アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者という解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。

 まだある。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

10.ドイツの国

はいいが

11.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

12、筑波の大学

とは言えず、

13.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 面白いことに英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞を使って同格構造が形成できる。

14.Federal Republic of Germany
15.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成していると名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば

16.裁判官おばさん
17.おばさん裁判官

だが、17は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、16は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

18.Muttertier
            mother + animal
19.Tiermutter
            animalmother

18は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが19は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

20.山田さんの知り合いの任天堂の社員
21.任天堂の社員の山田さんの知り合い

20は事実上「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、21では山田さんが任天堂の社員であるという解釈もなりたってしまう。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。あくまでおぼろげな記憶である。

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 日本で比較的よく知られている少数言語のひとつにネズ・パース語というのがある。米国アイダホ州で主に話されている先住民の言語で、同州北部のKamiah、 Lapwaiにある保留地と西ワシントン州の Colville 保留地にもその上流方言を話す人がおり、オレゴン州の Umatilla 保留地に下流方言の話者がいる。話者がいるといっても1980年代の調査時点で500人と言っていたからその時点では『108.マッチポンプの悲劇』で述べたアンダマン語といい勝負だったが、先日ユネスコの発表した危機に瀕した言語のリストを見たらすでに話者20人とあった。米国政府も危機に瀕した先住民の言語を復活させようとプログラムを組んだりしているらしいが予断を許さない状態だ。アンダマン語の方は2007年の時点で話者5人だった。今はもう消滅しているかもしれない。

ネズ・パース語が話されている地域。ウィキペディアから
800px-Nezperce01

 このネズ・パースという名前はフランス語のnez percé (ネ・ペルセ)から来ていて「ピアスした鼻」という意味である。フランス系のカナダ人が名前をつけたからだ。そのもとになったのは19世紀初頭にこの地にやってきてこの部族を発見(ちなみにこちらの人の感覚では日本人もポルトガル人によって「発見」されたのである)したヨーロッパ人の観察で、この人たちは鼻中隔に穴をあけて貝のピアスをしていたという。しかしすでにほぼ同時期に「この人たちは別に鼻にピアスなどしていない」という報告もあり、ネズ・パースにはそんな習慣などそもそもなく、鼻ピアスについては近隣の部族と混同されたのではないかという疑いが濃厚だそうだ。また最初は素直に英語の Pierced Noses という名称も使われていたそうで、これがフランス語になりさらにそのフランス語を英語読みにして命名したところに、英語話者が大陸の文化語フランス語に対して抱いている微妙な劣等感を感じ取ってしまうのは私だけだろうか。とにかく命名のプロセスからしてすでに面白い話題を提供している。いずれにせよこの名は後から来たヨーロッパ人が勝手につけた名前で、本人たちは自分のことを nimi:pu: と呼んでいる。 pu: が人々または人間という意味で、nimi: という形態素のほうは常に pu: とコンビでしか使われないそうだ。いくつかバリエーションがあって numipu、nimapuなどの形も報告されている。もともと"the walking people" あるいは "we, the people" という意味とのことだ。そういわれてみるとイヌイットやアイヌもそうだが、民族の自称に「人々」「人間」という意味が入っているケースが目立つ。

 さて、冒頭にこの言語が日本で比較的よく知られていると書いたのは、この言語の研究の第一人者が日本人だからである。青木晴夫教授と言い、昔私が学生のころよく日本の言語学者の話題になっていた(このブログは最近完全に「昔話ブログ」と化していて面目ない)。教授は1972年にネズ・パース語研究の過程を報告した『滅びゆくことばを追って』という本を三省堂から出しているが、言語学者たちがこぞって褒めていたにも関わらず当時絶版になっていて非常に手に入りにくかった。私がたびたびここでもボヤいているように(『138.悲しきパンダ』『51.無視された大発見』参照)、言語学というのは非常にマイナーな分野でどんな名著でも一歩外の世間に出ると無視される運命にあるらしい。私もこの本を持っていないし読んでいない。最近検索してみたら1990年代に岩波書店から復刊されているし、初版も買おうと思えばアマゾンで買える。が、こちらからわざわざ注文するのがおっくうだったのと、英語版の自伝が(タダで)見られるのでそちらをみることにした。セコい。
 青木氏は1930年に当時日本領だった韓国のクンサン(群山)生まれということで自伝には日本占領当時の韓国・朝鮮の様子や戦争直後の日本の状態など描写してあって興味深い。雑誌のインタビューなどでもそのころの話をしているが、教授が子供時代を過ごした群山の住民構成は半分が朝鮮・韓国人(もちろん当時は朝鮮と韓国の区別がなかったが)が半分、残りの半分は大部分を中国人と日本人で占めていたが、ロシア人もいたそうだ。皆混じってゴチャゴチャと住んでおり、自分がいったい何語で遊んでいたのか覚えていないというから面白い。また各民族国の祝日には各々門の前に国旗を掲げるので、その日に国旗の上がっている家に遊びに行けば御馳走にありつけたそうだ。
 朝鮮内で何回か引っ越したそうだが中学3年の時予科練に入って日本に送られたところで戦争が終わり、朝鮮の両親のところには戻れなくなってしまった。もうそこは日本ではなくなったからである。それで一回しか行ったことがなく、場所の記憶さえ怪しい父方の故郷の早見(長崎のあたり)にたった一人で出かけて行った。場所をよく覚えていないからとにかく諫早まで行って降り、一週間ほど早見という地名はないか探して回ったという。結局無事に実家がみつかったそうだが、この行動力には驚く。何もかもお膳立てしてもらわないと怖くて旅行ができない私には奇跡にしか見えない。しばらくそこにいるとやがて大陸から家族が引き上げてきて一緒になれた。とは言ってもお父様は仕事の関係で山口の方に住み実家には時々帰ってくるだけだったそうだ。
 広島高等師範学校に受かってそこに通っているとき、1949年に新学制が敷かれて広島大学が創設された。青木氏ら旧制師範学校生は試験を受けて広島大学に編入するか、試験を受けずにあくまで師範学校生として卒業するかの選択があり、氏は試験を受けて(落ちても師範学校卒で何の不都合もないから)合格し、広島大学に移った。広島大学としての卒業一期生だそうだ。そこで英語を専攻したが学部卒業時にまた選択肢があった。大学院に残るかフルブライトの奨学金を貰ってアメリカに行くかだ。フルブライトの試験に堕ちたら大学院に進んで、学生時代が伸びている間に教職の話でもあればそちらに着こうと思っていたが試験に受かってしまったのでアメリカに行き、4週間ほどワシントンでオリエンテーションを受けてからUCLAに回された。そこで1953に修士号を取得し、そのころは同大学にはまだ(一般)言語学学部がなかったので、言語学のあるバークレー校に移って研究員をしているときにネズ・パース語研究の機会が与えられたのである。そこで書いたネズ・パース語文法が博士論文である。一時日本に帰っていた時期もあったそうだが、結局以来基本的にはずっとアメリカで暮らしを続けている。最終職はカリフォルニア大学バークレー校の教授である。
 ネズ・パース語との出会いだが、1960年にアイダホ州の歴史学会が州立100年の記念事業としてネズ・パース語の記述を思い立ち、最初イェール大学に当たった、適当な記述言語学者がおらず、バークレーにお鉢が回ってきた。ある夏の日青木氏の研究室のデスクに先住民言語の専門家であるマリー・ハースMary Haas教授がやってきて突然ネズ・パース語をやってみる気はないかと聞かれたそうだ。その言語はどこで話されているのか聞いたらアイダホの居留地ということで、フィールドワークの開始は一か月後だという。それを聞いて青木氏がまずやった「準備」は運転免許をとることだった。同僚の一人が親切にも自分の由緒あるシトロエンを練習台として提供してくれた。その同僚の名前がJames Allen Koichi Moriwaki Sayといって父が韓国人、母が日系アメリカ人だった。さて運転免許の試験であるが、一回目のチャレンジの時は白人の試験官だったが、まず何より先にシトロエンの古色蒼然ぶりにイチャモンをつけられて試験は落ちた。二回目の試験官は黒人であった。この人は青木氏がすでに30歳であることを知っている(はず)なのに、氏をティーンエイジャー呼ばわりし、「まったくティーンはヒドイ運転をしやがる」とかなんとかこきおろされて動揺しやっぱり落第。これじゃ出発までに間に合わんと青木氏がやや焦りだしたところで3人目の試験官は中国系の人だった。その人は青木氏の書類を見て気さくに「あなたは2週間のうちに3回も試験受けてますが、どうしてそんなに急いでいるんですか」と聞いてきたそうだ。車をボロ車扱いもせず、青木氏を非行少年呼ばわりすることもなく、まともに普通の大人として扱ってくれたため、リラックスできて合格した。若く見えるので欧米人から子ども扱いされて苦々しい思いをする、というのは私も含めた東アジア人は大半が経験しているのではないだろうか。

