかった。スコアについては少し解釈しそこなったのだが、それはこういう具合だった。

 まず、始まってしばらくして下の階に住んでいる学生が「ぎゃーっ!」と叫ぶ声が響いてきた。ドイツ人が叫び、しかもその後花火だろドラ・太鼓が続かない時は基本的に「ドイツ側がゴールを試みたが間一髪で惜しくも入らなかった」という意味だから、「ああ、ドイツのゴールが決まらなかったんだな」と解釈。その後何分かして、町の一角から大歓声が響いて来た。花火・ブブゼラ総動員だったのでどちらかが点を入れたな、とすぐわかった。あまりにもうるさいので最初ドイツがゴールしたのかと思ったが、それにしては歓声が上がっている場所が限定されている、つまり町全体が騒いでいるのではない。これで、歓声はイタリア人居住地区のみで上がっている、と解釈できる、つまりイタリアが点を入れたんだなと判断した。

 後で確認したところ、第二の解釈は当たっていたが、第一の解釈、つまり「ドイツ人の単発的な絶叫=惜しいゴール」は誤解釈で、これはイタリア側が点を入れていたのだった。二点目についても、発生地が限定されているにも拘らず全体音量としてはドイツ人が町全体で出すのとほぼ同等のヴォリュームを出す、ということはイタリア人一人当たりの出す音量はドイツ人何人分にも相当しているということになる。やっぱりねとは思うが、ではなぜ最初のイタリアのゴールの時、これほどうるさくはならなかったのか。たぶん始まってから間もない時間だったので、TVの前に集まっているサポーターがまだ少なかったか皆十分デキあがっていなかった、つまりまだアルコール濃度が今ひとつ低かったからだろう。
 しかしそれにしてもいったいあの花火・爆竹。当然のように使用しているがあれらはいったいどこから持ってきたのか?というのも、ドイツでは花火の類は大晦日の前3日間くらいしか販売を許可されていないはずなのだ。まさか去年の大晦日に買った花火をサッカー選手権に備えてキープしておいたのか?ああいう騒ぎをやらずにはいられない輩がそこまで冷静に行動して半年もかけて周到に準備しておいたとはとても考えられないのだが…。
 なお、その試合の後半戦で一度イタリアのゴールがオフサイドということでポシャったが、その時もイタリア人居住区から大歓声が響いてきた。ドイツ人ならゴールに入った入らないより先にオフサイドか否かの方を気にして議論を始めるたちだから、こういう早まった大歓声は上げないだろう。

 ところで、ドイツ人はゲーテの昔からイタリアが大好だが、こちらにはイタリア人とドイツ人の関係について諺がある。

「ドイツ人はイタリア人を愛しているが尊敬していない。イタリア人はドイツ人を尊敬しているが愛していない。」

わかるわかるこれ。

 とにかくこちらにいるとこういうワザが自然に身について、TVなど見ないでもサッカーの経過がわかるようになってしまう。経験によって漁師が雲や海の波の具合から天候を予知し、狩人が微妙な痕跡から獲物の居所を知ることができるようになるのと同じ。町の微妙な雰囲気を嗅ぎ分けてサッカーの経過がわかるようになるのだ。ほとんどデルス・ウザーラ並みの自然観察力である。 
 ただ漁師や狩人と違うのは、そんなことができるようになっても人生に何のプラスにもならない、という事だ。困ったものだ。


400px-Dersu_Uzala_(1975)
話が飛んで恐縮だが、実は私は黒澤明の映画の中ではこの『デルス・ウザーラ』が一番好きだ。これはクロアチア語バージョンのDVD。下の方に「モスクワで最優秀賞」「オスカー最優秀外国語映画賞」とある。


