アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

本を出しました。詳しくは右の「カテゴリー」にある「ブログ主からのお知らせ」をご覧下さい。
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  何度か書いたように、言語連合という言葉はロシアの言語学者ニコライ・トゥルベツコイが提唱したものである。トゥルベツコイというと普通真っ先に思いつく、というよりそれしか思いつかないのはその著作『音韻論の原理』だろう。ちょうどド・ソシュールの「代表作」『一般言語学講義』が氏の死後出版されたように(ただしこれはド・ソシュール自身の手によるものではない。『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)、『音韻論の原理』もトゥルベツコイの死後出版されたものである。また、ド・ソシュールと聞くと大抵の人はラング・パロールなど構造主義の言語学や記号学しか思い浮かばず、それに優るとも劣らない業績、喉音理論にまで気を回す人はあまりいないように、トゥルベツコイも音韻論の有名さに比べると「言語連合」のほうは思い出す人は少ない。さらに理不尽なことに、言語連合という用語そのものは結構使われているのに、その言い出しっぺがトゥルベツコイであることを知らない人も相当いる。「喉音理論」と言えば一応名前を思い出してもらえるド・ソシュールとの違いはそこだ。
 なぜそんなことになったかというと、言語連合という言葉が最初に使われたのがロシア語の、しかも論文というよりエッセイといったほうがいい著作だったからだ。1923年にブルガリアのソフィアで発表されたВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』というテキストである。以下が言語連合を定義してある箇所だが、タイトルからもわかるようにロシア語である上にプーシキンみたいな旧仮名遣い・旧文法だ(現代の正書法に直したテキストをネットで見られる)。

Но кромѣ такой генетической группировки, географически сосѣдящіе другъ съ другомъ языки часго группируются и независимо отъ своего происхожденія. Случается, что нѣсколько языковъ одной и той же географической и культурноисторической области обнаруживаютъ черты спеціальнаго сходства, несмотря на то, что сходство это не обусловлено общимъ происхожденіемъ, а только продолжигельнымъ сосѣдствомъ и параллельнымъ развитіемъ. Для такихъ группъ, основанныхъ не на генетическомъ принципѣ, мы предлагаемъ названіе «языковыхъ союзовъ».

しかしこういった系統によるグループ分けのほかに、地理的に互いに隣接した諸言語をその系統とは関係なくグループとしてまとめられる。そこでは地理的にも歴史文化的にも同じ一つの圏内にあるいくつかの言語が特徴的な類似点を示すことがある。その類似は共通の起源から発生したものではなく、あくまで長期間にわたる隣接関係とそれぞれ言語内部の並行した発展の結果であるにもかかわらずである。このような、親族関係という原則によらない言語群を呼ぶのに「言語連合」という名称を提案する。

この「言語連合」という部分には注がついていて、代表的な例としてバルカン半島を挙げている。またこの箇所はJindřich Tomanという人がMITで出したThe Magic of a common language(1995)という本で英語に訳しているのだが、下線の箇所が微妙に違っている。私の読解が間違っているか、向こうが間違ったかである。それとも私の参照した原本バージョンとTomanの1987年のとはこの部分が違っているのかもしれない。87年にモスクワで出版された「トゥルベツコイ選集」Избранные труды по филологииという本を見かけたらちょっと調べてみてほしい。

...besides such generic grouping, languages which are geographical neighbors also often group independently of their origin. It happens that several languages in a region defined in terms of geography and cultural history acquire features of a particular congruence, irrespective of whether this congruence is determined by common origin or only by an [sic.] prolonged proximity in time and parallel development. We propose the term language union [jazykovyj sojuz] for such groups which are not based on the generic principle.
 
 これを発表して何年か後、やっと1928年になってからトゥルベツコイはプラハで行われた第一回国際言語学者会議で自説を発表し、Sprachbund (言語連合)とSprachfamilie(語族)の観念的な違いを明確にした。そこでも何人か指摘しているが、この言語連合という考え方そのものはトゥルベツコイの創作ではない。以前にも書いたようにバルカン半島の言語状況についてはすでに1829年にスロベニアのコピタルKopitarという学者が報告しているし、当時「バルカン学」の研究はすでに相当進んでいたのである。トゥルベツコイはこの言語接触による類似性、「言語連合」を一般言語学の用語として確立したのだ。
 それを受けてプラーグ学派の面々がこのテーマで研究を開始した。例えばロマン・ヤコブソンは1931年にそのテーマで本を出し、『58.語学書は強姦魔』で名前を出したイサチェンコIsačenkoも1934年に論文を発表しているそうだ。ところが言い出しっぺのトゥルベツコイ自身はごく短い論文をチョチョッと書いただけ。この辺が後の誤解というか無知を生んだ原因だろう。
 また、やはり1920年代から文化交流による言語の混交問題に興味を持っていたHenrik Beckerという人が1948年にズバリDer Sprachbundという本を出版している。時々「言語連合という言葉はドイツ語のSprachbundの訳」と誤解しязыковый союзを完全に無視している人を見かけるのはこれが原因だろう。しかもこのBeckerはMeistersprache「支配言語」など、トゥルベツコイが嫌悪した言語の順位付け思想や西欧中心の世界観・学問観(下記参照)に基づく用語も提唱しているから氏も浮かばれまい。
 とにかくトゥルベツコイは専ら一つの祖語からの分岐としてとらえられていた「印欧語」というものにもこの「文化・地理上の隣接による言語の統合」というアスペクトを適用して、当該言語が印欧語と見なされるには6つの基準を満たさねばならないと提案した。この6つの構造条件を全部満たしていれば印欧語であり、言語の構造が変化してどれか一つの条件でも満たさなくなればいくら共通の単語を引き継いでいても印欧語ではなくなる、というのである。Мысли об Индоевропейской проблеме『印欧語問題に関する考察』という論文で論じている。
 1.母音調和の欠如。
 2.語頭と語尾の子音群に特別な関係があること(語頭に立ち得る子音群のほうが語の内部や語尾よりも制限が厳しい)。
 3.いかなる条件下でも語が語幹だけで始まることがない。
 4.母音交代(アプラウト)の存在。
 5.形態素内で子音が交代する。
 6.能格でなく主格・対格の格システム。

