アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。

「目」
                   Yasin          Hunza              Nager  
単数            -l-ći             -l-ćin                -l-ćin
複数           -l-ćim-u        -l-ćum-u-c        -l-ćim-u-c

「肝臓」
                   Yasin          Hunza           Nager  
単数            -ken            -kin               -kin
複数            -ken-iŋ        -kim-iŋ          -kin-iŋ

「人間・男」
                    Yasin          Hunza        Nager  
単数             hir               hir               hir
複数             hur-í            hir-í            hir-íkanc


「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出したが、特筆すべきは Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。

hm        hf           x          y
khené   khomó   gusé     guté

フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。

単数
 h           x                                       y
 khiné    gusé, khosé(ナゲル)    guté, khoté(ナゲル)
複数
 h          x                                       y
 khué    guċé, khoċé(ナゲル)    guké, khoké(ナゲル)

 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet

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 日本人は英語が下手だ、とはすでに大昔からさんざん言われ続け、それを改良しようという様々な試みも空しく今日に至るも耳にする。日本人の英語(ドイツ語やフランス語もだが)が国民レベルでほとんど上達していないからだが、その原因はわかっている。
 第一に日本で生活するためには外国語が必要ないからである。一般教養も全部日本語で身に着けることができる。大学だろでは時々論文やレポートを外国語(主に英語)で書いたりすることもあるが、講義の言語は日本語である。第二に英語は母語である日本語と構造的にも、話者の文化的な面でも全くかけ離れているからである。第三に教授法が非効率だからである。本人も英語をロクにしゃべれない教師がいる。そもそもアメリカや英国など英語圏で全く生活したことのない教師が日本国内で日本人から教わった暗号のような英語を教えているのだから(もちろん英語教師が全員そんなのではないが)、教わるほうだって上達するわけがない。たとえ生徒本人にやる気があっても上達しにくい授業内容な上に、「義務」としてやる気のない生徒にまで教え込もうをするからザルで水をくむようなもので、費やされるエネルギーに対して効果のほうが限りなくゼロに近くなるのはある意味では当然である。
 その、自分たちは国際的に比較して外国語ができない部類だ、という事実に対する日本人の反応は大きく分けて二つである。一つは第一の理由を持ち出してきて居直る、さらに居直りを通り越して「日本の社会が素晴らしい証拠」として外国語ができないのを自慢しだす人たち。「ここは日本ダー。外国語なんてできなくてもいいんダー」というわけである。こういう人たちは「外国語を使わなくていい」と「外国語ができなくていい」の区別がついていない。たとえ生活そのものはすべて日本語でまかなえるにしても、外国語ができて損になることはない。例えば渡辺照宏氏は外国語を学ぶ理由として次のように述べている。

しかしそれ(人食いアヒルの子注:外国人と会話ができるということ)以上に大切なことは、あなたの教養全体の水準が外国語の学習によっていちじるしく高められることなのです。… ただ実用的立場から教えているのではありません。あまり意識的な努力なしに習得した自国語の他に、少なくともひとつの外国語を学ばせるというのには、人間的教養を高めるという大事な目的があるのです。外国語を知らなくても立派な人はいくらもいますし、また出世も金もうけもできるには違いありません。しかし、もしあなたが人間としての完成を目ざしているならば、少なくともひとつの外国語を習得することによって、実利の他に、人生を楽しくかつ愉快にする手段を手に入れることは確実です。

言葉を使わずには(一人きりでいる時でも)一日も人間らしい生活ができないからです。この意味で、外国語の習得は自己の人間的成長ないしは発展にも大いに役立つ、ということができるでしょう。

