アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

本を出しました。詳しくは右の「カテゴリー」にある「ブログ主からのお知らせ」をご覧下さい。
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 ドイツ鉄道がいかにスリル満点かは今までにも書いたが、先日またしても面白いことになった。私はさる路線で G(ゴキブリではない)という町に行っている。ところが先月の半ばから今月の半ばにかけての一ヵ月ほど、その路線のど真ん中がかなり長距離に渡って「通行止め」となった。線路の修理工事のためだそうだ。大井川の川止めかよ。その閉鎖された部分では代行のバスが走るそうだが、私はこれまでの経験からこの「ドイツ鉄道が用意するバス」の信用度には絶大に懐疑的だったので、遠回りにはなるが電車の別路線を使うことにした。
 普段の路線では住んでいる町から Gに行くのにまずライン川をわたって Lメイン駅を通る。この Lメイン駅の恐怖ぶりも今まで散々書いたとおりである(『189.恐怖のメインステーション』『28.私のせいじゃありません』参照)が、そこを通過してライン川の西側を南に下ると G につく。この路線がまた何かと悶着の起こる路線で、G までは正式には40分くらいしかかからないはずだが、その時間内についたことがない。15分遅れくらいがデフォ、一時間遅れもザラ、最高記録は6時間の遅延である。本来40分の距離でそんなことができるわけがないだろうと思われるだろうが、それができたのだ。私のところの町の駅構内で大送電線がブチ切れ、周り一帯の電車の運行が全てストップしたのである。あらゆる電車が出るも入るもできない。事故の原因がわからないから修理も大幅に手間取り、私など一度家に帰ってまた出てきたら、何時間か前に私が座っていた電車がまだ同じホームにいた。結局その電車もそのホームのシグナルが使えないとかで車庫に戻され、別のホームから別の電車が出ることになった。そのまた電車も路線の途中で突然ストップし、私たちは唐突に代行バスに乗せられた。まるで悟空の大冒険だ。このG からさらに先に進むとフランスに行けることは『59.フランス訪問記』で書いた通りであるが、出だしから電車がストップしたらフランスもク〇もない。 まず駅を出ろ。
 とにかくこの路線はLメイン駅ばかりでなく、そもそも路線全体が鬼門である。それで今回は路線が繋がるまでの間別の行き方をとることにした。
 代行路線では最初にライン川を渡らずに東側を南に下り、じゅうぶん南まで来た地点で別の電車に乗り換えライン川を渡って G に行く。乗換駅は G.N 駅と言い、電車の連結点である以外は何の取り柄もない不愛想な駅だ。それまで乗って来た路線は先に進んで K という大きな駅まで行く。私の家から直接 G まで行くのとこの G.N 駅まで行くのとでは距離がほぼ同じ、つまり私のとった代行路線では G.N 駅からGまでの走行分だけ長くかかるということである。この乗り換え路線は G.N が始発ではなく、B という駅から来ている。その B と私の家の駅とはさらに別の路線で直接つながっていて、私んちから乗るとBを通って最終的にはやっぱり K に着く。図に書くとこんな感じになる。
Line-S33
 ライン川は州境を成していて、東側、うちと G.N、 B 、K 駅は同じ州、図には出ていないが恐怖の Lメイン駅と目的地 G 駅はラインの西側にあって別の州だ。今までも薄々感じてはいたが、今回ラインの東側と西側では鉄道事情にエラい差があることを改めて実感した。東側州はベンツや SAP を擁する金持ち州、西側は工業よりワインなどの農作物で持っている、こう言っちゃナンだが割と貧乏な州である。G.N までいく路線も管理部が東側州にあるからか電車もオサレでモダンなスタイル、内部もそれに応じてピカピカだ。しかも信じられないことに遅滞も5分以内。走っていると隣を時々 ICE などが抜いていく。駅も沿線の町も大きなものが多い。とにかくいろいろにぎやかというか華やいでいるのだ。

お金持ち州の管理するピカピカ路線の車両。
https://images.tagesschau.de/image/e05d72a5-e598-4165-ba91-5f270a0d5280/AAABibuxrKw/AAABibBxqrQ/16x9-1280/swr-auch-die-landeseigene-verkehrsgesellschaft-sweg-wird-von-den-streiks-betroffen-sein-100.jpgから

swr
 それがG.Nで乗り換えて G へいく電車に乗ると一変する。G 行き路線もライン川を越えるまでは東側金持ち州を走っているはずだが、主な走行範囲が西側貧乏州だからか、ドイツ鉄道が直接管理しているためか、どうもないがしろにされている感じで車両のモデルも古くてダサく、乗っていて全然楽しくない。私の家から G までの直接路線のほうもこの車両だが、その時は比べるものがないからこんなものかと思っていた。しかし今回 G.N までの路線とG.Nからの路線の差を目の当たりにしてみると、その落差には驚愕せざるを得ない。しかも一時間に一本と言うローカルぶりだ。線路はその路線専用なんだし、そんなに運行時間が開いていれば前の便が引っかかったり他同じ線路を使っている他の路線の便がポイント故障を起こしたりしてスケジュールを滅茶滅茶にされる危険性がないわけだから、すんなり運行できるかと思いきや、平気で遅れる。今時単線だからだ。途中の Ph という駅でのんびり対向車が通過するのを待たなければいけない。直接路線も周りの景色などはローカル色満載だったが、いくらなんでもさすがに複線ではあった。G.N から G では単線と言うだけでなく周りの景色がさらに凄い。もちろん大きな町などはなく、そもそも人家そのものがまばらで、駅も圧倒的にショボい。こんなところで終電を逃したらどうなるんだろう。絶対夜はこの路線に乗りたくない。
 いちど途中の駅の線路わきを3羽のニワトリが闊歩しているのを見かけた。これは誰かが飼育しているのが散歩に出たのか、それとも野生のニワトリなのか?いずれにせよ、鳩ならともかく線路わきをニワトリに闊歩されたのははこれが初めてだ。
 もっともこの線はまだこの程度で済んでいるが、G 駅から G.N の方に曲がらずに南へ下る線はさらにグレードが下がる。人家はさらにまばらで、駅はますますショボく、それに反比例して通りぬける森や野原は立派になる。昼なお暗き原生林的な部分さえある。下手をしたらそれこそデルス・ウザーラの助けを借りなければ家に帰れなくなりそうだ。もし殺されでもしたら10年くらいは発見されないだろう。それでもこの路線だって南の方で細々と東側金持ち州の K 駅と繋がってはいるのだ(上図参照)。車両にもともと東州で市電として走っているのを引っ張り出してきた軽いモデルが使われている。その軽装備で原生林の中を通るから夜どころか昼でも怖い。
 どうもフランクフルトより南では(北の方はそんなことはない)ライン川の西側は東側の「日陰者」になってしまうようだ。とにかく差がありすぎる。何というか、古くなって時代にそぐわなくなってはいるが、一応まだ走ることは走るという電車が最後の御奉公をしている感じなのだ。どうせ本数もないからその程度のモデルで勤まるだろうというわけか。それで思い出したが、これも以前直接路線に乗っていたらいきなり「技術上の問題で時速50km以上のスピードが出せなくなりました」と車内アナウンスが流れたことがあった。これじゃイルカの水中速度と同じではないか。もっともその西側州も北を走る路線では上述のピカピカ電車も使われていて Lメイン駅でも時々見かける。ボロボロで赤さびだらけのLメイン駅の構内では完全に浮いていてほとんど掃きだめの鶴である。『189.恐怖のメインステーション』で到着するはずの電車に無視された話をしたが、そのときの電車もこのピカピカ電車だった。こんなバッチい駅に止まって汚れるのが嫌だったのかもしれない。その次にはピカピカと交互にダサい方のドイツ鉄道全国版が来るはずだったが、これが突然削除されたのもそこで書いた通りだ。ピカピカなら無視はされても(しないで欲しい)電車そのものは来るが、ダサ電の方は存在それ自体が削除されるという、まあ微妙にヒエラルキーの差を垣間見るようで面白いと言えば面白い。全然面白くないが。

ドイツ鉄道全国版のダサいモデル。止まっている場所は G 駅。
https://www.bahnbilder.de/1200/425-109-s-bahn-rhein-neckar-steht-1027872.jpgから

