アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Mai 2016

 一年ほど前だが、ピエール・ブリース(Pierre Brice)というフランス人の俳優が亡くなった。1929年生まれというからモリコーネより一歳年下だ。本国フランスよりもドイツで国民的人気のあった俳優で、TVでも新聞でも大きく報道していた。ブリースを忘れられないスターにしたのは一連のドイツ製西部劇である。マカロニウェスタンの前哨となったジャンルだ。

 日本には「最初に非アメリカ製西部劇を作ったのはセルジオ・レオーネ」と思い込んでいる人がいるが、これは全くの誤りである。
 大陸ヨーロッパでは50年代からすでに結構西部劇が作られていたのだ。当時西ドイツやスペイン、フランスなどで作られた西部劇が結構あるし、イタリアでさえもレオーネより何年も前から西部劇はいくつも作られていた。第一『荒野の用心棒』からして、レオーネが企画を持ち込んだ時製作会社のジョリィ・フィルムはすでにGringo(ドイツ語タイトルDrei gegen sacramento、「三人組サクラメントに向かう」)という西部劇を作り終えていたところだったし、レオーネが来たときもちょうどLe pistole non discutono(ドイツ語タイトルDie letzten Zwei vom Rio Bravo、「リオ・ブラヴォーの最後の二人」)という西部劇を製作中だった。この映画の予算がちょっと余ったのでレオーネにも出せるということになり企画が実現したのだ。つまり『荒野の用心棒』レコードで言えばB面、いわば「残飯映画」なのである。

 「マカロニウエスタン以前のユーロウエスタン」は興行的にもそこそこの成功を収めていたらしいが、このピエール・ブリースがインディアンの酋長を演じた一連の西部劇によって西ドイツでブレークした。
 これはカール・マイの冒険小説を映画化したもので、主人公はオールド・シャターハンドという白人だが、ヴィネトゥというアパッチの若い酋長と知り合い兄弟の契りを交わす。その二人の冒険談である。中でも有名なのが「ヴィネトゥ三部作」と呼ばれる映画シリーズで、三作とも監督はハラルト・ラインルだが、その他にも単発で「ヴィネトゥもの」が何作も同監督や別の監督でも作られた。そこでいつもヴィネトゥの役を演じたのがブリースだったのである。
 ブリースはフランスのブルターニュの生まれで、ドイツ語で言ういわゆる「南欧系」、つまりラテン系とギリシャ人をひっくるめていうカテゴリーに属し、ゲルマン・スラブの女性にムチャクチャもてるタイプの容貌をしていたこともあって、映画は非常にヒットした。主役は本来オールド・シャターハンドのほうだったが、そのうちのブリースのヴィネトゥのほうが人気が出だしたので三部作ではこのアパッチの酋長の名前のほうをタイトルに持ってきたわけだ。ストーリーは健全でいながらエピソードに富むという、まあカール・マイの小説そのもので休みにお父さん・お母さんが子供連れで見に出かける家族映画としては完璧。ディズニーがこれを手がけなかったのが惜しいくらいである。年配のドイツ人には子供の頃ヴィネトゥを夢中で見た思い出を懐かしそうに語る人がいまだに大勢いる。

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ヴィネトゥを演じたフランス人ピエール・ブリース。隣がレックス・バーカー演じるオールド・シャターハンド
www.spiegel.deから

 ただ、家族映画なだけに、マカロニウエスタンを見慣れた目でみると健全すぎて面白くない。絵の点でも例えば三部作での主人公オールド・シャターハンドの衣装は『シェーン』のアラン・ラッドの二番煎じ的だし、ネイティブ・アメリカンの描写もステレオタイプ過ぎて本物のアメリカ原住民の人が見たら怒るんじゃないかと思われるくらい。また、そこで部族の女性が何人か出てくるのだが、女優が皆ドイツ人の顔つきなところに無理矢理黒髪・お下げのカツラをかぶせて強引にインディアンにしたてあげているため、全然似合っていない。どう見てもネイティブ・アメリカンには見えないのである。
 最初のヴィネトゥ映画はDer Schatz im Silbersee(「シルバー・レイクの宝」)という単発映画だがこの公開は1962年12月14日、監督は三部作と同じくラインルである。さらに続いて単発ヴィネトゥ映画がバラバラと作られていったが、やがて上述の三部作が生まれた。第一作目が1963年12月11日、二作目1964年9月17日、第三作目は1965年10月14日の西ドイツ公開だから、二作目と三作目の間に『荒野の用心棒』が登場したことになる。『荒野の用心棒』は本国イタリアでは1964年9月12日公開なので2作目より早いが、西ドイツでは劇場公開が1965年3月5日なので「『荒野の用心棒』はヴィネトゥ二作目と三作目の間」といっていいだろう。1965年にはイタリアではすでにマカロニウエスタン旋風が吹き荒れていたはずだが、西ドイツではこの時点で観客の目はまだイーストウッドよりピエール・ブリースの方を向いていたのではないだろうか。