これは正論ではないだろうか。要するに「外国語ができないのは日本の社会が素晴らしい証拠」というのは見苦しい負け惜しみであろう。

 「日本人は外国語ができない」ということに対しての第二の反応は第一の反応と真逆で「これだから日本はダメなんだ」というもの。時として自分自身は語学ができる人ができない日本人に対してこういうセリフを吐くことがある。「オレは他の日本人とは違うんだ、はっはっは」というのが本音であろう。こういう、たかが外国語の一つや二つしゃべれるのをすぐ鼻にかけだす人が多いのもつまり日本人全体の外国語レベルの低さの裏返しである。しかし逆に誰かがちょっと外国語を話したり書いたり、「〇語ができる」と(事実を)言うとすぐ威張っているの自慢しやがってのと僻み交じりの攻撃をしだす人はもっと困りもの。双方に共通することは「外国語が話せるのは大したこと」という意識である。しかし外国語を話せることなんて自慢にも何もならない社会や国が世界にはゴマンとあるのだ。そのゴマンの中に欧州社会があると思うが、「これだから日本はダメ」発言を展開する人には、「良い例」として欧州を引っ張り出してくる人が多い。「ヨーロッパではまともな教養のある人は3か国語くらいペラペラなのに、日本人は教養人ヅラしていても英語もロクにしゃべれない人がいる」というわけである。確かにこれは真実なのだがこういうことを安易に言い出す人は上で述べた二つ目の理由を無視している点で鵜呑みにするわけにはいかない。
 日本人が言語構造も背景文化も全く違う英語を勉強するのと、ドイツ人が言語構造にほとんど方言差くらいの違いしかなく、文化の背景も同じ英語を勉強する場合と比べて「日本人は外国語ができない」と言ってみても仕方がないからだ。ライオンと柴犬を比べるようなものでそもそも比較になっていない。比べるなら日本人の英語とイギリス人の日本語、あるいは日本人のドイツ語とドイツ人の日本語と全体的にどちらが悲惨かを比べるべきだろう。少なくともドッコイドッコイ、多分それぞれ後者のほうが悲惨度が高いと私は思っている。日本人のほうがやや有利な条件下にあるからだ。
 まずドイツ語・英語は文字の数が笑っちゃう少なさの26文字。補助記号やウムラウト文字を入れてもせいぜい30である。日本語は表音文字だけで100、補助記号、つまり拗音や濁音表記なども入れればさらに多くなる上に何千もの漢字がある。私たちは子供の頃から読みなれ、書きなれているからいいがこれをクリアするだけで相当のエネルギーがいる。新聞記事あたりがまともに読めるようになるには何年もかかるに違いない(というよりなるのか?)。私たちがヒエログリフを見て呆然とする、あの感覚だ。
 次にこれは第一の点とも被ってくるが、孤立した言語である人たちは「外国語とは母語とは全く違うもの。文字から何から全部ワケわかんない想像を絶する世界」という感覚が身についている。文法などが「何だよそりゃ?」と思うものであっても「まあ外国語なんだから何が出てきてもおかしくないか。わかんないけど」と一応黙って消化する。例えば英作文で前置詞をうっかり後置してしまうような人を私は中学のクラスメートにさえ見たことがない(間違った前置詞を使っちゃったというのは皆よくやっている)が、こちらではだいぶ勉強が進んだ後でも「にドイツ」とか「を本と新聞」とかやってしまう人を一人ならず見た。「AのB」という付加語を持った構造はさらに間違いが頻発する。「山田さんの学校」「アメリカの友達」がそれぞれ「学校の山田さん」、「友達のアメリカ」、あるいはもっとひどく「の山田さん学校」、「のアメリカ友達」になってしまうのだ。要するに彼らは外国語といっても自分たちの母語と構造のよく似た印欧語しか知らないのでその外に出られず、「あなたの知らない世界」に入っていくのが日本人より苦手なのではないだろうか。バスク語やフィンランド語でも知っている人はこの点有利かもしれないが、背景となる文化は同じである。そもそも文字が同じだ。
 それで私は時々「ドイツ人が外国語ができますとか言って英語やフランス語を持ち出してくるのを見るたびに笑っちゃうわね。そんなもん全然Fremdsprachen (foreign languages)じゃなくてBekanntsprachen (familiar languages)じゃん」とドイツ人にいって嫌がられている。実は私が最近流行の会話中心・文法なんて気にするな的メソッド(その手のメソッドでは授業の言語、つまりメタ言語と対象言語が必ず一致している)をドイツ人の日本語教育、日本人の英語教育に盲目的に応用するのに不安を感じているのもこの点である(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。もちろんフィンランド語やハンガリー語などの例外はあるが欧州内の言語は基本印欧語で構造がそっくりである。母語の骨組みが外国語にも応用できてしまうから、あとはインプットをガンガン入れ、会話の練習を積めば立派な建物が出来上がる。細かい文法上の差異はあるが、それらは建物の根本構造をいじらなくても済む「改修」程度だ。
 それに対して真正の外国語は学習者は内部に土台を持っていない。そこにやたらと文法を気にしないでインプットだけ吹き付けるのは土台も骨組みもないところに「改修」だけで家を建てるようなもの。できあがるのはちょっと強風が吹けば崩れ落ちるような掘っ立て小屋である。
 ここ何年か主にアラビア語を母語とする難民が増え、ドイツ語の授業も提供されているが、上の『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたようにその教科書は会話中心のきれいなカラー印刷のものだ。もちろん専門家が作ったものだからメソッド的には優れているのだが、いままでは対象者のほとんどは欧州内の他の国か、あるいは長くドイツに住んでいる外国人であった。言語の骨組みがすでにできている人たちだ。ところが今の難民は言語の面でも文化の面でも共通項となるその骨組みを持っていない人たちである。どうなるかと思っていたところ、新聞に「難民のドイツ語教育の効果が上がっていない」という趣旨の記事が載り、申し訳ないが「当然だ。何をいまさら」と思ってしまった。また実際に外国人にドイツ語を教えている知り合いが、学校側からは「会話能力をつけるために授業はドイツ語だけでやるように」と厳しく念を押されていたが、ドイツ語が理解できない学習者(当たり前だ。だからこそ授業を受けに来ているのだ)にそれをやっても全く効果がなく、授業が成り立たなくなってきたので英語で文法説明をしてしまったと話してくれたことがある。この人は最近の会話中心の方法には懐疑的だった。全く言語的背景のない日本人にカラー印刷の教科書で楽しい会話だけさせたら、まともな家が建つ代わりに掘っ立て小屋が増えそうな気がして怖い。私の杞憂だといいのだが。

 もちろん、ドイツ人の日本語のほうが日本人の英語より悲惨だからと言って「日本人のほうが頭がいい」とか「ドイツ人はものわかりが悪い」などということはできない。上でも述べたようにこれは単に偶然日本人のほうが言語の異次元性に対する免疫ができているというだけの話だからである。多少理解できなくてもいちいち驚いたり拒否反応を起こしたりしない。基本的には民族や国に関係なく(母語と全く違う)外国語というのはできないのが普通なのではないだろうか。それを「普通にやれば誰でも外国語はできるようになる」などと甘い約束をするから、やってもやってもできるようにならない私のような者がマに受けて「私は常人より知能の発達が遅れているのではないか?」と真剣に悩みだしたりするのだ。また、学習者が2年もやっているのに全員ヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のB2レベルくらいにならないからといって、授業のやり方に根本的な欠陥があるように言われたりもする。確かにこちらの大学などの日本語の学習者はほぼ全員2年もすれば会話が成り立つようになるが、それはそこに行く前についていけない者がどんどん脱落するからである。言い換えると授業を受ければ全員2年で会話ができるようになるのではなくて、2年で日本語をマスターできるような者だけが最後まで残っているのだ。授業体制の欠陥を云々するとすればむしろこの点ではなかろうか。生まれつき外国語のセンスがある者、センスの点ではイマイチだがとにかく勉強する意思はあってまじめな者、そういう一部の者だけが到達できるレベルに全員到達させようとする、到達できるはずだとする考え方が根本的に間違っているのではないのか。
 もちろん、日本国民全員を英語B2にするのはどんなやり方をとっても不可能だとしても、かといって日本の外国語の授業のやり方がこのままでいいとはさらに思わない。もうちょっとやり方を変えたほうがいいんじゃないかと思う。それについては英語教育学の学者がいろいろ考えて種々の試みをしたりしているから、素人の私がここで嘴を挟んでも笑われるだけだろうが失礼して無責任な提案をさせてもらうと、まず日本は英語教師その人が英語をロクスッポできないまま教えている(人もいる)のが最大の問題ではなかろうか。言葉を教えられるのは原則的にネイティブだけのはずである。こちらは例えばドイツ語を人に教えられるのはネイティブ、またはドイツ語能力試験でC2をとった人だけである。ただ上でも述べたように私はメタ言語と対象言語が一致する授業形式は特に初心者にはあまり効果がないのではないかと疑っているので文法説明は学習者の母語でやるのがいいと思う。とすると日本で英語を教えられるのは日本語がすっごくできる英語ネイティブか、少なくとも英語圏で大学を正規に卒業した日本人ということになる。これを条件にすると資格を失う英語教師は日本に相当いるはずだ。
 もう一つ、文法や講読(あるいは「英文解釈」)の授業と並行して会話と作文の授業を別途にやったらどうだろう。前者が理論、後者は実践授業である。そして後者の授業は本当にネイティブだけにやらせる。この二つを分ければ学習者のほうもどちらを好きになるかによって自分に向いているのは語学のほうか言語学のほうかわかってくる。将来設計にも役立つのではないだろうか。この二つを基本として、さらに勉強したい者、高校大学からアメリカに留学したいとか、大学はその方面に進みたいとかいう人のためだけに英語のスペシャル授業を自由選択制で設けてやればよろしい。自由選択だからついていけない者は安心して脱落できる。高校から渡米したがっている生徒と一生東京都品川区から出る気のない者とに画一化した授業をやるから効率が悪くなるのだ。
 もっともこんなことはもうとっくに皆考えていて、今の日本ではきちんと準ネイティブが集中的に教えているようになっているのかもしれないが。

