アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

本を出しました。詳しくは右の「カテゴリー」にある「ブログ主からのお知らせ」をご覧下さい。
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 いつだったかTVでニュースを見ていたら、イタリアの政治家に、名前が -xi で終わっている人がいたのでおやと思った。これはアルバニア語の名前である。-aj で終わっている名前の俳優を一度マカロニウエスタンで見かけたことがあるが、これもアルバニア語だ。どちらも語尾にばかり気をとられて名前そのものは忘れてしまった。メモでもとっておけばよかった。
 『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』の項で述べたようにイタリアは実は多民族国家で、その有力な少数民族の一つが南イタリアのギリシャ人だが、アルバニア人も多い。アルバニア語も少数言語として正式にイタリア政府に承認されている。もっともイタリア人よりも前からイタリア半島に住んでいたギリシャ人と違ってアルバニア人は比較的新しい時代になってから移住してきたのだそうだ。もっとも新しい時代といっても14世紀から15世紀のことだから日本で言えば室町時代、十分古い話ではある。もちろん世界がグローバル化するはるか以前である。
 南イタリアのほかにシチリアにもアルバニア語・アルバニア人地域がある。上述の項で紹介した元マフィアの組員も、自分の家族はギリシャ人、つまりギリシャ語を話すイタリア人だが、近所にはアルバニア人も多くいて両グループ間の抗争が絶えなかったそうだ。地図を見ると確かに両民族の居住地が重なっている。
 アルバニア人はもともとキリスト教徒だった。畢竟ローマ・カトリックのイタリア(当時はイタリアという統一国家はまだなかったが)と精神文化の面で繋がりが強かったらしく、例えばアルバニア語で印刷された最古のテキストは1555年にジョン・ブズク Gjon Buzuku という僧が聖書を訳した188ページのもので、一部破損しているが原本がバチカン図書館に保管されているそうだ。もっともアルバニア語で書かれた、というだけなら1462年の文献が現存しているし、言語についての断片的な記録はさらに古いのがあるから、現存テキスト以前にすでにアルバニア語で書かれた文献自体は存在していたと見られる。しかしそれでも14世紀ごろで、有力な他の印欧語と比べると時代が新しい。
Bozukuによるアルバニア語テキスト。ウィキペディアから。
Buzuku_meshari

 トルコの支配下に入ってからはアルバニアにはイスラム教が広まったが、現在でも人口の20%はギリシャ正教、カトリックも10%ほどいるとのことだ。その10%の中からあの聖女マザー・テレサが出たわけである。
 20世紀になってからもイタリアの皇帝ビットリオ・エマヌエレ3世がアルバニアの皇帝もかねたりしていたから、距離の近いアルバニアからはさらにイタリアへの移住が増えたことだろう。これもいつだったか、ニュースを見ていたら、今日びはイタリアのいわゆる開発の遅れたアプーリア地方の人たちが新天地を求めて逆にアルバニアに渡り、そこで事業を起こしたり工場を建てたりする例が増えているそうだ。人件費が安いからだろう。

 アルバニア語はギリシャ語と同じく一言語で一語派をなしているが、二大方言グループ、ゲグ方言とトスク方言がある。以前にも書いたように(『39.専門家に脱帽』参照)これらの間には音韻的な差があって、トスク方言では r である部分がゲグ方言では n になる。上述の項でも例を挙げたがその他にも「ワイン」という言葉がそれぞれ venë (ゲグ方言)と verë(トスク方言)となっている。さらに元は鼻母音だった â がトスク方言ではシュワーの ë になって、コピュラの âshtë(ゲグ方言)がトスク方言では është。文法にもいろいろ違いがあるそうだ。イタリアのアルバニア語は本来トスク方言に属するが、長く本国を離れていたため独自の発展を遂げた部分も多く、これを第三の方言と見なす人もいる。面白いことに上述のカトリック僧 Buzuku は北アルバニアの出身で訳に使った言語はゲグ方言である。

