アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

本を出しました。詳しくは右の「カテゴリー」にある「ブログ主からのお知らせ」をご覧下さい。
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 日本語のいわゆる格助詞は基本的に使い方がドイツ語などの格体系と並行しているから実は説明しやすい。「が」が主格、「の」が属格、「に」は与格、「を」は対格、「で」が処格あるいは具格という具合に割とスース―説明できる。もちろんこれはあくまで「ドイツ人用の語学の説明」であって、日本語の記述や構造研究、つまり日本語言語学にこういうラテン語の用語をそのまま持ち込むことはできないし、語学にしても細かな補足説明は常に必要になってくる。例えばドイツ語では処格などは名詞や冠詞のパラダイムとしては形を失っているので前置詞を使わないと表現できないものがある。さらにその際付加される名詞の格によって意味が違ってきたりする。典型的なものはin、auf、 an、überなどの対格と与格の両方を支配する前置詞で、対格をとると行為の方向、与格をとれば純粋な処格、つまりその行為が行われる場所を示す。例えばan die Tafel schreiben(「黒板に書く」)ならば対格の die Tafel(「黒板」。最近はホワイトボードというのもあるが)はschreiben(「書く」)という行為が黒板に向かっているという意味、an der Tafel stehen(「黒板に書いてある」)と与格をとれば書いてある場所が黒板ということである。同様にin das Haus gehen と対格ならば「家の中に行く」、in dem Haus lesenと与格ならば「家で読書する」。この与格対格の違い、方向か場所かの違いは日本語だと基本的に「に」対「で」で表せるのだが、「に」が純粋に処格を意味する場合があるからややこしい。上の「黒板に書いてある」もそうだが動詞が本当の意味での行為を現さず、単に「ある」とか「いる」などの存在を表現するもの、言い換えると動詞自身の意味内容が希薄で場所のほうに焦点が置かれている場合は「に」を使うのである。2番目の例も動詞が「読書する」でなく「いる」になると助詞は「に」になって「家にいる」。「家でいる」とは言えない。この「に」と「で」を使い分けられないドイツ人はかなりいる。ドイツ語ではこういう区別がないからである。しかし逆もあってドイツ語ではすんなり表せるが、日本語だとズバリとは表現できない違いもある。例えばeine Ente fliegt über den See(対格)とeine Ente fliegt über dem See(与格)はどちらも「アヒルが一羽湖の上を飛ぶ」(アヒルは飛べないから「カモ」と訳すべきかもしれない、と寒いギャグを言ってみる)だが、対格ではアヒルは湖の上空を通過して渡って行っているのに対し、与格だとアヒルが湖の上空を旋回していることになる。この違いは日本語の格助詞では表せない。
 このようにドイツ語では方向と場所の違いが対格対与格の差になっているが、ロシア語やクロアチア語だとこの違いは対格対前置格あるいは処格の差となる(ロシア語で前置格と呼ばれているものは事実上処格のことである)。アヒルが旋回する場合「湖」が与格でなく処格になるのだ。スラブ諸語は名詞の格を6つあるいは7つ保持している一方、ドイツ語では4つしか残っておらず処格の機能を与格が吸収してしまったからだ。つまり旋回アヒルの湖は処格をとるのが本来の姿なのである。

 いわゆる印欧祖語には8つの名詞格を区別したと思われる。実際に例えばサンスクリットでは主格nominative、呼格vocative、対格accusative、具格instrumental、与格(あるいは為格)dative、奪格ablative、属格genitive、処格locativeと語尾変化する。それが時代が下るにしたがって格が融合し、スラブ語派では奪格と属格が、イタリック語派では奪格と具格が、ドイツ語などのゲルマン語派では奪格、処格、具格が融合してしまった。細かく言えばロシア語はそこからさらに形としての呼格を失い、ラテン語では処格形が消失した。それでロシア語は現在名詞のパラダイムとしては主格・属格(あるいは生格)・与格・対格・具格・前置格(処格)6つとなっているわけだ。クロアチア語がこれに加えていまだに呼格形を保持している、つまり7格あることは『90.ちょっと、そこの人!』で述べたとおりである。ラテン語も6格ではあるが内容が違っていて、主格・属格・与格・対格・奪格・呼格となっている。このうち呼格は o-語幹の男性名詞単数にしか残っていない。8格保持しているサンスクリットでも単数では奪格と属格が、複数では奪格と与格(為格)が融合してしまっていた。両数ではさらに格融合が進んでいる。余談だが、現在私たちが一般に使っている格の順番、主→属→与→対→その他というのはラテン語文法から来ているので、サンスクリットなどではこの順番が違う(上記参照)。学習以前にすでにこれで戸惑った人もいるのではないだろうか。
 形としての格が失われてしまうと、何らかの措置を外から施して本来名詞の語尾変化形が受け持っていた機能を明確にしてやる必要が出てくる。例えばあちこちで他の格と併合の憂き目にあっている奪格。これは起点を表す格であるが、パラダイムとしての語尾形が消失してしまったのでそれを埋め合わせるため前置詞が使われるようになった。奪格と具格の区別がなくなってしまったラテン語では奪格という形だけでは起点を表すことができなくなり、ab、ex、de などの前置詞を奪格名詞の前に付加するようになったのだ。具格を表したいときは cum+奪格。現在のドイツ語や英語などは前置詞なしではもうどうにもならない。後者では起点はvon、aus (英語のfrom)という前置詞を与格名詞の前に置いて表現する。

 日本語で奪格を表す助詞は「から」であろうが、よく見てみると上述の与格・処格助詞「に」も奪格として作用することがある。例えば:

1.私はその人に本をあげました。
2.私はその人に本をもらいました。

では、1の「その人に」は意味の上でも与格である。ドイツ語でも

Ich gab dem Mann ein Buch.