 上でも引用したように外国語というのはあくまで自分の人生を豊かにするため、自分を鍛えるために勉強するのである。たかがちょっとくらい外国語ができると言って有頂天になったり、逆に他の人が外国語ができるからといって妬んだり僻んだりするような事柄ではない。

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 以前沖縄で米軍のヘリコプターが海面に落ちて大破するという事故があった。米軍機が民家の上に落ちたりものを落としたりする迷惑行為そのものはよくあるらしいからこれもその一環として「またか」の一言で片づけられてもよかったのだが、この場合は最初に「米軍機が海面に不時着した」と報じられたため議論がいつもとはちょっと別方向に進んだ。ヘリコプターは大破しているからこれは不時着ではなく墜落ではないのか、という議論が起こったのである。

 私もそうだったが、不時着か墜落かを決める際「飛行機が損傷したか否か」を重要な基準にする人は多いと思う([ + 損傷] ?)。機がバラバラになったら墜落、無傷で着陸できたら不時着である。だから2000年にシャルル・ド・ゴール空港を出たコンコルド機が離陸直後に落ちたときは「墜落」と報道されたし、ニューヨークで2009年にUSエアウェイズ機がラガーディア空港からのこれも離陸直後にガンの群と衝突してハドソン川に降りたときは「不時着」、人によっては単に「着陸」と呼んでいた。
 また「墜落」と聞くと「ある程度の高さから落ちること」と連想する人もいるのではないだろうか。この場合の高さとか落ちる個体と比較しての高さである。登山家が数十メートルの岸壁から地上に堕ちれば墜落だが、地上50cmのところから下に落ちても墜落とは呼びにくい。たとえその人が運悪く大けがをしてもである。個体が人より大きい飛行機の場合、「墜落」というとやはり何千m、何百mの高みから落ちるシーンを想像する。数m、数十mだと何百mの場合より墜落とは呼びにくくなる。ヘリコプターなら数十mでもいいかもしれないが。そしてこのように墜落という言葉の意味要素として「落ちる個体に比例したある程度の高度」を混ぜるのは私だけではないらしく、手元の国語辞典にも「墜落」を「高所から落ちること」と定義してある。
 ひょっとしたらこの「高度性」([ + 高所から]?)のほうが第一義で、破損か無傷かというのはそこから導き出されてくる二次的な意味要素かもしれない。高いところから落ちれば大抵破損するし、高さがなければ普通破損度は低いからである。もちろん例外もあるが。

 しかしさらに調べてみたら、墜落対不時着の区別に破損度や高度は本来関係ないと知って驚いた。両者を分けるのは制御された着地か、制御されていない着地かということなのだそうだ([ - 制御された] ?)。機が大破しても数千mの高度から落ちてもパイロットにコントロールされた着地なら不時着である。上記のヘリコプターはパイロットが民家に突っ込むのを避けようとして海に降りたのでその結果機体がバラバラになっても不時着。コンコルドの場合は管制塔と計器からエンジンが燃えていると警告を受け取ったパイロットが8キロほど離れた前方にあるLe Bourget空港に「不時着」しようとして制御に失敗したわけだから墜落ということになる。
 もちろん制御された着陸といっても「予定外の地点への着陸」([ - 目的地]?)ということで、制御されて予定地に降り立った場合は不時着でなく単なる到着である。だがこの点をしつこく考えてみるとグレーゾーンは残る。飛行機が空港Aに行こうとして何らかの不都合が発生したため行き先を変更して途中の空港Bに何事もなく着陸した場合でも不時着というのだろうか?特にその「何らか」が、乗客の一人が急病を起こしたなどという場合も不時着か?後者の場合は不時着という言葉は大げさすぎるような気もするが、辞書を引いてみたら不時着あるいは不時着陸を「故障・天候の急変などのため航空機が目的地以外の地点に臨時に着陸すること」と定義してあるから乗客の容体急変もこの「など」に含まれると解釈できそうだ。しかし逆に目的地の空港に飛行機が火を吐きながらかろうじて無事に降り立った場合、到着なのか不時着なのか。「故障・天候の急変などはあったが航空機が目的地点に着陸した」場合どっちなのか、ということである。火を噴いたりしたら目的地に着陸しても不時着とする人も多かろうが、急病人が出たにも関わらず目的地に降り立ったりした場合も不時着扱いしていいのか?やはり破損しているか否かのメルクマールを完全に無視するわけにはいかない気がするのだが。

 さらなるグレーゾーンはパイロットが意図的に飛行機を地上に突っ込ませた場合である。実際に2015年にフランスでそういう悲劇的な事故があった。ルフトハンザ系のジャーマンウィングスという航空会社だったが、鬱病で苦しんでいた副操縦士がバルセロナを出てドイツに向かう途中フランスのアルプ=ド=オート=プロヴァンス県で何百人もの乗客もろとも飛行機で山に突っ込んで自殺したのである。ここでは操縦する側がきちんとコントロールを行って目的地以外で降りたのだから下手をするとこれも「不時着」ということになってしまう。上で述べた辞書の定義でも暗示されているようにやはり「意図的に機を落としたか、それともできることなら落としたくなかったか」というメルクマールが重要になってくるだろう([ +/- 不慮性]?)。このルフトハンザの出来事を「カミカゼ」と呼んでいた人がいた。私個人は外の人に安易にカミカゼという言葉を使われるのが嫌いなのだが他に一言でこういう悲劇を表す言葉がないから仕方がないのだろうか。
 ここまでの考察をまとめて二項対立表(『128.敵の敵は友だちか』参照)で表してみるとみると、「墜落」「不時着」「普通の着陸」「カミカゼ」の違いは次のようになる。高いところから落ちたか否かは問わなくてもいいと思う。
墜落
[ - 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

