アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 ロマニ語話者が言語調査をしに来た言語学者に拒否的な態度をとることがあると『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で述べたが、アイヌ語の話者にも日本人の言語学者に対してそういう態度をとる人がいたらしい。当時発行されていた『月刊言語』という雑誌にアイヌの人がそういう趣旨の投稿をしていたのを実際見たし、言語学者側の服部四郎氏もアイヌ語をフィールドワークした際、言語学者たちがアイヌ語の調査をするのは本を出したり講演したりしてお金を儲けるためだと誤解する人がいなくはなかった、と述べている。月刊言語の投稿の執筆者も「ほとんどは学者先生の富と名声を築くために行われた作業…モノでも扱うような見下げた態度で」とのべている。しかし残念ながらこれは誤解である。なぜなら言語学者が本を書いたりたまに講演などしても全くお金など儲からないからだ。下手をすると出版費用は学者持ち、学会での講演だってむしろするほうが参加費や会費を払うものなのだ。そもそも言語学という分野そのものがマイナーであって、そんな分野で本など出しても金にも話題にもならない。1980年代にシュメール語が能格言語だという世界級の発見がなされた時のマスコミの冷たさをみてもわかる(『51.無視された大発見』参照)。構造主義の考え方にしても人類学者が使いだしてからやっと世間の人たちにも広がったが、その元の元の大元であるトゥルベツコイやヤコブソンの言語学・音韻論などはほとんど無視されている。普通の頭を持っている人は金や名声が欲しかったら絶対言語学などやらない、経済経営学かIT工学でも専攻するだろう。
 非母語者による言語記述を母語者が見るとある種の違和感を感ずることは確かにある。それで上述のアイヌの人も別箇所でその記述は「水分も血液も無くなった死体を解剖するような、血も涙も無い干涸びた学説ばかり」と言いたくなったのだろうが、これもある意味では誤解で、まさにその「違和感」が非母語者による言語記述のレゾン・デートルなのである。母語者が無意識にやっていることを可視化されると誰でも「えっ?」と思うからだ。あまりにも無意識にやっていたので母語者が見落としていること、また逆に規範文法に目をくらまされて見えないでいた言語事実も非母語者は見落とさないからだ。「日本語は外から見るとこういう言語である」、それを知る必要があるのだ。むしろ「干涸びた」無味乾燥な記述でなければいけないのである。ラテン語文法を核にして日本語を記述したロドリゲスの日本語文典などいまだに十分読むに耐えるのはそのためだ。

 しかし反面、ロマニ語やアイヌ語の話者の気持ちはよくわかる。言語学でなく語学のほうでそういう感じをもたされることが少なくないからだ。一言でいうと「母語をダシにされる屈辱感」である。日本国内の留学生や外国人の会社員が日本語を勉強したり、言語学者が自分の研究のためにアイヌ語をやったりする場合はある意味自分の生活がかかっているわけだから本当に当該言語を覚えようと思っている。真剣さの程度はやや落ちるが大学の第二外国語もまあ単位、ことによると卒業がかかっているのでついていこうとする。それに対して日本国内にいるのでもなく、単位がかかっているわけでもなく、職業的興味もないのに単なるファッションで日本語をやりに来る人もいる。そういう人はそもそも真剣に語学の勉強などやる気がない。あくまで「お楽しみ」でしかないのだ。
 彼らはごく簡単な日本語のフレーズ、「こんにちは」とか「さようなら」とか「〇〇をください」などの決まり文句を口にして日本語をしゃべっている気になりたいだけなので、
ちょっとでも難い話、例えば文法のことになるともう勉強する気が失せる。「日本語にとても興味がある」といってやってきて、文字を見せられたら「これ、本当に覚えなければいけないんですか?」と驚き次から消えた人がいる。文字や文法ばかりではない、発音もそうだ。「もう〇年間日本語をやりました」というのに「はい」「今」「何」がどうしても言えずにいた人がいたから(それぞれ「灰」、「居間」、「ナニ」になってしまう)、ちょっと練習してもらったらむくれられた。むくれられるだけならまだいい方で、「どうしてそんな高低アクセントがあるんですか日本語は?!」とか「アクセントなんて方言差があるし、意味はコンテクストから判断できるからやらなくていいと前の先生に言われました!」とか食ってかかられたことさえある。やってできないのではない、最初から練習する気がないのだ。またやらせるほうだって怖い顔をして命令したわけではない。一生懸命身振りもまじえ、にこやかな顔をしてお願いしたのだ。
 こういう、ファッション語学者は実はまじめに勉強したい人の足も引っ張っている。少し前に村上春樹がエッセイで書いていた。スペイン語を勉強しにいったら、クラスのメンバーの一人がこのタイプの皆の邪魔にしかならない「たまんない男」で、そのために氏はそのクラスでのスペイン語学習そのものを放棄してしまった。講師にはまったく不満はなかったが、これでは勉強にならないと思ったそうだ。私の知り合いも夜の学校でヒンディー語を勉強していたところ、クラスの皆から「先生が厳しすぎる」と文句が出たそうだ。その先生は熱心な先生で宿題なども出し、次回にその宿題をベースにして授業を始めるので家できちんと勉強してこないとついていけない。そうしたら生徒側から「私たちは楽しみのために勉強しているんだ。宿題なんか出されたら全然楽しくない」と声があがったというから驚く。知り合いその人は「私は勉強したいから宿題はむしろ歓迎」といったら今度はクラスメートからガリ勉とかなんとか言われたという。お楽しみが欲しかったら語学の勉強などしないでビールでも飲みに行けばいいのに、と思うのだが。
 これを例えると、パンダが大好きな人がいて、ぬいぐるみを集めたり写真を見たりするが、生物としてのパンダの姿は全く見ようとしないようなものだ。エキゾチックでキャーカワイイという自分のイメージを膨らませたいだけで、真剣に生態を研究したり、時々自分の手を切りながら笹を集め糞の掃除をして飼育したりする、つまり本当にパンダとかかわる気は全くない。下手をすると本物のパンダはぬいぐるみほどモフモフしていないからイメージを壊されるといって邪魔にしかねない。つまりパンダ、あるいは日本語をダシにして精神的自慰、といって悪ければ自己陶酔しているだけである。教える側にも相手のエキゾシズム自慰に便乗しているような感じの人がたまにいる。動物園訪問者のイメージ通りに芸をしてやる悲しきパンダだ。『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたように私がエキゾチックジャパンを不自然に強調して相手のぬいぐるみ願望に訴えるタイプの教科書が嫌いなのもそのためだ。自らをキャーカワイイ的見世物として提供する。これは自分の尊厳を自分で貶めていることにはならないのか。「需要に合わせる」ということなのだろうか。考え込んでしまう。