 この三部作の最後の作品のそのまた最後にヴィネトゥが死ぬ。オールド・シャターハンドと庇おうとして撃ち殺されるのである。本来ヴィネトゥ映画シリーズはここで一応の終わりを見るはずであった。しかし当時の西ドイツの観客が黙っていなかったそうだ。ブリースのヴィネトゥを生き帰させろと製作会社に抗議が殺到し暴動(?)が起こりそうになったため、製作会社が折れ、またブリースを主役にしたヴィネトゥ映画を作り続けて国民をなだめたそうだ。そういえば『殺しが静かにやって来る』でも映画のラストに抗議してローマで暴動が起きたという都市伝説を聞いたことがあるが、この噂のベースはもしかしたらこのヴィネトゥ映画かもしれない

 これらヴィネトゥ映画はじめ当時の西ドイツの西部劇は時期的にマカロニウエスタンの誕生と完全にダブっていただけではない、俳優の点でも重複している。ヴィネトゥものにはクラウス・キンスキーやマリオ・ジロッティ(テレンス・ヒルの本名)、ジークハルト・ルップ、ウォルター・バーンズ、ホルスト・フランクなどマカロニウエスタンでおなじみの俳優が顔を出しているし、1964年3月23日公開、つまり『荒野の用心棒』の直前に作られ公開された非ヴィネトゥの西ドイツ西部劇Der letzte Ritt nach Santa Cruz(「サンタ・クルースへの最後の旅」)にはマリアンネ・コッホ、キンスキー、ルップ、マリオ・アドルフなどが出ていて出演の面子だけみたら完全にマカロニウエスタンである。
 俳優ではないがヴィネトゥ単発もの、1964年4月30日公開のズバリOld Shutterhandというタイトルの映画の音楽を担当したのは聞いて驚くなリズ・オルトラーニだ。
 また、西ドイツに誘発されたのか対抗意識なのか、その後東ドイツでも結構盛んに西部劇というかインディアン映画が作られるようになった。主役はOld shatterhandにも出ていた(当時)ユーゴスラビアの俳優ゴイコ・ミティッチ(Gojko Mitić) が演ずることが多かった。「西のブリース、東のミティッチ」と言われたそうだ。東ドイツの西部劇は1965年くらいから作られ始め、1970年代を通じて1980年代くらいまでは時々製作されていたから時期的には完全にマカロニウエスタンと重なっているのである。

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これが東ドイツのインディアン、ゴイコ・ミティッチ。https://mopo24.deから

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西のブリース、東のミティッチのダブル出演。これもhttps://mopo24.deから

 このカール・マイ西部劇はロケを当時のユーゴスラビアで行なったが、このロケ地をそのまま引き継いでイタリア製西部劇を作ったのがセルジオ・コルブッチ。1964年5月25日イタリア公開のMassacro al Grande Canyon(「グランド・キャニオンの大虐殺」)という映画がそれだ。『荒野の用心棒』より半年も早い。主役にロバート・ミッチャムの息子のジェームズ・ミッチャムを起用しているのだが、映画自体はアメリカ西部劇の劣化コピーのようであまり面白くなかった。

 ドイツ製西部劇がコルブッチに与えた影響はモティーフにも見て取れる。普通マカロニウエスタンにはあまりネイティブアメリカンが出てこないのだが、コルブッチはこの伝統を破っていわゆるインディアンを主人公に据えている。『さすらいのガンマン』(1966)である。しかもご丁寧に主役は本当にチェロキーインディアンの血を引くバート・レイノルズを持ってきている。その後トニーノ・チェルヴィが『野獣暁に死す』(1967)で仲代達也にネイティブ・アメリカン(それともメキシコ人だったか)という設定で登場させたが、こちらは悪役だし、主人公は仲代に復讐する側のガンマンだったから、コルブッチのほうがドイツ製西部劇に忠実だったと言えるだろう。
 ちなみにここの仲代もヴィネトゥ映画のインディアン女性に負けず劣らず無理があった。どうやってもネイティブアメリカンにもメキシコ人にも見えないのである。最初の登場シーンでチェルヴィは仲代にマチェットを振り回させたが、その持ち方がどう見ても日本刀。おかげで以降(少なくとも私には)日本人にしか見えなくなった。さらに映画の最後のほうでも刀を完全にサムライ風に持って立ち回りを演じたのでそのガンマン装束との間に違和感がありすぎた。仲代氏も仕事とはいいながら、黒澤明の時代劇では銃を撃つ一方西部劇では刀を振り回すという、まあ普通とは逆を行かされてご苦労様でしたとねぎらうほかはない。