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 筒井康隆氏が30代半ばのときに一度読もうとしたが「かったるくて読めたもんではなかった」ため中断し、中年過ぎてから再び挑戦してやっと読破したら大変面白かったというトーマス・マンの『魔の山』に、ちょっと気になる登場人物がいる。「登場人物」といっていいのかどうか、主人公のハンス・カストルプが学校時代を回想して思い出す少年である。主人公はクラスの違うこの少年に非常に惹かれ、知り合いになりたいと長い間思っていて、ある日勇気を持って校庭で話しかけ、結構丁寧に対応してもらって痺れるように嬉しい思いをする、そんな出来事をずっと後になって思い出すのである。
 『6.他人の血』でも書いたように私は文学音痴なのでこの登場人物がストーリー上どのような役割を果たしているのか、何を暗示しているのかなどということはどうでもいいのだが(ごめんなさい)、この少年の描写で次の部分は素通りできなかった。

Der Knabe, mit dem Hans Castorp sprach, hieß Hippe, Vornamen Pribislav. Als Merkwürdigkeit kam hinzu, daß das r dieses Vornamens wie sch auszusprechen war: es hieß „Pschibislav“; ... Hippe, ... stammte aus Mecklenburg und war für seine Person offenbar das Produkt einer alten Rassenmischung, einer Versetzung germanischen Blutes mit wendischen-slawischen – oder auch umgekehrt.   

ハンス・カストルプが話をした少年はヒッペと言った。名前はプリビスラフだ。その上奇妙なことにこの名前は「ル」を「シ」のように発音した:プシビスラフと言ったのである。…ヒッペは…メクレンブルクの出で、その風貌からすると、ゲルマンの血にヴェンド・スラブの血が混じったか、あるいはその逆か、とにかく古い人種混交の産物であることは明らかだった。
(翻訳:人食いアヒルの子)

 ここで「あれ?」と思う人は多いだろう。私も思った。Wendisch、ヴェンド人あるいはヴェンド語というのはソルブ語・ソルブ人の別名である。こちらの言語事典にさえ、「Wendisch:ソルブ語と同義。現在では廃れた名称」と書いてある。さらに私がいつか聞いた話では上下ソルブ語でも特に下ソルブに対してこの名称が使われやすいそうで、先日たまたま見たTV番組では下ソルブ人のなかにはソルブ人とかソルブ語という名称を好まずWendischという名称のほうを使ってもらいたがっている人もいる、とのことだった。上ソルブといっしょにするな、ということなのだろうが、上にしろ下にしろとにかくこのWendischというのはソルブ人のことだ。ソルブ人の住んでいる地域はどこか思い出してほしい。ザクセン州ではないか。北ドイツのメクレンブルクにはソルブ人などいないはずである。
 さらに見れば『魔の山』の日本語訳にはここでヴェンド人あるいはヴェンデンという言葉について注がついている。しかしこれが「北ドイツのラウジッツ地方に住むスラブ人」と説明してある。確かにラウジッツにはソルブ人が居住していてソルブ語が公用語的ステータスを与えられているが(『37.ソルブ語のV』の項参照)ここはザクセン州で北ドイツなどではない。
 おかしいと思って調べてみるとWendenあるいはWendischという名称は元々はソルブ人ばかりでなく、以前はドイツの非常に広い範囲に住んでいた西スラブ語を話す人々全体を意味していたらしい。中世には北ドイツ全体ばかりでなく、結構南の地域もスラブ語地域だったとのこと。北ドイツや東ドイツには今でも「ベルリン」だろ「ケムニッツ」だろ「ロストク」だろ明らかにスラブ語形とわかる地名が多いし、そもそもトーマス・マンの出身地リューベックからしてスラブ語起源、ロシア語のлюбовь(リューボフィ、「愛」)と同源だ。