 また「ギリシャ」という名称がギリシャ本国でなく元来イタリアのギリシャ人を呼ぶものであったのと同様(本国では「ヘラース」、再び『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』参照)、「アルバニア」という名称も実はイタリアやギリシャのアルバニア人のことである。彼らが自分たちをアルバレシュ albëreshë とよんでいたので、イタリアでアドリア海の向こう側の本国まで「アルバニア」と呼び出したのだ。アルバニアではアルバニアのことを「シュキプタール」という。
 アルバニア語はいわゆるバルカン言語連合(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)の中核をなす言語である。早くから言語学者の興味を引いていたようで、1829年にバルカン言語学誕生の発端となった論文を書いたスロベニアの学者コピタルもアルバニア語に言及している。Albanische, walachische und bulgarische Sprache(アルバニア語、ワラキア語、ブルガリア語について)というタイトルの論文だが、すでにバルカン言語連合の中核3言語の相似性を見抜いている。この三言語がシンタクスなどの面で nur eine Sprachform, aber mit dreyerlei Sprachmaterie(言語の形は一つなのに言語素材は三つ)であることを発見したのはコピタル。ついでに言うとこの論文からも判る通り、当時の言語学の論文言語はドイツ語が中心だった。
 そうやって印欧語学者がこの言語をよく知っている、少なくともこれがどういう構造の言語なのかくらいは皆心得ている一方で、アルバニア人やアルバニア文化そのものについての関心は薄く、私も未来系の作り方とか後置定冠詞とかどうでもいいことは授業で教わったがアルバニア人はどういう人たちなのかという肝心なことについては全く無知であった。今でも無知である。この調子だから私はヒューマニストにはなれないのだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。
 
 ところが先日、ドイツの大手民放がヴィネトゥ映画3部作(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)をこれも3部作のTV映画としてリメイクした。元の映画でオールド・シャターハンドをやったレックス・バーカーもヴィネトゥのピエール・ブリースもすでになくなっていたし、生きていても年をとりすぎていてあのアクション活動は無理だったろうから、現在のドイツの俳優を持ち出してきた。シャターハンドをやったヴォータン・ヴィルケ・メーリング Wotan Wilke Möhring は顔は確かによく見かけるまあ有名俳優なのだろうが、バーカーに比べると容貌がショボすぎる感じで「こんなのがあのシャターハンド?!」と一瞬思ってしまったが(ごめんなさいね)、ヴィネトゥ役をやった人はブリースとはまた違ったカリスマ性があり、若くハンサムで正直驚いた。私はドイツのTV番組は基本的に公営放送のニュースやドキュメンタリー番組と、民放ではマカロニウエスタンしか見ないので、確かに人気俳優などは余り知らない。しかし知らないと言っても顔はどこかで見たことがあるのが普通だったが、このヴィネトゥ役の俳優は全く顔さえ見たことがなかった。どうしてこんなイイ男に気づかなかったんだろうといぶかっていたら、それもそのはず、アルバニアのニク・ジェリライ Nik Xhelilaj という俳優だった。名前に Xh という綴りが入り aj で終わっているあたり、これ以上望めない程アルバニア語である。ジェリライ氏は本国ではスターだそうだ。
リメイク映画「ヴィネトゥ」から。右がドイツの俳優メーリング
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これも「ヴィネトゥ」から
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普通の格好(?)をしたジェリライ氏 http://diepresse.comから
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ニク・ジェリライという俳優は日本ではあまり知られていないだろうからこの際紹介の意味でもう一つオマケの写真
http://media.gettyimages.com
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 氏は顔がイケメンである上に声も涼しげないい声だったが、さらにしゃべるドイツ語がまた良かった。「うまい」というのではない、逆に本物のタドタドしいドイツ語だったのである。それはこういうことだ:
映画などで「外国人」あるいは「当該言語を完全にはしゃべれない」という人物設定にする際、その「不完全な言葉」というのがいかにもワザとらしくなるのがもっぱらである。どう見ても、どう聞いても本当はペラペラなのに意図的にブロークンにしゃべっていることがミエミエなのだ。一番「それはないだろう」と憤慨するのが文法・言い回しなどには取ってつけたような「外国人風の」間違いがあるのに発音は完璧というパターン。あるいは l と r を混同するなどのステレオタイプな発音のクセを 時おり挿入して外国人に見せるという姑息な手段。その際lとrは間違えても CVCC や CCVC のシラブルの方はなぜかきちんと発音が出来、絶対 CVVCVCV や CVCVVCV などにはならない。本当はしゃべれるのにワザとブロークンにやっていることが一目瞭然だ。
 あるいは逆に俳優に訓練を施す余裕がなかったか、俳優に語学のセンスがなくて制作側がサジを投げたか、俳優が大物過ぎて監督が遠慮しデタラメな発音でもOKを出してしまったかして当該言語としてはとうてい受け入れられないような音声の羅列になるとか。そういう場合でもセリフそのものはネイティブの脚本家が書いたものだから発音はク○なのに言い回しは妙にくだけた話し言葉という、目いや耳を覆いたくなるような結果になる。名前は出さないがジェームス・ボンド役として有名なさる俳優がさる映画でしゃべっていたいわゆる日本語なんかも憤死ものだった。
 いずれにせよ、完全な不完全さ、自然な不完全さをかもし出すのは結構難しいのだ。ところが、このジェリライ氏のドイツ語は本当にブロークン、文法も初心者・耳で聞いて言葉を覚えた者がよくやる語順転換、変化語尾の無視などが現れていかにも自然な不完全さなのである。それでいて耳障りではない。顔のハンサムさや声のよさより私はこっちの方に感心した。もっともこれはジェリライ氏の業績・俳優としての技量もさることながら、スタッフの業績でもあるのかもしれないが。
 とにかく「ヴィネトゥ役にアルバニアのスターを起用」ということが珍しかったせいか、結構メディアでも報道されていた。そういえば以前「ヨーロッパで一番ハンサムが多いのは実はバルカン半島」と主張している女性がいたが、このジェリライ氏を見てなるほどと思ったことであった。