 さらにこのダシが自慰を超えてマウンティングの材料になることがある。自慰なら基本自分一人でやっているから怒るのは今更発音を直されたりしてその行為を邪魔されたときだけなので放っておけるのだが、マウンティングになると黙ってそばに立っているだけで巻き込まれる。「ワタシ日本語やっているのよ、できるのよ」という自慢話の聞き役をやらされるのだ。自慢を聞かされるのは全く日本語のできない人たちであることが多いが、時によるとネイティブまでがサンドバックにさせられることがある。経験したことはないだろうか、自称「すでに日本語をやったことがある」学習者が日本語の授業にやってくる、それはいいのだがその意図はさらに勉強を進めることではなくて周りの(初心者学習者に)「どうだ私はできるだろう」と見せびらかしたい、講師に「本当にお上手ですね」とほめてもらいたいことにあるのが露骨に感じ取れるタイプの学習者を。上で述べた人もひょっとしたら「あなたの日本語は完璧だ、よくできる」と言ってもらうつもりだったのがアテが外れてムッとしたのかもしれない。講師が日本語非母語者だったら、「あの先生は私より日本語ができない」とかなんとか人のせいにすることもできただろうが、さすがにネイティブ相手だとその論法が効かず、マウント願望が宙に浮いてしまったのか。こういうタイプは大抵次から来なくなる。生活も単位もかかっていないとやめるのも実に早い。
 マウンティングのさらなる発展形として「自分より当該言語が出来るネイティブを邪魔者扱い、敵視する」というのがある。もっともこれは日本の英語教師の帰国子女いじめなどにもみられる通り日本語学習者に限ったことではないが。以前にスペイン語のネイティブも、スペイン語学部を取り仕切っている非ネイティブの教授かなんかに煙たがられたという話をしていた。
 自慰にしてもマウンティングにしても対象がエキゾチックなマイナー言語である場合のほうが程度がはなはだしい。例えば世界言語の英語なら実際にできる人も多いし、できる基準も皆わかっているからさすがにやたらと「英語ができる」とか「英語のオベンキョしてるのよ」などと軽々しく自慢したりはできまい。すぐボロがでるからだ。マイナー言語だと誰もその基準を知らないのでホラを真に受けやすいのだ。「さようなら」が言えずに「ざよなーらー」と無茶苦茶な発音をしても周りの人は感心してくれるのである。中国人や韓国人には相当日本語ができても変に見せびらかす人が少ないのは東アジアでは日本語がエキゾチック言語などではないのと、東アジア人には本気で日本語をやりたい、つまり生活がかかっている人が多いからだろう。「お楽しみ」などではないのである。もちろん語学をダシにしての自慰・マウンティング行為は欧米人の専売特許ではない。上述の帰国子女いじめでもわかるように私も含めた日本人だっていくらもやっている。私自身も振り返ると相当チャライ態度で語学に臨んでいた。今考えると慙愧の念に耐えない。困ったものだ。