で、その人が与格形になっている。対して2の「その人」は格の意味としては奪格である。現にこの「その人」を「その人から」と入れ替えて「私はその人から本をもらいました」としても文の意味が変わらない。さらに

3.私はパステルナークさんロシア語を習いました。
4.私はパステルナークさんからロシア語を習いました。

は意味が同じだ。ここの「に」は奪格である。つまり全く方向性が逆の事象を同じ助詞が表しているわけだ。この奪格の「に」もドイツ人は理解するのに手間取る人が多い。そこで私は勇気づけのために「いや~、本当に日本語って意地が悪いですね。与格と奪格をいっしょの後置詞で表すんですから。なんなんだこれは、と思う気持ちよくわかります。」と自虐的な冗談を飛ばしていたのだが、最近これと似た、全く同じ形で与格と奪格という正反対な方向を表す意地の悪い構造がドイツ語にもあることに気づいた。日本語だけが性格の悪い言語ではなかったのである。例えば次のようなセンテンスを新聞で見ておやと思ったのだが、

5.Die Hoffnung auf einen klaren Sieg entsprang jedoch Wunschdenken.
はっきりと勝ちたいという希望が「だといいな」という考えから湧き出てきた。

ここでは、Wunschdenken「だといいなという考え」は与格であるが、「から」をつけて奪格としてしか訳せない。つまりこの名詞は形としては与格だが機能的には奪格なのだ。
これをきっかけにしてさらに思いめぐらしてみると思いつくわ思いつくわ。

6.Dieser Aussage ist zu entnehmen, dass …
この発言から次のようなことが読み取れる、すなわち…

ここでも「この発言」(太字)は形は与格だが、意味は奪格である。もっともこれら2例では動詞にent- という前綴りがついていることを理由にして「これは動詞のバレンツとして与格が要求されるから与格が来ているのであって、与格形そのものが奪格の意味を持っているのではない。つまり動詞の支配の問題に過ぎない」という説明も成り立つが、さらにこういう文も思いついてしまった。

7.Ich nahm dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを取った。

8.Ich stahl dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを盗んだ。

「もうちょっとどうにかした例文を考えつかないのか」とネイティブに文句を食らったが、2文とも文法的には正しい。この文で「その人から」dem Mann(太字)は与格形である。ここで奪格性を明確にするため前置詞を付加してそれぞれ

9.Ich nahm von dem Mann seine Ente.

10.Ich stahl von dem Mann seine Ente.

ということもできるが「そういう文はエレガントじゃない」というのが先のネイティブの言であった。なくても意味が分かるような前置詞を無駄・余計に加えるのは「ダサい」そうである。これらの動詞「取る」(不定形nehmen)、「盗む」(不定形stehlen)はどちらもバレンツとしては与格を要求しない。そんなもんがなくても対格目的語と主格主語だけあれば完全な文として成立する。つまりこの与格名詞は奪格機能を持っているのだ。そういうことを考えているとさらに以下のような文を新聞で見つけた。

11.Dass … dem Verein Sponsoren abspringen.
その協会からスポンサーが手を引くということ。

この与格名詞dem Verein(「その協会から」)も意味的には奪格である。面白いことに独和辞書には(von + 3) abspringenという使い方しか載っていない。von という前置詞を名詞に付加せよということだから、つまり上の7~10の例とパターンがいっしょではないか。

 そこでこれらの奪格機能を持った与格形を文法書ではどう説明しているのか調べてみた。まず日本語のドイツ語広文典では与格の用法として「つぎのような意味の他動詞は対格の事物目的語の他に与格の人物目的語を支配する」として geben(「与える」)などの動詞とともにまさに上で出したnehmen、stehlenなどの動詞も例として掲げている。しかし7と8のような文の中の与格名詞を「目的語」と名付けるのは非常に疑問だったので念のためドイツ語のDuden を参照してみたら疑問はさらに拡大してこの書写は与格に奪格的な機能があることそのこと自体をまったく無視しているか、まさかのまさかだが、知らなかったのではないかと疑うに至った。Duden では与格の人物目的語の一つとして以下のように説明されている。

Eine Person, … zu deren Vorteil oder Nachteil etwas geschieht. Mann spricht hier von einem Dativus commodi und incommodi.
何かその人にとってメリットあるいはデメリットになるようなことが起こる人物。それぞれcommodi の与格(メリット)及び incommodi の与格(デメリット)という。

一瞬このincommodi の与格というのが私の言う奪格の与格かと思うが、挙げてある例を見るとそういう意味ではないことがわかる。

12.Sie hat mir den Teller zerbrochen.
彼女は私に対して皿を割った→彼女は私の皿を割った

「私」が与格となっているが(太字)、これがいわゆるincommodi の与格というものだろうが、与格名詞のデメリットになっているとは言え、行為の方向はやっぱり私のほうを向いている。奪格ではない。さらに例として

13・Er hat ihr (für sie) einen Apfel gestohlen.
彼は彼女に(彼女のために)林檎を盗んだ。

という文が掲げてある。括弧内の (für sie)(「彼女のために」)というのは原文ですでに入っている。私が付け加えたのではない。だからこの文の意味は、「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」ということだ。これも方向は明確に与格の「彼女」(太字)を向いている。
 するとこの構造Er hat ihr einen Apfel gestohlen.は多義的ということ、日本語の「山田さんあげる」と「山田さん貰う」に似て同じ形が正反対の方向性を示していることになる。「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」(意味としての与格)と「彼は彼女から林檎を盗んだ」(意味としては奪格)である。ネイティブに聞いてみたら与格の意味の方、「盗んだ林檎を彼女にあげた」ほうは文学的・古風なニュアンスで「日常会話にはあまり使わないだろ」とのことである。
 いずれにせよ、似ている点はあってもincommodi の与格は奪格の与格と完全には一致しない。上のドイツ語広文典で「与格の人物目的語」ではこの「デメリットの与格」さえ言及されていないのとすると著者は「彼女のために」という意味しか念頭に置いていなかったのだろうか。
 私には融合の憂き目を見た奪格の機能が与格にくっついて細々と生き残っているように見えてならない。
 

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 EUに属している国の国民にとって最高位の選挙は国会議員選でなくEU議会議員選挙である。
裁判についても日本なら最高裁が判決を出したらそこで決定だがEUではさらにその上のEU法廷というものがあるから、最高裁の判決がひっくり返ることもある。つまり一国といえども好き勝手がやれないわけで、ナショナリストがEUを目の敵にするのはこの点にもあるわけだ。確かにちょっと外から批判されただけで「ここは〇〇だ、内政干渉すんな」と敏感に騒ぎ出すタイプの人には耐えられないだろう。
 さてこのEU議会選だが、毎回投票率がいまひとつ低い。どうもEUというと雲の上過ぎて実生活とあまり直結していないからかもしれない。前回は確か投票率が50%を割っていた。私はまじめな市民なので(どこが?)どんなものにしろ今まで選挙に棄権したことがない。今回のEU議会選もきちんと票を入れた。地方議会選も同時にやったので、二つの選挙に投票することになった。
 
