私が学生だった頃、とても怖い英語学の教授がいた。この先生は初日に開口一番、こういう口調でこういうことを言った。

「お前ら、大学で知識が身につくとか大それたこと思うなよ。大学は何のためにあるか知ってるか?「学問の世界」というのがどういうものか社会に出る前に垣間見ていけるようにあるんだ。どうせお前らは真面目に研究者になる気なんかなくて出たら就職とかするんだろ?それでいい、ただ、学問をナメることだけはするな」

その口調があまりにも怖かったことと(この先生は本当に学生を怒鳴りつけた)、英語学は必須単位ではなかったこととで、その一日だけで怖気づき、単位を放棄してしまった。

 それから20年以上もたってから、今度はドイツで怖い教授に遭遇した。ロシア文学の女性教授だった。後ろで学生がおしゃべりをしているとつかつかとそこまで行って、机の上に5マルク(当時)硬貨をバンと叩き付け、「授業に参加するのでなくおしゃべりをしに来ているのでしたら、ここは場違いです。カフェテリアに行ってやって下さい。コーヒー代にこの5マルクは寄付します。」とかいう超怖い先生だった。私はこの先生の下でドストエフスキーの『悪霊』をやった。この単位は必須だったので取らないわけにはいかなかったのだ。
 もう時効だろうからここで告白すると、そのゼミが開講される前の学期に掲示板に「来学期に開講される「悪霊」は、事前にこの作品をロシア語で全部読みおわっていることを参加条件とする」という指示が張り出されていたのたが、『悪霊』を原語で読破なんてしていた日には何年かかるかわからないから当然全部翻訳、しかも日本語で読み、原文はコピーだけしていかにも「ロシア語で読みました」という顔をして参加した。 単位のためのペーパーでは引用した箇所だけロシア語の文を書き移して、まるでロシア語で読んだかのような体裁を取り繕って提出した。
 そんな風に学期中は毎週この授業に出る度にギンギンに緊張して心労がたまっていた上、たかが30ページくらいのペーパーを書くのに学期休み中ずっと死ぬ思いをしたので提出した後は一週間ほど病気になった。まさに「悪霊」である。

 その他にもいろいろ怖い先生に会ったが、そこには共通した点があることに気がついた。先生たちが厳しいのはいわゆる知ったかぶりをする者に対してで、馬鹿学生が素直に無知をさらけ出した場合には案外寛容だったことである。
 もっともその英語学の先生の授業には一日しかいなかったので、ひょっとしたらあの学期間に能無しの学生が怒鳴られたりしていたのかも知れないが、ロシア文学の先生の授業では一度こんなことがあった:さる素朴な学生が堂々と「ゴーゴリの『外套』?知りません」と言い放ったのである。周りの者は今にも雷が落ちるのではないかと首をすくめたが、なんと先生は笑いだしてしまった。私も一度、ニヒリズムを定義してある文章の意味が全然わからず、自分のレポート発表で自分のレジュメにも掲げてあるその文章を読み上げた後、正直に「私本人はこれを理解することが出来ませんでした」といったら、教室の者と共に先生も笑い出し、ゆっくりと噛んで含めるように説明を始めてくれたものだ。

 同じような話を以前アメリカに留学していた人の書いたエッセイで読んだことがある。とにかく英語が聞き取れない、講義がわからない。とうとう自己嫌悪に堪えられなくなってガバと立ち上がり、「先生、一言も理解できません!」と叫んでしまった。それを聞いた教授が言ったそうだ。「○○、心配するな。他のアメリカ人だってわかってないんだから」