トゥルベツコイが後に発展させた音韻論を髣髴とさせるようだし、特に5はいかにもロシアの言語学者らしく、今日でも(少なくとも私の年代の者は)ロシア語の学習者が必ずやらされる音韻形態論Morphonologieの視点が見えて非常に興味深いが、単純に一つ疑問がわいてくる。もし、地球上のどこかで偶然この条件をすべて満たす言語が現れたら印欧語とみなされてしまうのかということだ。トゥルベツコイはこの質問になんとYesで答えている。印欧語学者の高津氏が攻撃したのもこの点で、トゥルベツコイの定義した印欧語を「空論」とまで言っている:まず第一にこのような特徴を並べても印欧祖語再建にはなんらの貢献もしない。第二に印欧語ばかりでなく、言語には根底に横たわる実体がある。印欧語の場合、諸言語の語彙や形態素の規則的な対応から帰納してもわかるように、その根源となる実体がある。借用によって、その根源を同じくするにもかかわらず言語が印欧語でなくなるなどという定義、構造的な特徴による語族の決定は、高津氏らのような形態の対応から帰納する語族の決定とは両立しえない。私は高津氏が「借用」という用語の持ち出しているところにすでに純粋要素と外来要素の区別、つまりある意味では差別を感じるのだが、当該言語間の語の音韻対応を考慮に入れない「印欧語」にも確かに「うーん」とは思う。
 なお、どうでもいい話ではあるが、ここで高津氏が参照したのは原文のロシア語ではなくドイツ語翻訳である。
 
 実はもちろんトゥルベツコイは「語族」というアプローチを否定しているわけではない。言語の変化を追うには分岐と統合という二つのアスペクトが必要なことを強調しているにすぎない。印欧語学=言語学であった時代からすでに言語の地理的連続性に注目し、波動説を唱えたSchmidtなどの学者はいたのだ。印欧祖語は本当に一つの言語だったのだろうか。印欧語発生地には最初の最初から複数の言語が話されていたのではないのか?それら地理上隣接していた言語が統合されて一つのまとまりを見せているのではないのか?そもそも一つの言語というのは何か。日本語と琉球語、本国ドイツ語とスイスのドイツ語を一つの言語とみなす客観的根拠はどこにもないのだ(『111.方言か独立言語か』参照)。
 このことは印欧祖語を再現しようとした者も心の隅では感じていたことで、「祖語再構」というのは言語を再現するのが目的ではなく、あそこら辺の諸言語を網羅する理論上の言語を創造することが目標であった。この姿勢はド・ソシュールに顕著である。つまり理論のための理論なのだ。そしてこの分岐アプローチに待ったをかけたのも、何も印欧言語学にコペルニクス展開を起こしてやろうとしたからではない、別の見方を示して議論を深めようとした、言い換えればprovocationそのもの、まさに高津氏のいう「空論」がトゥルベツコイの狙いだったのではなかろうか。

 もうひとつ、当時の権威ある印欧比較言語学にトゥルベツコイが待ったをかけた、いや明確にNoを突き付けたのが、当時の印欧語学者の中に言語や文化の優劣を言い出す人が少なからずいたということである。有名なのがアウグスト・シュライヒャーAugust Schleicherで、1850年の論文で、印欧語のような屈折語は言語の最も発達した状態であり、膠着語はその前段階、孤立語は最も未開な言語状態と主張した。それを言ったら名詞の屈折をほとんど失っている英語はロシア語より未開言語なのかとツッコミを入れたくなる。面白いことに上述の高津氏もこのシュライヒャーなどが印欧語学に価値判断・言語発展度などが持ち込んだのを遺憾としている。こういった西欧中心主義(トゥルベツコイは頻繁に「ロマンス・ゲルマンの自己中心主義」という言葉を使っている)をトゥルベツコイは嫌悪した。学問上ばかりでなく文化的にも西欧は無神経に自分たちの基準を押し付けていると見て反論した。氏のこういう思想はその経歴と固く結びついている。

 トゥルベツコイはロシアの公爵家に生まれた。名門で、私は確認していないがトルストイの『戦争と平和』にも大貴族として一家の名前が出てくるそうだ。父も祖父も親戚も大学教授を務めたりした社会的にも教養的にもエリート中のエリートである。そこに生まれたトゥルベツコイも知的に早熟で15歳のころからすでに論文を発表していたという。最初は民俗学が専攻だったが、じきに言語学に転向した。
 言語学者としての業績はフィンランド語のカレワラやコーカサスの言語の研究から始めた。上の条件6にコーカサスの言語を熟知していることが見て取れる。それらの「アジアの言語」の中にロシア語と通ずる要素をみたのである。ロシア語やロシア文化の中にはアジアと根を共にする要素がある、と感ずるようになった。後の「文化や言語に優劣はない」という見方、また言語が「発展する」とか「未発達である」という類の価値付けに対する反発の芽がすでに見て取れるではないか。
 もちろん、当時の言語学者として印欧言語学もきちんと身につけていた。サンスクリットもできたし、1913年から14年にかけてライプチヒに滞在し、カール・ブルクマンKarl Brugmannやアウグスト・レスキーンAugust Leskien(『26.その一日が死を招く』参照)らと席を並べて勉強している。
 1917年に革命が起こった時、トゥルベツコイは療養のため北コーカサスのキスロヴォーツクКисловодск という町にいたが、大貴族でレーニンに嫌われていたため危険すぎてモスクワに帰れなくなった。二年ほどロシア国内(の大学)を転々とした後国外亡命して1920年にまず当時のコンスタンチノープルに逃れ、そこからさらにブルガリアのソフィアに行き、1922年まで大学で教鞭をとった。上述の『バベルの塔と言語の混交』はその時書かれたものである。1922年にはウィーン大学に招聘されて亡くなる1938年までそこで教えていた。そのウィーンから有名なプラーグ学派の言語学サークルに通っていたのである。
 