 確かに自慰・マウンティングのダシになるのは語学ばかりではない。芸術、スポーツ、あらゆる文化活動が材料にはなる。しかし言語と他の文化活動を比べると一つだけ決定的な違いがある。言語というのはその言語を母語とする民族がその精神活動、文化活動、歴史などをすべてそれをベースにして築き上げてきた、いわば民族の精神の支柱、民族の精神のエッセンスであるということだ。その言語を軽く扱い、いわんやエキゾシズム自慰のダシにする、ロクにできもしないのにできた顔をする、さらにネイティブを煙たがったりするのはその民族の精神活動全体、民族そのものを軽く見るようなものではないのか。
 いうまでもないが、学習者を一絡げに「当該言語を軽く見ている」などというつもりはない。第一にそういう、学習意欲より自慢や自己陶酔願望のほうが前面に出てきているような人は圧倒的少数だし、第二に彼らだって悪気でやっているのではないからだ。言語、特に非母語の学習は一生毎日やっても十分なところまで行き着かないだろう。彼らはその道の遠さが見えていないか、あるいは見ると目がくらむので敢えて見ようとしないかだ。誰だって空しくなるだろうから。だがそこで空しいのは学習者ばかりではない、教えるネイティブのほうだって空しいのである。いわゆる語学アドバイスの類で完全にスッポ抜けている視点がまさにこの母語者に対する配慮であろう。「間違いなど気にするな。発音など気に病むな。勇気をもって話しかけろ」とよく言うが、そういう言語で話しかけられた母語者、自分たちの精神の支柱である母語がボロボロにされているのを見せつけられる母語者のほうがどういう気持ちになるか全然考慮されていない。もちろん普通の人は外国人の言葉が少しくらい不完全でも露骨に嫌な顔などしないだろう。気前よく付き合ってくれるが、でもそれはあくまで向こうが我慢しているのだということをこちらは忘れてはいけない。また向こうが何回も聞き直してくると気を悪くしたりする人。「こっちだって一生懸命しゃべっているんだ。そのくらい聞き取ってくれてもいいだろう」とでも言いたいのか?当該言語を破壊しているのは自分なのに、そのうえ母語者をその破壊言語に付きあわせるつもりか?聞き直すのは向こうだって理解したいから聞き直すのである。つまり向こうはこちらに歩み寄っているのに怒ったりスネたりするのは母語者への思いやりがすっぽ抜けているからだ。
 私が今までに遭遇した「外国語の学び方」の類でその点に言及していたのはたった一つだった。英語の学び方についての本だったが、当地の大学に何年か留学していて、本人は楽に英語が話せるつもり、上級のつもりでおり、そろそろ他の日本人の英語にイチャモンをつけて「オレは他の日本人より英語ができる」と自己陶酔しだすレベルの中級話者は往々にして「自分は気持ちよくしゃべっているつもりでも、その英語が相手に苦痛を与えているということに全く気付いていないから始末が悪い」と指摘していた。実はこの「ネイティブに苦痛を与えるか与えないか」というのがヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のBレベルとCレベルの違いである。Bの後半になれば学生や研究者として論文を書いたりできるが、語学としてはあくまで中級である。
 もう一つ語学書ではないが、「ハウサ語を勉強する利点」という文脈で松下 周二という人が「利点は全くありません。片言のハウサをしゃべったくらいで胸襟を開いてくれるような甘いハウサは一人もいないでしょう」とニベもないことを言っていた。そういえば、欧米ではあまり見かけないが日本ではちょっとでも日本語を話すと「まあお上手ですね」などとほめられることが多い。私はこの言葉の裏には「さあ褒めてあげましたよ。もう気が済んだでしょう?だからもう私たちの大切な母語をそうやってブロークンに千切って聞かせるのやめてくれませんか?」という母語者のホンネ、ある意味では必死の懇願が隠れているような気がしてならない。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 ラテン語の「友達」amicusの単数呼格amice、複数主格amiciをどう読んでいるだろうか?私はそれぞれアミーケ、アミーキーと発音していた。実は今でもアミーキーと言っている。ところがこちらでは皆アミーツェ、アミーツィだ。日本人が普通キケローと呼んでいるCiceroもドイツ人はツィツェローという。もちろんラテン語教育という点では日本より欧州が本場だから彼らに従おうかとも思ったが、ラテン語は所詮は死語である。ネイティブスピーカーの実際の発音は彼らだって聞いたことがないわけだし、少なくとも文字の上では c と同じ書き方をしているところを妙に読み方を変えたら混乱するだけじゃないかと思ったのと、正直に言えば直すのが面倒くさかったのであまり考えずにそのままアミーキーと言い続けた。
 ところがしばらくたってから(しばらくたつまで気づかなかったのであった)そういえば現在のロマンス諸語ではすべて c(つまり k)と g の後に前舌母音、i と e が来ると子音が変な音になることに思い当たった。
 例えば「肉」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でcarneと書いてそれぞれ[karne]、[karne]、[kaʁn]、[karne] (フランス語だけ少し違うわけだ)と発音し、c は k の音である。また「結びつける」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で combinare 、combinar、 combine、combinăで、もういちいち発音記号を出さないが、やはり c は k だから co は「コ」だ(フランス語は鼻母音)。母音が u の場合も同じで「ナイフ」をイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれcoltello、 cuchillo、 cuțit、 couteauで やはり c が k で、最初のシラブルは「コ」。フランス語の正書法では u と書くと母音が純粋な u ではなく [y]  や [ɥ] になってしまい、 u は ou と綴るのだ。関係ないがスペイン語の「ナイフ」は『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』『121.復讐のガンマンからウエスタンまで』参照)でトマス・ミリアンが演じた主役の名前である。銃は撃てずにナイフ投げがうまいからこういう名がついた。
 しかしこれが ci、ce となると「キ」、「ケ」にはならない。イタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で「5」はcinque、cinco、cinq、cinci 。子音が各言語でバラバラでそれぞれ[t͡ʃiŋkwe]、[θĩŋko]、[sɛ̃k]、[t͡ʃint͡ʃʲ] 、チやスィとなる。フランス語はここでは母音が違うが本当にiが続いてもciterのように [s] だ。ついでにラテンアメリカのスペイン語でも θ が s になる。次にce を見ると「脳」を表すイタリア語、スペイン語、フランス語がそれぞれcervello [t͡ʃer̺ˈvɛl̺ːo]、cerebro [θeɾeβɾo] 、cerveau [sɛʁvo] で ci の時と同じように c がそれぞれ t͡ʃ 、θ、s。ルーマニア語は「脳」がcreier なので(もっともここでも c は k )別の単語をみると例えば「空」cer が[t͡ʃer]だ。
  g も後ろにa、o、u が続くとガ、ゲ、ゴで、例えば「雄猫」を表すイタリア語とスペイン語のgattoとgato 、フランス語の「少年」garçon、ルーマニア語の「子牛」gambă の ga は皆ガである( garçon はギャルソンなんかではなくガルソン)。go をみると「喉」というイタリア語、フランス語の gola、gorge、「太った」というスペイン語の gordo、「空の、裸の」というルーマニア語 gol は「ゴ」である。ルーマニア語の 「裸の」は明らかにスラブ語からの借用なのでちょっと「ロマンス諸語の比較例」としては不適切かもしれないが。さて次に gu だが、「味」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれgusto、gusto、goût、gust といい、全部「グ」となる。フランス語が母音の u を二字で表すことは上で述べた。
 正直そろそろ疲れてきたのだがもう少しだから続けると、この g も i や e の前にくると子音が変わる。イタリア語とスペイン語で「巨大な」はどちらも gigante と書くが発音はそれぞれ [dʒiɡante] と[xiɣãn̪t̪e] で、子音が違う。イタリア語は ci のときの子音がそのまま有声になっただけでわかりやすいが、スペイン語のほうは ci で現れた子音 θ とは調音点が全くずれてしまっている上、有声でなくなぜか無声子音のままである。だから「ジプシー」というスペイン語gitano の発音も[xitano]。フランス語gitan だと[ʒitɑ̃ ]で、g の部分は有声ではあるが、純粋に ci の子音の有声バージョン、つまり [z] とはならないところが面白い。ルーマニア語の例としては、ハンガリー語からの借用語なのだがgingaș 「繊細な」という言葉の発音が[d͡ʒiŋɡaʃ] で、イタリア語と同様、非常にわかりやすいタイプである。 最後にge だがこれも「ゲ」にはならない。「生み出す、生産する」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で generare [dʒeneˈra:re] 、generar [xeneɾaɾ] 、generer [ʒeneʁe]、genera [ʤenera] 。gi で見た子音のバリエーションの違い、dʒ、x、ʒ、ʤ が保たれている。