 有権者には選挙日のかなり前に通知が来るのでその手紙と身分証明書を持って指定の投票所に行く。この通知は郵便での投票や指定以外の投票所での投票を望む場合の申し込み書も兼ねている。選挙日の相当前に来るからついなくしたり忘れたりしそうになる。現に投票所で通知を提出してくださいと言われて「え?そんな手紙貰いましたっけ?」と言い放っていた人がいた。係の人も一瞬天を仰いでいたが、幸いなくした人用に予備の書類があるらしく、他の係りのところに行って記入してもらい事なきを得ていた。もっともこれはなくした人がきちんと身分証明書を提示したからである。さすがに身分証明書を忘れたら家まで取りにやらされるのではないだろうか。通知には投票所と日にちが書いてあるから「そんな手紙」の存在さえ忘れている人がなぜきちんと期日に所定の場所に来たのかという疑問がわくが、これは選挙の通知と別個に地方選の立候補者のリスト(後述)が前もって送られてくるからである。そこに選挙日が書いてある。また投票所も何十年も変わらないから選挙しなれた人なら自動的にそのいつもの投票所に行く。もっとも選挙しなれた人がどうして通知の存在が頭から抜けたのか謎だが、これも選挙に行くことが完全にルーチンワーク・デフォになっているとその当たり前のことを通知されてもいちいち覚えていられなくなるのかもしれない。ヤコブソンの言う「無標」unmarkedである。

私のところに来た選挙通知。
wahlbenachrichtigung1

裏は郵便投票などの申請用紙となっている。
wahlbenachrichtigung2

 投票所でEU議会候補のリストを渡されるが、これは党単位である。立候補した党がずらっと並んでいるやたらと長いリストをくれるので、その中の一つにマークを入れるのだ。雨後のタケノコのように湧いて出た泡沫政党が多くて「なんじゃこりゃ?」とスリル満点なリストである。私はさる大手の党に入れたが、ここは今回EU中で大躍進した。極右の天敵となった党だが、選挙後に大学の人にちょっと「何処に入れましたか?」と聞いてみたら聞く人聞く人この党で笑った。そういえば大きな大学のある町はどこもここの党が強い。
 また今回は投票率も「前回と比べて飛躍的に伸びて」、60%強だったそうだ。確かに前回の50%に比べれば飛躍的に高いがそれでも60%というのは低くないか?

 さて上にも書いたようにここは地方選挙も同時に行った。一つ一つの選挙をバラバラにやると効率が悪いからまとめられるものはまとめるのだ。この地方選挙はEU議会選と違って投票の仕方がやたらと複雑である。だから投票所で混乱しないようにあらかじめ候補者リスト(つまり投票用紙)を配り、票の入れ方も詳しく支持し、選挙者がすでに家で投票用紙に記入して来られるようにしてある(上記参照)。投票所ではその用紙を渡すだけでいいが、前もって準備させるだけあってこの投票方法がまた複雑だ。順を追って説明すると次のようになる。
1.リストは全部で13ページあり、切り離せるようになっている。
2.それぞれ1ページに1政党の候補者がリストアップされている。つまり候補政党は13あるわけだが、1政党ごとに48人まで候補者が認められている。小政党だとその48人を集めらないところもあって立候補者が4人の政党などもある。もちろん普通の党なら48人書いてある。
3.投票者は全部で48ポイントまで投票権(投票点?)を持つ。
4.ある党の立候補者に全員票を入れたい人(つまり党単位に投票したい人)は、当該政党のページを切り離して全く何も書かずに投票箱に入れる。暇だったら候補者の名前の脇に全員1と書き込んで出してもいい。これで合計48ポイントとなる。
5.党単位でなく人物単位で投票したい人もいる。そういう場合は複数の党のページを切り離して当該候補者の脇に1と書き込み、切り取った複数ページを渡す。うっかり48人以上の人に票を入れてしまったらポイント制限に引っかかって無効票となる。
6.この人物には特に当選してもらいたい、と思っている人もいる。そういう人は一人の候補者に3点まで投票することができる。つまり1点、2点、3点というグラデーション投票が可能なのである。この場合も投票したい候補者のいる政党ページをすべて切り離して名前の脇に1、2、3などの数字を書き込む。合計点が48を超えたら無効票である。例えば全員に3点投票したら16人しか選べないのだ。

Did you understand?

 私は前回は候補者単位で投票したので電卓で合計点を確認しながら書き込んだが今回は党単位、さる政党のページを白紙で出した。EU議会とは別の党である。

投票用紙にはこんな手紙が添えられている。
brief


 地方選リストは選挙通知のずっと後から来るし、ボッテリとぶ厚い手紙なのでさすがに貰ったことを忘れる人はいないだろう。もっともそれでも貰ってから投票日までに時間があったのでちょっと各々の候補政党の様子を見てみた。立候補した13の政党とはつぎのようなものである。
SPD(社会党・革新)
CDU(キリスト教民主党・保守)
GRÜNE(緑の党)
Freie Wähler(大政党に属さないやや保守系の人の集まり)
AfD(極右)
Die Linke(共産党)
FDP(ネオリベ)
MfM(中流層市民のためのローカルな政党)
NPD(ズバリナチ。まだいたとは驚き)
Die PARTEI(言っていることが玉虫色でよくわからないローカル政党)
MVP(名前からすると多分保守系のローカル政党)
Tierschutzpartei(動物保護政党)
BIG(候補者が全員トルコ系の名前の政党)

そこであまり意味はないが立候補者に博士号持ちがどのくらいいるかどうか調べてみた。立候補者の住所と職業はリストに記されるが学歴は特に発表されない。が前にも書いたようにドイツでは博士号を取るとDr. という称号を前につけたのが正式な名前となるので、例えば Dr. Robert Müllerとなり、すぐわかるのだ。結果はこうなった。
SPD                    8人→16.6%
CDU                   6人→12.5%
GRÜNE              5人→10.4%
Freie Wähler       8人→16.7%
AfD                      2人→4.2%
Die Linke             3人→6.3%
FDP                     9人→18.8%
MfM                    0人→0%
NPD                    0人→0%
Die PARTEI        0人→0%
MVP                   0人→0%
Tierschutzpartei 0人→0%
BIG                    0人→0%