 さてそうやって始まったアイダホでのフィールドワークの過程は自伝に詳しく記されている。まず適当な母語者を見つけ、コンタクトを取り、やがてその部族全体とかかわるようになる。その人間同士の付き合いぶりの話がすでに面白いが、やはり圧巻なのは言語記述の過程の描写だろう。記述言語学、いやそもそも言語学というものはどんなものなのかよくわかる。「単なる基礎でいいから音韻論・音声学の知識を持っていない言語学者なんて言語学者じゃない」と言っていた人を私は何人も見ているが、それは音韻論・音声学なしには言語の記述ができないからである。

 言語調査のしょっぱな第一日目に数詞を調査した。『81.泣くしかない数詞』で述べた話題とも重なって面白いのでここで紹介してみよう。まず1から10までがネズ・パース語では次のようになる。

1  ná:qc
2  lepít
3  mitá:t
4  pí:lept
5  pá:xat
'oylá:qc
'uyné:pt
'oymátat
9   k'úyc
10  pú:timt

IPAを使っていないのはこれが「音声記述」でなくて「音韻記述」だからである。またアメリカには当然先住民の言語記述の長い伝統があるわけで、他のネイティブ言語の記述の蓄積からある程度アルファベットの使い方が決まっているのだろう。例えば子音についているコンマ「'」は、その子音が放出音ejective であるという印である。放出音というのは、閉鎖音についていえばだいたい次のようにして出す音だ。1.まず当該子音の調音点と声門とを同時に閉鎖する。2.続いて喉頭を持ち上げて口腔内の気圧を高める。3.そうしておいて当該調音点の閉鎖を解く、4.最後に声門閉鎖を解く。つまり肺からの息を用いないで出す音で、閉鎖音、破擦音ならまだなんとかギリギリ発音できるかもしれないが、摩擦音、流音の放出音となるととても自分には無理だと思う。
 「1」で出てくる子音qは「9」の k より明らかに調音点が後ろにあり、別の音素である。アラビア語を知っているものならすぐ納得できるだろう。さらに「9」では k の放出音が現れるので、ここの例では見られないがネズ・パース語は音韻体系にq の放出音と、逆に k の非放出音も持っているのではないかという類推が働く。また「2」と「4」では母音 i の長さが明確に違い、長母音が弁別的に機能していることが見て取れた。
 続いて「1」と「6」、「2」と「7」、「3」と「8」を比べると後者はそれぞれ前者の前に同じ前綴り(下線部参照)がついたかのような形になっている(太字の部分参照)。おやこの言語の数体系は5進法なのかなと思うが、その考察に進む前に「6」、「7」、「8」の前綴りが'oy- と 'uy- の2種あることに注目。これは別の形態素なのか同一形態素の異形なのか?そこで「7」を 'uyné:pt でなく 'oyné:pt と言えるかどうか聞くとネイティブからNoをもらった。ではこの二つは別形態素なのかというと形があまりにも酷似している。最も説明力の強い仮説は「この言語には母音調和がある」ということだろう。実際「6」と「8」では広母音、「7」では狭母音が後続している。
 さらに「1」と「6」を比べると「1」の ná:qcが「6」では lá:qc と変形し、n 対 l の音韻交代が見られる。同パターンが「2」と「7」でも見られるところを見ると(それぞれ lepít と -né:pt)、この交代劇は今後どこか別のパラダイムでも出てくるのではないかという推理が働く。事実上流方言に鷹の一種を指すpí:tamyalonという言葉があるが、これが下流方言ではpí:tamyanonになるそうだ。もう一つ「3」mitá:tと「8」の後半部-mátatで母音 i と a が交代しているのにも注目すべきである。
 青木氏は博士論文では放出音ejectiveという言葉を使わず、声門化音glottalized という分類を使ってこのネズ・パース語の音韻体系を記述しているが、のちのバージョンでは閉鎖音には放出音という言葉を使い、摩擦音、破擦音では声門化音と名付け、さらにソナントのカテゴリーを特に分けて、そこでも声門化音としている。つまり鼻音は閉鎖音でも放出音とせず、声門化音となっている。音素をどういうカテゴリーで分けるかは本当に神経を使う作業で日本語でさえ見解は一致していないからここら辺の不一致ぶりは非常によくわかる。