不時着
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

普通の着陸
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

カミカゼ
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ - 不慮性]
[ + 損傷]

予定地に機が損傷して降り立った場合(適当な名称がない):
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ + 損傷]

これに従うと急病人を抱えたまま目的地に降りたら到着、航空機が火を噴いたら「適当な名称がない着陸」である。どちらも「不慮性」に対しては中立だから機が損傷したか否かが決定的な意味を持ってくるのだ。またテロリストがハイジャックして目的地を変更させた場合、テロリスト側からみると「普通の着陸」、パイロット側にすれば「不時着」である。

 ドイツ語では「墜落」はAbsturz、「不時着」は Notlandungである。辞書にはAbsturzはSturz in die Tiefe(「深いところに落ちること」)、 Notlandung はdurch eine Notsituation notwendig gewordene vorzeitige Landung [an einem nicht dafür vorgesehenen Ort](「非常事態のため必要に迫られて(着陸予定でなかった場所に)予定を早めて着陸すること」)とある。日本語と同様やはり墜落では高度が問題にされている。つまり定義としては問題にされないが事実上連想としてくっついてくるメルクマールということなのだろうか。不時着のほうは「予定より早く」と定義されているが、こう言い出されると上述のようなテロリストが目的地より遠い空港に着陸を強制した場合を「不時着」と呼ぶことができない。また定義の側にNot-という言葉が使われていて一種のトートロジーに陥っている。日本語のほうは言葉をダブらせずに非常事態の例を挙げているのでトートロジーは避けられているが、「など」という部分が今ひとつすっきりせず、まあ言葉の定義というのは難しいものだ。

 ハドソン川の事件はその後映画化されたが、その『ハドソン川の奇跡』で、事故調査委員会側がcrashと呼んだのに対し、パイロットのサレンバーガー機長がlandingと訂正していたシーンがあったそうだ。念のためcrashを英和辞書で引くと「墜落」「不時着」とある。つまり日本語の墜落や不時着と違って [ 制御された] というメルクマールに関しても [ 目的地] に関しても中立、その代わり [ 損傷] が中立ではなく+ということになる。landingのほうは[ 損傷] が-となっている点でcrashと対立するが、landingでは [ 不慮性] も中立となるので全体としてはきれいな対立の図にはならない。

crash
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ + 損傷]

landing
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

ハドソン川の奇跡のように不慮性がはっきりしている場合はあっさりlandingとも言い切れまい。不慮の事故であることは明確だが、機体は大破せずとも川に沈んでしまったから損傷してもなししないでもなしというどっち付かずであるから損傷性メルクマールは問わない、つまり中立とする。一方機長は委員会側のcrashという言葉に対してNo を突き付け訂正している。これは何に対してなのか考えると [ + 損傷] と言われたことより [ 制御された] をゼロにされた事に対する反発なのではないだろうか。機長は機を完璧に制御していたからである。そこで [ 制御された] をプラスにする。すると以下のような図式になる。

[ + 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

これが一応英語のemergency landing ということになろう。上で出した日本語の不時着と似ているが、英語では目的地であるか否かは問わないのである。それにしても大して中身のある意味分析を行ったわけでもないのに(自分で言うな)、二項対立表にするとやたらと学問っぽい外見になるものだ。
 なおこのハドソン川の不時着ニュースを聞いたとき私は真っ先に「えっ、ガンがエンジンに巻き込まれたの?!かわいそうに」と反応してしまった。