 当時「ヨーロッパで西部劇を作る」のはすでに珍しいことでもなんでもなかったし、観客側にもそれを一つのジャンルとして受け入れる雰囲気はドイツを中心とした当時の大陸ヨーロッパに広がっていた。いわばお膳立てはすっかり出来上がっていたのだ。機は熟していた。レオーネはそれに点火したのだ。


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 何年か前、オーストラリアのラジオ局の軽はずみな冗談が人を一人死なせたことがあった。

 当時第一子出産のためにケート妃が入院していた病院にDJが二人して英王室の者を装ってイタズラ電話をかけ、中の様子を聞きだそうとした。電話対応に慣れているいつもの職員がその時たまたま電話を取らず、看護婦さんの一人が電話をとったが、有名人に対してマスコミがよくやる低俗な突撃レポート的な攻勢に慣れておらず、電話をを真に受け、「わかりました、ちょっとお待ちください」と丁寧にとりついで内部の者につないだ。つながれた人は別の職員だったが、王室の者だと最初の看護婦さんがつげたため、内部の様子をいろいろ話してしまった。そのやり取りをオーストラリアのDJたちはラジオで曝し、DJは自分のツイートで「あそこまで簡単に引っかかる人も珍しい」とか何とか騙された看護婦さんを嘲笑った。ところがその看護婦さんは恥ずかしさと責任感から自殺してしまったのである。あとには夫と子供たちが残された。
 その直後はさすがにDJ二人もラジオ局も一応の誠意は見せて神妙に謝罪したが、さらにその後DJの一人がオーストラリアで何かの賞をとったと記憶している。視聴率、というか視なしの聴率を稼いだからだ。本当に後味の悪い事件だったが、これはこういうことを企画したラジオ局やそれをやったDJだけを責めてすむ問題ではないと思う。人が引っ掛けられたりかつがれたりするの見るのが面白いと感じる人が世の中にいる限りこの手の番組は製作され続けるだろう。ある意味では私たち視聴者がこの真面目な看護婦さんを死に追いやったのである。

 さて、そうやって亡くなられた看護婦さんはJacintha Saldanhaという名前のインド人だった。この苗字だが、-nh-という綴りが入っていて明らかにポルトガル語ではないか。hをnの後ろにつけると口蓋化のn、つまりニャ・ニュ・ニョとなるはずだ。名前のJacinthaのほうも見るからにヨーロッパ系で、調べてみたらギリシャ語の「ヒヤシンス」と同源だそうだ。この名前の別バージョンとしてcinthaという形もある。英語のCinthiaあるいはCynthiaと似ているがこちらのほうは全く別語源である。
 どうしてインド人がこういう名前なのか気になってさらに調べてみたら、ヴァスコ・ダ・ガマの時代からインド(の一部)では途切れることなくポルトガル語が母語として話されているらしい。ゴアは1947年にインドがイギリスから独立した時も、香港やマカオと同じく本国のインドには属さず、当時のサラザール政権はインドの度重なる返還要求にも首を縦に振らなかった。シビレを切らしたインド政府が強硬手段に出てゴアを占領し、ここを事実上インド領にしたのはやっとつい最近(でもないが)の1961年のことだ。さらにそれをポルトガル政府が承認したのはサラザールの死後、1974年のことである。故人はMangaloreというゴアの近くの町の出身だったが、ゴア周りばかりでなくインド南東部にもポルトガル語地域がある。そういえば「カースト」という言葉はもともとポルトガル語だったはずだ。
 確かに現在では英語やヒンディー語に押されていってはいるが、年配の人にはポルトガル語を母語とする人がまだいるそうだ。

Map_of_Portuguese_India
インドのポルトガル語地域。Mangaloreという地名ににしっかりマルがついている。(ウィキペディアから)

 知っている人にたまたまタミール・ナドゥから来ている人がいたのでちょっと聞いてみたことがあるが、「はい、ポルトガル人の子孫はタミール・ナドゥに結構います。私の知り合いにもポルトガルが母語の人がいます。全員タミル語とのバイリンガルですが。ポルトガル語話者は北インドにもいます。あと、フランス人話者もいて、彼らには出生と同時に自動的にフランス国籍が与えられるので、成長するとフランスに「帰る」ことが多いです。」とのことだった。上の図を見ると確かにインドの北西部には小さなポルトガル語地域が見えるし、さらに調べてみるとタミール・ナドゥには本当にフランス語地域がある。

French_India_1815
これはちょっと古い時代のフランス語地域だが、なるほどこれなら今でもフランス語話者がいるだろう。(これもウィキペディア)