青木氏の博士論文から。放出音という言葉が使われていないし、母音の長短は超音節の問題だとしている。
Aoki, Haruo.1965. Nez Perce Grammar, Berkeley. p.1から

phoneme5

後のバージョン。放出音という言い回しが登場。また母音の長短は母音音素そのものに帰する要素となっている。ウィキペディアから
phoneme3
phoneme4
 話を戻してネズ・パース語は何進法なのかということだが、周りの言語、たとえば中央アメリカ、マヤ語やナワトル語などは20進法なのだそうだ。そこでインフォーマントに他の数をいろいろ聞いてみると次のようになった。フィールドワーク第二日目の調査である。

11     pú:timt wax ná:qc
12     pú:timt wax lepít
13     pú:timt wax mitá:t
20     le'éptit
21     le'éptit wax ná:qc
30     mita'áptit
31     mita'áptit wax ná:qc
40     pile'éptit
99     k'uyce'éptit wax k'uyc
100   pu:te'éptit
400   pilepú:sus
1000 pu:tmú:sus

きれいな10進法である。すでに上で「9」を'uypí:lept とかなんとか言わなかった時点で5進法にはやや疑問が出ていたろうが(私が勝手に感じただけだが)、これで決まりだ。もっとも時々数詞に変な名称が紛れ込んでくるのはロシア語の「40」が четыредцать とも четырдесять とも言わないで突然сорокとなることなど例が少なくないのではあるが、「5」と「10」も関係ない形をしているし、5進法とは言えまい。また「20」と「30」の後半の形態素、それぞれ-éptit、 -áptit を見ればこの言語に母音交代があることが確実となる。

数詞を教えてくれたインフォーマントのHary とIda Wheelerさん。
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.181から
informant1

 このようにして音素抽出から始まって、形態素の抽出、語と形態素の区別を通ってシンタクスの規則発見に至るまで一歩一歩緻密な作業を積み上げて文法書が完成したわけだが、中でもこの言語の動詞の恐ろしさは格別だ。さすが北アメリカの先住民の言語らしく、イヌイットやある意味ではアイヌ語などに見られるような抱合語的polysyntheticな構造で、動詞がいわばセンテンスになっているからだ。
 動詞の語根に接辞が前後からバーバーくっ付くが、その接辞には内接辞と外接辞の区別があって、内接辞は動詞の意味に新たに意味要素を添加していわば動詞の新たな語幹となるもの、外接辞は数、人称、時制など文法機能を受け持つ。数と人称を表す外接辞は動詞の前、時制の外接辞は動詞の後ろに付加されるそうだ。例えばʔiná:tapalayksaqa という動詞形は

ʔiná:      + ta       + palay  + k         + saqa
外接辞     + 内接辞  + 語根         +  内接辞   + 外接辞
私自身を  + 口で     +   迷う       + 使役       +   近過去

という構造で「私はしゃべっているうちに自分の話していることが正しいのかどうかわからなくなってしまった」という意味である。繰り返すがこれはあくまで一つの動詞である。
 
もう一人の重要なインフォーマント、リズおばさんことElizabeth Wilsonさんと青木氏
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.243から

informant2

ヨーロッパから来た人たちがネズ・パースと接触したのは1804年のことだからもちろん青木氏以前からその言語は記述されてはいた。1890年にラテン語で書かれた文法書もでているそうだ。しかし言語学的に使い物になる正確な記述文法は青木氏の本が最初だろう。例えば青木氏以前の記述では放出音あるいは声門化音について述べているものがなかったそうだ。事実様々な言語事典のネズ・パース語の項には必ず氏の著作が重要参考文献として挙げてある。氏の著作をパイオニア、ベースとしてネズ・パース語研究はその後も発展していくが、一つ面白いのは主語と目的語についてである。
 ネズ・パース語では名詞の格は日本語の格助詞にも似て後ろに接尾辞をつけて表し、青木氏は10個の格接辞によって表される11の格を区別しているが、主語と目的語のマーカーについては次のように説明している:拡張のない主語はオプションとして接辞 -nim がつき、拡張のない目的語はオプションとして -ne がつく。主語に -nim がつくのは動詞のほうに主語が3人称であることを示す接辞の hi- あるいは主語と目的語が非特定の人や物であることを表すpe- が添加される場合で、その他はゼロ接辞。同様に目的語に -ne をつけるのは動詞が、目的語が話者と関係の薄い全くの第三者か話者の所有物でもなんでもない全くの第三物(?)であることを示す接辞 'e- または上のpe- をとる場合で、その他は -ne はつかない。
 この現象は後の研究、たとえばAmy Rose Deal 氏は能格性で説明されている。つまりゼロ接辞の主語は自動詞の主語であり、-nim 付き主語は他動詞の主語だというのだ。例として:

自動詞
sík’em Ø+ hi-wleke’yx-tee’nix + háamti’c.
horse + 3SUBJ-run-HAB.PL + fast
‘Horses run fast.’

他動詞
sik’ém-nim + kúnk’u + pée-wewluq-se + timaaníi-ne.
horse-ERG + always + 3/3-want-IMPERF + apple-OBJ
‘The horse always wants an apple.’