 そういうわけでメクレンブルクや下ザクセンなども昔は西スラブ語が話されていたが、これらの人々は皆ヴェンド人と呼ばれていた。12世紀にメクレンブルクを支配していた人ももちろんスラブ人で名前がまさにPribislav公といったのである。北ドイツには他にもPribislavという歴史上の人物が何人かいる。
 ポラーブ語など、彼らの話していた言語はその後ドイツ語に押されて消滅してしまった。ソルブ語だけが生き残った。だからこの文脈でヴェンド人を「ラウジッツに住むスラブ人」と説明するのは明らかに間違い。黙っていればいいものをわざわざ間違った注がついていることになる。
 ではここでラウジッツのソルブ語を持ち出すのが完全にトンチンカンかというと決してそうではない。上でも書いたようにポラーブ語始め滅んでしまったドイツの西スラブ語はソルブ語と非常に近いからだ。その点でPribislavを「プシービスラフと発音した」というマンの記述は非常に重みがある。西スラブ語では口蓋化された r がそういう変な音(?)になる例がママあるからだ。
 有名なのがチェコ語の ř で、ロシア語なら簡単に r を口蓋化して「リ」といえばいいが、チェコ語だとここで舌先震え音の [r] と調音点が口蓋に近い摩擦音の[ʒ] (つまり「ジュ」)を同時に発音する。そんな音が発音できるわけないだろうと思い、実際の音を聞いてみたが私には[] という破擦音にしか聞こえなかった。[ʒ] は有声音で、この無声バージョンが [ʃ] だが、ドイツ人はこれらの区別が下手で、どちらもschと書き表してしまうのが普通だ。だから本当に「r がschに聞こえる」のである。
 上ソルブ語ではチェコ語と同じく ř という文字を使うが、これがチェコ語のような信じられない音ではなくて素直に[ʃ]、つまりズバリschである。上ソルブ語ではp、t、k の後に r が続くとschになる、という説明を見かけた。p、k の後は必ずschだが、t の後の r はschでなく s になることもあるそうだ。
 さらに下ソルブ語には上ソルブ語で r がo、a、u、つまり後舌母音の前で š (sch)になるとあった。

上ソルブ語     下ソルブ語
bratr          bratš   「兄または弟」
krasny         kšasny   「すばらしい」
prosba        pšosba   「頼み」
prawy          pšawy    「正しい」
sotra         sotša     「姉または妹」

上ソルブ語の単語は皆 tr、kr、pr が続いているのに ř になっていないじゃないかと一瞬戸惑ったのだが、チェコ語のようにこのřは「口蓋化されたr」が変化したものなのだろう。だから ř が現れるのは狭母音、i と e の前だけなのに違いない。つまり ř は r がp、t、k と i、e に挟まれると現れるのではないかと予想し、ř のついている語の例をさらに探してみると案の定předměst (「郊外」)だろkřesto(「十字架」)だろpřihódny(「ふさわしい、適切な」)だろ přisprawny (これも「適切な」)だろ、後ろに狭母音が来ているものばかりである。上のbratrやsotraにしてもこれに縮小辞がつくとそれぞれbratřik、sotřičkaとなって狭母音 i が後続すると r が ř に変化しているのがわかる。例外もあって、英語のaway、goneにあたる副詞はprečで r だし、狭母音でも二重母音 ě の前では r が現れるらしい。それで「あちら側に」とか「向こう側に」はprěki、「横切って」がnaprěki。その一方でこのprěkiが動詞の前綴りとして使われるときはpřekiとなり、překipjećで「向こう側に流れる」、つまり「あふれる・こぼれる」。さらに「三時」をtřochといって後続するのが狭母音でないのに ř になっていたりするが、まあp、t、k と狭母音に挟まれると r が ř になるという原則は崩れまい。
 ただ、チェコ語では r の口蓋化バージョンは ř だけだが、上ソルブ語は r の口蓋化バージョンとしてもともとの音 rj  も保持されているのがわかる。つまりいわゆる軟音の r が二つに分かれているわけだ。下ソルブ語では口蓋音でもないのに r が š になっていてなんじゃらほいとは思うが、『39.専門家に脱帽』の項でも書いたようにポーランド語やカシューブ語ではソナントの n が無声化してやっぱり š になっていたりするから、まあ西スラブ語ならそれくらいはやりかねないだろうということで納得できるのではないだろうか。
 そういえばポーランド語でもチェコ語と同じく軟音の r は変な音一辺倒だが、rz と2文字で表す。二文字で表してあっても音素としては一つだ。発音は [ʃ] である。
 いずれにせよ、Pribislavという名前の中の r は西スラブ語ではschとしか読みようがないのである。
 