 当時ソフィアにはロシアからの亡命者が大勢おり、いわゆる「ユーラシア主義・ユーラシア運動」の発生地となった。トゥルベツコイはその中心人物である。この運動はすでに19世紀にロシアの知識人の間に起こったスラボフィル、スラブ主義運動に根ざしているが、非西欧としてのロシアのアイデンティティを確立していこうというものである。この精神を引き継いだユーラシア主義は両大戦間のロシア(知識)人の間に広がっていた。トゥルベツコイが1920年に著したЕвропа и человечесгво『ヨーロッパと人類』はその代表作だ。面白いことにここでは「アジア」や「ロシア」という言葉が使われておらず、西欧対非西欧という対立で論じられている。私は確認していないが(ちゃんと確認しろ!)この著作はいち早く日本語に訳されたという。
 そうやって「アジアとつながったロシア」としての文化的・政治的アイデンティティが模索されていった。トゥルベツコイは皇帝は廃止すべきという立場だったが、ボリシェビキにも反対だった。共産主義は所詮「西欧」の産物だったからである。民主主義にも懐疑的だった。もっともロシアにふさわしいのは民衆から選出された代表が政治を行うのでなくて、教養的にも文化的にもエリート層がまず国としてのイデオロギーを確立して、その路線にのっとって国を作っていく、というものだったらしい。民衆側の機が熟していないのに外来から民主主義を取り入れたら行きつくところは衆愚制だと考えていたのかもしれない。
 トゥルベツコイは敬虔な正教徒だったし、ロシアのアイデンティティを上滑りな西欧からの輸入思想、例えばコスモポリタン思想に受け渡すつもりはなかったのだ。

 この思想は氏の言語観にも反映している。ユーラシア運動そのものについては、のちに何人かボリシェビキ寄りになったりロシア国粋主義に傾いたりしていったので距離をとるようになったが、「ユーラシアとしてのまとまり」という視点は保たれた。この言語観に立って、印欧語も枝分かれして発展していく樹形図としてではなく、連続する鎖(цепьまたцѣпь)のイメージで把握したのだ。コーカサスの言語、印欧諸語、地中海・中東のセム語などがこの地上で鎖のようにつながっている、それぞれの輪の間には必ず重なりあう部分がある、言語が統合している部分がある。文化も言語も上から下に流れるのではない、横につながっているのだ、として言語相対主義・文化相対主義を強調した。
 
 トゥルベツコイのこの思想は当然ナチスには目の敵にされ、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると早速案の手を伸ばし、ゲシュタポがウィーン大学にあった氏の研究論文を押収し自宅まで捜索した。すでに心臓に問題のあったトゥルベツコイはそのため病状が悪化して亡くなった。氏の代表作『音韻論の原理』は家族がなんとか保持していた書き散らしの原稿を言語学者の同僚や学生が校正して死後出版されたものだ。

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 『107.二つのコピュラ』の項でちょっと述べたように、ロシア語には形容詞の変化パラダイムとして短形と長形との二つがある。長形は性・数・格にしたがって思い切り語形変化するもので、ロシア語学習者が泣きながら暗記させられるのもこちらである。辞書の見出しとして載っているのもこの長形の主格形だ。たとえばдобрый「よい」の長形の変化形は以下のようになる。男性名詞の対格形が二通りあるのは生物と無生物を区別するからだ(『88.生物と無生物のあいだ』参照)。
                  単数                                        複数
              男性           女性         中性
主格      добрый     добрая     доброе        добрые
生格      доброго    доброй     доброго       добрых
与格      доброму   доброй     доброму      добрым
対格      добрый     добрую     доброе       добрые
             доброго                                         добрых
造格      добрым     доброй     добрым      добрыми
前置格  добром      доброй     добром       добрых

それに比べて短形のほうは主格しかなく、文の述部、つまり「AはBである」のBの部分としてしか現れない、言い換えると付加語としての機能がないので形を覚える苦労はあまりない。アクセントが変わるのがウザいが、まあ4つだけしか形がないからいい。
                  単数                               複数
              男性        女性      中性
主格      добр       добра    добро      добры

困るのはどういう場合にこの短形を使ったらいいのかよくわからない点だ。というのは長形の主格も述部になれるからである。例えばHe is sickには長短二つの表現が可能だ。

短形    Он болен
            (he-主格 + (is=Ø) + sick-形単数主格)
長形    он больной
            (he-主格 + (is=Ø) + sick-形単数主格)

この場合は、боленなら目下風邪をひいているというニュアンス、больнойだと彼は病気がちの人物、体が弱いという理解になる。が、では短形は描写された性質が時間的に限られた今現在の偶発的な状態、長形は持続的な状態と一般化していいかというとそうでもない。レールモントフの『現代の英雄』の一話に次のような例がある。まず、ある少年の目が白く濁っているのを見て主人公は彼が盲目であると知るがその描写。

Он был слепой, совершенно слепой от рождения.
彼は盲目だった、生まれつき全くの盲目だったのだ。

太字にした слепойというのが「盲目の」という形容詞の長形単数主格系である。ここまでは上述の規則通りであるが、そのあと主人公はこの盲目の少年がまるで目が見えるかのように自由に歩き回るのでこう言っている。

В голове моей родилось подозрение, что этот слепой не так слеп, как оно кажется.
私の頭には、この盲目の者は実は見かけほど盲目ではないのではないかという疑いが起こった。

二番目の「盲目」、太字で下線を引いた слепというのは短形である。このような発言はしても主人公はこの少年が「生まれつきの」盲目であるということは重々わかっているのだ。二番目の「盲目」は決して偶発的でも時間がたてば解消する性質でもない。
 つまり形容詞の長短形の選択には話者の主観、個人的な視点が決定的な役割を果たしていることがわかる。話者がその性質をある具体的な対象のものとして描写している場合は短形、その性質なり状態なりを対象に内在した特性として表現したい場合は長形を使う。前にも出したが、

китайский язык очень труден. (短形)
китайский язык очень трудный.(長形)

は、どちらも「中国語はとても難しい」である。が、短形は「私にとって中国語はとても難しい」という話者の価値判断のニュアンスが生じるのに対し、長形は「中国語はとても難しい言語だ」、つまり中国語が難しいというのは話者個人の判断の如何にかかわらず客観的な事実であるという雰囲気が漂うのである。短形を使うと中国語というものがいわば具体性を帯びてくるのだ。
 また形容詞によっては術語としては長形しか使えないものがあったり、短形しか許されないセンテンス内の位置などもある。『58.語学書は強姦魔』でも名前を出したイサチェンコというスラブ語学者がそこら辺の長短形の意味の違いや使いどころについて詳しく説明してくれているが、それを読むと今までにこの二つのニュアンスの違いをスパッと説明してくれたネイティブがなく、「ここは長形と短形とどちらを使ったらいいですか?またそれはどうしてですか?」と質問すると大抵は「どっちでもいいよ」とか「理由はわかりませんがとにかくここでは短形を使いなさい」とかうっちゃりを食らわせられてきた理由がわかる。単にネイティブというだけではこの微妙なニュアンスが説明できるとは限らないのだ。やはり言語学者というのは頼りになるときは頼りになるものだ。