HABという略語がどうも見慣れないが habitual aspect という意味だそうだ。自動詞の例は hi-という接辞がついているのに、主語はノーマークなわけで(他動詞の例では青木氏の言う通りpée-がついている)青木氏の主張と異なる。Deal氏は最終的に、ネズ・パース語は単純に能格-絶対核の2対立ではなく、自動詞の主語、他動詞の主語、他動詞の目的語の格が全部違う3分割言語、tripartite language であるとしている。単なる能格言語なら自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ形になるはずだからだ。

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 何の気なしに同化と異化という言葉をネットで検索してみたら唐突にアデノシン三リン酸とかクエン酸回路が出てきたので驚いた。自然科学でもこの言葉を使うとは知らなかった。今までこの二つは完全に人文科学・言語学オンリーの用語だと思っていたからである。生物学では同化はanabolism、異化はcatabolism の訳語だそうだが、言語学の同化・異化はそれぞれassimilation、dissimilationの訳語である。ところがこの原語のassimilation、 dissimilation のほうも自然科学で使われているらしい。世界は意外なところで意外な交差をしているものだ。そういえば上のanabolism、catabolism という言葉を見るとanaphora、 cataphoraという用語を連想する(これは本当に純粋に言語学系の用語である)。ギリシャ語起源の単語だ。英文法でやらされた前方照応、後方照応というアレであるが、次のような例を見つけた。下線部が照応される対象、太字が照応する側である。

前方照応:
1. Several people approached. They seemed angry.
2. When Mary saw John, she waved.
3. Roman Jakobson was one of the founders of Prague School of linguistics. In 1941 he moved to America.

後方照応
1. Listen to this: John’s getting married.
2. When she was young, Mary’s father would always travel in a straight line through a forest if they became lost.
3. When he arrived home, John went to sleep.

 同化と異化の話に戻るが、同化とは当該言語音が周りの音声環境の影響を受けてそれと似た音になること、異化は逆に当該言語音が周りの音声環境に反抗して同じ音がわざわざ違う音になることである。同化はメカニズム的にわかりやすく例も非常に多い。ロシア語などはこの同化現象が規範文法にまでなっていて、学習者は練習させられる。「右に倣え」という言葉で表現されるように、無声子音が有声子音の前に来ると対応する有声子音になり、逆に有声子音が無声子音の前にくるとやはり後発(つまり右)の子音に引っ張られて無声化するのだ。例えば、вокзал(「駅」)では k が z の前で g になって [vɐɡˈzal]、футбол(「サッカー」)では t が b の前で d になって [fʊdˈbol]、逆に водка(「ウォートカ」)だと д (d)  k の前に来るから t となり [ˈvotkə]、немножко(「少し」)では ж ([ʐ])  が k の前で [ʂ] になるから [nʲɪmnoʂkə] と発音する。
 こういう、先行する音が後から来る音に影響される同化を「逆行同化」regressive Assimilationという。方向としては後戻りだからだ。マリア・シュービガーMaria Schubigerはその著書『音声学入門』Einführung in die Phonetik(1977年のちょっと古い本だが)で英語のnewspaperの例を挙げている。newspaperの発音は頻繁に[ˈnjuːspeɪpə] 、つまり s が無声になることがあるが、「ニュース」を単独で発音すると[nuːz] あるは [njuːz] で、最後の s は必ず有声子音だ。newspaperの s が「ニューペーパー」と無声音になるのは後続の無声子音 p に引っ張られるからである。もう一つシュービガーの挙げているのは one more。これらの単語を別々に発音するとそれぞれ [wən]、[moə] あるいは [moɚ] だが、「もう一つ」と一気に言うと[wəmmoə] と、n が m になる。これも後ろの [moɚ] に影響された逆行同化だ。
 これらを逆行同化と呼ぶのは先行する音が後続音に影響するというのが本来の順序だという意識があるからだろう。まあそれもそうだ。その「本来の」方向の同化をで順行同化 progressive Assimilationと呼んでいる。またまたシュービガーの例だが、ドイツ語の haben 「持つ」は大真面目に発音すると[haːbən] だが、普通の会話ではあいまい母音が抜けて [haːbn] となる。が大抵はそこで止まらないでさらに[haːm̩] にまで進む。n が m になるのは、歯茎閉鎖音鼻音 nの調音点が先行する両唇音 b に影響されて調音方法と鼻音という点はそのままに、調音点だけ両唇となったからだ、つまり m である。また英語のobserve で s が有声になって[əbˈzɝv] のようになるのは s が前の有声子音 b に影響されたためだ。順行同化である。さらに相互同化 reziproke Assimilation というのまである。二つの音が互いに影響しあって別の第三の男(唐突に寒いギャグを飛ばすな)、いや第三の音になる現象だ。例えば「魚」は古高ドイツ語では fisk といったが、現在のドイツ語では Fisch [fɪʃ] である。これは s と k が互いに影響しあったためで、k は s の影響を受けて口室の開きかたが狭くなると同時に s も k に引っ張られて調音点が後ろの方に移動した。そして出来上がったのが [fɪʃ] というわけである。
 これらの同化作用には同化が規範として決まっている、つまり必ずやらなければいけないものと(verbindliche Assimilation)、やらなくてもいいもの(unverbindliche Assimilation)とがある。上のロシア語の例などは前者、newspaper の例は後者であろう。
 また同化は隣接の音にばかり誘発されるとは限らない。少し離れた子音に影響されることもある。これを離隔同化(Fernassimilation)と言って、英語の文 I must dashが[aɪ  məs(t) dæʃ] でなく[aɪ  məʃ(t) dæʃ] になったりするのがその例。mustの s がシラブルを一つ挟んだ dash の sh に影響されて音価が変わったのだ。さらに私は「スクリーンショット」の略称「スクショ」をシュクショと発音している人を見たことがあるが、これも離隔同化である。離隔逆行同化だ。ドイツ語のウムラウトもこの離隔逆行同化で、「客」Gast の複数形では母音が「エ」になってGäste だが、これは古高ドイツ語時代にはgasti だったのが、最後の狭母音につられて語幹の「ア」の開口度が狭まったためである。離隔順行同化の例はトルコ語などのいわゆる母音調和に見ることができる。