 さてそのアルバニア語は、どこかの言語学者も言っていたように、「語学というより言語学的な興味で始める人が多かろう」。印欧語の古いパラダイムをよく残している非常に魅力ある言語である。例として以下に çoj (take away, send) という動詞の変化パラダイムの一部を挙げるが、アオリストや希求法などがカテゴリーとしてしっかり残っており、これと比べるとドイツ語やロシア語などチョロイの一言に尽きる。たかがロシア語の不規則動詞ごときにヒーヒー言っていたり(私のことだ)、変化形を覚えたと言って鼻の穴を膨らませて自慢しているような輩(これも私のことだ)などは、ジェリライ氏に恥じろ。繰り返すが、これは動詞変化のごく一部、動詞部分が直接変化するパラダイムのそのまた一部である。これにまた接続法一連、完了体など助動詞や不変化詞による動詞パラダイム(アオリスト2もそれ)やそもそも受動体(これにもまた直説法現在形、接続法現在形などのパラダイムがオンパレード)などがガンガン加わってくるから、ここに示したのは動詞の変化形全体の10分の一にも満たない。もちろんこれは最も簡単な動詞で、他に不規則動詞も当然ある。ラテン語や現在のロマンス諸語より強烈なのではなかろうか。
Tabelle1-100
Tabelle2-100
Tabelle3-100
「意外法」というのは Admirativ のことである。まだ定訳がないようだが、法(Modus)の一種で、当該事象が愕いたり意外に思うようなことだった場合、この動詞形で表す。アルバニア語はバルカン現象のほかにこの Admirativ を動詞変化のパラダイムとして持っていることでも知られているようだ。
 また現在のロマンス諸語では強烈なのは動詞だけで、名詞の方は語形変化がないに等しいくらい簡略だがアルバニア語は名詞の格変化も思い切り保持している。悪い冗談としか思えない。

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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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 『荒野の用心棒』のことでちょっとしておきたい話がある。「今更あの映画についてする話があるのか?」とお思いになるかも知れないが、それがあるのだ。