 ポルトガル語といえば自動的にブラジルが思い浮かぶが、実はアフリカにもポルトガル地域が結構ある。アフリカ西岸の島国、カーボヴェルデやギニアビサウ、果ては南アフリカでもちゃっかりポルトガル語が使われているが、アフリカで最も重要なポルトガル語国はなんと言ってもアンゴラとモザンビークだろう。ここでは西岸の島国と違ってポルトガル語ベースのクレオールではなく、狭い意味での「ポルトガル語」が話され、公用語にもなっている。住民の大多数がポルトガル語を話せるし、2013年現在でこの両国で合わせて4500万人ほどのポルトガル語話者がいるそうだ。2億人のブラジルほどではないが本国の人口は1000万人くらいだからその4倍だ。その他のアフリカの国々のポルトガル語人口も全部合わせると8000万人から一億人にもなるという。そういえばサッカーのポルトガルチームに時々黒人選手が混じっているのを見かけるが、アンゴラかモザンビークの出身なのかもしれない。だとすると言葉には全く困らないはずだ。前にTVでアフリカのこのあたりの地域のドキュメンタリーをやっていたが、現地の人、つまり黒人がポルトガル語の名前だったし、ポルトガル語をしゃべっていた。

 アジアではインドのほかにマカオと東チモールが旧ポルトガル領として有名だが、マカオでは最後までポルトガル語があまり浸透せずに終わった。東チモールでは1975年にここを軍事併合したインドネシアが1981年以来ポルトガル語を一切公式の場から追放したため、今では住民の1割くらいしかポルトガル語ができないそうだ。2002年インドネシアが撤退して東チモールが独立した時、再びポルトガル語に公用語の地位が与えられた。
 以前さる日本の方から聞いた話だが、その人の母方に東ティモール出身のインドネシア人の友人がいたそうで、祖母の代までポルトガル語を話していたといっていたそうだ。それにしてもインドのゴアにしろ、東チモールにしろポルトガル話者は年配の人ばかりのようで気になる。アフリカや南アメリカと違ってアジアでは周辺にヒンディー語、中国語、インドネシア語などの強力な現地語があったから、ポルトガル語は容易には浸透しなかったらしい。亡くなられた看護婦さんも名前は確かにポルトガル語だが、もしかすると言葉自体は話せなかったのかもしれない。現在アジアでのポルトガル人口は広い地域に散らばっているにも関わらず総計でも1万人に遥かに満たないという。アジアのポルトガル語は消滅していくかもしれない。今後が気になるところだ。


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 外国語をやっていると、時々日本語の感覚では全く別の観念が一つの単語としていっしょになっているので驚くことが多い。例えばpoorという語に「貧しい」と「かわいそうな」という意味があると聞いて「そんな馬鹿な。貧しいとかわいそうじゃ意味が全然違うじゃないか」と戸惑ったのは私だけだろうか。この二つは英語だけでなくドイツ語でもロシア語でも同単語になっている。前者がarm(アルム)、後者はбедный(ベードヌィ)である。だからドストエフスキーの小説の題名は「貧しき人々」とも「哀れな人々」とも訳せるわけだ。
 また、ショーロホフの『静かなドン』の原題はтихий Донだが、ここで「静かな」と訳されているтихий(チーヒィ)は「ゆっくりとした」という意味もあるからこれは「ゆっくりと流れるドン」あるいは「たゆとうドン」とでも訳してもよかったのではないだろうか。もっともドイツ語でも「静かなドン」(Stille Don)と訳してあるが。それにしても「ゆっくり」と「静か」がいっしょになっているロシア語に驚く。
 が、こんなことで驚いていたらロシア語はやっていられない。なんと「夢」と「眠り」が区別されずに一つの単語になっているのだ。Сон(ソーン)という言葉がそれである。実はロシア語ばかりでなくスペイン語でも眠りと夢はいっしょで、sueñoである。ではロシア語やスペイン語で「夢のない眠り」はどう表現したらいいのか気になって仕方がない。
 もっともロシア語のсонが表す「夢」はあくまで寝ているときにみる夢であって「将来の夢」という場合の夢はмечта(メチター)とまったく違う言葉を使う。日本語では両方とも「夢」で表すと聞いたらきっとロシア人は「そんな馬鹿な。Сонとмечтаじゃ意味が全然違うじゃないか」と怒り出すに違いない。スペイン語のsueñoは睡眠中の夢も希望の夢も意味する。この点では日本語をいっしょだ。ドイツ語は睡眠Schlaf(シュラーフ)と夢Traum(トラウム)が別単語な上、後者が寝ている時の夢も希望も表すから日本語といっしょである。