 いずれにせよ、同化という現象は物理的に発音しやすいようにするわけだからまあ素直なメカニズムである。素直でないのが異化だ。これは近接の似た音や同じ音をわざわざ違わせる現象だ。いわば音を割るのである。なぜわざわざそんなことをするのか不思議な気もするが、その「そんなこと」はいろいろな言語で頻繁にみられるから、裏には何か人間の共通した心理があるのだろう。
 例えば英語の標準語で「名前」nameは [neɪm] と発音するが、俗語というかあまり上品とは見られていない発音では [naɪm] になることがある。e の口の開き方が増して a となり後続の狭母音 ɪ との差が大きくなったのだ。さらに「パイプ」、「家」は昔 pipe [pi:p]、hus [hu:s]  で長母音だったが、それが今ではそれぞれ二重母音でpipe [paɪp]、house [haʊs ]  と発音するのも異化の結果である。houseは綴りから推すと前は[hɔʊs] とか [hoʊs] とかいう発音だったのではないだろうか。異化の度が次第に進んでいっているのだ。またオーストラリアの英語を聞いていると day が die に、 me が my に聞こえることがあるがこれも異化であろう。
 日本語のアクセントの記述説明にも異化の観念が使われているのを見たことがある。「箸」や「今」など、第一モーラにアクセントが来て第二モーラで音調が下がる単語では、第一モーラの音の高さが語中のモーラにアクセントがくる語、例えば「赤坂見附」の「(あ)かさかみ(つけ)」よりさらに高くなることがあるそうだ。つまり次で落ちるための助走をつけるといおうか、第一モーラと第二モーラの音の高さの差がわざわざ拡大されるのである。また東京方言でアクセントが第一モーラに来ない場合、本来「高高」となるはずの第一モーラ・第二モーラの音調パターンが強制的に「低高」とさせられること自体が verbindlich な異化現象だと言っていたのをどこかで読んだことがある。ちょっとその資料が今見つからないのでうろ覚えで申し訳ない。
 この異化にも離隔異化というのがある。シュービガーの例では、イタリア語の「木」、lbero がある。これはラテン語の arbor から来ているもので、 l は本来 r だったのが同じ音が一つの単語内に連続するのが嫌がられて r が l になったのだ。同種の例にドイツ語、英語のそれぞれ Pilger、pilgrim(「巡礼」)の l が挙げられる。これはラテン語では peregrinus で r だった。r と l を区別しない日本語でこれをやっても無駄な努力ではあったろうが、異化によって音が割れた例である。

 この同化・異化に関して以前から気になっていたのだが、ドイツ語で「1と2」eins und zwei [aɪ̯ns ʊnt tsvaɪ̯]というとき「1」が時々  [aɪ̯nts] になる。これは「2」の最初の破擦音に引っ張られた離隔逆行同化だと思っていた。上の I must dash と同じ理屈である。ところが一度ネイティブにそう言ったら反論された。そうじゃない、eins は単独で発音してもつい [aɪ̯nts] になってしまう。Gans (「ガチョウ」)の s も ts になったりするから ganz (「全体の」)と時々区別がつかなくなる。これはむしろ前の n に引っ張られたのだと思う。n は閉鎖音だからすぐ次の摩擦音 s を発音する段になってもまだ舌の閉鎖が取れずにいて摩擦音の閉鎖性が加わる、つまり破擦音の ts になるんだ、と。なるほどそうかもしれない。私も向こうも別に他の音声環境といろいろ比べてみて s が ts になりやすい度合いの統計をとったりしたわけではないから本当はどっちなのかわからない。興味のある人がいたら(いなさそうだが)ちょっと実験してみて結果を知らせてほしい。自分でやらなくて申し訳ない。

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今まで書いた記事が自分でも把握できなくなってきたので収集をつけるため勝手に目次を作りました。お騒がせしてすみません。