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 隣でプルターク英雄伝の初期新高ドイツ語訳を読んでいた者が突然「アレクサンドロス大王の馬の名前を知ってるか?」と聞いてきたので即座に「ブケファロス」と答えてやったら、向こうは大いに驚いて「どうしてそんなこと知ってるんだ?!」というから「日本人なら誰だってそのくらい高校の世界史でやっとるわ。悔しかったら紀元前3世紀の中国の名将項羽の馬の名前言ってみろ」と返しておいた。告白すると私がそんな変なことを知っていたのはその前に偶然どこかで「アレクサンドロス大王はインド遠征時に愛馬ブケファロスを失った」とかなんとかいう文章を読んでいたからである。そこで馬の名前がなぜか頭に残っていた。「覚えていなくてもいいのになぜか頭にこびりつく」ことは誰にでもあるのではないだろうか。その代わりに肝心の覚えなければいけない事項のほうは忘れている。例えば私は若かりし頃大学受験勉強をしていたとき、「試験に出る英単語」略称「でる単」なるもので英語の単語を暗記しようとしたが、いざ模擬試験などでそこに載っていた英単語に出くわすと、「あっ、この単語は確か「でる単」の右ページの一番上にあったな」とかそういう余計なことは思い出すのに肝心の意味が出て来ないという間抜けな経験を何度もした。まあそういう間抜けがたまにこの程度の法螺を吹いても地獄に落ちることはあるまい。
 もっとも向こうも別にブケファロスの話をしたかったわけではなく、単にそのテキストで「馬」がPferdtと綴ってあるのを見せに来たに過ぎない。現代ドイツ語の正書法では単にPferdと書き、d を t と読むが、これがドイツ語のAuslautverhärtung語末音硬化と呼ばれる現象である(『47.下ネタ注意』参照)。有声子音が語末、時には形態素の終わりにくると有声性を失って調音点と調音方法はそのまま変わらず対応する無声子音になる。d が t になるほか、g がk 、z がs 、b がp 、w (英語の v )が f になる。Hund 「犬」の単数は [hʊnt] だが、複数はHunde [hʊndǝ]、 Tag 「日」[taːk] が複数になるとTage [taːɡə] 、Staub 「埃」は [ʃtaʊ̯p] だが、「埃っぽい」という形容詞になるとstaubig [ʃtaʊ̯bɪç]で、当該子音が語末に立たないときは有声である。ドイツ語を習い始めると第一日目に練習させられる発音現象でこのAuslautverhärtungをきちんと発音しているかどうかでドイツ語の勉強の程度がバレるから誰もが一生懸命練習する。
 だが「一生懸命練習する」というのはつまり意識的に発音するということだ。 g で言えばその音素が語末に立っているのを見たら「えーっとこれの調音点は軟口蓋、調音方法は閉鎖音だな」とまずよく考え、さらに声門に震えが出ないように気をつけて口に出す。 g マイナス声イコールk と意識的に計算(?)しているのだ。言い換えると g と k が別音素であることは常に認識している。
 そうやってずっとこのAuslautverhärtungを意識的・理論的なプロセスととらえていたところ、先日ネイティブにはこの過程を無意識に行っていると知って非常に驚いた。もっともその無意識的・意識的の差がまさにL1とL2との違いなのだから当たり前で今更驚く私がおかしいのかもしれないが。さるネイティブにHeidelbergを片仮名で書いてみろと言ったら「ハイデルベルグ」と書いた。そこで「字にとらわれずに発音通り書いてみなさい、ハイデルベルクになるでしょが。最後の音は硬化してるんですから」と説明したところ向こうはその意味が全然理解できなかったのだ。彼には[haɪ̯dl̩bɛʁɡ] と  [haɪ̯dl̩bɛʁk] が「全く同じに聞こえる」そうだ。語末ではそうやって全く区別がつかないのに、これらが語頭に立つとしっかりわかる。だからgönnen [ɡœnən] 「喜んで許す」と können  [kœnən]「できる」を混同することはない。語末音硬化はネイティブにとっては意識してやるプロセスではなくて脳内認知レベルの現象なのかと思い知って新鮮に驚いた。
 しかし一方でこの人はひょっとしたら文字にとらわれているだけなのではないかとも思った。すぐ理解してくれるネイティブも多いし、中高ドイツ語では語末音硬化を文字にしていたからだ。硬化現象が生じたのは古高ドイツ語から中高ドイツ語への移行期だから中高ドイツ語ではすでに語末音が無声化していたので、今のTag「日」をtac、「子ども」をkintと綴ったりしていた。これらの属格はそれぞれtages、kindesで有声音になっている。
 つまりc (k)とg 、d と t はそれぞれ別音素であることを話者ははっきり聞き分けていたのだ。その後新高ドイツ語になってから例えばPferdと綴り上では有声音で表す、いわば「揺り戻し」が起こった。だから上記の初期新高ドイツ語の折衷的な綴りPferdtは面白いと思う。これは「ここは t と発音しますが本来は d ですよ」というシグナルともとれるからだ。-dt のほかに「日」がtagk、「去って」をwegkと書かれていた初期新高ドイツ語のテキストを見たことがある。こんにちではそれぞれTag、wegである。-bp という綴りは見たことがないが、-dtは現在でもドイツ人の苗字で頻繁に目にする。Feldt、Rindt、Mundt、Kindtなどでこれらを普通に書くとそれぞれFeld「野」、Rind「雄牛」、Mund「口」、Kind「子供」となるが、最後の子音は無声発音である。初期新高ドイツ語時代の綴りの名残なのか、実は全然別のところに理由があるのか(そういえば「町」は今でもStadtと綴るがこれがstatt(「~の代わりに」)と区別するためだと思う)私は知らないが面白いとは思っていた。その折衷綴りの -dt はまさにトゥルベツコイ始めプラーグ学派の提唱したArchiphonem「原音素」という言葉(下記参照)を髣髴させるからだ。
 そこで新めてトゥルベツコイのGrundzüge der Phonologie『音韻論概説』を引っ張り出してArchiphonemについて論じている章を見てみたらしょっぱなに次のようなことが書いてあり、上で私が今更驚いたり考え込んだりしたことなどトゥルベツコイは20世紀の初めにすでにお見通しであったと知ってまた驚いた。

  Der psychologische Unterschied zwischen konstanten und aufhebbaren phonologischen Oppositionen ist sehr groß. Die konstanten phonologischen Gegensätze werden selbst von phonetisch ungeschulten Mitgliedern der Sprachgemeinschaft deutlich wahrgenommen und die Glieder einer  solchen Opposition als zwei verschiedene „Lautindividuen“  betrachtet. Bei den aufhebbaren phonologischen Gegensätzen ist die Wahrnehmung schwankend:  in den Relevanzstellungen werden beide Oppositionsglieder deutlich auseinandergehalten, in den Aufhebungsstellungen ist man dagegen oft außerstande anzugeben, welches von beiden man eben gesprochen oder gehört habe.

不変の音韻対立と解消可能な音韻対立では心理的な差が非常に大きい。不変対立なら当該言語の共同体の一員は音声学の訓練を受けていない者でもはっきり認知でき、対立している双方の項を異なる二つの「音の個体」とみなすが、解消可能な音韻対立だとその認知が怪しくなる;有義位置Relevanzstellungでは双方の対立項の区別がはっきりとわかるが、解消位置Aufhebungsstellungでは二つのうちのどちらの項を発音したり聞いたりしたのか自分でも言えない場合が多い。

 私は硬化という言葉が嫌いで「中和」といっているが(再び『47.下ネタ注意』参照)、それはこの現象がドイツ語ばかりにみられるわけではないからだ。だからドイツ語学でしか通用しないVerhärtungよりNeutralisierungという一般言語学の名称のほうが適当だと思う。トゥルベツコイはこれをAufhebung der Opposition 「対立の解消」またはaufhebbare Opposition「解消可能な対立」とも呼んでいるが、こちらの用語のほうがカッコいい。 ロシア語もこの中和現象が顕著でやはり語学の時間の最初のほうで発音練習させられる。город  [ˈɡorət](「町」・単数主格)⇔ городом [ˈɡorədəm](単数造格) 、мороз [mɐˈros](「寒さ」・単数主格)⇔морозы [mɐˈrozɨ](複数主格)、гриб [ɡrʲip](「茸」・単数主格)⇔ гриба [ɡrʲɪˈba](単数生格)。ロシア語はさらに半母音やソナントまで無声化するのを時々見る(聞く)。例えば красивый「美しい」は本来 [krɐˈsʲivɨj] だが、ゆっくり発音してくれというと語末のいわゆる半母音が無声化して [krɐˈsʲivɨj̊] になり、その際さらについ力が入って接近音のはずが舌根が向こうの壁に触れてしまい無声摩擦音 [ç] にまでなることがある。これはドイツ語のいわゆるIch-Laut、イッヒ音だ。またцарь「皇帝」は本来 [t͡sarʲ] だが語末のソナントが無声化して [t͡sar̥ʲ] になるのを見た。この例のように口蓋化しているソナントは無声化しやすいのではないかという印象だ。хор [xor]「合唱(団)」のように非口蓋のソナントは無声化しているのはあまり見かけないからである。もっともあくまで「印象」である。
 『137.マルタの墓』で述べたマルタ語にも語末で有声子音が中和される現象があり、これが現代マルタ語の特徴となっている。まだ正書法が確立されていなかった頃、例えば18世紀にDe Soldanisが集めたテキストでは(原文は17世紀にFrancesco Bonamico、マルタ語でFranġisk Bonamicoが書いたものだという)「寒い」がbart と表記してあるが、現代マルタ語の正書法だとbard と書いて、ドイツ語と同じように中和されない前の子音を記することになっている。 d と書いて t と発音するのだ。昔は発音通りに t と書いていたのに今は音韻面を重視して d にしているあたりも中高ドイツ語から現代ドイツ語への正書法の移行といっしょである。それで「まだ」というマルタ語はgħad と書くが [ɐːt] である。 għ は事実上黙字。b、g、b も語末は無声化する。