425-109-s-bahn
それより軽い市電モデルも走る。これで原生林横断は無理だ。
https://www.schwarzwaelder-bote.de/media.media.7dd5fe0a-06e7-4b36-8fdc-bbdcfad47536.original1920.jpgから

media.media

 しかし、昼なお暗き森やニワトリくらいで驚いてはいけない。ある時その孫悟空の天竺旅行から家に帰ってきたばかりのところで、「G 市で殺人罪で服役中の無期懲役の受刑者が逃亡しました」というニュースが流れた。帰ったところでいきなりこれだ。しかもその服役囚はすでに一日前に逃げている、ということはその日私が G にいる時、そこら辺を無期刑の殺人犯が歩いていたという事なのか。そもそも G なんて町は「東京都品川区東五反田」と同じくらいローカルで、本来とても全国ニュースで名前が出るような町ではない。のけぞったところにさらにダメ押し的に、脱走囚の住んでいる(「服役している」と言え)刑務所は上述の B 市にあり、たまたまその日に(もちろん監視付きで)G に出ていたとき逃亡したと伝えて来た。足につけられていた電子監視装置が G 市で見つかった。この人は2003年に一度人を殺して5年の刑を受け、刑期を務めあげて出所しているが、その後また殺人を犯して2012年からB市の刑務所にいたそうだ。前回の殺人は Totschlag だったが、今回の罪状は Totschlag でなく Mord で(『13.二種の殺人罪』参照)終身刑を受けていた。殺人のバージョンがアップしている。今回はベルトで絞殺した遺体を Lauterbourg に遺棄していたという。G、 B とまさに寄りによって人が乗る路線上の駅名に加えて以前ネタにした Lauterbourg まで登場し、しかも「期間を限定して」私が使っている路線の、まさにその限定時間内に殺人犯が逃げてニュースになる、これはいったい何の因果なのか。あの3羽のニワトリは何かの前兆だったのか。
 その服役囚がわざわざ G 市に来て何をしていたのかというと、私は知らなかったが G には大きな景色のいい池がありそこを散歩させられていたという。家族とも面会していたのだそうだ。外の日常生活からあまりにも乖離して現実世界との接点を失ってしまわないよう終身刑であっても服役囚は時々外に出して外界と接触させるのが規則だとのことだが、そういう処置自体には私も賛成である。事実この脱獄囚はそれまでにも何度も何度もそうやって外の空気を吸わせてもらい、何の問題を起こすこともなくまた刑務所に戻ってきていた。もちろん監視がいたから逃げられなかったのだろうが。それがなぜ G に来た時 に限って逃げ出したのかわからない。ひょっとしたら以前から機会は狙っていたのかもしれない。しかしそれでも私は服役囚から外界との接触を完全に断つのには反対である。ニュースを見たときはさすがにビビったが、怖いとはあまり思わなかった。「あの辺なら隠れるところはさぞたくさんあるだろうなあ」と妙な納得をしてしまったくらいである。警察署が声明を出して「この人を見かけたら絶対に自分では話しかけずに最寄りの交番に報せてください」といういつもの指示にさらに続けて、「非常に危険な人物ではありますが、逃亡中に新たに人を襲ったり犯罪を犯したりする可能性は低いです。今回の逃亡の目的はできるだけ長く自由でいるということですから、自分の居場所を特定されるような行動はしないと思われます」と言っていた。私もそう思う。せっかく出て来たのにわざわざ目立つようなことはしないだろう、向こうから私を避けるだろうと思うのである。
 それに脱獄をしてもそのせいで刑期が伸びるわけではない。脱獄そのものは罰則にはならないのだ。ただ、逃亡していた日数が加算されるだけ、例えば一週間刑務所の外にいたら、満期がきた時点でさらにあと一週間いさせられるだけだ。脱獄中に犯罪を犯したりしたらそうはいかない。ボーナスがたっぷり加算される。やはり脱獄中はできるだけ人目を避けて大人しくしているのが普通の神経だ。

 さて、逃亡から一週間以上たつがまだ犯人は捕まらない。ひょっとしたらフランスに逃げたのかもしれない。


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記事の図表を画像に変更し、レイアウトと文章にも少し手を入れました。ロシア語学をやらされていると何かのついでにコーカサスやシベリアの少数言語の話が出てくることがあります。そういえばトゥルベツコイも博士論文はカレワラの研究だった記憶が…

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 世界には狭い地域に言語がたくさん集中している地域がある。アマゾン流域(狭くないが)やパプア・ニューギニアなどが有名だが、カスピ海と黒海の間のコーカサス地方も昔から有名だ。すでに紀元前7世紀にはギリシャ人が当地の言語の多さを報告しているとのことだ。その後ローマ人やペルシャ人による報告が続き、勘定された言語数は70から300の間を動いていたそうだが、現在では40から50くらい言語という線に落ち着いている。「くらい」というのはもちろん独立言語と方言の区別(『111.方言か独立言語か』参照)が学者によって違うからだ。100の単位で言語があるアマゾンやニューギニアと比べたら少ないが、そのかわりここは本当に地域が狭い。
 コーカサスには土着のいわゆる「コーカサスの言語」とともに印欧語のアルメニア語やオセチア語、トュルク語のアゼルバイジャン語なども話されているが、これらは後からこの地に入ってきたものらしい。さらにアラム語の方言(言わずと知れたセム語である)を話す人々がジョージアやアゼルバイジャンにいるそうだ。シリアからでも移住してきたのだろうか。オセチア語はスキタイ語の末裔という説がある。東イラニアン語族である。『164.Лишний человек(余計者)とは何か』で述べたレールモントフの『現代の英雄』も舞台がコーカサスだが、そこではオセチア人もチェルケス人もアゼルバイジャン人も一律に「アジア人め」と罵倒されている。
 土着のコーカサスの言語は印欧語やセム語、テュルク諸語と明確に異なる能格言語だが、大きく分けて3つのグループに分類できる。アブハズ・アディゲ語群、カルトヴェリ語群、ナフ・ダゲスタン語群という。これらはそれぞれ北西コーカサス語群(または単に「西コーカサス語群」)、南コーカサス語族、北東コーカサス語族(または「東コーカサス語群」)と呼ばれることもあるが、この呼び方はむしろ不適切。そもそもこれらの言語があくまで「語群」であり、印欧語レベルの正確さでは「語族証明」ができていない。それでもグループ内の言語同士でなら語彙や文法構造などにある程度の共通性が見られるそうだが、グループ間では差異が激しく、これを単に「コーカサス語群」としていっしょくたにするのは無理がある。昔言われたウラル・アルタイ語群という名称のごとく非常に誤解を招きやすい。
 さらにややこしいのが、この「コーカサスの言語」の話者がコーカサス外にも結構いることである。中東やトルコのあちこちに結構散らばっており、バルカン地域にまで話者がいるそうだ。おかげで話者数の把握がいま一つ難しい。そのうちの一つ、トルコで話されていたウビフ語(アブハズ・アディゲ語群)は現在は残念ながら死語になってしまった。