 以前家の者どもに無理矢理この映画を見せていたら、エステバンを見るなり「あーっ、これドイツ人じゃないかよ。いっつも悪役やっちゃあ撃ち殺される有名な俳優だ。それがマカロニウエスタンなんかで何やってんだよ」と叫んだのである。 
 何やってんだよって、だからエステバン役やってんでしょ、とは思ったが、今までにもしつこく繰り返しているようにマカロニウエスタンにはイタリアだけでなくヨーロッパ中の俳優が参加しており、人によっては「ユーロウェスタン」と呼ぶくらいだ。この『荒野の用心棒』もこちらでは「イタリア映画」ではなく「西独・西・伊合作」と把握されている。『荒野の用心棒』だけでなく、マカロニウエスタンの脇役陣を見ていくと、本国ではスター級の俳優をよくみかけるのである。
 例えば『怒りの荒野』でジェンマの馬小屋の友人、かつての名ガンマン、マーフをやったヴァルター・リラというのもドイツ人。この人は賞を貰ったり、俳優の他にも脚本や小説を書いたり、映画制作もしていた教養人だ。本国では名を知られた俳優である。そのジェンマと『暁のガンマン』で共演したマリオ・アドルフもドイツ人。半分イタリア人なので完全にバイリンガルだが、超がつくほどドイツでは有名で、いまだに映画やTV、果てはコマーシャルにさえ顔を出す。もう70過ぎているがダンディでいまだに女性にモテている。アドルフには最初ペキンパーから『ワイルド・バンチ』のマパッチ将軍役のオファーが行ったそうだが、少年の喉を掻き切るシーンがあったため、アドルフは断った。後に後悔したそうだ。なお、この逸話はアメリカの映画データベースIMDBに載っている『61.惑星ソラリス』の時と同じく、この情報をIMBDに提供したのはこの私である。本当にヒマだ。
 しかしなんと言っても「ドイツ人の大物マカロニウエスタンスター」と言えばテレンス・ヒルだろう。ヒルも半分イタリア人だが、ドレスデン生まれで子供時代をそこで過ごし、これもバイリンガルだ。ただアメリカ生活が長いためかこの間ドイツのTVのトークショーに登場したときはややドイツ語が退化している印象だった。

 話をエステバンに戻すが、あの俳優はジークハルト・ルップSieghardt Ruppというオーストリアの俳優だ。ウィーンで正規の俳優修行をこなした、舞台出身の俳優である。「ドイツ人じゃないじゃないかよ」と言われるかもしれないが、ドイツ人はオーストリア人とドイツ人を区別などしない上、ルップは本当にオーストリアではなくて当時の西ドイツで活躍していたので、まあ「ドイツ人」という把握でいいと思う。

 この人は70年代に西ドイツのTVで人気俳優だった。
 ドイツには1970年から続いているTatort(犯行現場)というTVシリーズがある。刑事ものだ。続き物ではなくて毎回話が独立している。しかし例えば日本の水戸黄門やアメリカの刑事コロンボと違って主人公となるキャラクターが固定しておらず、次々に新しい主役が現れてシリーズが続いていく。一話で消える主人公もあれば、もう25年間、70話以上も断続的に登場しているキャラクターもあるのだ。主役が別のキャラクターに移った後も前主役が「相棒」として登場してくることもあるし、同じキャラクターを別の俳優にやらせてバージョン・アップを図ることもある。

 ルップは1971年に初めて「関税職員クレシーン」というキャラクターで主役を務めたのだが、評判がよく、そのあと7話が彼の主役で作られ、さらに主役が別に移ったあとも3話で「準主役」として登場。そして「クレシーン」が登場人物として消えた後も悪役で何度もこのシリーズで顔を出している。
 ルップの主役は視聴率が大変に良かったそうだ。事実、先日もヘッセン州の公営放送局で彼の「クレシーンもの」を再放送で流していた。つまり40年以上たった後でも見る人がいる、ということだ。うちでも「『犯行現場』のクレシーンって知ってる?」と聞いたら即座に「当たり前だ」という答えが返ってきて、キャラクターの性格・風貌まで詳細に描写してみせた。つまりまだそれだけよく記憶に残っているのである。
 それまでドイツの刑事ものの主人公というと謹厳実直で無愛想なおじさんが、ガチガチと犯人を追い詰めていくというパターンだったのが、このクレシーンは女たらしとまでは行かないまでも、まあ女性にもニョロニョロ愛想がいい新しいタイプだったらしい。「あのエステバンが軟派路線」と聞いて私は一瞬「えー、ウッソー!」と思ってしまったのだが(ごめんなさいね)、考えてみるとなるほどという要素もある。
 サイトなどには、ルップは「声が力強く、特徴的な顔(markantes Gesicht)をしていたので悪役によく起用された」とある。写真を見ていただくとわかるが、濃い眉をしていて、目がパッチリと大きく、まつげが長く、彫りが深い、つまり特徴的な顔といっていいだろう。