ネオリベのFDP(太字)が最も多いが、ここは医者とか弁護士、または経済経営学の大学教授などに支持者が多いのでまあうなずけるところだ。しかしいわゆる全国政党なら庶民・労働者の政党にさえ結構博士持ちがいることがわかる。『96.日本は学歴社会か』でも述べたが、ドイツには博士号持ちがウジャウジャいるので昔日本で言われていた「末は博士か大臣か」という言葉は意味を持たない。博士など全然「偉い人」ではないからである。ついでにいえば大臣というのもあまり偉い人という連想がない。立法にしろ行政にしろ、政治家はあくまで国民の公僕という意識が強く「ちゃんと仕事しろコラ」とハッパをかけられる存在だ。日本だって最近はそうだろう。しかし博士がやたらといるからといってさすがに国民の16%はいまい。やはり政治は学歴の高い者がある程度牛耳っているようだ。ドイツ(だけではあるまいが)の学歴社会ぶりを垣間見る思いである。

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 ロマニ語話者が言語調査をしに来た言語学者に拒否的な態度をとることがあると『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で述べたが、アイヌ語の話者にも日本人の言語学者に対してそういう態度をとる人がいたらしい。当時発行されていた『月間言語』という雑誌にアイヌの人がそういう趣旨の投稿をしていたのを実際見たし、言語学者側の服部四郎氏もアイヌ語をフィールドワークした際、言語学者たちがアイヌ語の調査をするのは本を出したり講演したりしてお金を儲けるためだと誤解する人がいなくはなかった、と述べている。月間言語の投稿の執筆者も「ほとんどは学者先生の富と名声を築くために行われた作業…モノでも扱うような見下げた態度で」とのべている。しかし残念ながらこれは誤解である。なぜなら言語学者が本を書いたりたまに講演などしても全くお金など儲からないからだ。下手をすると出版費用は学者持ち、学会での講演だってむしろするほうが参加費や会費を払うものなのだ。そもそも言語学という分野そのものがマイナーであって、そんな分野で本など出しても金にも話題にもならない。1980年代にシュメール語が能格言語だという世界級の発見がなされた時のマスコミの冷たさをみてもわかる(『51.無視された大発見』参照)。構造主義の考え方にしても人類学者が使いだしてからやっと世間の人たちにも広がったが、その元の元の大元であるトゥルベツコイやヤコブソンの言語学・音韻論などはほとんど無視されている。普通の頭を持っている人は金や名声が欲しかったら絶対言語学などやらない、経済経営学かIT工学でも専攻するだろう。
 非母語者による言語記述を母語者が見るとある種の違和感を感ずることは確かにある。それで上述のアイヌの人も別箇所でその記述は「水分も血液も無くなった死体を解剖するような、血も涙も無い干涸びた学説ばかり」と言いたくなったのだろうが、これもある意味では誤解で、まさにその「違和感」が非母語者による言語記述のレゾン・デートルなのである。母語者が無意識にやっていることを可視化されると誰でも「えっ?」と思うからだ。あまりにも無意識にやっていたので母語者が見落としていること、また逆に規範文法に目をくらまされて見えないでいた言語事実も非母語者は見落とさないからだ。「日本語は外から見るとこういう言語である」、それを知る必要があるのだ。むしろ「干涸びた」無味乾燥な記述でなければいけないのである。ラテン語文法を核にして日本語を記述したロドリゲスの日本語文典などいまだに十分読むに耐えるのはそのためだ。

 しかし反面、ロマニ語やアイヌ語の話者の気持ちはよくわかる。言語学でなく語学のほうでそういう感じをもたされることが少なくないからだ。一言でいうと「母語をダシにされる屈辱感」である。日本国内の留学生や外国人の会社員が日本語を勉強したり、言語学者が自分の研究のためにアイヌ語をやったりする場合はある意味自分の生活がかかっているわけだから本当に当該言語を覚えようと思っている。真剣さの程度はやや落ちるが大学の第二外国語もまあ単位、ことによると卒業がかかっているのでついていこうとする。それに対して日本国内にいるのでもなく、単位がかかっているわけでもなく、職業的興味もないのに単なるファッションで日本語をやりに来る人もいる。そういう人はそもそも真剣に語学の勉強などやる気がない。あくまで「お楽しみ」でしかないのだ。
 彼らはごく簡単な日本語のフレーズ、「こんにちは」とか「さようなら」とか「〇〇をください」などの決まり文句を口にして日本語をしゃべっている気になりたいだけなので、
ちょっとでも難い話、例えば文法のことになるともう勉強する気が失せる。「日本語にとても興味がある」といってやってきて、文字を見せられたら「これ、本当に覚えなければいけないんですか?」と驚き次から消えた人がいる。文字や文法ばかりではない、発音もそうだ。「もう〇年間日本語をやりました」というのに「はい」「今」「何」がどうしても言えずにいた人がいたから(それぞれ「灰」、「居間」、「ナニ」になってしまう)、ちょっと練習してもらったらむくれられた。むくれられるだけならまだいい方で、「どうしてそんな高低アクセントがあるんですか日本語は?!」とか「アクセントなんて方言差があるし、意味はコンテクストから判断できるからやらなくていいと前の先生に言われました!」とか食ってかかられたことさえある。やってできないのではない、最初から練習する気がないのだ。またやらせるほうだって怖い顔をして命令したわけではない。一生懸命身振りもまじえ、にこやかな顔をしてお願いしたのだ。
 こういう、ファッション語学者は実はまじめに勉強したい人の足も引っ張っている。少し前に村上春樹がエッセイで書いていた。スペイン語を勉強しにいったら、クラスのメンバーの一人がこのタイプの皆の邪魔にしかならない「たまんない男」で、そのために氏はそのクラスでのスペイン語学習そのものを放棄してしまった。講師にはまったく不満はなかったが、これでは勉強にならないと思ったそうだ。私の知り合いも夜の学校でヒンディー語を勉強していたところ、クラスの皆から「先生が厳しすぎる」と文句が出たそうだ。その先生は熱心な先生で宿題なども出し、次回にその宿題をベースにして授業を始めるので家できちんと勉強してこないとついていけない。そうしたら生徒側から「私たちは楽しみのために勉強しているんだ。宿題なんか出されたら全然楽しくない」と声があがったというから驚く。知り合いその人は「私は勉強したいから宿題はむしろ歓迎」といったら今度はクラスメートからガリ勉とかなんとか言われたという。お楽しみが欲しかったら語学の勉強などしないでビールでも飲みに行けばいいのに、と思うのだが。
 これを例えると、パンダが大好きな人がいて、ぬいぐるみを集めたり写真を見たりするが、生物としてのパンダの姿は全く見ようとしないようなものだ。エキゾチックでキャーカワイイという自分のイメージを膨らませたいだけで、真剣に生態を研究したり、時々自分の手を切りながら笹を集め糞の掃除をして飼育したりする、つまり本当にパンダとかかわる気は全くない。下手をすると本物のパンダはぬいぐるみほどモフモフしていないからイメージを壊されるといって邪魔にしかねない。つまりパンダ、あるいは日本語をダシにして精神的自慰、といって悪ければ自己陶酔しているだけである。教える側にも相手のエキゾシズム自慰に便乗しているような感じの人がたまにいる。動物園訪問者のイメージ通りに芸をしてやる悲しきパンダだ。『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたように私がエキゾチックジャパンを不自然に強調して相手のぬいぐるみ願望に訴えるタイプの教科書が嫌いなのもそのためだ。自らをキャーカワイイ的見世物として提供する。これは自分の尊厳を自分で貶めていることにはならないのか。「需要に合わせる」ということなのだろうか。考え込んでしまう。