コーカサスの言語状況。ウィキペディアから
cau-ethnic-groups-4

 3つの中で一番研究が進んでいるのは大言語のジョージア語(グルジア語、『51.無視された大発見』参照)を含むカルトヴェリ語群で、研究が進んでいるどころか、現在でもコーカサスの言語の研究書がジョージア語で書かれている、つまり研究する側の言語でもある。歴史的に見てもジョージア語、特にその文字は文化語として周りのコーカサス語群にも影響を与え、例えばナフ・ダゲスタン語群のウディ語は7世紀から9世紀にかけてすでに文字化の試みがあるがジョージア文字とアルメニア文字を取り入れている。さらにチェチェン語も12世紀~15世紀にかけてキリスト教とともに(当時はチェチェン人もキリスト教徒だったということか)ジョージア文字、ジョージア語を書き言葉として受け入れたので、こんにちでもダゲスタンにはジョージア語の碑文が約50残っている。
 現在ジョージア語だけで話者400万人から500万人いるが(他にもカルトヴェリ語群には十万単位の話者がいる言語がある)、話者数だけでなく歴史文化的にも上でも述べたように他の言語に影響を与えた大言語だから、もちろん自分の言語も立派に文字化していてすでに5世紀から碑文があり、通時的研究や古い形の再現が可、ということは共時的な方言研究にも利がある上、書き言葉の伝統があるのですでに古い昔から自語の研究そのものも進んでいた。19世紀になって西欧から比較言語学者が参入してきた時もしばらくは主たる関心がジョージア語だった。
 19世紀の後半から20世紀前半になると言語の記述研究が盛んになり、 他の2言語群の記述も始まったが、アブハズ・アディゲ語群の方が進んでいる。上のレールモントフにも出てきたチェルケス人の言語もこのグループだが、これらの言語は母音音素が少ないので有名だ。例えばアブハズ語の母音音素は a と ǝ の二つ。音声上現れるその他の母音は皆このどちらかのアロフォンなんだそうだ。他の言語も皆似たり寄ったりで多くて3母音。その代わり子音音素がやたらと多く、ウビフ語(上述)は少なくとも80,アブハズ語の一方言では67の子音音素があるという、ちょっと信じがたい強烈な音韻構造である。話者数は最も多いカバルド語(東チェルケス語)で100万人ちょっと(別の資料では約70万人。どっちなんだ?!)、あと十万単位の話者を持つ言語が2・3あるがカルトヴェリ語群と比べるといかにも少数言語っぽい感が否めない。
 ナフ・ダゲスタン語群はアブハズ・アディゲ語群よりさらに記述研究がやや遅れをとっているらしい。これは第一にナフ・ダゲスタン語群の言語数が多い上に方言間の乖離が激しく方言か独立言語か決めるのが難しいのも原因だろう。チェチェン語など話者数が100万に届こうかという言語もあるが、話者数万、いや数千という言語がやたらとバラバラあって把握に苦労する。この時期にトゥルベツコイもコーカサスの言語の音韻構造の記述研究に手を染めている(『134.トゥルベツコイの印欧語』)。研究プロジェクトなどもソ連内外でいろいろ立ち上がったそうで、例えばモスクワのロモノソフ大学が60年代から70年代にかけてダゲスタンの言語のフィールド調査を行っている。
 このブログでも今まで何の気なしにコーカサスの言語についてチョチョッと述べたりしたことがあるが、ジョージア語以外に名前を出した、チェチェン語(『53.アラビア語の宝石』)、タバサラン語(『107.二つのコピュラ』『7.「本」はどこから来たか』などは別に意図したわけではないが 偶然このナフ・ダゲスタン語群だ。そういえばこの「ダゲスタン語」でちょっと思い出した。学生の時にロシア語学の演習でA. Кибрик(A. Kibrik)という人の論文を読まさせられた。テーマは指示対象の照応関係のことかなんか、つまり言語理論系の論文だったのだが、その時何の気なしにカタログでA. Кибрикの名前を検索したところこの名前でダゲスタンの言語について多くの論文が発表されていることがわかった。一方ではダゲスタンの言語、他方ではロシア語の指示対象照応とはまた研究範囲の広い人だと驚いたら実はダゲスタン言語のキブリーク氏は指示対象キブリーク氏の父親だった。ダゲスタン氏はアレクサンドル・キブリーク、指示対象氏はアンドレイ・キブリークという。もちろんダゲスタン氏も言語理論の論文は書いているが、記述系と説明系・生成系では同じ「理論」でも分野が全く違う。ついでにダゲスタン氏の父、指示対象氏の祖父は有名な芸術家だそうだ。文化人一家である。上述のロモノソフ大学のプロジェクト要員にもキブリークの名前が上がっている。

 そのナフ・ダゲスタン語群だが、上にも書いたように内部で結構言語がバラけている上、ナフ・ダゲスタンとダブルネームになっているだけあってナフ語群とダゲスタン語群の間にはさらに一線あるそうだ。アヴァール語などには古い試みもあるらしいが本格的な文字化はやはり20世紀になってからで、1928年からラテン文字による文字化が試みられた。それが1936年から38年にかけてキリル文字にとってかわられた。チェチェン語、イングーシ語、アヴァール語などその際「標準語化」もなされたという。なお、念のため補足しておくがここの「アヴァール語」というのは民族・言語的に昔ロシアにステップから攻め込んできたアヴァール人(『165.シルクロードの印欧語』参照)とは別人28号(こんなギャグを知っている方まだいますか?)である。
 音韻構成が気になるが、 ナフ・ダゲスタン語群はアブハズ・アディゲ語群と比べると母音の数が多い。アヴァール語の一方言では3つ、a、i、u で(コザソフКодзасовという学者はa、i、u、e、oの5つと言っている)、この3つはナフ・ダゲスタン語群の全ての言語にあるが、普通はこれよりずっと母音音素が多い、特にナフ語群は多くチェチェン語で33。平均すると10から15の母音音素がある。3から急に増えるのは短母音と長母音を区別したり、二重母音を持っていたりする言語があるからだ。「母音が10」でも私などには十分多いが、それに加えてアブハズ・アディゲ語群ほどではないが子音も多い。アグール語で73,チェチェン語で40から50,タバサラン語が55以上。困ったことにこれらの数字は資料や学者によって少なからぬバラツキがあり、あまりキッパリとした数値ではないのだがとにかく「子音が多い」ことだけは確かである。これは例えば閉鎖音でいわゆるfortis、lenisを音韻的に区別したり放出音があったりするせいだ。声門、咽頭音もある。流音が6つある言語もあるそうで、日本人に喧嘩を売っているとしか思えない。

アグール語2方言の音素。子音がやたらと多い。А.Е. Кибрик и С. В. Кодзасов, 1990. Сопоставительное изучение дагестанских языков  Имя.Фонетика. p.338, 339から
agur1
agur2
 アクセントについてはキブリークがダゲスタンの言語の過半数が高低アクセントを持っていると書いている。残念ながらその高低アクセントが日本語のように超分節なものか中国語のようなシラブル内のものか明確に区別されていない。そしてシラブル単位の高低アクセントを持つ言語は少数の例外を覗いてсловесное ударение(「語アクセント」)を欠くとあるのだが、これは単語ごとに決まった強弱アクセントのことだろうか。その例外の中にアヴァール語が入っているが、そこでは高低を区別するのはアクセントのある母音のみだそうだ。つまりちょうどクロアチア語のような感じなのだろう。そのアヴァール語にはアクセントの違いだけで意味(というより文法機能)が変わる例がある:rúġnal「傷、複数・絶対格」対 ruġnál「同単数・属格」。似たような例はなぜかロシア語やクロアチア語にもあった(『58.語学書は強姦魔』『90.ちょっと、そこの人!』参照)。