Tatortでのジークハルト・ルップ
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 またこの人はちょっと不思議な眼の色をしていて、この写真では黒く見えるが、実際は髪の色よりずっと薄い茶色、光線の加減では灰色に見えることもあるくらいだ。碧眼が光の加減で灰色に見える、というか灰色の目が青く見ることはしょっちゅうだが、茶色と灰色の交代というのは面白いと思う。アルバニア語のゲグ方言・トスク方言の n 対 r の音韻交代(『39.専門家に脱帽』参照)と同じくらい面白い。とにかく全体的に見ると「南欧系」の容貌なのである。イタリア人と言っても通りそうだ。『荒野の用心棒』でもジャン・マリア・ヴォロンテの兄弟役をやって全く違和感がなかった。この「南欧風」というのはゲルマン系・スラブ系の女性にモテるキーワードである。それにルップのこの容貌はたしかに特徴的ではあるが決していわゆる悪党面ではない。事実、『荒野の用心棒』で悪役に転ずるまでは地元オーストリアでしっかりモテ役をやっていたそうだし、悪役に転じた後も氏をschöner Bösewicht、「イケメン悪役」と形容していた記事を見た。名前を出して悪いが、リー・バン・クリーフやアルド・サンブレルなんかとはそこが決定的に違う点だ。

『荒野の用心棒』でのルップ。目の色を上の写真と比べてみて欲しい
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これも『荒野の用心棒』から。舞台出身の正統派俳優だけあってイーストウッドなんか(あら失礼)よりずっと演技力があると思う。
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 上記の再放送を30分ほど見てみたのだが(夜中だったので全部見るのはタル過ぎた)オーストリア訛りがはっきりしていて他の登場人物が話すビシバシした標準ドイツ語と比べてずっと響きが柔らかい。これなら軟派役もやり易かろう。
 人気があったのに、その後TVから身を引いてしまった。舞台活動に戻り、1995年以降は公的な活動から完全に退き、2015年に亡くなるまでウィーンでひっそりと暮らしていた。1931年生まれだそうだからモリコーネより若い。周りの話では「自他共に厳しくて気難しい」タイプだったとのことだ。娘さんがいたが亡くなり、30年連れ添った奥さんとも晩年になって離婚し、晩年は一人きりで生活し、接触する者も限られていた。それで亡くなったことも生活の面倒を見ていたソーシャル・ワーカー以外は知らず、一年くらいたってオーストリアの映画アーカイブがルップの85歳の誕生日を祝おうとして連絡を取ったらとっくに亡くなっていることが判明したのである。しかし「ジークハルト・ルップが一年ほど前に亡くなっていた」ことがドイツのTVニュースでも大きく流され、新聞でも一斉に報道され、映画番組がそのため変更になったから、氏は決して忘れられた存在などではなかったことがわかる。隠遁生活は氏自身の意思によるもので、件のソーシャルワーカーも自分が死んでも決して誰にも言わないように、と約束させられていたそうだ。

 ルップは『荒野の用心棒』のほかにも、ジャンニ・ガルコ主演の『砂塵に血を吐け』というマカロニウエスタンに登場しているし、ヴィネトゥ映画(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)にも出てきて撃ち殺されていた。さらにロベール・オッセンとミシェル・メルシエがコンビを組んだ例の「アンジェリク映画」(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)にも顔を出しているそうだ。
 『荒野の用心棒』というとあの棺桶屋のおやじもまたオーストリア人のヨゼフ・エッガーという俳優だ。こちらも本国では名の知れたヴェテラン俳優。きっと撮影の合間に二人でオーストリア訛りのドイツ語で雑談などしていたに違いない。
 と、いうわけで今度『荒野に用心棒』を見る際はエステバンにも注目してやって欲しい。


イーストウッドを助けた棺桶屋のおじいさんをやったヨゼフ・エッガーという俳優もオーストリアのベテラン俳優である。
Egger

オマケとしてもう一つルップの写真
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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事はうちでとっている南ドイツ新聞に土曜日ごとに挟まってくる小冊子に『悪のネットの中で』というタイトルで2016年12月16日にのったものですが、長いので6回に分けます。

前回の続きです。

 これらの規則を実行に移すのは従業員には荷が重過ぎるのである。多くの者が報告しているが、研修ではそれらを書き留めることが許されていなかったそうだ。機密になっている規則が外部に洩れないようにとの安全措置なのである。

協同体スタンダードは四六時中変更になりました。以前は切り離された首の画像とかはその様子をリアルタイムで流すのでない限りOKだったんです。なんなんですかね、この意味のない規則は?こんなことを決めたのは誰なんですかね?