 すると忘れていた何十年前かの記憶が突然よみがえって、そういえばラテン語の先生が「c (k)の音はラテン語の歴史の過程で音価が変わったことがわかっていますが、ここでは文字に合わせてアミーキーでいいです」というようなことを言っていたのを思い出した。
 これが「ロマンス語の口蓋化」と呼ばれる音韻変化である。すでにラテン語の時代の起こっていたもので、軟口蓋閉鎖音、つまり/k/、/g/ が i と e の前に来た場合それぞれ [ʧ] や [ʦ]、[ʣ] や [ʤ] という破擦音閉に変わった。
 紀元後一世紀ごろまで、つまり古典ラテン語の時代は後舌母音 a、o、u が続こうが前舌母音 i 、e が続こうが k と g は k と g だった、つまりcentrumはケントルム、Cicero はキケロー、legereはレゲレ、legisはレーギスだったのだ。だから上で私が押し通した発音、アミーケ、アミーキーは間違いではない。
 しかしそのうちに軟口蓋閉鎖音 に前舌母音が続くと母音の前に半母音の /j/ が入るようになった。この半母音と子音が同化現象を起こして調音点が前に移動し、/ k/ が [ʧ]、/g/ が [ʤ]になった。紀元2世紀から5世紀にかけてのことだそうだ。
 最初はこれらの音はもちろんいわゆる自由アロフォン(どっちで発音してもいいアロフォン、『63.首相、あなたのせいですよ!』参照)freie Allophoneで、人によってケやキと言ったりチェ、チと発音していたのだろうが、これがやがて拘束的アロフォン(音声環境によって使い分けなければいけないアロフォン)kombinatorische Allophoneとして固定した。このkombinatorische Allophoneというのは一つの音素が二つに分かれる直前段階である。もっとも自由アロフォンの段階からすでに音価の違いそのものは感知されていたのだ。この「話者が違う音だと気づく」のは「全く同じ音に聞こえる」段階と比べるとすでに新音素誕生に向けて相当度が進んでいる。それが拘束的アロフォンになると言語学者の間でもすでに二つの音素とみなすものが現れるくらいだ。まだアロフォンだから完全に意味の違いを誘発する力はないが、別のほうの音で発音すると「おかしい」を通り越して意味がよく伝わらくなったりしだすからだ。
 例えば日本語の「たちつてと」だが、/ta, ti,tu, te, to/と音韻解釈する人と、「ち」と「つ」の子音を別音素と解釈して/ta, ci, cu, te, to/と表す人とがいる。「放つ」「月」「知己」をそれぞれ「ハナトゥ」、「トゥキ」、「ティキ」とやったら、まあ言語環境から判断して意味は通じるかもしれないが、意味が通じるのが数秒遅れることは確実。相手によっては最後まで通じまい。意味の伝達に支障が大きすぎて「意味を変化させないから」ときっぱりアロフォン扱いするのには待ったがかかる。実は私も独立音素 /c/ を認める組である。ついでに私は「はひふへほ」は /ha, hi, ɸu, he, ho/ だと思っている。「違う音認識」されてから、アロフォン発音が半ば強制的になり、やがて別音素に分裂する過程はまるでアメーバの分裂のようだ。ただ、音素は2つが融合することもあるのに対し、アメーバは分裂だけで、合体することがないという違いはあるが。それともアメーバも時々合体するのか?
 ラテン語に話を戻すが、口蓋化が起こり、さらに音素が分裂してしまったのが文字が固定した後だったために、文字と音価の間が乖離して本来の「ケ」「キ」が宙に浮いてしまった。「ケ」「キ」という音が ce や ci では表せなくなった一方、「チェ」と「ケ」、「チ」または「ツィ」と「キ」の子音が別音素になったので、「ケ」「キ」を表す必要が生じたからである。そこで現在のロマンス諸語では新たに正書法を改良して、「ケ」、「キ」、「ゲ」、「ギ」とイタリア語では c、g のあとに h を加えて表示し、それぞれ che、chi、ghe、ghiと綴る:cheto 「静かな」[ke:to]、chinare「曲げる、傾ける、お辞儀する」[kina:re]、ghetto 「ゲットー」[getto]、ghiro 「ヤマネ」[gi:ro]。スペイン語では無声音には q を持ち出してきて「ケ」「キ」は que、qui。これらは「クエ」「クイ」ではなく、quebrantar 「割れる」、quince 「15」は「ケブランタル」、「キンセ」だ。もっとも「ブ」の部分は両唇摩擦音の[β]、「セ」は歯でやる摩擦音の [θ] だが。「クエ」「クイ」は c を使ってcue、 cuiと表すのが面白い。ところがこれが有声になるとgue、gui で「ゲ」「ギ」。guerra 「戦争」は「グエラ」でなく「ゲラ」、guiar 「導く」も同様に「グイアル」でなく「ギアル」となる。フランス語は母音も子音も音素がさらにいろいろ割れているので複雑だが、基本はスペイン語と同様 q と u を使う:question 「問題」[stjɔ̃ ] 、quinine 「キニーネ」[kinin]、 guerre 「戦争」[ɡɛʁ ]、 guide 「ガイド」[ɡid]。フランス語からは英語に借用された言葉が多いのでうっかり英語読みにして「クエスチョン」「ガイド」とか言ってしまうと大変なことになるので注意。ルーマニア語はさすが東ロマンス語だけあって(?)イタリア語同様 h を用いる:chezaș 「保証人」[kezaʃ]、 chibrit「マッチ」[kibrit]、 ghețar「氷河」[get͡sar]、 ghid「ガイド」[gi:d] など。「保証人」はハンガリー語からの、「マッチ」はトルコ語からの借用だ。
 この、文字が固定してから音が変化してしまったため元の音を表すのにいろいろワザを凝らさなければならなくなったという例は実は日本語にもある。例えば「ち」「つ」は昔は本当に破裂音の ti、tuだったのに、子音が破擦音になってしまったため本来の音がそのままでは表せなくなった。だから「ティ」「トゥ」などと表記する変なワザを使う羽目になったのである。「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」なども昔は単に「は、ひ、へ、ほ」と書けば済んだのだ。