 さらにナフ・ダゲスタン語群は音素も多いが名詞の語形も多い。ここばかりでなくアブハズ・アディゲもカルトヴェリも日本語やトルコ語に似た膠着語タイプで、名詞の尻尾に複数マーカーや格マーカーがくっつくのが基本だが、屈折タイプの変化がないわけではない。チェチェン語で「風」の絶対格は muoχ だが、属格になると meχ-in で 、属格を示す接尾辞がついているほかに語幹の母音が交替しているのがわかる。同様にアヴァール語の「豆」holó の能格形は halí-cā という。
 このグループの言語の格の数であるが、以前にも述べたようにタバサラン語で62(別の資料では48)、もっともチョロいアグール語で28。たかがドイツ語の4格で死にそうになっている人にとっては命の危険さえありそうだが、これはドイツ語では前置詞が担っているような機能を全て格変化が受け持つからだ。日本語だって格を勘定すれば13くらいにはなる。だが一方それでも13にしかならないから諸事情を差し引いてもやっぱり40以上の格というのは割と恐怖である。特に処格、つまり位置関係を表わす格がいくつかのグループに分けられ、それぞれのグループがまた細分化するので格数が何倍にも増殖する。例えばラク語では名詞に というマーカーがつくと「対象物の裏側」という意味になるが、この「裏側」(以下太字)にさらに細かい空間表現が加わる;q̅at̅lu が基本の「家の後ろ(で)」、q̅at̅lu-un とそこにさらに格マーカー(下線)がつくと「家の後ろへ」、q̅at̅lu-unmaj と別の格マーカーがついて「家の後ろへ向かって」、q̅at̅lu- だと「家の後ろをわきを通り過ぎて」、q̅at̅lu-a(tu) で「家の後ろから(こちらへ)」。これらがいわばグループだが、同じことが別のグループでも繰り返される。別のグル―プ-w (以下太字)を見てみよう。これは「対象物の内部」を表わすグループだ。まず q̅at̅lu-w-u が基本形の「家の中(で)」。 と比べると母音 u が加わってはいるが、 の基本形と構造的に対応している。さらに q̅at̅lu-w-un 「家の中へ」、 q̅at̅lu-w-unmaj「家の中へ向かって」、q̅at̅lu-w-「家の中を通り過ぎて」、q̅at̅lu-w-a(tu)「家の中から」という風に上と全く同じ格マーカーがつく(下線)。整然とした非常に美しい構造だ。タバサラン語も同じようなメカニズムである。ここで あるいは -w-un-unmaj-uχ-a(tu) をそれぞれ別の格と見れば画数は2+4=6,もしく基本形を「ゼロ形態素が加わったもの」とみなして2+5=7だが、合体した形、例えば -χ-un を一つの格と見れば2×5=10格を区別しないといけない。この場合はゼロ形態素を必ず認める必要がある。そしてこの「グループ」は二つだけではないから足し算と掛け算の差はもっと広まるだろう。格数の報告に揺れがあるのはそんなことも原因だと思う。
 処格が膨大過ぎるからか、ナフ・ダゲスタン語群の文法記述では「格」そのものを基本格(または文法格)と処格とに分けて考えているが、その「普通の」格、基本格には、絶対格、能格、与格、属格、さらに言語によっては具格などが加わる。他にもいろいろバラバラと基本格と処格の中間的な格があるそうだがこの際すっ飛ばして、基本格だけちょっと見てみると面白い現象がある。元になる語幹が二つあることだ。上で述べた比較的性格が温厚な(?)アグール語の基本格を見てみよう。
Tabelle1-169
まず第一次的には絶対格と能格の区別が格変化の出発点になっていることがわかる。その他の格の形は皆能格を基礎にしてそこにさらに接尾辞(太字)を加えて形造られたものだ。これがどうして面白いかというと、『65.主格と対格は特別扱い』で述べたロマニ語の格パラダイムと並行しているからだ。ただしロマニ語は印欧語なので第一次の分岐が絶対格対能格でなく主格隊対格で、対格以外の斜格が対格を出発点にしている点が違っている。前に出したロマニ語の例から単数の主・対・与・属格を繰り返してみる。属格は披修飾名詞が男性単数の場合の形だけ挙げた。
Tabelle2-169
格パラダイムの二重構造が鮮明だ。もちろんダゲスタンの言語とロマニ語では系統が全く違うからこれは単なる他人の空似ではあろう。しかし偶然は偶然としても気にはなる。
 このアグール語の例はマゴメドフという人の報告だが、前述の父キブリークはアグール語の一方言がgag → gagá (能格)というパラダイムを持っていると報告している。元の形 gag が主格と呼ばれているが、これは絶対格のことなのか、それともジョージア語のように主格と絶対格が併用されているのか。さらにタバサラン語の一方言に gagá→ gagá-ji(能格)というそっくりな形があるそうで、非常に面白い。

キブリークの挙げているダルギン語の格の説明では「絶対格」でなく「主格」номинативといっている。А.Е. Кибрик и С. В. Кодзасов, 1990. Сопоставительное изучение дагестанских языков  Имя.Фонетика. p.283から
nominativ-bearbeitet

 能格については前にもいくつか言語の例をあげたが(『51.無視された大発見』参照)、さらにちょっとアヴァール語を見てみよう。

wac̄as̄  χur bekḷana
brother-Erg.Sg + field-Abs.Sg. + plow-Past
兄(弟)が畑を耕した

dic̅a wac̅  wec̅ula
I-Erg. + brother-Abs.Sg. + praise-Pres.
私が兄(弟)を褒める

「耕す」も「褒める」も他動詞だが、「兄」が前者では主語、後者では目的語である。主語が能格、目的語が接尾辞なしの絶対格形になっているのがわかる。これだと主格と対格みたいだが、自動詞と比べてみると能格性がはっきりする。

dun wuq̅̇ula
I-Abs. + sink.Pres.
私がどっかり倒れこむ。

ここでも「私」は主語だが動詞が自動詞なので他動詞「褒める」の場合とは格が違い、絶対格をとっている。他動詞の主語なら能格だ。「私」は名詞でなく代名詞なので語形変化のメカニズムがやや異なっている。また英語の break のように同じ動詞が他動詞であったり自動詞であったりすることがあるが、その場合もきれいな能格構造になる。

dic̅a ġweṭ bekana
I-Erg. +  tree-Abs.Sg. + break-Past.
私が木を折った。

ġweṭ bekana
tree-Abs.Sg. + break-Past.
木が折れた。

つまり「折る」と「折れる」の違いだが、「折れる」の主語が「折る」の目的語と同じ格をとるのだ。

 もう一つ気になるのが文法上の性の数だが、アグール語など性を区別しない言語もあるが、たいていは2つから(タバサラン語の北方方言)8つ(ナフ語群)の文法性を区別する。アヴァール語は3つ、ラク語は4つ、チェチェン語は6つとなっている。だから「性」というより名詞の「クラス」または「カテゴリー」と呼ばれる。動詞や形容詞がそれに応じて呼応するのだ。一番多いのが文法性が4つあるパターンだそうだ。男性、女性、生物と特定の物質、その他という4つのカテゴリーである。ヒナルーグ語もこのパターンだが、「男」「少年」などが「男性」、「女」「娘」などが「女性」、「鶏」「蛇」が第三の 「生物と特定の物質」なのはわかるが、なぜか「橋」もここのクラスに入っている。「その他」には「仕事」「石」「眼」という雑多な名詞が属している。
 ところでこの4つの名詞性というのは以前見たブルシャスキー語(『144.カラコルム・ハイウェイ』)もそうで、上のロマニ語との並行性は偶然としか考えられないが、ブルシャスキー語との類似性の方は完全にシカトもできないのではないだろうか。ブルシャスキー語も能格言語だし、しかも絶対核の語尾はゼロ、能格には -e がついて上述のキブリーク報告のアグール語と形がよく似ている。
 またダゲスタンの言語は一人称複数の代名詞に包括的 inclusiveと除外的 exclusive(『22.消された一人』参照)を区別する:アヴァール語でni(包括)対 niž(除外)、タバサラン語で ixu あるいは uxu(包括)対 iču あるいは uču(包括)など。

 とにかく言語的には本当に面白い地域で、いくら大詩人のレールモントフだからと言ってこれらの言語を話す人々を簡単に「アジア人め」の一言で片づけて欲しくない。

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 米国製西部劇と比べるとマカロニウエスタンにはメキシコ人が登場する割合が高いが、これはイタリアやスペインにはそのまま地でメキシコ人が演じられる、というかメキシコ人にしか見えない俳優がワンサといたからだろう。逆にアメリカ人、ということは西部劇の舞台になった当時「アメリカ人」の大部分を占めていた北方ヨーロッパ系のアメリカ人に見える人材の方はやや不足気味で、米国からの輸入(?)に頼るしかなかった。「誰でもいいからアメリカ人を連れてこい」というのが当地での合言葉だったそうだ。ウィリアム・ベルガーなども「アメリカ人に見える」という理由(だけ)でオファ―が来たとか来ないとかいう噂をきいたことがある。それでも「ヨーロッパ系アメリカ人」ならまだフランコ・ネロやテレンス・ヒルなど、少数派とはいえイタリア本国にもやれる俳優はいた。いなかったのがアフリカ系アメリカ人をやれる俳優である。今でこそドイツにもイタリアにもアフリカ系の国民が結構いるが、映画が作られた当時は自国民では絶対に賄えなかった。当時アフリカ系アメリカ人を演じた俳優はほとんどアメリカ市民である。
 一番の大物はウディ・ストロードだろう。レオーネの『ウエスタン』ではちょっと顔を出しただけなのに皆の記憶に残る存在感を示している。コリッツィの La collina degli stivaliとバルボーニのデビュー作 Ciakmull については『173.後出しコメディ』の項で述べたが、この他にも何本もマカロニウエスタンに出ていてほとんど常連の感がある。もう一人の大物はこれもコリッツィのI quattro dell'Ave Maria (1968)(『荒野の三悪党』)で曲芸師のトーマスを演じたブロック・ピータース。『アラバマ物語』で(あらぬ罪であることが明確な)婦女暴行罪の容疑者を演じていた人だ。他にも『復讐のダラス』でジェンマの友人を演じたレイ・サンダース(Rai Saunders または Rai Sanders)などがいる。さらに思い出したが、ずっと時が下ってからのマカロニ・ウエスタン、ルチオ・フルチの『荒野の処刑』I quattro dell'apocalisse (1975)(『155.不幸の黄色いサンダル』参照)にもハリー・バイアド Harry Biardが演じたアフリカ系のキャラがいた。バイアドは例外的にアメリカ人ではなく旧英領ギアナ(現ガイアナ)生まれの英国俳優である。調べて行けばもちろんもっといるが、すぐに思いつく顔といえばこういった名前であろう。