 トゥルベツコイはこのように特定の位置(解消可能位置)で当該音素が持っていた弁別素性(そせい)の束の一つが弁別機能を失う現象を論ずる際、Archiphomen「原音素」という用語を提唱した(上記)。t とd で言えば、この二つの音素はどちらもさらにその上位音素の表現型である、としたのである。 その上位音素をArchiphonemと名づけ、大文字の /D/ で表すことにした。t とd ばかりではない、k とg が交代する場合はArchiphonemは /G/ である。『音韻論概説』ではこれが次のように説明・定義されている。

… In den Stellungen, wo ein aufhebbarer Gegensatz tatsächlich aufgehoben ist, verlieren die spezifischen Merkmale eines Oppositionsgliedes ihre phonologische Geltung, und jene Züge bleiben relevant, die beiden Gliedern gemein sind (d.i. die Vergleichsgrundlage der betreffenden Opposition). In der Aufhebungsstellung wird somit ein Oppositionsglied zum Stellvertreter des „Archiphonemes“ des betreffenden Gegensatzes – wobei wir unter Archiphonem die Gesamtheit der distinktiven Eigenschaften verstehen, die zwei Phonemen gemeinsam sind.

…対立が解消可能位置で実際に解消される際、対立項の片方が持つ特有なメルクマールは音韻的効力を失うが、双方の項が共通に持っている特徴のほうは有義性(当該対立項を他と区別するための基本となる特性)を保持する。解消可能位置では対立項の一方が当該対立の「原音素」として両項とも具現するのである。そこでこの原音素を二つの音素が共通に持っている弁別的素性(そせい)の総体とみなす。

トゥルベツコイはさらに論を進めて、解消可能な位置で原音素の表現型となる音素のパターンには次の4つが考えられると唱えた。
1.表現型が原音素のどちらの項でもない場合。一瞬「へ?」と思うが、例えばロシア語で唇音が口蓋歯音の前にくると口蓋化・非口蓋化の音韻対立が解消されるが、その際その「原音素表現型」は非口蓋音でも口蓋音でもない、いわば「半口蓋音」になるそうだ。中間の発音になるのである。
2.表現型が原音素のどちらかの項と同じになる場合。これが私たちが「中和」と言われて普通想像するパターンだが、この2のケースでは対立解消が「外部要因によって」、つまり前後の音声環境によって誘発される。ロシア語の例では、非口蓋歯音の前では子音の口蓋・非口蓋の対立が解消されるが、表現型は1で述べた例と違って非口蓋音になる。
3.表現型が原音素のどちらかの項と同じになるのは2のケースと同じだが、中和が周りの音声環境などの外部要因でなく内部の要因に誘発されるもの。解消可能な位置で現れる原音素の表現型では素性(そせい)の一つが弁別性を失うのに対し、重点位置では当該素性(そせい)は重要性を保っているわけだ。言い換えると前者は「原音素+ゼロ」、後者は「原音素+α」。いわゆる「無標・有標」の対立である。
 またこの2者の対立がきっぱりと欠如的privative(『128.敵の敵は友だちか』参照)でなくてグラデーションを帯びることがある。例えばロシア語ではアクセントのない位置で o と a の区別が解消されるが、その表現型は[ʌ] または[ǝ]。本来の o から見れば「狭音性」という素性(そせい)がミニマルになっている。逆に a から見れば「広音性」がやはりミニマルで、どちらも「重点位置では当該素性がミニマル以上」ということだ。うーむ… トゥルベツコイ自身は言っていないが、つまりこの原音素はそれぞれ /a/ および /o/ ということになるのか?
 4.解消可能な位置で原音素の表現型となるのがどちらのメンバーでもありうる場合。例えば日本語ではe とi の前で子音の「口蓋・非口蓋」という対立が解消される、つまり e と i の前が解消可能な位置なのであるが、その際 e の前では非口蓋音が、i の前では口蓋音がそれぞれ原音素の表現型となる。トゥルベツコイが日本語に言及しているのを見て感激した人食いアヒルの子がおせっかいにも噛み砕いて言うと、例えば m は a、u、o の3母音の前でのみ「ま対みゃ」、「む対みゅ」、「も対みょ」という対立がある。ところが「み」と「め」には対応する拗音がない:「み対?」、「め対?」。つまり e と i の前では口蓋性が中和されるのだが、「み」では子音が口蓋化しているのに対し([mʲi])「め」の m は非口蓋音 [me] だ。この観察は本当に鋭いと思うのだが、するとつまり日本語の子音は y を除いて皆原音素ということになるのか?
 
 その後チャールズ・ホケットCharles F. Hocketがこの原音素という観念を批判し、音韻レベルの話を形態論に持ち込んだものであるとしたが、その根本にあったのは原音素などを設定しまうと音素の数が徒に増える上、その配列パターンも崩れるといういかにも構造主義者らしい考えである。もっとも構造主義というのならトゥルベツコイやプラーグ学派のほうが「元祖」だと思うが。
 さらにアダムスM. Adamusという人も「原音素は異形態素を音韻論の観念と交換しようとする試み」と批判したそうだが、この「音韻論と形態論のクロスオーバー」というのはまさにトゥルベツコイがロシア語学で発達させたMorphonologie形態音韻論(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)という分野だ。もちろん他の言語でも見られるが、ロシア語(他のスラブ語も)では異形態素間に現れる音韻交代が特に規則的なのでこういうアプローチが発達したのだろう。形態素内の音韻構造、特に異形態素間の音韻交代のパターンを研究する分野だ。ロシア語の授業では最も頻繁にみられる代表的な音韻交代パターンを暗記させられる。例えば:
с – ш: писать – пишу – пишущий 「書く」、不定形-1人称単数-分詞
к – ш: далёкий – дальше 「遠い」、原級-比較級
г – з(ь) – ж: друг – друзья – дружба 「友人」、単数主格-複数主格-「友情」
к – ч – ц: казак – казачий, казацкий、「コサック」-「コサックの」-「コサックの」
т – щ: осветить – освещу – освещённый、「照らす」、不定形-1人称単数-分詞
ст – щ: простой – проще、「簡単な」、原級-比較級
ск – щ: искать – ищу – ищущий、「探す」、不定形-1人称単数-分詞
д – ж – жд: родить – рожу – рождённый、「生む」、不定形-1人称単数-分詞
б – бл: любить – люблю 「愛する」、不定形-1人称単数
в – вл: ловить – ловлю 「捕まえる」、不定形-1人称単数