 しかしだからといってドイツ語に気を許してはいけない。上で述べたarmのほかにも落とし穴があるからだ。
 以前なんとかいう長官が「自衛隊は暴力装置」と言ったとか言わなかったとか、その通りだとかそれは間違いだとかが議論になったことがあるが、その議論の中で「マックス・ウェーバーも警察や軍隊を暴力装置と呼んでいる」と引き合いに出している人がかなりいた。しかしウェーバーが「暴力装置」などと言ったはずはないのだ。なぜならばウェーバーは日本語などできなかったからである。というのは揚げ足取りにすぎるが、問題はここで「暴力」と訳されているGewalt(ゲヴァルト)というドイツ語である。このGewaltは「暴力」などよりもずっと意味が広く、「権力」あるいは「権力行使」という観念も表す。というよりむしろそういうやや抽象的な意味のほうがメインで、gesetzgebende Gewalt(「法律をつくるゲヴァルト」)は「立法権」、richterliche Gewalt(「裁判官のゲヴァルト」)は「司法権」、vollziehende Gewalt(執行するゲヴァルト))は「行政権」、Gewaltentrennung (「それぞれのゲヴァルトの分離」)で「三権分立」、さらにelterliche Gewalt(「親のゲヴァルト」)は「親権」で、親が子供に往復ビンタを食らわしたりすることではない。
 さらに日本語の「暴力」には「暴力団」という言葉があることからもわかるように「犯罪」「悪いこと」というニュアンスがある。ここから派生した「暴力的」という形容詞にもはっきりとネガティブな色合いが感じられ、こういう人は「頭や言葉では相手に勝てないと思うとすぐに手が出る未熟な男(女にもいるが)」である。
 Gewaltにはこのニュアンスがない。「権力」「強制権」の意味も無色に表しているが、この言葉にはその他にも「通常の程度を遥かに超えるもの」、「非常に強力なもの」という意味があって、Naturgewaltで「自然の威力」、höhere Gewaltは言葉どおりに訳せば「より高いゲヴァルト」で日本語の「暴力」という観念にしがみ付いていたら理解できないが、これは「不可抗力」という意味である。また「ゲヴァルト=暴力」という図式だとWiderstand gegen die Staatsgewaltは「国家の暴力に対する抵抗」とでも訳さねばならず、まるで圧政に対して立ち上がる革命活動のようだが、これは単なる「公務執行妨害」。ついでにドイツ語ネイティブに「神のゲヴァルト」、göttliche Gewaltという言い方は成り立つかどうか聞いてみたところ間髪をいれずOKが出た。Gewaltから発生した形容詞gewaltig(ゲヴァルティッヒ)は「暴力的」などではなく「すさまじい」。つまりドイツ語のGewaltには日本語の「暴力」のようなケチくさい意味あいはないのである。
 だからマックス・ウェーバーの暴力装置神話もちょっと気をつけないといけない。氏が軍隊を暴力装置と呼んでいる、と言っている人はひょっとしたらPolitik als Beruf(「職業としての政治」)で出てくるHauptinstrument der Staatsgewaltという言葉を「国家暴力の主要な装置」と読み取ったのではないだろうか。これはむしろ「国家権力施行のための主要な道具組織」であろう。またウェーバーは「装置」にあたる意味ではInstrumentよりApparatという言葉のほうを頻繁に使い、その際国家のプロパガンダ機構など、つまり言葉どおりの意味での「暴力」を施行しない組織も念頭においているではないか。さらに私は「軍隊・警察はGewaltの道具組織(そもそもInstrumentまたはApparatをこの文脈で「装置」と訳すのは不適切だと思う)である」とキッパリ定義してある箇所をみつけることができなかった。もちろん、ウェーバーがそう考えていることはそこここで明らかにはなっている。しかし「軍隊・警察は権力の道具となる組織」というのはむしろ単なる言葉の意味の範囲にすぎず、ウェーバーがわざわざ言い出したことではない、というのが原文をザッと見た限りでの私の印象である。念のため再びネイティブに「Instrument der Staatsgewaltってなあに?」と無知を装って(装わなくても無知だが)質問してみたところ、「警察とかそういうものだろ」という答えが帰ってきた。このネイティブはウェーバーなど読んだことがない。「軍や警察は権力施行のために働く機構である」などということは当たり前すぎてわざわざ大仰に定義する必要などないのだ。
 私はドイツ国籍を取ったとき、何か宣誓書のようなものにサインした。そのときいかにも私らしく内容なんてロクに読まずにホイホイサインしてしまったのだが、その項目の一つに「私はドイツのStaatsgewaltを受け入れます」というのがあったこと(だけ)は覚えている。これは決してお巡りさんや兵隊さんに殴られても文句を言うなということではない。国が私に対して強制権を施行してくるのを認めます、という意味だ。「税金なんて払うの嫌です」とかいって払わないでいれば国は権力を施行して私を罪に問う。私が人を殺せば国は私を刑務所に送り込む。国がそういうことをするのを認めよ、という意味である。