 これらは男性だが、アフリカ系女性陣も負けてはいない。真っ先に思い浮かぶのは何といってもジャンル最高峰の一つである『殺しが静かにやって来る』のポーリーン。夫の敵をトランティニャン演じる殺し屋サイレンスに依頼する寡婦だ。その殺し屋を愛するようになり、あくまでも目的の仇(サイコパスのクラウス・キンスキー)と対決しようとする彼に「もういいから放っておいて。命を粗末にしないで」的なことまで言い出すが、結局二人ともサイコなキンスキーに殺されるという、モリコーネのゾッとするような美しいスコアといい、凍るような雪景色といい、見たら最後、鬱病になりそうな陰気な映画だ。そのポーリーンを演じたヴォネッタ・マッギーはこれがデビュー作だそうで、タイトル部でそう謳ってある。マッギーはその後『アイガー・サンクション』でイーストウッドと共演したりしている。

ヴォネッタ・マッギーはこれ映画初出演。イントロにも書いてある。
McGee6
McGeeTitel2
夫の敵討ちを殺し屋サイレンスに依頼
McGee5
サイレンスとポーリーンの関係を知らず、無邪気に間に割り込むフランク・ヴォルフ。
Wolff1
 もう一人思い出すアフリカ系女性は上述の『復讐のダラス』でレイ・サンダースがやったジェンマの親友の妹である。役の名前をアニー・ゴダールと言ったが、その兄、サンダースの役はジャック・ドノヴァンで、苗字が違うのはなぜだろう。既婚と言う設定だったのかもしれないが、夫の話は全く出てこない。アニーを演じたのはノーマ・ジョーダン Norma Jordan というアメリカ生まれの歌手兼女優だが、その後もすっとイタリア生活のようだ。『復讐のダラス』はまず兄のジャックが悪徳保安官に拷問される場面で始まり、そこへやって来た妹のアニーも保安官は乱暴に外に放り出す。それを見かねたアントニオ・カサスが助け起こし、保安官に「善良な市民に何という扱いをするんだ」と抗議するが、これがその後の展開の暗示。このカサス(ジェンマの父)も兄のサンダースも保安官一味に殺される。兄は大統領殺害の犯人に仕立て上げられるのだが、正規の裁判には連邦政府から来た役人が目を光らせているためでっち上げがバレる惧れがあるというのでその前に始末されるのである。そういえば映画ではジョーダンが酒場で歌とダンスをご披露する場面もあるが、むしろこちらの歌の方が本職だ。
 なお1971年にアフリカ系アメリカ人の女優とそのイタリア人の恋人が殺される事件があり、ジョーダンも証人として召喚された。被害者の女優がジョーダンの元ルームメイトだったからだ。殺された女優はティファニー・ホイヴェルドTiffany Hoyveld で、なんと上述のコリッツィの『荒野の三悪党』で、ブロック・ピータースの妻を演じていた人である。

『復讐のダラス』の冒頭、道端に放り出されるノーマ・ジョーダン。左からアントニオ・カサスが手を差しのべて助け起こす。
Annie2
映画終盤。兄が殺されたと知ってショックを受ける。
Annie4
 ノーマ・ジョーダンも歌が本職だったが、もう一人、女優業に駆り出された歌手がローラ・ファラナ。ヴォネッタ・マッギーもノーマ・ジョーダンも脇役だったが、ファラナはなんと Lola Colt (1967)というマカロニウエスタンで堂々と単独主役を務めている。大したものだ。さすがのウディ・ストロードでさえ単独主役という偉業は達していない。
 Lola Colt のドイツ語タイトルは Lola Colt… sie spuckt dem Teufel ins Gesicht(ローラ・コルト、悪魔の顔に唾を吐く)。「悪魔」というのは敵役の悪漢のあだ名が El Diablo、つまり「悪魔」だからである。この作品はアフリカ系の女性を主役にしたレアなマカロニウエスタンだが、映画そのものは言っては悪いが完璧なまでのBムービー、黒人女性が主役という希少価値がなかったらとっくに忘却の淵に沈んでいたはずだ。もともとの長さは83分のはずだが、私が見たのはその短いのをさらに短縮した77分版。普通は短縮されると作品が損なわれるものだが、この映画にかぎっては何の損害も受けていない、むしろ少しくらいカットしてくれた方が助かったという気がするくらいBである。また普通は映画のストーリーを紹介する場合あまり露骨にネタバレしないように気を付けるものだが、この映画にはそんな気遣いは無用。バレて困るようなネタがないからである。まあとにかくB級映画だ。

 西部のさる町に旅回りの芸人団がやってくる。団員の一人が病気になり、医者にかからせないといけなくなったからだ。この一座の看板娘がローラである。町の人たち、特に気取ったさぁます奥様達は「芸人風情」にいい顔をせず、医者のいる何マイルも先の町へ行けと追い払おうとするが、一人の子供が「昔医学生だった人ならいるよ」と正直にリークしたため、一行は滞在することになる。医学生のほうも一生懸命病人の治療をする。
 病人の看病をしながら留まるうち、ローラはこの町がエル・ディアブロというあだ名の悪漢牧場主に牛耳られていることを知る。「どうして皆で対抗しないのか」との問いには「無理だ。我慢するしかない」という答えが返ってくるのみ。
 その医学生には婚約者がいたがローラの方に靡き、ローラもまた彼を愛するようになる。あまりにも安直かつ予想通りの展開だ。
 そのうち上述の親切な子供がエル・ディアブロの一味に撃ち殺される。ここに至ってローラは町の男どもを前に「あんたがたが弱虫なおかげでこの子は死んだのだ。エル・ディアブロを倒そう」とハッパをかける。住人は奮い立ち、ローラを先頭にエル・ディアブロの屋敷を襲撃し、そこに閉じ込められていた人質を解放する。民衆を率いるローラはまるでジャンヌ・ダルクかドラクロアの自由の女神だが、実際にエル・ディアブロと決闘して殺すのはローラでなく医学生。
 かくて町には平和が戻り、ローラ一行は住民の歓呼を浴びながら去っていく。最初ローラたちを白い目で見たざぁます奥様達も「私たちが間違っていました」と謝罪する。婚約を破棄した医学生はローラを追って一行に合流する。「見知らぬ主人公がどこからともなく町を訪れ、紛争を解決してまたフラリと去っていく」というマカロニウエスタンの定式を一応は踏襲しているが、最後がいくらなんでもメデタシメデタシすぎやしないか。

町に旅芸人が到着。その看板娘ローラ。
LolaColt1
男たちを引きつれて敵の屋敷を襲撃する褐色のジャンヌ・ダルク。
LolaColt3
LolaColt5
病人を診察に来た医学生とローラ。
Lola-und-Student2
 Lola Colt のファラナも『復讐のダラスの』ジョーダンもむしろ歌が本業だったため、映画でもそういうキャラ設定で、酒場で歌を披露する場面がある。それに対してマッギーは専業女優でしかも『殺しが静かにやってくる』がデビュー作だったから歌や踊りとは関係のない堅気(といっては失礼だが)の寡婦。しかしストーリーというかキャラ的にはファラナのローラはむしろこちらの方と共通点が多い。Lola Colt では医学生とは敵対していたエル・ディアブロがローラは見染めて言い寄るが、これは『殺しが静かにやってくる』のポーリーンも同様で、キンスキーとツルんでいる町の有力者ポリカット(演じるのはルイジ・ピスティリ)は前々からポーリーンに気があり、弱みにつけこんで意のままにしようとする。ローラはやんわりと、ポーリーンは手酷くという違いはあるが、どちらもこれを拒否する展開は同じだ。もっとも「金と権力をチラつかせて言い寄る嫌みな男に肘鉄を食らわせて貧しく権力もない若者に靡く女性」というのは古今東西頻繁に繰り返されてきたモチーフだから、これを持ってLola Colt と『殺しが静かにやってくる』との共通点、と言い切ることはできまい。だがもう一つオーバーラップする点がある。白人男性と恋仲になるという点だ。これがアフリカ系男性陣とは違う展開で、私の知る限りアフリカ系のキャラクターが白人の女性の恋人になる展開のマカロニウエスタンは見たことがない。俳優としての格は男性陣の方が上なのにである。上述のように男性陣はストロード始め、すでに本国で名をなしていたスターが多い。それに対して女性の方はイタリアに来てからそこでキャリアを開始した人ばかりである。それなのにというかそれだからというか、アフリカ系男性が白人の女性をモノにする(品のない言葉ですみません)展開は皆無なのである。どうもここら辺に隠れた性差(別)あるいは人種差(別)を感じるのだが…