 ここまでならロマンス諸語だけの話ということであまり面白くないが(ロマンス諸語は面白くない言語だと言っているのではない)、実はスラブ諸語の歴史でもこの「口蓋化」という現象が見られるのでスリルが増す。スラブ語の場合は音素が割れてから正書法が確立したが、少なくとも3回口蓋化の波がスラブ諸語に押し寄せたらしく、第一次口蓋化、第二次口蓋化、第三次口蓋化と区別する。人によっては第4次口蓋化というものを認めることもある。
 第一次口蓋化は紀元5世紀初期スラブ祖語時代の終盤に生じたもので、軟口蓋音に前舌母音(スラブ語では i, ь, e, ě)が続いた場合、やはり j の付加を経由して子音そのものが変化した:k > ʧ͡ʲ (= č’)、g >  ʒʲ (= ž’)(いったんdʲzʲ という破擦音を通した)。ロシア語で「焼く」の一人称単数がпекуなのが二人称単数になると печёшьとなって子音が交代するのはこの第一次口蓋化のせいである。スラブ祖語の初期にはそれぞれ*pekǫ – *pekešiであったとみられる。。ポーランド語ではそれぞれpiekę と pieczesz。またロシア語の「目」の単数が окоで複数が о́чиなのもこれである。さらにロシア語の могу́ 「私はできる」対 можешь「君はできる」の母音交代もこの例。祖形はそれぞれ*mogǫと*mogeši。ポーランド語ではこれが mogę – możeszとなる。もう一つロシア語の Боже мой 「おお神よ」のБожеはБогの呼格だが、ここでも子音が図式通り交代している。
 第二次口蓋化はスラブ祖語の後期、6~7世紀にかけて起こった。母音の i、ěが続くと k が t͡sʲ (= c´)に、g が dzʲ を通してzʲ (= z´ )になった。*nagě (「足」単数与・処格)が古ロシア語ではnozě 、*rǫkě (「手」単数与・処格)がやはり古ロシア語で rucě といったのが一例である。ところがロシア語ではその後この第二次口蓋化が名詞の格変化パラダイムでキャンセルされ、元の軟口蓋音 g に戻ってしまったので現在のロシア語ではそれぞれноге́ 、руке。 対してポーランド語やチェコ語ではそれぞれ nodzeと ręce、nozeと ruce で、本来の口蓋化が残っている。
 南スラブ語派のクロアチア語も名詞変化のパラダイムで口蓋化を保持していて、期末試験なんかでは必ずと言っていいほど試される。まず男性名詞には単数呼格(『90.ちょっと、そこの人』参照)が e で終わるものが多いが、これらの名詞の語幹が語幹が k や g で終わる場合 k と g がそれぞれ č [ʧ͡ʲ]、  ž [ʒʲ ] になる:junak「英雄」主格 → junače 「おお英雄よ」呼格 (< junake) 、drug「仲間、同志」主格 → druže 「おお同志よ」呼格 (< druge)。これが第一次口蓋化の結果だ。次にこれらの男性名詞の複数主・呼・具・処格では子音の後に i が来るが、ここで k と g は c [t͡sʲ] と z [z] になる。第二次口蓋化である:junak「英雄」主格 → junaci 「英雄たち、おお英雄たちよ」複数主・呼格 (< junaki)、junacima 「英雄たちによって、英雄たちにおいて」複数具・処格 (< junakima)、drug「仲間、同志」主格 → druzi 「同志たち、おお同志たちよ」複数主・呼格 (< drugi)、druzima「同志たちによって、同志たちにおいて」複数具・処格 (> drugima)。女性名詞は単数の与・処格が i で終わり、やはり k や g が第二次口蓋化に従って変化する:ruka 「手」単数主格 → ruci 「手に、手で」単数与・処格 (< ruki)。 この「手」の複数主・対・呼格形は ruke で一見 e の前なのに子音が変わってないじゃないかと思うが、実はここの e は口蓋化の起こった時代は中舌の i、ロシア語の ы だったので子音が変わらずに済んだのだ。またスラブの場合は音が変化したのが文字化の前だったためラテン語と違って単数主格と呼格、複数の主格の子音の違いが文字に表れているわけである。
 この一連の口蓋化を被ったのは k と g ばかりではないのだがここでは省く。また第三次口蓋化は先行する母音が後続の子音を変化させたものなのでやはりここでは触れずにおくが、軟口蓋音が i、e の前でシステマティックに化けるというスラブ語の口蓋化がラテン語とそっくりなのでプチ感動する。さらに単に似ているというばかりでなくロマンス語とスラブ語の両口蓋化が実際にかち合った地域があるから感動がプチからグランになりそうだ。それがバルカン半島である。バルカン半島はその昔ラテン語地域であったのでラテン語由来の地名が多い。後から来たスラブ民族がラテン語名を引き継いだからである。もとになったラテン語名は記録に残っているので、Peter Skokという学者がラテンでce、ci、 ge、 giと書かれていた地名が現在のスラブ諸語でどう呼ばれているか詳細に分析して当地ラテン語の口蓋化の過程を追っている。例えばラテン語Cebro がブルガリア語でDžibra になっていたりするものが多いが、この子音は1.ラテン語の時代にすでに口蓋化していた、2.ラテン語ではまだ k や g であったのが、スラブ語に入ってから口蓋化した、の二つの可能性があるわけだ。私だったら「どっちなのかわからない」として匙を投げていただろうが、Skokはラテン語スラブ以外の言語資料や歴史の資料も徹底的に調べて次のように結論を出している:1.スラブ民族がバルカン半島に来た時(早くとも6世紀)、ラテン語の ce、ci、ge、gi はまだ k、g であった。2.ルーマニア語の口蓋化はスラブ民族の時代になってから、つまり西のロマンス諸語とは独立に起こったもの。3.(2ともつながるが)ルーマニア語の口蓋化はバルカン半島のローマの中心地が崩壊したのちに生じたものである。
 もうひとつ面白いのはラテン語 ce、ci が現在でも k になっている地域があるということだ。たとえばCircinataがクロアチア語でKrknataになっている。ダルマチア(ジャンニ・ガルコの出身地だ。『130.サルタナがやって来た』参照)にこういう地域が多いが、ローマの時代に大きな都市があって文化の中心地だったところだ。都市部の教養層が使っていたラテン語は文字なしで話されていた俗ラテン語より口蓋化(ある意味では俗にいう「言葉の崩れ」)が遅かったからではないか、ということだ。上の3はこれが根拠になっている。

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 映画鑑賞の楽しみの一つにグーフの発見ということがある。グーフgoofというのは映画の専門用語(?)で、見つかってしまうと鑑賞の邪魔になったり物笑いの種になったりする小さな間違いのことだ。ドイツ語ではFilmfehlerというが、中世ヨーロッパの空を飛行機が飛んていたとか水戸黄門の歩く街道に電信柱が立っていたとかいったたぐいの軽いミスである。また、主人公がウイスキーをぐいと飲み干してコトンとカウンターに置いた直後のシーンでなぜかグラスがまた一杯になっている、あれ、飲んだんじゃなかったのか?というのもグーフである。これらはB級映画でなくても結構やらかしていて、私の覚えているものでは、スティーブ・マックイーン主演の『パピヨン』のラストシーンでマックイーンの筏の下にスタッフの潜水夫(ダイバーと言ってくれよ)がしっかり写っていた。普通の映画ならそんなもん単に小さな傷に過ぎないが、マカロニウエスタンだとその手の間違い探し・あら捜しが主たる鑑賞の楽しみにもなるのである。結構傷だらけの作品が多いからだ。
 代表的なのが『続・荒野の用心棒』でいちいち挙げるとキリがないが、世界的に有名な(なんだそりゃ)グーフが少なくとも二つある。まず、酒場の乱闘シーンで手持ちカメラを抱えたカメラマンがしっかり写っていること。それもちょっと隅のほうに写っちゃったというのではなくて一瞬ではあるが真ん中にドワンと出てくる。この人の撮った絵が乱闘シーンに使われているはずだが、出演料もあげたほうがいいのではないだろうか。

このカメラマンはちゃんと出演ギャラを貰ったのか。
KameramannDjango


次がラストシーンに出てくる伝説的な7連発コルトである。フランコ・ネロ演ずるジャンゴが悪漢ジャクソン一味を倒すシーンだが、弾の音を勘定してみると7発出る。コルトというのは6連発ではなかったのか?それともそういうチューニングができるものなのか。仮にできるとしてもこの映画の主人公のように両手をグシャグシャにつぶされた状態の者にそんな高度なワザができるのか?いろいろ考えてしまう。

6連発のはずのコルトからなぜか銃声7発


 現在はコンピューターですぐに後から修正できてしまうからこういう素晴らしいグーフが50年以上も生き残れるチャンスも少ないだろう。だから最近の映画はつまらないんだ、とまでは言わないが寂しいことは寂しい。

 もう一つ、『続・荒野の用心棒』で私が個人的に「おかしくないかこれ」と気になったのが、ジャンゴがこれもジャクソン一味に向けてガトリング砲をぶっ放す場面である(『91.Quién sabe?』参照)。これもまあ「世界的に有名な映画のシーンの一つ」と言っていいだろうが、ここでネロ氏はゴツい機関銃をひょいと手に抱えて撃ち始める。そのまましばらく撃ちまくってからやっと下に置くが、その間も射撃はやめないままだ。敵が全滅すると武器を元入れてあった棺桶の中にしまうがそこで素朴な疑問が湧く。何百発も撃った後のガトリング砲は銃身が熱くなっていて素手でなど持てないのではないだろうか。そもそも相当重いはずの古典的な大砲みたいなガトリング砲をああも軽々と抱えて正確に敵に向けるなんてことが普通の体格の人にできることなのか?カラシニコフじゃあるまいし。