この他にも交代パターンがたくさんある。私は当時は単位欲しさだけのために意味も分からず暗記したが、今考えると(今頃にならないと気づかない…)、この音素交代がしっかり頭に入っていれば知らない動詞や形容詞が出てきたときカンが働いて、辞書を引かなくてもそれらがどういう語形変化をするかある程度予想できるようになると思う。


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 日本語のいわゆる格助詞は基本的に使い方がドイツ語などの格体系と並行しているから実は説明しやすい。「が」が主格、「の」が属格、「に」は与格、「を」は対格、「で」が処格あるいは具格という具合に割とスース―説明できる。もちろんこれはあくまで「ドイツ人用の語学の説明」であって、日本語の記述や構造研究、つまり日本語言語学にこういうラテン語の用語をそのまま持ち込むことはできないし、語学にしても細かな補足説明は常に必要になってくる。例えばドイツ語では処格などは名詞や冠詞のパラダイムとしては形を失っているので前置詞を使わないと表現できないものがある。さらにその際付加される名詞の格によって意味が違ってきたりする。典型的なものはin、auf、 an、überなどの対格と与格の両方を支配する前置詞で、対格をとると行為の方向、与格をとれば純粋な処格、つまりその行為が行われる場所を示す。例えばan die Tafel schreiben(「黒板に書く」)ならば対格の die Tafel(「黒板」。最近はホワイトボードというのもあるが)はschreiben(「書く」)という行為が黒板に向かっているという意味、an der Tafel stehen(「黒板に書いてある」)と与格をとれば書いてある場所が黒板ということである。同様にin das Haus gehen と対格ならば「家の中に行く」、in dem Haus lesenと与格ならば「家で読書する」。この与格対格の違い、方向か場所かの違いは日本語だと基本的に「に」対「で」で表せるのだが、「に」が純粋に処格を意味する場合があるからややこしい。上の「黒板に書いてある」もそうだが動詞が本当の意味での行為を現さず、単に「ある」とか「いる」などの存在を表現するもの、言い換えると動詞自身の意味内容が希薄で場所のほうに焦点が置かれている場合は「に」を使うのである。2番目の例も動詞が「読書する」でなく「いる」になると助詞は「に」になって「家にいる」。「家でいる」とは言えない。この「に」と「で」を使い分けられないドイツ人はかなりいる。ドイツ語ではこういう区別がないからである。しかし逆もあってドイツ語ではすんなり表せるが、日本語だとズバリとは表現できない違いもある。例えばeine Ente fliegt über den See(対格)とeine Ente fliegt über dem See(与格)はどちらも「アヒルが一羽湖の上を飛ぶ」(アヒルは飛べないから「カモ」と訳すべきかもしれない、と寒いギャグを言ってみる)だが、対格ではアヒルは湖の上空を通過して渡って行っているのに対し、与格だとアヒルが湖の上空を旋回していることになる。この違いは日本語の格助詞では表せない。
 このようにドイツ語では方向と場所の違いが対格対与格の差になっているが、ロシア語やクロアチア語だとこの違いは対格対前置格あるいは処格の差となる(ロシア語で前置格と呼ばれているものは事実上処格のことである)。アヒルが旋回する場合「湖」が与格でなく処格になるのだ。スラブ諸語は名詞の格を6つあるいは7つ保持している一方、ドイツ語では4つしか残っておらず処格の機能を与格が吸収してしまったからだ。つまり旋回アヒルの湖は処格をとるのが本来の姿なのである。

 いわゆる印欧祖語には8つの名詞格を区別したと思われる。実際に例えばサンスクリットでは主格nominative、呼格vocative、対格accusative、具格instrumental、与格(あるいは為格)dative、奪格ablative、属格genitive、処格locativeと語尾変化する。それが時代が下るにしたがって格が融合し、スラブ語派では奪格と属格が、イタリック語派では奪格と具格が、ドイツ語などのゲルマン語派では奪格、処格、具格が融合してしまった。細かく言えばロシア語はそこからさらに形としての呼格を失い、ラテン語では処格形が消失した。それでロシア語は現在名詞のパラダイムとしては主格・属格(あるいは生格)・与格・対格・具格・前置格(処格)6つとなっているわけだ。クロアチア語がこれに加えていまだに呼格形を保持している、つまり7格あることは『90.ちょっと、そこの人!』で述べたとおりである。ラテン語も6格ではあるが内容が違っていて、主格・属格・与格・対格・奪格・呼格となっている。このうち呼格は o-語幹の男性名詞単数にしか残っていない。8格保持しているサンスクリットでも単数では奪格と属格が、複数では奪格と与格(為格)が融合してしまっていた。両数ではさらに格融合が進んでいる。余談だが、現在私たちが一般に使っている格の順番、主→属→与→対→その他というのはラテン語文法から来ているので、サンスクリットなどではこの順番が違う(上記参照)。学習以前にすでにこれで戸惑った人もいるのではないだろうか。
 形としての格が失われてしまうと、何らかの措置を外から施して本来名詞の語尾変化形が受け持っていた機能を明確にしてやる必要が出てくる。例えばあちこちで他の格と併合の憂き目にあっている奪格。これは起点を表す格であるが、パラダイムとしての語尾形が消失してしまったのでそれを埋め合わせるため前置詞が使われるようになった。奪格と具格の区別がなくなってしまったラテン語では奪格という形だけでは起点を表すことができなくなり、ab、ex、de などの前置詞を奪格名詞の前に付加するようになったのだ。具格を表したいときは cum+奪格。現在のドイツ語や英語などは前置詞なしではもうどうにもならない。後者では起点はvon、aus (英語のfrom)という前置詞を与格名詞の前に置いて表現する。

 日本語で奪格を表す助詞は「から」であろうが、よく見てみると上述の与格・処格助詞「に」も奪格として作用することがある。例えば:

1.私はその人に本をあげました。
2.私はその人に本をもらいました。

では、1の「その人に」は意味の上でも与格である。ドイツ語でも

Ich gab dem Mann ein Buch.