 それにしても『殺しが静かにやってくる』の、主役女性にアフリカ系を持ってくるというアイデアは何処から来たのか。コルブッチはそのためにわざわざ新人女優をデビューさせてさえいるのだ。まさかとは思うが、Lola Colt からヒントを得たとか。映画の出来自体は比べようがないほどの差があるが、製作は Lola Colt のほうが1年早いのである。前にもちょっと出した「棺桶から機関銃」もそうだが、コルブッチの意表を突くアイデアの出所についてはまだいろいろ検討の余地がありそうだ。

 
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前回の続きです。

 ロシア語では不完了体の中立動詞から接頭辞の付加によって様々な完了体アクチオンスアルト動詞が派生され、そのうちのいくつか、たいていは一つだけが元の動詞のアスペクトペアになる。ではそこでペア選考に落ちた他の完了体動詞はどうなるのか。全員不完了体のペアもなく孤独な人生を送るのかというとそうではない。今度は逆に完了体の動詞を起点にして不完了体動詞のペアを作ることができるからだ。これを「二次的不完了体動詞形成」sekund're Inperfektivierung というが、それには反復態形成の形態素 -ива-、-ыва- あるいは -ва- を使う。不完了体の動詞から反復態が作られるのは「アクチオンスアルト形成」だが、完了体のアクチオンスアルト動詞からこれらの形態素が派生するのは反復態ではなく「不完了体アスペクト」ということになる。つまり -ива-、-ыва-、-ва- には反復態形成と不完了体形成という二つの違った働きがあって、どちらの機能かは派生元の動詞で決まるわけだ。文章で説明するとややこしいので先に挙げた петь(「歌う」)とписать(「書く」)の例を表にしてみよう。
Tabelle1-195
アスペクトペアを同じ色に塗ってみた。петьпропетьспетьзапеватьзапетьпопеватьпопеть はそれぞれ前者が不完了体、後者が完了体のアスペクトペアである。次にこれも前述の писатьを見てみよう。
Tabelle2-195
上の петь(「歌う」)と違ってズバリな反復態、писывать という形が存在しない。これは限定態пописать の不完了体ペア пописывать が二重機能をに担っていて писать の反復態はこちらの形で表すからだ。もう一つ、прописать が本当に孤独な人生を送らされている。прописывать という形自体は存在するのだが、これは持続限界態動詞のペアとはならない。というのは прописывать には二つの意味があるからだ。一つがここで述べている持続限界態というアクチオンスアルト動詞で、表す事象そのものは писать と変わらない。もう一つは接頭辞によって動詞の意味自体が変わり「処方箋を出す」「居住証明を発行する」という別の完了体動詞になる。これはもうアクチオンスアルト表現ではなくて語の派生だ。不完了体 прописывать はこの派生動詞のペアであって、アクチオンアルト動詞のほうとはくっつかないからこちらは独身のままとなる。常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 。もう一つの例が прочитать(「読む」)という完了体動詞である。この動詞も多義で、一つは читать (「読む」)という不完了体動詞の真正結果態で、これはめでたく читать のアスペクトペアに選ばれている。もう一つは持続限界態で、このほうの прочитать からは 上の独身 прописать と違って二次的不完了体動詞形成ができ、прочитывать  という不完了体ペアが作られる。つまりここは читать → прочитать → прочитывать というホップ・ステップ・ジャンプ的な一つの3段階過程ではなく、 читать → прочитать、 прочитать → прочитывать というそれぞれ別個の2つの過程と解釈しなければいけない。この прочитать(「読む」)の二つの機能の方は少なくとも両方アクチオンスアルトだが(真正結果態と持続限界態)、 прописать ではアクチオンスアルトなのは一方だけだ(持続限界態)。不思議なのは прописать (「書く」)も прочитать(「読む」)も双方持続限界態なのに「読む」だけが二次的不完了体動詞形成を許すことだが、これはもしかすると「処方する」のほうの прописать が頻度的に持続限界態に比べて圧倒的に優性で、後者が隅に追いやられてしまった、つまり使われなくなってしまったからかもしれない。それで辞書には「持続限界態の不完了体ペア」は確かに載っていないが、прописывать を敢えて持続限界態の意味で例えば歴史的現在で使ったらロシア人はきちんとアクチオンスアルトとして理解するのかもしれない。つまり理論的には存在するのかもしれないと思ったので、上で「常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 」といい加減な書き方をさせてもらった(するな)。
 実はその二次的不完了体動詞形成にはまだ先がある。例えば крыть(「覆う」)という不完了体の動詞からоткрыть(「開ける」)という完了体動詞が派生される。意味を見ればわかるようにこれは別動詞の派生だ。当然(?)ここから二次的不完了体動詞形成によって不完了体のペア、открывать(「開ける」)が作られる。ここからさらに分配態  пооткрывать(「次々に(全部)開ける」)が形成される -ыва- が入っているので不完了体のように見えるが完了体である。さすがにここからさらにしつこく  пооткрывавать などという不完了体形成は不可能で、この分配態氏は独身のままとなる。
 この二次的不完了体形成によって作られたペアは接頭辞ペアと違って純粋なアスペクトペアとされる。しかしロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には接頭辞によるもの(上で述べたようにこのペアにはアクチオンスアルトと言う不純物が混じっている)、二次的不完了体形成によるもの(純粋なペア)の他にもう一つ、全く違った動詞がペアを組む場合がある。говорить - сказать(「話す」)、брать - взять(「取る、掴む」)(それぞれ前者が不完了体)がその代表例だがこれらは純粋ペアなのだろう。イサチェンコが特に言及していないのはそんなこと当たり前だからかもしれない。

 このように一見ややこしくはあるのだがロシア語では少なくともアクチオンスアルトとアスペクトの区別は極めてクリアなのがわかる。イサチェンコは完了体・不完了体、アクチオンスアルト、二次的不完了体動詞形成の全体像を次のような図にまとめている。поиграть とあるのは покрыть の誤植だろう(赤線)。

Isačenko, A.V. 1995. Die russische sprache der Gegenwart.München, p.418から
isacenko
点線で囲った領域がアクチオンスアルト形成、実線がアスペクト(ペア)形成の領域だ。細い矢印は別単語の形成、太い矢印がアスペクトペア形成(二次的不完了体動詞形成)、矢印なしの細線がアクチオンスアルト形成過程である。

 さてここで一点注意を要するのが、ロシア語では英語やドイツ語、日本語のような「表現しようと思えばできる」というのでなく、アスペクトが強制的な文法カテゴリーであることだ。だからロシア語でいうアスペクトの意味とはアスペクトという文法カテゴリーの意味ということ。カテゴリーを持たない言語でアスペクトやアクチオンスアルトの観念を把握定義する場合、二つの区別があいまいになるのは仕方がない。考えようによればアスペクトの意味、「事象を外から見るか、内部方見るかの違い」も一つのアクチオンスアルトと言えないこともないからだ。それでもこの二つの違いに敏感でない言語ではやはりアクチオンスアルトの観念が語彙形成の領域にまで拡大適用されることがある。上で見たように同じ接頭辞でも動詞そのものの意味に食い込む場合と意味内容にはふれない場合があり、少なくともロシア語学でのアクチオンスアルトはあくまで後者のことなのだがこの二つの区別がゴッチャになるのだ。言い換えると動詞の表す事象そのものの中にすでにアクチオンスアルトを見ることになる。前項の最初に出したような「語彙的アスペクト」というアクチオンスアルトの別名(繰り返すが私はこういう言い方を最近まで知らなかった)があるのもうなずける。これも前記事の筆頭に挙げた言語学事典に挙げてある例を見てみるとはっきりする。例えば entbrennen(「燃え上る」)を起動態としてあるのはロシア語と平衡している。brennen(「燃える」)というシンプレックスがあるし、接頭辞によってアクチオンスアルトが付加されているからだ。しかし同時に füllen(「満たす」)、arbeiten(「働く」)という単純形の動詞がそれぞれ faktiv、durativ というアクチオンスアルトとされている。ロシア語学にこの発想はあるまい。さらに「ドイツ語には確かに動詞を二つのカテゴリー、不完了体-完了体、あるいは継続/反復-終了/完成のきっちり区分けする仕組みはないが、haben や sein のと動詞の分詞との組み合わせによって表せる」とあり、アスペクトとアクチオンスアルトが区別されていないことが明かだ。さらにその際 stehen(「立つ」)が前者、そこから派生した動詞の entstehen(「起る、発生する」)が後者とされているが、entstehen は語の意味自体が変わっているのでアクチオンスアルトとは言えない。語彙、アスペクト、アクチオンスアルトの区別があいまいになっていて、これではイサチェンコに怒鳴りつけられそうだ。
 寺村秀夫氏もこの3つの区別があいまいになっていたことがある。『日本語のシンタクスと意味』の中で佐藤純一氏を引用して「接頭辞や接尾辞により派生的にアスペクト的意味を表す場合」の例として英語の recall、ドイツ語の erfinden(「発明する」)、日本語のブッ倒すを挙げていたのだ。英語、ドイツ語はアスペクトでもアクチオンスアルトでもなく、それぞれ call や finden(「見つける」)とは意味の異なる別動詞の派生である。日本語のブッ倒すについては下でまた述べるが、アスペクトではなく「倒す」からのアクチオンスアルト形成だ。引用元の佐藤純一氏の論文を読んでいないので、ロシア語学者である佐藤氏が元の論文ではもっと詳細にアスペクトの観念を定義し、件の例はあくまで注意書きつきで出したのを寺村氏が端折ったか(こちらの可能性が高いと思う。なぜなら佐藤氏は「アスペクト意味」という微妙な言葉を使い、ずばりアスペクトとは言っていないからである)、それとも佐藤氏が本当に、語形成、アスペクト、テンス、アクチオンスアルトを明確に区別していなかったのかわからないが、とにかくこの場では混同されている。
 その「ブッ倒す」だが、この種の派生は特に日常会話的表現で多くみられる。佐藤氏・寺村氏は「ヒッパタク」という例も挙げていたが、ちょっと思いついただけで次のようなものがある。