機関銃というより「機関砲」(下記参照)を軽々と抱えて撃ちまくる。この芸当は薬師丸ひろ子にはできまい。
machineGun2

 私はこの、「軽々と抱えてぶっ放した」というシーンがジャンゴ氏の機関銃が時々間違って「マシンガン」と呼ばれている原因だと思っている。この二つは別物だ。基本的にはマシンガンというのは連続射撃ができる携帯可能な銃、機関銃は三脚や台座などに固定して使う連射銃だ。だから昔あった『セーラー服と機関銃』という映画のタイトルはおかしい、主役の薬師丸ひろ子が持っていたのはマシンガンだ、と指摘してくれた人がいる。
 ドイツ語では機関銃はMaschinengewehr(MGと略す)で、gewehrは元々は武器一般をさしていたが現在では鉄砲の意味となり、ライフル銃とかカービン銃とかピストル以外の「手にもって撃つ銃」をさすからこの言葉は誤解を招く。ただ、ドイツ語のDudenではまさにその誤解を避けるためかMGがきちんと次のように定義されている;

auf einer entsprechenden Vorrichtung aufliegende automatische Schnellfeuerwaffe mit langem Lauf,  bei der (nach Betätigung des Abzugs) das Laden u. Feuern automatisch erfolgt.

しかるべき設置をした上に置いて使う銃身の長い高速連射銃。(引き金を引いた後)装填、
発砲が自動的に行われる。


このMaschinengewehrを独英辞書で引くとmachine gun、そのmachine gunを英和辞書で引くと機関銃あるいは機銃となっている。さらに手持ちの和独辞書でマシンガンを引くとやっぱりMaschinengewehrとある。ついでに和英辞典も引いてみるとマシンガンも機関銃もa machine gunとなっている。これではジャンゴ氏が機関銃を持ち上げるまでもなく、そもそも言葉の上で始めから混同されていたんじゃないかと思うが、よく見てみるとそうではない。英語のmachine gunを借用して「マシンガン」という日本語を作った際に意味が正確に伝わらなかったのだ。いわゆるカタカナ言葉を外国語から取り入れる場合、原語本来の意味から乖離してしまうことはよくある。ドイツ語のArbeitが「アルバイト」などという変な意味になってしまったのもいい例だ。つまり「アルバイト」がArbeitではないのと同様「マシンガン」はmachine gunではないのである。ただアルバイトのほうは意味のズレがはっきりしているから、「元々のドイツ語ではこういう意味だが、日本語に取り入れられた際こういう意味になった」と認識されているが、マシンガンのほうはズレがあまり目立たず、気づいても「要するに自動的に弾が出る鉄砲のことだからいいや」と軽くあしらわれてしまったのかもしれない。英語のmachine gunはあくまで機関銃であってマシンガンとは別物と認識されなかった。英語の辞書だろ辞典だろを編纂するような上品な人々が皆『続・荒野の用心棒』を見たおかげで混同したなどということはありえないから、これは単に武器に対する関心が薄いということなのだろう。
 
 ドイツ語にはこれと並行してMaschinenpistole(略してMPあるいはMPi)という言葉がある。次のように定義してある。

automatischer Schnellfeuerwaffe mit kurzem Lauf für den Nahkampf

接近戦で使う銃身の短い自動高速連射銃

この定義のmit kurzem Lauf「銃身の短い」という部分はpistole「ピストル」という言葉に引っ張られてこの事典を編纂した上品なドイツ語学者がやった間違いではないかと思う。特に銃身が短くないものもあるからだ。ベレッタModello 1938A などは銃身は短くない。Maschinenpistoleと名前にピストルがついているのは拳銃みたいに銃身が短いからではなく、ピストルの弾をそのまま自動発射するからである。ただ抱えて撃てるようにしているから機関銃より小型なのでそれに呼応して銃身も確かに短いが。そういえば、「持って撃つ」という点も定義には出てこない。ピストルだから手に持つのは当たり前だということなのかもしれない。英語ではsubmachine gun。独和辞書では「自動拳銃、小型機関銃」となっているが、どちらの訳も一長一短で、「自動拳銃」と言われるとピストルみたいな形をした火器かと思うし、「小型機関銃」だと下に固定して撃つのかと一瞬誤解する。最近は「サブマシンガン」という言葉がそのまま日本語として使われているようだが、これこそ「サブ」抜きの単なる「マシンガン」という訳でいいのではないだろうか。
 いずれにせよこのサブマシンガンが登場したのは第一次世界大戦の頃だから、『続・荒野の用心棒』の時代にはまだなかったはずだ。その意味でもジャンゴが放ったのはあくまで機関銃なのである。その後もピストルの弾丸を使わず、発射方法も違うアサルトライフル(ドイツ語ではStrumgewehr「突撃銃」)や自動小銃などがいろいろ開発されたそうだが、時代が下りすぎるので省く。

 さて、もう一つドイツ語でMaschinenkanone(「機関砲」)という言葉がある。これは文字通り「砲」で口径も20mm以上あり、すでに19世紀の終わりに生産が開始されていたマキシム砲とか今のヴァルカン砲、そもそもガトリング砲も「機関銃」でなく本来「機関砲」である。だからフランコ・ネロが撃ったのも本当は機関砲と言わねばならないのだが、一方昔は機関砲と機関銃が区別されておらず「マキシム砲」もドイツ語ではMaxim-Maschinengewehrといっている。『続・荒野の用心棒』のも見かけも大きさも完全に「砲」ではあるが、「機関銃」と名付けていいと思う。
 このMaschinenkanoneは英語ではautocannon、独和辞書には項があるがDudenにはこの見出し語はない。見れば意味がすぐわかると思われたか、一つの語としてはまだ定借していないとみなされたかであろう。どうもMaschinengewehr → Maschinenpistole → Maschinenkanoneと下るに従って語としての扱われ方が冷たくなってきているようだ。

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  何度か書いたように、言語連合という言葉はロシアの言語学者ニコライ・トゥルベツコイが提唱したものである。トゥルベツコイというと普通真っ先に思いつく、というよりそれしか思いつかないのはその著作『音韻論の原理』だろう。ちょうどド・ソシュールの「代表作」『一般言語学講義』が氏の死後出版されたように(ただしこれはド・ソシュール自身の手によるものではない。『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)、『音韻論の原理』もトゥルベツコイの死後出版されたものである。また、ド・ソシュールと聞くと大抵の人はラング・パロールなど構造主義の言語学や記号学しか思い浮かばず、それに優るとも劣らない業績、喉音理論にまで気を回す人はあまりいないように、トゥルベツコイも音韻論の有名さに比べると「言語連合」のほうは思い出す人は少ない。さらに理不尽なことに、言語連合という用語そのものは結構使われているのに、その言い出しっぺがトゥルベツコイであることを知らない人も相当いる。「喉音理論」と言えば一応名前を思い出してもらえるド・ソシュールとの違いはそこだ。
 なぜそんなことになったかというと、言語連合という言葉が最初に使われたのがロシア語の、しかも論文というよりエッセイといったほうがいい著作だったからだ。1923年にブルガリアのソフィアで発表されたВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』というテキストである。以下が言語連合を定義してある箇所だが、タイトルからもわかるようにロシア語である上にプーシキンみたいな旧仮名遣い・旧文法だ(現代の正書法に直したテキストをネットで見られる)。