 さて、このようにパラダイムが二つ生じたのには歴史的理由がある。スラブ祖語の時期に形容詞の主格形の後ろに時々指示代名詞がくっつくようになったのだ。* jь、ja、 jeがそれぞれ男性、女性、中性代名詞で、それぞれドイツ語の定冠詞der 、die、 dasに似た機能を示した。 それらが形容詞の後ろについて一体となり*dobrъ + jь = добрый、* dobra + ja =  добрая、*dobro + je =  доброеとなって長形が生じた。代名詞が「後置されている」ところにもゾクゾクするが、形容詞そのもの(太字)は短形変化を取っているのがわかる(上記参照)。この形容詞短形変化はもともと名詞と同じパラダイムで、ラテン語などもそうである。対して長形のほうはお尻に代名詞がくっついてきたわけだから、変化のパラダイムもそれに従って代名詞型となる。
 また語尾が語源的に指示代名詞ということで長形は本来定形definiteの表現であった。つまりдобр человекと短形の付加語にすればa kind man、 добрый человекと長形ならthe kind manだったのだ。本来は。現在のロシア語ではこのニュアンスは失われてしまった。短形は付加語にはなれないからである。

 ところがクロアチア語ではこの定形・不定形という機能差がそのまま残っている。だから文法では長形短形と言わずに「定形・不定形」と呼ぶ。また長・短形とも完全なパラダイムを保持している。例えば「よい」dobarという形容詞だが、定形(長形)は次のようになる。複数形でも主格と対格に文法性が残っているのに注目。また女性単数具格がロシア語とははっきりと異なる。

            単数                                                   複数
              男性               女性        中性              男性            女性          中性
主格       dobri              dobra     dobro             dobri           dobre        dobra
生格      dobog(a)        dobre     dobrog(a)       dobrih         dobrih        dobrih
与格      dobrom(u/e)   dobroj    dobrom(u/e)   dobrim(a)    dobrim(a)  dobrim(a)
対格      dobri               dobru     dobro             dobre          dobre        dobra
             dobrog(a) 
具格      dobrim           dobrom   dobrim           dobrim(a)    dobrim(a)   dobrim(a)
処格      dobrom(e/u)   dobroj     dobrom(e/u)  dobrim(a)    dobrim(a)   dobrim(a)
呼格      dobri               dobra      dobro            dobri           dobre         dobra

続いてロシア語では主格にしか残っていない短形「不定形」だが、

            単数                                  複数
              男性      女性       中性       男性          女性           中性
主格      dobar     dobra     dobro     dobri         dobre         dobra
生格      dobra     dobre     dobra     dobrih       dobrih        dobrih
与格      dobru     dobroj    dobru     dobrim(a)  dobrim(a)  dobrim(a)
対格      dobar     dobru     dobro     dobre        dobre         dobra
             dobra 
具格      dobrim  dobrom   dobrim   dobrim(a)  dobrim(a)   dobrim(a)
処格     dobru     dobroj     dobru     dobrim(a)  dobrim(a)   dobrim(a)
呼格     dobar     dobra      dobro     dobri          dobre         dobra

使い方も普通の文法書・学習書で比較的クリアに説明されていて、まず文の述部に立てるのは短形主格のみ。

Ovaj automobil je nov.
(this + car + is + new-)

* Ovaj automobil je novi.
*(this + car + is + new-)

付加語としてはa とthe の区別に従ってもちろん両形立てるわけである。対象物がディスコースに初登場する場合は形容詞が短形となる。

On ima nov i star automobil.
(he + has + a new + and + an old + car)

この「彼」は2台車をもっているわけだが、ロシア語ではこの文脈で「自動車」が複数形になっているのを見た。上の文をさらに続けると

Novi automobil je crven, a stari je bijel.
(the new + car + is + black + and + the old (one) + is + white)

話の対象になっている2台の車はすでに舞台に上がっているから、付加語は定形となる。その定形自動車を描写する「黒い」と「白い」(下線)は文の述部だから不定形、短形でなくてはいけない。非常にクリアだ。なおクロアチア語では辞書の見出しがロシア語と反対に短形の主格だが、むしろこれが本来の姿だろう。圧倒的に学習者の多いロシア語で長形のほうが主流になっているためこちらがもとの形で短形のほうはその寸詰まりバージョンかと思ってしまうが、実は短形が本来の姿で長形はその水増しなのである。

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 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない:
            標準デンマーク語     南ユトランド語
selv       [sɛlˀ]                               [siel], [sjel]       「自分、自身」
salt        [salˀd̥]                             [sɔld]                  「塩」
hånd      [hɔnˀ]                             [ha:(ʔ)n]              「手」
trug       [tʁuʔ]                              [tʁɔʋ]                  「桶」

l と n が対応している例もある。
              標準デンマーク語   南ユトランド語
nøgle      [nɔilə]                           [løçl]                  「鍵」

 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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 森鴎外の短編『舞姫』を知らないという人はさすがに日本にはいまい。読んでいない人はいるかもしれないが。鴎外のドイツ留学での経験をもとにしているといわれている作品で女主人公がエリスという名前だった。確か高校の現国でこれを読まされたが、私は当時高校で第二外国語としてドイツ語をやっていたので(『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)、エリスというのが全然ドイツ語の名前などではないことに気づいた。が、文学作品にそこまでつじつまを要求するのもアレだろうと思って見過ごした。
 するとそのあと、日本に帰った鴎外を追いかけてきたドイツ人の女性がいて、その人の名がエリーゼ・ヴィーゲルトElise Wiegertという事実が明らかになったと新聞で大きく報道された。そのためさらにエリスはエリーゼである、という解釈が定着してしまった。さらに私の見かけた資料によれば小金井喜美子までが随筆でその婦人の名前はエリスと言っているそうだ。確かにこの二つの名前は似ているので一瞬エリスはエリーゼの短縮形か愛称かと思うが、すでに私の中でモヤモヤしていたように、普通エリーゼの愛称として使われている形に「エリス」というものはない。言い換えるといくらエリーゼを変換してもエリスにはならないのである。エリーゼの愛称ならば、リースとかリーザとか「エ」が消えるはずだ。アクセントが「リー」にあるからである。ところが「エリス」はアクセントが「エ」にある。しかも「リー」の長母音が勝手に短縮されている。どうもおかしい、合わない、と感じてはいた。感じてはいたが私の考えすぎだろうとそれきり忘れてしまった。
 