翻訳一覧
エンニオ・モリコーネ85歳に
それは頭の中で始まった
ノーム・チョムスキーとの対話
フェイスブックの闇
アインシュタインを知る最後の証人たち
記事一覧
1.悲惨な戦い
2.印欧語の逆襲   
3.噂の真相
4.荒野の大学通り
7.「本」はどこから来たか
8.ツグミヶ原
9.サッカーとデルス・ウザーラ
10.お金がないほうが眠りは深い
11.早く人間になりたい
12.『ミスター・ノーボディ』
13.二種の殺人罪   
14.ローカルな話
15.衝撃のタイトル   
16.一寸の虫にも五分の魂
17.言語の股裂き
18.バルカン言語連合
19.アダルト映画の話
20.カッコいいぞ、バンデラス!
21.シビれる例文
22.消された一人
23.日本文学のロシア語訳
24.ベレンコ中尉亡命事件
25.なりそこなったチョムスキー
26.その一日が死を招く
27.ベンゾール環の原子構造
28.私のせいじゃありません
29.あともう少しのドルのために その1
30.あともう少しのドルのために その2
31.言葉の壁
32.同音衝突の回避か
33.サインはV
34.言語学と語学の違い
35.イエスかノーか
36.『007・ロシアより愛をこめて』
37.ソルブ語のV
38.トム・プライスの死
39.専門家に脱帽
40.バルカン言語連合再び
41.もっとまじめにやれEU市民
42.「いる」か「持つ」か
43.いわゆる入門書について
44.母語の重み
45.白と黒
46.都立日比谷高校の思ひ出
47.下ネタ注意
48.『傷だらけの用心棒』と『殺しが静かにやって来る』
49.あなたは癌だと思われる
50.ヨーロッパ最大の少数言語
51.無視された大発見
52.ジャンゴという名前
53.アラビア語の宝石
54.言語学者とヒューマニズム
55.赤いロータス
56.背水の陣
57.「君が代」斉唱裏ワザ編
58.語学書は強姦魔
59.フランス訪問記
60.家庭内の言語
61.『惑星ソラリス』   
62.クラウディア・カルディナーレの母語
63.首相、あなたのせいですよ!
64.ジャマイカの黒信号
65.主格と対格は特別扱い
66.Иди и смотри
67.暴力装置と赤方偏移
68.エンリケ航海王の遺産
69.ピエール・ブリース追悼
70.セルジオ・レオーネ、ノーム・チョムスキーと黒澤明
71.トーマス・マンとポラーブ語
72.流浪の民
73.ヒホンの恥
74.『主人と下男』
75.ゴールキーパーの仕事
76.アイスランドの火山
77.マカロニウエスタンとメキシコ革命
78.「体系」とは何か
79.カルロ・ペデルソーリのこと
80.ウィンドウズ10と苦行僧
81.泣くしかない数詞
82.ドーピングと傭兵   
83.『ゴッドファーザー・PARTⅠ』
84.後ろか前か
85.怖い先生
86.3人目のセルジオ
87.『血斗のジャンゴ』と『殺しが静かにやって来る』
88.生物と無生物のあいだ
89.白いアフリカ人
90.ちょっと、そこの人!
91.Quién sabe?
92.君子エスペラントに近寄らず
93.バイコヌールへアヒルの飛翔
94.千代の富士とヴェスパシアヌス
95.シェーン、カムバック!
96.日本は学歴社会か
97.拡大と縮小
98.この人を見よ
99.憲法9条を考える
100.アドリア海の向こう側
101.我が心のモリコーネ
102.縁起でもない話
103.新しい家
104.ガリバルディとコルト36
105.茶飲み話
106.字幕の刑
107.二つのコピュラ
108.マッチポンプの悲劇
109.『失われた週末』
110.アヒルが見ている
111.方言か独立言語か
112.あの人は今
113.ドイツ帝国の犯罪
114.沖縄独立シミュレーション
115.比較言語学者としてのド・ソシュール
116.もうひとりのオーストリア人
117.気分はもうペンシルベニア
118.馬鹿を馬鹿と言って何が悪いという馬鹿
119.ちょっと拝借
120.ナミビアのドイツ語
121.『復讐のガンマン』から『ウエスタン』まで
122.死して皮を留め、名を残す
123.犬と電信柱
124.驕る平家は久しからず
125.つかず、離れず
126.『Train to Busan』
127.古い奴だとお思いでしょうが…
128.敵の敵は友だちか
129.副詞と形容詞   
130.サルタナがやって来た
131.エリスという名前
132.北ドイツのデンマーク語
133.寸詰まりか水増しか
134.トゥルベツコイの印欧語
135.マシンガンと機関銃
136.アメーバと音素の違い
137.マルタの墓
138.悲しきパンダ
139.まじめなEU市民
140.格融合
141.アレクサンダー大王の馬
142.不時着か墜落か
143.日本人の外国語
144.カラコルム・ハイウェイ
145.琥珀
146.『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』
147.言語汚染
148.同化と異化
149.ピアスのない鼻
150.二つの名詞
153.母語の呪い
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 時々「言語汚染」とか「言葉の乱れ」という言い回しを耳にするが、もちろん正規の言葉ではない。そんなものはない、と言い切る人もいる。水質汚染のようにどんな基準を満たしたら汚染とみなすかがはっきりしていない、いわば感情論から出た観念だからだ。大雑把に言って「言語汚染」は外部の言語の要素の流入に対して、そして「言葉の乱れ(崩れ)」は当該言語内部での変化に対して向けられたものという違いはあるがどちらも規範的な考え方の人が言語の変化に対して抱くネガティブな感情である。「大雑把に言って」と言ったのはグレーゾーンがあるからだ。
 外来語、特にカタカナ語が連発されるのは言語汚染、いわゆるら抜き言葉は言葉の乱れの範疇内だろうが、例えば「会議が持たれました」的な、本来日本語にはなかった文構造が外国語の影響で使われるようになった場合は言語汚染なのか言葉の乱れなのか解釈が分かれるだろう。言語汚染などというものはないと考える人にとっては汚染か乱れかなどという議論そのものが不毛だろうが、中立な価値観に立つ言葉に置き換えてみるとこれは外来要素として扱うべきかあくまで当該言語内部の変化とみるかという問題でまあ議論の価値はあるとは思う。翻訳論(『119.ちょっと拝借』参照)にもかかわってくるからである。私個人は今の段階の日本語での「会議が持たれます」は外来要素とみなしてもいいと思っている。
 しかしこの外来要素というのが実はそれ自体曲者で、何をもって外部の言語とするかという問題自体がそもそも難しく、『111.方言か独立言語か』の項で述べた通りスッパリとは決められない。ユーゴスラビア内戦の爪痕がまだ生々しかったころ「クロアチア語によるセルビア語の汚染」とか「ボスニア語からセルビア語の借用語を排除すべきだ」などという議論を時々耳にしたが、この3言語は語彙の大部分を共有しており、この語はクロアチア語、これはセルビア語とホイホイ区分けなどできるものではない。それでも無理やり見ればボスニア語にはトルコ語からの借用語が多いといえるが、そのボスニア語はボスニア内のクロアチア人が母語なのである。こういう状況で「言語汚染」とか「言語浄化」とか「外来語」などと目くじらを立ててみても始まらないのではなかろうか。
 「外来語」を共時的に定義するのが難しいばかりではない、さらに通時的な視点からみると「外部の言語の要素」と「外来語」が完全にイコールではないことがわかる。日本も明治時代まで、いやある意味では第二次世界大戦の終わりまでそうだったが、書き言葉と話し言葉が非常に離れていてそれぞれ別言語とみなすのが適当であるような言語社会が世界にはたくさんある。いわゆるダイグロシア(『137.マルタの墓』参照)と呼ばれる状態であるが、その規範でがんじがらめになった書き言葉でも書いているうちにどうしても話し言葉の要素が食い込んでくる。これは汚染なのか言葉の乱れなのか。前者にとって後者はある意味立派な「外部の言語」なのだが、当該言語の使い手自身は書き言葉と話し言葉は一つの言語のつもりでいるから、これは乱れと見る人が多いだろう。でも見方によってはこれは汚染である。ところがなぜか逆方向、つまり話し言葉に書き言葉が紛れ込んできてしまった場合、例えば「これは私の若日の写真ですよ」などと言ってしまった場合には「話し言葉が書き言葉に汚染された」とは言わない。理不尽な話だ。