Но кромѣ такой генетической группировки, географически сосѣдящіе другъ съ другомъ языки часго группируются и независимо отъ своего происхожденія. Случается, что нѣсколько языковъ одной и той же географической и культурноисторической области обнаруживаютъ черты спеціальнаго сходства, несмотря на то, что сходство это не обусловлено общимъ происхожденіемъ, а только продолжигельнымъ сосѣдствомъ и параллельнымъ развитіемъ. Для такихъ группъ, основанныхъ не на генетическомъ принципѣ, мы предлагаемъ названіе «языковыхъ союзовъ».

しかしこういった系統によるグループ分けのほかに、地理的に互いに隣接した諸言語をその系統とは関係なくグループとしてまとめられる。そこでは地理的にも歴史文化的にも同じ一つの圏内にあるいくつかの言語が特徴的な類似点を示すことがある。その類似は共通の起源から発生したものではなく、あくまで長期間にわたる隣接関係とそれぞれ言語内部の並行した発展の結果であるにもかかわらずである。このような、親族関係という原則によらない言語群を呼ぶのに「言語連合」という名称を提案する。

この「言語連合」という部分には注がついていて、代表的な例としてバルカン半島を挙げている。またこの箇所はJindřich Tomanという人がMITで出したThe Magic of a common language(1995)という本で英語に訳しているのだが、下線の箇所が微妙に違っている。私の読解が間違っているか、向こうが間違ったかである。それとも私の参照した原本バージョンとTomanの1987年のとはこの部分が違っているのかもしれない。87年にモスクワで出版された「トゥルベツコイ選集」Избранные труды по филологииという本を見かけたらちょっと調べてみてほしい。

...besides such generic grouping, languages which are geographical neighbors also often group independently of their origin. It happens that several languages in a region defined in terms of geography and cultural history acquire features of a particular congruence, irrespective of whether this congruence is determined by common origin or only by an [sic.] prolonged proximity in time and parallel development. We propose the term language union [jazykovyj sojuz] for such groups which are not based on the generic principle.
 
 これを発表して何年か後、やっと1928年になってからトゥルベツコイはプラハで行われた第一回国際言語学者会議で自説を発表し、Sprachbund (言語連合)とSprachfamilie(語族)の観念的な違いを明確にした。そこでも何人か指摘しているが、この言語連合という考え方そのものはトゥルベツコイの創作ではない。以前にも書いたようにバルカン半島の言語状況についてはすでに1829年にスロベニアのコピタルKopitarという学者が報告しているし、当時「バルカン学」の研究はすでに相当進んでいたのである。トゥルベツコイはこの言語接触による類似性、「言語連合」を一般言語学の用語として確立したのだ。
 それを受けてプラーグ学派の面々がこのテーマで研究を開始した。例えばロマン・ヤコブソンは1931年にそのテーマで本を出し、『58.語学書は強姦魔』で名前を出したイサチェンコIsačenkoも1934年に論文を発表しているそうだ。ところが言い出しっぺのトゥルベツコイ自身はごく短い論文をチョチョッと書いただけ。この辺が後の誤解というか無知を生んだ原因だろう。
 また、やはり1920年代から文化交流による言語の混交問題に興味を持っていたHenrik Beckerという人が1948年にズバリDer Sprachbundという本を出版している。時々「言語連合という言葉はドイツ語のSprachbundの訳」と誤解しязыковый союзを完全に無視している人を見かけるのはこれが原因だろう。しかもこのBeckerはMeistersprache「支配言語」など、トゥルベツコイが嫌悪した言語の順位付け思想や西欧中心の世界観・学問観(下記参照)に基づく用語も提唱しているから氏も浮かばれまい。
 とにかくトゥルベツコイは専ら一つの祖語からの分岐としてとらえられていた「印欧語」というものにもこの「文化・地理上の隣接による言語の統合」というアスペクトを適用して、当該言語が印欧語と見なされるには6つの基準を満たさねばならないと提案した。この6つの構造条件を全部満たしていれば印欧語であり、言語の構造が変化してどれか一つの条件でも満たさなくなればいくら共通の単語を引き継いでいても印欧語ではなくなる、というのである。Мысли об Индоевропейской проблеме『印欧語問題に関する考察』という論文で論じている。
 1.母音調和の欠如。
 2.語頭と語尾の子音群に特別な関係があること(語頭に立ち得る子音群のほうが語の内部や語尾よりも制限が厳しい)。
 3.いかなる条件下でも語が語幹だけで始まることがない。
 4.母音交代(アプラウト)の存在。
 5.形態素内で子音が交代する。
 6.能格でなく主格・対格の格システム。

トゥルベツコイが後に発展させた音韻論を髣髴とさせるようだし、特に5はいかにもロシアの言語学者らしく、今日でも(少なくとも私の年代の者は)ロシア語の学習者が必ずやらされる音韻形態論Morphonologieの視点が見えて非常に興味深いが、単純に一つ疑問がわいてくる。もし、地球上のどこかで偶然この条件をすべて満たす言語が現れたら印欧語とみなされてしまうのかということだ。トゥルベツコイはこの質問になんとYesで答えている。印欧語学者の高津氏が攻撃したのもこの点で、トゥルベツコイの定義した印欧語を「空論」とまで言っている:まず第一にこのような特徴を並べても印欧祖語再建にはなんらの貢献もしない。第二に印欧語ばかりでなく、言語には根底に横たわる実体がある。印欧語の場合、諸言語の語彙や形態素の規則的な対応から帰納してもわかるように、その根源となる実体がある。借用によって、その根源を同じくするにもかかわらず言語が印欧語でなくなるなどという定義、構造的な特徴による語族の決定は、高津氏らのような形態の対応から帰納する語族の決定とは両立しえない。私は高津氏が「借用」という用語の持ち出しているところにすでに純粋要素と外来要素の区別、つまりある意味では差別を感じるのだが、当該言語間の語の音韻対応を考慮に入れない「印欧語」にも確かに「うーん」とは思う。
 なお、どうでもいい話ではあるが、ここで高津氏が参照したのは原文のロシア語ではなくドイツ語翻訳である。
 