 この調子できっとポラーブ語の r もschと発音したと思われるが、問題はどうしてトーマス・マンがそんなことを知っていたのか、ということである。ポラーブ語は18世紀の末にはもう滅んでいたから1875年生まれのトーマス・マンがこの言語を直接見聞きしていたはずはない。しかしこの言語の記録はドイツ人がよく保存していたから、マンはリューベックかどこかの大学か図書館でポラーブ語などの資料に触れていたか、メクレンブルクでは言葉は滅んでも地名人名に西スラブ語の発音が残っていたか、あるいはマンは現代のソルブ語かせめてポーランド語をよく知っていてそこからポラーブ語の発音を類推したかである。私はマンの作品はそれこそかったるくてきちんと読んだものがロクにないが、ひょっとして氏自身が自伝か何かでそこら辺のことに触れているかもしれない。それともこんなことはドイツ文学研究者の間ではとうに知れ渡っていることなのか?

 ところで上の箇所にはもう一つ「は?」と思った部分がある。太字にしておいたが、für seine Personという言い回しである。文脈から押してこのfürはbezüglich (~に関して)と同じような意味のはずだ。私は「その風貌からすると」と訳しておいたが、実は前置詞für (英語のfor)がこんな使われ方をしているのを見たことがなかったのでネイティブに聞いてしまった。ところが聞かれたネイティブも「へ?」と言い出し、「こんな使い方見たことがない」と私と同じ事をつぶやきながら、辞書を持ち出してきて調べ始めた。Dudenには説明が見当たらず、とうとうヘルマン・パウルのドイツ語辞典まで参照したがドンピシャリなのが見つからない。
 「どんな」をドイツ語でwas für ein(e)といい、そこでは前置詞が導く名詞がいわば「判断の枠組み」を示すから、この用法の一種とみていいのかなとは思うが、それならば名詞のほうには不定冠詞がつくはずであるのに、ここではseine Person(「彼の風貌」)と定形になっているのが引っかかりまくる。さらにこの「彼の」が実はハンス・カストルプのことで「カストルプにとってはヒッペがヴェンド人の血を引いていることが明らかだった」という意味ならば素直にfür ihn(「彼にとっては」)と書くはずでPerson(「人物・人となり・風貌」)などという言葉はいらない、と一人でブツブツ言っていたそのネイティブはついにもう一人のネイティブに本を見せて訊ねた。するとその二人目のネイティブは「こういうfürは見たことがある」と自慢し出したのである。つまりこのfürは「見たことがある」とネイティブがいばれるくらい稀な用法なのだ。
 結局「これはbezüglichだ」と結論するしかなかったが、それにしてもネイティブが二人して前置詞一つにあたふたしている姿は壮観でさえあった。トーマス・マンも罪なことをするものだが、それほど難しい部分が出版されている日本語訳ではいったいどうなっているのか気になって改めて見直してみたところ、なんとそのfür seine Personのフレーズはすっ飛ばされていた。ただ、

彼はメクレンブルクの生れで、明らかに古い時代の混血、つまりゲルマンの血にヴェンデン・スラブの(ここで上述の注が入っている)血が混ったか-またはその逆の混血の子孫にちがいなかった。

と訳されていたのである。力が抜けた。


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 前回で西ドイツやヨーロッパの西部劇がマカロニウエスタンのベースになったことを述べたが、もう一つ先行となったジャンルがある。
 戦後のイタリア・ネオリアリズムの流れのあと、当地では「サンダル映画」といわれるギリシア・ローマ時代の史劇をモチーフにした映画が盛んに作られ、「ベン・ハー」や「クレオパトラ」などのアメリカ資本も流入していた。 後のマカロニウェスタンの監督もこのサンダル映画のノウハウで育っているのだ。 レオーネのクレジット第一作目を考えて欲しい。Il colosso di Rodi(『ロード島の要塞』)というサンダル映画である。ただしレオーネ自身は「あれは新婚旅行の費用稼ぎに作っただけ」なので「レオーネ作」とは言って欲しくないそうだ。黒歴史ということか。『続・荒野の一ドル銀貨』を撮ったドゥッチョ・テッサリなども本来サンダル映画が専門だからオデュッセイアがベースになったりしているのだし、その他にもタイトルなどにギリシア・ローマ神話から取ったな、と素人目にもわかるモチーフが登場することは『12.ミスター・ノーボディ』の項で書いたとおりである。