 さらに言語汚染・言葉の乱れという言葉とペアで使われるのがいわゆる「言語浄化」という言い回し。真っ先に思い浮かぶのは第二次世界大戦中に日本がやった敵性語の廃止という措置だろうが、これも理不尽なことに排除されたのは英語からの借用語だけで、英語と同様外国語でありしかも戦争をしていた国の言語、中国語からの借用語はノータッチだった。中国語をとり除いてしまったら日本語での言語生活が成り立たなくなるからだろう。理不尽というよりご都合主義である。もっともこの手の浄化運動は日本人だけでなくほとんどあらゆる民族がやっている。韓国では戦後日本語排斥運動が盛んになったそうだし、こちらではフランスの言語政策が有名で現在でも英語の侵略に対する処置なのか例えばコンピューターをordinateurと言わせるなど、言語を計画的に規制している。他の言語ではたいていcomputerという英語からの借用語を使っているところだ。日本語の「計算機」にあたる翻訳語を使うこともあるが(例えばドイツ語のRechner、クロアチア語のračunaloなど)、あくまで「コンピューター」と併用だ。フランス語ではordinateurのみで、しかもこれは翻訳ですらない。意識的な造語という色が濃い。またカタロニアもスペイン語の侵略を食い止めようといろいろやっているらしい。方言に牙が向けられることもある。日本人が沖縄でやった悪名高い方言札などはその最たるもの。共通語の中に方言を持ち込むと共通語が汚されるというわけだ。上述のフランスもやっぱりというか方言に冷たく言語の多様性を守ることには消極的だ。プロヴァンス語やブルトン語をパトワといって排除しようとした。ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章にもまだ批准していない。「言葉の乱れ」のほうも浄化対象になる。「本当は〇〇というのが正しい。最近の若者は言葉の使い方がなっとらん」、こういう発言がなされなかった言語社会は人類発生以来一つもないのではないだろうか。
 しかし言葉を純粋に保つことなどできるのだろうか?そもそも純粋言語というものがあるのだろうか?そもそも現在世界最強言語のひとつ、英語というのがフランス語とドイツ語の混合言語である。そのフランス語自身も元をただせばラテン語とケルト語の混交だ。こういうことを言い出すと全くキリがない。どこの民族だって他の民族と接触し混交しながら発展してきたのだ。純粋な言語など理屈からしてありえない。また仮にホモサピエンス発生以来全く孤立し、他と全く交流しないで来た集団があったとしよう。そこの言語は全く変化せずに何万年も前と同じ状態を保持できるか?これはRudi Kellerという人がその名もズバリなSprachwandel(「言語の変遷」)という著書でNoと言っている。私も同じ考えだ。百年もたてばどんなに孤立した言語でも変化する。言語は必ず内部変化を起こす。止めることはできない。