 さらにこのダシが自慰を超えてマウンティングの材料になることがある。自慰なら基本自分一人でやっているから怒るのは今更発音を直されたりしてその行為を邪魔されたときだけなので放っておけるのだが、マウンティングになると黙ってそばに立っているだけで巻き込まれる。「ワタシ日本語やっているのよ、できるのよ」という自慢話の聞き役をやらされるのだ。自慢を聞かされるのは全く日本語のできない人たちであることが多いが、時によるとネイティブまでがサンドバックにさせられることがある。経験したことはないだろうか、自称「すでに日本語をやったことがある」学習者が日本語の授業にやってくる、それはいいのだがその意図はさらに勉強を進めることではなくて周りの(初心者学習者に)「どうだ私はできるだろう」と見せびらかしたい、講師に「本当にお上手ですね」とほめてもらいたいことにあるのが露骨に感じ取れるタイプの学習者を。上で述べた人もひょっとしたら「あなたの日本語は完璧だ、よくできる」と言ってもらうつもりだったのがアテが外れてムッとしたのかもしれない。講師が日本語非母語者だったら、「あの先生は私より日本語ができない」とかなんとか人のせいにすることもできただろうが、さすがにネイティブ相手だとその論法が効かず、マウント願望が宙に浮いてしまったのか。こういうタイプは大抵次から来なくなる。生活も単位もかかっていないとやめるのも実に早い。
 マウンティングのさらなる発展形として「自分より当該言語が出来るネイティブを邪魔者扱い、敵視する」というのがある。もっともこれは日本の英語教師の帰国子女いじめなどにもみられる通り日本語学習者に限ったことではないが。以前にスペイン語のネイティブも、スペイン語学部を取り仕切っている非ネイティブの教授かなんかに煙たがられたという話をしていた。
 自慰にしてもマウンティングにしても対象がエキゾチックなマイナー言語である場合のほうが程度がはなはだしい。例えば世界言語の英語なら実際にできる人も多いし、できる基準も皆わかっているからさすがにやたらと「英語ができる」とか「英語のオベンキョしてるのよ」などと軽々しく自慢したりはできまい。すぐボロがでるからだ。マイナー言語だと誰もその基準を知らないのでホラを真に受けやすいのだ。「さようなら」が言えずに「ざよなーらー」と無茶苦茶な発音をしても周りの人は感心してくれるのである。中国人や韓国人には相当日本語ができても変に見せびらかす人が少ないのは東アジアでは日本語がエキゾチック言語などではないのと、東アジア人には本気で日本語をやりたい、つまり生活がかかっている人が多いからだろう。「お楽しみ」などではないのである。もちろん語学をダシにしての自慰・マウンティング行為は欧米人の専売特許ではない。上述の帰国子女いじめでもわかるように私も含めた日本人だっていくらもやっている。私自身も振り返ると相当チャライ態度で語学に臨んでいた。今考えると慙愧の念に耐えない。困ったものだ。