 つまり、マカロニウェスタンが誕生したのにはちゃんとした背景・先行者があって、何もないところからいきなり『荒野の用心棒』がポッと出てきたわけではないのだが、これはノーム・チョムスキーの生成文法も同じ事だ。
 まず生成文法はポール・ロワイヤル文法の発想を引き継いでいるが、さらにチョムスキーの恩師のゼリグ・ハリスを通じてアメリカ構造主義の考え方もしっかり流れ込んできており、生成文法をアメリカ構造主義へのアンチテーゼとばかり見るのは間違いだ、と言われているのを当時よく聞いた。大体彼のcompetence、performanceなどという用語はド・ソシュールのラングとパロールの焼き直しではないのか。その他にも生成文法の観念にはヨーロッパの言語学の観念を別の言い方に換えただけとしか思えないものがある。その一方で伝統的な言葉の観念が英語学内でゆがめられてしまった例もある。『51.無視された大発見』でもちょっと書いたが「能格」という言葉の使い方などそのいい例ではないだろうか。

 セルジオ・レオーネとノーム・チョムスキーを比較考察するというのもムチャクチャ過ぎるかもしれないが、まあある意味ではこの両者は比較できる存在だとは思う。以下の文はJ.ライオンズによるチョムスキーの伝記の冒頭だ。

Chomsky's position is not only unique within linguistics at the present time, but is probably unprecedented in the whole history of the subject. His first book, published in 1957, short and relatively non-technical though it was, revolutionized the scientific study of language;

この文章の単語をちょっとだけ変えるとこうなる。

Leone's position is not only unique within italian westerns at the present time, but is probably unprecedented in the whole history of the subject. His first western, released in 1964, short and relatively non-technical though it was, revolutionized the style of westerns of the whole world;

こりゃレオーネそのものである。このフレーズをそのままレオーネの伝記の冒頭に使えそうだ。

 さて、もう一つマカロニウエスタンの発端になったのが黒澤明の『用心棒』であることはさすがに日本では知らない者はあるまいが、その黒澤の自伝に次のようなフレーズがある。

人間の心の奥底には、何が棲んでいるのだろう。
その後、私は、いろいろな人間を見て来た。
詐欺師、金の亡者、剽窃者…。
しかし、みんな、人間の顔をしているから困る。

実はここを読んでドキリとした。この「剽窃者」とはひょっとしたらレオーネのことではあるまいかと思えたからである。確かにああいう基本的なことをきちんとしなかったジョリィ・フィルムとレオーネは批判されても文句は言えまいが、いろいろなところから伝わってきた話によるとまあ向こうの事情もわかる感じなのである。前回も書いたようにもともと『荒野の用心棒』は残飯予算で作った映画だったのでレオーネもジョリィ・フィルムもまさかこんな映画が売れるとは思っていなかったらしい。出した予算の元が取れれば、いやそもそもA面映画Le pistole non discutonoのほうで元をとってくれればいいや的な気分で作ったので著作権などのウルサイ部分は頭になかったそうだ。後で黒澤・東宝映画から抗議の手紙が来たとき、レオーネはカン違いして「黒澤監督から手紙を貰った!」と喜んでしまったという話しさえきいたことがある。当然ではあるのだが、結局ジョリィ・フィルムは東宝映画にガッポリ収益金を持っていかれ、レオーネも『荒野の用心棒』は今までに作った映画の中でただ一つ、全く自分に収益をもたらさなかった作品、とボヤいたそうだ。そしてその際東宝映画は肝心の黒澤には渡すべき金額を渡さなかったという。
 もちろん映画制作のプロならばそういうところはきちんと把握しておくべきだろうし、私も特に自己調査して調べたわけでもなんでもなく、そこここで小耳に挟んだ話を総合して判断しただけなので無責任といえば無責任なのだが、どうもイタリア側をあまり責める気にはなれない。