 と、いうわけでこのGewaltに関してはドイツ語のほうが意味が広いわけだが、日本語の単語のほうが守備範囲が広いこともある。「青」という語が有名で、「青葉」「青リンゴ」「青信号」という言葉でもわかるように日本語「青」にはやや波長の長い緑色まで含まれる。ドイツ語のblau(ブラウ、「青」)には緑は入らないから木の葉やリンゴ、信号などは緑としかいえない。もちろん、だからといって日本人が青と緑を識別できないわけではない。子供に絵をかかせれば花の茎や木の葉は皆きちんと緑色に塗っている。
 それで思い出したが、ある時物理学者が信号無視で捕まり、警官に「あまりスピードを出しすぎたため信号の光がドップラー効果を起こし、赤が青(つまり「緑」)に見えてしまった」と言い訳したそうだ。何十億光年も先にあるクエーサーが赤方偏移を起こしたという話は聞くが、信号機が青方偏移したなんて聞いたことがない。どんだけ超スピードの乗用車なんだか。そんなんじゃ仮に信号無視は見逃してもらえたとしてもそのかわりスピード違反でやっぱり罰金は免れまい。

『職業としての政治』の全文はこちら



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 どれか一つ戦争映画を紹介してくれと言われたら私はエレム・クリモフ監督のソ連映画『Иди и смотри (「Come and see」)』(1985)を勧める。第二次世界大戦時のベラルーシにおけるパルチザン対ドイツ軍の戦いを描いたもので、ソビエト・ロシアの芸術の伝統をそのまま引き継いだような大変美しい映像の映画である。ストーリーにもわざとらしい勇敢なヒーローは出てこない。使用言語の点でもロシア語のほかにベラルーシ語を聞くことができるから面白いだろう。

 タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
 普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。

 不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。

Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!

 前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。

Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)

これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから

Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)

となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
 
 また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある

смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!

さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。

Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!

いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。

 だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
 それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。

 もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。

 さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
 完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って

Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!

だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。

Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。

 このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
 このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。


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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。

      つの机           ルーブリ       50冊の本
主格    два стола      три рубля      пятьдесять книг
生格    двух столов     трёх рублей     пятидесяти книг
与格    двум столам    трём рублям    пятидесяти книгам
対格    два стола      три рубля       пятьдесять книг
造格    двумя столами     тремя рублями   пятьюдесятью книгами
前置格      двух столах     трёх рублях      пятидесяти книгах

どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く → 鳥がは鳴く → 鳥(が)は鳴く→ 鳥Øは鳴く → 鳥鳴く
殺さない → 人をは殺さない → 人(を)は殺さない → 人Øは殺さない → 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。

     単数       複数
主格  rom                    rom-á     
対格    rom-és                  rom-én
呼格    róm-a                    rom-állen
与格    rom-és-ke             rom-én-ge
奪格    rom-és-tar             rom-én-dar
具格    rom-és-ar              rom-én-džar
処格    rom-és-te              rom-én-de
属格    rom-és-koro           rom-én-goro (披修飾名詞が男性単数の場合)
属格    rom-és-kiri             rom-én-giri  (披修飾名詞が女性単数の場合)
属格    rom-és-kere           rom-én-gere    (披修飾名詞が複数の場合)

ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは-ésがついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では-jaが付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及したphen- phen-jáも主格・対格以外は男性名詞のromと同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。

    単数          複数
主格  phen                       phen-já     
対格  phen-já                           phen-(j)én
呼格  phén-e                            phen-álen
与格  phen-já-ke                      phen-jén-ge
奪格  phen-já-tar                      phen-jén-dar
具格  phen-já-ar                       phen-jén-džar
処格  phen-já-te                       phen-jén-de
属格  phen-já-koro                   phen-jén-goro (披修飾名詞が男性単数の場合)
属格  phen-já-kiri                     phen-jén-giri  (披修飾名詞が女性単数の場合)
属格  phen-já-kere                   phen-jén-gere (披修飾名詞が複数の場合)

 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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(「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い(けどちょっと古い)記事を翻訳して紹介しています。)
原文はこちら
(古い記事だなあ…)

エンニオ・モリコーネ85歳に:コヨーテの遠吠えを楽譜に翻訳

映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネがこの日曜日に85歳になるが、氏はお祝いなどしないでむしろ身を隠していたいそうだ。が、その前に自身の音楽や、ヘビーメタル、結婚、神や世界について上機嫌でインタヴューに応じてくれた。

筆者がインタヴューのためモリコーネ氏と会う直前、氏はダブリンでのフェスティバルで100人ものメンバーからなるオーケストラやそれと同規模の合唱団の指揮をしてきたところだった。にもかかわらずもうすぐ85歳のモリコーネ氏はまったくリラックスした雰囲気で、普通言われているよりはるかに機嫌よく応じてくれた。氏の通訳を長年務めるロベルタ・リナルディさんが会話を助けてくれた。

昨日タクシーの運転手にモリコーネ氏と会うという話をしたら、運転手はいきなり『続夕陽のガンマン』のメロディをハミングし出しました。モリコーネさんにも人が作曲なさったメロディを歌ってきたりすることがありますか?