 実はもちろんトゥルベツコイは「語族」というアプローチを否定しているわけではない。言語の変化を追うには分岐と統合という二つのアスペクトが必要なことを強調しているにすぎない。印欧語学=言語学であった時代からすでに言語の地理的連続性に注目し、波動説を唱えたSchmidtなどの学者はいたのだ。印欧祖語は本当に一つの言語だったのだろうか。印欧語発生地には最初の最初から複数の言語が話されていたのではないのか?それら地理上隣接していた言語が統合されて一つのまとまりを見せているのではないのか?そもそも一つの言語というのは何か。日本語と琉球語、本国ドイツ語とスイスのドイツ語を一つの言語とみなす客観的根拠はどこにもないのだ(『111.方言か独立言語か』参照)。
 このことは印欧祖語を再現しようとした者も心の隅では感じていたことで、「祖語再構」というのは言語を再現するのが目的ではなく、あそこら辺の諸言語を網羅する理論上の言語を創造することが目標であった。この姿勢はド・ソシュールに顕著である。つまり理論のための理論なのだ。そしてこの分岐アプローチに待ったをかけたのも、何も印欧言語学にコペルニクス展開を起こしてやろうとしたからではない、別の見方を示して議論を深めようとした、言い換えればprovocationそのもの、まさに高津氏のいう「空論」がトゥルベツコイの狙いだったのではなかろうか。

 もうひとつ、当時の権威ある印欧比較言語学にトゥルベツコイが待ったをかけた、いや明確にNoを突き付けたのが、当時の印欧語学者の中に言語や文化の優劣を言い出す人が少なからずいたということである。有名なのがアウグスト・シュライヒャーAugust Schleicherで、1850年の論文で、印欧語のような屈折語は言語の最も発達した状態であり、膠着語はその前段階、孤立語は最も未開な言語状態と主張した。それを言ったら名詞の屈折をほとんど失っている英語はロシア語より未開言語なのかとツッコミを入れたくなる。面白いことに上述の高津氏もこのシュライヒャーなどが印欧語学に価値判断・言語発展度などが持ち込んだのを遺憾としている。こういった西欧中心主義(トゥルベツコイは頻繁に「ロマンス・ゲルマンの自己中心主義」という言葉を使っている)をトゥルベツコイは嫌悪した。学問上ばかりでなく文化的にも西欧は無神経に自分たちの基準を押し付けていると見て反論した。氏のこういう思想はその経歴と固く結びついている。

 トゥルベツコイはロシアの公爵家に生まれた。名門で、私は確認していないがトルストイの『戦争と平和』にも大貴族として一家の名前が出てくるそうだ。父も祖父も親戚も大学教授を務めたりした社会的にも教養的にもエリート中のエリートである。そこに生まれたトゥルベツコイも知的に早熟で15歳のころからすでに論文を発表していたという。最初は民俗学が専攻だったが、じきに言語学に転向した。
 言語学者としての業績はフィンランド語のカレワラやコーカサスの言語の研究から始めた。上の条件6にコーカサスの言語を熟知していることが見て取れる。それらの「アジアの言語」の中にロシア語と通ずる要素をみたのである。ロシア語やロシア文化の中にはアジアと根を共にする要素がある、と感ずるようになった。後の「文化や言語に優劣はない」という見方、また言語が「発展する」とか「未発達である」という類の価値付けに対する反発の芽がすでに見て取れるではないか。
 もちろん、当時の言語学者として印欧言語学もきちんと身につけていた。サンスクリットもできたし、1913年から14年にかけてライプチヒに滞在し、カール・ブルクマンKarl Brugmannやアウグスト・レスキーンAugust Leskien(『26.その一日が死を招く』参照)らと席を並べて勉強している。
 1917年に革命が起こった時、トゥルベツコイは療養のため北コーカサスのキスロヴォーツクКисловодск という町にいたが、大貴族でレーニンに嫌われていたため危険すぎてモスクワに帰れなくなった。二年ほどロシア国内(の大学)を転々とした後国外亡命して1920年にまず当時のコンスタンチノープルに逃れ、そこからさらにブルガリアのソフィアに行き、1922年まで大学で教鞭をとった。上述の『バベルの塔と言語の混交』はその時書かれたものである。1922年にはウィーン大学に招聘されて亡くなる1938年までそこで教えていた。そのウィーンから有名なプラーグ学派の言語学サークルに通っていたのである。
 
 当時ソフィアにはロシアからの亡命者が大勢おり、いわゆる「ユーラシア主義・ユーラシア運動」の発生地となった。トゥルベツコイはその中心人物である。この運動はすでに19世紀にロシアの知識人の間に起こったスラボフィル、スラブ主義運動に根ざしているが、非西欧としてのロシアのアイデンティティを確立していこうというものである。この精神を引き継いだユーラシア主義は両大戦間のロシア(知識)人の間に広がっていた。トゥルベツコイが1920年に著したЕвропа и человечесгво『ヨーロッパと人類』はその代表作だ。面白いことにここでは「アジア」や「ロシア」という言葉が使われておらず、西欧対非西欧という対立で論じられている。私は確認していないが(ちゃんと確認しろ!)この著作はいち早く日本語に訳されたという。
 そうやって「アジアとつながったロシア」としての文化的・政治的アイデンティティが模索されていった。トゥルベツコイは皇帝は廃止すべきという立場だったが、ボリシェビキにも反対だった。共産主義は所詮「西欧」の産物だったからである。民主主義にも懐疑的だった。もっともロシアにふさわしいのは民衆から選出された代表が政治を行うのでなくて、教養的にも文化的にもエリート層がまず国としてのイデオロギーを確立して、その路線にのっとって国を作っていく、というものだったらしい。民衆側の機が熟していないのに外来から民主主義を取り入れたら行きつくところは衆愚制だと考えていたのかもしれない。
 トゥルベツコイは敬虔な正教徒だったし、ロシアのアイデンティティを上滑りな西欧からの輸入思想、例えばコスモポリタン思想に受け渡すつもりはなかったのだ。

 この思想は氏の言語観にも反映している。ユーラシア運動そのものについては、のちに何人かボリシェビキ寄りになったりロシア国粋主義に傾いたりしていったので距離をとるようになったが、「ユーラシアとしてのまとまり」という視点は保たれた。この言語観に立って、印欧語も枝分かれして発展していく樹形図としてではなく、連続する鎖(цепьまたцѣпь)のイメージで把握したのだ。コーカサスの言語、印欧諸語、地中海・中東のセム語などがこの地上で鎖のようにつながっている、それぞれの輪の間には必ず重なりあう部分がある、言語が統合している部分がある。文化も言語も上から下に流れるのではない、横につながっているのだ、として言語相対主義・文化相対主義を強調した。
 
 トゥルベツコイのこの思想は当然ナチスには目の敵にされ、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると早速案の手を伸ばし、ゲシュタポがウィーン大学にあった氏の研究論文を押収し自宅まで捜索した。すでに心臓に問題のあったトゥルベツコイはそのため病状が悪化して亡くなった。氏の代表作『音韻論の原理』は家族がなんとか保持していた書き散らしの原稿を言語学者の同僚や学生が校正して死後出版されたものだ。

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