 実はその他にも黒澤監督の自伝でレオーネと関連付けて読んでしまった部分がある。黒澤監督が師である山本嘉次郎監督を「最高の師だった」と回想するところである。

山さんこそ、最良の師であった。
それは、山さんの弟子(山さんは、この言葉をとてもいやがった)の作品が、山さんの作品に全く似ていないところに、一番よく出ている、と私は思う。
山さんは、その下についた助監督の個性を、決して矯めるような事はせず、それをのばす事にもっぱら意を用いたのである。

ここでも私はドキリとしたのである。どうしてもレオーネとトニーノ・ヴァレリの確執を思い出さないではいられなかったからだ。よく知られているようにヴァレリは最初レオーネの助監督として出発した人である。これは『怒りの荒野』(再び『12.ミスター・ノーボディ』の項参照)を見れば一目瞭然。画風がレオーネにそっくりだからだ。『怒りの荒野』の冒頭シーンを思い出して欲しい。アニメーション(と呼んでいいのか、あれ?)のタイトル画が終わり映画の画面に切り替わるところでカメラがグーッと下がっていくあたり。タイトル画が終わってもテーマ曲は終わらず曲の最後のほうが映画の最初の画面とダブっているところだ。リズ・オルトラーニの曲がまたキマリ過ぎていてたまらないが、この部分が『荒野の用心棒』にそっくりである。もちろん冒頭にアングルを徐々に下げるという手法は珍しくもなんともないし、このタイトル画から映画への移行の方法は他のマカロニウエスタンもやたらと真似しているから私の考えすぎかもしれないが、この映画を見ていると脳裏にレオーネがチラついて仕方がない。
 ヴァレリが撮ったマカロニウエスタンは全部で5作。『怒りの荒野』はその二作目である。私はまだヴァレリの最初の作品per il gusto di uccidere(『さすらいの一匹狼』)と4作目una ragione per vivere e una per morire(『ダーティ・セブン』)をみたことがないのだが、第3作目のil prezzo del potere(『怒りの用心棒』)は『怒りの荒野』と比べてみるとやや「レオーネ離れ」している、政治色・社会色の濃い静かな(もちろんマカロニウエスタンにしては静か、ということだが)作品である。ケネディ暗殺をモティーフにしたストーリーでそもそもマカロニウエスタンにするのには荷が重過ぎた内容だったためか、前作『怒りの荒野』ほどは興行的にヒットしなかったが、このジャンルの映画の作品にありがちなようにストーリーが破綻していない。音楽は『続・荒野の用心棒』のエレキギターで私たちをシビレさせ、『イル・ポスティーノ』でモリコーネより先にオスカー音楽賞を取ったルイス・エンリケス・バカロフだが、哀愁を帯びた美しい曲で私は『続・荒野の用心棒』よりこちらのメロディのほうが好きなくらいだ。
 しかしヴァレリはその後の『ミスター・ノーボディ』では逆戻りというか再びレオーネに飲み込まれてしまった。この映画は発案がレオーネだったので監督作業にもレオーネが相当介入・干渉したんだそうだ。そのためか絵でもスタイルでもやや統一を欠く。その点を批判する声もあるが、それがかえってある種の味になっているとしてこの映画をマカロニウエスタンのベスト作品の一つとする人もいる。とにかくこの映画がマカロニウエスタンの平均水準を越える作品であることは間違いない。
 弟子の作品が師とそっくりであること、そして弟子が自分のスタイルの映画をとろうとしたとき師がそれを妨害、と言って悪ければ積極的に後押ししてやらなかったことなど、レオーネのヴァレリに対する態度は黒澤明に対する山本嘉次郎と逆である。この『ミスター・ノーボディ』を最後にヴァレリはレオーネと袂を別ってしまった。
 
 しかし黒澤明のほうも山本嘉次郎に比べると自分自身は果たしていい師であったかどうかと自省している。指導者としての良し悪しとクリエーターやプレーヤーとしての良し悪しは必ずしも一致せず、指導が出来ないからと言って能力がないとは絶対にいえないことはスポーツ界でもそうだし、文人の世界でもいえることだろう。もっとも数の上で一番多いのは「そのどちらもできない」という私のような凡人大衆だろうが。


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