 ではだからと言って言語はまったくいじらず、なるがままにまかせておけばいいのか?言語の変化を人工的に規制しようとするな、しても無駄だ、言語学者にはそういうことをいう人もいるがこれは言葉通りに取れない場合もある。『34.言語学と語学の違い』でも書いたように言語学者がそういうことを言う時、矛先を向けているのは言語いじりそのものでなくそれに伴う規範意識だからだ。どの言語・どの方言が優秀とか正しいかとか言った価値判断・優劣判断を否定しているだけで、いわゆるlanguage planning、言語計画の必要性を否定しているわけではない。それどころか言語計画を専門にして食べていっている学者だって多い。この言語プランニングという作業には、標準語の制定、母語者向け・非母語者向けの教科書作り、言語教育などがあるが、少数言語の保護、またまれには死語の復活などもまたプランニングに含まれる。いずれにせよその出発点にあるのは「記述」である。いい悪い、正しい正しくないなどということは一切言わないでまず当該言語を無心に記述する。そしてその言語共同体で最も理解者が多いか、他の理由で一番便利と判断されたバリアントを標準語あるいは公式言語ということにしましょうと取り決め、言葉の使い方や正書法を整備する、これがcodificationである。あくまで「便宜上こういう言語形を使うことにしようではありませんか」という提案・取り決めであって、他の形を使うなとかこの形が一番正しいとかいっているのではない。当該共同体での言語生活が潤滑に行くようにするための方便に過ぎない。ここを勘違いして優劣判断を持ちこむ者が後を絶たないのでそれに怒って上記のようにやや発言が過激になるのだ。
 取り決められた標準形は絶対の存在でも金科玉条でもない。外来語が入ってきたために元の単語が使われなくなったり、内部変化で文法が変わったり、言語は常に変化していくからそれに合わせて標準語も定期的にメンテしていかなければならない。よく言われることだが、外国人のほうが「正しい」言葉を使うことがあるのは、外国人の習う標準語がその時点で実際に使われている言語より時間的に一歩遅れているからである。例えばドイツ語の während(~の間に、~の時に)や statt(~の代わりに)という前置詞は前は属格支配だったが、現在ではほとんど与格を取るようになっている。つまり大抵の人は「第二次世界大戦中に」を während dem zweiten Weltkrieg という。これを während des zweiten Weltkriegs と意地になって属格を使っているのは私などの外国人くらいなものだ。「私の代わりに」はstatt mir が主流で statt meiner と言ったら笑われたことがある。人称代名詞の属格など「もう誰も使わない」そうだ。さらに statt mirさえそもそも「古く」、普通の人は für mich で済ます。しかし逆に古くて褒められることもある。昔何かの試験で verwerfen(「はねつける、いうことをきかない」)の命令形単数として verwirf と書いたら、年配の教授にムチャクチャ褒められて面くらった。他のドイツ人は皆ウムラウトなしの verwerfe という形を書いたそうだ。クラスメートは「母語者が全員間違って正しい形を書いたのは外国人だけ。恥を知りなさい」とまで言われていた。要するに同じことをやっても褒められたり笑われたりするのである。
 しかし逆に日本に来れば「恥を知りなさい、日本人」の例がいくらもある。例えば上でもちょっと述べたら抜き言葉であるが、私がここ何年間かネットの書き込みなどを注意して観察しているぶんには、すでに95%くらいが「見れる」「食べれる」「寝れる」を使っている。私のようにこれも意地になって「見られる」「食べられる」「寝られる」と言っているのは完全な少数派、それもそれこそ意地になってある程度気合を入れないとつい「見れる」「来れる」と言いそうになる。これに対して外国人の日本語学習者はいともすんなりと「見られる」「来られる」が出る。外国人はそれしか習っていないのだから当然といえば当然ともいえるのだが、ここで恥を知らなければいけないのは日本人であろう。
 このら抜きに関しては、いくら私が意地になっても将来これが標準形になると思う(それとももう標準形として承認されているのだろうか)。合理的な理由があるからだ。一つの助動詞、れる・られるが受動・自発・可能(『49.あなたは癌だと思われる』参照)・尊敬などとといくつも機能を持っていると非常に不便だということ。できれば一形態一機能に越したことはない。特に受動と可能などという全く関係のない機能を同じ助動詞で表せというのは無理がありすぎだ。第一グループ、俗にいう5段活用動詞にはすでに可能を表現するのにれる・られるを使わずに活用のパターンを変化させるやり方が存在する。読む→読める、書く→書けるという形のほうを可能に使い、本来可能を表せるはずの「読まれる」「書かれる」は受動など事実上可能以外の意味専用と化している。私個人は I can read 、I can write を「私はこの本が読まれます」「私は日本語が書かれます」とは絶対言わない。「私はこの本が読めます」「日本語が書けます」オンリーであって、れる形は「この本は広く読まれている」「あいつに悪口を書かれた」といった受動だけである。「眠る」や「行く」などはかろうじて「昨日はよく眠られませんでした」とか「明日なら行かれますが」ともいうことがあるが、「眠れませんでした」「行けますが」を出してしまうことのほうがずっと多い。つまり第一グループではすでに受動と可能が形の上で分かれているのだ。だから第二グループ、いわゆる上一段・下一段動詞でもこの二つは分けれたほうが統一が取れる。そこで「食べられる」は受動、「食べれる」は可能と決めてしまい、「人によっては可能表現に受動と同じ形を使う」と注をつければいい。第3グループの「来る」も「来れる」と「来られる」で分ける。もう一つの第3グループ動詞「する」は元から「できる」と「される」に分かれているのだから問題ない。
 問題はこれをどうやって文法記述するかだが、これがなかなかやっかいだ。手の一つに第一グループの「-る」、第二・第三グループの「-れる」を異形態素としてまとめ、「-れる」及び「-られる」とは別形態素ということにしてしまうという方法がある。さらに第一グループも第二グループも可能の助動詞は仮定形に接続するとする。第一グループの語幹「読め-」は実際に仮定形と同じだからOK,第二グループは動詞語幹を母音までとしてしまえばどんな助動詞が来ても語幹はどうせ変化しないことになるからこれを仮定形だと言い張る。だがこれはあくまで「読める」「書ける」方の形の歴史的な発達過程を無視しているわけだからどこかに無理がでる。「読めない」と「読まない」の対称でわかる通り否定の助動詞の「-ない」が未然形にも仮定形にも接続することになって、統一が崩れるのが痛い。それよりさらに無理があるのが(無理があると思っているなら最初から言うな)動詞のパラダイムを現在の未然・連用・終止・連体・仮定・命令の6つからさらに増やして未然・連用・終止・連体・仮定・命令・可能の7体系にし、「読め・る」を可能形とするやり方だ。しかしこれも「-ない」の接続が未然と可能の二つに許されるという問題は解決しないばかりか、-e が仮定・命令・可能の3機能を担うことになり、無駄にややこしくなる。ロシア語の数詞問題でもそうだったが(『58.語学書は強姦魔』)、通時面を全く無視して共時的視点だけで言語を記述しようとするとどこかにほころびがでるようだ。もっとも今の学校文法はむしろ逆に意地になって通時面にしがみつきすぎているような気もする。一つの語形としてまとめられている未然形、連用形にそれぞれ2形がある一方、事実上形に区別のない終止と連体、仮定と命令が二つに分かれている。外国語として教える日本語の文法と学校文法の乖離が大きいのも当然だ。やはりここらで学校文法も全面的にメンテしたほうがいいのではないだろうかとは思う。
 第二の方法は可能を表す方法が第一と第二グループ動詞では異なり、第一グループでは語形変化でなく「派生」により、第二グループでは助動詞「れる」を仮定形につけて行うとすることだ。そこで注として派生のしかたを説明しておく。つまり語幹(第一グループの動詞というのはつまり「子音語幹」だから)に-eruを付加して辞書形とし、助動詞は必要ないと。こちらの方が言語事実には合っていると思うが、これも説明が少しややこしいし、ここでもやはり第一グループと第二グループとの亀裂がさらに深まっている。実際はどうなっているのかと思ってちょっと現行の教科書を覗いてみたら、可能表現については第一グループは「読む→読める」のタイプ、第二グループは「食べる→食べられる」という風に(事実上完全に少数派でなっている)られる形をやらせているようだ。でももう「食べる→食べれる」に市民権を与えてもいいのではないだろうか。「可能表現は第一グループと第二グループで全く作り方が違い、前者は派生で、後者は語幹に「れる」を付加して作る(まれに「られる」を付加する場合もある)。受動形その他は第一グループは「れる」、第二は「られる」付加で形成する」と説明する。確かに第一と第二の亀裂は深まるが、その代わり可能と受動その他の亀裂も深まるからかえってすっきりするかもしれない。第三グループについてはどうせ2つしかメンバーがいないから、少数差別するわけではないがまあ「例外です」で済ませる。表現する変化を汚染だろ乱れだろと排除ばかりしていないで時期を見て正式に認めてやるといいと思う。それとももう言語学の方の(つまり語学ではない方の)日本語文法ではすでにそういう方向の記述になっているのだろうか。

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