道では人はたいてい私だなんてわかりせんよ。でも先日ローマで友人にからかわれました:道の反対側を歩いていたので私には彼が目に入らなかった。そしたらこの、例の映画の曲のメロディを口笛で吹き出したんです。(曲を口笛で吹く)
私は反射的に振り返って何ごとかとあたりを見回しました。友人はそれを見て大喜びしてましたよ。

当時どのようにしてこの主題を思いついたのですか?

もしかすると皆お気づきになっていないのかもしれませんが、あのメロディは単にコヨーテの鳴き声を音符に写し取っただけです。(と、コヨーテの吠え声をする)まさにこの通りやっただけ。

この映画で確立した「スパゲティ・ウェスタン」という言葉をモリコーネさんはあまり取ってはいらっしゃいませんね。

はい。だってレストランにいるんじゃないんですから、「イタリア製ウェスタン」と言って下さいよ。

でもスパゲティそのものはお好きでしょう?

私は徹頭徹尾パスタのファンです。

クリント・イーストウッドは別として:誰かこれはと思うようなウェスタンのヒーローがいますか?

クラウス・キンスキーですね。セルジオ・レオーネが撮った映画でのね。キンスキーは人と違ってましたよ、本当に意地が悪くて攻撃的でね。娘のほうが好きですけど、この人はしっかり記憶に残っています。

ヘビー・メタルバンドのメタリカがもう30年以上もモリコーネさんの『Ecstasy of Gold』を舞台で使ってますね。モリコーネ・サウンドから多大の影響を受けた、と公言しているロックバンドは多いですが、これを嬉しいとお思いですか、それとも「勝手に使われた」と感じておられますか?

構いませんよ。そういうロックミュージシャンで食事に招待してくれたのも多いし。その由知らせてもらいましたから。彼らにこちらの音楽が使ってもらえるのは多分私が曲を基本簡単なものにしておこうとしているからじゃないのかな。それぞれの楽器のバランスをとるのは私は後から初めて考えますからね。私の選ぶ和音なんかもシンプルだからギターで再演しやすいんでしょう。

作曲はどのようにしてなさっているのですか?

以前と相変わらずですよ:紙に鉛筆で個々の楽器のスコアを書く。映画のほうを見ないうちにそうすることも度々です。

ヒットした映画音楽はすでに楽譜のうちから読み取るのですか?それともやっぱりオーケストラが必要ですか?

もちろん。作品を仕上げたらメロディをオーケストラがどう演奏するか、実際に耳で聞かないといけませんからね。作曲している間はその必要がありません。昔は自分の曲をオーケストラが演奏するのを聞くところまで行き着けなかった作曲家も多かったですが。つまりそうなる以前に死んでいたわけ。フェリックス・メンデルスゾーンとか思い出して見てくださいよ!作曲家は自分が何を書いているのか聞いてみないと。

作曲なさった曲は強く感情に訴えてくることが多いですが、ご自身がご自分の曲で感傷的になってしまうことなどおありですか?

作曲家がなにか作曲する時はもちろんある程度何か感じています。それでこの感じを聴衆を分かち合おうとするわけです。けれど私はそういうのを純粋に感情とは呼ばないかなあ、むしろ感情的な緊張、というか。作曲家が伝えたい緊張状態ですね。

感情はそちらにとって作品が成功したかどうかの基準になっているのですか?

感情はその一部です。でも作曲の際にそれだけが唯一重要なポイントであるわけではありません。作曲家は作品を書いているときおそらく自分自身の感情のコントロールすら出来ていないんじゃないですかね。でも技術的な手法はマスターしている、思うようなメッセージを伝えて全ての楽器をしかるべき場所にすえる、ということはね。作曲家が感情と名づけているものは本来技術で得られるものです。音楽を通じて作曲家の正直なところが出てしまうということでしょうね。自分の作品を分析していると見えてくるんですよ。

ずっと保つのが難しいのはどちらでしょう、生涯にわたる音楽の仕事と結婚生活と?

これはまたヒネったご質問を。まあでも、仕事かな。妻のマリアとはまあもう57年以上もいっしょですからね。でも作曲家としての仕事は本当にハードですよ。常に一線にいるには大変な努力が必要です。

11月10日に85歳になられますね。その記念日をどのように過ごされますか?

身を隠していたいですわ。パーティとかはやりません。

どうしてお祝いをしてもらわないのですか?人生でこんな高いところまで登られたのを、少しは誇ってみてもいいのでは?

もちろん幸せに思ってますよ。でも一方年を取れば取るほど墓場も近づく、ということも常に考えてないといけないのでね。誰でもそれはそうですが、80過ぎた者だと「次」ですからね、そこに行くのが。

ではご自分を何歳くらいだと感じていらっしゃいますか?

80歳という気は全然しませんわ。せいぜい60歳くらい。私は自分が回っている輪の上にいるような気がするんです、その輪が回転してさらにいいものを私に出してくる。本当にまだまだやりたいことがたくさんあるんです。

何かモリコーネさんに喜んでもらえるような誕生日プレゼントがありますか?