 ところが、何十年もたってドイツでさる本を書いていた時(『お知らせ:本を出しました』参照。どさくさに紛れて自己宣伝失礼)、突然「エリスはエリーゼじゃない」という証拠を見つけたのである。このことは本の400ページから403ページにかけて書いておいた。一瞬論文にでもしてどこかの専門誌に投稿しようかと思ったくらいだ。しかし一方私は救いがたい文学音痴で、特に日本文学などは長い間島崎藤村を「ふじむらとうそん」と間違えて記憶していたし、二葉亭四迷も二葉・亭四迷かと思っていたくらいの馬鹿なのである。そんな馬鹿が気づくことくらいもうとっくに決着済みに違いない、今更大仰に論文なんて書いたら審査員の物笑いの種になりそうだという気がしたので特に発表することはしないで本の隅でチョチョっと言及するだけにしておいた。日本では誰でもわかっているのかもしれなくても、ドイツだったらさすがに「こんな既知のことをいまさら言うか」と嘲笑される確率は低かろうと思ったからである。それでもまあ全く発表しないのも惜しいなという気が最近してきたので、この場を借りて書くことにする。どうせこんなお笑いブログだし。

 鴎外が『舞姫』を出したのは1890年だが、同じ年の半年後にトゥルゲーネフの短編を翻訳して発表している。その短編の主人公の名がエリスなのだ。ロシア語の原題はПризраки(「幻」)というものだが、鴎外はこれをレクラム文庫のドイツ語翻訳から重訳。ドイツ語タイトルVisionen(「幻」)を『羅馬』として文語に訳している。その『羅馬』、Visionen/Призракиはストーリーというかモティーフが『舞姫』と微妙に並行しているのである。
 主人公(「私」)が女主人公とめぐり合って短い期間人生が交差するが、「私」の女主人公の人生に与えた影響のほうが女主人公が「私」の人生に与えた影響より格段に重い。「私」がもう取り返しがつかない後になってから女主人公との出会いを回想して悲しむというラストなど、舞姫を髣髴とさせる。
 もちろんこのころの女性描写というのは日本でもロシアでもこういう方向のものが多いし、モチーフがちょっとくらい似ているのをもって『舞姫』はトゥルゲーネフのパクリであるなど言い出すのはいくら何でも乱暴すぎることではある。私はただ『舞姫』の元を鴎外のドイツ留学中の実際の経験だけに求めるとピントがずれる可能性もあると言いたいだけだ。少なくともエリスという名前はドイツ人の知り合いの名前などではなくトゥルゲーネフから頂戴したことは確実だと思う。たしかに発表されたのは『羅馬』のほうが数か月遅いが、翻訳にかかる前に「ドイツ語の」原作 Visionenはすでに読んでいたはずだから、時間的にも矛盾しない。
 もっとも『舞姫』のストーリーが鴎外自身の経験に基づくとしている声が全部ではなく、鴎外はむしろ当時の日本からの留学生や政治家などに下半身の行儀が悪い人たちが目立ち、あちこちで現地妻を作ったりしているのを見て義憤を感じ同胞男性をネタにしてやった、という説があった。その手の素行の日本男性自身は当然反省などしておらず、鴎外はそれに抗議する意味で『舞姫』の主人公にはきちんと自分の素行について自省させたのであると。そうだとするとまさにその肝心な部分、鴎外が「文学的に」付け加えた部分がトゥルゲーネフとダブっていることになる。

 さてエリスという名前を原作では「英語の名前」と言っている。以下がその箇所である。

── Как тебя зовут ── или звали по крайней мере?
── Зови меия Эллис.
── Эллис! Это английское имя! Ты англичанка? Ты знала меня прежде?
── Нет.

「お名前は何というんですか? というよりせめて何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


これを鴎外当時のドイツ語のレクラム文庫ではこう訳してある。

„Wie heißest du? ── oder wie hast du einstmals geheißen?“
„Nenne mich Ellis.“
„Ellis! Das ist ein englischer Name. Bist du eine Engländerin? Hast du mich schon früher gekannt?“
„Nein“

「お名前は何というんですか? というより昔は何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


上の日本語訳ほとんどがそのまま使えるほどロシア語に忠実だ。それに対し、鴎外のほうはここをどう訳しているのかという質問自体が成り立たない。短編とはいえ、40ページ以上ある作品を鴎外はたった4ページで訳しているからである。当然この部分も完全にスッポぬけている。
 原文にしてもこの「英語」という説明は実は正しくない。エリスは英語あるいはイギリスの名前ではなくて本来ウェールズ、つまりケルト語の名前だからである。トゥルゲーネフにとってはイギリスもウェールズも要は大ブリテン島ということでどちらも同じ、つまり「英国の」という意味だったのかもしれない。さらにうがった見方をすれば最後の「いいえ」は「あなたは私を前から知っていたのか」という質問に対してではなく、「エリスは英語の名前じゃないですか!」に対して向けられていたのかもしれない。いずれにせよその、少なくとも「英語あるいは英国の」と断ってある名前をドイツ人の名前ということにした鴎外はイギリスとウェールズどころか、ドイツ語と英語の区別さえついていなかったということになる。形が一見似ているし、「西欧の名前」ということでドイツだろうがイギリスだろうが同じことだと思ったのか。でもEllisとlがダブっているのは決してダテではない、言語を決めるうえで非常に重要なポイントなのだが。
 面白いことに当のイギリス人はエリスを英語の名前と言われて黙ってはいなかった。ロシア文学の英語翻訳で有名なガーネットConstance Garnettは、この作品を英語訳するとき、Эллис を「アリス」Aliceと訂正している。

'What is your name, or, at least, what was it?'
' Call me Alice.'
' Alice ! That 's an English name ! Are you an Englishwoman ? Did you know me in
former days ?'
' No.'