 協同体スタンダードにはヘイトスピーチに関する章があって、どういう中傷なら許されるか定められている。そこには「本来フェイスブックは、難民攻撃の内容は削除しませんでした。難民は保護されるべきカテゴリーに属していないからです。しかしそのためフェイスブックのガイドラインに関してネガティブ報道がなされるようになり、ドイツが自国におけるフェイスブックの活動の差し止めにする恐れが出てきました。その結果協同体スタンダードを更新し、難民にもしかるべき保護措置をとることとします」とある。ここではフェイスブックがどのような内容を禁止または削除するかを定めた規則は政治や世論の圧力に影響されることがはっきり見て取れるが、他方ではフェイスブックのような企業が抱えている根本的な問題点が浮き彫りになってもいる。何が、あるいは誰が社会で特別な保護措置を享受できるのか。このことはドイツでは何よりも先に憲法で定められるべきとされ、企業イメージを損なう恐れが出ればさっさと対応して変更できる一企業の規則などで規定されるべきものではない。理論的には次のようなこともありうるからだ:アメリカ合衆国の社会コンセンサスがひっくりかえり、イスラム教がフェイスブックで受ける保護措置が突然軽減されたとしたら?イスラム教徒に向けた扇動が、フェイスブックの社内機密文書によって保護されている他の宗徒、キリスト教、ユダヤ教、モルモン教徒に向けたものほど追求されることがなくなったら?水面下でそうなっても公共の場には決して知らされないだろう。協同体スタンダードのごく小さな変更でさえ、世界で何十億人もの人々が毎日のように目にしているものに大きな影響を及ぼすのにである。

私たちは本当に多くの苦しみを目にしました… でもそれらの画像に出ていた人たちがその後どうなったのかは永久に知ることができません。この子たちはいまは何をしているのでしょう?犯人は捕まるのでしょうか?

 Arvatono従業員がチェックする内容は、道徳観念ばかりでなくドイツの法律にも反している。違法な投稿をフェイスブックはどう処理すべきなのか、これは実は複雑なのである。メディアとIT関係を専門とする法律家ベルンハルト・ブーヒナーの言に寄れば、ドイツの法律では、プラットフォームの運営者は具体的な違法行為または違法な情報のことを知ったら直ちにそれを削除するか、それへのアクセスをブロックしないといけないことになっている。それをしない場合、フェイスブックのような企業には会社自身が法的責任を問われる危険が生じる。そればかりではない。刑法138条からすると、一連の違法行為については、誰かが本気でその計画を立てていることを知ったら、必ずその計画を告発する義務が生じるようになっている。例えば誰かがフェイスブック投稿で同級生を射殺すると声明を出し、それが本気でありそうな場合、その投稿を削除するばかりでなく通報する必要があるのだ。当局または脅されている当事者にである。
 フェイスブックが子供ポルノをアメリカの「行方不明または搾取された児童のための国立センター」(NCMEC)に転送することは今までにも知られている。NCMECに指摘されてきた情報はすべてそこでよりわけられてさらに詳しく捜査するためにアメリカ国以内または外国のしかるべき刑事訴追当局に転送される、とドイツ連邦刑事局が『南ドイツ新聞マガジン』の問いに対して説明。「罪になる行為が連邦領内から行われている限り、その件についての利用可能な情報が連邦刑事局に送られます。」子供ポルノばかりでなく他の違法行為もフェイスブック経由でドイツ当局の手にわたるのか?フェイスブックは詳細を発表していない。

***
 Arvatoにも「コンテンツ・モデレーター」の扱いについて懸念する人たちはいる。しかしフェイスブックはそういう人たちにこういう幻想を与えて慰めているのだ;そのうち人工知能によってコンピューターが利用規約違反の内容を見分けられるようになるだろう。フェイスブック、ツイッター、グーグルやマイクロソフトがつい数日前発表したが、将来的には自社のサイトのテロのプロパガンダを共同のデータバンクにセーブして「デジタルの指紋」をつけておくようにするつもりだとのこと。そうやって、例えばツイッターで削除された画像は自動的にフェイスブックでも削除されるようにする。この考えは一方では希望を抱かせるものではある。そうなればもう人間がこれらのホラーに身をさらさなくてもよくなるだろう、という希望。だがさらに想像してみるとこれは恐怖なのだ。何十億人もの人々がフェイスブックで目にする内容をアルゴリズムが決める、何が残酷で何が残酷でないか、どこまでが風刺で何処からがテロリズムかをコンピューターが判断することになるからだ。