で、その人が与格形になっている。対して2の「その人」は格の意味としては奪格である。現にこの「その人」を「その人から」と入れ替えて「私はその人から本をもらいました」としても文の意味が変わらない。さらに

3.私はパステルナークさんロシア語を習いました。
4.私はパステルナークさんからロシア語を習いました。

は意味が同じだ。ここの「に」は奪格である。つまり全く方向性が逆の事象を同じ助詞が表しているわけだ。この奪格の「に」もドイツ人は理解するのに手間取る人が多い。そこで私は勇気づけのために「いや~、本当に日本語って意地が悪いですね。与格と奪格をいっしょの後置詞で表すんですから。なんなんだこれは、と思う気持ちよくわかります。」と自虐的な冗談を飛ばしていたのだが、最近これと似た、全く同じ形で与格と奪格という正反対な方向を表す意地の悪い構造がドイツ語にもあることに気づいた。日本語だけが性格の悪い言語ではなかったのである。例えば次のようなセンテンスを新聞で見ておやと思ったのだが、

5.Die Hoffnung auf einen klaren Sieg entsprang jedoch Wunschdenken.
はっきりと勝ちたいという希望が「だといいな」という考えから湧き出てきた。

ここでは、Wunschdenken「だといいなという考え」は与格であるが、「から」をつけて奪格としてしか訳せない。つまりこの名詞は形としては与格だが機能的には奪格なのだ。
これをきっかけにしてさらに思いめぐらしてみると思いつくわ思いつくわ。

6.Dieser Aussage ist zu entnehmen, dass …
この発言から次のようなことが読み取れる、すなわち…

ここでも「この発言」(太字)は形は与格だが、意味は奪格である。もっともこれら2例では動詞にent- という前綴りがついていることを理由にして「これは動詞のバレンツとして与格が要求されるから与格が来ているのであって、与格形そのものが奪格の意味を持っているのではない。つまり動詞の支配の問題に過ぎない」という説明も成り立つが、さらにこういう文も思いついてしまった。

7.Ich nahm dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを取った。

8.Ich stahl dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを盗んだ。

「もうちょっとどうにかした例文を考えつかないのか」とネイティブに文句を食らったが、2文とも文法的には正しい。この文で「その人から」dem Mann(太字)は与格形である。ここで奪格性を明確にするため前置詞を付加してそれぞれ

9.Ich nahm von dem Mann seine Ente.

10.Ich stahl von dem Mann seine Ente.

ということもできるが「そういう文はエレガントじゃない」というのが先のネイティブの言であった。なくても意味が分かるような前置詞を無駄・余計に加えるのは「ダサい」そうである。これらの動詞「取る」(不定形nehmen)、「盗む」(不定形stehlen)はどちらもバレンツとしては与格を要求しない。そんなもんがなくても対格目的語と主格主語だけあれば完全な文として成立する。つまりこの与格名詞は奪格機能を持っているのだ。そういうことを考えているとさらに以下のような文を新聞で見つけた。

11.Dass … dem Verein Sponsoren abspringen.
その協会からスポンサーが手を引くということ。

この与格名詞dem Verein(「その協会から」)も意味的には奪格である。面白いことに独和辞書には(von + 3) abspringenという使い方しか載っていない。von という前置詞を名詞に付加せよということだから、つまり上の7~10の例とパターンがいっしょではないか。

 そこでこれらの奪格機能を持った与格形を文法書ではどう説明しているのか調べてみた。まず日本語のドイツ語広文典では与格の用法として「つぎのような意味の他動詞は対格の事物目的語の他に与格の人物目的語を支配する」として geben(「与える」)などの動詞とともにまさに上で出したnehmen、stehlenなどの動詞も例として掲げている。しかし7と8のような文の中の与格名詞を「目的語」と名付けるのは非常に疑問だったので念のためドイツ語のDuden を参照してみたら疑問はさらに拡大してこの著者は与格に奪格的な機能があることそのこと自体をまったく無視しているか、まさかのまさかだが思い至らなかったのではないかと疑うに至った。Duden では与格の人物目的語の一つとして以下のように説明されている。

Eine Person, … zu deren Vorteil oder Nachteil etwas geschieht. Mann spricht hier von einem Dativus commodi und incommodi.
何かその人にとってメリットあるいはデメリットになるようなことが起こる人物。それぞれcommodi の与格(メリット)及び incommodi の与格(デメリット)という。

一瞬このincommodi の与格というのが私の言う奪格の与格かと思うが、挙げてある例を見るとそういう意味ではないことがわかる。

12.Sie hat mir den Teller zerbrochen.
彼女は私に対して皿を割った→彼女は私の皿を割った

「私」が与格となっているが(太字)、これがいわゆるincommodi の与格というものだろうが、与格名詞のデメリットになっているとは言え、行為の方向はやっぱり私のほうを向いている。奪格ではない。さらに例として

13・Er hat ihr (für sie) einen Apfel gestohlen.
彼は彼女に(彼女のために)林檎を盗んだ。

という文が掲げてある。括弧内の (für sie)(「彼女のために」)というのは原文ですでに入っている。私が付け加えたのではない。だからこの文の意味は、「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」ということだ。これも方向は明確に与格の「彼女」(太字)を向いている。
 するとこの構造Er hat ihr einen Apfel gestohlen.は多義的ということ、日本語の「山田さんあげる」と「山田さん貰う」に似て同じ形が正反対の方向性を示していることになる。「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」(意味としての与格)と「彼は彼女から林檎を盗んだ」(意味としては奪格)である。ネイティブに聞いてみたら与格の意味の方、「盗んだ林檎を彼女にあげた」ほうは文学的・古風なニュアンスで「日常会話にはあまり使わないだろ」とのことである。
 いずれにせよ、似ている点はあってもincommodi の与格は奪格の与格と完全には一致しない。上のドイツ語広文典で「与格の人物目的語」ではこの「デメリットの与格」さえ言及されていないのとすると著者は「彼女のために」という意味しか念頭に置いていなかったのだろうか。
 私には融合の憂き目を見た奪格の機能が与格にくっついて細々と生き残っているように見えてならない。
 

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