Эллис がアリスでないことくらいガーネット氏だってわかっていたはずだ。確かに英語の[æ]はロシア語で э として写し取られることが多いが、それなら上でも述べたようにアリスは Элис になってlが一つであるはずだ。現にドイツの作家のハインリヒ・ベルHeinrich Böllはロシア語ではГенрих Бёлльでちゃんと原語通りlが二つある。さらに(しつこくてすみません)「不思議の国のアリス」はАлиса в Стране чудесであって、AがЭになっていない上にlが一つである。トゥルゲーネフがAliceをЭллис として写し取った可能性は低く、ガーネット氏の意図的な操作としか思えない。これを例えるに、どこかの人が書いた小説で「サンニョアイヌ」を「日本人の名前」としてあったのを日本人の翻訳家が「三田」あるいは「三村」に変えるようなものか。

  さて、鴎外の「翻訳」であるが、そもそも翻訳になっていないそのテキストにも珍しく原文が特定できる箇所がある。しかしそこでも以下のような意図不明のはしょりが見られる。まずロシア語の原作の部分が

Я задумался.
── Divus Cajus Julius Caesar!… ── воскликнул я вдруг, ── Divus Cajus Julius Caesar!  ── повторил я протяжно.  ── Caesar!

私は考え込んだ。
── ディヴス カユス ユリウス カエサル!… そして突然叫んだ、── ディヴス カユス ユリウス カエサル! それからゆっくりと繰り返した。── カエサル!

ドイツ語訳では忠実にこうなっている。

Ich überlegte einen Augenblick, dann rief ich: Divus Cajus Julius Cäsar! Divus Cajus Julius Cäsar! Wiederholte ich, den Ton dehnend.  Cäsar!

しかし鴎外はこれを勝手に足し算してこう訳している。

余はしばいたゆたひしが、声高くヂウス カユス ユリウス チエザルと三たびまで叫びぬ。

呼ばれた名前の発音表記はここでは不問にするが、この訳だと内容が原文と違ってくる。なぜなら主人公が3回叫んだのはカエサルだけでその他の部分ディウス カユス ユリウスは2回しか口に出していないからだ。そういえばこの手の「勝手な足し算」は『23.日本文学のロシア語訳』で述べた井上靖のロシア語訳にも見られる。まあ鴎外のこの翻訳は40ページを4ページに切り詰めたわけだから、この程度のチョン切り方は不思議でないが。

 とにかく鴎外を追いかけてきたエリーゼと『舞姫』のエリスとは名前の上では結びつかない。実は苗字のほうがよほど怪しい(?)。舞姫エリスの苗字「ワイゲルト」(Weigertと書くのだろう)と追っかけてきたエリーゼの苗字ヴィーゲルトWiegertは i と e を並べ替えただけの違いだからである。ではその追っかけエリーゼとは誰なのか。その人となりを鴎外の義弟(歳はこちらのほうが上だったが)の小金井良精が「ちっとも悪気のないまったくの善人。むしろ少し足りないくらいに思われる」と描写している。いわゆるナイーブで世間知らずな人だったようで、留学生たちが冗談で鴎外を追って日本に行けとそそのかしたらしい。それをマに受けて日本で手芸などで身を立てるつもりで来てしまったようだ。問題はその旅行費の出所で、良精の孫の星新一は「手芸や踊りで貯められる額ではない。鴎外がドイツで手切れ金を手渡していたのではないか。その際これは手切れ金であることを向こうに通じていなかったのでは」と推測している。
 このこととエリーゼという名前を踏まえて鴎外の『独逸日記』をみてみると候補者が二人見つかる。その一人だが、明治18年8月13日に鴎外はフォーゲルさんといううちの晩さん会に招かれるがそこで赤い服を着た女の子に会う。その子のことを鴎外は「性はなはだ温和なり。」と描写している。フォーゲル家に行儀見習いで住み込んでいたのだという。その次、9月12日にまたフォーゲル家に言ったとき家の者からその女の子が鴎外がまた来るのを楽しみにしてましたよと告げられる。この女の子の名前が「リイスヘン」Lieschenといって、これは代表的なエリーゼの愛称形の一つだ。ただ鴎外自身は名前を覚えておらず、「リイスヘンが待っていたんだよ」と言われて初めて誰かいなと思ってみてみたら先の赤い服の少女であったという。さらにその次の12月の24日にまたフォーゲル家に行ったらそのリイスヘンが「ドクターが来た!」と歓声をあげて喜んだ。この鴎外の描写をみた限りでは、鴎外のほうはリイスヘンを別に何とも思っていなかったようだ。もちろんその後もフォーゲルさんちに遊びにいった際リースヘンに会っていただろうが、単なる知り合いのレベルを超えたとは思えない。やはり日本の留学生が無責任にあることないこと吹き込んだのだろう。また渡航費の出所も別にエリーゼ自身が貯めたり鴎外から貰ったりしたのではなく、娘に大甘な裕福なパパが出してくれたのかもしれない。当時のフォーゲル家にはリイスヘンの他にも見習いや家事手伝いで富商の子供が住み込んでいたのだ。
 私はこの女の子がエリーゼ・ヴィーゲルトの第一候補だと思っているが、もう一人リイゼLiseという名前が出てくる。これもエリーゼの愛称形だ。明治19年10月31日に「家主シャウムベルヒSchaumbergの子オットオ、リイゼOtto、Lise等を伴ひて「パノプチイクム」Panoputicumを観る。蠟偶の見せ物なり」とある。 Schaumbergをシャウムベルヒと発音するのはベルリン訛だが、それよりこの名前は『舞姫』に出てくる狒狒爺、といっては言いすぎだがエリスを囲い者にしようとする座長の名前である。さらにオットーという名前を鴎外は自分の息子につけているくらいだから、リイゼのほうも鴎外にとっては重要な人だったのかな、と思えないこともない。このリイゼが第二候補である。

 いろいろ気になっていたのでこのエリスという名前の出所や鴎外へのトゥルゲーネフの影響について言及している研究論文でもあるかと思って検索してみたのだが見つからなかった。トゥルゲーネフについては鴎外自身、上述の『独逸日記』での明治20年5月28日にカフェでたむろしていた玄人筋の女性の一人が「魯人ツルゲエネフ」の小説を知っていたので驚いた、と書いている。鴎外がある意味トゥルゲーネフに私淑していたことがわかるし、ロシア文学は明治時代の日本文学に絶大な影響を与えたのだから鴎外に影響しないはずはないのにその辺が無視されているのはなぜなのか。
 天下の森鴎外・舞姫である。百の単位でいそうな研究者がこれだけ長い間研究し続けてきた中で鴎外が訳したトゥルゲーネフ作品にエリスという人物がいることに誰一人気づかなかったとなどということは100%ありえないのでその可能性は除外すると、『舞姫』とトゥルゲーネフとの文学的関連性について積極的に扱った著作が見つからなかった原因として考えられるのは次の3つである。可能性の高い順に並べてみる。
1.私の探し方が悪かった。
2.エリスの名がロシア文学から来ていることなど皆とっくに知っているので当たり前すぎてわざわざ言い立てる必要がなかった。
3.あくまでエリスはエリーゼであって鴎外の文学活動はトゥルゲーネフには影響されていないとすでに確認されていた。