 確かに自慰・マウンティングのダシになるのは語学ばかりではない。芸術、スポーツ、あらゆる文化活動が材料にはなる。しかし言語と他の文化活動を比べると一つだけ決定的な違いがある。言語というのはその言語を母語とする民族がその精神活動、文化活動、歴史などをすべてそれをベースにして築き上げてきた、いわば民族の精神の支柱、民族の精神のエッセンスであるということだ。その言語を軽く扱い、いわんやエキゾシズム自慰のダシにする、ロクにできもしないのにできた顔をする、さらにネイティブを煙たがったりするのはその民族の精神活動全体、民族そのものを軽く見るようなものではないのか。
 いうまでもないが、学習者を一絡げに「当該言語を軽く見ている」などというつもりはない。第一にそういう、学習意欲より自慢や自己陶酔願望のほうが前面に出てきているような人は圧倒的少数だし、第二に彼らだって悪気でやっているのではないからだ。言語、特に非母語の学習は一生毎日やっても十分なところまで行き着かないだろう。彼らはその道の遠さが見えていないか、あるいは見ると目がくらむので敢えて見ようとしないかだ。誰だって空しくなるだろうから。だがそこで空しいのは学習者ばかりではない、教えるネイティブのほうだって空しいのである。いわゆる語学アドバイスの類で完全にスッポ抜けている視点がまさにこの母語者に対する配慮であろう。「間違いなど気にするな。発音など気に病むな。勇気をもって話しかけろ」とよく言うが、そういう言語で話しかけられた母語者、自分たちの精神の支柱である母語がボロボロにされているのを見せつけられる母語者のほうがどういう気持ちになるか全然考慮されていない。もちろん普通の人は外国人の言葉が少しくらい不完全でも露骨に嫌な顔などしないだろう。気前よく付き合ってくれるが、でもそれはあくまで向こうが我慢しているのだということをこちらは忘れてはいけない。また向こうが何回も聞き直してくると気を悪くしたりする人。「こっちだって一生懸命しゃべっているんだ。そのくらい聞き取ってくれてもいいだろう」とでも言いたいのか?当該言語を破壊しているのは自分なのに、そのうえ母語者をその破壊言語に付きあわせるつもりか?聞き直すのは向こうだって理解したいから聞き直すのである。つまり向こうはこちらに歩み寄っているのに怒ったりスネたりするのは母語者への思いやりがすっぽ抜けているからだ。
 私が今までに遭遇した「外国語の学び方」の類でその点に言及していたのはたった一つだった。英語の学び方についての本だったが、当地の大学に何年か留学していて、本人は楽に英語が話せるつもり、上級のつもりでおり、そろそろ他の日本人の英語にイチャモンをつけて「オレは他の日本人より英語ができる」と自己陶酔しだすレベルの中級話者は往々にして「自分は気持ちよくしゃべっているつもりでも、その英語が相手に苦痛を与えているということに全く気付いていないから始末が悪い」と指摘していた。実はこの「ネイティブに苦痛を与えるか与えないか」というのがヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のBレベルとCレベルの違いである。Bの後半になれば学生や研究者として論文を書いたりできるが、語学としてはあくまで中級である。
 もう一つ語学書ではないが、「ハウサ語を勉強する利点」という文脈で松下 周二という人が「利点は全くありません。片言のハウサをしゃべったくらいで胸襟を開いてくれるような甘いハウサは一人もいないでしょう」とニベもないことを言っていた。そういえば、欧米ではあまり見かけないが日本ではちょっとでも日本語を話すと「まあお上手ですね」などとほめられることが多い。私はこの言葉の裏には「さあ褒めてあげましたよ。もう気が済んだでしょう?だからもう私たちの大切な母語をそうやってブロークンに千切って聞かせるのやめてくれませんか?」という母語者のホンネ、ある意味では必死の懇願が隠れているような気がしてならない。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起原だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは起原60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフレデリック2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語を書き言葉の座から奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 ラテン語の「友達」amicusの単数呼格amice、複数主格amiciをどう読んでいるだろうか?私はそれぞれアミーケ、アミーキーと発音していた。実は今でもアミーキーと言っている。ところがこちらでは皆アミーツェ、アミーツィだ。日本人が普通キケローと呼んでいるCiceroもドイツ人はツィツェローという。もちろんラテン語教育という点では日本より欧州が本場だから彼らに従おうかとも思ったが、ラテン語は所詮は死語である。ネイティブスピーカーの実際の発音は彼らだって聞いたことがないわけだし、少なくとも文字の上では c と同じ書き方をしているところを妙に読み方を変えたら混乱するだけじゃないかと思ったのと、正直に言えば直すのが面倒くさかったのであまり考えずにそのままアミーキーと言い続けた。
 ところがしばらくたってから(しばらくたつまで気づかなかったのであった)そういえば現在のロマンス諸語ではすべて c(つまり k)と g の後に前舌母音、i と e が来ると子音が変な音になることに思い当たった。
 例えば「肉」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でcarneと書いてそれぞれ[karne]、[karne]、[kaʁn]、[karne] (フランス語だけ少し違うわけだ)と発音し、c は k の音である。また「結びつける」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で combinare 、combinar、 combine、combinăで、もういちいち発音記号を出さないが、やはり c は k だから co は「コ」だ(フランス語は鼻母音)。母音が u の場合も同じで「ナイフ」をイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれcoltello、 cuchillo、 cuțit、 couteauで やはり c が k で、最初のシラブルは「コ」。フランス語の正書法では u と書くと母音が純粋な u ではなく [y]  や [ɥ] になってしまい、 u は ou と綴るのだ。関係ないがスペイン語の「ナイフ」は『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』『121.復讐のガンマンからウエスタンまで』参照)でトマス・ミリアンが演じた主役の名前である。銃は撃てずにナイフ投げがうまいからこういう名がついた。
 しかしこれが ci、ce となると「キ」、「ケ」にはならない。イタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で「5」はcinque、cinco、cinq、cinci 。子音が各言語でバラバラでそれぞれ[t͡ʃiŋkwe]、[θĩŋko]、[sɛ̃k]、[t͡ʃint͡ʃʲ] 、チやスィとなる。フランス語はここでは母音が違うが本当にiが続いてもciterのように [s] だ。ついでにラテンアメリカのスペイン語でも θ が s になる。次にce を見ると「脳」を表すイタリア語、スペイン語、フランス語がそれぞれcervello [t͡ʃer̺ˈvɛl̺ːo]、cerebro [θeɾeβɾo] 、cerveau [sɛʁvo] で ci の時と同じように c がそれぞれ t͡ʃ 、θ、s。ルーマニア語は「脳」がcreier なので(もっともここでも c は k )別の単語をみると例えば「空」cer が[t͡ʃer]だ。
  g も後ろにa、o、u が続くとガ、ゲ、ゴで、例えば「雄猫」を表すイタリア語とスペイン語のgattoとgato 、フランス語の「少年」garçon、ルーマニア語の「子牛」gambă の ga は皆ガである( garçon はギャルソンなんかではなくガルソン)。go をみると「喉」というイタリア語、フランス語の gola、gorge、「太った」というスペイン語の gordo、「空の、裸の」というルーマニア語 gol は「ゴ」である。ルーマニア語の 「裸の」は明らかにスラブ語からの借用なのでちょっと「ロマンス諸語の比較例」としては不適切かもしれないが。さて次に gu だが、「味」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれgusto、gusto、goût、gust といい、全部「グ」となる。フランス語が母音の u を二字で表すことは上で述べた。
 正直そろそろ疲れてきたのだがもう少しだから続けると、この g も i や e の前にくると子音が変わる。イタリア語とスペイン語で「巨大な」はどちらも gigante と書くが発音はそれぞれ [dʒiɡante] と[xiɣãn̪t̪e] で、子音が違う。イタリア語は ci のときの子音がそのまま有声になっただけでわかりやすいが、スペイン語のほうは ci で現れた子音 θ とは調音点が全くずれてしまっている上、有声でなくなぜか無声子音のままである。だから「ジプシー」というスペイン語gitano の発音も[xitano]。フランス語gitan だと[ʒitɑ̃ ]で、g の部分は有声ではあるが、純粋に ci の子音の有声バージョン、つまり [z] とはならないところが面白い。ルーマニア語の例としては、ハンガリー語からの借用語なのだがgingaș 「繊細な」という言葉の発音が[d͡ʒiŋɡaʃ] で、イタリア語と同様、非常にわかりやすいタイプである。 最後にge だがこれも「ゲ」にはならない。「生み出す、生産する」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で generare [dʒeneˈra:re] 、generar [xeneɾaɾ] 、generer [ʒeneʁe]、genera [ʤenera] 。gi で見た子音のバリエーションの違い、dʒ、x、ʒ、ʤ が保たれている。