誰かがこの仕事をやらなくてはいけない、それはわかっているんです。でもそれはそれ用の訓練を受け、援助もされている人々であるべきで、私たちのようにただ無造作に犬の前に行かされた人たちであってはいけないんです。

いつもこういう夢を見るんですよ:人々が燃えている家から走り出てくる。地面でバラバラになってしまいます。一人また一人と血でできた水溜りに倒れていく。私は下に立って人々を受け止めようとするんですが、大勢過ぎて、重すぎて、脇によけざるを得ない、でないと当たってこちらが死んでしまう。私の周りにはたくさん人がいる、助けようとしない人たちがたくさん。助ける代わりにケイタイで写真に撮ってるんですよ。

 調査が進んでいく間にも私たちは情報提供者にその後どうしているか繰り返し尋ねた。
 一人は悪夢はどうにか克服したといい、ただ昼間時々画像が心に浮かび上がって来るとのことだった。この人は先日電球を取り替えようとして梯子に上って何気なく下を見たとき、突然ISの手先の者がこいつらは同性愛者だといって屋根から投げ落とした人たちが地面に叩きつけられて行くのを見ているような気がしたそうだ。何人かはもうドイツを出て、この国から遠いところで暮らしている。別の何人かは公園に行けば人が動物を虐待しているように、浜辺に行けば誰かが子供を虐待しているように見えて苦労している。この女性はArvatoを辞めて心的外傷の心理セラピーを申請した。さらに一人はドイツ語の講習を受け、もともとやっていた職業をドイツでも生かせるようにしたいと望んでいる。
 まだArvatoに残っている従業員で、この先もこの会社に留まりたいと考えている者はいない。

『南ドイツ新聞マガジン』編集後記:
この記事の執筆者は情報提供者に、こういう削除作業をさせられたあとでもプライベート生活でフェイスブックを使うかどうか聞いてみた。ほぼ全員がイエスと答えたそうだ。「これはほとんど中毒ですね」と彼らは言っているという。

元の記事はこちら
(全部見るにはアーカイブの有料使用者となるか、無料の「14日間お試し期間」に登録する必要があります。
念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。)



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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事はうちでとっている南ドイツ新聞に土曜日ごとに挟まってくる小冊子に『悪のネットの中で』というタイトルで2016年12月16日にのったものですが、長いので6回に分けます。

前回の続きです。

 学者たちの理解では心的外傷とは「そのままではそれを克服することのできないような、苦痛を与える事象」をいう。多くの場合身体的あるいは精神的な暴力が原因であり、心的外傷後ストレス障害を引き起こすことも少なくない。ウルム大学病院の精神身体医学の教授でドイツの心的外傷研究財団の幹部会員でもあるハラルト・ギュンデル氏に、『南ドイツ新聞マガジン』がArvatoの従業員をインタビューして作成した証言の写しをいくつか読んでもらった。教授によればそれらの描写には典型的な心的外傷後ストレス障害の症状が現れている可能性があるという。苦痛を与えるような画像やビデオのシーケンス、それが仕事を離れている時でも後から後から目の前にありありと浮かぶ。繰り返し見る悪夢。ほんのちょっとでもビデオの内容を想起させるような状況になると度を過ぎた驚愕反応をしてしまう。体は何処も悪くないのにおこる痛み。社会逃避。消耗感、何事にも無感覚になってしまったようなふるまい。性欲の消失。

子供ポルノのビデオを見てからというもの、本当にもう尼僧になれそうな感じです-セックスとか考えただけでもう無理。もう一年以上もパートナーとか緊密になれてません。触られただけでもう震えが来るんですよ。

突然髪の毛が束になって抜けてしまいました。シャワーを浴びた後とか仕事の最中でさえ抜けます。主治医に言われました、その仕事辞めなきゃ駄目だって。

ひっきりなしに人がデスクから飛び上がってキッチンに走りこむんです。で、斬首のビデオのあと少しでも新鮮な空気を吸うために窓をバーッと開けるんです。酔っ払ってしまうか、やたらと「草」をふかす。でないととてもやっていけません。