2と3はまとめることができて、要するに「日本文学研究者の間では『舞姫』へのトゥルゲーネフの影響というテーマには研究する価値がないというコンセンサスがあった」ということだ。その価値なし・決着済みのテーマを何も知らない二葉・亭四迷なアホ部外者がほじくり返してしまった、ということなのだろうか。知っている人がいたらちょっと教えてほしい。

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 マカロニウエスタンにはいわばシリーズとなったキャラクターがいくつかある。複数の作品で複数の俳優によって演じられた主役キャラで、『52.ジャンゴという名前』で述べた「ジャンゴ」が最も有名だ。1966年に『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロが演じてバカ受けしその後何十もの「ジャンゴ映画」が製作された。ジャンゴほどではないが、他にサバタ、サルタナというキャラクターも繰り返し登場する。後者のサルタナというキャラクターを普及させたのはジャンニ・ガルコという俳優で1966年のMille dollari sul nero(ドイツ語タイトルSartana、日本語タイトル『砂塵に血を吐け』)が第一作。ガルコは当時ジョン・ガルコと名乗っていた。氏はさらに時々ゲイリー・ハドソンGary Hudsonという芸名も使っている。
 Mille dollari sul neroでのサルタナという名前のキャラクターはむしろ(というより完全に)悪役だったが、この作品が特にドイツで当たって上述のようにタイトルもズバリSartana「サルタナ」となったのを受けて、その後もサルタナの名前をタイトルに使ったジャンニ・ガルコ主演の映画が4本作られた。ガルコ自身がキャラクター設定に関与し監督ジャンフランコ・パロリーニにも提案して、薄汚いカウボーイタイプではなくエレガントで気取った賭博者タイプ、いつも真っ白いシャツを着ているオシャレなタイプのガンマン路線で行くことになったそうだ。さらにガルコは以後の映画出演では契約書にいつも条件をつけて、主人公のキャラクターがこの基本路線に合致しない場合は映画のタイトルにサルタナという名前を出さないことにさせた。ところが1970年に来た「サルタナ映画」のオファーの脚本を見たところ、サルタナという名の役のキャラ設定が全然基本に合致していない。すでに時間が迫っていて脚本の修正も不可能だった。そこでガルコはオファーは受けたが、映画のタイトルにサルタナの名前は使わせなかった。それがUn par de asesinosという作品である。しかしドイツ語のタイトルは… und Santana tötet sie alle「そしてサタナが全員殺す」とちゃっかりサルタナを想起させるようになってしまっているばかりか、本国イタリアでも再上映の際タイトルが変更されてLo irritarono... e Santana fece piazza pulitaにされた。英語タイトルなどモロSartana kills them allである。しかしこの作品はサルタナ映画としては非公認である。
 そういうわけでガルコがサルタナ(あるいは紛らわしいサンタナ)という名の主人公を演じている映画は実は全部で6本あるのだが、最初のMille dollari sul neroではまたキャラクターが完全に確立していなかったし、Un par de asesinosではキャラが基本路線から外れているということで除外され、…Se incontri Sartana prega per la tua morte(1968、ドイツ語タイトルSartana – Bete um Deinen Tod「お前の死を祈れ」)、Sono Sartana, il vostro becchino(1969、ドイツ語タイトルSartana – Töten war sein täglich Brot「サルタナ;殺しは日々の糧」)、Una nuvola di polvere… un grido di morte… arriva Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana kommt…「サルタナがやって来る」、日本語タイトル『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』)、Buon funerale amigos… paga Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana – noch warm und schon Sand drauf「(体は)まだ暖かいのにすでに砂まみれ」)の4本だけが「ガルコ公認サルタナ映画」である。それにしても皆すさまじいタイトルだ。ちょっと調べたところこれらは日本では劇場未公開である。最初の公認サルタナ映画…Se incontri Sartana prega per la tua morteにはウィリアム・ベルガーが共演しているが、そういえばベルガーも後に『野獣暁に死す』で、人を殺した後服装の乱れを気にするというタイプの気取り屋タイプの殺し屋を演じていた。サルタナ路線を引き継いだのかもしれない。また、本家ガルコのサルタナ映画はこの6本(あるいは4本)しかないが、ガルコ以外の俳優、例えばジョージ・ヒルトンなどもサルタナというキャラを演じている。フランコ・ネロ以外もジャンゴをやっているのと同じことだ。逆にガルコのほうもサルタナ以外の西部劇にも出ていて、氏が出演したマカロニウエスタンは14作品ある。

 氏はフランコ・ネロとロバート・レッドフォードを足して二で割ったのをちょっとゴツくしたような好男子であるが、一度インタビューでマカロニウエスタン誕生の瞬間に立ち会った様子を語っている。

 1964年、セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアで『荒野の用心棒』を撮っていたとき、ガルコもちょうどマルチェロ・バルディ監督のSaul e Davidという聖書映画に出演していたためそこにいた。「イスラエルのように見える景色」ということでアルメリアがロケ地として選ばれたそうだ。あるときホテルで、ちょうど撮影から宿に戻ってきてバーのカウンターに腰を掛けていた男に会ったが、それがどこかで見たような顔だった。誰かがあれはセルジオ・レオーネで、今彼の第一作目の映画を撮っているんだと教えてくれた。そこでその男の隣に坐って、どんな映画を撮っているのか聞いてみたら、レオーネが言うには、ジャン・マリア・ヴォロンテが悪役をやるちょっとした西部劇だ、とのことだった。そして雑談となり、いろいろ話をしていたら突然背の高い痩せた男が入って来たではないか。これが主役さ、アメリカ人でクリント・イーストウッドというんだ、とレオーネは言った。
 翌日自分の方のプロデューサーにその話をして、レオーネの撮っているのはどんな映画か聞いてみたら、プロデューサー曰く、「ちょっとした西部劇だが、ほとんど無予算でね。爆破のシーンがあるというんで工面してやらないといけなかった。レオーネ自身はその金がなかったんでね」。レオーネが極度の予算不足にあえいでいたのは、そのプロデューサーがケチ、というより約束した予算の支払いさえ滞りがちだったからだそうだ。ガルコのプロデューサーのほうはたんまり予算を貰っていたのである。
 ガルコは自分の映画が終わるとイタリアに帰ってミラノで舞台で仕事をしていたが(この人は元々舞台出身である)。『荒野の用心棒』の大当たりを目の当たりにした。映画館で見たそうだ。比べて予算のタップリあった自分の映画は全然ヒットしなかった。イタリア映画界は猫も杓子も西部劇を撮り出していて宗教映画など上映してくれるところがなかったのである。それで二年後に舞台契約が切れたとき、西部劇で役はないかと探していたら簡単に見つかった。それが上述のMille dollari sul neroだ。監督のアルベルト・カルドーネが「舞台経験のある悪役俳優」を探していたそうである。