 すると忘れていた何十年前かの記憶が突然よみがえって、そういえばラテン語の先生が「c (k)の音はラテン語の歴史の過程で音価が変わったことがわかっていますが、ここでは文字に合わせてアミーキーでいいです」というようなことを言っていたのを思い出した。
 これが「ロマンス語の口蓋化」と呼ばれる音韻変化である。すでにラテン語の時代の起こっていたもので、軟口蓋閉鎖音、つまり/k/、/g/ が i と e の前に来た場合それぞれ [ʧ] や [ʦ]、[ʣ] や [ʤ] という破擦音閉に変わった。
 紀元後一世紀ごろまで、つまり古典ラテン語の時代は後舌母音 a、o、u が続こうが前舌母音 i 、e が続こうが k と g は k と g だった、つまりcentrumはケントルム、Cicero はキケロー、legereはレゲレ、legisはレーギスだったのだ。だから上で私が押し通した発音、アミーケ、アミーキーは間違いではない。
 しかしそのうちに軟口蓋閉鎖音 に前舌母音が続くと母音の前に半母音の /j/ が入るようになった。この半母音と子音が同化現象を起こして調音点が前に移動し、/ k/ が [ʧ]、/g/ が [ʤ]になった。紀元2世紀から5世紀にかけてのことだそうだ。
 最初はこれらの音はもちろんいわゆる自由アロフォン(どっちで発音してもいいアロフォン)freie Allophoneで、人によってケやキと言ったりチェ、チと発音していたのだろうが、これがやがて拘束的アロフォン(音声環境によって使い分けなければいけないアロフォン)kombinatorische Allophoneとして固定した。このkombinatorische Allophoneというのは一つの音素が二つに分かれる直前段階である。もっとも自由アロフォンの段階からすでに音価の違いそのものは感知されていたのだ。この「話者が違う音だと気づく」のは「全く同じ音に聞こえる」段階と比べるとすでに新音素誕生に向けて相当度が進んでいる。それが拘束的アロフォンになると言語学者の間でもすでに二つの音素とみなすものが現れるくらいだ。まだアロフォンだから完全に意味の違いを誘発する力はないが、別のほうの音で発音すると「おかしい」を通り越して意味がよく伝わらくなったりしだすからだ。
 例えば日本語の「たちつてと」だが、/ta, ti,tu, te, to/と音韻解釈する人と、「ち」と「つ」の子音を別音素と解釈して/ta, ci, cu, te, to/と表す人とがいる。「放つ」「月」「知己」をそれぞれ「ハナトゥ」、「トゥキ」、「ティキ」とやったら、まあ言語環境から判断して意味は通じるかもしれないが、意味が通じるのが数秒遅れることは確実。相手によっては最後まで通じまい。意味の伝達に支障が大きすぎて「意味を変化させないから」ときっぱりアロフォン扱いするのには待ったがかかる。実は私も独立音素 /c/ を認める組である。ついでに私は「はひふへほ」は /ha, hi, ɸu, he, ho/ だと思っている。「違う音認識」されてから、アロフォン発音が半ば強制的になり、やがて別音素に分裂する過程はまるでアメーバの分裂のようだ。ただ、音素は2つが融合することもあるのに対し、アメーバは分裂だけで、合体することがないという違いはあるが。それともアメーバも時々合体するのか?
 ラテン語に話を戻すが、口蓋化が起こり、さらに音素が分裂してしまったのが文字が固定した後だったために、文字と音価の間が乖離して本来の「ケ」「キ」が宙に浮いてしまった。「ケ」「キ」という音が ce や ci では表せなくなった一方、「チェ」と「ケ」、「チ」または「ツィ」と「キ」の子音が別音素になったので、「ケ」「キ」を表す必要が生じたからである。そこで現在のロマンス諸語では新たに正書法を改良して、「ケ」、「キ」、「ゲ」、「ギ」とイタリア語では c、g のあとに h を加えて表示し、それぞれ che、chi、ghe、ghiと綴る:cheto 「静かな」[ke:to]、chinare「曲げる、傾ける、お辞儀する」[kina:re]、ghetto 「ゲットー」[getto]、ghiro 「ヤマネ」[gi:ro]。スペイン語では無声音には q を持ち出してきて「ケ」「キ」は que、qui。これらは「クエ」「クイ」ではなく、quebrantar 「割れる」、quince 「15」は「ケブランタル」、「キンセ」だ。もっとも「ブ」の部分は両唇摩擦音の[β]、「セ」は歯でやる摩擦音の [θ] だが。「クエ」「クイ」は c を使ってcue、 cuiと表すのが面白い。ところがこれが有声になるとgue、gui で「ゲ」「ギ」。guerra 「戦争」は「グエラ」でなく「ゲラ」、guiar 「導く」も同様に「グイアル」でなく「ギアル」となる。フランス語は母音も子音も音素がさらにいろいろ割れているので複雑だが、基本はスペイン語と同様 q と u を使う:question 「問題」[stjɔ̃ ] 、quinine 「キニーネ」[kinin]、 guerre 「戦争」[ɡɛʁ ]、 guide 「ガイド」[ɡid]。フランス語からは英語に借用された言葉が多いのでうっかり英語読みにして「クエスチョン」「ガイド」とか言ってしまうと大変なことになるので注意。ルーマニア語はさすが東ロマンス語だけあって(?)イタリア語同様 h を用いる:chezaș 「保証人」[kezaʃ]、 chibrit「マッチ」[kibrit]、 ghețar「氷河」[get͡sar]、 ghid「ガイド」[gi:d] など。「保証人」はハンガリー語からの、「マッチ」はトルコ語からの借用だ。
 この、文字が固定してから音が変化してしまったため元の音を表すのにいろいろワザを凝らさなければならなくなったという例は実は日本語にもある。例えば「ち」「つ」は昔は本当に破裂音の ti、tuだったのに、子音が破擦音になってしまったため本来の音がそのままでは表せなくなった。だから「ティ」「トゥ」などと表記する変なワザを使う羽目になったのである。「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」なども昔は単に「は、ひ、へ、ほ」と書けば済んだのだ。

