ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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