真っ白なシャツに粋なネクタイというサルタナの特徴的ないでたち
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その粋ないでたちで銃を粋に担ぐ
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Sono Sartana, il vostro becchinoのドイツ語バージョンから。安物DVDだけに画質が悪い。
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 映画史に触れるこういう話も面白いが、それに劣らず面白いのは氏の生まれそのものである。ガルコは本名ジョバンニ・ガルコヴィッチGiovanni Garcovichと言ってクロアチアのダルマチア地方にあるZara(これはイタリア語名。クロアチア語ではZadar)という町の生まれだ。道理で姓が南スラブ系なわけだ。ここでクロアチアが出てくるのには歴史的理由がある。

 ダルマチアもそうだが、現在クロアチア領になっているアドリア海沿岸は長い間イタリア、というよりベネチア共和国に属していた。697年から1797まで千年以上続いた共和国である。ダルマチアは1409年からベネチア領になり、18世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国支配下にはいった。何百年もイタリア領だったうえ直接支配を受ける以前、1000年ごろからアドリア海に出没する海賊などからの保護をベネチアが受け持っていたりしたこともあってすでにダルマチアとベネチアは密接につながっていたから、今でもイタリア系住民がいる。ガルコの生まれたZara市に至っては第一次世界大全から第二次世界大戦の間、1920年から1947年までイタリア領だった。大戦後ユーゴスラビアの領土になった際、そこに住んでいたイタリア系住民はほとんどイタリアに引き上げたそうだが、ガルコは1935年の生まれだから、生まれた時からイタリア国籍のはずである。本名がGarković とクロアチア語綴りでなくGarcovichとイタリア語表記になっているのはそのためかもしれない。

16世紀ごろのベネチア共和国。Zara市がその領土であるのがわかる。ウィキペディアから。
Repubblica_Venezia_espansione_in_Terraferma

18世紀になってもイストリア半島を含むクロアチアのアドリア海沿岸部はベネチア領であった。
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両大戦間のイタリア領の飛び地Zara
Zara-Zadar-1920-1947

 クロアチアの北西部、スロベニアと境を接するところにある三角型をした半島、イストリアもまた伝統的にベネチア領で、やはりイタリア系住民が少なくない。先日もTVのドキュメンタリー番組でイストリア半島の漁師のことをやっていたが、この人の母語はクロアチア語でもスロベニア語でもなく、「イタリア語の一方言」と番組では言っていた。この「方言」とは普通ウェネティー語またはウェネト語(ヴェネト語)と呼ばれるベネチアの言葉であろう。クロアチアの南にある「モンテネグロ」という国名がこのウェネト語であることは以前にも書いた(『45.白と黒』参照)。
 ただし、ここでいうウェネト語は『122.死して皮を留め、名を残す』の項で名を出した、ローマ時代のウェネト語とは違う。ローマ時代のウェネト語はラテン語のいわば兄弟言語で、後にラテン語に吸収されてしまった。エトルリア語と運命を共にしたのである。現在のウェネト語はラテン語の末裔である。同姓同名なのでややこしいが「別人」だ。

 またクロアチア人は宗教的にもカトリックで、マリオとかアントニオとかのイタリア系の名前が目立つ。事実上同じ言語を話しているセルビア人は名前もスラブ系なのと対照的だ。ジャンニ・ガルコの本名もしっかりこのパターン、名前がイタリア語、姓がスラブ語というパターンを踏襲している。氏は少なくともイタリア語・クロアチア語のバイリンガル、ひょっとすると母語はイタリア語オンリーだったと思われる。「若いうちにトリエステに移住し俳優学校で学んだ」と非常に簡単に経歴には書いてあるがこれが曲者で、トリエステに出たのは1948年、つまり僅か13歳のとき。まだ子供といっていい年齢の時だ。しかもZara市がユーゴスラビア領になってまもなくである。この時期、ユーゴスラビアのアドリア海沿岸部、つまりイストリアとダルマチアで、戦争中ファシストがバルカン半島で働いた蛮行への復讐のためイタリア系の住民が虐殺される事件があいついだ。イタリア系住民ばかりでなく「戦争中共産党ではなかった」人まで殺された。フォイベの虐殺と呼ばれているが、このFoibeというのはイタリア語でカルスト地形にできた穴を指し、犠牲者が殺された後、または生きながらここに放り込まれたためそう呼ばれている。ガルコもこの虐殺から逃げてきたのではないだろうか。トリエステまで親戚といっしょに来たのか、それとも親戚は殺されてたった一人でトリエステに辿りついたのか私にはわからないが、「移住」などという生易しいものではなかったはずだ。とにかく、このトリエステで舞台演技を学び、後にローマに出てAccademia d’Arte Drammaticaでさらに学び、1958年から映画にも顔を出すようになって、ヴィスコンティなどとも仕事をしている。

 時は流れて今度はクロアチア人が辛酸を舐めたが、この国はユーゴスラビア崩壊の後、2013年に晴れてEUに加盟する遥か以前、ドイツが批准するより一年近くも早い1997年11月にいち早くヨーロッパ地方言語・少数言語憲章Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen(『37.ソルブ語のV』参照)を批准し、1998年から施行した。それによってイタリア語が国内の少数言語として正式に認められ保護されている。正式にクロアチアの少数言語と認められているのはイタリア語のほかにルシン語(パンノニアで話されている東スラブ語)、セルビア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、ウクライナ語である。ドイツの批准は1998年9月、施行が1999年11月。イギリスはさらに遅くて批准が2001年3月、施行が同年6月である。フランスやイタリアのほうはいまだにこれを批准していない(『83.ゴッドファーザー・PARTI』『106.字幕の刑』参照)。

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