 ここまでならロマンス諸語だけの話ということであまり面白くないが(ロマンス諸語は面白くない言語だと言っているのではない)、実はスラブ諸語の歴史でもこの「口蓋化」という現象が見られるのでスリルが増す。スラブ語の場合は音素が割れてから正書法が確立したが、少なくとも3回口蓋化の波がスラブ諸語に押し寄せたらしく、第一次口蓋化、第二次口蓋化、第三次口蓋化と区別する。人によっては第4次口蓋化というものを認めることもある。
 第一次口蓋化は紀元5世紀初期スラブ祖語時代の終盤に生じたもので、軟口蓋音に前舌母音(スラブ語では i, ь, e, ě)が続いた場合、やはり j の付加を経由して子音そのものが変化した:k > ʧ͡ʲ (= č’)、g >  ʒʲ (= ž’)(いったんdʲzʲ という破擦音を通した)。ロシア語で「焼く」の一人称単数がпекуなのが二人称単数になると печёшьとなって子音が交代するのはこの第一次口蓋化のせいである。スラブ祖語の初期にはそれぞれ*pekǫ – *pekešiであったとみられる。。ポーランド語ではそれぞれpiekę と pieczesz。またロシア語の「目」の単数が окоで複数が о́чиなのもこれである。さらにロシア語の могу́ 「私はできる」対 можешь「君はできる」の母音交代もこの例。祖形はそれぞれ*mogǫと*mogeši。ポーランド語ではこれが mogę – możeszとなる。もう一つロシア語の Боже мой 「おお神よ」のБожеはБогの呼格だが、ここでも子音が図式通り交代している。
 第二次口蓋化はスラブ祖語の後期、6~7世紀にかけて起こった。母音の i、ěが続くと k が t͡sʲ (= c´)に、g が dzʲ を通してzʲ (= z´ )になった。*nagě (「足」単数与・処格)が古ロシア語ではnozě 、*rǫkě (「手」単数与・処格)がやはり古ロシア語で rucě といったのが一例である。ところがロシア語ではその後この第二次口蓋化が名詞の格変化パラダイムでキャンセルされ、元の軟口蓋音 g に戻ってしまったので現在のロシア語ではそれぞれноге́ 、руке。 対してポーランド語やチェコ語ではそれぞれ nodzeと ręce、nozeと ruce で、本来の口蓋化が残っている。
 南スラブ語派のクロアチア語も名詞変化のパラダイムで口蓋化を保持していて、期末試験なんかでは必ずと言っていいほど試される。まず男性名詞には単数呼格(『90.ちょっと、そこの人』参照)が e で終わるものが多いが、これらの名詞の語幹が語幹が k や g で終わる場合 k と g がそれぞれ č [ʧ͡ʲ]、  ž [ʒʲ ] になる:junak「英雄」主格 → junače 「おお英雄よ」呼格 (< junake) 、drug「仲間、同志」主格 → druže 「おお同志よ」呼格 (< druge)。これが第一次口蓋化の結果だ。次にこれらの男性名詞の複数主・呼・具・処格では子音の後に i が来るが、ここで k と g は c [t͡sʲ] と z [z] になる。第二次口蓋化である:junak「英雄」主格 → junaci 「英雄たち、おお英雄たちよ」複数主・呼格 (< junaki)、junacima 「英雄たちによって、英雄たちにおいて」複数具・処格 (< junakima)、drug「仲間、同志」主格 → druzi 「同志たち、おお同志たちよ」複数主・呼格 (< drugi)、druzima「同志たちによって、同志たちにおいて」複数具・処格 (> drugima)。女性名詞は単数の与・処格が i で終わり、やはり k や g が第二次口蓋化に従って変化する:ruka 「手」単数主格 → ruci 「手に、手で」単数与・処格 (< ruki)。 この「手」の複数主・対・呼格形は ruke で一見 e の前なのに子音が変わってないじゃないかと思うが、実はここの e は口蓋化の起こった時代は中舌の i、ロシア語の ы だったので子音が変わらずに済んだのだ。またスラブの場合は音が変化したのが文字化の前だったためラテン語と違って単数主格と呼格、複数の主格の子音の違いが文字に表れているわけである。
 この一連の口蓋化を被ったのは k と g ばかりではないのだがここでは省く。また第三次口蓋化は先行する母音が後続の子音を変化させたものなのでやはりここでは触れずにおくが、軟口蓋音が i、e の前でシステマティックに化けるというスラブ語の口蓋化がラテン語とそっくりなのでプチ感動する。さらに単に似ているというばかりでなくロマンス語とスラブ語の両口蓋化が実際にかち合った地域があるから感動がプチからグランになりそうだ。それがバルカン半島である。バルカン半島はその昔ラテン語地域であったのでラテン語由来の地名が多い。後から来たスラブ民族がラテン語名を引き継いだからである。もとになったラテン語名は記録に残っているので、Peter Skokという学者がラテンでce、ci、 ge、 giと書かれていた地名が現在のスラブ諸語でどう呼ばれているか詳細に分析して当地ラテン語の口蓋化の過程を追っている。例えばラテン語Cebro がブルガリア語でDžibra になっていたりするものが多いが、この子音は1.ラテン語の時代にすでに口蓋化していた、2.ラテン語ではまだ k や g であったのが、スラブ語に入ってから口蓋化した、の二つの可能性があるわけだ。私だったら「どっちなのかわからない」として匙を投げていただろうが、Skokはラテン語スラブ以外の言語資料や歴史の資料も徹底的に調べて次のように結論を出している:1.スラブ民族がバルカン半島に来た時(早くとも6世紀)、ラテン語の ce、ci、ge、gi はまだ k、g であった。2.ルーマニア語の口蓋化はスラブ民族の時代になってから、つまり西のロマンス諸語とは独立に起こったもの。3.(2ともつながるが)ルーマニア語の口蓋化はバルカン半島のローマの中心地が崩壊したのちに生じたものである。
 もうひとつ面白いのはラテン語 ce、ci が現在でも k になっている地域があるということだ。たとえばCircinataがクロアチア語でKrknataになっている。ダルマチア(ジャンニ・ガルコの出身地だ。『130.サルタナがやって来た』参照)にこういう地域が多いが、ローマの時代に大きな都市があって文化の中心地だったところだ。都市部の教養層が使っていたラテン語は文字なしで話されていた俗ラテン語より口蓋化(ある意味では俗にいう「言葉の崩れ」)が遅かったからではないか、ということだ。上の3はこれが根拠になっている。

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