一番大切なプレゼントはもちろん健康でいる、ということですね。それから息子たちと娘がいい仕事をみつけられるよう願っています。うち3人までが目下全然仕事してないので。息子のアンドレアはやっぱり作曲家なんですが、もうちょっと仕事があってもいいのに、と。

それはイタリアの負債状況のせいですか?

いいえ。二人はアメリカにいるんですから。そのうちの1人はグリーン・カードを持ってなくて、つまり仕事につけないんです。もう一人のほうは持ってるんですがアメリカでほんの少ししか仕事がありません。

息子さんがたはモリコーネさんが絶対行きたくなかったところにいるわけですね!

その通りです。ハリウッドがヴィラをオファーしてきたことがありました。そこで彼らのために作曲してくれと。でも私はそんなところに住もうなんて夢にも考えたことはありません。私は骨の髄までローマっ子でね、この町が大好きなんです。

今はどのような暮らしをなさっておられますか?

私はローマ市内のさるアパートの最上階3階を住居にしています。この住居には以前ソフィア・ローレンが住んたこともあって、屋上に素晴らしい庭園がありましてね。そこにも部屋があって、作曲の仕事は皆その部屋でします。部屋に入れるのは私だけ。私には自分なりの秩序があって、他人がいるとダメだから。

2008年にロバート・デニーロに強く推されてオスカーの名誉賞を受けられましたが、生活上で何か変化はありましたか?

全く何も変わっていません。

モリコーネさんの周りは?

うーん、その後イタリアでの人気が一気に上がったそうですが。時々気味が悪かったですよ、知らない人たちからポンポン肩叩かれたりすると。

74歳の時に初めてご自分の作曲作品をライブでオーケストラに演奏させ、聴衆の前で指揮をなさいましたが、なぜですか?

コンサート演奏は人からやらないかと聞かれてから始めたんです。その前は誰も私に頼んできませんでしたからね。頼まれもしないのに道端に行って自分のメロディも披露できませんしね。

ご自分が映画音楽の作曲家だけでなく、クラシック音楽やアヴァンギャルド音楽も作っていることを示すのにコンサートを利用しておられますか?

いいえ。それら種類の違った音楽は分けてます。実験的な音楽は私やるのが本当に大好きなんですが、それも別にして流します。私のコンサートでは主題を映画の中でやるような楽器とオーケストラで演奏しています。

舞台ではどんなお気持ちですか?

最初はいろいろ気になってたまりませんでした。演奏者の誰かがちょっと失敗して全てをメチャクチャにするんじゃないかと心配で。きちんと正確に演奏してくれないから、と。聴衆のほうはそれで即全体までダメだった、ということにもならなそうですが、指揮者の私にはすぐわかります。

で、マエストロの怒りを買う?

いえ、そこで気をとり直します。起こりえますからね、そういうことは。たいていの聴衆はおかしいなとは気づきません。これはほとんど「私だけのプライベートな問題」ですね。

舞台ではとてもエネルギッシュに指揮なさいますが、指揮をするのはスポーツ選手のようなものですか?

まったくスポーツ選手と同じ、というわけでないですが、共通する部分はあります。コンサートではしっかり焦点を見据えて集中していないといけない、自分の体と筋肉をコントロールできていないといけない。

そのためにどんなフィットネスを?

私は朝5時に起きて毎日一時間自分の家で体を動かします。たいてい家の中をグルグルジョギングしてまわるんですが。

するとわかってはいるが止められないこととか悪い習慣とかはお持ちでないのですね?

ありますよ。チョコレートです。これを我慢するのは大変ですよ。けれど私一年前は86キロあったんですよ。それを72キロに落としました。これ、どうやってやり遂げたかご存知ですか? 食べる量を減らして家の中を走り回ったんですな、ははは。

では昔の楽しみごとはもう全然なさらないと?

体重をここまで減らしたんですからまた時々チョコレート食べるくらい許されますよね。でもたいてい内緒でやります。でないと妻に怒られますから。

エンニオ・モリコーネの人となりについて
エンニオ・モリコーネは最も偉大な映画音楽の作曲家である。60年代以来500以上もの映画の音楽を書いてきた。セルジオ・レオーネのイタリア製ウェスタンで有名になった。『ウエスタン』、『続・夕陽のガンマン』、『荒野の用心棒』のサウンドトラックを作曲したのがそれ。85回目の誕生日をこの日曜日にローマで祝う。ハリウッドからのオファーも数多くあったが、氏は故郷を離れたことが一度もない。このあと大規模なオーケストラを引き連れてのツアーをまずドイツで行う。2月11日にベルリンの東駅多目的ホールで氏の最も有名なメロディを披露する。

インタヴュー
カーチャ・シュヴェマース


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