 フェイスブックは『南ドイツ新聞マガジン』の問いに答えてこう説明している。「従業員は誰でも精神衛生管理を要求できます。従業員の希望があれば随時要請できるものです。」しかし従業員は異口同音に、Arvatoは精神上の問題は自己処理に任せっぱなしにしていた感じだったと言っている。十分に管理などしてもらえなかったし、すさまじい画像やビデオを扱う仕事から被る精神的苦痛に対してそれなりの準備トレーニングもしてもらえなかった。

私たちはArvatoは精神衛生のサポートをしている、という項に署名させられました。でも実際はサポートを受けるなんて不可能だった。会社は何もしてくれはしませんでした。

 雇用者は精神の苦痛から守られなければいけない、と2013年からドイツ労働法の第4条、第五条で決まっている。「実際に健康上の傷害が生じるまで待っていないで事前にリスクをできるだけ減らしておく、ということなんです」と、法律事務所dkaベルリンの労働法担当の弁護士ラファエル・カルステンは述べる。氏によれば、「コンテンツ・モデレーター」たちが職業医師による健康管理を受けていない場合は労働法違反だろうと言う:「雇用者は実際に効果のある保護措置をとらないといけない。従業員がショックを与えるようなビデオや画像を見た場合は仕事を中断して、いつでも開かれている相談窓口とも相談して自分の状態をよく考えてみる、こういうことができないといけない。できれば医師と相談することです。医師には黙秘の義務がありますから」。しかしArvatoの従業員は誰一人としてそういう相談ができる医者のことなど聞いていない。ソース提供者によれば、予約なしで自由にいつでも来られるグループ会合はあったそうで、問題点を話し合うことになっていたとのことだ。それを行なっていたのは社会教育学専門の女性で、心理学の専門家ではなかったと全員口を揃えて証言している。当紙が話を聞いた従業員にはこの会合に参加した者など誰もいなかった。知りあいでもない職場の同僚の前で自分の極めて個人的な問題を口に出すのは気おくれするものだ。
 さる女性従業員は繰り返しその社会教育の人と個人的に会合してもらおうとしたが、長い間待たされて結局あきらめてしまった。『南ドイツ新聞マガジン』の問い合わせに対し、精神衛生の担当者がどんな資格を持っているのか、あるいはその人物は黙秘の義務をになっているのかについてフェイスブックからは正確なデータを示してもらえていない。

私が出て来た部署だったら、ソーシャルワーカーなんて私が話したことをすぐ全部私の上司に報告したでしょう。で、その上司にクビを言い渡されますね。この会社を信用してる人なんてチームには誰もいませんよ。どうして自分たちの心配事を打ち明けたりするもんですか。

 しかし、職業上残酷なメディアの内容と向き合っている人たちに対して、対処の方法はあるのだ。例えば青少年に害のあるメディアをチェックしている連邦検査局は残酷ビデオも検査しているが、新入りの従業員にはショックを与えるような内容の扱い方について定期的なトレーニングがある。「そういう映画をいっぺんに見る必要はない。いつでも中断していい、何か他の事をしてからまた戻ってきて再開できるんです」と連邦検査局のチーフ、マルティナ・ハナク-マインケは言っている。ソーシャルワーカーと個々に会うことができるし、心理学や心的外傷の専門家もいつでも待機している。従業員がきわめてショッキングな資料を吟味している別の部局には厳しい規則があって、そういう映画を吟味するのは週当たり最高8時間が限度、さらにそれが与える影響のことをその場で話し合いできるよう2人がチームを組んで行なう。こういう仕事のために特に訓練された法律家を雇い入れるところも多い。

国では軍隊にいました。だから戦争や死体の画像にはショックを受けません。私が参ってしまったのは何が出てくるかわからないからです。頭から離れないビデオが一つある。女の人がハイヒールで子猫をグチャグチャに踏み潰すんです。セックス・フェチのビデオの一部ですよ。人間にこういうことが出来るなんて考えたことがなかった。

この猫ビデオは削除となった。『南ドイツ新聞マガジン』が入手した社内文書の15条1項に違反するからだ。サディズム。「性的サディズムとは他の生き物の苦痛をエロチックな楽しみとすることである」。さすがのフェイスブックでも許容されないのである。

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