「飛ばす」→「ぶっ飛ばす」「すっ飛ばす」「かっ飛ばす」
「殴る」→「ぶん殴る」
「回す」→「ぶん回す」
「キレる」→「ブチ切れる」
「飛ぶ」→「ぶっ飛ぶ」「すっ飛ぶ」

これらのアクチオンスアルトを名付けるとしたら intensive A.、「強化態」だろう。「強調態」と言ったほうがいいかもしれないが、当該事象の程度あるいは事象に対する話者の心理的圧迫度が強まっている。これは小さなことだが「ぶっ飛ばす」/「すっ飛ばす」対「かっ飛ばす」の間には目的語の意味の違いがあるようだ。前者は飛ばされる対象物、例えば野球のボールなどが目的語に来るが、後者は何者かを飛ばす行為によって得られた結果が目的語となる。私の感覚では「ホームランをかっ飛ばす」「走者一掃のヒットをかっ飛ばす」とはいえるが「球をかっ飛ばす」というと少しおかしい。逆に「ボールをぶっ飛ばす」「手が滑ってバットをすっ飛ばした」とはいえるがホームランはすっ飛ばせない。そういう小さな違いはあるがまあアクチオンスアルトはいっしょに「強調態」でいいのではないだろうか。
 起動態は日本語では動詞の連用形に助動詞の「~だす」や「~始める」とつけて表現する。「読みだす」「読みはじめる」または「話しだす」「話しはじめる」などだ。この起動態はロシア語でもドイツ語でも比較的クリアに定義できるようだ。いわゆる瞬間動詞からも起動態は作れる。例えば「死に出す」「死に始める」は多くの個体が次々に死んでいき始めたという意味で可能だ。
 起動と違って終了するほうはいろいろニュアンスの違いがあって亜種がいくつもある。ロシア語でも終了を表す結果態には様々な亜種があることは前項で見たとおりだ。日本語では連用形に「~おわる」をつけた形、「読み終わる」や「食べ終わる」は終了態(terminative A.)だろうが、「終了」という基本の意味は変わらなくても「読みとおす」「話しとおす」などは持続限界態(perdurative A.)ということになろう。「読みきる」「食べきる」に対しては前項に出さなかったがイサチェンコが総体態(totale A.)というアクチオンスアルトを掲げている。事象または行為が 対象を全て網羅したので結果としてそこで事象が終了するものだ。
 さらに連用形+「~すぎる」は超過態とでも言ったらいいのだろうか。これはロシア語では слишком(too much)などの副詞で表すしかないが、日本語では動詞そのもののアクチオンスアルトとして表現できる。もっと面白いのが連用形+「~てみる」だろう。

「ちょっとその映画を見てみたが面白くなかった」
「この本、クソ面白いから読んでみて」
「あそこには一度行ってみたことがあるけど何もなくてつまんなかった」

これらの形は「ちょっと」という副詞と相性がいいので私は最初アクチオンスアルトは限定態(delimitative A.)か減少態(attenuative A.)かと思い、早とちって人にもそう説明してしまった。現象態というのはやはり前項には出さなかったがイサチェンコの提唱で、限定態が時間的に限られているのに対して当該事象や行為の程度そのものが弱まる、ロシア語では限定態と同じく по- という接頭辞をつけて表すことが多い。しかしよく考えるとこの日本語形は単に程度が弱まり時間的に限られるのではない、その行為・事象の対象あるいは結果に対する話者が判断というニュアンスが入る。だから限定態・減少態とは別のアクチオンスアルトを特にこれ用にデッチあげたほうがいいような気がする。「判断態」あるいは「保留態」とでもいおうか。
 このように日本語は助動詞によるアクチオンスアルト形成が結構体系的だ。接頭辞の場合のように一つの形態素がいろいろなアクチオンスアルトを代表すると同時に同じアクチオンスアルトが複数の接頭辞で表されるとかいうことがない、言い換えるとアクチオンスアルト対表現手段の対応が多対対でなくほぼ一対一対応をなしている。接頭辞のほうも形と機能がそれほどバラけているわけではない。これらを体系的にまとめてみると面白い研究になると思う。それともすでに誰かがやっているのだろうか?日本語はアスペクトとアクチオンスアルトの違いがあいまいなのが残念だがアクチオンスアルトそのものの表現法はロシア語よりむしろ整然としているのではないだろうか。
 面白いところではコーカサスのナフ・ダゲスタン語群の一つレズギ語に -ar-un という接尾辞を動詞につけて反復態を形成する例があるそうだ。qun(「飲む」)、raχun(「話す」)からそれぞれ qun-ar-un(「何回も飲む、たくさん飲む」)、 raχun-ar-un(「何回も話す、たくさん話す」)という動詞ができる。反復態と強化態を兼ねたようなアクチオンスアルトか。他のアクチオンスアルトの例もあるが、日本語やロシア語のような体系的な動詞パラダイムにはなっていないらしい。でも言語ユニバーサルに面白い研究課題ではあると思う。

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 ロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には完了体動詞のほうに純粋なアスペクトの意味だけでなく、動作様態の意味合いが加わることがある。動作様態はアクチオンスアルトとドイツ語からの借用語がそのまま使われることがあるが、語彙的アスペクト Lexical aspect とも呼ばれていることを(やっと)先日知った。手元の言語学事典には英語で manner of action だと出ている。ロシア語ではアクチオンスアルトとアスペクトは明確に区別するが、他の言語ではどうもこの二つの観念がごっちゃにされやすいようだ。ロシア語ではそれぞれспособ дейсгвия、вид глагола である。
 ではそのアクチオンスアルトとは何なのかというと、これも人によって定義がバラバラで困るのだが、まあ(なんだよその「まあ」というのは?)わかりやすく言うと当該事象をどういうものとして動詞化するか、そのやり方をいくつかのグループにカテゴリー化したものだ。全然わかりやすくないが、例えばドイツ語の entflammen(「燃え上がる」)、einschlafen(「寝入る」)、losrennen(「走り出す」)という動詞を見てほしい。これらはそれぞれ flammen(「燃える」)、schlafen(「眠る」)、rennen(「走る」)という事象が開始されたことを表している。この「開始」という意味的部分がアクチオンスアルトである。接頭辞がつかない動詞でもアクチオンスアルトを表すことがある。例えば sterben(「死ぬ」)は「瞬間的」というアクチオンスアルトだ。
 他にどのようなアクチオンスアルトがあるかというと、これもまた学者によって違いがあり、例えばロシア語学ではイサチェンコという学者もロシア語アカデミー文法でも20以上のアクチオンスアルトを区別し、それらのアクチオンスアルトがさらにいくつかのグループに分類されたり逆にグループにまとめられたりしている。命名の仕方にもグループ分けにも両者には細かな差があって律儀に全部検討していくとキリがないので、まあ代表的なものだけ見てみよう。