 さて、その「知ったかぶり」であるが、これには二種あると私は思っている。第一は「開陳型知ったかぶり」であって、よく知ってもいないことについて延々とウンチクをたれ出すこと、またはたれ出す人のことである。(本当は持ってなどいない)知識を開陳すること自体が目的なので目的と形が一致していて構造自体は単純だから、「単純性知ったかぶり」と名付けてもいいかもしれない。普通私たちが「知ったかぶり」として理解しているのはこの型の知ったかぶりである。やられた方はこの単純性知ったかぶりは無視、スルーすればいいだけだからまあ対処法も単純だ。
 もう一つの知ったかぶりは私が「質問型知ったかぶり」と名付けているもので、相手に対する質問の形をとって現れてくる。知ったかぶり者がいろいろゴチャゴチャ聞いてくるのだが、その質問の内容があまりにも抽象的だったりあいまいだったりで結局何が知りたいのかわからない上に、質問のそこここに聞きかじった学者の名前、ロクに理解もしていないそれらしき学術用語などを挿入してくるのが特徴だ。これは決して具体的に何かを知りたいのではなく、単に相手にかまってもらいたいのである。だから私はこの手の「教えてクン」はいわゆる「かまってチャン」の亜種であると考えている。
 また、質問という形式を取られるので相手もスルーするわけにはいかず、なにがしかの応答をせねばならないためそこに擬似会話が発生してしまう。「擬似会話」といったのはこれは真の意味での会話ではないからだが、とにかくこの「詳しい相手と会話できた」と錯覚することによって自分まで当該事項に詳しくなったような気になれる、つまりある種の自己欺瞞もこの質問型知ったかぶりの目的である。
 つまり質問型では目的(「相手にかまってもらうこと」と「専門家になったような気を味わうこと」)と形式(「質問」)が一致していない。「複雑性知ったかぶり」とでも名付けられるだろうか。この複雑性知ったかぶりへの対応は開陳型と違って一筋縄ではいかない。一応質問なので少なくとも一回目は対応せざるを得ないため、「最初からスルー」という手が効かないからである。何度か対応してしまってから、「もうこの話はやめましょう」と質問者から無礼者と思われるのを覚悟で会話を打ち切るか、「他の人の方が詳しいですからそっちに聞いてください」とたらい回しするか(これを私は「質問型知ったかぶりへの避雷針作戦」と名付けている)、さらには無知を装って相手が専門用語を連発したら「その言葉は知りません。どういう意味ですか?」とカウンター質問するか。とにかく回避するのに相当の心理的エネルギーを必要とする。もっとも最後のやり方は危険だ。なぜなら質問型知ったかぶりをさらに増長させ、開陳型知ったかぶりに移行させてしまうおそれがあるからである。いずれにせよ「途中からスルー」は「最初からスルー」よりも要するエネルギーは遥かに大きい。

 また、単なる無知と知ったかぶりとではバレた時の反応に本質的な差がある。単なる無知なら相手が専門家であるとか自分より詳しいとか、あるいは実は自分はよくわかっていなかったと判明した時点で「それは知りませんでした」とか何とか言いつつ顔を真っ赤にして(しなくてもいいが)退散する。ところが知ったかぶりには相手に比べて自分がドシロートであるとわかっていてもまだ専門家に向かってウンチクを垂れたりトンチンカンな質問をするのをやめない人がいる。相手がいくら答えてやっても間違いを訂正してやってもモノともせずに同じ内容を延々と繰り返すか、相手のちょっとした言葉尻を捉えてその言葉からまた新たに知ったかぶり・カウンターウンチクを展開しだすのである。私は前者を「壊れたレコード戦法」、後者を「出来損ないのガムテープ戦法」と呼んでいる。後者はいくら剥がしても剥がしても剥がされるたびに今度は全く別の箇所にベタッと張り付いてきて次はどこに粘着されるか予想できないからであるが、レコードにしろガムテープにしろ無理矢理「会話」の形式を保とうとするのだ。張り付かれたほうはいい迷惑だ。こういう知ったかぶり者はひょっとすると「相手がしていることに興味を持ったふりをして見せるのが人間関係の潤滑油」とでも思い込んでいるのかもしれないが、最初から話しかけないほうがよっぽど潤滑油なのではないだろうか。 

 なぜ私がこんなに知ったかぶりの心の機微を知っているかというとズバリ自分も身に覚えがあるからだ。生半可に口を出して無知がバレ、大恥をかいて退散したり、お世辞をいうつもりが逆に相手の気を悪くしてしまったことが数限りなくある。あのレポート発表の時も、わかってもいないニヒリズムの定義をエラそうに読みあげていたら、あの先生から「その定義をもうちょっと詳しく解説してください」とか突っ込まれていたかもしれない。今考えると冷や汗が出る。


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