 まず上で述べた起動態(ingressive または inchoative Aktionsart 、ロシア語では начинательный способ дейсгвия)には次のような例があるが、1.異なった接頭辞が起動相を形成できること、2.起動相を帯びた動詞は完了体動詞、帯びない動詞のほうは不完了体であることに注目。
Tabelle1-194

 次に限定態(delimitative A.、ограничительный с.д.)。当該事象が限られた範囲内で遂行される、あるいは起こることを表す。「ちょっとだけよ」のイメージだ。
Tabelle2-194
限定態の「ちょっと」は時間的な「ちょっと」だが、事象や行為そのものが弱まる、つまり「ちょっと」になるのが弱化態(attenuative A.、смягчительный с. д.)である。イサチェンコはもとの動詞がすでに完了体である場合のみ弱化態と呼んでいるが、アカデミー文法ではイサチェンコが限定態に分類している動詞をこちらの弱化態に入れている。当然派生元は不完了体動詞だ(表の下部分)。学者によって揺れがあるいい例である。
Tabelle3-194

 続いて終了態(terminative A.、терминативный с. д.)は、事象の終了を表す。
Tabelle4-194

 持続限界態(perdurative A.、длительно-ограничительный с. д.)。特定の長さの時間持続した事象の終了を示す。そろそろアクチオンスアルトつきの動詞の意味が微妙すぎて翻訳がキツくなって来た。
Tabelle5-194

 有限態(finitive A.、финитивный または окончательный с.  д.)。行為が最後まで遂行されて打ち切られる。
Tabelle6-194
終了、持続限界、有限態など(「など」と書いたのは上述のように本来さらに数多くのアクチオンスアルトがあるからだ)がイサチェンコでは結果態(resultative A.)というアクチオンスアルトの亜種としてまとめられている。確かにこれらは皆事象あるいは行動が終わるという意味だからだ。違うのは終わり方、あるいは当該事象が終わるまでどんな経過をとったかという点だ。イサチェンコはそこで「真正結果態」として次のような例を挙げている。さすがに意味の差が微妙過ぎて双方の動詞を同じ訳にするしかないが、ということは両動詞の意味差がアスペクトの差に近いということである(下記参照)。
Tabelle7-194

 分配態(distributive A.、распределительный または дистрибутивный с. д.)。一つ一つの行為または事象が積み重なって最終的に特定量に達することを示す。またこの分配態はすでに接頭辞のついている動詞から形成される、つまり接頭辞がダブルになることがある(下の表の最後の例)。
Tabelle8-194
このアクチオンスアルトの動詞はセンテンス内で最終量(下線)が明示されるのが普通だ。動詞を並べただけではわかりにくいので使用例を挙げる。

Он позапирал все двери.
he + shut + all + doors
彼は次々の全てのドアを閉めた。

Она перебила всю посуду.
she + broke + all + crocketies
彼女は全ての食器を次々に割った。

Все сыновья переженились
all + sons + married
息子は皆次々に結婚した。


 さて、今まで見てきたのは接頭辞によるアクチオンスアルト形成だが、動詞のど真ん中に形態素をぶち込んで表すアクチオンスアルトもある。まず単発態(semelfaktive A.、одноактный с. д.)だが、事象や行為が一回だけスポンと起ることを示している。単発態の動詞は極めて例が多く、「瞬間動詞」Momentanverb と呼ばれることがあるがこの名称はちょっと誤解を招きやすい。例えば「死ぬ」は瞬間的に一回起る事象なのだから瞬間動詞かと思いそうになるが、ロシア語で言う瞬間動詞とはあくまで「単発態が特定の形態素によって明確にマークされている動詞」のことであって、意味を同じくする単発態を帯びない動詞、ニュートラルな動詞が同時に存在している。そしてここでもニュートラルな動詞は不完了体、単発態は完了体だ。
Tabelle9-194
最後の例では接頭辞使われている。
 残る大物アクチオンスアルトは反復態(iterative A.、многократный  с. д.)だ。このアクチオンスアルトも上の結果態のようにいくつかのサブカテゴリーに分類されることがある。比較的純粋な反復態動詞には次のような例があげられるが、ニュートラルなほうの動詞も反復態のほうも共に不完了体であることが特徴だ。
Tabelle10-194
反復態にはいろいろ亜種があるが、二つばかりみてみよう。まず弱化反復態(deminutiv-iterative A.、прерывисто-смягчительный с. д.)は事象または行為の反復が不規則で、その結果行為の程度そのものも弱まる。反復態と上述の弱化態が統合された感じで、形の点でも接頭辞とぶち込み形態素が両方同時に付加される。
Tabelle11-194

付随態(komitative A.、сопроводительный с. д.)。当該事象あるいは行為が他の行為や事象に付随して起ることを示す。
tabelle12-194
この付随態も上に分配態のように動詞だけではイメージが掴みにくい。例えば「その際話す」は次のような使用例がある。

Старик вил его и приговоривал.
old man +  hit + him + „and spoke“
老人は彼を殴りながら話をした


 最初に警告(?)した通り、これでアクチオンスアルトを全て網羅したわけではない。まだいろいろ種類があるが、すでにゲップが出そうなのでここら辺で羅列は止める。とにかくこういう微妙なニュアンスの差を一つの単語(動詞)で表せるロシア語動詞体系に驚く。しかし本題は実はこれからなのだ。アクチオンスアルトとアスペクトの関係という、学習者は絶対避けて通れないロシア語という言語の核心ポイントである。私がこのアスペクトをロシア語文法最大のセールスポイントを見なしていることは『107.二つのコピュラ』で書いたとおりだ。
 まず注意すべきは中立動詞が不完了体、そこから派生されたアクチオンスアルト動詞が完了体であるからといってこの二つをアスペクトのペアと混同してはいけないという点だ。種々の接頭辞を付加することによって一つの中立動詞から複数のアクチオンスアルト動詞が派生できるからだ。もっとも一つの動詞から上記で述べたアクチオンスアルトが全てもれなく派生できるわけではない。動詞が表している事象の性質上、理論的に付加できないアクチオンスアルトだってある。まず петь(「歌う」)という動詞の場合を見てみよう。

петь(不完了体)
запеть(完了体、起動態)
попеть(完了体、限定態)
пропеть(完了体、終了態)
спеть(完了体、単発態)
певать(不完了体、反復態)

反復態は不完了体だから当然ペアにはなれないのでひとまず置いておくが、接頭辞によって異なったアクチオンスアルト動詞が派生されるのがわかる。このうちの限られたアクチオンスアルトだけが(たいていは一つだけ。下記参照)『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べたアスペクトペア抽出作業によって петь のペアと見なされるのである。その完了体ペアを黄色で囲っておいたが、петь のペアは二人(二つ)、пропеть と спеть がある。配偶者が複数いる(ある)のは文の成分などの環境の違いによって二つのアクチオンスアルトが抽出テストを通るからだ。しかしこれはむしろ例外で配偶者は1人だけのことが多い。
 もう一つ писать(「書く」)という動詞の例。

писать(不完了体)
написать(完了体、真正結果態)
прописать(完了体、持続限界態)
дописать(完了体、完成態)
исписать(完了体、集積態)
пописать(完了体、限定態)

完成態と集積態というのは上では挙げなかったが、結果態の亜種である。ここでは配偶者は真正結果態一人だ。
 接頭辞によるアスペクトペア形成は非常にありふれたパターンで学習者は писать-написать(「書く」)、читать-прочитать(「読む」)、идти-поидти(「行く」)、делать-сделать(「する」)などのペアをお経のように丸暗記させられるが、厳密にいえばこれらは純粋なアスペクトのペアではないということになる。完了体動詞のほうが必ず何かしらのアクチオンスアルトを帯びていて、両者の意味差がアスペクトだけではない、言い換えるとアクチオンスアルトという「不純物」が混じっているからだ。純粋なアスペクトの違いとは話者の視点が当該事象の中にあるか外にあるかというだけの違いで(『178.日本語のアスペクト表現 その2』参照)、それ以上の意味が加わってはいけない。ここで参照したイサチェンコもアカデミー文法でも接頭辞によるアスペクトペアは本物のペアではないと明言している。そういえば同じスラブ語でも言語が違うと別の接頭辞を持った完了体動詞がペアになることがある、つまり結構揺れが大きいのもその「不純物」のせいだろう。


この項続きます


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